第一章:留学生がやってきた!
歴史の教科書によると、二十世紀最大の発見は異世界の存在の発見だったらしい。
その世界には魔法という技術が存在していて、人間や動物以外にも、魔物娘という生き物が暮らしていた。動植物の生態系や地理学的な諸々は僕達の世界と同様ではあったらしいのだけれど、こちらの世界では感知できない法則もまた存在している、似ているようで全然違う世界だった。
ファンタジーの世界よろしく強大な魔力を持った魔王という存在も居て、かつては人間との間に戦争も度々起こっていたらしい。けれども、今のサキュバスの種族の魔王が魔物達を束ねるようになってからは魔物は皆人間に友好的な魔物娘へと姿を変え、それからは平和な治世が長く続いているという話だった。
けれどもそんなことを知らない当時のこの世界の人々は、彼女こそが予言の恐怖の大王なのではないかと噂していたらしい。
存在が発覚した当初は研究者達も新しく発見された世界に対してどういった対応をするべきかかなり神経質だったらしい。けれど、魔法という技術も魔物娘という存在も害の無いものだという事が分かってくると、研究者達は更なる技術開発のために、異世界の技術や文化を積極的に受け入れるようになった。
そして異世界が発見されて十数年が経った現代、異世界からの移住者や、文化的交流として異世界との交換留学も当たり前となり、僕らのような市井の間にも魔物娘はそれほど珍しい存在ではなくなり始めていた。
しかしそうはいっても、留学生の受け入れはまだ少数の家庭に限られていた。外交的にいろいろナイーブな問題もあるらしく、留学生の滞在は選ばれた家にのみ認められていた。
きっと金銭的に裕福だったり、家柄がしっかりした家庭にこそ、この世界の事を学びに留学生がやってくるのだろう。
その点、うちは清く正しい一般庶民だ。父親は中小企業に勤めるヒラリーマン、母親は主婦業の傍らでパートしつつ、習い事を楽しみにするどこにでもいるその妻、そして二人の息子であるこの僕は公立の高校に通う、勉強も運動も顔も平均的な目立たない学生。
そんな普通を材料にして作り上げたような一般家庭なんて、魔物娘とは一生関わり合いを持つ事なんて無いだろう。
僕はそんな風に考えていた。
……けれどそれは間違っていたらしい。
「明日から留学生の子が来るぞ」
という父親の宣告は、本当に突然の事だった。
夕食を終えて居間でテレビでも見ながらくつろごうとしていた、油断し切った状態での予想外で意味不明な宣告は、不意打ちもいいところだった。
裕福でも貧乏でもないけれど、景気が悪くなるといろいろと苦しい、どこにでもある一家庭。そんなうちに、ある日突然別世界からの闖入者がやってくることとなった。
なぜうちのような特徴が無い事が特徴のような家庭が魔物娘の留学生を受け入れなければならないのか。それはひとえに、父親の会社の都合だった。
父親の勤める会社が懇意にしている取引先の一つ、アビスコーポレーションとかいう企業が魔物娘との交流を推し進めているらしく、会社同士の関係を強めるために何人かの社員の家庭で留学生を受け入れる事になったのだという。
突然降ってわいた話に、家族一同騒然となった。かと思われたが、その実そうでもなかった。
"魔物"娘と言われているが、彼女達はそこまで恐ろしい外見をしているわけでは無いのだ。確かに体の一部に動植物や昆虫の特徴を持っているが、魔物"娘"と言うだけあって人間の女性に近い姿をしている。
加えて、魔物と呼ばれてはいるが人間を殺して食べたりはせず、むしろ人間に対して友好的だという事も既に一般常識だ。
サキュバスの系列ということで非常に性欲が強いということも言われてはいたが、既婚の男性を襲うという事は非常に稀であり、さらに夫を持った魔物娘が浮気をする例に至っては皆無で、むしろ人間の夫婦よりも倫理観は高いのではないかとさえ言われていた。
そのため父さんも母さんも、特にそれほど気にしてはいないようだった。むしろ留学生を受け入れることで発生する臨時収入に目を輝かせていたくらいだった。
不安になったのは僕だけだった。
何しろ、両親が一緒だとはいえ一つ屋根の下で女の子と暮らすことになるのだ。間違いがあってはいけないし、クラスメイト達からも変な目で見られてしまいそうで嫌だった。
父さんの話によれば、彼女がうちにやってくるのは翌日の夕方になるらしい。
……ただし、彼女が留学先として訪れるのはうちの学校で、しかも編入先はうちのクラスとの事だった。つまり家に来る前に、僕は誰より先に彼女と顔を合わせることになるのだ。
当たり前のように、その日は全然眠ることができなかった。
眠れなくても、朝は来る。朝が来れば学校に行かなくてはならない。これからうちで暮らす留学生を迎えに行くという役も兼ねていれば、休むわけにもいかなかった。
普段のように学校に通い、いつものように自分の席に着く。
朝のホームルームが始まるまでの時間が、長いようで短かった。
あっという間にチャイムが鳴って、担任と件の留学生が教室の中に入ってきた。
魔物娘の存在自体は今やそれほど珍しいものではない。クラスにも天使やら悪魔やらを含めた魔物娘は在籍しているし、魔物娘の夫婦を町で見かけることもある。
けれど転校生が入ってくるとなれば、やっぱり学生である僕らはざわめきを抑えることは出来なかった。
