連載小説
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中立都市クロスボール
 トリフォリウム島。
 大陸の北西端から西の海上に浮かぶ島。三つの半島が三つ葉のクローバー状にくっつき、それぞれの半島に王国が存在する。

 北に、フーァルスタイレ王国。国土の多くが山岳部と丘陵地帯で占められ、鉱業が主要産業になる。

 南東には、モールギャータ王国。フーァルスタイレとは対照的にほとんど平野部からなり、三国中最も人口が多い。大きな港街を有し、大陸との貿易で富む国である。

 そして南西には、シェーペール王国。森と草原が広がる緑豊かな国で、牧畜と林業で成り立つ、牧歌的な国だ。

 その三国は、島国というお国柄もあり漁業も盛んで、海の幸と水の青にも恵まれる。
 そんな島国に生まれたのだ、ミリシュフィーンという少年は。

 その彼らは現在、島の中心地、三つ葉の交わる地点にいた。
 〈中立都市クロスボール〉。
 三国に挟まれ、その全てと接しながらどこにも属さず、緩衝地帯になっている。陸上交通の要衝――というか、唯一の陸路ということもあり、流通の要を担う商業の中心地だ。その上、関税が存在せず、国ごとの風習や価値観に縛られないとあれば、物流は自然、促進される。
 物も、人も、島の全てが集まる、活気あふれる都市なのだ。

「わぁ……きれい……」
 高級宿〈異国の薫り亭〉から出て、第一声がそれだった。
 東の空は、昇り始めた太陽に照らされ、熟れたオレンジのように色づき。
 西の空は、紫を含んだ濃い青が、黒を手放しつつある。
 そのグラデーションがたいそう綺麗だったので、朝焼けの下、少年は立ち止まって動けない。
 しばらくして、目的があったのを思いだし、後ろを振り向く。
「ごめんなさい、つい」
 その謝罪に、幼なじみのルーナサウラは優しげに笑み、
「いいや。朝は毎日やって来るけれど、この空は今日限りの作品だからね」
 昨晩の媚態はどこへやら、淫魔のアストライアは怜悧な眼差しを和らげて言った。
 ミリシュフィーンは、たったそれだけで幸せな気分になる。結婚も、夫婦も、愛のなんたるかもまだ解らなかったが、この二人のことは大好きだった。出会えて良かったと、毎日〈神〉に感謝している。
「では行こうか。案内しよう、まずは朝市だ」



 朝のまだ早い時間だというのに、そこは人でごった返していた。
 大通りの両側にはズラリと店が立ち並び、その上、道の中心線上に露店が軒を連ねる。いったいどこまで続いているのか。
 売り手と買い手、双方の怒号に似たやり取りが飛び交い、本来なら人に慣れていない少年であるから、尻込みしていたはずだった。
 だが、そんな独特の空気にも怯まず、
「わぁ」
 青果市に並ぶ、赤、黄、紫、橙、緑、白……色とりどりの果物や野菜が、ミリシュフィーンの翠眼を引き付けて放さない。
 ……つい最近、インキュバスとなって以来。それまで盲目だったのが、突然見えるようになったのだ。少年の目は色彩に飢え、彼の心は刺激に敏感だった。
 それに、果物から漂う甘い香りや、野菜の青い匂いが嗅覚に訴える。視覚以外の、全ての感覚が人より鋭敏なのだから尚更のこと。
 キョロキョロと忙しなく辺りを見ながら、その足は連れの二人よりも急いてしまう。人の波にぶつかりそうになりながら、トコトコ歩き回り、人垣の高さにピョンピョン跳びはね、立ち止まっては商品に穴が空くほど凝視し、ヒクヒクと兎のように鼻を動かす。
 後方のアストライアは、その小さな旦那様を嬉しげに見守り。少年の護持騎士として仕えてきたルーナサウラは、大切な主がやっと狭い檻から解放されたのだと、感涙を抑えるのに必死である。

 そしてそんな三人は、人目を惹いた。

 みな、容姿が端麗なのだ。
 金髪翠眼、紅顔の美少年を地で行くミリシュフィーン。丸みを帯びた幼さと、どこか憂いの感じられる雰囲気が、庇護欲をそそる。
 赤髪碧眼、凜々しい相貌と覇気あふれる眼光のルーナサウラ。十五でありながら、男に負けない身長とスラリとした肢体は、しなやかな筋肉の上から女の媚肉を纏い、男物のシャツとズボンのとある一部を淫らに押し上げている。
 白髪紅眼、涼やかな目許と蠱惑的な唇のアストライア。妙齢でありながら、長い年月をかけて洗練し尽くしたような所作と、匂い立つ色香。目深に被ったつば広の帽子と全身をすっぽり覆う外套に身を包んでなお、衣を通して、人の――ことに男の視線を捉えて放さない。

