読切小説
[TOP]
ひふみアンフェア
1

 埃と黴の匂いをどこか心地いいと感じるのは、その人が同じような気質を持っているからなんだと、彼女は教えてくれた。なんでも知っている彼女が教えてくれたことの中で、僕が気に入っていた言葉の一つだ。
 その言葉は、とても丁寧な字で綴られていた。

 埃と黴は似たもの同士なんですよ。だから、その匂いをどこか懐かしいだったり、心地よさを感じる人もおんなじなんです。

 残念ながらお頭の出来が違う僕は、この雑学にほへえと感心するしかなかった。綴られた字面の綺麗さもさながら、それっぽく納得できてしまった。埃と黴の住処となっていたあの教室で。
 準備室。
 準備室とは名ばかりの、物置小屋だった。机に椅子、使われなくなった本がこれでもかとぶちまけられていたあの教室は、控えめに言っても人間がどれだけ整頓というものを放棄できるかの、いい見本だったと思う。
 そんな教室を見つけたのは十六歳の、入学したての頃だった。まだまだ青臭くて、あちこち探しても鋭角しかなかったような頃だ。今はどうかと聞かれると、鈍角が一、二個増えた程度かもしれないが。
 でも、そう思えるくらいには大人になっていた。
 それを少し寂しく感じ、頼もしくも感じる。まだまだ人との付き合いを苦手としていた頃の僕は、まだ残滓を残してはいるけれど。
 あのとき、もっと大人だったら彼女とマシな出会い方ができたのかもしれないと、考えることがある。きっとそれは間違いではないだろう。けれど、こうも思う。
 等身大で、ありのまま触れ合えたのは、あの頃の僕だからこそなんだと。そう考えると、胸の奥が少しちくりとする。たぶん、残滓がいつまでも心の中でこびりついているからだ。それでいい。
 それでいいんだ。

 準備室のことに話を戻そう。
 あの教室を見つけたのは本当に偶然だった。まだ入学してから三か月程度だったと思う。三ヶ月もすれば学校の構造を把握するのも容易いかと考えていた僕は、しかしその期間をどこかのグループに所属することに費やしてしまっていた。
 そうしていないと生きていけない、息苦しいクラスだった。
 だから、そこからようやく授業で使わない教室の位置も把握する余裕ができた僕は放課後に、校内を見て回っていた。そうして、三階の隅に準備室を見つけたのだ。
 最初、なんの準備室かわからず、とりあえず僕はその教室のドアを開けてみて唖然とした。
なんというか、違法建築という言葉が机や椅子にも適用されるなら間違いなくそれは違法建築だった。
 机と椅子の山。
 よくもまあ崩れないなとここまでくると感心してしまうレベルのものだった。何しろ向こう側の窓が見えない。かろうじてカーテンが閉められているということが確認できるくらいだ。それ以外は黒板に、ちょっとしたクーラーが取り付けられているとか普通の教室なのに、その山だけが異常すぎた。
 崩れてきそうなのに崩れない。ある意味で奇跡的なバランス感覚で成り立っていた山に、しかし僕は恐さと同時に好奇心も覚えた。
 良くも悪くも、まだまだ子どもだったのだ。
 僕はその山の下、土台となっている机に触れてみた。
 ギギ、とまるで鳴いたような音が山から発せられて、すごくドキドキした。その興奮冷めやらぬうちに僕は少しだけその土台を動かした。たまらない、くだらないスリルだった。
 気づけば酷い量の汗が出ていて、僕は手近な椅子に腰かけるとしばらく埃と黴の中で深呼吸をした。
 とても暑かったけど、不思議と不快な暑さではなかった。
 違法建築物は未だに精緻なバランスで建立している。たまらない昂揚感があった。秘密基地を作り上げた時のような得も言われぬ満足感と、どこか落ち着く自分だけの居場所を見つけた感覚が胸の中にあった。
 教室から出ると、夕焼けが僕の網膜にひどく焼き付いた。
 外で部活動に勤しんでいるやつらの野太い声と、二階で楽器をひたすらいたぶっている吹奏楽部の演奏が今頃になって聞こえてきた。
 どこか現実と切り離された空間のように思えて振り返っても、あの山は未だに立っていて、間違いなく現実だった。
 その日から僕は、週に一回、多くて二回足を運んでは山と向き合っていた。ちょっと土台を動かしては、そのスリルを味わう。
 本当にバカみたいだったけど、それがなぜか落ち着いた。
 いや、それ以外にも、あの空間自体が、どこか僕には居心地がよかった。青春とか、運動とか、明るくて眩しいものから一切を隔離してくれている気がした。
 クラスのグループの誰かと話していても、僕は適応しきれていなかった。一緒に帰りにコンビニへと足を運んで、コラボ商品を手にとってああだこうだと話していても、ずれている感覚だけが空しく影を深くしていくばかりだった。
 もうそれは違和感という言葉では不十分なほど、僕の中では決定付けられていた。だから僕は準備室に居場所があったのかもしれない。
 彼女との出会いはそんな頃のことだ。

