読切小説
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どこにでもある、メデューサと青年の話
あるところに、女の子がいました。
女の子には、好きな男の人がいました。
でも、男の人には好きな女の人がいました。
それに、男の人は女の子のことを知りません。
そこで女の子は、女の人の真似をすることにしました。
本物の女の人の真似だけではなく、男の人の好きな女の人の真似も。




人里から少し離れた森の中、小屋の前に一人の少女がいた。
短めの髪も、濡れた瞳も、身に纏う服さえも黒い、小柄な少女だった。
彼女の瞳にはいくらかの不安が浮かんでおり、その表情と相まって弱気な印象を辺りに与えるような顔立ちだ。
そして事実、彼女は生まれつきそうだった。彼女はドッペルゲンガーという魔物なのだから。
だが彼女は今、一世一代の勇気を振り絞っているところだった。
「……大丈夫…大丈夫…大丈夫…」
彼女は手をきつく握りしめながら、消え入りそうなほど小さな声でそう囁く。
彼女の内を流れる、ドッペルゲンガーの血にすべてを任せれば、何もかもうまくいくはずなのだ。
小屋の中にいる彼女の想い人と暮らすなどということは、彼女の同胞たちが何百何千と繰り返されてきたことだ。失敗するはずがない。
だが、彼女の口は乾き切り、対照的に掌は汗でじっとりと濡れていた。
このまま、喉の渇きを癒しに行くと称して逃げ出してしまいたい。
彼女の心中で、彼女の一部分が緊張に耐えかねて、すすり泣きながら主張していた。
しかしそれでは先週と先月、実のところここ十数回ほどの繰り返しになってしまう。
逃げ帰って心を苛む寂寥感と後悔に身を任せるか、心臓が裂けそうなほどの緊張に耐えて想い人と接触するか。
今の彼女は、ついに後者の選択を成した。
「……!」
彼女が一度深呼吸すると、彼女の衣服から黒が溢れ出した。
粘度の高い黒色油のように、溢れ出した黒は彼女の足もとに滴り、水たまりを成していく。
やがて、彼女の髪からも黒が溢れ出し、顔や首筋などを覆っていった。
そして、彼女の姿が完全に黒の中に消えてしまう。
黒が脈打ち、蠢動し、次第に形を変えていく。彼女自身を変えるために。想い人の理想となるために。
音も立てることなく、黒い塊から二本の枝が伸び、その先端がさらに枝分かれして腕を形作る。
足元に溜まった黒は細く伸び、足と一体化して厚みと太さを増しながら、両脚を一本の何かに変えていく。
伸びた二本の腕の間、彼女の頭だった黒からは髪というには太い何かが伸び、背中にかかるほどの長さになっていく。
やがて小屋の前に、黒一色の彫像が現れた。下半身が蛇の胴尾となった、女性の姿だ。
黒一色のその姿は、まるで黒曜石か何かを彫ったかのようだ。
黒はその形を細部まで整えると、今度は色あせ始めた。
黒の中から肌の白が浮かび上がり、彫像が生きた者へと変わっていく。
程なくして現れたのは、一体のメデューサだった。
だがその肌にはいくつもの傷が刻まれ、蛇体の鱗は幾枚も抜け落ちていた。
血を流し、桃色の肉を鱗の間から晒す彼女の姿は、痛々しさに満ちていた。
彼女自身もまた、全身に生じた傷に苛まれていたが、問題なかった。
これが、ドッペルゲンガーとしての彼女自身が嗅ぎ取った、想い人にとっての理想なのだから。
「く…う…!」
体中を掻き毟る痛みに呻きながら、彼女は崩れ落ちた。
どさり、という音が辺りに響き、小屋の中から何者かが動く気配がする。
遅れて扉が開いて、中から若い男が辺りをうかがうように顔を出した。
彼の双眸はすぐに、小屋の前に倒れ伏すメデューサの姿を捉えた。
魔物が小屋の前にいるという事実と、その全身に帯びた傷に彼の目が見開かれる。
「……」
しばしの間彼は逡巡してから、小屋の外へと踏み出し、彼女を介抱するようため抱えた。
それはメデューサに化けた彼女にとって、初めて感じる想い人の手の感触であった。
青年の手のぬくもりに傷の痛みが薄れていくような錯覚を覚えながら、彼女は意識を失っていった。




