連載小説
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第一幕:安らかな日常 〜人間の生活〜
 長く続いていた雨は夜のうちにいつの間にか降り止んでいたらしい。朝の太陽が気持ちの良い青空を連れて来ていた。
 男は唯一の家族である母親の食事を用意すると、夕暮れには戻ると声をかけ、釣り具を持って船を出した。
 波は穏やかで、日差しもそれほど強く無く、絶好の釣り日和だった。男は魚の多そうなポイントに目星を付け、釣り糸を垂らして当たりを待った。
 当たりはなかなかやって来なかったが、幼い頃からこの方法で食いつないできた彼にとっては、待つことはそれほど苦ではなかった。
 太陽が少しずつ中天へと昇りゆくのと共に、日差しも少しずつ強くなっていった。小麦色の肌に汗が滲み始めるが、時折吹く海風のおかげで暑さもそれほど感じはしなかった。
 ジリジリと太陽が照りつけ始める頃、ようやく手元に確かな手ごたえがやってきた。ここからが釣りの本番。魚との一対一の戦いの始まりだった。
 逃げ回ろうとしている時に無理に引いては、糸を切られ、下手すれば竿を痛める可能性もある。相手の状況を探りつつ、男は手元に力を込めては緩め、決定打の瞬間を探り続ける。
 長いようで短いような睨み合いの末、先に根を上げたのは魚の方だった。獲物の一瞬の油断を突き、男は一気に竿を引き上げた。
 水飛沫とともに、陽光を照り返す青銀色の煌めきが中空に躍り出る。
 ……が、水面から跳び出して来たものはそれだけでは無かった。水面が爆発したような飛沫と共に、もう一つ大きな影が飛び出してくる。
「やっほー。アクト、久しぶり」
 はつらつとした美しい顔つきに、健康的な色気を宿した女性。しかしその丸みを帯びた上半身に続く下半身は、人間ではなく蛸のそれだった。
 人外の存在。スキュラと呼ばれる、海の魔物。
 人間達から化け物として恐れられている彼女は、しかし船を大きく揺らしながら転がり込んでくるなり、人懐っこい笑顔で男に抱きついた。


「久しぶりだな、レイ。よくここが分かったな」
 体重を預けてくるスキュラのレイの身体を抱きとめながら、釣り人、アクトはそれほど驚いた様子でも無く返事を返す。
「いつも言っているじゃない。そこが海の上なら、アクトがどこに居たって私には分かるんだって。アクトのいい匂いがするとじっとしてられないんだよ」
「海中でも分かるのか」
「魔物と人間の嗅覚を一緒にしないでよ。私達の鼻は、好きな人がどこにいたって追いかけられるように出来てるんだよ」
 アクトはレイの髪を撫でてやる。
「そうか。おれもお前の顔を見られて嬉しいよ」
「えへへ。ねぇ、釣りしてお魚取ってるんでしょ、手伝ってあげる」
 そう言うなり、レイはアクトの身体からぱっと離れて、再び海の中へと跳び込んでいってしまう。
「あ、おい」
 伸ばしたアクトの手は何も掴めず、その手は空を切っただけだった。
 行き場を失った手で、アクトは頭を掻いた。
「お前が暴れたら釣りにならないだろうが」


