読切小説
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終わりなき日々
 彼は独りで世界にいた。人はおびただしいほどいる。だが、それらの人々は影に過ぎない。皆、彼をすり抜けていく。
 いや、影であるのは彼のほうだ。人々にとっては、彼は存在しない。
 薄明りに照らされた世界で、彼は独りで歩き続けた。

「いつまで寝ているつもりだ、起きろ!」
 バルドゥールは、自分を叱責する女の声で目覚めた。目を開くと、豊かな金髪をたなびかせている女が見下ろしている。女の背には白く輝く翼が広がっている。バルドゥールは、頭を振って意識をはっきりさせて女を見る。彼女は、自分を指導する天界の戦士ヴァルキリーだ。
 すでに夜は明けていて、日差しが辺りを照らしていた。深緑色の草の葉が日に輝いている。バルドゥールは、マントにくるまっている身を起こした。横たわっていた所の草の匂いが鼻をくすぐる。
「さっさと顔を洗え。食事を済ませたら剣術の訓練だ」
 天界の戦士は、凛とした声でバルドゥールに命じる。
 妙な夢を見たな。目覚めが良くないぞ。バルドゥールは再度頭を振る。
「シグルーン、もう少し色気のある起こしかたをしてくれよ」
 バルドゥールは、ふざける事で夢を追い払おうとする。彼は、シグルーンと言う名の天界の戦士の体を見る。引き締まった体だが、豊かな胸をしていた。服の裾から見える白い足は、健康的な魅力がある。バルドゥールの腰に力が入り始める。
「元気があるようだな。訓練の量を増やすぞ」
 それはねえよ、とバルドゥールは呻き、清水の湧いた岩陰に歩いて行った。

 バルドゥールは、主神教団に所属する聖騎士だ。元は、反魔物国に所属する平凡な騎士だったが、天界の戦士であるシグルーンに見出される事により聖騎士となった。現在は、シグルーンの指導の下、騎士修行の旅を続けている。

 二人の騎士が草原を駆けていた。互いに剣を抜き、激しく打ち合わせている。黒馬に乗った男の騎士が攻め、白馬に乗った女騎士が受けている。馬が草を激しく蹴り上げ、剣戟の音が朝の空気の中に響き渡る。
「体の重心をずらすな!腕に力を入れすぎだ!」
 女騎士は男の騎士を叱責する。男の騎士は手綱を握りながら体勢を直し、力の入りすぎた腕の力を少し抜く。そして再び女騎士に斬りかかる。
 バルドゥールは、全身を歓喜で震わせていた。こうして訓練をしていると、鍛えられた体が躍動する。訓練によって自分の力が増してきていることを実感できる。それは官能的でさえあるのだ。
 バルドゥールは、シグルーンの姿に見惚れる。健康的で若々しい女体が、全身から力を発散していた。それでいて動きは優雅ですらある。兜で抑えられた金髪が光の中で輝き、引き締まった麗貌を引き立てる。バルドゥールは、自分の体の躍動感とシグルーンの生命の輝きに性の欲望を掻き立てられる。
 バルドゥールの視界の左に赤茶色の物が入った。それはバルドゥール達の方へ向かってくる。バルドゥールはシグルーンから剣を引き、赤茶色の物の方へ顔を向ける。それは大柄な牛だ。正気を失った者の様に突き進んでくる。
 バルドゥールは、シグルーンと素早く視線を交わす。二人は頷き、馬首を暴れ牛に向けて駆けだす。暴れ牛は、土を草ごと蹴立てながらバルドゥールへ突き進んでくる。牛の角は所々が黒ずんでおり、その汚い角をバルドゥールへ向けて突き進めて来る。
 全身から怒気を放つ牛を、バルドゥールは右へかわす。すれ違いざまに、剣の平を牛の後頭部へ叩きこむ。重い衝撃音と共に、バルドゥールの腕に確かな手ごたえが伝わる。牛は、口から涎を振りまきながら頭を振る。
