連載小説
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 昼食は三十分で終了した。二つの弁当箱は完全に空になり、椿と純は腹と心を一杯に満たした。
 
「おいしかったですね」
「ああ」

 昼食後、二人はすぐにプールには戻らなかった。弁当箱を片づけた二人は隣合って座り、小休止を取った。食べた直後に激しく動くのは危険である。
 肩を寄せ合い、体の力を抜いてリラックスする。二人だけの世界を作りながら、椿が純に話しかける。
 
「なんだか贅沢な時間の使い方してますね、私達」
「そうだな。でもたまには、こういうのも悪くないな」

 純がそれに答え、椿が小さく「はい」と頷く。その中で楽しさと興奮で盛り上がった精神が落ち着きを取り戻し、脳味噌が冷えて五感が研ぎ澄まされていく。
 そうして周りでプールを楽しむ人たちの姿を見つめ、ひっきりなしに聞こえる水音と歓声に耳を澄ましながら、純と椿は暫し穏やかな時間を過ごした。
 
「……そろそろ行くか」
 
 しかし、いつまでもこうしているのは、正直言って勿体ない。ここには遊びに来たのである。
 
「はい! 次の所に行きましょう!」
 
 椿もそれに賛同する。二人同時に立ち上がり、まだ遊んでいない場所へ向かうことにする。
 
「次はどこに行こうか?」
「それでしたら、あそこなんてどうでしょう」

 尋ねる純に、椿がある一角を指し示す。そこには円形の小さなプールがあった。
 水深の浅い子供用のプールである。中心からは噴水が飛び出し、それの周りで多くの子供たちがはしゃぎ回っていた。また子供だけでなく大人のグループもそこを利用しており、縁に座って足を水中に浸し、落ち着いた様子で歓談に花を咲かせたりしていた。
 どうやら憩いの場、もしくは休憩地点としても機能しているようである。椿はそこに行きたがっていた。
 
「ねえねえ、行ってみましょうよご主人様」

 期待に満ちた顔で椿が催促する。純も即座に首肯し、二人並んでそこへ向かう。
 やがて目的地に到達する。純の見立て通り、そこはかなり浅いプールだった。入ってみると、浸かれるのは膝までだった。
 
「やっぱり浅いな」
「でも私的にはこれがちょうどいいんです」
「どうして?」
「それはですね……」

 周りの迷惑にならないよう隅っこに移動した後、訝しむ純に椿が答える。
 
「こんな風に、いい感じに水の中に入れるからです」

 答えながら、椿がその場に座り込む。体の半身が水中に沈み、残り半分が外気に露出する。
 未だ立ち続ける純に、椿が重ねて声をかける。
 
「流れるプールもいいですけど、こっちの方がもっとゆっくり出来ると思いまして」
「……ああ」

 事ここに至って、純が椿の言わんとすることを理解する。水中に身を沈め流れに身を任せるという行為は、意外と体力を消耗するものだ。しかし半身のみを水に浸すだけなら、そんなに疲れることはない。
 彼女は純のことを考えて、わざわざここを選んだのだ。その優しさに、純は胸の中が熱くなるのを感じた。
 
「それにここでなら、もっと近くでご主人様を感じられますから……」

 そしてその直後、頬を紅くしながら椿が声を漏らす。どちらが本音なのだろうか。おそらく両方だろう。
 どちらでも良かった。純はただ、椿の優しさと可愛らしさに喜ぶばかりだった。
 
「そういうことなら、俺もつき合わないとな」

 言いながら、純が椿の隣に腰を降ろす。主人が自分に合わせてくれたことに忠犬は感激し、瞳をキラキラさせながら彼の腕に抱きついた。
 
「ありがとうございます! 私感激です!」
「ははっ、そんながっつくなって」

 いきなり抱きついて来た椿に驚きつつ、しかし純は嫌な顔一つしなかった。むしろ喜色満面で跳びかかる忠犬に愛らしさを感じ、自然とその頭を撫で始めていた。
 
「でもありがとな。色々考えててくれて」
「わふんっ。これでも私、あなたの奥様ですから」

 頭を撫でられながら、椿が鼻高々に言い返す。褒められたことがとても嬉しいようだ。
 嬉しいのは純も同じだった。妻の幸せそうな顔を見られて、彼は自分の心が激しく高揚するのを実感した。頭を撫でる手にも自然と力がこもる。
 
