連載小説
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情愛の彼方(8)
 二十日前。
 境一を戻す手段の内容の説明は、あなたがもう少し動けるようになってからと言われた彼女は、すぐに胃に水を流し込み、魔界産の野菜をふんだんに使った料理を平らげて、シャワーを浴びて服を変え、身だしなみを整えること五日の辛抱に耐えた。
 もう体も動く。髪につやが戻り皮膚もかさついていない。充分だ。境一に会いたい!  一秒でも早く!
 しかし承諾は下りない。女は、今は体力を十分に蓄えなさいという。

「彼の命に別状はないから、再会は、いつでもできるわ。
・・・・・・。
・・・本当につらいのは、そこからよ・・・・・・。」
 
 内心暴れ出したくてたまらなかったが、彼女の言葉の外にある悲しげな威圧感と、言葉の指す不吉な意味に捉えられ、頭上に暗雲のかかる思いがして、それを振り切るためにも力は必要だと判断した。
境一の治療にどんな作業があるのか見当もつかないが、その途中に自分が倒れるようなことがあればどうなるかわからないと、早る鼓動に言い聞かせる理性的思考の側面には、境一に会うことを求める気持ちの荒ぶる反面、事態に直面することに若干の恐れがあったためである。
もし境一に何らかの後遺症が残ったら、いや、それよりも、もし境一が自分を憎しみを、恨みを抱くようになるとしたら――――――――
ふっ、と馬鹿馬鹿しさを隠さずに笑う。

ありえない、そんなこと。彼と私は結ばれたのだ。多少予想しえないアクシデントに見舞われたくらいでなんだというのだ。彼はすでに私のもの。これからさきずっと、私以外を見ることなく想うこともないのだ。それに、うん、彼を元通りにしたら、またうんと気持ち良くしてあげなくちゃ。それには体力、大事だものね・・・・・・。
なんで今回みたいなことが起きたのかなんてどうでもいいや、失敗したのならまたやり直せばいいんだもの。そして今度こそ二人混ぜ合わさって、ああ、そしてようやく、不幸のない世界へ旅立てるんだわ・・・。こんな永久の幸せが続くことのできない、不出来な、欠陥だらけの世界から、ようやく離れられる・・・・・・・・・。

そう考えたら、ほんの少し、気持ちに余裕が生まれて、もうすぐ見納めになるものたちを見ておくのも悪くないような気がして、でもやっぱり一番気持ちを占めるのは境一の事と、己の進む未来のことなのだった。
もしかしたら巣から飛び羽ばたこうとする鳥はこんな気分なんだろうか・・・・・・。
自ら羽ばたき風を捉えることを憶え、その流れに乗ってさえぎるものなき空を泳いでいくその果て、巣の中にいたころには見られないものをきっと眺めることができるのだ。
晴天に手を伸ばし、今はまだつかめない青を握る素振りをしてみる。
そう、私も、もうすぐそっちへ・・・・・・。





(りんちゃんは・・・・・・・・・?)





・・・・・・
   え・・・・・・?



     (りんちゃんはどうするの・・・?)




 り・・・・・・ん・・・?


  (すてちゃうの?)


 
何・・・・・。
捨てる・・・・・・?
だれ・・・を・・・


りん・・・ちゃ・・ん・・・?




  あ・・・・・・・・・?



 
 
 
 ふたをして、閉じ込めたはずのこころが、内側から、溢れようとしている。
 脈動に合わせて大きく、大きく、どしん、どしんと揺さ振りをかける。とてもたいせつな『    』が、それをたいせつだと言い張るものが、こちら側へ来ようとして。



 (わたしを!)


         (ここから!)


                    (だせ!!)



 「五月蠅いっ!!」


 躊躇なく壁を頭ついてへこんだのは壁の方とはまさしく魔物の強靭さよ。
 しかし思いきりのよさは彼女自身の額を切って、はねる鮮血は美亜乃をかえって平静に戻した。自分の意志に逆らうものは鳴りをひそめて、何も聞こえなくなった。
 勝った! ふふん、と髪を掻き上げる。

 私は私の行きたいところへ行く!! 邪魔するな!!

