連載小説
[TOP][目次]
b
 私はさっき、なんて事を考えていたのだろう。
 思い返すだけでも身の毛がよだつ。
 私がタイチの嫁になり、夫婦円満にすごし、一軒家と我が子を作って幸せに暮らす?そんな……そんなことをどうして思ってしまったのだろう。
 そうだ、タイチが他の女の手に渡るのが少し嫌だなって思ったから……ほんの少しそう思ったからそれがオーバーになって勝手に妄想してしまったに違いない。うん、そうそう、そうなんだ。
 だから私はいたって正常だし、何もおかしなことはない。いつも通りランコと喋って、いつも通り家に帰って、いつも通り親と喋って、そしていつも通り部屋でごろごろしているだけだ。
 そう、全てはいつも通り。
 

 …………とでも自分に言い聞かせないと私は恐怖のあまり錯乱してしまいそうなほどに戦慄していた。
 おかしい、明らかにおかしい。私の意志とは無関係に、アリもしないことを勝手にタイチと関連付けて想起してしまうこの脳がおかしい。
 タイチと寝ることを何の躊躇もなく妄想し、愛撫され中出しされる光景を鮮明に思い描く私は完全にどうかしてしまったのだろうか。
 どうして?なんで?
 なにより一番怖いのは、これらの妄想をしている私自身はこの上ない多幸感に包まれているということであり、一切の抵抗を示さないことである。現に今だって、タイチの姿を思い描くだけでパンツに染みが出来てしまう有様だ。
 おかしい。
 私は一体どうしてしまったのだろうか。
 なにも心当たりがないことがより不安を煽り、怯え戸惑うことしか出来ない。

「……もしかして」

 そういえばさっき、ケーキ屋で妄想してしまっている最中、変な音が聞こえた。
 湿った水の音のような、なにか粘り気のあるものがこすれるような気持ち悪い不快音が鳴り響いていたような気がする。
 私は【ドブ=アングル】を耳から取り外してみるが、期待虚しく変化もなくただの豆粒のような機械がそこにあるだけであった。
 いや、まだだ。まだ……説明書で読んでいない部分があることを忘れていた。
 そうだ、これを貰ったその次の日の晩。翻訳機能を確かめて、そのまま寝てしまったんだった。今度読もうということにしてまだ読んでいないところがあるのをすっかり忘れていた。
 もしかしたら、そこに何らかの解決法が書いてあるのかもしれないと思い、僅かな希望と一抹の不安を寄せて私は説明書を開いた。

「ええと、ここは読んだ……ここも読んだ……あっ、ここらへんかな」

 私が開いたページには『取り扱いに際し気をつけていただくこと』と大きく書かれていた。
 迂闊だった。まさかこんなページを読み忘れていたなんて。
 読み進めていく。

『当商品【ドブ=アングル】を使用していただく際に必ず厳守してほしいことがあります。
以下の項目に当てはまるものがあれば即刻使用を中止していただく必要があります。
@堕落神、海神、愛の女神などそれぞれ信仰する神が存在する方
Aすでに目標となるべき種族が決まっている方
B人を愛すことのできない方
以上の項目にひとつでもあてはまるものがあれば使用の中止をお願いいたします。ひとつも当てはまるものがなければ続いて、機器のメンテナンス、および使用時の注意をお読みください』

 なに、これ?
 神様?種族?まったくもって意味がわからない。
 どうしてただの補聴器が人を愛するだの周囲にトラブルが生じるとかいう物騒な注意書きが書かれているのだろうか。
 まるで何かを試されているような気がする。

『続いて、使用時のメンテナンスについて記述します。
当商品【ドブ=アングル】には電気機器の充電は必要ありません。その代わり、精エネルギーをもってして稼動する半永久的恒常システムを搭載しておりますので、使用後は精エネルギーの充精をお願いいたします。本体に蓄積される精エネルギーが枯渇してしまうと、使用者の精エネルギーを際限なく吸収してしまうので毎日の充精を忘れないようにしてください』

「精……エネルギー?なにそれ、聞いたことないんだけど……」

 そんな単語、今まで生きててどんな場面でも耳にしたことはない。
 テレビでも聞いたことないし、教科書にだって書いてた記憶もない。
 ここに来て私は少し嫌な予感がしてきた。そもそもどこの会社製なのかもさっぱりわからない謎の機械である時点でうすうす感づいていたのだが、これは結構危ないものなんじゃないだろうか。なにがどう危ないのかは言葉では説明できないのだけれど、なんというかそんな勘がする。
 そして私はついにとある文章を目に入れてしまった。
 それを見た瞬間、一気に体の血が冷めるような感覚に陥る。

『使用時に一番気をつけていただきたいことは、当商品の一日に装着して良い継続使用時間は原則15時間までということです。
仮に朝の6時に装着したとしましたら、21時までには必ず外していただきますようお願い申し上げます。長時間素肌に密着している状態が続きますと、機器に組み込まれております魔力回路が流入し使用者に異常をきたす可能性が大いに考えられるからです。
めまい、幻覚、身に覚えのない出来事、性欲増強、交配願望など多様の精神症状が著名に現れるでしょう。やがて身体的構造の変化もみられることになります。
特に精エネルギーの充精忘れ、機器の取り外しを忘れそのまま就寝してしまった場合が重なると最悪のケースとなります。就寝中に使用者の精エネルギーを吸収され、その空いた隙間に魔力回路が多量に流入することになります』