 牛は、再びバルドゥールへ突き進んでくる。バルドゥールも馬首を変え、牛へと突き進む。牛と馬は、地を蹴る音を響かせながら草を踏み散らす。黒ずんだ角が突き進んでくる。バルドゥールは牛をかわし、後頭部へ剣の平を叩きこむ。衝撃音と共に牛の口から涎がはじけ飛ぶ。
 牛はふらつき、動きが鈍くなる。バルドゥールは馬首をめぐらし、元来た方へ駆ける。牛と並走し、牛の後頭部へ繰り返し剣の平を叩きこむ。そのたびに牛の口から涎が弾ける。牛は、頭を振りながら地面へ倒れ込んだ。
 バルドゥールは、牛の様子をじっとうかがう。牛は反撃する様子は無い。白目をむいて涎を垂らしている。
「よくやった。訓練の成果は出ている」
 シグルーンは、バルドゥールへ声をかける。シグルーンは、バルドゥールに並走していた。バルドゥールが危なくなればいつでも加勢出来る様に構えていたのだ。
 バルドゥールは、体の奥からこみあげてくるものに身を任せていた。熱量と力がこみ上げてくる。官能の渦が腰から広がって来る。力が弾けそうな自分の体、自分の汗の感触、牛の体から伝わってきた衝撃、草と牛の匂い、それらは欲情をかき立てる。
 不意に冷めた感触がバルドゥールを襲った。自分の存在が希薄であるような感覚がバルドゥールの身を浸す。俺はどこにいる。俺はどこにいるのだ!
 バルドゥールは頭を振る。俺はどうかしている。変な夢を見たせいだ。
 バルドゥールはシグルーンに顔を向け、汗に濡れた笑顔を見せた。

 暴れ牛の闖入と言う変事はあったが、その日の訓練は滞りなく終わった。二人は、汗で濡れた体を清水で濡らした布でふいて身を清める。日は沈み、二人は食事を終えてたき火を囲んでくつろいでいる。
 いや、くつろいでいる様に見えて、二人の間には張りつめたものがある。バルドゥールは、シグルーンをじっと見ている。動物的な光を放つすわった眼で、シグルーンを見つめている。シグルーンは強いまなざしでバルドゥールを見返すが、不意に目をそらす。
 バルドゥールは素早く体を動かし、シグルーンの体をつかむ。シグルーンはバルドゥールを睨み付けて、体を振りほどこうとする。
「俺が何を望んでいるか分かっているはずだ」
 バルドゥールは、熱のこもった声でささやく。
「私を求めるな。修行の旅をしているのだぞ」
 シグルーンは、バルドゥールを正面から見て言い放つ。
「今さら何を言うのだ。俺達は体を交えて来ただろ」
「お前は私を求めすぎる。快楽に流されるつもりか」
 体を引き離そうとするシグルーンを、バルドゥールは抱きすくめる。そのままシグルーンを地に押し倒す。もがくシグルーンの口を自分の口でふさぐ。身を清めたにもかかわらず、シグルーンからは甘い匂いがする。
 バルドゥールは、シグルーンの服に手をかけて体を露わにしていく。むき出しとなった胸に顔をうずめ、感触、味、匂いを楽しむ。愛撫するごとに汗をにじませ喘ぎ声を上げるシグルーンの体に強い欲望を感じる。
 バルドゥールは身を起こし、異常なほどの速さでズボンと下履きを脱ぎ捨てる。怒張し先走り汁を垂れ流したペニスを、シグルーンの顔に押し付ける。シグルーンの引き締まった美貌が、透明な液で汚れていく。
「汚い物を私の顔に突き付けるな」
 シグルーンは、呻き声を上げながら顔をそむける。だがバルドゥールは、シグルーンの顔をペニスで嬲り続ける。
「口を開けろ。俺の物をしゃぶるんだ」
 バルドゥールは、鼻息を荒くして要求する。