その傷が癒える必要性を踏まえてさらに数日間、境一のもとを訪れる日が延長されたことは明らかである。
しかしいよいよ焦れてきた。この広い屋敷の庭を遊歩するのもいいかげん飽きたし、なにより境一の元へ行きたい。背中を押す情動が、たまらず女に抗議させた。いつも自分の身の回りを世話してくれているあの女に、思わずつかみ掛かってしまったが、焦りもせずに女は答えた。
じゃ、明日、昼過ぎに。気持ちを整えておいて。

その日の夜はベッドの中、今にも走り出しそうな昂りが眠気を退けて、明かりの消えた部屋のどこというでもなく、落ち着きのない視線がさまよった。

――――いよいよか!
いよいよ彼に会えるのか! そして私の願いが叶う!
ふふっ、彼が目を覚ましたらなんて言おう。
おはよう、じゃ定番すぎるな? ハニー、やっとお目覚め? はははっ、流石に私の柄じゃない! ああ、なんだろ、何か気のきいたセリフが浮かばないものか。
いやいや、何も言葉に頼ることもない。魔物らしく、体で語ればいいんだ。快楽の肉体言語をもてあそぼう!
うん、何も問題はない。問題なく、明日境一を治したら――――――
ん、と思いとどまる。はて、境一を『治す』とは、境一の何を『治す』のだっけ。
・・・・・・・・・・・・。
思考が一時止まり、そして切り替わった。


境一は、具体的に、『どうなった』のだっけ・・・?
思い出せない。私の中に入って、気持ちよさそうに声を上げて。それから?
それからどうなった?
そもそも私はどうしてここにいるのだっけ?
あれ? なんだ? 何かおかしい、事態の符合がかみ合わない。
私、そう私は境一に、一体、何をした? 何を―――――『何か』。
『何か』した? 
私が? 境一に?
『私』が!?  『境一』に!!?

喜びの興奮は一転冷や汗の放流に変貌する。
「忘却」。それは記憶の編成によって精神の健全を維持する生理的システムであり、この場合もそれが適用された結果なのだが、それでも境一のことを想起の可能範囲にとどめたのは男に対する女の情愛ゆえか、はたまた魔物の本能から来るものか、それともあるいは。

待て――――待て。ゆっくり、思い出すんだ。
私は、魔物になった。あの魔性の神々しさあふれるレイン様に、レッサーサキュバスにしてもらった。それからすぐに境一のところへ行って、境一が逃げて――――なぜ逃げた?
公園で恵一を捕まえてから、家に戻って、鍵をかけたところは覚えてる。それから気持ちいいことを始めて、なんだろう、異様な悦びと達成感に体と心が溶けて―――――――
そうだから、だから私たちが結ばれたのは間違いない。うんそうだ、あの子宮の熱さは決して夢なんかじゃない。現にいま私はちゃんとしたサキュバスになっている。
それから――――――何があった?
 何かが――――――あった、・・・・・・はず、だ・・・?
 『何か』



“――――――――――なに、『これ』。”


   どくん。

血液が逆流するような錯覚、脈動が、また、逆らい始める。


私がなぜかここに居て、どうしてか境一がそばに居なくて、でもなにかがあったことはおぼえてるんだ。 
なんらかの、よそうしなかった、アクシデント。
そういえば、わたしはほんの何日か前に、けいいちがわたしに憎しみや恨みを抱く可能性を懸念した、な・・・・・・?
あれはただの杞憂だとおもったけど・・・・・・もしかして。
もしかして――――――――――――もしかすると、
『何か』は、わたしのせいで、おきた?
『何か』――――――――――――――――『これ』。






(ごめんね、けいちゃん・・・・・・)




また、少女の声。

里嶺 美亜乃は、まだ、自分の異常性に自覚を抱いたわけではなく、その精神は理知と情動の均等性を失ったまま、失っていることにも気づかないままに、その斜塔を構えているのである。忘却機構はここ幾日かのうちにも、自意識の牙城を崩すまいと、亀裂の生じた壁面に塗料を塗ってヒビそのものを見えなくした。それは修繕ではない。ただ、肉体の回復に反発し続けた自我に抑止をかけ、生命維持を優先したのである。そして彼女が食料を摂取し、栄養素が供給されたことで、その機能により増進がかかり、数日前に己を苛んだ愛しい男の変わり果てた姿も、もう、無かったことのように再編成されている。
彼女は現実を把握していない。むしろいまだ幻想の中にいる。
壁を覆う白い塗料の上に描かれた幽玄たる絵は、いよいよ剥がされる時が迫っている。壁の中には、何が眠っているのか。それを、思い出した時、彼女は。


明日、昼過ぎに。気持ちを整えておいて。


女が言った、あの言葉。気持ちを整えるとは、そこに挑む前提を示していたのか。
ならばもうひとつ、

  ・・・本当につらいのは、そこからよ・・・・・・





あれは、―――――あれは、一体、何のことを言っていたのか。
明日、分かる。
夜の風がうるさくて、震えが止まらないのは窓のガラスだけじゃない。目を、開けることすら、怖い。朝よ来ないでと、唇をかんで頭を抱えた美亜乃は、この晩、眠れなかった。






12/10/13 19:30更新 / 月乃輪 鷹兵衛(つきのわ こうべえ)
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