連載小説
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出会いと戦いの始まり
とある洞窟の前に、一人の青年が居た。
顔立ちはジパングの民特有の童顔に襟にかからない程度にざっくり切られた黒髪、やや釣り眼気味の黒瞳というものであるのだが、身の丈百八十はあろうかと云うその身に纏うのは、上半身には腹の辺りで帯で締めたジパング風の着物に下半身には大陸で流通している作業ズボンに素足というチグハグさであり、彼の身の丈程の背嚢を背負うその姿は、山深く誰も訪れることのないこの場所で見咎める者は居ないといえども異色だ。
「ここだな」
声色は一般的な男性の物よりやや低めでありながら、その声は腹から出した声特有の遠くまで良く通るもので、口に出した言葉にはジパング訛りの無い綺麗な大陸の共通語。
手に持った一枚のやや古ぼけた羊皮紙に書かれている情報と、ここに立ち寄る前に聞いた情報とを彼は再度頭の中で確認し間違いが無いことを確信すると、紙を足元へ捨て背嚢を背から下ろしてごそごそと中をまさぐり始めた。
「腹拵えをしつつ進むとするか」
背嚢から自身の拳ほどある干し肉の塊を取り出しそれを口に運びつつ、背嚢を肉を持っていない方の手で掴むと無用心とも取れる足取りで洞窟の中へと歩を進めていった。
その紙に書かれていた内容を見ようとするかのように一陣の風が青年の残した紙を巻き上げた。


『      古代竜の住みし洞窟

  何時の日よりか、洞窟に竜が住みはじめる。
  彼の竜、黒曜石の輝きを放つ鱗をもつ古の竜なり。
  竜の持つ宝目当てに数多の戦士が挑戦するも、誰として討伐せしめたものはおらず。
  黒き鱗に被われた体躯には刃物は通じず、爪の一振りにて鋼鉄の鎧は藻屑と変わる。
  屈強な百の兵で挑んだ者達は竜が吐息を一吹きするのみで、全員死体同然へと変貌せしめられ。
  偉丈夫ですら竜の尻尾の一振りに、洞窟の外まで吹き飛ばされる。

  ゆえにこの洞窟に立ち入ることはならず。
  踏み込めばたちまち竜の餌食となるであろう               』




彼女は夢を見ていた。それは在りし日の彼女自身の記憶。
いまだドラゴンの雄が存在していた、はるか彼方の前魔王の時代の記憶。
こちらを覗き込む彼女の母の二股の舌が、彼女の身体に纏わり付いた卵の粘液を愛しそうに舐め取り、彼女はその母親の鼻先に甘えるように身体をこすり付けていた。
幸福感に満たされていると、突如爆音にも似た音が彼女の鼓膜に突き刺さる。
音のした方向へと振り返る母親。そして目線を追う様に視線を巡らせた彼女の眼に飛び込んできた光景。
それは二匹の雄のドラゴンが叫び声を上げて掴みかかり、牙を相手の首筋に食い込ませあう暴力的な映像だった。
巨大な体躯からはギリギリと空気を振るわせる筋肉と骨の軋む音。双方とも首筋からは血が流れて鱗を朱に染める。
やがて噛み合いでは決着が付かないと見たのか、片方のドラゴンが体当たりで無理やり顎を引き剥がせば、もう一方のドラゴンは吹き飛ばされて離れた間合いを利用し魔法のブレスを吹きかける。それを羽の一振りで吹き散らすと身体を回転させて尻尾を振り回して攻撃すれば、それを受け止め渾身の力を持って振り回して後方へと投げ捨てる。やがて二匹は離れた間合いでしばしにらみ合っていたかと思えば、示し合わせた様に空中へと飛び上がると掴みかかり、双方とも地上に落下するやいなや再度首筋への噛み合いへと光景が戻った。
その二匹のドラゴンがなぜ争っているのか生まれて間もない彼女には分からなかったが、死の危険すら孕んだその光景を見て震える彼女。
しかしその生まれて間もない幼い本能でも、死という概念以外に確実に彼女に理解ことが一つあった。
