ミドルゲーム

「うう」
「−−っ」

 ことり、と駒が動く。
 盤面はほぼ互角、否、雅人がほんの少し有利な状態であった。

「……」

 だが、彼の表情は暗い。
 夕美が打った黒のビショップは、白のルークとポーンを串刺しにしていた。



 彼が対局を受けたのは数十分ほど前。
 いつものリハビリの時間が終わり、帰ろうとした際、夕美に袖を引かれたのだ。
 『チェス やろう』。
 幼稚園児が鉛筆を拳で握って書いたような汚い文字で書かれた紙を見て、小さな驚きを覚えながらも彼は頷いた。

 先日の対局は、間違いなく雅人の圧倒的な勝利であった。
 普通であったら『もう二度とやらない』、と拗ねるか泣く所である。
 だが、彼女はその冷たい頬に笑顔を浮かべながら、対局を所望してきた。

 断る理由など、なかった。
 彼がここでボランティアをしているのは、喧騒を離れ、静かに過ごす場所が欲しかったからだ。
 特にチェスをするのは、久々のことだった。
 魔物たちの侵攻が進み、暗黒魔界となった場所もあるその地域は常に誰かの嬌声が響く淫靡な場所となり、内気な少年が気兼ねせずにチェスを打つには刺激が強すぎたのだ。
 何も気兼ねせず駒をすすめるのは、本当に楽しかった。

 だから、その対局も軽い気持ちで受けた。
 
 
 

「……っ」

 じわり、と汗が滲む手を誤魔化すように瞬きをする。
 彼女の手を止めるのは難しくはない。
 ルークでビショップを殺し、ルークがルークに殺され、さらにナイトで殺す。
 それで、夕美が使える手駒は尽き、雅人が負けることはなくなる。

 しかし、勝つことも出来ない。
 お互いの手を磨り潰した先に残るのは、引き分けのみ。
 だが、引き分けという結末を、彼のプライドが許容しなかった。
 チェスにおいて、彼には一日以上の長がある。
 一週間前に駒の動かし方を教えただけの少女相手にドローなどという結末は避けたい。

 プライドを満たすためには、勝つためには。
 悪手を打たなければならない。

「マクシミリアンズ・ハウント……」

 ぼそり、と雅人はその戦術の名を口にする。
 それは、異世界から伝わった本に書かれた戦術の一つ。
 『盤上の棋鬼』と呼ばれたマクシミリアン王子が魔物の王女を盤上で謀殺するべく作り出した手であった。
 盤外から挑発し、ドローの提示を行い。相手にそれを蹴らせる。


 結果として打たれるのは、凡百な一手。


 ハウント−−即ち悪霊に魅入られたように、王女は自ら十三階段を上ることとなった。
 そんな風景を思い浮かべながらも、雅人はドローの提案を蹴るべく、ポーンを前に進めた。


「あう?」

 そんな彼の姿に、夕美は小さく首をかしげたのだった。





−−−−−−


「かて、た……」
「あうう……」

 結局その日の対局は雅人の勝利に終わった。
 勝利の余韻を噛み締めるように、ほっとため息をつく。 
 驚かされる手も多く、釣りだされたときは敗北すら覚悟したが、それでも薄氷の勝利を掴むことができた。

「ああう」
「ありがとな、夕美」

 夕美が給水機でついで来てくれたほうじ茶を飲むと、咽喉を滑り降りる暖かい感触が心地よい。
 小さく頭を下げると、彼女はその冷たい頬に、小さな笑顔を浮かべた。
 初めて会ったときの彼女に比べると、随分と柔らかい表情であった。

「それにしても、どうやってそんな強くなったんだ?」

 微笑む夕美に、ずっと気になった質問をぶつける。
 雅人が彼女にチェスを教えてからまだ一週間しかたっておらず、そんなに短期間でここまで強くなったのは何か秘訣があると思ったのだ。
 
「あう」

 その質問に答えるように、彼女は嬉しそうに一冊の本を鞄から取り出した。
 チェスの駒が表紙に描かれていた。
 本の題は、『盤上の戦争』。

「……これは?」

 訝しげな声を上げる雅人。
 たしかにこの本はチェスの本だが、教本とはいいづらい。
 彼もかつて読んだことがあったが、参考になったという程度で大きく打ち方が変わるということはなかった。

「……あううう」

 そんな彼の疑問を氷解させたのは、次に彼女が鞄から取り出した大量のメモであった。
 全てが、真っ黒になるほどに稚拙な字で文字が書かれていた。
 そのうちの一枚を、彼女は雅人に見せる。

 
 それは、文字で書かれた棋譜であった。


 さっきの対局と酷似した一局であった。
 釣りだしも、凡手もすべてが同じだった。
 違うのは、勝者が雅人であると言う一点のみ。

「まさか……夕美……」
「あう」
 
 定石を知
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