読切小説
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わからない物語
1

 ここはとあるラブホテルの一室。二人の男女の行為は既に終わり、互いに心地よい気だるさにとらわれながら、ピロートークの真っ最中といった様子でした。しかし女性の方はなんだか少し不満げな表情です。その顔を見て、男は首を傾げました。何か自分は相手に対して失礼なことをしてしまったのだろうか?と。もしかしたら、こんな場所に連れ込んだことが不満だったのだろうかと思い至るも、それはないなとすぐに考え直します。自分の彼女は魔物娘なのですから、夫と交わることに不満があったとは考えにくいのです。すると、今度は何が原因なのかがちっともわからなくなってしまいました。
 しかし彼女の種族を考えると、素直に自分に何か非があったのかと聞くには、少々勇気が必要でした。男の彼女の種族はウィル・オ・ウィスプ。色々と説明が難しいですが、簡単に云うならばとっても気難しい種族です。いざ聞くとなると、もうへとへとなのにさらに精液を搾られかねません。まだインキュバスにはなれていない男からすると、想像すると冷や汗が流れるようなものなので、中々聞くことはできませんでした。
 ですがそれ以上に、不満げで、しかもちょっと寂しそうな彼女の顔を見るのは余計に辛いものがありました。人間のカップルと同じように喧嘩もするし、時には互いにそっぽを向くこともありますが、それでも互いに好きあっているのは同じでした。いえ、好きよりもさらに深い感情、愛し合っていると云う方が妥当なほど。
 だから、男は女に聞くことにしました。たとえその後にどんな責め苦が待っていようとも。

「なあ、どうしてそんな顔してるんだよ。俺、何か悪いことをしたか?」
「……」

 女はジト目で男を見るだけで、決してその口を開こうとはしませんでした。その眸は真暗で、男は自分がそこに吸い込まれそうになる感覚に陥ると同時に、どうにも胸の中が気持ち悪くなりました。正体不明の雲が自分の心すら隠しているような気がして、男は思わず目を逸らします。その気持ちの答えはどこだろうと探せば、小さい頃に親に叱られた時のような、あの居心地の悪さがちょうどしっくりとくることに気づきました。
 まだまっさらで、これからいくらでも色に染まれるような時に、ふと去来したあの罪悪感に、ぴたりと当て嵌まったのです。まさかそんな昔の感覚を、いい歳になって味わうとは思ってもいなかった男は余計に戸惑いました。
 眉目麗しい女ではありましたが、今はその眉目は少し不愉快な様子で男を見据えるだけで、それが余計に男を追い詰めます。

「俺が悪かったなら、謝るからさ、だから」

 そう云って男は女の顔を撫でようとしたのですが、その手はあっさりと払い除けられました。不貞腐れたように口を尖らせて、しかし無言を貫く女に対して男はいったい何をすれば善いのかがいよいよわからなくなってきました。完全に臍を曲げてしまった様子の女に対して、自分ができることの見当がつかないのですから、男の困惑も仕方のないことでした。もっとも仕方のないことで通れば色恋沙汰に喧嘩は必要ではありません。機嫌を損ねた相手に対して何ができるかは、男の甲斐性の見せどころです。

「……とりあえず、外に出るか」

 ですがこの様子を見る限りでは、前途多難なのは目に見えていました。さて、男と女は無事に仲直りができるのでしょうか?