それは将来彼女が大きくなり番になり身も心も捧げて子を成すのは、あの二匹のような自分を圧倒する雄であると。
この一連の光景が彼女が卵から生まれ出でた時に刻まれた、彼女の運命を決定付けた光景。
現魔王により雌雄全てのドラゴンが翼の生えたトカゲの姿から鱗を持つヒトのメスの姿へと陥れられても、彼女は自分を圧倒することが出来る雄ドラゴンをこの洞窟で宝と共に待ち続ける。
ヒトが宝を狙いに何百何千とやって来たとしても、それを退けてここで待つ。
それが絶対に叶わぬ願いだとしても。




ヒカリゴケに薄っすらと照らされた洞窟に入って小一時間ほど歩いているものの、立ち入りを禁止するドラゴンの住処に相応しくないほど、魔物娘の姿を見かけることが無く青年――コウ・ヒトナギは落胆していた。
本来ドラゴンの住処といえば、宝目当てに侵入してくる屈強な冒険者達を夫にしようと未婚の魔物娘達が待ち構えているものなのに、この洞窟にはスライム一匹どころか洞窟になじみが深いデビルバグの姿さえ見えない。
「やっぱりガセ情報だったか、それとも今まで通りに立ち去った後かもしれないな」
もしそうなら大陸での武者修行の修了のために、最強の魔物娘の一種であるドラゴンを腕試し相手に選んだコウにとって、それは非常に困ることだった。
いままで調べたドラゴンの住処はドラゴンが引き払った後だったり、夫婦仲睦まじく暮らしていたりと、空振りに終わってばっかりだったのだ。
こうなればドラゴン探しのために勇者すら歯の立たない魔界に単身乗り込むかという段になって、ようやく見つけたドラゴン――しかもドラゴンの中でも力の強い古代種の手がかりだ、ガセであろうと構わないと乗り込んでみたものの、もうそろそろ洞窟の終わりが見えそうだというのに、魔物のまの字ですら拝めない状況に手にした情報に疑心を覚えてしまうのはしょうがないことだろう。
そんなことをつらつら思い返していたコウは、歩いている洞窟の先がやけに明るい事に気が付いた。
コウは過去の経験からこの先の空間が、洞窟に設けられたドラゴンの居住空間であり宝物庫であると確信して歩みを進めその空間へ出ると、昼の日向と変わらない光量に洞窟の薄暗さに慣れた眼を瞬かせながら、空間の中ほどまで歩みを進めながら周りを観察する。
王宮の謁見の間ほどもある大きな空間の周りの壁は、今までの洞窟内とは違った黒くガラス化した石の壁。天井には明り取り用なのかそれともドラゴンの出入り口なのか、大の大人一人が余裕で通り抜けられるほどの大きな空間が数箇所開いてあり、そこから差し込む日の光が壁の黒ガラスに反射し室内を明るく保っている。そしてコウが入ってきた場所とは部屋の反対側に玉座、その後ろに積まれた金銀財宝魔法の品の数々。
そしてコウの目当ての魔物は石の玉座に座り、手すりに頭を預けて眠っていた。
普通のドラゴンの緑色の鱗ではなく、羊皮紙に書かれてあったように黒曜石を縦長の六角形にしたような真っ黒で艶やかな鱗が褐色の手足を覆い、背に生えている光を鈍く反射する黒い翼は外的から身を守るかのように自分自身を包み込みこんでいる。腰に届くほど長い髪はジパング人のような黒髪でありながらも、洞窟暮らしとは思えないほどくすみとは無縁の艶やかさを保っており、前髪からちらりと覗く細く端正な眉に閉じていても分かるほど涼やかな目元。唇はほっそりとしていながらも褐色の肌に生える薄紅色を湛えていた。
そして何より稀代の石像作りのドワーフや人々を虜にする名画を書き上げるリャナンシーですら、このドラゴンの美しさを半分ほども再現できないのではないかと思えるほど、そのドラゴンは美人ぞろいの魔物娘の中でも飛びぬけて美しかった。
しかしコウが驚いたことは、そのドラゴンの美しさではなかった。
(子供か?)
