とある藩の城下町、中央には100mちょいの小高い山があり、
まるで寝そべる巨大動物のような体躯をのっそりと横たえている。
その身は青々とした毛の様な森に覆われており、
頭頂部にあたる所にはポツリと髪飾りのように城の天守が覗いている。
その山を動物とするなら、まるで蚤のように一人の男がその毛を掻き分け上へと登っていた。
体格的には中肉中背、年の頃は元服して余り立っていないのか少年っぽさが抜け切っていない。
頭は少しぼさついているが顔は甘めで優男の印象を受ける。
しかし、舗装もされていない山道を袴で脇に差し物をしながら軽やかに登っていく。
軽く汗こそかいてはいるが、息は乱れておらずまだまだ余力があることを窺わせる。
男の名は正信(まさのぶ)と言った。
この城に仕える藩士で城の勘定方(会計)の一人をしている。
正信は片方の手に小さな包みを持っていて、
それを眼前に持ち上げ、肘をうまく使って余り揺れない様に運んでいる。
その扱いは武士の魂のそれよりだいぶ丁寧で、
これはその包みが今の彼に取っての秘密兵器だからである。
※※※
ひんやりとした廊下、そこを摺り足で僕は急ぐ。
廊下の僅かな軋み、衣擦れの囁き、
いつもは気にならぬそれらの音も、今の自分にとっては心地の良い物ではなくなっている。
人間現金なもので、心が晴れやかな時は何でもないことも素晴らしく見える。
が、逆にやましい心持だと枯れ尾花も幽霊に見えてしまうということで、
今の自分にとって城内の空気はアウェー感溢れるものとなっていた。
早くと思いつつも、着きたくないという矛盾した心も同時に持ちつつ、
しかしそんな葛藤とは何の関係も無く、無情にも目的の扉が目の前にあった。
一度立ち止まり佇まいを直し、軽く深呼吸をすると僕は襖をさっと開け中に入る。
「失礼致します。」
端的にそれだけ言うと僕は室内を見渡す。
そこにはちょこんと一人の女性が座っている。
彼女は一つの書類に指を当てつつその先に目を走らせ、
上から下へとそれが行き終わると別の紙に何かを書き記している。
両手は塞がっているが、彼女の頭の中ではそろばんが弾かれ、
正確かつ迅速に膨大な量の計算を片付けているのだ。
その速度は高名な私塾に通い、
そこで珠算を学んだ自分の鼻っ柱をへし折るには十分なものであった。
基本城勤めが出来るのは武家の者だけであるが、
現在の城主、定国(さだくに)様は飄々とした態度とは裏腹に、文武共に優れた名君で。
才覚のある人材を生まれに関係なく採用し、働きに応じて禄を上げるということまでやっていた。
彼女はとある大店の御息女らしいが、定国様の噂を聞き、
仕えたいと売り込みに来て採用された口らしい。
同室で働く同僚として休憩時間の雑談でそれくらいは聞いていた。
元々この部屋は彼女一人に当てられた物であったが、
先代から仕えていた家老や古くからこの城に使えている家の者達は、
定国様が始めたこの政策自体が自分達を軽んじるものとして不満であったこと。
彼女の優秀さはみなの予想を上回り非の打ち所が無かったこと。
それらが重なり家老達から嫌がらせじみた量の仕事を回され、
流石の彼女も手に余る状態なったため。
彼女が上様に相談し、助手として僕がここに回されることとなったそうだ。
もっとも家老から若い男女を同室で仕事させるなどいかん。
という文句が上様に行ったそうだが、
定国様はそれを聞くとみなの前に彼女を呼びこう言ったそうだ。
「お前の指定した条件に適う者が漸く見つかった。
早速呼び寄せてお前の仕事を手伝って貰う事とするが、
ここにいる石頭どもは若い男女を同室で仕事させるなぞいかんと言いよる。
余自らが人選した相手じゃ、そんなことは無いと思うが、
もし不逞を働くようなら申せ、責任を持ってワシがそいつを手討ちにした後、
そうじゃな・・・傷物となったお前は側室として囲うてやろう。」
それを聞いた家老共は脳の血管が切れるのでは、
という程頭を真っ赤に染めて定国様に怒鳴り散らしたらしい。
あの方が言うと冗談も冗談に聞こえぬから無理も無いが・・・
僕が入室しても顔も上げず、無言でさらさらと書き物をしていた彼女だが、
一段落ついたのかこちらに顔を向けた。
その表情は冷え切っており養豚場のブタでもみるかのように冷たい目で僕をみる。
明らかに怒っている。とても・・・
「あら、どうしたの?そんなところで突っ立ってないで早くこっちに来なさいな。」
「ハ・・・はいっ!八百乃(ヤオノ)さん。」
隠神(イヌガミ)=八百乃(ヤオノ)、それが僕のかわいらしい上司の名だ。
そそくさと隣の机に座るとくるりと周囲を見渡す。
彼女の袂にある書類を見て大体の進行状況を察する。
例によって彼女が鬼の様な速度で仕事をしていたことが伺える。
「ね
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