2

 手紙を書いた。別に宛先は特に書く必要もなく、文面はとるにたらないくだらないことばかりだった。ただ一言こだわりがあるとすれば、『ここにはよく来る?』という一文くらいだろう。
 本当に単なる疑問だったのだ。
 こんな贅沢な場所を他の学校の誰も知らないのだろうかと、ある日ふと考えた。そう考えるともう止まらず、僕が手紙を書いて実行までいくのに時間はかからなかった。とりあえず書くことは、同じ学校の中で話題になりやすい難しい数学の話題にした。僕からすれば本当にくだらないことだった。
 教師が悪いとかではなく、生理的に数字は受け付けないのだ。一つの数字で全てを決定させてしまう、有無を言わせぬあの力を与えた数学者一族郎党ついでに田中もまとめて皆殺しにしてやりたいくらいには受け付けなかった。
 そんなことと、そしてここに足を運ぶのかを確認する文を添えて、散々悩んだ挙句、手紙は山の下に置くことにした。
 少し危ないかなとも思ったけれど、ぱっと教室で目立つものの近くがいいと考えるとそこしか思い浮かばなかった。
 正直な話をすれば、これはただの自己満足に近かった。ここにいるのは自分だけだと証明するような、そんなもの。ちっぽけなプライドを振りかざすのにも似ていたと思う。
 だから、数日後にまた準備室に足を運んだときに手紙が変わっていたときには本当に驚いた。

 私も数学は大嫌いだけど、わからないことはありません。ここへは時々来ます。手紙が落ちていたのでびっくりしました。

 とても整った字だった。なんとなく女の子かな、という根拠のない期待が押し寄せてくると同時に、この場所を知られていた悔しさと喜びとがいっぺんに襲いかかってきたので、僕はどんな表情をすればいいのか困ってしまった。
 それでも、話相手を見つけた僕の中で、もっと彼女とコミュニケーションを取りたいという気持ちが首をもたげたのは、とても自然なことだった。僕はすぐにコンビニで適当な手紙を購入して、放課後の時間ギリギリまで粘って返事を考えた。

 ほんの遊びのつもりで手紙を置いたので、まさか返事があるとは思ってもみませんでした。
 もしよかったら、これからも話をしませんか。

 生まれてこのかたコミュニケーションを取らないように、あるいは鍛えずに生きてこようとした僕が初めてそれを後悔した瞬間だった。
 これがデキるやつが書けばもっと洒落っ気もある、気の利いた文面になるのだろうと考えると急速に自信が姿を隠し、手紙を残すことを躊躇わせたけど、そこは半ばヤケになって置いてきた。
 そして家に帰るとまた別の種類の後悔というものが襲ってきて、もしかして嫌われたりしないだろうかとか、気持ち悪がられてないかとか考えが負の螺旋に入ってしまうともうキリがなかった。
 それでもしばらくの間、具体的には五日ほど準備室に足を運ぶことを我慢したのは自分でもえらいと思った。
 昂揚感と不安でぐちゃまぜになりながら過ごした五日間は、それまでの僕にとっては一番長く感じた五日間だった。今でもあれほど長く感じたことはない。
 だから返事があった時は息が詰まるほど嬉しかったし、安心した。

