読切小説
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『――間もなく日付が変わります。リスナーの皆さん、明日はどんな一日を――……』

 鮮明なカーラジオの時報で、日付が変わるのを知った。真っ暗な車内には、甘たるいエナジードリンクの臭いが漂っている。体が重い。頭は冴えている筈なのに、車の操作が覚束ない。

『――地方のお天気、今日は各地共に快晴です。絶好のお花見日和となるでしょう――……』

 そうか。知らない間に、世間では桜の季節になっていた。日の出前に出社して、日付が変わる前後に帰宅する。当然、車窓の景色はいつも真っ暗だった。そんな生活を続けているうちに、すっかりと俺は季節から取り残されていた。

 春。それは新しい出会いと別れの季節。期待と不安、皆が浮き足立つような、そんな季節。
 そして穏やかな陽気に誘われて、頭まで緩んだ奴らが出てくるのもこの季節。

 だから、俺の進行方向に立っているあの人物も、きっとその類なのだろう。

 私服姿だが、高校生くらいの女の子だろうか。車の通りも殆ど無くなった国道の端で、大きな白いボードを持っている。こんな真夜中に、女の子1人で立っているだけでも異常なのに。更にそのボードには、こう書かれていた。

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 ヒッチハイク……! あまりに無謀が過ぎる行為ッ……!
 突っ込み所しか無いが、まず第一に方向が逆だった。今立っている車線では、大阪行きでほぼ確定だろう。第二に危険過ぎる。それが分からない歳では無いだろうに、何か余程の事情が有るのだろうか?

 何れにせよ、関係の無い話だ。久々の休暇を棒に振るほど、俺は馬鹿じゃない。ぐびりとドリンクを煽った。女の子との距離が近付く。あと200メートル。100メートル。もう、通り過ぎる。

 深夜の国道に、タイヤの鳴き声が細く響いた。

 こんこん、と控えめに助手席の窓をノックされる。ブレーキペダルを踏み締めたまま、俺は観念して窓を半分だけ開けた。仕方ないだろう。赤信号に変わったんだ、たった今。

 「あのう、よるおそくに、すみません。もしよろしければ、のせてもらえないでしょうか……?」

 見た目より幼い印象の話し方だった。ロングスカートとケープだけでは、春の夜風はさぞ堪えるだろう。その整った顔立ちも、長い黒髪も。全てを薄青い街灯に染められた女の子は、今にも色褪せてしまいそうな程、儚く見えた。

 「こんな時間に危ない」「この事をご両親は知っているのか」「家に帰りなさい」 大人として、言うべき事は沢山あった。だが、俺が選んだ言葉は――

 「いいよ、乗って」

 女の子の顔が、喜びに染まる。初めて見た笑顔は、何だか締まりが無くて。
 にへ、と笑う彼女を俺は、可愛いと思ってしまった。

 ちゃぷっ。

 何処からか、水の跳ね上がる音が聞こえた。


**************


 女の子は、らいむと名乗った。高校を卒業したものの、良い就職先は見付からず。元手も少ないため、路上でヒッチハイクをしていたのだという。

 「せんせいにそうだんしたら、とうきょうなら、だんなさ……じゃなかった。しゅうしょくさきが、みつかるかもって」
 無謀ではあるが、悪い子ではなさそうだ。しかし、こちらは疲労がピークに達しようとしている状態。

 「らいむちゃん。残念だけれど、東京までは行けないよ。近くのサービスエリアまでは乗せてあげるから、明るくなってから……」
 くら、と視界が揺れる。カフェイン切れだ。俺は急いでドリンクを引っ掴み、煽った。

 「ふぃー。ごめんね、話の途中で」
 ひた。と俺の左頬に、ひんやりとしたものが触れた。

 「そののみもの、からだに、よくないです」
 頬に触れた彼女の指先が、目の下あたりに移動する。

 「それに……かなり、おつかれですよ?」
 「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

 ちゃぷ……

 また、水が跳ねる音だ。今度は助手席側から。水抜き穴でも詰まったのだろうか。
 他に車も通らない夜道を、ヘッドライトでなぞる様に進んで行く。

 「そう言えば、らいむちゃんの学校って、どうだったの?」
 「どう、というと」
 「魔物の子とか居た?」

 じゃぷっ!