 しかし何故魔物である彼女らがこんな人混みにいて平気なのかと言えば、それは〈人化の術〉と呼ばれる魔術の恩恵だった。魔物の特徴を隠し、人そっくりの外見に変える。ものによっては、魔力さえ隠し完璧に人間への擬態を可能とする。
 まずはこれを覚えなさいと、アストライアから徹底的に教育を受けた二人は、〈人化の術〉だけは使えるようになっていた。なので、角も、翼も、尻尾も引っ込んでいるし、もとより人にしか見えないミリシュフィーンも、インキュバスとしての魔力や体に染みついた二体分の“匂い”なども隠せている、という訳だ。

 そんな三人は、大手を振って市を歩く。
 そしてそろそろ青果市を抜け、鮮魚市のエリアに入る、そんな時だった。

 ドン。

 よそ見をしていたミリシュフィーンは、正面からぶつかられ、数歩たたらを踏む。インキュバスになっていなければ、石畳に尻餅をついていたろう。
「気を付けろ」
 すれ違いざま男性に声をかけられ、
「も、申し訳ありません」
 とっさに謝った。
 と、次の瞬間。
「おっと」
「うおっ?」
 今度は男がぶつかられた……アストライアに。
「てめぇっ、気を――」
「すまないね」
 鼓膜を侵す甘やかな声と、帽子の奥で煌めく紅玉の瞳。たった一拍の間でしかなかったが、その刹那で、男の腰は砕けそうになった。思考が停止する。
 リリムとしての力を隠しているのに、これだ。
 木偶のように突っ立ったままの男を置き去りに、三人は進む。
 少しして。
「ほらミー君、大事な路銀が入った巾着だ」
 たおやかな手に皮の小袋を載せ、愛称で呼びかけるリリムと。
「あれ? ……あ、本当だ」
 慌てて懐を探ったミリシュフィーンは、事前に渡されていたはずだった巾着の在りかに驚き、目を白黒させる。
「次からは気を付けるんだよ?」
「はい、アシュリー」
 少年もまた愛称で呼び返し、素直に頷く。
「スリか。……何かしたな?」
 そんな二人を見ながら、ルーナサウラが忌々しげに呟く。
 彼女もスリには気付いていたのだ。だが、淫魔が含みを持った紅眼で諫めるものだから、大切なご主人様を害する不届き者だというのに、グッと堪えたのだ。
 それにあの瞬間、微かな魔力も感じた。
 その問いには答えず、ふふ、と笑ったアストライアは、白魚のような指を掲げ、パチンと弾いてみせる。
 澄んだ音が鳴り、
「きゃーーーッ!!?」
「な、なんだっ、こりゃ!?」
 絹を裂く女性の悲鳴と、素っ頓狂な男の叫声とが、後方から上がったのだ。
 ガヤガヤというどよめきの中、
「あんた、なんでイキナリ素っ裸にっ?」
「え、いつ脱いだ!」
「なんで財布がこんなに散らばってるんだっ!?」
「こいつ、スリじゃねぇのか!!」
「おいっ、誰か役人呼べ役人!!」
「変態なうえスリかよー」
 蝉噪けたたましく、朝一番の珍事件に人々は盛り上がる。
「君が動くと、あの男の腕を握り潰しかねないからね」
 愉快げに持ち上げられた口角は、薔薇の唇をギロチンの剣呑さに変えていて。
 そんなリリムの言葉に、愛する少年が絡むと見境がなくなるのは自覚していたので、彼の騎士はただ、
「ふん」
 と鼻を鳴らしそっぽを向いた。
「ねえ、何の話し? それに、後ろがずいぶん賑やかだけど、見世物かなにかかな?」
「ふっ、芸と言えば芸だが、とてもつまらない、見る価値などない粗末なモノさ」
「そうなの? ……あ」
 少年の腹が、クゥ、と小さく鳴った。炭で焼いた魚の匂いに、腹の虫が反応したのだ。
「リーフィ、お腹空いたの? わたしもだよ」
「では朝食としよう。良い店を知ってるからね」