 こちらこそ話相手がいるのは嬉しいです。どうぞよろしくね。
 ところでそろそろ数学のテストなので雨も降ってないのに憂鬱になりそうな気分です。本当に数学なんて生まれてこなければよかったのに。でも田中君は明らかに関係ないよねそれ。

 それを読んでいる最中、自分でも言い表せない感情が胸の底からじわりと身体を伝播していくのがわかった。なんとなく、優しい人なのかなと思った次の瞬間には階下の吹奏楽がやかましくなり、僕は何かを弾き出すようにして教室のドアを閉めた。
 音が遮断されると、僕はあらためて椅子に座って、何度もその文章を読み返した。どうして一つ手紙なんかでここまで集中できるのかが自分でも不思議に思う反面、納得する部分もあった。
 だからそれに気づいた瞬間、少しだけ笑いがこぼれた。
 どういう返事にしようか。
 それだけを考えるのがなんだか楽しくって、僕は必死に返事を書いた。ほぼ静謐に満たされた空間で、シャーペンが文字を綴る音というものが案外心地いいものなんだということを、僕はこのとき初めて知った。
 でも同時に恐ろしさもあって、下手に返事を書けば一気にこの関係が壊れてしまうんじゃないか。そんな恐怖が縋る思いをすべらせて、書いた文章はなんだか素っ気ないものになってしまった。

 ありがとう。こちらこそよろしく。
 数学は唾棄すべきものだと思ってるから、テストは受けなくていいかなと考えてます。いや、本当は受けなきゃいけないから赤点を回避できればそれで……。

 自分で読んでて不愛想なヤツだな、いったい誰だこんな文章を書くやつは、二次創作の殻にでもこもってろと口さがなく言ってやりたくなった。けれど悲しいかな、これを書いたのは僕だった。
 そこからの後悔の念は凄まじいもので、それを忘却したいがあまりこの僕が真面目に勉強に取り組もうと家の勉強机に向かうまでのもので(まあ案の定三十分程度で寝落ちした)、類を見ないほどだった。
 自分を落ち着かせようと必死だったのがよくわかる。
 だから返事が返って来ていたときには、心底ほっとした。

田中君はほったらかしなんだね。いや誰だかは知らないけれど(笑)
 私も赤点を回避できればそれでよしです。知りたいって気持ちはとってもあるんだけどね。なかなか余裕がなくって。ここは安心する憩いの場所の一つになりました。

 読んで、息を吐いた。
 一言で言い表せば、心ウキウキワクワクというCMのあのフレーズがまさにぴったりだった。まだ二十歳じゃないので飲酒はしないけれど、ビールに胸躍らせる大人たちの心情を理解できた気がした。
 僕たちの密かな交流はそこから密度を増していったけれど、お互いに一定のラインは守っていた。
 一週間に一度の交換、そして来る日とそうでない日もなんとなくわかっていた。このなんとなくわかる、という部分に僕はあたたかいものを感じていた。
 相手の姿を確認する好奇心をくすぐられなかったかと訊ねられると、そこは素直にくすぐられたと答えるしかないけれど、僕はそれを堪えていた。もし一方的にでも、もしくはお互いに姿を見てしまえば、この交流はあっさりとなかったことになってしまう。
 そういう、根拠のない確信があった。
 万が一にも鉢合わせしないかには細心の注意を払ったし、お互いに手紙でのやり取りでも名前、クラスすら聞かなかった。もし一度でも聞きたいと思ったらその場で深呼吸をして、その気持ちが腹の底におさまるまで待ってから文章を書いた。
 もし少しでも相手のことを――外面的なことを知ってしまえば、幻想は殺されてしまう。そんな縛りをもって書かれた文章はむしろ、お互いの深いところに根付いたことを知り合うことができた。
 考え方だったり、好きな事嫌いな事。
 たとえば彼女は色んなことを知りたいという知識欲が強くて、学校はある意味心地いいこと。逆に言えば、それに集中し過ぎるから昔から人付き合いがちょっと苦手なこと。
 好きな音楽は聞いてみてストライクゾーンに入れば何でも聞くこと、この間買った甘いものが甘さ控えめと知らずに買ってしまって損した気分になったこと。
 不思議なことに、彼女の内面を知れば知るほど、僕の考える理想の女性像の内面と一致していた。あまりに一致し過ぎているせいで、一度これは僕の無意識が書いた代物なんじゃないかと疑ったけれど、手紙から少し香水の香りがしたおかげでその可能性はなくなった。
 会ってみたい。
 そう思うと同時に嫌悪感が足首を掴んで僕を放り投げた。
 暗闇の中で、手探りで互いを探し合っているような感覚が居心地がよかったのに、どうしれそれをぶち壊してしまうようなことを考えているのか、自分でも理解不能だった。
 気づくと僕の勉強机に仕舞われている手紙は、そこそこの量になっていた。
 気分転換に部屋の窓を開けると、待ってましたとばかりに蚊が入り込んできて、そいつと五分ほど格闘する羽目になった。
 手の中で短い生涯を終えた蚊をゴミ箱に捨てると、自分に気づかないふりをしてベッドに潜り込んだ。
 ちょうど七月も終わりかけた日のことだった。