 小舟の上で揺られながら海中を横切る大きな蛸の影を眺めつつ、アクトはふと彼女と出会った頃の事を思い出していた。
 出会いのきっかけは偶然だった。数年前、アクトが釣りをしていた時に、たまたま魚ではなくレイの持ち物を釣り上げてしまったのだ。
 漂流物にしては色鮮やかで、生地もしっかりした綺麗な一枚の布だった。アクトが不思議そうにそれを眺めていると、水面が弾けて、胸元を手で隠した上半身裸の娘が現れた。それがレイだった。
 つまり、アクトはうっかり魔物の衣服を釣り上げてしまったのだった。
 改めて思い返してみると、なんだかおかしくて笑ってしまう。あの時は、まさか自分と彼女がこんな関係になるとは夢にも思わなかった。魔物を辱めたのだから、食い殺されるか、少なくとも片腕くらい持っていかれるかと本当に恐れ慄き、死を覚悟した。
 怒りに顔を真っ赤にして、身を震わせながら今にも噛み付いて来そうな魔物に、アクトはただただ素直に謝った。謝ることしか出来なかったのだから当然ではあったが、それでも逃げることもせず、言い訳もせず、精神誠意謝った。
 そんな素直な態度が良かったのか、魔物はアクトが力んで握りしめていたものをひったくると、それ以上アクトを責めることもせずに海の中へと帰っていったのだった。
 そして次の日から、彼女はアクトがこうして海に釣りをしに来るたびに、彼の元を訪れるようになった。
 最初は裸を見た責任を取れとか、代価を払えといった冷やかしだった。やがてそれが海底の魔物達の世界の世間話に変わり、そのうち気さくに話が出来るような間柄になっていた。いつの頃からか手伝いと称して魚を取ってくれるようになり、気がつけば今のような関係だった。
 アクトは人間。レイはスキュラと呼ばれる、人間の女性の上半身に蛸の下半身を持った海の魔物だ。
 元々住む世界が違う。本来交わることなどありえなかった。仮に交わることがあったとしても、人間にとって魔物は恐怖の対象でしか無く、魔物にとって人間は食い物以上の存在でしか無いはずだった。
 しかしアクトは、出会った頃はともかくとして、今はレイに対して感謝こそすれ、一切恐れなどは抱いていなかった。むしろ彼女の事を好いてさえいた。
 今では禁忌とされているが、かつては村でも海神信仰もされていたのだという。昔から続く祭りの際には肉体に海の生物の一部を持つ異形の存在も海の神とともに祭り上げている事もあったが、今のアクトにはご先祖達がどうしてそうしてきたのか、何となく分かる気がした。
 衣服を釣り上げ辱めてしまうという無礼を働いたにも関わらず、それを寛容に許してくれた上、食料の調達まで手伝ってくれる。おまけにあからさまに好意を寄せられては、恋に落ちてしまうのも仕方がない事だろう。
 青い世界で妖精のように舞い踊る魔物の姿に見惚れながら、アクトはほっと息を吐いた。
 本当は、こんなに頻繁に釣りに出る必要も無いのだ。食料や金銭は、レイが沢山魚を取ってくれるおかげで心配するほどでも無くなっている。
 けれどアクトは、気付けばこうして船を出してしまうのだった。彼女に会いたい。その姿を見たい。声を聞きたい。ただそれだけのために、他のことをないがしろにしてまでも。