 かなり大きな水音だった。これは明日にでも点検した方が良さそうだ。

 「え、えええと、きゅうに、どうしたんですか??」
 「最近の学校って、魔物の人たちと共学の所も有るって聞いてね。どうだったのかなって」

 何やら微振動しながらも、彼女は教えてくれた。らいむちゃんの学校は人魔共学で、原則として人間と魔物は別々のクラス。しかし実際は、好きな男子の教室に潜入したり、人間の女子生徒の姿を借りて入れ替わったりと、なかなか面白そうな学園生活が繰り広げられていたらしい。

 「らいむちゃんは人だし、大人しそうだから結構苦労したんじゃない?」
 「い、いいえ。そんなことは、ありませんでした。とても、たのしかったです」
 「ほう。もしかして在学中は、結構ワルだったとか?」
 「わたし、わるいこじゃ、ないですよ」 ぷるぷる。

 順調に夜道を進み、もうじき高速道路の入り口が見えて来る。そんな時だった。

 「あのぅ、すみません。わたし……その……」
 助手席の彼女が言い辛そうに、何かを訴え掛ける。はたと俺は気付いた。まだ寒い夜中に外で立っていたら、当然そうなるだろう。

 「わかった。その辺のコンビニで休憩しよう。ごめんね、気付かなくて」
 「い、いえ、そうではなく……お……」
 お?

 「おみずが、のみたいんです」


**************


 紫色の看板が、深夜の暗闇に浮かんでいる。ぼんやりとした妖しい光に誘われる様に、俺はそのコンビニへと車を停めた。

 お水だけで大丈夫です、と言う彼女には車に残ってもらい、俺は1人で飲料水コーナーの前に立っていた。水だけに、水色や白を基調とした無難なラベルの商品が並んでいる。しかし……

 ”お水が必要なあなたに!”

 まるでこちらの事情が透けているかの様な、手書きのポップが添えられたボトルが一つ。派手なマゼンタのラベルに、縦書きの文字。だいぶ前に流行った、ビタミンウォーターみたいな外見だ。

 ” 品名:ナチュラルミネラルウォーター(天然無発泡性) 原材料名:水(海洋深層水) 採水地:コートアルフ ”

 外国産か。どうやら、中身は普通の水らしい。


 「いらっしゃいませぇ☆」
 商品をレジに持って行くと、そこに居たのは小さな女の子だった。☆エフェクトが飛び出しそうな、フリフリの衣装を身に付けている。

 「おやぁ? お客さん、コレをお買い上げって事は……これから オ・タ・ノ・シ・ミ ですかぁ?」
 何の話だろう。

 「またまたぁ。普通の娘? 赤い娘? やっぱり海の娘? それとも……泡々な娘? やぁん、ちょっぴりマニアック☆」
”てんちょ” と書かれたバッジを着けているけれど、流石に冗談だよな?


 やたらテンションの高い店員に見送られ、俺は店を後にした。ミネラルウォーター1本分の重さが右手に食い込む。その容量、2リットル。
 いやいや、普通に考えて2リットルは無いだろう。はいどうぞと渡されて「わあ、ありがとう」と喜ぶ女の子なんぞ居るもんか。この判断ミスは疲労の所為、このサイズしか無かったんだもの。

 「お待たせ。申し訳ないけれど、このサイズで我慢してもらえるかい?」
 「わあ、ありがとうございます!」

 嫌な顔の一つもせず、嬉しそうに彼女は2リットルのペットボトルを受け取ってくれた。
 天使や……ここに天使様がおるでぇ……! そうして、助手席の天使は徐にキャップを開けた。