 彼女の趣味を知ると、少なからずどんなものか試したくなるのが人の性というものだった。準備室にいつものように入ると、期待を裏切らずいつもの場所に手紙があった。
 それを広げ、椅子に座って読む前に僕はアイフォンを取り出してイヤホンを挿し込んだ。中には新しくダウンロードした音楽が入っていた。彼女に教えてもらった音楽だ。
 激しいロックを聞きながら僕は手紙を眺めた。音楽以外は何も聞こえない。何も聞こえないはずなのに、悪魔の声はすぐ耳元で囁いている気がする。
 手紙を静かに読めず、なんだか悲しくなった。

 知識欲なら負けない気がする。男子高校生の知識欲は存外なめちゃいけないものだしね。このエネルギーはどこか別のところへぶつけた方がいい気もするけど、まあそれは気にしない方法で。

 うわなにそれ、なんだかやらしい(笑)。でも、知識欲なら負けないから。私は君のことだって知りたいし。これ、多感な年頃のオコサマには刺激が強すぎるかな(笑)

 おっと、あまり見くびってもらっちゃ困るな。僕はこれでも精神的には結構な大人なんだから。親の言うことはいちいち疑問を持ってるし、教師の言うことにだってそれが本当かどうかいちいち疑ってかかってるよ。

 それ、単なる反抗期だよ(笑)。

 そんなやりとりが、季節の流れるスピードで上滑りしていった気がする。それは、錯覚ではないはずだ。

3

 僕の中でやましい気持ちが(決していやらしい気持ちではない。念のため)膨れていく一方で、それと同時に怖いこともあった。
 僕は彼女と手紙のやり取りをしているうちに、勝手に彼女を都合のいい方向へと変えていっていないかと思い始めた。
 二人の距離は確実に近いものになっている。それは間違いない。外面を知る代わりに内面を、深い場所を知っていくのだから、お互いのことをよく知っているのはもうわかりきったことだった。
 そうではなくて、僕の彼女が知らない部分。
 背は高いんだろう、とか。肌は白いんだろう、とか。
 僕は知らず知らずのうちに、自分の中にある彼女の像というものを都合よく変えていってしまっている。それに気づいた途端、自分勝手な自分に嫌気がさした。
 ただそんな中で確かなことも一つだけあって、僕はこれまで人とあまり接することなく生きてきた。けれど、他人を知るということは、自分のことを相手にそっと伝えるのは楽しいということ。
 それだけは揺るぎない部分だった。
 そうして僕は彼女と一定の距離を保ちつつ、密やかな交流を続けていっていた。
 けれど皮肉なことに、交流をすればするほど、実際に会いたいという気持ちはおさまりがつかなくなっていった。
 想像しては、くしゃくしゃと丸めて捨て、想像しては、くしゃくしゃと丸めて捨て。
 情けないが、僕のそうした内面の弱さは気づかないうちに文面にも露出してしまっていたらしく、彼女からも心配されるほどだった。

 うんうん、よろしい。
 ところで、最近何かあったのかな。少し文面が泳いでいるように見えてしまって、ちょっぴり心配です。もしよければ相談してね。力になれることならなるから。