 シグルーンは、バルドゥールを見上げながら睨み付ける。ゆっくりと口を開けるとバルドゥールの物を含み、舌を這わせていく。
 今度は、バルドゥールが喘ぎ声を上げる番だ。シグルーンは、バルドゥールの弱点を知り尽くしている。くびれから裏筋を巧みに攻めてくる。さらなる攻めがバルドゥールを襲う。シグルーンはいったん口を離すと、豊かな胸でペニスを挟み込む。白い胸から顔をのぞかせる赤黒い先端に舌を這わせる。
 バルドゥールは長くはもたなかった。シグルーンが胸で攻めてからすぐに、出そうだと声を漏らす。シグルーンがペニスの先端を銜え込んだ瞬間に弾ける。
 バルドゥールは、シグルーンの口に精液を放ち続ける。シグルーンは、頬を膨らませながら大量の精液を飲み込んでいく。生々しい音がシグルーンの喉から響く。飲み込みながら胸でペニスを愛撫する。
 精液を出し終えても、シグルーンは舌と胸で愛撫を続ける。バルドゥールは、激しく出したにも関わらず直ぐに回復する。バルドゥールは、シグルーンに手をかけて引き離す。そのままシグルーンを押し倒す。
 バルドゥールはシグルーンのヴァギナに口をつけ、金色の薄い陰毛を舌でかき分ける。溢れる液を肉ごと貪る。甘酸っぱい匂いと味がバルドゥールを酔わせる。
 バルドゥールは身を起こし、わななくペニスを熱いヴァギナに押し当てる。ゆっくり入れようとするが、我慢できない。そのまま推し進めていき、中の熱さと感触に腰を震わせる。乱暴な攻めに対して、シグルーンは腰を振る事で応える。
 獣じみた男は、極上の雌の唇に吸い付く。雌の口には先ほど飲み込んだ精液の味と臭いが残っている。だが、かまわずに口の中を貪る。口から離れると首筋と胸に舌を這わせる。さらに右腋に舌を這わせ、味と匂いを堪能する。下半身は悦楽の渦に支配され、動きを止めることが出来ない。
 雄と雌は、喘ぎ声を夜気の中に響かせ続けた。

 辺りには、草の匂いに混じって性臭が漂っていた。男と女が繰り返し体を貪った結果だ。男は、いびきをかきながら寝ている。女は、その姿を青玉のような瞳で見下ろしている。女の体中に情交の跡が色濃く残り、小さくなった焚火が照らしている。
 女は汚れていても美しかった。いや、性の交わりによる汚れは、女の官能的な美しさを増している。彫の深い美貌や完全な形を保つ胸、引き締まって理想的な形の腰と腿は、男が放つ欲望の液でぬめり光る事で艶やかな魅力を放っていた。
 月の光が女の体を照らし、夜気が女を包む。女の体は変貌していった。金色の髪は銀色に変わっていく。白い肌は薄青く染まっていく。女は、月の光を浴びながら翼を震わせる。女の白い翼は闇の色へと変わり、夜気の中で広がっている。
 女は、深紅の瞳で男を見つめる。女は、沈んだ表情で男を見下ろしていた。

 シグルーンは、天界の命令でバルドゥールの元に降り立った。バルドゥールは神の戦士になる才能が有り、魔物と戦うために必要な者である。バルドゥールを神の戦士として育て上げよという命令だ。
 天界の戦士であるシグルーンは、この命令に従い下界へと降り立った。だが、天界の命令に内心では疑問を持っていた。シグルーンが調べた結果、バルドゥールは平凡な騎士に過ぎないと分かったからだ。
 バルドゥールは、ごく普通の騎士の家に生まれた。八歳の時から宮廷の小姓として働き、十三歳の時に先輩騎士の従騎士となり騎士の仕事を学んだ。そして二十歳で騎士の叙任を受けた。それからは皇帝に仕える数多くの騎士の一人として生きて来た。騎士になる過程も平凡ならば、騎士になってからの経歴も平凡だ。そして真面目に騎士として努めてはいたが、能力も功績も平凡だ。
