ある男の話をしよう。
男はじぶんがいつ、どこで、誰から生まれたのかすら知らぬ、天涯孤独の身だった。確かなのは二つ。自分がどこかの女の股から生まれたことと、今自分が生きる場所が社会の底辺だということだ。
同じ場所で生きる他人同士、常にパイの奪い合いが起きていた。盗み盗まれは当たり前、そうしなければ自分が飢える……誰も彼もが必死に生きる努力を強いられた世界だった。
男が最初に犯した罪は盗みだった。どこか実入りのいいゴミ捨て場を探し当てた乞食から、その食い扶持を強奪した。悪い事だとは微塵も思わなかった。だってそうしなければ自分が死ぬ。自分の生き死にに比べれば他の一切など総じて塵でしかない。
人殺しもした。平民から富を収奪するのが貴族なら、貧民から日々の糧を奪うのは同じ貧民だった。そいつが生きている限り己が割りを食い続けると分かった時、男は躊躇なくそれを殺していた。罪悪感など無い、だってそうしなければ自分が死ぬから。
意外なことだが女を犯すことはしなかった。生きる上で必要なのは食い物と寝床、それ以外は「あればいい」という程度だ。同じ社会の底辺で生きる病気持ちの女などを相手にするのは馬鹿らしいと分かっていた。
だが世の中はどう転ぶか分からない。生きる上で最も下位にあったはずの女に、男は入れ込むことになる。生涯を通して初めての恋、そして最後の恋だった。
貧民街に咲いた小さな恋は男女を結び付け、二人は貧しくも慎ましく暮らし、男はそれまでの傍若無人な生き方から足を洗うことも考えていた。女の腹に小さな命が宿る頃、男はその決心を固めていた。互いに親兄弟の顔も知らず、姓も持たない卑賤の身だが、たった「三人」だけの家族でこの先を生きようとしていた。
運命の神はイタズラ好きだった。
女は病に罹った。決して大病ではなく、医者に診てもらい薬を処方してもらえれば助かる命だった。だが社会の底辺を生きる者達を庇護する法など無く、医者の診察を受けるには市民権が無い分の金を払わなければならなかった。
ゴミを漁るのは食べる為だった。それが街の清潔の為になった。
土を掘り返すのは死体を埋める為だった。それが道を作る為になった。
男はあらゆる仕事に従事して日銭を稼ごうとした。だが汗水垂らし血の混じった便を出してなお、得られた金は二人の生活を賄うので精一杯だった。
そうしている内に女は死んだ。金が無いから葬儀も出せず、不潔だからと亡骸は燃やされ、男の手に残ったのは「二人分」の灰だけだった。
男は考えた。
何故女は死んだ? 病に罹ったからか? 自分達が貧しかったから? それとも、その腹に別の命を宿していなかったら生きられたのか?
いいや、違う。
「俺の、努力が足りなかった」
金なんて、自分の周りに持っている奴がいくらでもいた。そいつを騙すなり殺すなりして奪えば良かったのだ。あるいは医者を脅すという手段だって取れた。そんな簡単なことにどうして気付けなかった。
男は悔やんだ。女を死なせたのは自分の怠慢が招いた結果だと、自分の「努力不足」を呪った。全て自分の責任だと理解していた。
男が金に執着するようになったのは至極当然の帰結と言えるだろう。金こそが人間の努力を数値として見られる唯一にして最大の共通単位。手段そのものに善悪など関係なく、誰がより効率よく、そして賢く生きられるかただそれだけ。
殺しと盗みでしか稼ぐ手段を知らなかった男は、賭場を荒らし、金利を脅し取り、詐欺で人を騙すやり方を学んでいった。それが最も賢く金を手にする方法だと知っていくことになる。
しかし、男自身の正当性はどうあれ、その行動が法と照らし合わせて紛れもない悪だった。であればこれもまた必然の成り行きとして男は捕縛され、その身を牢に繋がれた。蓄えていた財もその時全て没収された。男は再び名実共に社会の最底辺へと連れ戻されたのだ。
やがて自分を殺す法の裁きがあるだろう。それを地下牢でずっと待ち構えていた男だったが……。
「まさか、このような男に……」
「神託は全てに平等……例えそれが、下賤の身であろうとも」
「此度の采配は謎だらけだ。やはり見送るべきでは」
「主神の御心を疑いになる事は許されない。問答の暇があれば早く洗礼に執りかかろうぞ」
鎖を引いて連れられたのは刑場ではなく聖堂、そこには何の儀式を執り行うのか幾人もの神父や司祭が男の登壇を待っていた。
洗礼とやらが済んだ時、男を縛る枷は無くなっていた。そして同時に、この時彼は生まれ変わったのだ。
「おめでとう、勇者トーマス。大いなる使命を受けし君に、主神の祝福を!」
貧民街生まれの「ただのトーマス」は、魔物を打ち倒すことを命じられた「勇者トーマ
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