「本当にお前は可愛いなあ。お前と結婚出来て、俺は幸せ者だよ」
「それを言うなら私もです。ご主人様を旦那様に迎えられて、とっても幸せです」

 再び脇目も振らずに自分達の世界を構築し始める。彼らの行動は周囲を顧みないバカップルのそれである。
 しかしそれを咎める者はここにはいない。魔物娘の存在と常識が一般的なものとなった現在では、これくらいの愛情表現はもはや当たり前のものと化していた。
 
「ねえねえ、お兄さんたち!」

 それでも、それを気にする者はいた。唐突に声をかけられ、二人が意識を外に向けると、そこには二人の魔物娘の子供が立っていた。一方はラミアの子供で、もう一方はサキュバスの子供。どちらも背は低く、座っていた純達と同じ目線の高さでしかなかった。
 
「お兄さんたちって、つきあってるの?」

 前置きも無しにサキュバスの子供が問いかける。横にいたラミアの子供も、興味津々といった体で純達を見つめてくる。どちらもまだ幼く、本当の「恋愛」を知らないがために、自分達の前で愛を振りまいていた純達に興味が沸いたのだろう。子供達の目は、そんな可愛らしい知的好奇心でキラキラと輝いていた。故に純達も、何故彼女達が近づいて来たのかをすぐに理解した。
 やがて待ちきれないとばかりにサキュバスが催促する。
 
「ねえねえ、どうなのどうなの?」
「それは……」
 
 そんな純粋な問いに対し、純と椿はすぐに答えなかった。二人は代わりに顔を見合わせ、その後小さく頷き合った。
 
「ああ、つきあってるよ」

 視線を子供たちに戻し、純が答える。二人は事実を明かすことになんの躊躇いも無かった。実際、椿も彼の隣で幸せそうに微笑んでいた。
 子供たちもまた、期待と興奮に顔を輝かせる。言葉には出さなかったが、純と椿の関係を羨ましく思っていたのは明らかだった。
 
「つきあってるだけじゃなくて、私達結婚もしてるんです」

 さらに椿が火に油を注ぐ。見知らぬ子供たちの顔がさらに輝きを増す。
 ああ、この子達も魔物娘なんだ。純はそう思わずにはいられなかった。椿の「煽り」に対しては、純は特に悪感情は抱かなかった。
 結婚していることを自慢して何が悪いと言うのだろう。
 
「そ、それじゃあ、キスとかもしたの?」

 今度はラミアの子供が尋ねてくる。語調は控えめだが、眼差しは好奇心に満ちていた。
 再度純と椿が見つめ合う。一瞥し、頷き、純が子供たちに答える。
 
「もちろん」
「わあ……!」
「すごい! しちゃったんだ!」

 魔物娘の子供達が、まるで自分のことのように盛り上がる。事情が何であれ自分達の事でここまで喜んでくれるというのは、恥ずかしくもあり嬉しくもあった。
 純の心に魔が差したのは、そんな時だった。
 
「ねえ、二人とも」

 純が子供たちに声をかける。そして幼いラミアとサキュバスが自分の方に意識を向けた瞬間、咄嗟に椿の方を向き、彼女の頬に唇を落とす。
 不意打ちのライトキスである。
 
「えっ」

 突然のことに子供達が唖然とする。椿もまた夫の奇襲を受けて、頭の中が真っ白になる。
 感情の止まった世界の中で純だけが一人、してやったりと言わんばかりにニヤニヤ笑みを浮かべる。
 
「俺達結婚してるから、こういうことは毎日してるんだ」

 楽しげに笑いながら、純が椿を抱き寄せ言ってのける。数秒後、意味を理解したラミアとサキュバスの顔が一気に赤くなる。
 椿も顔を真っ赤にする。
 
「ご主人様のばか……」

 クー・シーの呟きは純には届かなかった。意識を取り戻した二人の子供が、共にキャーキャー言いながら彼らの元から離れていく。その二人の歓声に、椿の小さな声がかき消されてしまったのだ。
 