 つい、と一口。
 つつい、ともう二口。
 ペットボトルは 空になった。

 いやいやいやいやいや、何かね? 手品かね? 最近の女子は二口で2リットルを空にするのがフツーなのかね!? 狼狽する俺を他所に、彼女は満足げな表情を浮かべている。

 「はー、いきかえりましたぁ。ごちそうさまです!」
 「い、いいえ、とんでもない事でございます(?)」

 落ち着け、彼女を無事に送り届ける事に集中するんだ。平静を装い、俺はエンジンに火を入れた。

 『『――えー、現在事故処理のため、青津SAを一時的に封鎖しておりまぁす☆ 高速道をご利用のお客様には――……』』

 素晴らしいタイミングでカーラジオから流れて来たのは、目的地の封鎖という最悪の事実。ここからだと、別のサービスエリアまでかなり距離がある。正直、体力的に辿り着ける自信が無い。だが。

 「らいむちゃん、少し待っててね。買い物が出来たよ」
 「きゅうに、どうしたんですか?」
 「ここの店で一番高い栄養ドリンクをね。心配しないで、必ず送って行ってあげるから」
 そう言って車外に出ようとした、その時だった。

 ゴポっ。

 重い液体が湧き出る様な、そんな水音を聞いたのは。
 「だめ、です」
 「らいむちゃん……?」

 彼女は助手席から身を起こし、ゆっくりと近付いて来る。俺の両足は、まるで沼に嵌った様に動かなくなっていた。
 「わたしがこんなこというの、へんだって、わかってます」

 彼女は左手を自分の胸に、右手を俺の胸に置いた。ほんの一瞬、その表情が苦しげに歪む。
 「でも、これいじょうのむりは……だめ。ほんとうに、だめなんです」

 彼女の息遣いが、肌で感じ取れる程の距離。俺の心臓は、不整脈を打つほど跳ね上がった。潤みを湛えた瞳、しっとりと濡れた唇、紅を点す頬。それらを艶やかに染め上げる、紫色の妖しい照明。

 「ひとばんだけ、とめていただけませんか。あなたのおうちに」

 思考が追いつかない。年頃の女の子が泊めてくれって? ああ、でもふわりと甘くて、花みたいに良い匂いだ。 もう、どうにでもなれ。

 「わかった。それじゃあ行き先は、俺の家って事で」
 「はいっ」

 さっきまでの妖艶さは何処へやら。締まりの無い笑顔を浮かべた彼女は、助手席に戻っていった。ともあれ、家まではもう一踏ん張りだ。

 俺は飲みかけのドリンクをぐっと飲み干して――おかしい。ドリンク剤特有の、飲んだ瞬間に訪れる抵抗感が全く無い。まるで二日酔いの朝一で飲む水の様に、スッと体に染み渡ってゆく。そして、疲労そのものが癒されていく様な、そんな感覚さえ有った。

 助手席に戻ったらいむちゃんに、視線を送る。
 (らいむちゃん、何かした?)

 彼女は意味深に、こくりと頷いた。
 「あんしんしてください。てんねんゆらいの、せいぶんですよ」

 俺は一体、天然由来のナニを飲まされたんだろう。
 足はもう、自由になっていた。


**************


 「わあ。これが、おとこのひとのへや、ですか」
 彼女は物珍しそうに、部屋の中を散策している。
 「散らかってて悪いけど、適当に座って良いからね」

 お茶でも淹れようと準備していた俺に、らいむちゃんからお呼びが掛かった。

 「あのぅ、これは?」
 彼女が見ていたのは、サイドボードに飾られた掌大のオブジェだった。

 「これは、得意先のお客さんが趣味で作った物なんだ」
 深く青く透き通り、液体にも固体にも見える表面の質感。その有機的な形状は、どこか女性らしい仕草を思わせる。

 「ウチで扱ってる商品のテストで出力したんだけど、もう一目惚れでね」
 (ひとめぼれ……)
 「その人を拝み倒して、やっと譲ってもらったんだ。でも、この美人さんを手に入れる為なら、惜しくない苦労さ」
 (びじんさん……)

 ふと彼女を見遣ると、ぼうっとした目でこちらを見ている。
 「ごめんこんな話、ちっとも面白くなかったよね。 ささ、着替えてお茶でも」
 「わぁ、ちがうんです! その、ちょっと、うれしくて」

