第六幕 運命の恋人:前編

 『運命の恋人 〜あるいは雪山の怪物と忘却の青年のお話〜』










 「ハッ、ハッ、ハッ、あぐ、うあ……!!?」

 逃げる。逃げる。ただ逃げる。

 背後は見ない。見ている余裕など無い。仮にあったとしても、逃亡者はそれをしないだろう。

 なぜならば……。

 「ひぃぃぃぁぁぁぁぁ!!」

 川をせき止め大岩を飛び越え、乱立する樹木を薙ぎ倒しながら猛然とこちらに迫る巨大な“何か”。この世のものとは思えない絶叫を上げながら、巨躯が大腕を振り上げ逃亡者に襲いかかる。

 ただ大きいだけなら怖くない。田舎で暮らしていた彼は体の大きい魔界獣に家畜として何頭も接してきた。奴らが暴れた時の対処法も知っているし、野生化したそれを狩ったことだってある。

 だが『これ』は違う。

 一目見て分かった。分かってしまった。『これ』はそういう生易しいものじゃない。縄張りを意識するオオカミとか、冬眠し損ねたクマだとか、そんなものは『これ』を前にすればたちまち消し飛んでしまう。

 大自然の猛威という曖昧で抽象的なモノ、所詮それは文明に驕るヒトを戒めるための標語に過ぎない。だがそれが一度形を得て現界すれば、物質界に縛られ惰眠を貪るだけのヒトなど容易く捩じ伏せられてしまう。

 こんな風に……。

 「やめ、やめろォォォ!! やだ、やだやだやだやだぁ、いやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 捉えられた逃亡者の頭を掴むのは、その頭部より更に大きい腕。すっぽりと包み込まれるように顔を掴まれた逃亡者は苦しみもがき、何とかして脱出しようと試みる。

 しかし────、

 「ヤ゛メ゛……ガァ、あぁぁぁああああああああああああああ!!!!」

 握力が強くなる。ギチギチと音を立てて高まる圧力に逃亡者の悲鳴が周囲にこだまするが、誰も助けに現れない。もしこの場に他の誰かが居たとしても、助けには来なかっただろう。暴威の化身たる『これ』を前にして、立ち向かおうと奮い立つ者など皆無だ。

 そしてそのまま誰にも助けられないまま……。

 逃亡者の頭は圧壊した。

 飛び散る血潮が周囲を汚し、断末魔の悲鳴に鳥たちがざわめく。ビクビクと痙攣する四肢は生命活動によるものではなく、トカゲの尻尾が切られてもしばらく動くようなもの、既に生命の火はかき消されていた。

 逃亡者を縊り殺した“怪物”はそれを貪り喰らうでもなく、そのまま打ち捨て、この辺りを縄張りにする獣にくれてやった。“怪物”は喰らうために殺したわけではない。

 「グオオオオオオオォオオオオオオオォォォォォォォォォーーーッッッ!!!!」

 落雷にも似た雄叫びが灰色をした寒空に轟く。

 季節は冬。もうすぐ雪が降る頃だ。





 アルカーヌム連合王国とその隣国、レスカティエ教国。この二つの国の北の国境はドラクトル山脈という長大な山々が連なり、冬の時期に溜め込んだ雪が春に溶け出した清流が古くから下流の人々の暮らしを潤してきた神聖な山だった。

 ドラクトルという名は古い言語で「竜の尾」を意味する言葉が訛ったものであるとされ、大陸の東西を横断し南北を分ける高山の連なりは天然の要害としても知られ、昔はこの雪山を越える事は不可能だと言われていた。南側諸国が北の大国・ゲオルギア連邦の大規模侵攻に晒されずにいられたのも、この山が壁となってくれていたからで、移動に適した標高のルートまで大きく迂回しなければ越山は無理だった。

 だが良い面ばかりではない。連邦のトップが代替わりし、それまでの政策を改め融和外交へと路線変更、周辺各国との協調関係を目指す方向へと方針転換を果たしたが、ここで新たな問題に直面した。即ち、周辺国との交易にドラクトル山脈という文字通りの壁が立ち塞がったのだ。

 これまでにも南側諸国とは僅かながらに交易を行っていた連邦ではあるが、今回の関係改善を期により広く太い交易路を確保したいという野望があった。だが大陸を東西にまたがる大山脈の存在がそれを許さず、これまで互いの国を守っていた聖なる山々がここへ来て片付けるべき厄介な問題となったのだ。

 交易路確保の案としてまず最初に挙がったのが、これまでと同じ人が通れる迂回路の使用だった。考えとしては誰もが思い付き、かつ現実的に見て最も信頼性のある安牌だ。

 だが元々このルートは旅の者が通るために獣道を使い始めたのが始まりで、大所帯の隊商が通るには適さず、更に迂回路ゆえに交易そのものに時間が掛かるという難点があった。行商人たちの付き合い程度ならいざ知らず、国家間でのやり取りをするには不向きだと判断され、早々に案から外された。

 次に挙がったのが、地上が無理なら空を通るという奇抜な発想。先進技術により大陸の北方を制覇したゲオルギアが生み出した技術の結晶、そ
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