 しばらくすると、レイは大量の魚や蛸、貝をその両腕と八本の触手に抱えて戻ってきた。アクトはいつもこれを見越して大き目の魚籠を持ってきては居るのだが、それでも収まりきるのか分からない程の量だ。帰って釣果の処理をするにも時間がかかりそうだった。
「これでお腹いっぱい食べられるね」
「あぁ、ありがとう」
 屈託の無い笑顔に素直に礼を返しつつも、アクトの心中は少し複雑だった。
 海の魔物であるスキュラの手に掛かれば魚介類を獲る事など造作も無い事だろう。彼女自身、善意しか無い事もアクトには分かっていた。けれど自分はもう大人。本来は自分の生活くらい自分で何とかしなければならないのだ。それを彼女の好意に甘えきりになってしまっているのでは、男として少し情けない。
 とはいえ、数年間も甘えてしまっているというのに、今更男の意地を張っても格好も何も無いことではあったが。
 アクトとレイは隣り合って腰をおろし、波に揺られるに任せながら空を見上げた。
「やっと晴れてくれたな。いい天気だ」
「ずっと寂しかったんだよ。アクトが来てくれなくて」
「すまない。雨が降っていて船を出せなかったんだ」
「五日も会えなかったんだよ。……もう来てくれないかと思った」
「四日だよ。おれがレイに会いに来ることが無くなるなんて、ありえるわけ無いだろう」
「本当?」
 レイはしなを作ってアクトを見上げる。
 珊瑚のように美しい赤い髪が揺れて、水滴が零れ落ちる。雫は健康的に日焼けした肌を滴り落ちてゆく。目鼻立ちの通ったすっきりとした美しい顔を通り過ぎ、ほっそりとした首元、肩甲骨の浮いた肩口を通り過ぎて、片手では収まらない程豊かに実った乳房の谷間に落ちる。そこに溜まっていた水と合流し、可愛らしいおへそをくぐり、ほっそりとしていながらもしっかりとくびれた腰元へと向かって下り、腰に巻かれている布の染みの一つとなる。
 深い海色の大きな瞳には、アクトの顔が映っていた。
 赤い唇が、柔らかそうに震えながら、悩ましげな吐息を吐き出す。
 アクトは、自分の中の渇きを実感する。
 この女を抱き締めたい。自分のモノにしたい。そんな衝動に押し流されるままに、アクトはレイの唇に自分のそれを押し付ける。
「んっ。アク、ト」
 唇で唇をついばむ様に何度も口付ける。やがてどちらからともなく舌を絡ませ、互いの唾液を混ぜ合わせて、啜り合い始める。
 アクトはレイの身体を押し倒し、胸当てに手を伸ばす。結び目を解き、海面へと投げ捨てる。
 真ん丸の、豊かで形のいいレイの乳房があらわになる。アクトは躊躇う事無くそれを鷲掴みにし、揉みしだいた。
 アクトの欲望に合わせて、レイの乳房は揺れ、震え、柔らかく形を変える。その柔らかさに、指の沈み込む感触に、アクトの欲望は更に高められてゆく。
 アクトはレイから唇を離した。男を求めるレイの舌が伸ばされるが、虚しく空を切る。切なげなレイの表情をよそに、アクトは彼女の首に舌を這わせ、胸元へと舐め上げてゆく。
 乳房をじっくりと時間を掛けて登りつめてゆき、その頂点に実る桃色の果実へとたどり着く。
 手に入れた果実をじっくりと味わうように舌で転がし、唇でちゅぱちゅぱと音を立てて吸い、甘噛みし、歯を立てる。
 磯の匂いの中に、レイの雌の匂いがした。海水の塩味にまみれつつも、レイの肌の甘い味がした。
 子猫のようなレイの声が、吐息が、アクトを否応なく欲望の渦へと引きずり込んでゆく。
 アクトはついに、レイの最後に残った腰巻の結び目にも指を掛ける。力づくで脱がせたそれも、船の外へと投げ捨ててしまう。
 人と異形の境界に、雌の秘肉の割れ目が口を開けていた。明らかに海水とは粘度の違う液体でぬらぬらと濡れながら、ひくひくとひくついていた。
 アクトは手の平で割れ目全体を刺激しつつ、女陰の中へと指を滑り込ませる。レイはすんなりとアクトの指を受け入れる。
 アクトが指を曲げて少し掻き回すと、レイは息を荒げて身体を弓なりにそらした。
 その息遣いでさえ飲み干そうとするかのように、アクトは再びレイの唇を塞いだ。
 船に波の打ち寄せるちゃぽ、ちゃぽ、というゆったりとした音の中に、さかりの付いた雌の奏でるぐちゅ、ぐちゅ、という淫らな音が混ざり合う。
 身体を震わせながらも、レイもまた触手を動かし始める。
 両手を使ってアクトの服を、ズボンを、下着を脱がし、男の身体を愛おしむ様に八本の触手を絡ませる。
 ひんやりとしたレイの指が、触手が、欲望の熱に浮かされたアクトの肌に食い込む。涙目になりながら、レイは既に声を漏らすことも出来ず、体の中を暴れまわる感覚に歯を食いしばって耐えることしか出来ないようであった。
 そのレイの身体が、ひときわ大きく跳ねる。アクトの指にいじめられているそこから、控えめに愛液が噴き出した。
「ぃや。見ちゃ、だめぇ」
 飛び散ったそれが、アクトの硬くそそり立った肉棒に浴びせかけられる。
 レイの全身から緊張が抜けてゆく。中も外も、もう柔らかくトロトロの状態だった。
 女を一方的に責め立てているように見えたアクトではあったが、その雄としての部分は既にいつ暴発してもおかしくない程に張りつめていた。
 アクトはレイの中から指を抜くと、震える己自身を掴み、レイの弛緩した入り口へと狙いを定める。
 レイの肌から唇を離し、目で問いかける。
 頬を紅潮させたレイは、潤んだ瞳で微笑みながら頷いた。
「いいよ、来て」
 アクトは己の先端をレイの入り口に押し当てる。どろどろの粘液がねばりついてくる。アクトはそのまま、無遠慮にレイの中へと押し入ってゆく……。
「あ、硬ぃ。これ、好きぃ」
 レイの肉壺の中はとろりとした愛液で満たされ、細やかな柔襞がみっちりと敷き詰められていた。それはアクトの硬い欲棒に吸盤のように吸い付いて、時に柔らかく包み込み、時にきつく締め上げて、雄の身体の奥で滾る精液を吐き出させようと激しく蠕動を繰り返す。
 こうしているだけでも、射精に至るまでに時間は掛からない。しかしアクトは絶頂の瞬間をじっと待つことは出来なかった。入れているだけで男を堕とす魔性の名器に自分の証を刻むべく、雄の本能が命ずるままに激しく腰を振り始める。
 片手で乳房の感触を愉しみ、片手でレイの腕を押さえつけながら、女の秘められた柔らかな部分を引っ掻き回す。膣壁に自分を刻む度に、震えるような快楽が脳を焦がす。自分の印を付けるようにアクトは幾度も幾度も己をレイに擦り付ける。
 その度に自分も追いつめられてゆくが、アクトは己の雄を止められない。
 別にこれが初めてでも無かった。今では、何十回と肌を重ねてきた仲だ。だが、何度繰り返し抱き合い愛し合っても、飽きるという事は無かった。むしろその度に欲望は深ってゆくばかりだった。そして少しでも欲望を抱いてしまったら最後、アクトが己の獣欲を御せた試しは、いまだに無かった。
 レイの触手は男の欲望を決して拒絶することは無かった。ただ優しく男の身体に巻き付くだけだった。
 レイの美しい顔が快楽に歪む。頬を染め、眉を寄せ、激しく淫らな呼吸を繰り返しながら、法悦の悲鳴を上げる。
 ここで初めて、レイの腕が強く動いた。
 愛しい男の身体を胸元に抱き寄せ、その身体に強く強く触手を絡み付かせ、抱き締める。隙間なく全身の肌と肌を密着させる。
「あ、ああぁあ、アクトぉ、すきぃ、だいすきぃ」
 顔中乳房のむっちりとした感触に覆われ、雌の甘い匂いに包まれる。その上雌穴に激しく締め付けられては、アクトももう耐えきれなかった。
 腰をがくがくと震わせながら、アクトは脊髄反射的に腰を強く強く捻り込む。
「レイっ、出す、ぞ。くっ、あああ」
 レイの中でアクトが膨れる。尿道を勢いよく駆け抜けて放射される欲情で濁った雄汁が、レイの子袋に向かって打ち付けられる。
 眩暈がするほどの快楽に、アクトはレイの身体にしがみつかずにいられない。
 女の最奥、一番敏感な部分が、アクトの欲望で白く汚され、染め上げられてゆく。
 レイはアクトの欲望を余すところなく受け入れながら、至福の恍惚へと沈んでゆく。
 魔物娘の女性器には人間には無い器官があり、味や匂いを敏感に感じ取ることが出来るとされている。彼女は今、自らの一番繊細な感覚が、この世界でただ一人の自分専用の雄の味で、匂いで、満たされているのだった。
 アクトもレイも、照りつける日差しや激しい交合のせいで汗だくだった。しかし相手の汗でさえ愛おしく、二人は互いの背を、腕を、その身体を掻き抱き続けた。
 射精は常人とは思えぬほど長く尾を引いた。その精液の量は、レイの胎内に収まりきらずに一つになったままの結合部からあふれてしまう程だった。
 レイはこぼれたそれを指で拭って舐めながら、目を細めて笑った。