 街の中央に位置する広場――通称〈噴水広場〉。
 言葉通り、広場の中央には大きな噴水が設えてあり、憩うためのベンチと、景観を整える樹木や花壇が配されている。
 城の庭園をも思わせる風景の中、子供連れの家族や、恋人達、観光や商いで訪れた旅人などが、銘々くつろいでいる。
 そんな広場に臨んだ一角に、その店はあった。
 レストラン〈鈴無し〉。
 品の良い木製扉を開けば、文字通りドアベルは鳴らず、朝だというのに満席に近い店内は、食欲をそそる匂いに満ちている。
 ウェイトレスに案内されて、一同はカウンター近くのテーブルに着いた。
「ここは少しばかりお高めの店なんだけれどね、値段以上の味だよ」

 アストライアの言葉は本当だった。

 白身魚のムニエルは、トリフォリウム島近海で捕れた魚を使用しており、柔らかな食感とアッサリした味わいでありながら、たっぷりとした肉汁が口内に広がる。外側を包む衣もカリッと小気味よい歯触りで、バターと胡椒の香りがまた食欲を煽る。

「これは白ワインに合うんだよ」
 そんなリリムの言葉など、ドラゴンは聞いてない。
 ムニエルと、それからクロケットという大陸料理を頬張るのに夢中だ。これでも元は男爵令嬢。下級といえども貴族出身、食事のマナーは心得ており、なんとか体裁は保っている。

 クロケットとは、卵を潰したような楕円形の揚げ物だ。すり潰したジャガイモと挽肉、刻んだタマネギや香草、ミルクやワインやソースなどを混ぜ、パン粉でくるんで揚げてある。
 サクサクの衣とホロホロと柔らかな具の歯ごたえが楽しい。数種類の肉とタマネギが濃厚な旨味を生み、フーァルスタイレ産の山羊乳がその旨味を底上げする。更になんと言ってもシェフ特製の秘伝ソースが味に広がりを与え、所謂『コク』と呼ばれる味の深みを作り出す。

 ミリシュフィーンはスープを飲んでいた。
 ガスパチョという、やはり大陸料理で、野菜の冷製スープだ。水、ワインビネガー、オリーブオイルの混合スープに、トマトを始め数種類の刻んだ野菜とニンニク、千切ったパンが入る。それに、塩胡椒で軽く味付けしただけの簡素なものだ。が、酢に野菜の甘味が加わることで絶妙な甘酸っぱさが演出され、するするといくらでも飲めてしまう。食の細い少年も、スプーンを口に運ぶ回数が増える。

 それから、合間合間に手に取る白パンが、もちもちした食感と飲み物が要らないほどしっとりしたもので、これもまた三人の胃袋へと収められていく。

「この店、〈鈴無し〉って言うんだが、どうしてだと思う?」
 食後、柑橘類を搾ったジュースを口にしながら、アストライアが問いかけた。
「そういえば、扉を開けても音が鳴らなかったね。お店って、どこも鈴が鳴ったりするものだと思ってたけど」
 ミリシュフィーンはグラスを両手で包み込み、じっくり味わいながら柑橘ジュースを楽しむ。爽やかな香りが鼻に抜けると同時に、口内に残る味や匂いを消し去っていく。不思議な風味だった。
「む、そうだな……」
 ルーナサウラは扉へ目を向けた。碧眼の先では、また新たな来店者が扉を開けたばかりで。
「んー、判らんな。これだけ頻繁に開け閉めして、壊れでもしたのか?」
「ふふ、ハズレ。良い所に気付いたけどね。正解は、『引っ切りなしにお客が来るもので、その度に鳴ってうるさいから』さ」
「なぁに、それ」
 少年が笑い、
「繁盛しすぎるのも不都合があるのだな」
 赤髪の少女は、妙に感心したように頷いた。
「では、そろそろ出ようか。外ではきっと行列ができてるだろうし」
 その言葉に促され、三人は店を出た。