「嫌だったか?」

 だが言葉は届かなくても、気持ちはしっかり純に届いていた。申し訳なさそうに問う純に、椿は顔を真っ赤にして言い返した。
 
「い、嫌とはいってませんっ。ただ、するなら事前に合図とかをですねっ……」
「ああ」

 不意打ちがお気に召さない様子だった。それを知った純が、椿の頬に手を添えながら声をかける。
 
「じゃあ、今からもう一回したい」
「ふへっ?」
「いいかい」

 いきなりすぎて奇声を放った椿に、純が大真面目な顔で問う。椿の目がぐるぐる回り、頭から煙が立ち始める。
 
「ひ、ひゃいっ」

 嫌ではない。嫌ではないし、ちゃんと前置きもしてくれている。だが心の準備が出来ていない。
 やっぱり不意打ちじゃないか。そう指摘する余裕は、今の椿には無かった。
 
「や、やさしく……お願いします」
「わかった」

 そう注文をつけるので精一杯である。後はもう流れに身を任せるしかない。
 それでも。唇だけでも純と一つになれたことに、椿は喜びを感じずにはいられなかった。
 
 
 
 
「まったくもう、ご主人様ってば……」
「悪かったって。ごめんって」

 数分後。子供用プールから出た二人は、施設内にある売店を訪れていた。二人はそこでかき氷を買い、売店前にあるテーブルに隣合って座ってそれを食べていた。周りには彼らと同じく軽食目当てに来た者達で賑わっており、二人が空席を見つけられたのは奇跡のようなものであった。
 
「私はクー・シーであって、おもちゃじゃないんですからねっ。わふんっ」

 椿はまだ拗ねていた。子供用プールで純にいいようにされてしまったことを、まだ根に持っていた。そもそもここに来たこと自体、へそを曲げてしまった椿の機嫌を直すためであった。
 
「ご主人さまはっ、あむっ、もう少しっ、んむっ、女の子の気持ちというものを……はむっ」

 椿の機嫌はまだ元に戻らなかったが、かき氷を食べる手は止めなかった。やけ食いである。一言喋る度にかき氷を一口食べていく嫁犬を見て、純は不安で仕方なかった。
 
「あああ、そんな一気に食べたら」
「ふむう……っ!」

 手遅れだった。食事を中断し、こめかみを手で押さえて椿が突っ伏す。アイスクリーム頭痛だ。純はすぐに椿の背中に手をやり、栗色の体毛で覆われた背筋を優しく撫でた。
 
「ほら、ちょっとは落ち着けって」
「ふううっ……だってえ……」

 静かに声をかける純を、椿が涙目で見つめる。まだ拗ねているようだ。純は雰囲気で察した。
 純は言い訳せず、素直に謝ることに決めた。悪いのは自分だ。
 
「本当にごめん。椿が可愛くて、ついいたずらしたくなったんだよ」
「……本当に反省してますか?」
「もちろん」
「それじゃあ……」

 椿がそこまで言って言葉を飲み込む。そして注目する純に、椿が改めて言い放つ。
 
「あーん、してくれたら……ゆるしてあげます」
「……それでいいの?」
「はい」

 困惑する純に椿が即答する。ふと椿の背中に目をやると、彼女の尻尾が期待するように左右にゆらゆら揺れていた。
 機体に胸膨らませる妻がたまらなく可愛い。こんな時にそう思うのは若干失礼とも思ったが、実際そうなので仕方ない。
 
「駄目、ですか?」

 その時、椿が申し訳なさそうに尋ねる。すぐに答えが返って来ず、拒絶されたと思い不安にかられての発言である。流石に尻尾に見惚れて反応が遅れたとは言えない。
 純はすぐに椿の頭に手を載せ、彼女の言葉に応えた。
 
「それくらいなら、喜んで」

 駄目なわけがない。純は心からそう思った。そして彼の想いは、しっかりと椿にも届いた。
 
「じゃあお願いします!」

 直後、椿が素早く上体を起こす。不貞腐れた空気は完全に霧消し、キラキラ輝く瞳には期待と喜びしか無かった。気持ちの切り替えの早い娘である。
 そこがまた彼女の可愛いところだ。それにもしかしたら、彼女も彼女で仲直りするきっかけが欲しかったのかもしれない。
 そう考えると、俄然やる気がわいてくる。椿とはまた違った形で、純はやる気を漲らせていった。
 
