とある小料理屋がある。
ジパングからやってきた稲荷が、魔界の街の一角でポツリと夜だけ、赤い『チョウチン』というランプに似た装飾をぶら下げて営業している。客足はそんなによろしくはない。大衆料理屋を嫌い孤独を好む舌の肥えた人間や魔物たちが、誰にも勧めず独り占めするかのように、静かに酒を嗜むためにやって来る。味は格別とのこと。
私がこの店に来るのは初めてだ。店を知らなかったわけではない。来ようと思ってて、行きづらかっただけだ。未経験なことに挑むのは、嫌いな性格だった。
「いらっしゃいませ」
店の扉を開けると、客は誰もいなかった。その代わり、カウンター席の内側でこちらに向かって深く頭を下げる稲荷がいた。
「あら、初めてですか?」
「……ええ」
座るなり、注文もしていないのに小さな器に盛られた豆類の煮物が出された。困惑していると、稲荷は「お通し、ですよ。ジパング料理の文化です」と言って微笑む。
「見たところ、旅のお方ですか?お疲れでしょうし、精のつくものを何かお出ししましょう」
「こ、ここにはメニューは無いのか?」
「ありませんよ?」
私はさらに困った。ジパングには、メニューで頼むという文化が無いのだろうか。
「お気持ちは分かります。確かに、少し驚きますよね。どんな料理が出てくるのか分かりませんし……あ、これは別に、ジパング文化ではありませんよ」
そう言いながら、稲荷は次の料理を出した。
マンドラゴラの根っこの煮物。確かに精はつくが……
「私、昔から人を観察するのが得意なものでして……雰囲気や服装、機嫌や性格などから料理を決めてお出ししているのです。嫌いなものがあればお申し付けください。食べたい物も、ご遠慮なく……」
煮物を頬張る。
とても旨い。食べたことのない、深い味だ。これなら誰も広めず独り占めしようとしたがる食通の気持ちがよくわかる。
「一人でこの店を……?」
「恥ずかしながら、独り身でございます」
稲荷は小さな「サカヅキ」という小皿に似たものに酒を注ぐ。
「変わったお酒だ……とても綺麗な、透き通ったお酒というか……」
「ジパング酒です。ここの人達には強いと思いますが、後味の良いお酒ですよ」
試しに一口。
「…………っ」
「お口に合いませんか?」
「……いや、とてもいい酒だよ。少し驚いただけだ」
「それは良かったです」
それから酒と料理の相性の良さに夢中になっているうちに、夜もすっかり更けていった。稲荷との話もかなり弾み、とても良い店だと思った。
「ん、おっと……」
席を立とうとしたとき、うっかり酒の入った容器を倒してしまった。
稲荷はすぐにカウンターから出てきて、床を拭き始めるのかと思いきや、持ってきたハンカチで私の服を優先して拭き出した。
「大丈夫ですか?ああ、こんなに濡れてしまって……」
「いや、私が拭きますから」
稲荷のハンカチを受け取って、体の酒を拭き取っていく。
ある程度拭き取って、料理の代金をカウンターに置く。そして稲荷がせっせと床を掃除している間に、私は何も言わず店を出た。
店を出て4、5分ほど経って気付く。そういえば、ハンカチを返していなかったな。
稲荷が持っていたハンカチは、金色というより狐色をしたハンカチだった。鼻にあてると、とても良い匂いがする。女性の匂いだ。
とても幸せな気分で、私は宿へと戻った。
「あら、いらっしゃいませ。また来てくださったんですね」
次の日。
また訪れてみると、昨日と同じ、店の中には稲荷が一人。
私を見るなり、深く頭を下げた。
「今日あたり街を出ようと思ったんだが、この店が気に入ってしまったんでね」
「恐縮です。さあ、何か美味しいものをご馳走しますね」
「そういえば、これ……昨日のハンカチ……」
「それ……持っていて、もらえませんか?」
「え?」
「どうか、持っていてもらえませんか?」
稲荷は頬を赤らめて、少し目線を逸らせながら言った。
出したお通しは、稲荷寿司という、狐色の食べ物。
私は返すのをやめて、出てきたお通しを口に運んだ。
「今日は、どんなテーマで料理を?」
「うふふ。秘密、です
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今夜の酒は、なんだか格別に、美味いと感じた。
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