 私にはなにが書かれているかさっぱりわからない。
 ……わからないはずなのだけど、この身を覆いつくすドス黒い不安は本能的に感じているのだろう。自身の恐るべき失敗に。
 精エネルギーだとか、魔力回路だとかまるでファンタジーの世界に迷い込んでしまったかの感覚に陥ってわけのわからないものばかりだ。
 だけど、そのなかでも一つだけ理解できたことがあった。
 それは何らかの精神症状が現れる、というところだ。
 タイチと寝たいという、普段の私なら考えることすらしないありえない妄想をしてしまうのはまさしく交配願望そのものであり、症状に当てはまってしまうことを信じたくなかった。

『この条件に一致してしまった場合、もはやその使用者の魔物化を止める術は残念ながら存在しません。人間としての人生を諦め、新たに魔物としての人生を考えてゆかねばなりません。
なお、以上のことに関してのクレームは当社は一切受け付けておりません。全て使用者様の自己責任となりますのでご了承くださいませ』

『最後に、運悪く魔物化が決定してしまったお客様のために、当社は特別サービスとして素敵な殿方と縁結びを取り持つご利益がある寺院と連携し…………』

 私はそれ以降説明書を読むことなく、一目散に部屋を飛び出した。
 説明書をベッドの上に放り投げ、部屋着のまま着替えることなく外へ飛び出す。これは一体どういうことなのかを例の骨董屋で詳しく聞こうとしたのだ。根掘り葉掘り全て洗いざらいはいてもらわないと気がすまない。
 先ほどから繰り替えすかのように説明書に書かれていた魔物化という謎のワード。
 それがなにを意味するのかはまったくわからないけれど、明らかに良いことではない、ということだけはわかった。わからざるを得なかった。

「ハァ……ハァ……ウソ、でしょ……?」

 ほぼ全速力で走り、例の骨董屋のある空き地まで来た私。
 だけど、そこにあるのはいつもとなんらかわらないただの空き地のみであった。
 ボロ小屋が建てられていた痕跡など跡形もなく、まるでそこは始めから今までずっとただの空き地であったかのような佇まいをしている。
 けど私はしかとこの目で見たし、実際に店の中に入ったのだ。紛れもない事実である。骨董商と会話し実際に商品を貰って、そして今に至るのである。
 だというのに骨董屋はなくなっていた。
 骨董商の少女に問いただそうとしたのだが、その思いは無残にも儚く消え去ってしまう。

「すっ、すみません。あの、ここにあった骨董屋はどうしたんでしょう?」
「んん?なにいってるんだいお嬢さん。ここはずうっと昔から空き地のままだぞ」
「そん、な……」

 通りすがりの老人に聞いてみてもこう返されるだけであった。
 信じられない。いくらボロ小屋であったとしてもこんな短時間に、しかも跡形もなく撤収することができるのか。
 まるであの骨董屋は私が今日ここに来るのを見越していて、そのタイミングを見計らって姿をくらましたのではないだろうか。そうとしか思えない。
 そうでも思わないと、私の身を支配するこの脳が納得いかなかったのだ。
 この補聴器はなんなのか。私の身体にはいったいなにが起きているのか。それら全てを聞かないことには納得することができなかった。
 だけどそれはもう適わないと知った今、このやり場のない焦燥感はどうすればいいのだろう。
 焦りは不安を呼び、不安は安息を求める。
 安息…………そう安息……ぐじゅるるるっ


 私の安息はずぷっ、じゅじゅっ、ぐじゅぐじゅっじゅじゅじゅっ


 ぞり、ぞりぞりぞりっ安息ぞりぞりっずずずうっ


 ぎゅるるるっ……


 …………そうだ、安息はタイチだ。
 タイチが私の安息だ。タイチと一緒にいるだけで満たされる。
 表面上ではただの友達と言い振舞っていたが、私は自分の意識することのない深層心理ではタイチのことをこんなに愛していたんだ。異性の友達ではない、異性の恋人にしたいのだ。
 いじめられていた私を、私の見えないところで人知れず助けてくれるなんてすごくカッコいいし、正直めちゃくちゃ惚れる。ああ、思い出すだけで下半身が濡れてくる。卵巣が疼いて排卵したがっている。
 あうあうあうあうあう、頭頂から足のつま先まで全身でタイチを感じていたい。タイチを愛したいし、それと同じくらい愛されたい。
 だって私はこんなにもタイチのことが好きなのだから当然でしょう?
 愛して、愛されて、その結晶を産んで……そしてもっと愛して……

「お嬢さん?大丈夫かえ?」
「……えっ?あ、すみません、なんでも、ないです」
「随分と顔色が赤いようじゃ。早く帰って寝たほうがいいぞぃ」
「あ、りがとうございますおじいさん。それでは」