「それじゃあ口開けて」
「はーい」

 それまでの不機嫌な空気から一転、全身からハートマークを絶えず放出させながら、椿が純の指示に従う。犬歯が見えるほど大きく口を開け、純の次の一手を待つ。
 
「はい、あーん」

 純がストロー型のスプーンで自分のかき氷をすくい、椿に差し出す。椿も笑みを浮かべ、口を開けたまま言葉を返す。
 
「あーん♪ ……あむっ」

 スプーンが口の中に入ったのを気配で察した後、椿が口を閉じる。舌を使ってスプーンの上のかき氷だけを舐め取り、スプーンが引っこ抜かれた後、口を動かしてかき氷の味と食感を堪能する。
 
「おいしい?」

 もぐもぐ口を動かす椿に純が尋ねる。すっかり溶けたかき氷を飲み込み、口内を空にした後、椿が答える。
 
「はい! おいしいです!」

 すっかり元の調子に戻ったようだ。顔いっぱいに笑顔を見せる椿が、快活な声で純に言い返す。それを見た純も、彼女と同じくらいの笑顔を見せて本調子を取り戻す。
 
「もう一回! もう一回いいですか?」
「もちろん。何回でもいいぞ」
「やったー!」
 
 椿のお願いに純が許可を出す。その後大いに喜んだ椿が再び口を開け、空っぽになった口内を見せながら次を催促する。
 
「あーん♪」

 頭の上についた一対の耳がぴこぴこ揺れる。短くもふもふな尻尾が激しく左右に揺さぶられる。閉じた目と開けた口はそのままに、全身で期待感を露わにしながら、椿が次を所望する。
 死ぬほど可愛い。椿の待機モーションを見て、純の心は即座にそれで埋め尽くされた。かき氷を掬う手を止め、愛くるしい嫁の姿に完全に見入ってしまった。
 
「……あーん?」

 そんな折、椿が再び声を放つ。すぐには来なかった困惑からか、語尾がやや跳ね上がっていた。それでもポーズは崩さず、目を閉じてじっと純を待ち続けた。
 いかんいかん。見入っていた純が我を取り戻す。すぐにスプーンを持つ手に力を込め、かき氷を掬って椿に差し出す。
 
「あー……」

 お目当ての物がやって来た。椿が口を閉じ、間を置いて純がそっとスプーンを引っ込める。その後椿が口を動かし、喉を鳴らしてそれを飲み込む。
 
「美味しい?」

 喉の動きを見た後、純が椿に問う。椿は大きく頷き、またも太陽の如き笑顔で純に答える。
 
「はい! とっても美味しいです!」
「そうか。そいつは何よりだ」
「でもされてばかりなのも失礼なので、次は私が食べさせてあげますね!」
「えっ」

 椿の返答にほのぼのしていた純の耳に、予想外の文言が飛んでくる。不意打ちを受け呆然とする純の目の前で、早速椿が自分のスプーンを使ってかき氷を掬いだす。
 
「はい、ご主人様。あーんしてください」

 そのまま間髪入れずに「あーん」を催促する。純は一瞬面食らったが、すぐに意識を取り戻した。
 我に返った純は、この後自分が何をすべきかをすぐ理解した。そして理解と同時に、彼は行動に移った。
 
「あーん……」

 椿の前で、純が大きく口を開ける。若干の照れも見えたが、そこは問題ではない。
 彼女に食べさせてもらえる。それが何より重要だ。
 
「はい。あーん」

 椿がスプーンを持って行く。純の口の中にスプーンが入る。椿がそうしたように、純が口を閉じてかき氷を舐め掬う。
 
「ん……」
 
 顔が耳まで真っ赤に燃える。心臓の鼓動が早鐘のように響き渡る。大勢の人がいる中でこういうことをするのは、正直恥ずかしいところもある。
 しかし純はこの時、恥じらいと同時に誇らしさも感じていた。自分達の仲の良さを周囲に見せつけている。そう思うと、途端にやる気と勇気が湧いてくる。純はそのやる気に任せ、食べ終えてすぐに二口目を要求した。
 
「椿、もう一回頼んでもいいかな」
「もちろんです! もう一回ですね!」

 椿もノリノリでそれに応じる。彼女もまた、主との食べさせあいに凄まじい気恥ずかしさと興奮を感じていた。そして純と同様に後者が勝り、もっとイチャイチャしたいとすら思っていた。お似合いのカップルであった。
 
