第10話 不浄焼失【インシネレイター】

 過ぎ去った時間に「もし」と問うのは愚かな行為だ。過去となった事実はどう足掻いても変えることは出来ない。

 もし、あの時こうしていれば。

 もし、この道を選ばなければ。

 もし、もし、もし……挙げていけばキリがない。

 だがヒトはどうしても夢想せずにはいられない。今ある現状を憂う時、ヒトは自らが選び取った現在とは違う未来を夢想するしかない。美しい娘が禁じられた匣を開けずにいたならば、世界はきっと穏やかなりし時間が充ちていただろう……と。

 だが、それこそ「もし」……。

 その始まりの時点で間違っている存在は、何をどうすれば正解だったのだろうか。










 【アリエス】の時点で既に厄介ではあったが、続く【アクエリウス】もまた相当に、あるいはそれ以上に厄介な存在であった。

 「さ、行きますね」

 散歩に出かけるような気軽さで、爆殺の超人は迫って来る。いや、その歩みはまさに「散歩」だった。偶然見かけた知人に近付くように、決して走ることもせず接近してきた。

 しかし、この少年を異常足らしめるのは、その全身から発せられる尋常ならざる熱にある。

 「この温度……貴様、本当に生物か?」

 【アクエリウス】の背後は既に火の海だ。垂れ落ちる血の一滴一滴が、外気に触れた瞬間に灼熱へと変化し、一切を焼き尽くす紅蓮となって広がりゆく。だが燃える過程がどうであれ、炎が熱を放つのは常識だ。常識外れなのは、その燃料を蓄える【アクエリウス】の肉体。

 空間に異臭が充ちる。決して粘膜にダメージを与える刺激臭ではない。だが、吸い込む度に鼻腔の奥底までこびり付く、生木を無理に焦がしたような粘りのある悪臭は何だ? 

 まず日常を生きる者でこの匂いを嗅ぎ慣れた者はいないだろう。しかし、日常からかけ離れた場面……例えば、戦場でならこの悪臭はむしろ通常だ。量産された敵味方の死骸を衛生的に処理するとき、戦場ではしばしばこの方法が執られる。即ち、人肉が焼ける臭い。同じ肉を焼くのでも、食用のそれとは大きく異なる。後者が血抜きという過程を経ているのに対し、前者はそんな面倒な手間を掛けていないし、する必要が無い。生木を焼けば煙が立つように、水分を豊富に含み、更に血液が燃やされる際の悪臭は誰をも不快にさせる。

 今まさに、その臭いが【アクエリウス】からは立ち込めていた。

 「そ、れぇッ!!」

 ある程度距離を詰めた時、小さな体躯が弾かれるように突進した。血に塗れた……いや、もはや彼にとっては炸薬を塗りたくった武装も同じ、それが最も近い場所にいた者を狙う。

 そう、三人の先頭にいたユーリィを。

 「!!?」

 背後の二人と違い、戦闘に関する「経験値」が絶望的に少ないユーリィには、眼前の敵の本質が分からない。自傷と自壊を繰り返す狂人の類、何だか分からないが取り敢えず危険だ、ぐらいの認識でしかない。だからその意識の空隙を狙われ真っ先に食い殺される。

 「小僧」

 それを未然に防いだのは、魔術師イルム。おもむろに霊木杖を振るうと、その先端を自らの前方、つまりユーリィとカマリがいる方向へと向けた。刹那、二人の体が一瞬光った後、その肉体はイルムの背後へと移動していた。極短距離における転移の魔術、発動の速さと座標指定の省略からして予め二人にマナ・マーカーを打ち込んであったのだろう。

 そして激突するのは、魔術師と超人。瞬時に入れ替わって前に出たイルムを、爆殺の超人、その魔手が掴み上げた。そして間を置かずに着火、炸裂。容赦など微塵もない燃焼現象が人体丸ごと一つ分を焼き払うには過ぎたる熱量を発揮した。

 「イ、イルム師!!!」

 「そんな……っ!?」

 地下道を揺らすほどの爆発は粉塵をまき散らし、その渦中に魔術師と超人を覆い隠した。壁を砕いた時と比べれば規模は劣るが、それでも人ひとりを爆殺するには充分な炸裂。

 数瞬の沈黙の後、一迅の風が粉煙を浚う。

 「なるほど……そういう事であるか」

 イルムは無事だった。五体満足、どこも失ってはいないし、欠けてもいない。とっさに繰り出した防護陣の効果により爆炎と衝撃の大部分は彼を襲った【アクエリウス】へと跳ね返った。直近で爆発を身に浴びれば衝撃で内臓は微塵に砕け、同時に襲い来る熱波によって体表は隈なく焼き尽くされる。仰向けに吹っ飛ばされた超人の前面は無残に焼け爛れ、どう見ても致命傷を免れたようには見えなかった。

 だがイルムも、完膚のままとは行かなかった。

 「彼奴め、我輩の右腕を持って行こうとしたな……」

 僅かに蒸気が上がるのは、イルムの右腕。ローブの下に隠れていた褐色の肌は、今は所々に赤が混じり、爆殺の魔手が彼の腕を掴み上げていた事実を示していた。無論、彼の事だ、発動させた防御とは別
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