 まただ。
 また、あの水音と同時に私は危険なことを考えてしまっていた。
 あの水音が脳内に響き渡ると私は思ってもいないことをありのままに妄想し、あまつさえそれを実行したくなってしまう。これは由々しき事態の他ならない。
 堪えようと思えば堪えることもできそうだけど、それを妨害しているのは圧倒的なまでの多幸感であり、脳内を埋めつくさんばかりに増えるセロトニンは私の理性を極限までにすり減らしているようにも思える。
 私はただ……ただ、耳が良くなるという補聴器をつけただけなのに。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 そしてこの落とし前は誰にしてもらえばよいのだろう。骨董商は姿をくらませ、その行方を知るものは誰もいない。それじゃぁこのやり場のない憤りはどうしたら……
 …………
 ………………
 ………………そんなの決まってる。
 タイチに慰めてもらえばいいだけのことじゃないか。
 体中の性感帯を愛撫してもらい、身も心も愛と快楽に身を委ね白濁液に全身塗れ、幸せの絶頂を味わえばいい。
 そうすれば、このイライラはスッキリ爽快になるし、私もタイチも気持ちよくて幸せハッピーまっさかりというわけになるのだから誰も損はしない。むしろ得しかないよねぇ。
 ああ、会いたい。今すぐにでも会って全身を犯してもらいたい。えへっ、えへえへへっ。
 そして私もタイチを侵してあげよう。深く深く、快感の底へと落ちて行き……

 あぐぅっ……ぐぎ、ぎ……

「……か、えろう。頭がい、たい」

 額からねばつく嫌な汗を垂らしながら、私は鈍い足取りで家へと再び帰ることにした。
 脳内に響き渡るぐちゅぐちゅとした謎の音は私の聞こえる生活音を全て遮断しひっきりなしに蠢きまわる。
 その日は夕食もろくに喉を通らず、親に風邪かと心配されながらも私は「熱っぽい」とだけ答え、そのままベッドに潜りこみ就寝した。
 
 ……しかし翌日になると、まるで昨日の出来事はまるで嘘であったかのように体は身軽で朝から全身が艶のある肌を取り戻しいつも通りの私に戻っていた。そんなものだから私は、時たま聞こえる水の音のことも深く考えないことにしたのだ。
 親には学校を休みなさいといわれたので、その日だけ風邪で欠席ということにして、次の日からはまたいつもと同じように登校するのであった。





―――――





 数日の時が流れ――
 学校祭一週間前という日にさしかかった今日。
 私は完全に本調子を取り戻し、委員長としてクラスのみんなの士気を上げていた。
 あれから何度かクラス会議を開き、私たちのクラスの出し物であるメイド喫茶をブラッシュアップした結果がこうだ。

「ぎゃはははは!!!いいね!サイッコーに似合ってるじゃん……くひひ、笑いすぎて腹いてぇ……」
「メイドスカートから伸びる男子サッカー部の脚なんて誰得なんだよコレ」
「こんな下半身マッチョなメイド見たことねぇ」
「蹴られたら死にそう」


「やあ、ボクの第二ボタン貰ってくれないか?」
「キャー!!第二といわず全部ちょうだいぃぃ!!」
「さすが将来は宝塚女優を目指すだけあってすごいイケメンオーラが……」
「ボクは何もかも失った。でも、一番大切なものを手に入れた。君の、心だよ」
「あっ、やばいこれ孕む」

 男女の衣服を取り替えるという簡単に思いつきそうで意外と思いつかない発想はランコならではといったところかな。
 意外と男女共にノリ気でみんな率先して取り組んでくれるから私としても楽っちゃ楽だ。
 最初はクラスの男女全員の衣服を ぐじゅっ 交換するって案もあったんだけど、それじゃさすがに客の確保は難しそうってことになったんだ。だから、男女半々の衣服交換で済まそうということになって、見事くじ引きでハズレを引いてしまった人がこうなっているのである。
 もちろん私はアタリを引いたのでメイド服を着る。学ランを着ても別に良かったんだけどまぁくじ引きだから仕方ないよね。うん。

「アイちゃ〜ん。どう、これ?変じゃない?」

 衣装合わせをし終えたランコが私の元へと戻ってくる。
 その姿はまさしく黒学ランそのものであり、いかにも女性らしい体系をしたランコがそれを着ることはとてつもなく違和感を感じさせるものだ。彼女はくじ引きでハズレを引いてしまったので男子待望のメイド服ではなくむさっくるしい学ランを着る羽目になっている。
 だというのにこの胸部なんて、パッツンパッツンしすぎじゃないだろうか。うらやま……しい。

「正直めっっっちゃきつそう」
「やっぱり?えへへ、深呼吸するとボタンはじけ飛びそうなるから苦しいんだよ〜」
「絶対やめて。私を含め、ほとんどの女子の恨みを買うことになるよ」

 その光景を遠目で眺めている男子のゴクリという唾を飲み込む音がいくつか聞こえるものだ。
 実際、女子である私でさえも、ランコのなんというか体、いや肢体は見るものをひきつけるオンナの色気というものがある気がする。
 テニス部という活発で激しい運動により引き締められた四肢は瑞々しくはじけており、かといって決して筋肉質ではないという完璧な女性体系を維持している。胸はスマッシュを打つたびにたゆんたゆんに揺れ、練習相手である男子テニス部の視線を釘付けにしてしまうものだ。セルフでハンデがつくくらいにね。
 それほどまでに、この親友の肉体は色っぽくアダルティを醸し出しているのである。
 それはもう、私なんかとは比べ物に ぐじゅっ ならないくらいに。