 おお、これはもしや――
 「ひょっとして、らいむちゃんも”透明なモノ好き”なの?」
 「えっ?」

 「いやあ、昔から透明な樹脂とかガラスで出来たモノに目が無くてね。一番のお気に入りは、さっきの美人さん。でも、このグラスなんかも気に入ってて、勿体無いから飾ってるんだけどね。ほら、この色ガラスと無色ガラスの境なんか、とても幻想的な感じだろう? こっちのはアクリル製なんだけど、丁寧に研磨されてるから接合部分が全然分からなくてね。染色技術がまた高くてグラデーション……」
 「………………」

 「あれ、らいむちゃん?」
 「………………」 (とうめいなら、なんだって、いいんですかっ)

 ぷう、と頬を膨らませ、彼女はこちらを睨んでいる。いかん、何か怒らせてしまった。
 「えーと、そうだ。コーヒー淹れたんだよ、カフェインレスのやつ。冷めちゃうから、一緒に飲んで貰えると嬉しいなー……なんて」
 「………………いただきます」

 良かった。まだ頬が少々膨れている気がしないでも無いが、テーブルには着いてくれた。
 「良かったら、上着預かるよ。向こうに掛けておくから」
 促され、彼女は羽織っていたケープを脱いだ。

 (オ、オフショルダー……だと……?)

 大胆に開いた肩口から覗くのは、露になった白く瑞々しい肌。その乳白色は、まるで向こうが透けて見えてしまいそうな程。細く、女性らしい丸みを帯びた肩の稜線。辿る先にあるのは、鎖骨の生々しく艶やかな窪地――

 「あのぅ、じっくり、みすぎです……」
 彼女の声に、ハッと我に返る。いや、俺は一体何をしていたんだ?

 「も、申し訳ない! その、嫌らしい気持ちでは決して無くてだね!?」
 セクハラオヤジみたいな事を言っていると、内心ツッコミを入れる余裕も無い程に動揺していた。
 そんな俺を見ている彼女は、しょうがないなと言わんばかりの顔をしている。その表情ときたら、まるで俺より大人に見える程だ。

 「わたしを……つかいませんか?」

 「ゑっ?」
 「よろしければ、です。わたしが、おかえしできることって、これくらいしかなくて……」

 彼女は恥らいながらも、おずおずと俺の前で両腕を開いてみせた。おいで、と言っているのだろうか。据え膳喰わねば男の恥。相分かった。君が、そこまで言うのなら――

 使わせてもらおうか。


**************


 「あの……っ、い、いかがでしょう、か」
 「あぁ、いい、実にイイよっ」

 その柔らかさは、本当に同じ人間かと疑いたくなる。ふにょんと柔らかく、それでいて確かな弾力を内側から感じ取れる。彼女のひんやりした体温が、火照った体に心地よい。右へ左へ無遠慮に、ぐりぐりと擦り付ける。

「んっ///」 「ふっ///」

 と漏れ聞こえる声が、嗜虐心に火を点けた。更に攻め立てるべく裏の筋で刺激してやると、ついに耐えられなくなったのだろう。

「んっ、はぁぁあっ////」

 熱い吐息と共に、固く閉ざされていたぷりぷりのゼリーが徐々に割り開かれて――……


 「もうっ、こどもみたいです!」
 「ゴメンゴメン。いやぁ、最高だよ」
 「あばれちゃだめです……でも、きにいってもらえて、よかった。わたしのひざまくら」

 膝枕とは、こんなにも心地よいものだったのか。スカート越しに後頭部へ伝わる、ひんやりプニプニな感触。ああ、このまま寝てしまいたい。そう思った瞬間、急激に眠気が襲ってきた。

 「ごめ……も、限界。らいむちゃ……むこう、ベッド、つかって……」
 強制的に瞼が閉じる。俺の意識は、ずぶずぶと彼女の膝に沈んでいった。

 (いまはゆっくり、おやすみなさい。めがさめたらきっと、すてきないちにちが、はじまりますよ)