 シグルーンは、内心の疑問を表に出さないように気を付けながらバルドゥールの指導に当たった。そして三ヶ月を過ぎるころには、天界の命令が正しい事を認めた。バルドゥールには才能が有ったのだ。その才能を、バルドゥールと彼を指導した騎士は引き出せなかったのだ。シグルーンは、バルドゥールの眠っていた才能を、試行錯誤を繰り返しながら根気よく引き出していく。指導から五年たつ頃には、バルドゥールが神の戦士にふさわしい事を皆が認めるようになった。
 シグルーンは、自分の生徒が成果を上げていくことに喜びを感じた。だが、大きな悩みがあった。バルドゥールは享楽的すぎるのだ。騎士の修行と仕事にはまじめだが、生活では快楽を求めた。鯨飲馬食を繰り返し、娼婦を買う事を好むのだ。シグルーンが望む神の戦士としてはふさわしくない事だ。
 シグルーンは何度かの衝突のあと、バルドゥールと一つの約束をした。神の戦士にふさわしい者となれば、自分の身を与える。それまでは快楽に溺れる事を止めよと。
 バルドゥールが自分に欲望を持っている事を、シグルーンは気が付いていた。そしてシグルーン自身、自分が指導するバルドゥールに愛着を持ち始めていた。本当に神の戦士にふさわしい者となるのならば、自分の身を与えて良いと思い始めていたのだ。天界の者が人間と交わる事は問題あるが、交わった前例はある。神の戦士にする事が出来るのならば結ばれても良いと、シグルーンは判断したのだ。
 この約束でバルドゥールは歓喜し、生活を改めた。シグルーンはその激変に呆れながらも、バルドゥールの変化を喜ぶ。こうして二人の修行生活は続いた。
 転機がやって来た。魔王領や親魔物国、異教徒の国に対する「聖戦」が始まったのだ。主神教団の教皇が提唱し、反魔物国の皇帝や王、諸侯が応じたのだ。「聖戦」に参加する軍が集められ始める。
 バルドゥールは天界の戦士に指導される事により、主神教団軍に所属する聖騎士となっていた。彼は、シグルーンと共に「聖戦」に参加する事となったのだ。
 「聖戦」の軍が出立する五日前に、二人は初めて体を交えた。シグルーンは、バルドゥールが神の戦士にふさわしくなったと認め、戦いに赴く戦士に身を与えたのだ。これは、シグルーンにとっては聖なる交わりだ。
 二人の交わりはぎこちなく、技巧的には拙いものだ。だが、二人にとっては大きな意味のある行いだ。二人はお互いを認め合い、確かめ合った。
 聖なる契りを交わした後、二人は「聖戦」へと出陣した。シグルーンは、自分達は約束された栄光へ向かって駆け出していくのだと信じていた。

 二人は、地獄がいかなるものか知った。地獄とは地の底にあるのではなく、この現実世界にある事を知った。「聖戦」とは地獄を作る行為であり、「聖軍」とは地獄の作り手である事が二人の前に明らかにされたのだ。
 「聖軍」は、屍山血河を作りながら進撃した。虐殺、凌辱、略奪、破壊の繰り返しが「聖戦」だ。敵を皆殺しにする事、敵の作ったものを破壊する事が栄光に満ちた事とされるのだ。「聖軍」の者達はくるぶしまで流れる血の河の中を進み、「聖職者」達はその姿を見て歓喜のあまり神に祈りをささげたのだ。
 シグルーンとバルドゥールは、凍り付いた顔で地獄を見つめた。
 この惨状を見て、「聖戦」に嫌悪を持つ「聖軍」の者もいたが、彼らは少数派だ。ほどんどの者が血に酔い痴れていた。不幸な事に、シグルーンとバルドゥールは前者だ。二人は、次第に「聖戦」に参加する事に消極的になった。
