飛蝗(ひこう)

一面に広がる広大な稲、田は収穫の時期を向かえ金色の稲穂を実らせ頭を垂れる。
そんな光景が辺りの村々で一様に見られる季節となった。
いつもであれば・・・

金色のはずの水田は一面黒く染められ、しかもその稲は蠢いていた。
空を見上げれば黒い埃のようなものが舞い日の光すら淡く遮り、
稲に取り付き損ねた黒い者共は田の周囲を覆うように飛んだり跳ねたりしていた。

当たり一帯でそんな景色が等しく見られる中、一つの水田に走っていく男が一人。
狂ったように走り、水田につくと手に持った麻の袋を振り回す。

「やめれ〜!おらの米に、おらの米に・・・何をするだァーッ!ゆるさんッ!」
男は必死に稲に取り付く者達に対し、
重しを入れた麻の袋を振り回して落とそうとする。
しかしあまりに数が違いすぎる。焼け石に水という表現すら,
今の行為の徒労を表すには不足であろう。
しかも攻撃された者達は男に噛み付き始める。あっというまに稲同様に黒くなっていく男。

「があああぁぁあぁあ。」
悲鳴を上げて田の脇に倒れこむ男、
そして激痛の元を振り払おうと地面を転がるが、効果は芳しくない。
そこに長い髪をした一人の女が駆け寄る。

「あなた様、目と口を閉じていてくださいまし。」
女は男の方に手を伸ばし、指を影絵の狐の形にする。
「こんっ!」

軽い気合と供に、男の体が突如炎に包まれる。
女は直後に火達磨となった男を水田の中に蹴り落とす。
泥水の中を転がり、一瞬で男の体の火は消える。
短時間であったため、男はほとんど火傷せずに済んだようだ。
だが男は平気でも取り付いた者達にとっては命取りであったようで、
男の体に取り付いた者達は、一匹残らず焦げて香ばしい香りを周囲に漂わせていた。

女は着物が汚れるのも構わずに、水田に入り男を助け起こす。
肩を貸されて立ち上がるも、男は呆然として田の惨状を見ている。

「おらの、おらの米・・・」
「命あっての物種ですわ。ひとまずここは引きましょう。あなた様。」
「うう、おめぇの力でどうにかなんねぇべか?」

女は申し訳なさそうに頭を振る。
「数が多すぎます。
それに・・・作物に取り付いているのを燃やせば、
作物自身も燃えてしまいます。」

男はしょげるが、しかしこのままでもいられぬと頭を起こす。
「そったらどうすべ?何かこういう時に頼れる知り合いでもいねえが?」
「向山の神社へ行きましょう。あそこには私よりずっと力のある幼馴染の稲荷がいますし、
結界も張ってあるからこの羽虫が入ってくることもないでしょう。」

女は男をよっこいしょと背中におぶると、隠していた耳と三本の尻尾を垂らす。
「日が落ちる前には着きたいですから、少々飛ばします。
落ちぬよう、しっかり掴まって下さいましあなた様。」

男は言われるままに背中からひしと稲荷に抱きつく、
稲荷の三本の尾のうち、中央一本はバランス用に真っ直ぐ後方へと伸ばされ、
左右の二本はまるで上質の椅子のように男の体を稲荷の背に固定する。

稲荷はその細いおみ足の何処にそんな脚力があるのか、
という健脚で土手を突っ切り山へと駆け出した。
人間の籠などよりよほど早いが、尻尾でうまく衝撃を吸収しているのか、
男の体にはちっとも負担が掛からない。

稲荷の長い髪は髪留めで上げて止めてあるので、
背中の男からは彼女のうなじが丸見えである。
走っているせいか微妙に汗ばんでおり、何とも色っぽい。
「こんの髪型も・・・ありだな・・・」
「何かおっしゃいました?」

実は聞こえていたが気恥ずかしくて聞こえない振りをする稲荷。
男の悪乗りは続く、すんすんと鼻を鳴らして稲荷の髪と首筋のにほいを嗅ぐ。
「ど・・・どうしました?もしかして汗臭いですか?」
「いんや、ええ匂いじゃとおもうてな。」
「よして下さい。何もつけておりませぬよ。」

男は続いてぎゅうとその腕の力を強めると、
より一層稲荷と密着を高める。
しかも少しの揺れに便乗し腕を下げて胸元に滑り込ませる。

「あっ・・・も・・もう、いい加減にしてください。こんな時に。」
「強く掴まれっつったのはそっちだべ。それに、こんな時だからだあよ。」
「・・・もう・・・しようのない方・・・続きは神社についてからに・・・」
「あいよ。」

心なしか男の周囲の風景が後ろへと過ぎ去る速度が上がる。
この分なら夕暮れ前には向山まで着きそうだな、などと男は考える。
しばし気のめいる水田のことは忘れ、この愛しい狐の体に甘える。
そのことを妄想し、男は顔のしまりをなくした。


※※※


雨、雨、雨・・・・
夏が始まりしも止まぬ雨、それは夏の抜けるような熱さを奪い。
気温を人にはすごしやすいくらいに下げるが、
それは育ち盛りの作物にとっては寒すぎるくらいであった。

冷夏、止まぬ雨とそれによって
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