まだ母が存命であり、自分も幼い時分の頃のことだ。
家族揃って城下町の外を歩いていた時のことだ。
我々は飢えた野犬に襲われた。
子供の私にとっては、大型の虎のような巨躯に感じられた猛犬が牙をむく。
母が悲鳴を上げ、幼い私も金縛りにあったように動けずにいた。
それからのことは子供の頃の私の目には映っていない。
飛び込んできた父の大きな背中と、犬の甲高い鳴き声だけが私の知る全てだ。
後で聞いたところによると、父は瞬時に抜き放った刀のみねで、
野犬を打ち据えて追っ払ったとのことである。
犬が走り去った後も固まって父の背を見る事しか出来ぬ私、
そんな私の方に振り向いて父は屈んで視線を合わせてきた。
「・・・恐ろしいか?・・・強くなれ。誰よりも・・・このわしよりもな。
そうでなければ、いざというときに誰も守れぬし何もなせぬ。」
父はそれだけ言うと、未だ震える母の元へと歩いていき何か話し始めた。
みなが突然の襲撃に浮き足立つ中、悠然とした佇まいと物腰を保ち、
瞬時に野犬を撃退した父、その背中は私にとって憧れとなった。
何時か私も、刀を携え父のようにみなを守れる存在になりたい。
幼い私にとって武士とは英雄(ヒーロー)と同義であった。
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八百乃に敗北し、五郎左衛門が死んだ後、
正信を逃がす算段をめぐらす裏で、私は粛々と別の準備をも進めていた。
弟子達の次の勤め先の世話をしていたのである。
幸い私の家は特に誰かを雇っているなどということはなく、
この沈み行く泥舟から逃すのは弟子達だけで済んでいた。
とはいえ、飢饉で懐事情が厳しいのはどこもいっしょである。
私自身の使える縁や伝を全て活用し、家柄や身分の低い者、
蓄えの無い者から順に方々に紹介していった。
当然全ての弟子の世話が出来たわけではないが、
それでも飢えて死ぬ者はでないであろうという状態にまでは持っていけたと思う。
この冬さえ乗り切れば、後はみな手塩にかけた優秀な者達だ。
何処かの藩で武官として、最悪場末の用心棒としてでもやっていけるであろう。
成すべき事をなし、一段落着いた私は胸を撫で下ろして眠りについた。
その夜、また夢を見た。
何時もの夢だ。最近は見ていなかったから久々に来たか、という感じである。
だが、その日の夢は何時もと多少様子が違った。
内容は取り留めなく、場面展開も急、音や映像も父が登場するところまでは不鮮明。
一言で言ってしまえば何が何だか判らない。それが私の見る夢であった。
だが今日は違う、確かに場面はぶつ切りぶつ切りで切り替わるが、
切り替わる頻度が緩やかで、音も映像もかなり鮮明だ。
青い・・・碧い・・・蒼い・・・
蒼穹をビー玉に閉じ込めたようなそれには一寸法師が映りこむ。
いや、それは、そのどこかいかめしい面をした小さな子供には覚えがある。
それは己だ。父に純粋に憧れ、強さに焦れ、希望に燃えていた幼い自分だ。
びっくりするような澄んだ蒼い瞳、それが幼い私を見つめているのだ。
当時の私は、その瞳に見られた瞬間心の中ではじっとりと汗を掻いていた。
確かまだあまりに幼く、流石に父も野山で遊ぶのを禁じていなかった時分の頃。
私は駆け巡る野山の中で、突然見慣れぬ少女と出会った。
その少女は長めの前髪を垂らして目元があまり見えず、
また雰囲気もどこかおびえておどおどとしていた。
私はその態度に少しいらついたのだったか、父の振る舞いを真似たかったのか、
無礼だぞ、とか顔を見せろ、などとのたまったのだと思う。
その呼びかけに少女は少しびくつきながらも、
抗おうとせずオデコを見せるように、前髪を掻き分けて顔を見せた。
その時の自分は目を見開いて石の様に固まってしまった。
覗いた少女の顔、その態度に反してすっきりとした顔立ちや目元よりなにより、
左右で違う目の色が私の関心を買っていた。
左目は普通の黒い瞳なのに、右の瞳は蒼天を凝縮したような抜ける蒼色だ。
その目に見据えられ、私は全てを見透かされるような感覚と、
其処に移る自分が、まるで果ての無い空に一人取り残されたような妙な寂寥に襲われた。
私は固まって唾を飲み込んでいた。蛇に睨まれた蛙の気持というやつであった。
だが、其処で私は強がった。武士は何事にも動じない、武士は何者も恐れない。
などと心の中で勝手に思っていた私は、自分と大差ない年端の女子に臆することなど恥だ。
そう考えて回らぬ口で無理矢理に言葉を紡ぎ出した。
「そらみたいに きれいなひとみだな。」
それを聞いて今度は相手の少女がしばらく固まる番であった。
世界の色が変った。薄日の差す山中の林の中ではなく、此処は夕暮れの川原であった。
私の目の前にはおそらく町
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