 この文面を見たとき、たまらなく死にたくなった。
 縋るものがあるなら縋りたい想いで字に触れても、あいにく文字が浮かび上がってくるだとかそういう現象は起きなかった。
 指先を少し黒鉛で汚しただけ。文字から思惟さえ感じ取ることができない。
 窓を開けると、冷えた風が僕を落ち着かせてくれた。肌を撫でられ、身体と頭を冷やすと頭の中で色んなことが渦巻いた。
 冷静になれたはずだったのに頭の芯はぼんやりとして、右に風が吹けば右へ、左に風が吹けば左へと流れていくような曖昧加減だった。
 そして自分で気づけば家に帰っていた。本当に準備室で何をしていたのかがしばらく思い出せず、ただ嫌な予感だけが茫漠と目の前に横たわっていた。
 いつまで悩んでいても仕方ないとお風呂に入った時になってようやく僕は自分が何を書いたのかということを思い出して、風呂場でそのまま溺死体として発見されてしまいたくなった。
 僕は返事に、会いたい旨を伝えていた。

 その日初めて僕は暗黙の了解を破り、手紙を回収しに準備室へと向かっていた。普段なら回収されていることを喜ぶところが、まったく逆のことを祈っている自分がひどく哀れだった。
 かなりの早歩きで向かったせいか、息切れも激しかったが身体に鞭打って準備室のドアを開けた。
 そこに手紙は残っていなかった。
 懺悔したい気持ちになりながら、僕にはもう待つことしかやれることがなかった。何せ相手の素性は一つとして知らない。いくら後悔しても時間はもとには戻らない。人間が時間を遡ることなんて不可能なんだから。
 今まで散々書きたくても書けなかったことをいとも簡単に書いた結果がこれだった。
ざまあみろ。
そんな声が自分の内側からして、行き場のないどうしようもなさから唇を噛んだ。やたらとしょっぱい血の味がした。
一週間経っても返事は来ずに、いよいよ僕の不安は頂点に達しかけていた。二週間経つとそれも諦めに変わっていった。それでも未練がましく僕の足は準備室へと向かうばかりだった。
 返事があればいい、という気持ちと、手紙をみるのが怖いという気持ちとが自分の中でせめぎ合っていた。
ただぼうっとしていればそんなことを考えずに過ごせたかもしれない。でもそんなことをする図太さというものは持ち合わせていなかった。
だから、彼女の姿を見た時に、呼吸ができなくなった。
白髪で、細い腕だった。綺麗な顔だった。
その顔がこちらを見て、はっとした様子で走り出したのを見て、僕も慌てて後を追った。ほとんど何かにはじき出されたような足どりで、呼吸も無茶苦茶だった。
校舎内を走って、走って走って、走って。
お互いに息も絶え絶えになったところでようやく足が止まった。久々にやった激しい運動にどっと汗が噴き出ていた。汗だけじゃなくて別の体液も一緒に出ているんじゃないかと錯覚しそうなほどだった。
 彼女はどうやら腹をくくったらしく、こちらを見据えてきた。柔らかいけれど鋭さも孕んだ視線に、吐き出しかけた言葉を喉で詰まらせた。
 あなたなんですか。
 名前はなんですか。
 もしよかったら、僕たちこれからも友達でいませんか。
 そんな言葉の数々があったはずだった。互いの言葉を知りきっているのに、知っていない。そんな奇妙な関係が生み出した齟齬だったのかもしれない。
 口に出せば世界が壊れてしまうかもしれない。いつの間にか自分の中で自分が変わっている感覚がして、冴え冴えとした冷たさが僕を突き動かした。

「あの、自己紹介、しませんか」

 出た言葉はそれだけだった。
 彼女は目を丸くして、口をぱくぱくさせて。
 そして、
 僕の中での強い強い、衝動みたいなものだけが、僕を動かした。

4

 あの日以来、久しぶりに準備室を訪れてみた。ドアには錠前がかけられて、もう入れないようになっていた。
 違法建築物は今でも建立しているのだろうか。確かめてみたかったけれど、その術はなかった。
 変わっちゃうんだな。そう胸に呟いてから、僕はその場を後にした。
 後ろを振り返ることはしない。
 少しだけ前を向こう。そう思った。
16/06/22 15:28更新 /

■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただければ幸いです。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33