 一同、この都市に着いたのは昨日の夕方だった。なので、都市観光というものを未だできていない。それではこれから見て回ろうということになり、ぶらぶらと気ままに足を運ぶことになった。
 ゆっくり歩きながら街並みを眺め、店を冷やかし、腹が減ったら買い食いする。
 特にルーナサウラはちょこちょこ何かしら摘まんでいる。彼女はドラゴンだ。本気になれば、牧場の家畜全てを平らげ、更におかわりまで余裕なのである。ただ、人並みの食事でも生きていけるので、生来の生真面目さを発揮し、普段は節制していただけのことで――閨事以外は。
 だがどうやら、〈鈴無し〉での食事が食欲に火を付け、タガが外れてしまったようである。
「さっきのクレープという大陸菓子も美味かったが、このタルトも美味しい! 世にはなんと美味いものがあふれているのか」
 クッキーに似たサクサクの生地に、蜂蜜漬けの果物とクリームが載っている。ルーナサウラはベリーのタルトを、ミリシュフィーンは林檎で、アストライアは梨だ。
 赤毛の幼なじみがあんまりにも嬉しそうだったので、見上げた少年の顔も釣られて緩む。が、食べ歩きに慣れないせいか、その口許にはクリームがついていて……、

 ぺろり♪

 両側から身を屈めた女性陣から、甘い痕跡を舐め取られてしまった。
「んっ?」
 そのまま舌は淫靡な動きへ移行し、ミリシュフィーンは焦って身を引いた。
「こ、こんな往来で、ダメだよ」
 秀麗な顔が迫るのを押し止めながら、慌てて諫める。
「じゃ、そこの路地裏にでも行こうか」
「よし」
「そんなの絶対にいやですっ。ダメですからね!」
 ジリジリ迫る魔物二体に必死に訴えてみると、
「ふふ、冗談だよ」
 リリムは笑んで言った。だが、紅玉じみた怜悧な瞳は、葡萄酒の煌めきを滲ませており、危なかったことを物語っている。
「む、リーフィがそうまで言うなら」
 瞳孔が開いた赤い魔獣も、からくも自制してくれたようで。少年は、ホッと胸を撫で下ろす。

 すると、その一行の側を小柄な人物が横切った。
 十二のミリシュフィーンより更に幼く見え、背もかなり低い。別に治安が悪い区域ではないが、あれほど小さいと一人歩きが不安になる。
「あれはドワーフだよ」
 リリムが言った。
「ドワーフ? 魔物のか?」
 ドラゴンは驚き、改めて小柄な姿を見た。
 幼女にしか見えないが、なるほど、魔力を感じる。それに、子供のそれとは違い目的地に向かう目線と、鍛えた者の足運びが見て取れる。
「ドワーフ……」
 おとぎ話に登場する、山に住む亜人だ。少年の乏しい知識の中にも、その名はあった。
「おそらくだが、フーァルスタイレの鉱山から下りてきたんだろうね。彼女らは人と積極的に交わるから。もしかすると、この街で暮らしているのかもしれない」
「魔物が……人間の街で、か……」
「驚くことかい? 我々がいたシェーペールだって、エルフや獣人なんかが人に化けて、町で暮らしてるよ?」
 魔界の皇女の言葉に、女騎士はううむと唸り、ミリシュフィーンは、
「そうなんだ」
 と、何か凄い秘密を知った気がして、感動を覚えたのだった。
 ……実際、凄い情報ではあるのだが。
「明日はもっと面白い所に連れて行ってあげるよ。二人とも、楽しみにしておいで」
 リリムはそう告げ、ニンマリと笑ったのだった。



   * * * * * * * * *



 時刻はもう夕方。
 あれからも街を散策し、色んなものを見て回り、そして、ちらほらと見かける魔物に驚いたものだ。しかも全員、決まって女性だった。それも、見目麗しい。
『魔物は女性しか居ない』
 その事実に、元人間だった少年少女は驚いた。
 てっきり、野獣のような人喰いや、天を衝く巨体、あるいは奇っ怪で醜悪な化け物揃いで、そのどれもがオスだと思っていたのだから。

 そうして今は夕食を摂るために、もう一度〈鈴無し〉のある〈噴水広場〉へと向かう最中だ。
 そして、もう広場という所で、それは聞こえてきた。

 楽の音が、喧噪の向こう側から耳に届く。
 見ると、広場に人が集まり始めており、耳を澄ませば、噴水の近くからその音楽は聞こえてくるようだ。
 興味がかき立てられた三人は、人を縫って進み――覗けば、そこには二人の女性がいた。