 全てが終わると、アクトとレイは再び隣り合って座りながら、ぼんやりと行為の余韻に浸った。
 お互い何も隠すところなく、丸裸で身を寄せ合っていた。暑苦しいくらいの互いの体温も、今は手放したく無かった。
「すっごく濃かった。味も、匂いも」
「分かるのか?」
「私達はアソコでも味や匂いを感じる事が出来るの。もっとも、人間の味覚や嗅覚とはちょっと違うけどね。
 量も、あふれちゃうくらいいっぱい出てたし。この数日、ずっとたまってたんでしょ。すっきりした?」
 アクトはばつが悪そうに目を伏せる。
「あぁ、凄く良かった。……レイ、その、急に押し倒して悪かった。我慢できなかった」
「別に謝らないでよ。会えばいつもしてるんだし、するときに許可取り合っても無いでしょ? それに、アクトからしてくれなかったら、私からしてただけだよ。そうなったら、アクトは嫌がる?」
「いや、嬉しい」
「でしょ。私だってそうだよ。それに、嬉しいことはそれだけじゃ無かったし」
 レイははにかみ、アクトの腕に身体を押し付ける。
「ずっとずっと、他の人ともせずに、自分でも抜かずに我慢していてくれてたんだもん」
「する? 抜く? 何を」
 アクトは首をかしげる。本当に何を言っているのか見当がつかなかった。
 レイは少し驚きつつも、丁寧に説明する。
「するって言うのは、さっきみたいなことを私以外の人としちゃうことだよ。そんな事になったら私どうなっちゃうか……。
 抜くって言うのは、つまり一人でしちゃうこと。色々妄想しながら、自分でおちんちん扱いて、気持ち良くなって、精液出しちゃうこと。……知らなかった?」
「あぁ。誰にも教えてもらった事無かったし。おれの知っている女はレイ、お前だけだし」
 アクトは含みも何も無く、素直にそう口にする。アクトにとってこれ以上の真実は無かったからだ。
 アクトの母親は性的な事は何一つ教えてこなかった。そして色々と事情もあり、アクトには友人と呼べる相手も居なかった。初めて女を知った時も、その相手はレイだった。女の扱い方も全てレイに仕込まれた。性的な事の全ては、レイによって教え込まれてきたのだ。
 自慰をさせるくらいなら、仮に自分の身体を道具のように扱わせてでも男性との性交をねだる魔物娘だ、当然自慰行為などと言う事をレイが教えているはずが無かった。
 これまでの事を考えれば分かっていた事でもあったが、それでもレイはアクトの素直な告白を受けて茹で上がった蛸のように真っ赤になった。
「こういう事は、相手のためなら何でもできる人としかしちゃいけないんだろう?」
「う、うん。私が教えたんだったよね。その通り、なんだけど、すごく嬉しいけど、してないって、匂いで分かっても居たけど、急にそんな恥ずかしい事言わないでよ……。でも、わ、私もだよアクト。広い世界の中でも、私にとってはあなただけが唯一の男の人なの。子供を作れる相手はあなたしかいないの」
「ちょっと恐縮してしまうな。いや、おれも嬉しい。本当に。
 だが、魔物というのはみんなそうなのか。皆、こんなにも男とのまぐわいを求めているのか?」
「うん。でも、誰でもいいってわけじゃないよ。気に入った男の人を見つけたら、もうその人しか求めないようになるの。
 今の魔物は、みんな魔王になったサキュバスの影響を受けているの。魔物はみんな雌になって、人間の女の子に似た魔物娘に変わったし、淫魔の特性を受けているから、生きていくための食べ物としても、子供を残してゆくための生殖活動にも、人間の男の人の精液が必要になったの。私達は海の神様の影響も受けているけど、それでも魔物だから魔王の影響も受けているから、ね。
 でも私のアクトへの気持ちはそんなの関係無いよ! 私は私個人として、アクトの事大好きなんだから」
 レイはアクトに子犬のようにすり寄り、匂いを付けるように髪を擦りつける。そんな彼女の姿が愛おしくてたまらず、アクトは彼女を抱き寄せてその髪に口付ける。
「おれも、海神信仰とか関係なく、レイの事大好きだ」
「それじゃあ私の話も、そろそろ考えてくれた?」
「ん。あぁ、その事か……」
 アクトは急に歯切れが悪くなる。
 レイの話というのは、アクトの海中都市への転居の事だった。レイはこうしてアクトが釣りに出た時だけでなく、ずっと彼のそばに居続けたかった。だからアクトに自分の住む海中都市へと移り住んで欲しいと、以前から何度も話をしていたのだ。
 海の中に人間が移り住むなど、普通に考えればふざけたお伽話のようにしか聞こえないだろう。しかし魔王が変わることで凶暴だった魔物が人間の女性の姿に近い魔物娘に変わったように、海の中の世界もまた以前とは様変わりをしているのだった。
 魔王が人間を愛するようになると時同じくして、海の神もまた人間を更に深く愛するようになった。
 もともと海の神は、人間や魔物を含めた海で生きる全ての生き物達を愛していた。それに加えて、魔物娘と人間が愛し合うようになったことを受けて、更に皆が仲睦まじく愛し合えるようにと、海を人間や魔物娘に住みやすい環境に変えてくれたのだった。
 その結果、今では簡単な儀式を行うだけで人間が海に永住する事も可能となっていた。
 海への生活に適応するための儀式自体は、海の魔物娘と愛し合っていさえすれば、大した障害では無かった。
 あとはアクトの気持ち次第だったのだが、この話題を出す度、アクトは顔を曇らせてしまうのだ。
「いつも言っているし、分かってくれているとも思うが、おれのレイへの気持ちに偽りはない。他に女も居ない。いずれレイと一緒に暮らしたいとも思っている。けど今はまだ、それは出来ない」
 いつものレイであったのなら、ここで「どうして!」と食い下がっていたところだった。だが、今日は違った。
 彼女はアクトの手に手を重ねて、静かに語りかけた。
「病気のお母さんの事?」
「っ! どうしてそれを」
 アクトは驚きに目を見開き、レイの顔を見つめた。
 レイはアクトの視線を受け止めきれず、目を反らし、顔を伏せる。
「アクトの一番そばに居る、アクトに似た匂いの女の人。何だか元気が無くなって来ているって、匂いで何となく、分かっては居たんだけど。
 この間ね、アクトの村に遊びに行ってた仲間の魔物娘から聞いちゃったの。村はずれの家には母一人子一人の貧しい家があって、母親は病気で大変なんだっていう、そう言う話を」
「そう、か」
 アクトもまた俯いてしまう。だが彼は頭を振ると、レイの温かな手を握り返した。
「悪かった。隠すつもりは無かったんだ。だが、気持ちのいい話でもないし、話すような事でもないと思って」
「私はアクトの全部を知りたいよ。アクトの全てを、良いところも悪いところも全部含めて、アクトの全てを好きになりたいから。……もちろん、アクトが知られたくないなら、無理にとは言わないけど」
 レイは顔を上げた。もう俯く事は無いであろう、力強い澄んだ瞳でアクトを真っ直ぐに見つめる。
 彼女の真摯な視線を受けて、アクトも全てを伝える覚悟を決めた。
「聞いてくれるか?」
「うん。聞かせて」