 「聖戦」が行われた事情を知った事も、「聖戦」に消極的になる二人の態度に拍車をかけた。主神教団とその指導者である教皇は、自分達の権威を高めるために「聖戦」を起こした。国家は、国力の増加により海外侵略が可能になり、外へ膨張するために「聖戦」に参加している。国家を動かす皇帝や王、諸侯は、「聖戦」に参加する事により自分の権力を拡大する事を企んでいる。騎士は、富の略奪と出世の為に「聖戦」に励んでいる。この「聖戦」の背後には商人たちの暗躍があり、彼らは戦争を起こす事で商売を拡大しているのだ。
 醜い欲望の結果が「聖戦」だったわけだ。その「聖戦」は、国内の弱者と国外の者達を犠牲にする事で成り立っている。もはや、二人は「聖戦」をまともに行う気は無くしていた。
 当然の事ながら、二人は「聖軍」の者達に憎まれた。普通の騎士であれば、二人は捕えられて拷問にかけられ、見せしめのために斬首されていただろう。だが、シグルーンは天界の戦士であり、バルドゥールは天界の戦士の指導の下にある聖騎士だ。下手に殺すことは出来ない。そこで姦計が用いられた。
 突如、二人は配置転換させられた。二人とも中継地点にある城砦の警護に回されたのだ。二人は、最前線で殺戮に参加しなくて良くなったことを喜んだ。ただシグルーンは、天界の戦士としての手続きと打ち合わせのため、一時、教団本部に来ることを依頼された。依頼主は教団幹部である枢機卿であるため断る事が出来ず、シグルーンはバルドゥールと別れて教団本部のある聖都へ向かった。
 教団本部で枢機卿と手続きと打ち合わせをするうちに、シグルーンは不信の念に駆られる。内容は、シグルーンがわざわざ本部まで来てやる事ではない。枢機卿は仰々しく事を進めたが、これは枢機卿が出てまでやる事とは思えない。ただ、意味もなく煩雑な手続きと打ち合わせに時間ばかり取られる。
 時間を食っているうちに、一つの知らせが届いた。中継地点にある城砦が、親魔物国と異教徒の連合軍に急襲されて落ちたと。その城砦はバルドゥールの任務地だ。城砦の者は皆殺しにされたそうだ。
 シグルーンは、直ぐに事実を確認に現地付近に行こうとした。だが、教団本部にとどめ置かれた。事実上の軟禁状態だ。シグルーンの軟禁には、聖騎士や魔法使い、聖なる力を持つ聖職者、そして勇者が関っている。天界の戦士であるシグルーンでも逃げる事は難しかった。本部を脱出出来たのは一年後だ。
 シグルーンは、バルドゥールを探し求めた。彼女には天界の戦士として力が有り、自分が導く戦士の生死を知ることが出来る。その力により、まだバルドゥールが生きていると分かる。ただ、何故かどこにいるのか判別し辛くなっている。そして、天界からの指示も聞こえなくなっていた。
 バルドゥールを探索する過程で、自分達へ行われた姦計が分かって来る。「聖軍」側は、城砦が襲われる事は分かっていた。敵の襲撃を利用して、「聖戦」に邪魔な味方の者を始末する事にしたのだ。さらに情報操作により、人間を殺さない魔物では無く、親魔物国の人間や異教徒の人間が襲撃するように仕組んだ。「聖軍」の目論見通り、侵略と虐殺に怒り狂っていた敵軍は、城砦の者の大半を殺してくれた。
 シグルーンは、主神教団を初めとする「聖軍」の者達に復讐を誓う。だが、まず優先すべきはバルドゥールの行方だ。彼女は、痕跡の乏しいバルドゥールの跡をたどり続ける。天界の援護の無いまま、地道に粘り強く探し続ける。教団本部から脱走してから三年後に、ついにバルドゥールを見つけ出した。血みどろの復讐鬼となり果てたバルドゥールを。