目を開くと、少女の視界にぼやけた何かが映り込む。
自然と焦点が合い、自分の見ている物がどこかの天井であることを、彼女は悟った。
「気が付いたか?」
視界の端から、若い男の顔が入り込み、そう口を開いた。
「……」
すぐそばに、文字通り手を伸ばせば届きそうなほどの場所に、恋い焦がれた想い人の顔がある。
彼女は無言で、彼の顔を見上げたまま、自身が成し遂げたのだという実感を味わっていた。
「おい、お前…」
「人ごときにお前呼ばわりされる気はないな、人間」
彼女の唇から自動的に鋭い言葉が紡ぎ出された。
勿論彼女の意志ではない。ドッペルゲンガーが持つ、相手の理想を現実のものとする能力によるものだ。
ドッペルゲンガーは、男性が理想とする女になることができる。
それは姿どころか言動や性格は無論、出会いの瞬間さえも理想の物とすることができるのだ。
この青年の場合、理想の相手は高圧的なメデューサで、出会いは怪我して身動きが取れないところを介抱する、というものだったのだろう。
「貴様が誰かは知らないし、お前と呼ばれるほど親しくなった覚えも無い」
彼女は内心青年に頭を下げながら、ドッペルゲンガーとしての能力に従い言葉を紡ぎ続けた。
「手当をしてくれた点については感謝する。だが、それだけだ」
彼女の両手が自動的に動き、シーツに手をついて身を起こそうとする。
「待て、動くな」
「ふん、自分の身体のことぐらい自分で理解して…っ!」
止めようとする男の言葉を遮った彼女の唇が、不意に強張り吐息を漏らす。
彼女の全身に走った痛みによるものだ。
「…何があったのかは知らないが、全身の傷はかなり深かった。無理に動くと傷が開く」
青年は、苦痛に身を固まらせる彼女をベッドに横たわらせながら、そう言った。
「しばらくこの小屋で暮らすといい」
「く…私ともあろうものが…人間などに…」
苦痛を堪えながらの口惜しさに満ちた言葉に、青年はシーツを彼女の身体に掛けた。
「おとなしくしていろ、食い物を用意してくる」
彼はそう言うと、彼女の視界から出て行った。遅れて、ドアの開閉する音が響く。
「……はふぅ…」
青年が完全に小屋の外に出て行ったことを確認すると、メデューサの表情が和らいだ。
彼の理想の状態から離れた、いわゆる『素』の表情だ。
「あーあ…ひどいこと言っちゃった…」
先ほど彼に向けて放った言葉を思い返しながら、彼女は呟いた。
彼が見ている前では『高圧的なメデューサ』でなければならないため、ドッペルゲンガーの能力が自動的に理想の言葉を紡いでしまうのだ。
本心としては彼女も心苦しいのだが、それが想い人の理想ならば仕方が無い。
理想に身を委ねていれば、自然と彼の心は引き寄せられ、愛情を向けてくるはずだ。
たとえ彼の愛情が彼女自身ではなく、彼女の演じるメデューサに向けられたものであっても、彼の視線の先にいるのは彼女に変わりなかった。
「…がんばらなきゃ…」
彼女はシーツの下で小さく囁くと、ドッペルゲンガーの時の姿の表情を消し、『高圧的なメデューサ』に戻った。




その後、青年は満身創痍の彼女の看病を行い、彼女は『高圧的なメデューサ』として想い人にきつい言葉を投げかけていた。
『人間に世話をされるなんて、五体満足だったら身投げしてやるところだ』と、全身を苛む痛みを堪えながら、青年に向けて呻いた。
『食欲がない、食べたくない』と食事の度に嫌がり、青年の癪に障る寸前で腹を鳴らして、自身の空腹を認めた。
青年は辛抱強く、彼女の演じるメデューサに付き合い、食事の世話や包帯の取り換えをしてくれた。
そして、十日二十日と日が過ぎるにつれ、メデューサの全身の傷は徐々に癒えていった。肌の傷がふさがり、鱗が抜け落ちた場所から新たな鱗が顔を出す。そして傷が癒えていくのに合わせて、彼女の言葉からとげとげしさが失われていった。
ベッドから身を起こせるようになった日、肩を貸そうとする青年を制しつつ、蛇体で自身の身体を支えられることを見せつけながら、『これで少しは負担が減るな』と口にし、慌てたふりをしつつ『私の負担が減るんだ』と付け加えた。
傷を覆っていた包帯が取れた日、『だいぶ良くなったな』という青年の言葉に、彼女は『貴様の世話がなくとも、もう一月もあれば治っていた』と言った。
そして、全身の傷が傷痕となったころ、ようやくメデューサの口から感謝の言葉が紡がれたのだった。
青年はメデューサの感謝を素直に受け入れ、彼女はようやく己の本心に近い言葉を紡げたことを喜んだ。
そして、それからメデューサは自分のうちに「いつの間にか」芽生えていた恋心に気が付き、青年に想いを寄せるようになった。
その後青年は、メデューサと一緒になったと思ったまま、幸せに末永く暮らしましたとさ。
12/06/17 00:07更新 / 十二屋月蝕

■作者メッセージ
カミングアウトしていないだけで、実はドッペルゲンガーって意外といるのではないのでしょうか。
男性の望む理想の姿と理想のシチュエーションを演出し、理想のルートで二人の想いが一つになり、ついに結ばれる。
そうやって想い人の側に、ドッペルゲンガーは入り込んでいるのではないのでしょうか。
あなたの側にいる魔物娘は、本当にその魔物娘なのでしょうか?
それだけのお話でした。

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