かつて、大いなる神話があった。
魔王と呼ばれた存在が主神を下すより更に昔、世界は一度滅びかけていた。
ゆっくりと、静かに、しかし確実に……北の氷海より始まったそれは世界を蝕み、地上の人間はもちろんの事、神々ですら事態を把握したのは最終局面を迎えた時だったとされる。唯一直前の際どい所で察知できたのは、当時既に地上の八割を手中に治めていた魔王とその娘達だけであり、彼女ら魔物娘の介入により世界が救われたという事実は神々のプライドを微塵に砕くものだった。
世界は、滅びかけた。後に勃発する主神と魔王の争いですら滅亡はもたらされなかった。それは何故か。北海の『彷徨う島』から端を発した小さな事件が、どのような経緯を辿ったなら世界を滅ぼしうる大事変になるのか?
それは簡単な話だ。
発端となった者に「世界を滅ぼす意志」があったからだ。明白に、明確に、強固なまでに磨き抜かれた一つの意志はそのような大それた事を実行してしまえる。
“四十の尖兵”を束ね、“三十六の精鋭”を従え、“十二の使徒”を引き連れて、神も魔も人さえの区別無く全てを滅ぼそうとした大罪人……それが当時の記録に残る、下手人についての唯一の記述である。
その者がどんな意図があって世界を滅ぼそうとしたかは定かではない。その目的、構想、野望は今日に至るまで明らかになっておらず、ただ結果的に世界に滅亡をもたらそうとしたという部分だけが一人歩きするようになった。唯一当時の第四皇女の命を受けて直接対峙しこれを制圧した『一の英雄』も、敵の掲げるものが何であったかについては固く口を閉ざし、それは魔王を前にしても同様だった。
その頑ななまでの秘密主義が功を奏したのか、北海で起きた事件の混乱は瞬く間に収束した。だが『英雄』の最大の功績は、敵を倒した事ではなく、ましてや戦後の魔界領土の拡大に貢献した事でもない。英雄は自らが遭遇したモノについての一切を語らないことで、後の世に“奴ら”が蔓延する事を防いだのだ。
『英雄』は“奴ら”を打倒するのに十年も費やした。十年掛けて無作為な感染を阻み、その中枢を叩き、そして大勢の“奴ら”を遂にたった一人の“奴”になるまで絞り込んでいった。大地を割り、海を裂き、空を穿ち、星々すら撃ち墜とす攻防の果てにようやくそれを封じる事に成功したのだ。逆にそこまでしてようやっと封印という、生かさず殺さずの処置しか出来ないほどに“奴ら”のもたらす病理は深刻なものだったのだ。
“奴ら”について、それを討滅した『英雄』はこう述懐する。
「連中は『病』だ。形無く、実も無く、だがそこに確かに存在し、そして感染する。血と情で繋がる魔物より強く、教義と思想で繋がる信徒より広く……理想と論理で深く繋がるのが“奴ら”だ。“奴ら”の性質の悪さは個々の強さじゃない。爆発的な感染力と、それを可能とする妄念だ」
『英雄』は“奴ら”を恐れた。“奴ら”の思い描く理想を、“奴ら”が復活する事を恐れた。だからこそ『英雄』は完全なる抹殺を目論んだ。二度と“奴ら”が日の目を見ぬよう、その存在が二度と歴史の中に浮かび上がらぬように。
しかし、それに待ったを掛けた者がいた。
「“彼ら”は人間よ。今日日珍しい、純粋な血を今に残すことに成功した人類種なのよ。根絶やしにしてしまうには惜しすぎるわぁ」
後の新たな魔王、第四皇女・デルエラ。全ての人間を魔物の伴侶に、という彼女の掲げる思想が“奴ら”の絶滅を許さなかった。“奴ら”によって引き起こされた事態を知らない彼女ではなかったが、そこには魔界の重鎮たる者の考えがあった。
「“彼ら”の力は必ず必要になるわ。いずれヒトが新たなステージに上がる為のキーとして、ね。今は……そうねぇ、少しだけ時期が早すぎただけなのよ」
「“奴ら”は毒だ、病だ、害だ。その存在は誰の為にも、何の得にもならない。仮にそうなったとしても……おれは“奴ら”を、いや、“奴”を許さない」
『英雄』と皇女の意見対立に周囲は戦々恐々となったが、最終的に面倒な問答を嫌った『英雄』の譲歩により事なきを得た。
去り際に『英雄』はこう言い残したという。
「次に“奴ら”が目覚めれば……おれはそれを滅ぼすぞ。確実にな」
“奴ら”の価値を熟知していたのは皇女だったが、危険性を理解していたのは『英雄』だったことが後に証明されてしまったのだ。
そして五百年……。難攻不落の監獄要塞『象牙の塔(シャトー・ド・イヴァール)』は今や、過去の怪物の再臨を待つ巨大な孵卵器と化していた。
「かつて“我々”は世界の真理を掴み取った。森羅に神秘無く、万象に信仰無く、天地に立つはヒトのみをおいて他に無し。真にこの世界の覇権を握るのは二十万年も昔から人類だと決まっている」
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