 目覚めると、そこは夢の中だった。

 視界は青。音は無い。口から零れた気泡が、ゆるやかに上昇していく。息苦しさは無い。
 俺は仰向けに沈んでいた。ここは海の中だろうか? しかし周りを見回せば、そこは見慣れた俺の寝室だった。恐らく、家ごと海に沈んだのだろう。海中には誰も居ない。だが寂しくはない。誰かがずっと、傍に居てくれると知っているから。
 ……また、眠くなってきた。夢の中で寝るなんて、どうか、してる…… 


 午前5時。いつも通りの寝室、いつも通りの起床時間。いつも通りにベッドから出た俺は、シャワーを浴びにバスルームへ向かった。
 久々に夢を見た。いつ以来だろう、夢を見たのは。そんな暇も無い程、俺は忙しかったのだろうか。
 久々過ぎて、俺は夢から覚める方法を忘れたらしい。だって、そうじゃないか。

 目の前のそれは、窓辺で静かに佇んでいた。

 深く青く、透き通る体。てろてろの表面は、液体なのか個体なのか。ただ、彫刻と呼ぶには余りに生々しい。
 やがて窓辺には、陽が昇る寸前の、澄み切った光がやって来る。それは彼女をなぞり、透過し、跳ね返る。一頻り遊び終えた光達は、床へ水面を作っていった。

 「綺麗だ」

 俺は一言だけ。そう呟いた。
 彼女が気付く。ちゃぷ、と水の音が響いた。確かめる様に、ゆっくりと近付いて来る。
 俺は動かない。そうして、両腕を開いてみせた。 おいで、らいむちゃん。

 視界は再び、青い海の中へと沈んでいった。

 (うれしい、うれしい、うれしい!)

 誰かの、いや彼女の感情で、海の中が満たされている。
 何故だ。俺まで嬉しさが込み上げて来た。嬉しくて俺達は今、きっと泣いているんだと思う。

 「やっと、やっとみつけました……みつかりました。わたしの――」


**************


 眩しい。陽の光が差し込むベッドの上で、俺は目が覚めた。
 目覚しを見る。時間は……昼前? 珍しい事もあるもんだ。休日は、いつも夕方までベッドの中だというのに。昨日、どうやって帰って来たのか記憶が怪しい。ベッドで寝ていたんだから、無事だったのだろう。

 何だか、とびきり良い夢を見ていた様な気がする。おかげで、体調は素晴らしく良好だ。
 
 リビングへ向かうと、テーブルにはコーヒーカップが並んでいた。片方は中身が残っていて、もう片方は空っぽ。何だって俺は、寝る前にコーヒーなんて用意したんだか。それも2つも――
 俺と、誰の為に?

 「らいむちゃん!」

 急いで玄関へ向かう。しかし、彼女の靴は無かった。鍵は内側から施錠され、掛けておいたケープも消えていた。リビングに戻った俺は、いつもの癖でラジオを点けた。
 夢だったのか? 昨日あった全てが。置き放しのコーヒーを啜る。

 「冷たっ」

 予想を超えた冷たさだった。冷めたコーヒーというのは、どうしてこうもアイスコーヒーより冷たいんだ。ラジオから流れる軽快な音も、今は空しくリビングに響いている。


 ズバァン!!

 突如、玄関から凄まじい音が聞こえた。同時に、ぱたぱたとリビングに向かって来る足音も。

 「ただいま、もどりました!」

 整った顔立ちに、濡れ羽色の長髪。セミロングのスカートと桜色のケープ。そしてやはり、どこか締まりの無い笑顔。
 「おはようございます。ぐっすり、ねむれましたか?」
 彼女は両手に提げたスーパーの袋を、テーブルに置いた。
 「おかいものに、いってきました。おはn」

 彼女を抱き締める。
 髭も剃っていない、パジャマ姿のままで。

 「……もう。あまえんぼさんです」
 「夢かと思った」
 「ゆめじゃ、ないですよ」

 ぎゅっと抱き返してくれた彼女の、体が変化していく。
 眼下の濡れ羽色は蒼く。桜色の肩口は、桜の花弁が浮かぶ水面に。青く透明に包み込む彼女と、そこから首だけ出ている俺。外から見たら、さぞシュールな光景だろう。