そうそのドラゴンの姿は図鑑に載っているドラゴンの一般像からしてみれば背も低く胸や尻も薄く、成人しているとは到底思えない姿だった。
しかし実際見た目通りに子供かと問われれば、分からないとしか答えようが無いだろう。
魔物の中には見た目が子供の魔物など溢れるほど居るし、なにより成人した古代種のドラゴンの絵姿なぞ人間の身で見た人間なぞ幾らほど居るものだろうか。
(いやいや、そうではなくてだな)
腕試しに来たとはいえ、幸せそうに眠る相手に大の大人が叩き起こして勝負を挑むというのは流石に気が引けた。ましてや見た目が少女だという事実がそれに拍車を掛ける。
少女が目覚めるまで待つかとも思ったコウであったが、頭を振ってその考えを頭から追い出し、この少女とは縁が無かったと諦める。
そして新たなドラゴンを探しに魔界へと踏み込む決意をしたコウは、洞窟の入り口へ戻るために踵を返した。
「良い夢を見て眠っていた私に不意も討たず宝も持ち去らずに、何をしにここに来たのだヒトの子よ」
ドラゴンから視線を外した瞬間に、そう自分以外の誰かから声を掛けられたコウは、振り返り臨戦態勢をとる。
コウの視線の先、黒いドラゴンはさっきと同じく手すりに頭を預けた体勢だったが、閉じていたはずの眼は薄っすらながらも確りと開かれていた。
しかしその眼に暴力的な色が無いことを見て取ったコウは、戦闘態勢を解除し背嚢を背負いなおす。
「手合わせを願いに来たのだが、寝ていた様だったので帰るところだ」
「ほう、そうなのか……それにしては武器も防具も見当たあたらぬようだが?」
手合わせと聞いて少し退屈が紛れるかという感情がドラゴンの眼の端に現れたが、防具の類を何も持ってはいないというドラゴンにとっては素っ裸同然のコウの立ち姿に、どうやらコウの言葉を迷い込んだ旅人の戯言だと思ったようだ。あからさまに落胆のため息を漏らした。
それならば勘違いを正したりせずに、このまま立ち去ろうとコウはドラゴンから視線を外さずに、一歩二歩と下がっていく。
「そういうわけで、俺はここで失礼を……」
「まあ待て。ヒトを手ぶらで返したとなればドラゴンの名折れ、私から良い夢を奪った礼を受け取れ」
コウの言葉を遮りながら『ぱちり』とドラゴンが指を鳴らすと、部屋一面に無数の魔方陣が展開される。
(転移魔法陣か……)
そのコウの心の声の通りに、魔方陣からはスライムやゴブリンのような弱いモノから果てはミノタウロスのような強力なモノまで、各種様々な魔物娘達がわらわらと出てくる。
大広間を埋め尽くすほどの魔物娘を端から端まで見て、コウは面倒くさそうで嫌そうな顔をした。
「こやつらを全員倒すことが出来たら、さっきお前が言っていたように手合わせしてやってもいいぞ?」
そのドラゴンの言葉に我先にとコウへと殺到する魔物娘達。その淫欲にまみれた目つきをした彼女達にコウが掴まれれば、この空間は一躍乱交パーティー会場へと変貌を遂げることだろう。
しかしコウは慌てた様子も無く、何故か息を大きく吸い込み始めた。
肺に空気が満杯になると、コウは身体を駆け巡る魔力を口内に押し込め始め、そして先頭の魔物娘の指がコウに触れると思われたその瞬間。
『我ァァァ!!! 応ゥ!!!』
コウの口から放たれた、古の姿のドラゴンが吼えたかと錯覚するほどの巨大な音。
人の口から放たれたとは思えないその音量に、空間全ての空気がビリビリと震え、天井からは砂粒がパラパラと落ちてくる。
壁と天井で反響していた声が余韻を残して消え去った後には、コウの近くで至近距離で咆哮を受けた魔物娘達は全て気絶して失禁し、それなりに離れた場所にいた者たちでさえ、さっきまでの淫欲に濡れた眼から怯えを刻んだ眼へと変わり座り込んでいた。強者が好きなミノタウロスや屈強で名を知られる他種の魔物娘でさえ、ガタガタと膝を震わし手に持った武器がフルフルと震え、コウに対して明らかに尻込みしていた。
「叫び声に恐れを与える魔力を含ませるとは面白い」
しかしそんな咆哮も地上の王者と云われるドラゴンには効かなかったようだ。いやむしろコウのその咆哮にドラゴンの戦闘本能をくすぐられたようで、好戦的な目つきで身体を起こしてコウの方を見ていた。