 バルドゥールは、「聖軍」が占領している異教徒の街に潜んでいた。そこには主神教団や反魔物国の軍が駐屯している。バルドゥールは、その町で「聖軍」の者達を次々と殺していた。バルドゥールは、ただ殺していた訳では無い。「聖軍」同士が殺し合うように仕向けるように殺していた。
 「聖軍」は一枚岩ではない。主神教団軍と複数の反魔物国軍の集まりだ。教団と各国は、聖俗に分かれるため利害が違う。反魔物国同士でも利害が違う。同じ国の中でも、王と諸侯は勢力争いをしている。敵が同じだからまとまっているだけだ。
 バルドゥールは、まず「聖軍」に参加している国の者を殺す。その者から所属が分かる者を奪うと、顔を分からないように焼いてから土に埋める。そして「聖軍」に所属している別の国の者を殺し、最初の者から奪った物を証拠として残す。それと同じような事を繰り返した。バルドゥールには配下となる者達がいたため、大掛かりに進めることが出来た。
 バルドゥールの行為の結果、その町では「聖軍」同士による殺し合いが始まった。「聖軍」は火薬がばらまかれていた状態だった。バルドゥールは、それに火を付けたのだ。
 シグルーンは、たとえ教団に復讐するにしても殺人鬼になったバルドゥールに同意することは出来ない。バルドゥールを止めようとする。そのシグルーンに、バルドゥールは牙をむいてきた。
 武術を教え、学んだ者達が殺し合う。バルドゥールはシグルーンを殺す気で襲い掛かってきたために、シグルーンは本気で相手をしなくてはいけなかった。剣が激しく打ち鳴らされ、殺意を叩きつけ合う。
 勝利の女神はシグルーンを選び、死神はバルドゥールを選ぼうとした。天界の戦士と人間では差があったのだ。シグルーンは、バルドゥールに止めを刺そうとする。その瞬間に、二人は闇と紫色の光に包まれた。

 気が付くと、シグルーンはバルドゥールと共に紫色の薄明かりに照らされた広間にいた。目の前には止まった砂時計のオブジェがある。シグルーンは茫然としかけたが、直ぐに全身を緊張させる。彼女達の前に一つの巨大な存在がいた。
 シグルーンの前の存在は、自分の事を堕落神だと名乗った。主神に使える者にとっては忌むべき存在だ。シグルーンは剣を構えて堕落神と対峙するが、その巨大な存在に圧倒される。だが、堕落神は彼女を押し潰そうとしない。
 堕落神は、バルドゥールに起こった事をシグルーンに見せる。バルドゥールの記憶を映像にしたのだ。
 シグルーンは城砦での攻防戦のあと、一つだけ敵が空けていた荒野へ逃げた。その荒野は水が乏しく、動物も植物も少ない。だからわざと敵は空けたのだ。バルドゥールは、死の荒野を共に逃げた者達とさ迷い歩いた。逃げる時に持ち出せた水と食料はわずかだ。彼らに飢えが襲い掛かった。バルドゥールとわずかな者だけが生き延びる事が出来た。共に逃げた者の人肉を食う事によって。
 荒野から出た時には、バルドゥールの心は回復不可能な状態となっていた。ただ、復讐する事だけが生きる目的となっていた。血の快楽だけが、バルドゥールを癒した。
 シグルーンは茫然としていた。彼女が予想した以上に凄惨な現実だ。バルドゥールを探索していた時は、たとえ彼が堕ちていても元に戻す事が出来ると考えていた。だが、この現実の前に自分に出来る事が分からない。
 堕落神は、シグルーンに天界の声が聞こえなくなった理由も教えてくれた。地上世界は、様々な神や魔物の意思があふれている。加えて、人間の乱れた思念も飛び交っている。よほどの力と意志が無ければ、天界の声を地上で聞くことは出来ないのだ。