 彼女が産声を上げたのは、戦時中の貧しい国での事だった。平和への祈りを込めて、両親は彼女に『パス』と名付けた。
 しかし両親の祈りとは裏腹に、戦争は一向に終わる気配を見せなかった。
 厚い信仰心を持っていた両親はなかなか国を離れる決断を下せずに居たが、パスが少しずつ大きくなってゆくにつれ、次第に信仰心よりも子供への愛情が勝っていった。そしてついに、いつまでも戦争を続ける祖国を離れる決意をしたのだった。
 決して楽ではない逃避行の末、辿り着いたのがこの海沿いの穏やかな漁村だった。
 平和な村で、パスは元気に成長していった。しかし彼女の幸福はそう長くは続かなかった。
 戦争中の傷がきっかけで、若くして父親が亡くなってしまったのだ。そのあとを追うようにして、母もまた病を患い、命を落としてしまった。
 彼女はまだ少女とも言っていいほどの年齢で、天涯孤独の身となった。
 戦争からは遠く離れ、穏やかな気風の村だったこともあり、身寄りの無い少女が独りで生きていくのにもそれほどの危険は無かった。
 しかしそれでも食べてゆくためには住込みの仕事で朝から晩まで働かなくてはならず、以前に比べて当然苦労することも多くなった。
 時間が流れてゆくにつれ、可憐な少女は美しい女へと成長していった。
 そして彼女は、あるとき一人の船乗りと出会った。
 彼女はその船乗り、輸送船の乗組員だった男と恋に落ちた。男の方もすぐに彼女の気持ちに気が付き、若い二人はすぐに男と女の関係となった。
 男が村にやってくるのは多くて一ヶ月に一度が良いところだったが、彼女は飽きることなく男を待ち続けた。待っている間でさえ、彼女は幸せを感じていた。今までの出来事は全て何かの悪い夢で、今ようやく自分の人生が始まったのだとさえ感じてしまう程だった。
 待ち焦がれた男と逢える日には、寝食を惜しんでまでも男と愛し合い続けた。
 いつしか男との逢瀬だけが、彼女にとっての生きる希望になっていた。
 やがて女の体に新しい命が宿った。男との間の子供だった。
 しかし、二人の愛の結晶が出来た事実は、彼女にとっては決して幸福な結果を招いてくれたわけではなかった。
 子供が出来たことを伝えると、彼女は船乗りの男から絶縁を申し渡された。
 男は、この村の女以外にも港ごとに同じように女を作っていたのだった。そして、突然その中の一人と身を固めると自分勝手に言い放ったのだ。
 彼女は、生まれて始めて絶望という言葉の意味を知った。彼女にとって、世界の全てが意味を失っていった。ただ一つ、自分の胎の中に宿った新しい命を除いて。
 確かに男は自分を棄てた。だが、男が自分を愛していた確かな証は自分の中に残っている。それ以上に、自分の胎の中で育っているものは、まぎれもなく自分の血を継いだ命なのだ。世界でただ一人、血の繋がった家族なのだ。
 長い間孤独に生きてきた彼女にとって、これ以上の生きる支えは無かった。
 やがて彼女は、一人の元気な男の子を生んだ。それがアクトだった。
 だが、彼女の気力が続いたのはそこまでだった。
 身も心も捧げていた男を失ってしまったという事実は、やはり彼女にとって大きな喪失だった。
 出産を終えた彼女は、急に心身ともに衰えていった。生まれた息子、アクトがまともに働けるようになる前に、ベッドから動けない程に病んでしまったのだった。