 「さあ、きがえてください。いっしょに、おでかけしましょう」
 「良いけど、どこへ?」

 潮が引く様にして俺から離れた彼女は、もう人と同じ姿になっていた。
 「おはなみ、です!」


 身嗜みを整え、上着のジャケットに袖を通す。
 リビングでは既に、弁当・飲み物・敷物の3点セットを装備した、らいむちゃんが待っていた。

 「いそいでください、おひさまは、まってはくれません」
 「そんなに急がなくても大丈夫だよ」

 ぐぅ、と俺の腹の虫が鳴いた。

 「ふふっ。さあ、いきましょう。おそとでたべたら、きっとおいしいです!」
 彼女に引っ張られる様にして、俺は玄関を後にする。誰も居なくなったリビングには、ラジオの声だけが取り残された。


 『――絶好のお花見日和となるでしょう。それでは、リスナーの皆様にとって、今日も素敵な一日でありますように。この時間のお相手は――……』






 [ 東京→ ] おしまい。

20/05/10 16:04更新 / トケイ屋

■作者メッセージ
 ここまでお読み下さいまして、誠にありがとうございました。
 



 新緑の季節。
 らいむちゃんの就職が決まってから、一ヶ月が過ぎようとしていた。

 あれから、俺は仕事と距離を取る事に決めた。
 確かに好きで続けていた仕事だし、無理をして成果も出した。しかし、それで全てを失ったら元も子もない。

 職場の外のベンチに座り、弁当を広げる。
 今日のメニューは、たっぷりの白米・ゆで卵・人参やブロッコリーといった彩の良い温野菜・厚めにカットしたハムが4枚。まだ料理に不慣れながらも、こうして毎日弁当を作って持たせてくれる。

 『どうですか! これくらい、ひるめしまえ、ばんめしまえです!』
 にへん、と得意げな彼女の笑顔が、脳裏に浮かんだ。

 「頂きます」

 うむ、美味い。誰かが自分の為に作ってくれた料理というのは、何故こうも美味いのだろう。温野菜は味も茹で具合も素晴らしく、卵は半熟。ハムも食べやすいサイズで、あっと言う間に平らげてしまった。最後は、お楽しみのデザート。別の容器に入った、一口サイズのゼリーだ。

 やはり歯を立てるのは忍びないから、今日は口に含んで舌の上で転がしてみる。花の様な優しい香りが、口内に甘さを錯覚させる。じきに、ぷるぷるとくすぐったそうな気配が舌に伝わってきた。
 あまり意地悪をするのも可愛想なので、こくりと飲み干す。

 (おしごと、おつかれさまです。むりしたらだめですからね。きょうのばんごはんは、しちゅーですよ!)
 メッセージが心に直接届く、彼女にしか作れない特製のゼリー。

 (お弁当ご馳走様。晩御飯、楽しみにしているよ。今日も早く帰るね)
 届くかどうかは別として、彼女に返事をしてみる。既にこんな遣り取りも、愛すべき日常の一部となっていた。

 「さぁて。午後もそこそこ、頑張りますかね」



(ちゃんと、とどいていますよ。だいすきな――わたしの、だんなさま♥)




 






 ☆NGシーン☆


 彼女に引っ張られる様にして、俺は玄関を後にする。誰も居なくなったリビングには、ラジオの声だけが取り残された。

 「しまった、鍵を忘れた」
 「おまかせください」

 玄関前。彼女は俺の眼前に手を翳した。うにょにょ、と肌色の人差し指が細く伸びて、鍵の形に成形される。

 「ふっふっふ。これくらい、ひるめしまえ、ばんめしまえです!」
 (ヤダ、ちょっぴりキモ)
 (いま……しつれいな……ことを……かんがえて……いましたね……)
 (直接脳内に……!?)


 ☆おわり☆

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