『それ』がいつから存在するのかは定かではない。
『それ』は、みなが気づいたときにはそこにあった。
――反魔物を謳うレスカティエ教国、その中心に。
『それ』は迷宮だった。
その地下は、どのくらい深いのかは知られていない。
一説に寄れば99階まで続いていると言う噂すら存在する。
『それ』には多くのものがあるという。
訪れるたびに変化する複雑極まりない通路が。
数多くの魔物たちが。
危険に過ぎる罠が。
――そして、素晴らしい宝が。
多くの人間は、『それ』に挑む。
財宝か。
名誉か。
愛か。
欲望か。
――その末路は皆一様である、と教団の記録には残されている。
『それ』の名を――『不思議なダンジョン』と、人は呼んだ。
――
「ふうん、お前もあの迷宮に挑むなんてな――今更名誉が欲しくなったのか?」
「まあ、そんな事にしておいてくれ」
元同僚が茶化すように言ったその言葉に俺は小さく苦笑する。
『不思議なダンジョン』、人食いの迷宮に挑むには、確かに俺のキャリアでは厳しいのは間違いない。
多くの勇者が挑み、行方不明になっている迷宮。
既に勇者を辞め、冒険者として日銭を稼いでいた自分には大層な苦行になることは間違いない。
「あの、名誉にも金にも興味なさそうな顔してたお前が名誉、ねえ」
「最後に一発、派手な花火を打ち上げたくなってな」
友人が奢ってくれたエールを一口含む。
苦みを残してのどの奥に消えるそれに俺は小さく眉をしかめた。
「――かー!人っ子一人……いや、魔物一人殺せなかった奴が言うようになったじゃねえか!……ま、お前が行くってんなら俺は止めねえよ。止める権利も、理由も、俺にはねえ」
そう言って友人も手にもったエールを一気に呷る。
かつての弱点――今も変わらぬそれを指摘され、俺は小さく笑みを浮かべた。
俺は、勇者候補だった。
非才ではあったが、剣の腕も、魔術の冴えもほかの者に劣ったことはない。出来ないことは血の滲むような修練と、睡眠を忘れた学習で補った。才能がなくても、磨き続ければ光るものがある。そう信じて俺は勇者となるべく訓練をつんだ。
「――そうだな、あの弱点は、まだ克服出来てない。まあ、自殺行為に等しいのは確かだ」
「だろう、な。……まあ、治ってたらとっくに勇者復帰してただろうしな。まあ、お前らしい弱点だよ。……本当にな」
懐の剣をちらりとみやる。
俺にとってのこれは、飾りに等しい。
人の形をしたものを斬る事ができない――ただ、それだけの弱点。
魔物が魔物娘となり、明確な意思をもったこの時代において、それはどこまでも致命的なものだ。たとえ剣の腕が上でも、魔術の薫陶があったとしても、相手を倒すことが出来なければ、ただの張りぼてに過ぎない。
その弱点が露見した俺は、教会を追い出され、そして今に至る。
「ま、何とかするさ」
懐からいくらかの銅貨を取り出してカウンターに置いて、俺は席を立つ。
友人の奢りだが、少しくらい出さないと気分が悪い。
彼は、変わらないな、と小さく笑みを浮かべたのだった。
「あいつは……居なかったか」
酒場のドアを開け、ため息をつく。
普段酒精に溺れる事のない俺がこの酒場に通うのは、この酒場で雇われているウェイトレスの少女が目当てだった。
かつて憧れたあの人に良く似た姿をした、美しい少女だった。
「――っ!酔ってるな、俺」
軽く頭を叩きながら月のない夜道を歩く。
その後ろに、黒い影がついて来ていることを、俺は気づいていなかった。
――
「――さて、行くか」
俺の前には、黒い洞穴の入り口がぽっかりと開いている。
カンテラの灯をかざしてもその奥はうかがい知れない。
教団によって幾度とない封印が成されてきたが、それをあざ笑うか如く、その入り口は開き、内部の瘴気を外へと送り出していた。
装備は――良し。
事前にかけた魔術による強化――良し。
覚悟は――良し。
最後に残った理性は酒で吹き飛ばした。
「……あの、ちょっと待ってください」
洞窟へ一歩踏み出したとき、後ろからかけられた声に思わず振り向く。
もしや、教団の許可が必要か?そう考え振り返った俺の前に居たのは、黒い服を着た少女だった。夜闇にとけるような姿のなか、紅い瞳だけが俺を見据えていた。
「……どうしたんだ?こんな時間、こんな場所に居るのは危ないぞ?」
「……え、ええと……」
つとめて冷静に声をかける。言葉自体は心配しているものだが、今俺が一番心配しているのは自分の身だ。
俺の鼻が魔力の残滓をかぎ分ける――おそらく、魔物娘の一種だろう。気を抜けば何をされるか分からない。教団の広告が嘘だとは知っている。だが、俺はかつて勇者だった――罪人として捕らわれる可能性は高い――肉体的な損壊がなくても、俺が俺でなくなるのはごめんだ
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