「アイちゃんはまだ衣装合わせしないの?」
「私はもうちょっと後かな」

 私だって一応は胸はある。無か有で言えばの限りなく無に近いのだけど。
 隣に立つ圧倒的バストの親友とごく平均的な身体特徴の私が並ぶと、私は否応なしに比較される対象になってしまいその圧倒的格差に数回落ち込むのであった。
 ふんだ。大きけりゃいいってもんじゃないさ。手入れをしなかったらいずれ垂れると聞くし、大きいとはそれだけでリスクを背負うことにもなるのだ。そんな面倒なことになるんだったら私は平均的な胸でいい……………………と思う。
 ……ちょっとだけ、ほんとうにちょっとだけ欲しいけど……この年になってしまったからにはもはや成長を望むのは限りなく無謀だろう。
 ああ、、ちくしょうめ。




「ギャハハハ!!オメーもハズレくじだったのか!!クッソ似合わねー!!」
「笑え……いっそ盛大に笑ってくれ。そのほうが俺もふっ切れる」

 遠くから男子のバカ笑いが聞こえる。
 また、誰かがメイド服の着合わせを終わって笑い者になっているのだろう。
 私とランコは誰がメイド服になっているのか気になって笑い声のする方へ向かってみた。
 すると、そこにいたのは……

「ア、アイ!ランコも!これはくじ引きだから仕方ないんだ、そうなんだ!」
「うわぁ……」
「なんていうか、その……うわぁ……」
「やめろォ!せめて笑え、そんな目で俺を見るな!」

 フリッフリのピンクスカートをはき、純白のエプロンをつけて、ネコミミを着けているタイチがそこにいた。
 壊滅的なまでに似合わないその姿は誰がどう見ても完全にメイドであり、また不完全でもある。
 今まで見てきた友人の180°異なる姿は私たちにとって奇怪な光景でしかない。ある程度こうなるものだという予想はしていたのだが、まさかここまで酷いもの ぐじゅっ だとは思ってもみなかったので素直にドン引きすることしかできなかった。

「タイチそれ、あんたが自分で思っている以上にヤバイよ」
「みなまで言うな……大体察しがつく」
「なんかゲイバーにいそう〜!」
「うぐぅっ!?」

 ランコの痛烈な打撃がタイチの精神に深くえぐり傷をつけているような気がする。無論、彼女は意図などせず思ったことをそのまま考えずに口にしているだけなのだが。
 男子達からの笑いの中心となり、ランコの無意識の言葉の打撃を受けタイチは慢心相違になりながらも自分自身で笑っていた。
 
「うるせー!!お前らもう……うるせーー!!うはははは!!!」
「記念に写真撮っておこうぜ」
「ゲイバー期待の新人タイコちゃん爆・誕!」

 なんだか男子たちって見てるだけで飽きないというか、バカというか、単純なんだなぁとつくづく思わされる。
 世の男子たちとはみなこういう風にバカだけど底抜けに楽しそうな人たちばかりなのだろうか。それともこのクラスだけ?
 まぁどちらにせよ、私らのクラスの男子がバカだということに変わりはないのだからさしたる問題はないんだけどね。こうも心の底から楽しそうにされると、こっちもついつられて笑ってしまうなぁ。でもそれがいい。

「恨むんならくじでハズレた自分の運を恨みなさい」
「そうしとくわ……」
「タイチ似合ってたよ〜プススー!!」
「笑うのか褒めるのかどっちかにしてくれよ!」

 久しぶりに腹の底から笑えた良い時間だった。
 それもこれも、こんなに騒がしい状態でも皆の声をはっきり聞き取ることができるがゆえ、というわけだ。
 今までの私だったら、なにが起きているかわからないけど皆が笑っているからとりあえず笑っておこう、そうすることしかできなかった。
 だけど今はもう違う。もう私は全部ちゃんと聞こえるんだ。
 誰が、なにを言って、どう受け答えしているのかが全て聞こえる。
 普通の人からしたらなんてことはないただの日常の出来事なのだろう。だけど、私にとってはこの上なく素晴らしく、ありとあらゆる音が真新しく感じることができるんだ。
 だから私はこの補聴器に ぐじゅっ 感謝しているし、これからもずっと、ずうっとこれをつけて生活していくのだろう。
 もはやコレなくして生活できないほどに浸透してしまっているのかもしれないけど、仕方のないことだ。
 今更あの聞こえの悪い状態に戻るつもりなんてさらさらない。私はようやくまともな人間として生活できるようになってきたのだから、あの耳に戻るなんてもう嫌なんだ。
 だからきっとこの補聴器は、現代社会に悩める私のために神様が施してくれた神器に違いない。そしてあの骨董商は神様に遣わされた天使か何かなのだろう。そう思い込んだほうがロマンチックだよね。

 ……あれ、私は何か間違っていることを言っているだろうか?いやいや、ぜんぜんそんなことはないはずだ、補聴器には感謝しているしあの骨董商にももちろん大感謝している。
 それなのにどこか心の奥底で違和感を感じているような気がして……本当に感謝している?
 思い出せない。オモイダセナイ。
 とても大事なことを忘れているような、いないような……
 根本的に間違えているヨウな……