 どちらも、年の頃は二十歳を越えてはいないだろう。ルーナサウラと同じくらいか、それとも少し上か。
 それだけならどうということもないのだが、組み合わせが珍しかった。
 一人は踊り子。褐色の肌は砂漠の民か。大陸と海で隔てたここトリフォリウム島では珍しい。扇情的な衣装に身を包み、健康的な肌を惜しげもなく晒し、音楽に合わせて舞う。反面、顔の下半分はヴェールで覆い隠され、唯一その表情を窺い知れる砂色の目は、何かに挑むような鋭さを放っている。
 もう一人は楽士だ。噴水の縁に腰かけ、リュートを奏でている。そして砂漠の民同様、珍しいことにジパング人だった。烏の濡れ羽色を思わせる黒髪と、うばたまの瞳。東の民にしては珍しいほどの白い肌。
 二人とも、たいそう美しかった。

 褐色の肢体が、音に合わせて舞う。
 緩やかにステップを踏み、蛇のように身をくねらせる。艶めかしい腰の動きと、プルンと揺れる大きな胸が男の視線を誘う。
 しなやかな両腕を左右に伸ばせば、今まさに飛び立つ優雅な鳥を思わせる。

 しゃらん、しゃらん。

 手首と足首にある環状の装身具が、それぞれの場で二つずつ。八つのリングが、触れ合い、打ち鳴らされ。どこか古々しい音を立てる。
 くるり、くるりとターンを描き、観客達に流し目を送れば、女は気圧され、男は生唾を呑み込む。

「綺麗に軸を作るものだ。ターンの際、全くブレない。肩と股関節を柔らかく使えているし、重心もしっかり落ちている。それに、指先まで張りを作れているな。見事なものだ」
「そうだねぇ。見てご覧よ、あの腰のグラインドを。きっとベッドじゃ、またがった男からたんまり搾り取るに違いないだろうさ」
「……お前、そういう見方しかできんのか?」
「君こそ、武術から離れてもっと楽しんで見なよ」

 そんな会話が頭上で交わされる最中。ミリシュフィーンの全神経は、楽士の奏でる音色と、それを生み出す巧みな指使いとに注がれていた。
 激しい夕立のような音色だと、少年は思った。
 乾いた土に降りしきる、熱い雫の群れ。
 白く長い指が、リュートの上を縦横無尽に動く。その様は、足の長い蜘蛛が這い回るのに似て、ただ純粋に優雅な手さばきという訳ではなかったかもしれない。ある種のグロテスクさと、奇妙な色気と、そうでありながらも確かな美しさがそこにはあった。
 弦をかき鳴らしたかと思えば、丁寧に爪弾く。そして奇妙なことに、弦楽器であるはずのリュートに、鼓を打つような音が混ざっている。梨のようにくびれた胴と、そこから伸びる棹とを、掌や指で叩いているのだ。洗練された旋律に、原初的な生(せい)の律動が加わる。聞き入ると、狂おしいまでに指で心をかき鳴らされ、掌で胸の内を打ち鳴らされる気分になって。

 ――音楽とは、こんなにも心を揺さぶるものなのか。

 ミリシュフィーンは、思うとなしに思った。
 胸が、熱くなる。熱いのに、もの悲しい。
 その音楽は、黄昏時がよく似合った。茜の空も、活気の最後を飾る喧噪も、終わってしまいそうな何かを、必死に呼び止めるような音色も。
 名付けがたい感情が胸を占め、知らず、翠玉の瞳からはらはらと涙が零れるのだった――。



 演奏が止み、舞いは終わった。
 いつの間にか増えた観客は人垣を作り、割れんばかりの拍手が巻き起こる。多くは男だったが、女性や子供の姿も少なくなかった。
 リュートを収めるケースに、次々と銅貨が投げ入れられる。奮発して銀貨にする者すらいたが、恋人らしき女性に小突かれている。
「リーフィ」
 ルーナサウラが身を屈め、濡れた頬をハンカチでそっと拭う。
「あ……ありがとう、サーラ」
 その時初めて泣いていたことに気付いた少年は、幼なじみの少女に礼を言った。
 そんな男の子を見て、これだけでも旅に連れ出した甲斐があったというものだと、アストライアは満足げな笑みを浮かべる。
「みんな、何をしているの?」
 お捻りを投じる観客達を見ながら、少年は尋ねた。
「ん? あれはね、踊りと演奏に対し、金銭の形で感動やら今後への期待を伝えているのさ」
 アストライアが答える。
「リーフィも、してみたら?」
 淫魔の回答でうずうずし始めた少年に、赤髪の少女が優しく促す。
「えと……うん、そうしてくる」
 背を押す言葉に勇気を得て、ミリシュフィーンは前に出た。そして、気持ちをコインに込めて、ケースの中にそっと置く。