やがてドラゴンは玉座から立ち上がり指をぱちりと再度鳴らすと、広間にいた魔物娘達が全て魔方陣に飲み込まれ消えていった。
「約束通り、相手をしてやろう。貴様名はなんと言う」
玉座からコウへと歩みを進め始めたドラゴンに、もう逃げることは出来ないと悟ったコウは背嚢を壁へ向かって投げ捨て、両手を顎の高さに添えるようにし、膝を曲げ腰をやや落として構える。
もうこうなれば見た目が少女であろうと、コウの中には必要以上の手心を加える気はない。むしろ一歩一歩近づくたびに迫る圧力に、自分の気勢が膨らんでいくのを感じていた。
「コウ・ヒトナギ。ジパングから来た武者修行の旅人だ」
「私はヘイシャ・ヴォルノース。前魔王の時代の記憶を持つ古の黒竜であり、貴様を討ち滅ぼすであろう魔物の名前だ。武器ならあそこにあるのを好きに使ってよいぞ」
自分の後ろにある財宝の中に埋もれている武器の数々を顎で指し示すが、それをコウは視線をヘイシャから逸らさずに首を横に振って答える。
「俺は大陸で言うところの拳師だ、武具は使わない」
「後悔しても知らんぞ?」
そして一拍の呼吸の後、二人の姿は交錯した。



黒竜のヘイシャは自分の部屋へ入ってきた闖入者を、最初は臆病なヒトだと思っていた。
今まで出会ったヒトのようにドラゴンの姿を見て討ちかかる訳でも、寝ているドラゴンの眼を盗んでこっそりと秘宝を持ち出そうとするわけでもなく、そっとその場を立ち去ろうとしたのだから、そういう印象を抱いたとしてもしょうがない事だろう。
だが臆病であろうともそうでなかろうとも、今までのヒトと同じように大量の魔物を召喚し襲わせれば情けない声を上げ、性欲に溺れてよがり狂う取るに足らない存在であると踏んでいた。
しかし青年はその大量の魔物に対し、たった一つの咆哮で無力化してしまった。
その声はヘイシャの初源の記憶にある、あの二匹の雄竜のモノに勝ち得るとは言えないものの、著しく劣るものでもなかった。
そこでようやくヘイシャは、青年をヒトではなく一匹の雄として見た。
手に武器を所持しているわけでもない、身に着けるのは防具にすらならない柔らかそうな衣服。
しかしその衣服の内には、がっしりしながらも柔軟さを損なうことの無い野生動物のような筋肉を纏っている事を見抜いたヘイシャは、その雄に興味が湧き名を尋ねた。
名をコウと名乗った雄はヘイシャが一歩一歩近づく度に、コウの奇妙な構えから感じる殺気とは違う威圧感が増していく。
それが昔に蹴散らした勇者だと名乗った男から感じたの圧力よりも大きなものへと変わっていくのを感じ、強い雄に対する期待感にヘイシャの心臓が高鳴り子を成すために設けられた下腹が疼くが、気にするべきは目の前の雄がドラゴンの雄が消え去ったこの時代に、自分の寂寥感を慰めてくれるほどの良い雄かどうか。
ヘイシャは自分の名前を名乗り返した後、少し相手の様子を伺う様に静止した後、二人は申し合わせたかのように同時にその場を飛び出して相手へと向かう。
攻撃を先に繰り出したのは種族的な身体能力に勝るヘイシャ。
ヘイシャは今まで通りに、自慢の爪で男を死なない程度に切り裂くつもりであった。
振り上げた右腕がコウを斜めに切り裂こうとするが、コウの身体に向かうその途中でヘイシャの手首に何かがぶつかる違和感が走る。視線を横目で手に向けると、そこにはコウの左腕がヘイシャの手首に添えられていた。
(そんなものでドラゴンの膂力を押さえ込めると思うとは片腹痛い)
そう思い右手に更なる力を入れるが、その右腕がそれより先に進むことは無い。いや力を入れれば入れるほどに、コウの左手が柔らかい肉から何事にも揺るがない大樹へと変わったかのような硬い違和感を右手に伝えてくる。
奇妙に思うヘイシャが視線を自分の右手からコウに戻すと、コウの右手がヘイシャの腹へと吸い込まれるように伸びていた。
それならばその右手をあえてドラゴンの強靭な腹筋で受け、がら空きになったコウのわき腹に左の爪を付きたてようと画策し、コウの拳を腹に力を入れて受ける。
硬く岩のように固まった腹筋にコウの手が触れた瞬間、誰かがコウから引き離すかのようにヘイシャの体が後方へ吹き飛んだ。