「あっ、いたいた東峰さん。ちょっと衣装の生地が足りなくなっちゃって買い足したいんだけど」
「予算いくらぐらい必要?」

 ふと、裁縫部かつ衣装担当のクラスメイトから話しかけられる。
 私は委員長なのでクラス予算を管理しなきゃならない立場にあり、なにか買い物をする場合には私か副委員長であるタイチのどちらかに相談しなければならない仕組みになっているんだ。
 正直面倒くさいけど、委員長としてやらなきゃならない仕事なんだからしょうがないよねぇ。

「ひい、ふう、みい……おっけー、これくらいならまだ大丈夫かな」
「ありがとー!」
「ちょうど私たち仕事なくてヒマしてたからついでに買ってきてあげるよ」
「え、結構な数だから重いと思うけど……」
「へーきへーき」

 私はそう言って買い出しの任を自分で請け負うことになった。
 もちろん、私ひとりだけで大量の生地を運べるほど力があるわけじゃない。だから荷物持ちとしてもう一人助っ人が必要なわけなんだけど、タイミングよく目の前にその適任者がいるから買い出しを請け負ったのだ。

「ほら、タイチ行くよ」
「お?どっか行くのか?」
「生地が足りなくなりそうだから買い出しに。どうせあんた仕事なくてヒマしてたんでしょ?」
「あー荷物持ちってやつか」
「そゆこと。さあ早く準備して行くよ」

 オッケー!と力強い声でタイチはそう言い外出する準備を始めている。
 彼を取り巻いていた男子たちはみな散り散りになり、各々が担当する役割の仕事へと戻っていった。ふざけるときは盛大にふざける、やるときはやる。そのメリハリができている分、仕事のスピードは向上しクラス全体としての士気もうなぎのぼりというわけだ。
 なかなかいい感じに全体がまとまってきたんじゃないだろうか。

「あっ、そうか。メイド服の状態で商店街を歩くというのもなかなかアリね……」
「おいやめろ」

 そんなことを言いながら、私とタイチは校門を出るのであった。





―――――





「……暑いぃ、溶ける……」

 買い物が終わり、学校へと戻る帰路。
 真夏の太陽はアスファルトをかんかんと照り出し、蓄熱される道路はもやもやと陽炎を生じている。
 セミの泣き声を聴き、夏の風情を感じていたいとも思ったが、あまりの暑さにセミの鳴き声すらも暑苦しく感じられる始末だ。
 私の二倍ほどの量の生地を持つタイチは、体の全身から汗を垂れ流し暑い暑いと唸っている。
 無論私もうんざりするほどの暑さに相当参っている次第だ。

「もうすこしぃ……この坂を登れば学校だから……」
「んなことわかってるっての……あちぃー……」
「学校着いたらパソコン室のクーラー浴びたい……」
「おぉ、それいい案だな……」

 タイチの着るクラスTシャツはそのほぼ全面が汗でぐっしょりとぬれており、元々の色は何色だったっけ、と思わざるを得ない ぐじゅっ ものになっていた。特に脇と背中の部分の汗が一段と激しく、雑巾みたいに絞ったらじょばじょば水分が流れてきそうなほどだ。
 ……まぁそんな気持ち悪いことなんて誰がするかってハナシだけど。
 けど、私もあまり人のことは言えない。
 私もまたあまりの暑さによって、全身汗まみれでぐじゃぐじゃになってしまっていたのだから。
 汗でTシャツが透けて、中のブラとか見えちゃってるっぽいけど、暑さで ぐじゅっ 思考が鈍っているので隠す素振りをすることはしなかった。それに、仮に見られたとしても、相手はタイチなんだし別にいいや。 ぐじゅじゅじゅ

「アイス……ジュースでもいい、あ゛ぁ〜つめてーのプリィィズ!」
「逆に考えなタイチ、我慢すればするほど達成できた時に感じる喜びはひとしおってものだよ」
「うげー我慢なんてしてられっかー」

 私は汗をかく。
 それも、やたらとねばっこくて ぐじゅっ 気持ち悪い汗をかいている。
 汗は揮発することによって体温を下げる役割があるらしいけど、私のかくどろどろとした汗はむしろ汗そのものが熱を持っているかのように熱く、揮発してくれない。
 頭皮から流れる汗もどろどろしていて、私の髪の毛にぴったりと付着する。髪の毛は数本の大きな束に分かれ、その束のそれぞれがまるでうねうねと生きているかのように曲がりくねっている。
 私は一応天然もののストレートヘアなはずだったんだけど……いつのまにかクセ毛にでもなっていたのだろうか。 ぐじゅぅ
 しかも、どろどろというかぬるぬるというかとにかく じゅるぅ 気色悪い触り心地がするもの ぐじゅっ だから一刻も早くシャワーを浴びたい ずぞっ 気分だ。

「アイスといえば、この前のケーキ屋美味しかったね」
「ん?あぁランコと行ったんだっけ?今度俺も行ってみようかねぇ」
「??なに言ってるのさ。私とランコとタイチの三人で一緒に行ったでしょ」
「おいおい暑くて頭やられちまったか?俺その日はダチとカラオケ行ってたんだが」
「え?またまたぁ、あんたシュークリーム食べまくってたじゃん」
「はああ??」