「それでも、食って生きてかなきゃいけなかった。ガキだったおれは漁の船にも乗せてもらえなかったから、捨てられてた小舟を何とか修理して、釣竿を見よう見まねで作って、釣りして何とか食いつないでいた。
 最初こそ母さんの体力もまだあったから食べ物の量も少なくて済んでいたが、時間が経つにつれ母さんの体力はどんどん落ちていって……。
 レイに出会えてなかったら、おれ一人の働きだけじゃとても食いつなげなかった。多分おれも母さんも飢え死にしてたと思うよ。レイには本当に感謝している。
 だけど、とにかくそんなわけだから、母さんを放ってレイのところに行くわけにはいかないんだ」
 レイは痛みに耐えるような表情で、目を瞑ってただただ耳を傾け続けていた。
「誤解しないでほしいのは、おれは別に食料が欲しいからレイとこういう関係になっているわけじゃないって事だ。おれは本当にレイの事が好きで、可能な限り一緒に居たいと思っている。そうでもなければ、こんなに毎日出てこないよ。毎回数日食っても余るくらいに魚を獲ってくれるんだからな」
「分かってる。アクトの気持ちは分かってるよ。だって毎回優しく愛してくれるもん。
 私達の出会いは、多分偶然じゃないと思う。海の神様がアクトの事をちゃんと見てて、身も心も持て余していた私と出会わせてくれたんだと思う」
「……泣いているのか? レイ」
「ううん。でも、大変だったんだなぁって思って。私はそんな事も知らずに、アクトに会えるたびにただ嬉しくてはしゃいでて」
「それはおれも同じだよ。レイに会えるたびにどきどきして、生きているって思えた。本当は母さんの面倒を見ていた方がいいのかもしれないけど、おれがそばに居ると母さんの方が世話を焼きたがって無理をするからな」
「……でも、そのお母さんの事さえどうにか出来れば、アクトは私のところに来てくれるんだよね」
「え、あぁ、まぁな」
 レイはまっすぐ強い視線をアクトに向ける。その瞳の中にはわずかな迷いが残っていたが、それ以上に強い決意が見て取れた。
「私に、一つ考えがあるんだけれど……。試してみない? もしこれが上手くいけば、もう何も気にせず、私達幸せになれると思うの」
 アクトはいつもと違うただならぬ様子のレイに戸惑いつつも、その考えとやらに興味を引かれずには居られなかった。