ゴロゴロと地面を転がり何が起きたか分からず呆然とするヘイシャの眼に追撃してきたコウの姿が映る。
何か魔法を使ったのかと慌てて起き上がり、追撃してきたコウを斜め下から右手で救い上げるように爪で裂こうとするも、目測を誤ったのかコウの衣服をかすっただけで空振りしてしまう。
曝け出された巨大な隙。今からの防御は間に合わず、尻尾でなぎ払うにしても距離が近すぎた。
さっきのように腹に衝撃が来ると予想し、全身に力を入れて身構えるヘイシャだったが、コウはヘイシャの横をすり抜けるように歩を進める。
攻撃するのではないのかとヘイシャの力が緩んだ瞬間、ヘイシャの右足の内側――しかも鱗の無い部分にコウの右足が突き刺さる。
「!!!」
山から落ちてきた巨石が街道に突き刺ささったかのような、鈍く重い腹に響く音がその場所から発せられ、余りの痛みにヘイシャは痛いと漏らす事も出来ず、その場所に数秒止まってしまう。
コウはと静止したヘイシャのわき腹に鉤突きを食らわし、膝を腹に叩き込む。
ヘイシャは身体に走った痛みを振り払うかのようにコウへと向き直ると、その痛みを万倍にして返そうと左右の爪をコウに向かって我武者羅に振り回すが、コウはそれを軽々と涼しげな表情でかわす。
絶対強者たるドラゴンをあざ笑うかのようなコウのその様子に、思わずヘイシャは頭に血が上ってしまい、叩きつけるかのような勢いで振り下ろした右手が地面に突き刺さり、床石が砕けて飛んでいく。
さっとヘイシャの右手を避けたコウの頬に飛んだ石が薄っすらと朱を引くが、コウはヘイシャの体勢が崩れたのを見逃さず、つま先でヘイシャの腹につま先蹴りを突き立てる。
腹から背中へ突き抜ける痛みを感じ、突如湧き上がった吐き気が頭に上った血を強制的に下げさせる。そうなって漸くヘイシャは、この状況がおかしい事に気が付いた。
本来ならば振り回した大剣の衝撃ですらヘイシャのドラゴン特有の強靭な筋肉に阻まれ、痛みどころか衝撃すら感じないはずなのに、コウの攻撃は突き刺さる度に体の中をかき回されるかのような痛みが駆け抜けるのだ。
「だあ!!」
考えをまとめる為に一度コウとの間合いを放す必要があると感じたヘイシャは尻尾を大きく振り回す。コウはその尻尾から逃れるために大きく後ろへ跳躍し、ようやく二人の間の攻防に小休止が挟まる。
ヘイシャは自分の体の状況をすばやく眼で確認する。
褐色の肌のため素人目には目立たないが、ヘイシャにはコウから攻撃を受けた腹の部分には赤く、そしてコウの渾身の下段蹴りを受けた右足の内側は腫れ上がり青く変色していることが判った。
視線をコウに戻して警戒しつつ、胴体の痛みの度合いを手を這わせて確認していたヘイシャは、打撃を受けた場所の共通点にふと気が付いた。
(油断した……まさか、筋肉の継ぎ目と筋肉が付いていない場所を攻撃してくるなんて)
ヘイシャが気が付いたのは、まさにコウがドラゴン対策に打ち立てた作戦だった。
打撃が入っていたのは少量の鱗で覆われているだけのわき腹の特に筋肉が薄い場所。膝を当てたのは肋骨下の筋肉の無い横隔膜。そしてつま先は腹筋とわき腹の境目。そして何より強烈な下段蹴りを食らったのは鱗の無い膝の内側、しかも膝周りと腿の筋肉の継ぎ目がある部分だった。
武器を握り締めている雄相手ならば万全を期して魔力で全身を鱗鎧(スケイルメイル)化して戦うヘイシャだったが、コウが素手で戦うと分かり地上に比類なき自身の筋力にはヒトの力は無力だと高を括りそれをしなかったのが仇になった。
「はあぁぁぁ!!」
自分の馬鹿さ加減に幻滅しながら、遅まきながら身体の肌が覗く部分を鱗で覆っていき、その突然の変化にヘイシャが作戦に気が付いたことを理解した様子のコウは、面倒なことになったという表情で返す。
そのコウの様子を見てヘイシャは若干溜飲を下げることは出来たものの、ヘイシャは自分の状況が余り芳しくないことを理解する。
わき腹ですら動かす度に痛みが走り動きを阻害するというのに、右足の状況はそれに輪を掛けて悪く、まともに踏ん張ることすら出来ず、機動力は半減以下にしかならないだろう。