 暑くて頭やられてるのたタイチのほうじゃないか、と私は心の中で思った。
 私がチーズケーキを食べて、ランコがパフェをドカ喰いして、タイチはもくもくとシュークリームを頬張っててハムスターみたい!って私とランコで大笑いしたじゃないか。
 はっきりと覚えている。今でもその光景が頭に浮かぶんだからそれほどインパクトが強かったのだろう。
 だというのにタイチは覚えてないどころか、友達とカラオケ?
 それはちょっとひどいんじゃないかな。 ぞりぞりっ

「つい先日のことだよ?ホントに覚えてないの?」
「いや、そのだからな……覚えてないんじゃなくてそもそも俺行ってないから!!」
「頑固だねぇタイチは。そこまで頑なに否定するんだ」
「…………だーもう!!ホラ、見てみろよこれ!」

 そう言って見せられたスマホに写っていたのは、タイチとその友達がカラオケボックス内で肩を組んでデュエット曲らしきものを歌っている写真だった。日付も不思議なことに私たちがケーキ屋に行った日と同じで時間帯もまさしくピッタリその時間だった。
 ……え、いやでも確かに私たちは三人でケーキ屋に……あれれ

「ほれみたことか、やっぱお前暑さで参ってるんだよ」
「…………むう」

 どうしても納得することはできないが、今の言い分ではタイチの方がちゃんとした証拠もあるし正しいと認めざるを得なかった。
 私のスマホの写真ファイル内には、なぜかランコとのツーショット写真しかなくタイチの姿はどこにも映っていなかったのだ。タイチの一部分すらも写って ぐじゅっ いない。
 まるでタイチが初めからそこにいなかったかと思うぐらいに写真に写ってないのだ。これだけ撮ってるんだから絶対どこかに写っていると思っていたものだけど……おかしいなぁ。

「もういいだろ?喋ると余計に暑くなっちまう。早く学校帰るぞ」
「なーんか納得いかないんだけど、まぁしょうがないか」
「納得いかねーのはこっちだよ……」

 やっぱりどう考えても三人で食べたはずなのに。三人で勉強会してたはずなのに。
 どうしてタイチはあの日あの時間帯に友達とカラオケしていたんだろう。
 もしかして写真の日付を偽装していたとか……いや、タイチがそんな器用なことできるわけないし、そもそもする必要もない。それじゃあなんで……
 堂々巡りする私の頭をよそにタイチは暑い暑いと唸りながら私の前を進んでいる。そんなに暑いっていうから余計暑くなるということはわかっていながらもつい言ってしまうのは毎度おなじみってやつだ。
 考えていても仕方がないので私もタイチに続いて再び足を進め始めた。
 ……のだが今一度足を止めてしまう。

「はうっ……」
「どうしたそんな気の抜けた声して」
「いや、なんかすごい良い匂いしない?」

 ふと、私の鼻をかすめたその匂いに、私は足を止めてしまう。
 この匂いはなんだろう。甘くて、すっぱくて、まろやかな匂い。
 色で表すとしたらそうだね……桃色に近い気がする。
 カレーの匂いが黄色でミントの匂いが水色だとしたら、この匂いは桃色だ。果物の桃の匂いとは異なるけれど、胸焼けるほどに甘いにおいは共通しているのかもしれない。
 いったいどこから匂っているのだろうか。
 私は鼻をひくつかせその匂いの正体を探し始めた。

「良い匂い?なーんもにおわねぇけどなぁ」
「すん……すん……いや、確かににおうよ。あまくて、すっぱい……」
「はぁ。俺にはシャツの汗臭さしか感じねえや」
「汗……?」

 それを効いた途端、あたりを漂っていたにおいは一段と濃度を増し、とてつもない臭気につつまれた。
 深呼吸すればむせて咳き込んでしまいかねないほどのにおいだ。私は思わずその甘ったるさに若干クラクラしつつも、そのにおいの発生源をつきとめることができた。
 汗。
 そう、体臭なのだ。

「タイチ、何か新しい香水でもつけてる?」
「香水ぃ?つけてねーけど」
「それじゃあなんでこんなに良いにおいするのさ」
「……それ正気で言ってんのか?」

 タイチの体臭がこの匂いの正体だった。
 なんてことはない、タイチの汗と皮脂が混ざり合った匂いなのだろう。彼自身自分の汗のしみこんだシャツの匂いを嗅いで、とてつもない嫌悪の表情をしている。
 そうだ、それが普通だ。汗臭い体臭なんて世間一般的には悪臭として認識されている匂いなわけで、だからそれを取り除く制汗剤なんてものがある。 
 だけど……どうしたことか、今の私の嗅覚は汗の匂いが。
 いや、もっと言えばタイチの汗の匂いがこの上なく甘美な香りであると感じているのだ。
 どんな果物よりも甘く、なおかつ汗の酸っぱさを保ちつつ、ねっとりとからみつくまろやかさが折りなす極上の香りが私の鼻腔をくすぐっているのである。
 どうしてこんなに良いにおいがするの?ワカラナイ。
 わからないけど、脳がそう感じているということは揺ぎ無い事実だ。
 あぁ……もっと嗅いでいたい……