 シグルーンは、バルドゥールと共に過ごすうちに彼を自分のものにしようと欲した。主神のために戦士を育てる事は、単なる大義名分に過ぎなくなっていた。自分の欲望に従って行動するようになっていたのだ。その状態では、神の声は聞こえない。
 シグルーンは堕落神から目をそらし、止まった砂時計のオブジェを見つめる。自分を堕落させようとして、堕落神が姦計を用いていると考えようとした。だが、堕落神は事実を話していると彼女には分かる。シグルーンには天界の戦士としての力がある。堕落神の見せたバルドゥールの記憶は事実だと分かる。そして、バルドゥールを自分のものにしようとしている事は、自分でも誤魔化せなくなっているのだ。
 シグルーンは敗北感に打ちのめされる。堕落神の声には、悪意、侮蔑、優越感、加虐心は無い。ただ、沈んだ声で淡々と話す。だが、その感情を抑えた話し方は、シグルーンの心に突き刺さってくる。
 自分が信じていたものは何か。自分は何のために力をふるってきたのだ。私は何をしてしまったのだ。私の存在は何だと言うのか。シグルーンは、自分の足元が崩れようとしている事を自覚する。
 自分の中へと沈んで行こうとするシグルーンに、堕落神は静かに語りかける。堕落神は提案を持ちかけた。バルドゥールの心を回復させることは難しい。だが、記憶を書き換える事は出来る。つらい記憶を消して、別の記憶を植え付け、この万魔殿でシグルーンと共に生きていけば良いのではないか。
 シグルーンの中に堕落神の誘いが染み込んでくる。打ちのめされた彼女に抗う意思は無い。敗北感と共に、シグルーンは堕落神の誘いにすがりついた。
 シグルーンとバルドゥールは、堕落神の庇護の下、万魔殿で暮らす事となった。時の止まった世界で永遠に暮らすのだ。堕落神は、二人のために万魔殿の中に小世界を創った。その小世界は、二人の修行時代に旅した場所を模したものだ。そこで二人にとって幸福だった時代と同じ生活を送るのだ。
 バルドゥールは「聖戦」に参加した事のない修行中の騎士として、シグルーンはバルドゥールの指導者として暮らすのだ。シグルーンは、バルドゥールの目覚めている時は天界の戦士ヴァルキリーとして暮らす。バルドゥールが眠りにつくと堕落した戦士ダークヴァルキリーとなる。そうして二人は、修行生活と当時は味わえなかった性の快楽を味わいながら生きていくのだ。

「いつまで寝ているつもりだ!私が起こす前に起きろ!」
 バルドゥールは、シグルーンの怒声で目を覚ます。強い日差しが木々や草を照らしている。緑がまぶしい。バルドゥールは起き上がって伸びをし、朝の空気を吸い込む。
「早く顔を洗え。食事が済んだら訓練だ。お前は、まだ学ばなくてはならない事があるのだ」
 やれやれと、バルドゥールは苦笑する。昨夜はあんなに激しく俺を求めたのに、朝になったらこれかよ。バルドゥールは、シグルーンの唇と胸、腰を見つめる。思わず顔が緩みそうになる。
「お前が何を考えているか分かっているぞ、この痴れ者め!下らぬ事を考えられないように鍛えてやるから楽しみにしていろ!」
 はいはいと笑いながら、バルドゥールは清水に向かう。たまには日の高いうちから楽しみたいものだね。バルドゥールは軽い調子でつぶやく。
 バルドゥールは、自分の背を見つめるシグルーンの暗い瞳に気が付かなかった。

 二人の修行の旅は続く。いつまでも、いつまでも……。
16/01/13 23:44更新 / 鬼畜軍曹

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