 アクトが家に帰って来たのは、日も沈みかけた夕暮れの事だった。
「ただいま」
「あぁ、おかえりなさいアクト。今夕食の準備をしているところよ」
 帰って来るなり無理して台所に立っている母の姿を見つけ、アクトは荷物も放り出してすぐさま彼女に元に駆けつける。
 振り返ろうとしてふらついた母の軽い身体を支え、抱き上げる。
「母さん何しているんだよ。家事はおれがやるって言ってるだろ」
「それでも、一日仕事して帰ってくるあんたの事を考えたら、身体が勝手に動いてしまうのよ」
 今日一日のレイとの逢瀬を思い出し、アクトはばつが悪そうな顔になる。
「別に、遊んでいただけだよ」
「それでも、腹を空かせて帰ってくる事には変わりはないでしょう?」
「おれは母さんが無理する事の方が心配だよ」
「ごめんね、アクト」
「謝る事じゃない。家族だろ」
 母をベッドに寝かしつけ、シーツをかけてやる。
 母は疲れたような表情で笑うだけだった。
「すぐに飯の準備をするから、ゆっくり休んでろ」
「アクト、改めて見ると、あんた父さんに似て来たわね」
 荷物に戻りかけたアクトは足を止め、母の方へと振り返る。
「優しいところ、あの人にそっくりだわ」
「……まだ未練があるのかよ。それなら、どうして諦めたんだよ。おれが出来たのなら、それを理由に追いすがる事だって」
 母は力なく笑う。見ている者の方が胸が痛くなるような、寂しげな笑みだった。
「そうね。でも、私はあの人の幸せを壊す事はしたくなかったの。他の人と一緒に居る方が、私と一緒に居るより幸せなら、しょうがないって」
 アクトは母の顔を見られなかった。どんな顔をすればいいのか分からなかった。
 急に喉と胸が締め付けられたようになり、搾り出すようにしてようやく言葉が出てきた。
「だったら、母さんの幸せはどうなるんだよ」
「私は、あんたが居てくれるだけで幸せなのよ。
 いつも言っているけれど、あの人は別に私の事なんて愛していなかったの。私が一方的にあの人の事を想っていただけ。私が、あの人の子供を欲しがっただけなのよ。あの人は優しいから、私のわがままに付き合ってくれただけ」
 そんなの、母さんの身体が目当てだったってだけじゃないのか。アクトは思いつつも、口には出せなかった。そして、レイが自分の子を宿したら、絶対にそばに居続けようと改めて想いを強くした。
「おれは父さんの代わりじゃないぞ」
「当たり前よ。あんたは私の自慢の息子。あの人よりもずっといい男よ。
 もし愛し合っている人が居るなら、私よりその人の事を大事にしてあげなさい」
 その表情は棄てられた女のそれでは無く、強い母のものだった。
 アクトはどう声をかけたものかと迷う。思い浮かんだのはレイとの秘密の企てだった。けれど結局何も言えず、アクトは放ったままの荷物に戻った。
 作業に集中すれば余計な事も考えずに済むだろうと、食料にする分と村で金に代える分とを仕分け始める。
 そしてそのうち、明らかに魚介類とは違った薄紫色の小瓶に指が触れた。
 レイから渡された薬だった。
『使うかどうかは、アクトに任せるわ。でも、私はアクトがどんな選択をしても、絶対にそばを離れないからね。アクトが幸せになるなら私も幸せになる。アクトが罪を背負うなら、私も一緒に罪を背負う』
 小瓶を見つめたまま、アクトはしばし逡巡する。
 しかし答えは出ず、彼は戸棚の奥にそれを仕舞った。
 ……そんなアクトの様子を、母親は静かに見守り続けていた。