「お前……そんな性癖あったのかよ……ちょっと引くわ……」
「ちっ、ちがうし。ちょっと暑さで嗅覚がおかしくなってるだけ」
「ほーん」

 言葉では否定しつつも、欲望には勝てない。
 鼻息を吹かしにおいを嗅ぐさまは、まるで犬のよう。

「汗、くさいね」
「フツーに傷つくからそういうの言わないでくれよ」
「…………ふふっ……アハ……ハハ」
「な、なんだよきもちわりぃな」

 汗のにおい。ぐじゅっ
 男の人のむせかえるような汗のにおい。
 普段の私ならばできる限りタイチと接触しないで汗のにおいがしない場所に移動していたのだろう。
 だ、けど暑さでアタマが上手く回らない今は、そうするこ、とはなかった。
 タイチのにおい。タイチの雄のにおいが。
 私の鼻をくすぐって、刺激して、においの情報を脳へと伝達する。
 くさい。酸っぱくて、暑苦しい男のにおい……なんだけど。なぜかそのにおいがこの上なくきもち、いい。

「あっ……これヤバっ……」
「どした?」
「なん、でもない」

 どうして気持ちいい?ワカラナイ。
 理由なんて、ひつような、い。
 ただキモチイイ……それだけでいい……
 私の、メスとしての本能がそう叫んでい、る。交配相手のにおいが、汗にのって流れ、てくる。

「…………おい、アイ。ちょっと言いにくいんだが……思いっきり透けてんぞ、ブラ」
「あはぁ、気づいた?」

 やっぱり、バレてたようだ。
 どうもさっきから私と距離を開けている様な気がしたから不自然だな ぐじゅっ とは思っていたけど。
 そうか、バレてたかぁ。
 私のブラ、見てたんだぁ……

 えへ。
 えへ、エヘエへへっ。  ぐじゅっ

 もっと、もぅっと見てくれ、ていいんだけ、どなぁ。
 ブラだけじゃな、くてもっと、いろんなと、ころ見てくれていい、んだけどなぁ。 ぐじゅっ

「あはぁ、じゃねぇよあはぁ、じゃ。学校着く前になんとかした方がいいぞ」
「見せてる、って言ったら?」
「………………は?」

 あれ、私、なに言ってるの?
 見せて、る?そんなことない…………
 あれ、でも、なんでこんなに、見られてウレシイ?
 暑い。汗があつい。体の老廃物が燃焼しているのだ、ろ、うか。頭も、手も、脚もすべてが暑い。し、ぬるぬるする。

「えへえへえへ、私のブラ今日は黒色なんですよねぇえへへ」
「……!!?い、いやいやいや!俺そんなこと聞いてねぇから!」
「タイチならもっと見てもいいよ……」

 あっ、あっ、ヤバイ。
 ヤバイヤバイヤバイヤバイっ。 ぐじゅっ

 また、だ!!
 また私はなにを考え、ているんだ!!!
 こんなお、おかしい!!!おかしい、よ!
 で、でもタイチのことが、タイチがめのまにえに、おかしいぃ!
 どういえ、こんなこと……うぐぐ……

「お前なにいって……」
「う、へへ……もっと私、見ていいんだよぉ♪」
「じ、冗談はよせって、いやまじで」

 ちがう……チガウ……! 
 いや、ちがわない……いやチガウ……!
 ううううう……ああうぅっ……ちが、わ、うううううう……
 ジョウダん ちがうんdなよ
 これが私のほん、き、シンソウ心理の奥フカクの……
 あの日から変わらな、い私の本、気の

「ってかヒデー汗だな……べったべたじゃねぇか……」

 も、うダメ
 これじゃだめなんに どういて ぐじゅっ あっあっあっ
 あぅあっあぅあっ

「おい大丈夫か?なんか湯気出てんぞ」
「だいじょ、ぶじゃ、ない……頭、ぐちょぐ、ちょ……」
「頭?……熱でもあんのか」

 脳みそが、いじられて、おかしくなっちゃ、う
 いや、もうおかしいのかも、しれな 
 タイチがしゅきすぎて、なにもかも、かんがえら、れ、な……

「あつぅ!?なんだこれ!めちゃくちゃ体熱いじゃねぇか!」

 ヤバイヤバイ、やばい! ぐじゅっ
 タイチがわたし、を触っている!!きもっ チィ!

 また あの音が きこえう 
 あっ、あっ、あっぁぁつ

「アイ!?アイッ!ちくしょう!……こんなん持ってられっか!クッソ……待ってろよ、もうすぐ学校だからな!!」

 アタマのオク 啜られ、てキモチヨク なういてえ  ねいいえあは
 ノウミソ われ、る あへあえあ、  hたぐn あうぇ

 あのオトが  
           
    きこ
         える
 
 
 ……じゅるぅ
 


 …………ぐちっ




 ………………ぐじゅっ!




 ぐじゅじゅじゅずじゅ ぞりっ、ぼごぼごぼご!!!
 

 ――――ビチビチッ!!