「はいご主人様、あーん」
「あーん」

 交互にかき氷をすくい、互いの口に差し出しあう。器に盛られたかき氷が無くなる頃には、二人はすっかり元の関係に戻っていた。もっとも一時のすれ違いはあっても、彼らが本気で相手を拒絶することは無かったのだが。
 
「あの時はごめんな椿」
「いえ、私こそ! 変に意地張っちゃってごめんなさい!」
「何言ってるんだ。俺が悪いんだって」
「いいえ、空気を読めなかった私が悪いんですっ」
「俺だよ」
「私ですっ」
「……ははっ」
「わふっ、えへへっ」

 色々な意味で、お似合いの二人であった。
 
 
 
 
 かき氷を食べ終わった後、二人はそのままプールに遊びへ向かった。彼らは時間いっぱいまで楽しむつもりでいた。
 一度入ったプールにも再び挑戦し、ひと夏のデートを心の底から楽しんだ。
 
「やっぱり水の中は冷たくて気持ちいいな」
「ですね!」

 純にぴったりくっつきながら、椿が彼の言葉に同意する。二回目以降は浮き輪を使わず、互いの体を密着させて水の冷たさと浮力を堪能した。
 
「ご主人様、私いま、とっても幸せですっ!」
「俺も幸せだよ。お前とこうしていられて」
「わふん……えへへっ」
 
 肩を寄せ合い、惚気話に花を咲かせつつ、主人と忠犬は改めてプール施設を遊びつくした。そして午後四時三十分。閉園三十分前のアナウンスと同時に、二人は帰り支度を始めた。
 
「そろそろ帰るか」
「そうですね。忘れ物は無いようにしませんと」

 荷物を片づけ、いそいそと脱衣所へ向かう。そこでシャワーを浴び、服に着替え、受付前で合流する。しかし他の客達も彼らと同じ考えを持っていたようで、純と椿が合流した受付前は帰宅しようとする人たちで大いに賑わっていた。

「椿、忘れ物はないか?」
「はい。ちゃんと持ってきました。ご主人様はどうですか?」
「俺も大丈夫だ。問題ない」
「それじゃあ車に行きましょうか」

 椿の言葉に従い、手を繋いで車に戻る。後ろの座席に荷物を置いた後、運転席に純が、助手席に椿が座る。
 シートベルトを締め、エンジンをかける。前後の安全確認を行い、無人とわかってもゆっくり車を動かす。全て椿の安全マニュアルに従っての行動である。
 
「安全第一! 油断は事故のもとですからね!」
「ちゃんと気をつけないとな」

 全ては主を想ってのこと。純も当然、横にいるクー・シーの気持ちはしっかり理解していた。だから彼はいついかなる時も――横に椿がいない時も、安全運転を心がけていた。
 施設の敷地を出て公道に移っても、それは変わらなかった。二人を乗せた車は決してスピードを出し過ぎず、アスファルトの上を緩やかに走っていった。
 
「椿」

 そんな中、不意に純が前を向いたまま椿に声をかける。助手席に座っていた椿がすぐに反応し、純の方を向いて声を返す。
 
「どうしましたか、ご主人様?」
「うん」

 椿からの問いかけに一度頷いた後、間を置いて純が答える。
 
「今度もまた、二人でどこか遊びに行こうな」
「――はい!」

 主人からのお誘いに、忠犬は元気よく頷いた。そして椿は顔を輝かせながら、早速純にリクエストをした。
 
「ご主人様! 私次は山に行ってみたいです! キャンプとか!」
「キャンプか、いいな。それじゃあまた良さそうな場所探さないとな」
「川があって、バーベキューが出来て、解放感があって……そういう所に行きたいです!」
「わかった、わかった。絶対行くから、そう興奮するなって」
「絶対ですよ? 絶対ですからね!」

 車の中から二人の笑い声が響く。
 家路につく足は遅く、しかし足取りは軽かった。
 
「次も思いっきり遊ぶぞ、椿」
「わふんっ! もちろんです!」

 こうして、夏の思い出がまた一つ増えたのだった。
18/06/01 20:22更新 / 黒尻尾
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