 アクトは腕によりをかけて夕食を作り上げた。
 海産物をふんだんに使ったそれは栄養満点であるとともに、母親の体力の事も考えて消化しやすく調理してあった。
 普通であれば、これだけの食事を摂っていればそれだけで元気になれるような代物ではあった。だがそんな食事を毎食摂っていても、アクトの母親は一向に健康を取り戻す兆しを見せては居なかった。
 食事が終わると、母はすぐにベッドに戻り、眠りについてしまった。
 アクトはそれを見届けると、換金分の海産物を抱えて村の中心部へと向かった。


 ………………………………


 ……………………


 …………


 扉が閉まる音が響き、アクトが出て行った事を確認すると、パスは静かにベッドから抜け出した。
 戸棚を漁り、アクトがこっそり隠していた小瓶を見つけ出す。
 彼女はしばらく小瓶を見つめ続けた。
 自分がどうするのが、息子であるアクトにとって一番幸せなのか。それを考えながら、小瓶をじっと見つめ続けていた。
15/12/27 12:39更新 / 玉虫色
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■作者メッセージ
※なお、数年前はおねショタモノだった模様。


初めましての方は初めまして。お久しぶりの方はお久しぶりです。

真冬に夏の海の話を投稿するべきか悩みましたが、思い切って投稿する事にしました。
というのも、この話は夏に前のPCがお亡くなりになる直前に書き上げてあったものでして、そのためこんな時期なのに舞台が夏になってしまっているのです。
今回データだけ回収できたので、せっかくなので加筆修正して投稿することにしました。
書いた時期が近いので以前投稿したマインドフレイアともちょっと似ているかもしれません。いや、似てないかな。

寒さが厳しくなってくる頃合いですが、また夏の話にお付き合い頂けたら嬉しいです。
ここまで読んで頂きありがとうございました。

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