―――――





 リーンゴーンカーンコーン
 


「――イ――イ!――アイ!!」

 学校のチャイムが聞こえる。
 いつも聞きなれた音だけれど、その光景はいつもとは違っていて見上げた天井は教室の古ぼけた蛍光灯ではなかった。ここは……保健室か。
 クラスメイトの話し声は聞こえず、私を包むのはふかふかの羽毛布団だ。
 横を見ると、数人の人影らしきものが私を見ている。まだ目覚めたばかりで誰なのかはよくわからない。

「よかった……一時はどうなることかと」
「本当によかったです」
「ま、まじで俺が一番びっくりですよ先生……アイのやついきなり汗だくになってやかんみたいに熱くなるんスもん」

 薄ら開いた瞳で横を見て、誰がしゃべっているのか、かろうじて見えるようになる。
 タイチと担任の先生と保健室の先生の3人が私の寝ているベッドの側で一塊になり、私を見下ろしていたのだ。
 あれ、どうして私、保健室で寝てるんだっけ……

「東峰さん、具合はどう?」
「ん、ああ、ええと、だいぶ落ち着いてきました。あの、どうして私保健室に……」
「覚えてないのね」
「東峰、お前熱中症になりかけてたんだぞ」
「ねっちゅ……ええっ」

 熱中症といえば、体の体温が上がりすぎて体の機能がダメになるこの時期特有の病気だ。連日テレビのニュースでも報道されるくらい知名度があって、誰にでも起こりうるものってイメージがある。
 それがまさか私が熱中症になりかけるとは思ってもみなかったよ。水分補給はこまめにしてたはずなんだけどなぁ。

「感謝するなら蓮尾にするんだぞ。倒れたお前をここまで運んできてくれたんだからな」
「正直めっちゃ焦りましたよ先生」
「タイチがここまで……」
「ああ、いきなりぶっ倒れるもんだから持ってる荷物全部ほっぽり出してよ、お前おんぶして学校までひとっ走りだ」

 ――トクンッ
 そう……タイチが、私を助けてくれた、んだ。
 ふぅん……そう……えへ、えへへっ
 そうなんだ。
 やっぱりタイチなんだ。私の面倒を見てくれるのはいつもタイチなんだよね。うん。
 そう、いつだって私のことを……昔も、今も、そして……

「ん?おい蓮尾。持ってる荷物全部ほっぽり出してって……まさか」
「………………あ゛っ!!しまったそのまんまです!い、今すぐ取りに行ってきます!」
「いや待て、先生が車出そう」
「助かりまっス!それじゃちょっくら行ってくるからよ、アイは休んどけ。な?」
「うん、わかった」


「ありがと、タイチ♥」
「!!……お、おう」


 タイチと担任の先生が保健室からいなくなると、私は再びベッドで仰向けになった。
 普通の女子ならば、今この状況に陥った場合、ツイッターやらフェイスブックやらに「熱中症になっちゃったよー!」とか「保健室で休憩中」とか投稿するのだろうか。私の勝手な偏見だ。
 けど、今の私はそれらをする気分には一切なれず、ただひたすらこの胸の鼓動を感じ、想い描く異性を想起することしかできなくなっていた。
 どうしてだろう。
 今まで、ただの腐れ縁、幼馴染、親友だと思っていたのに。
 ただの気の合う友達だったはずなのに。
 どうしてこんなにドコドコと胸打ち、あの声を想像してしまうのだろう。
 私はこんなに軽い女だったのだろうか。倒れた自分を助けてくれただけでこうも心惹かれてしまうほど、尻軽な女だったのだろうか。
 わからない。ワカラナイ。ぐじゅっ。

「東峰さん。さっき保護者の方と連絡取れたから、後で迎えに来てくれるそうよ」
「ありがとうございます」
「まだ顔赤いようだから安静にね」

 わからないことだらけで私の頭はぐちゃぐちゃのこんがらがりだ。
 だけど、ひとつだけわかることがあった。
 それは、私の頭の中で鳴り響く、あの不快な水音が次第にハッキリと、そしてだんだん近づいてきているということだった。
 頭の中で鳴り響いているのに近い遠いがあるということがまず意味不明なんだけれど、確かにそう感じる。初めて聞こえたときは遠くでささやく程度にぐちゅぎゅちゅ聞こえていただけだったのに。”外側”で鳴っているだけだったのに。
 最近になってからはそれが徐々に鮮明に、大きく聞こえてきている。”外側”から次第に"内側”へと近づいてきているのを自覚できる。

「…………」

 不気味なことこの上なかった。
 だけど、もっと不気味なことはこの音が近づいてきていると感じた私はそれを嬉々として受け入れ、逆にまだかまだかと待望していたことだった。
 パブロフの犬は、ベルが鳴ったらエサを与えられるという実験を繰り返され、やがてベルが鳴るだけで唾液が垂れるようになったという。
 私はまさにこの犬になり始めている。気持ちわるい、嫌だと思いつつもぐちゅぐちゅと水音が鳴り響くとタイチが関連した甘美な妄想をかき立てられ、脳髄がとろけるような快感を覚える。いつの間にか、まだ鳴らないのかと待ち望んでいる自分がいる。
 この音がもっと近づき、そして私の中心部に来てしまったらどうなるのだろうか。私の"内側”の領域に足を踏み入れられたら、私はどうなってしまうのだろうか。
 それが恐ろしくもあり、期待でもあった。
 ……きっとよくない事が起きる。そう、なんとなく勘が働いているのだけれど。
 だけれどもう、止められない。トメラレナイ。
15/07/19 00:25更新 / ゆず胡椒
戻る 次へ

■作者メッセージ
I am squid...

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33