「ありがとうございます」

 それは、楽士の声だった。
 鈴の音を思わせる声に、翠眼が上がる。
 いつの間にか、黒い瞳に見つめられていたようだ。隣国フーァルスタイレ王国で採れるという黒水晶はこんな色だろうかと、彼は思う。
「こちらこそ、ありがとうございます。あなた方に、神様のお恵みがありますように」
 胸元で印を組み、短く祈った少年は、うっすらはにかんでその場を後にした。



 静流は、人混みに消えていく小さな背を、じっと見つめていた。
 華奢な体は折れてしまいそうで。金の髪は、柔らかな陽光を含ませた絹糸のよう。その下に揺らめく翠眼は、未だこの世の汚れを映さぬ無垢を思わせた。
 似ていないのに、亡き弟が思い起こされる。
「あの子、すげぇ可愛かったな。将来えらい別嬪さんになるぞ」
 ハスキーボイスは、ナスィームのもの。
 剥きだした牙のようだった危うい艶姿はどこへやら。砕けて愛嬌のある振る舞いに、静流の口から溜息が零れる。
「衣装を脱ぐまでがお仕事ですわ。さきほど作り上げたイメージが崩れます。芸が終わったとは言え、お客様はまだいらっしゃるのですから」
「かてーこと言うなよ、シズル〜。さてと。お金よお金、お金ちゃん、今日の稼ぎはどんだけだい? 美味い料理と熱い風呂、綺麗なベッドもお恵みを……、っ? ちょっ、これ、王国金貨じゃん!?」
「え?」
 上がった叫びに慌てて目をやれば、相棒の手に収まっているのは、シェーペール王国の紋章が刻印された、大型金貨。貴族でも、爵位の低い者なら持ち歩くような真似はしない。庶民なら、一生お目にかかれない代物だ。
「大貴族のご令嬢が、お忍びで来てたんかねぇ」
 静流は、再び金の髪が消えた辺りを見た。当然、その子の姿は、どこかへ消えた後だった。



「ごめんなさい」
 自分がしでかしたことに、ミリシュフィーンはしゅんと項垂れる。
 銅貨百枚で銀貨一枚。銀貨十枚で金貨一枚。そして、金貨十枚で王国金貨一枚に換算できる。その王国金貨は、庶民一人が質素に暮らせば、一年半から二年は暮らせるという。
 その説明を聞いて、世間知らずの少年でもさすがに考えなしの行動だったと、反省しているのだ。
「い、いやあの、リーフィ? わたしは別に怒ってるんじゃないのよ? ただ、あの舞踊と音楽が素晴らしかったとは言え、王国金貨は奮発しすぎかなー、なんて……」
 少年にはとことん甘いルーナサウラは、ただ軽く注意するだけのつもりがこうまで落ち込ませてしまって、あたふたしている。
「いいや、一度世間に出たならば、その風習を学び、己がものとせねばならない。今回の失敗は良い勉強になったけれど、それでなおざりにしてしまっては、この子のためにならないよ。……罰を、与えないと」
「罰だと!? この子は世間に疎いんだ、それに、前もって教えておかなかった我々にも責任はある。それを貴様!」
「まあ、待ちたまえ。君の言い分も解るがね。そもそもこの旅は、ミー君の見聞を広める一助になればと思い、企画したんだ。だからね、こういう経験は大事にしないといけないよ」
「しかしだな!」
「身を通して得たことは、人生の宝になる。ドラゴンである君が、その“懐中の宝”を大切に思うなら、これは疎かにしてはいけない」
「う、ううむ……」
「別に大したことじゃない。体で覚えることが肝要さ。――ミー君の、その柔肌にたっぷりと覚え込ませることが、ね」
「……解った。リーフィのためだ、わたしも“一肌脱ごう”」
「え、え、え、……え?」
 二人の――というか、主にルーナサウラの剣幕にだが――オロオロしながら口をはさむ機会を伺っていた少年であったが、何かが……決まってしまった。
 どうやら今晩も、眠りにつくのは遅くなりそうだった――。
16/04/30 22:32更新 / 赤いツバメと、緑の淑女。
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■作者メッセージ
 一話につき、どれくらいの文量が読みやすいのか、イマイチ見当がつきません。多かったり少なかったりしたら、済みません。

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