2

 外に出れば夏特有の暑い日差しが二人を出迎えました。じりじりと照り付ける日差しの強さに、アスファルトからの反射熱に二人は揃って眉をひそめます。腰回りにあるだるさもあいまって、それはそれは鬱陶しいものでありました。
 薄暗い中での情交にはげんでいた二人には少々辛い光ではありましたが、それも直ぐに慣れました。そして男は気まずそうに、ちらりと隣を見遣れば、女の顔は一応普段通りのものへとは戻っていました。ですがたかだかラブホテルから出る間に機嫌が元通りになったとは到底思えません。男は自分の背中に暑さとは別の原因でだらだらと汗が流れていくのを感じずにはいられませんでした。
 しかし女は男の心など知らぬといった様子で、すたすたと勝手に前を歩き出す始末。どこへ向かっているのかと男は不安になりますが、いえ、そもそもぷかぷかと浮いているので歩いているという表現自体が適切でないのですが、そんなことを気にする余裕など残ってはいませんでした。男は背中で語るとは言いますが、その言葉を借りれば女は背中で怒るというのがしっくりくるようで、有無を言わせぬ恐ろしさがありました。
 ここですたこらさっさと逃げ出す薄情さでも見せようものならどんな酷い目にあうのか、想像に難くないと身震いした男は慌てて後を追います。後を追い、痕を負い、それでもここで仲を拗らせてしまうよりはマシだろうと。ここで女の前に出て、謝りながらも男を上げる言葉が口から滑ろうものならまだ救いもありましたが、男にはそこまでの度胸はありませんでした。さすがに女の顔を見る勇気が――外に出た途端普通の表情になったというのもあって――そう容易に出るものではありません。熱気と照らしつける日差しを堪えながら、男は黙って女を追うことしかできませんでした。
 男と女はたびたび喧嘩をすることがありましたが、それでも全てにきちんとした理由がありました。冷蔵庫に大切に残しておいたハーゲンダッツを食べてしまったとか、疲れ果てているのにまだまだエッチを求められたりとか、程度はさまざまですがきちんとした理由が。そして、女がヒステリを起こすような性格をしていないということも、男はしっかり把握していました。やや理不尽と感じる理由こそあれど、それなりに筋があり、或いは可愛げのある怒りというものが常に女には付き纏っていたのです。
 それなのに今回は、それが見あたりませんでした。ふと記憶を探っても、自分が何かを盛大にやらかした覚えがありません。ラブホテルに入る前も女は上機嫌でしたし、入ってからのムードもバッチリ、情事の最中もいつものようにお互いに高まって頂点を迎えるという女が好きな形で終えていました。ならば、いったいぜんたいどこに不満があったのでしょうか?
 いよいよわからなくなってきた男は困りながらも歩き、ふと自分たちが今まで来たことがない場所まで歩いていることに気づきました。二人が利用していたラブホテルというのは駅から近く、便利な立地にありましたがそれゆえにラブホテルより先に行ったことなどなかったことに、今さら気づいたのです。
 ラブホテルがあった簡素な場所から一転、がやがやと人混み騒音なんでもござれの商店街にまで自分たちが歩いていることを知り、男は不安になりました。
 意固地になった女に対してしてやれることが何も思いつかない自分を呪いたくなると同時に、そんな自身を叱咤するもう一人の自分の存在を知覚して、男はとうとう女を呼び止めました。

「なあ、リツカ!」

 それはまるでからくり人形じみた止まり方でした。歯車が一つ外れたのかと思うほどに、ぴたりと止まる。それだけなのに、男は叱られた子どもがするようにびくっと身体を震わせました。
 ここで怖気づいてなるものか。いくら恥であろうと聞かなければならない。そう奮い立たせ、男は口を開こうと、怒らせてしまった原因を聞こうとした直後でした。何かが男の中でひっかかり、その口を閉ざしてしまいました。何か、形容できない違和感が胸の中で渦巻き、無理やりにでも言葉にしてみようとすると、舌がもつれてうまく形にできません。ややもすれば消えてしまう、一過性の感情の障害などでは断じてない存在感で、それは男の胸をひどく掻き乱しました。
 しかしそれはどこか懐かしいような感覚でもあって、男は複雑な表情を浮かべました。ここでその正体がわからなければ、一生茨の森を彷徨うような恐ろしさがやってくるように思えたのです。些少な一粒を探すような途方もないことに考えられなくもない作業でしたが、男は決意してその胸の内を探りました。
 既視感を感じる記憶だけをしっかりと選別し、どこかに共通点がないか……などといった芸当が男にできるはずもなく、それはただ悶々と考えることだけでした。男はそこまで器用ではありません。
 ぎしりと軋ませた感覚の底で、ちょっとしたひっかかりが、また男の胸の中でありました。はたして自分は、今日一度でも女の名前を呼んであげていたのか?とふと自分を問いただします。ついさきほどは、呼んだでしょう。ですがその前はどうでしょう。今日待ち合わせてから、ラブホテルから出て来るまでに。一度でも名前を呼んであげていたのでしょうか。
 そのことを考えた途端に、より明瞭になった罪悪感に駆られた男はもう一度女の名前を呼んでいました。それはほぼ咄嗟に出た言葉であり、名前であり、謝罪でもありました。
 いざ謝るとなったときの居心地の悪さというものを、男は久々に味わいました。それでも下を向くことはせずに、真っ直ぐ女の方を向いて。そしてずんずん歩くと女の前にたち、視線も合わせました。たかだかそれだけのことなのに、男は数年ぶりに女の顔を見たような気になってしまい、何かが胸の中でほどけていくのを感じたのです。
 女の顔は、未だ仏頂面でした。

「リツカ、ごめん」
「……」

 女は少しだけどうしたらいいのかわからない、といった様子で視線を彷徨わせ、しばらくしてから再び男と目を合わせました。
 そして。

「うん」

 女の顔には、嬉しそうな微笑みが住んでおりました。それを見ただけで、男は天にも昇りそうな気持ちになったそうです。
15/11/11 21:51更新 /

■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただければ幸いです。
頓馬め。

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