その日、普段通りの生活を営む大部分の人々は、自分たちが住まう家屋が揺れ動くのを感じた。
地震だ。大陸特有の地理ゆえに数えるほどしか経験したことが無いが、地を揺らすそれは確かに地震だった。僅か数秒ほどの小さな揺れだったが、それでも少なからず人々の動揺を誘ったことは否定できない。
特に大きな被害も出すことなく地の揺れは一時の混乱をもたらすのみに終わった。
何も壊れていないし、誰も死んでいない。大災害は発生しなかった。人々は少しすればその恐怖を忘れ、日を跨げば完全に忘却してしまうはずだ。
しかしこの災害が天の気紛れではなく、文字通り人の手によって引き起こされた「人災」と見抜いた者は数少ない。
魔人の鉄拳は、凄まじきの一言に尽きた。
超人がその剛腕を振るって地を掘削したのは確かに驚異的だ。人間の体はそのように出来てはいないし、仮に道具を使ったところで地を刳り貫く一撃には敵うはずもない。
だが、それに対しても魔人の一撃は輪を掛けて強大に過ぎた。
超人が力任せに何度も繰り出して形成した地の窪み。都合三十にものぼる殴打の果てに作り上げた大地の傷痕。
それを、一発で「上書き」していた。
新たに創られたクレーターの直径は、超人が作ったものの優に倍、周囲の雪が弾け飛んだ剥き出しの凍土を含めれば四倍にもなる大盆地。大量の炸薬が爆発したかのような大惨事が、二人の力比べの趨勢がここで如実に表れていた。
穴の中心には魔人……“白鯨”だけがいた。
「…………」
敵対していた超人は影も形もない。引き抜いた拳の着弾地点からは刹那に圧縮された水分が蒸気となって沸き昇り、もはや相対した敵の肉体など消滅せしめたかに思わせた。
事実、その周辺には肉塊はおろか髪の毛一本たりとも残ってはおらず、あれだけ大量に流した血さえも消え果ていた。
故に“白鯨”は確信する。
「逃げたか」
炸裂した拳に何かを殴り抜いた感触は無かった。にわかには信じ難いが、あの一瞬にも満たない時間の内に逃げ果せたのだろう。だがあの重体が死力を振り絞った程度で逃れ得るとは到底思えない。
ならば……。
「どこだ」
あの状況で連れ去った仲間がいる。
それをどうする?
決まっている。
「曳き潰してやる……!」
乱入した者がどこに行ったかは分からないが、問題は無かった。
既にその赫眼は行方を捉えていた。
水が好きだ、と親しい者に言ったことがある。
水は何もかもを流して清める。触れたくない汚濁も、饐えた悪臭も、目障りなおどろおどろしい色合いも、全てを流して清めてくれる。
自分の体が嫌いだ、と誰にも明かしたことは無い。
流れる涙が嫌いだ。湧きだす唾液が嫌いだ。滲み出る汗が嫌いだ。
股座から排泄されるものが嫌いだ。胃に溜まり込む酸液が嫌いだ。我が身を駆け巡る血液、もはやその事実にさえ発狂しかねない。
人は誰しも汚濁に塗れている。拭えない、消せない、滅せられない……人が人として生きる限り、その懊悩からは逃れられない。断言できる。地上に蔓延る何百、何千万という生命は須ら穢れているのだと。
【ヴァルゴ】は、その苦しみから逃れた唯一の存在だった。
「んっ……しょ!」
住人がいなくなり廃屋となった一軒の建物、その一室に【ヴァルゴ】は身を寄せていた。
彼女だけではない。その細い肩には、つい今しがた絶体絶命の危機から救い出した【タウロス】を引っ提げていた。全身を覆っていた甲殻は解除され、疲労困憊のその巨体を彼女はようやっとベッドに投げるように横にさせた。
休ませるのが目的ではない。ここには彼を、「治療」しに来たのだ。
「これは……ひどい」
仰向けにさせたことで傷の全容がはっきりする。抉られた箇所は頭がすっぽり入りそうなサイズで、ぐねぐねとした腸が覗いていた。出血というよりは泉水の如くに血が溢れ出し、これが医者の見立てなら遠目から見ただけで匙を投げる部類だ。
とはいえ、幸運なことに傷は内臓にまで達してはいなかった。ならばまだ救いようは有る。
「【タウロス】、ちょっと我慢して」
手袋を脱ぎ捨てて解放される手、それを傷の上にかざす。するとその手から水が溢れ出し、傷口へと降り注いだ。
水は傷口から溢れることなく水分特有の流動性を保ったまま球の形状に落ち着き、その内部に血の流れを留め置く。さしずめこれは「かさぶた」、傷を内部に閉じ込めてしまえば出血量は関係ない。
更に【ヴァルゴ】はもう片方の手から、ある物を取り出す。それは幻想的な光景だった。手の上には水でできた球が浮遊しており、それが魔術ではなく彼女の肉体機能の延長としてそのように動いている様子を表してい
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