(しかし鱗で全身を覆ったのだ、これで相手も自分に攻撃しても決定打を与えられまい)
そうヘイシャが思考した隙を狙い、コウがヘイシャの元へと走り寄る。
作戦が失敗して破れかぶれの突撃かとヘイシャはコウの眼を見つめるが、その眼は自棄になったもの特有の諦めではなく、代わりに何か秘策を狙う罠師が浮かべるような狡猾な眼光。
コウの目に浮かんだその光を見て鱗の鎧ですら打ち負かす何かがあると、ヘイシャは慌てて飛び退こうとするが、咄嗟に力を入れた右足が言う事を利かずにガクッと膝が落ちる。
そこに見計らったかのようなコウの繰り出す右正拳突きが、ヘイシャの鱗で覆われた腹に決まる。
「ぐふぅ!」
ドラゴンの鱗という地上最高硬度の鎧に覆われ、ドラゴンの衝撃吸収性に富んだ筋肉に守られた腹にありえぬほど巨大な衝撃――それは先ほどまで食らった打撃による槍で突き刺されるような衝撃とは違い、体の内側が爆発したかのような今まで感じたことの無いモノが走り、ドラゴンの口からその少女の姿とは似ても似つかないひどいうめき声が漏れ、腹を抱えて崩れ落ちるように地面に両膝を着く。
――ザシッ
そして耳に入る足元の石に浮いた砂が蹴られる音に、ヘイシャは俯いていた顔を上げた。視線の先にはヘイシャの角で守られたコメカミに向かうコウの回し蹴り。
普段ならドラゴンの鱗よりも数段硬い角に蹴りを入れるなど馬鹿ではないかと一笑にする所だが、いまのヘイシャにはそのコウの足がバフォメットの繰り出す大鎌に見えた。
ヘイシャが感じる角からの感触はただ足で触れられただけのような軽い触覚だったが、頭中のヘイシャの脳には前後左右に揺られるほどの激しい衝撃が走り抜け、一瞬にしてオーガも昏倒するのではないかと思えるほどの酩酊感が頭の中を支配すると、ヘイシャは体の制御を失い罪人が神に許しを請う様に額を地面こすり付けて倒れこむ。
「あぁうぅうぅ……」
声にならないうめき声を上げてヘイシャは必死に立ち上がろうとするが、足は地面に薄く積もっていた砂を噛むだけで立ち上がる取っ掛かりすら得られず、上半身は首を巡らすのが精一杯で腕に力を入れることすら出来ない。
そんな状況の中ヘイシャは自身を油断無く見下ろすコウに視線を向けると、突如ヘイシャの下腹にある魔王の魔力に侵された子宮が疼き始め、『今まで散々待った自分を打ち負かす雄だ、遠慮せずに番になれ』と叫びたて始めた。
しかしヘイシャの心に刻まれた在りし日の雄竜の光景は、『今まで雄竜を待っていたじゃないか、あの雄はドラゴンじゃないぞ』と苛む。
完膚なきまでに叩きのめされたドラゴンという誇り。ヒトに負けたくないと必死に足掻かせる頭。生物として強い雄の遺伝子を残したいという体。憧れを詰め込こんだ記憶にすがってきた心。
『うるさい強いオスには代わりが無いだろ』『ドラゴンがヒトになぞ負けるものか』『こんなボロボロになってなに言ってるんだ』『まだ竜化してないだろう』『そのたかがヒトに竜化を強いられる状況だと分かっているのか』『竜化さえすれば』『竜化してさえ』『竜化……』『竜化……竜化』『竜化……竜化、竜化、竜化』『竜化……竜化、竜化、竜化、竜化、竜化、竜化、竜化、竜化、竜化、竜化、竜化!!!』
頭の中にがんがんと鳴り響く自分自身の疼きや軋みや痛みなどを変換した言葉が駆け巡り、その全てがない交ぜになり、ヘイシャが自身にかけていた鱗鎧化の魔力の制御がヘイシャの制御を離れてその鳴り響く言葉に操られ暴走する。
「ぐうぅうぅぅ……ああぁあぁあああああああ!!!」
暴走した魔力はさらにヘイシャの意識も失っていたはずの体の制御も飲み込み、やがてヘイシャの姿が愛らしい少女のものから、一匹の誇りなきただ破滅を撒き散らす古い竜へと姿を変えさせた。

11/08/08 17:53更新 / 中文字
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■作者メッセージ
問:主人公は無敵ですか?
答:はい主人公無双です。

ちなみに何故無双出来るのかの答えは次へ。

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