「初めまして。私、カク猿のエンナです。よろしくお願いします」
やってきたのは猿の特徴を持った魔物娘だった。カク猿というのはきっと種族名で、名前をエンナと言うのだろう。
クラスメイト達の反応は様々だった。可愛い転校生がやってきたことを喜ぶ男子も居れば、獣のような手足がお気に召さない奴も居るようだった。男子に比べて女子の反応はわかりやすく、少し冷めている感じだ。
クラスに元から居た魔物娘達に関しても同様、仲間が来たという喜色を浮かべている者も居れば、無関心そうな子も居た。
エンナは、有体に言って美少女だった。両腕、両足の先の方が獣毛に覆われてはいたが、レッグウォーマー、アームウォーマーのように見えないこともない。正直に言って、思っていたよりもずっと普通だった。
ぼんやりと眺めていると、教壇の上の彼女と目が合った。僕と目が合うと、彼女はにっこりとほほ笑む。
「彼女は家の事情で、猿渡の家にホームステイすることになっている」
クラス中の視線が僕の方に集まってきた。特に男達からは、あからさまな羨みや妬みの視線ばかりだ。
とはいえ家庭の事情という事もあるし、もう最初からそういうことになっていたという事もあって、本気で僕をどうこうしたいと思っているような奴はいないようだった。
色々と面倒なやっかみもあるかもしれないが、何はともあれ身の危険までは無さそうで一安心だった。
「本当なの。マサル君」
「え?」
小声でつぶやいたのは、隣の席の犬飼だった。長い黒髪を抑えながら、彼女は僕に向かって怪訝そうな視線を向けてくる。
「魔物娘と同棲って。そんな話全然して無かったよね」
「それが、僕も昨日父さんから聞いたばかりなんだよ。何か、会社の命令とかそういうのみたいで、急に決まっちゃってさ」
「そう、なんだ」
犬飼は眼鏡を押し上げる。そして、少し険しい視線を壇上の魔物娘へと向けた。
「獣人の魔物娘、かぁ。クラスの風紀、乱さないでくれるといいんだけど」
そういうことか。と僕は一人合点する。彼女は学級委員で、学級活動や行事についてもクラスをまとめる立場にあった。新しい仲間がクラスにちゃんと馴染んでくれるか不安なのだろう。
彼女とは小学校から同じ学校だったからよく知っているが、昔から本当に真面目な子なのだ。
「きっと大丈夫だよ。ほかの魔物娘がいても何とかなってるんだし」
「そう、かな」
「それに、うちのクラスは男子も女子もみんな協力的な方だし、犬飼さんが言えばみんな言うこと聞いてくれるよ」
「うん。……猿渡君も気を付けてね。何かトラブルがあったら、私も相談に乗るから」
「あぁ、わかったよ」
まったく犬飼の言うとおりだった。まずは自分の家の風紀を守らないといけない。
そんなことを考えていると、エンナがこちらに向かって歩いてきていた。犬飼とは反対側の、僕の隣の席に座る。
「これからよろしくね」
「あぁ、よろしく」
尻尾が嬉しそうにくねくねと動いていた。機械では再現しようのない、動物的ななめらかな動きだった。
本物の、魔物娘だった。
学校での活動、授業やら何やらは、特に何事もなくいつも通りに終わった。
放課後になるとエンナはクラスメイトの女子や魔物娘達に連れられて部活や校舎の案内に行ってしまった。あいにくと女子たちの間に入っていくほどの勇気は無かったし、「家まで案内するから終わったら呼んでくれ」等とクラスメイト達の前で所帯じみた話をすることも出来なかったので、僕は教室の中でぼんやりと待っているしか無かった。
「帰っていいのかなぁ。待っていた方がいいよなぁ」
既に教室には誰も居ない。
窓の外を見れば、もう日も暮れ始めていた。カラスのような黒い翼のハーピーが連れ立って空を飛んでゆく。
校庭を見下ろせば、陸上部の女性教師が帰ろうとしている魔物娘、半人半馬のケンタウロスや、爬虫類の特徴を持つリザードマンに声をかけていた。
まさか、先に帰ってしまったのだろうか。そんなことを考え始めたその時だった。教室の引き戸が開いて、僕の待ち人が姿を現した。
「あ」
「マサル君、待っていてくれたんだ」
彼女は駆け寄ってくると、僕の正面に立って満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。やさしいんだね」
「その、まぁ。エンナさんは、これからうちに住むわけだし。案内しないとさ」
「エンナでいいよ。私もマサルって呼んでいい?」
「それは、うん。構わないけど。えと、他のみんなは」
「先に帰ってもらったよ。帰り道は心配ない、駅とは別方向だからみんなとは違うって言って。忘れ物取りに教室に寄るからって」
「そっか」
「じゃあ、いこっか」
彼女は自分の荷物を手に取り、僕の腕に尻尾を絡めてきた。
思いのほかフカフカで心地よいそれに少しドギマギしながら、僕は彼女に引かれるように教室を後にした。
うちに帰ると、普段は見た事が無い程の量の料理がテーブルに並んでいた。
肉じゃが、煮魚、焼き鳥、サラダ、その他いろいろな揚げ物の乗ったオードブル。母さんが料理したものからスーパーで買い足したものまでいろいろあった。
僕とエンナが帰ってくると、すぐに歓迎会が始まった。
「エンナちゃん。ようこそこちらの世界に」
「あまり裕福な家じゃないからこんなものしか用意できなかったけど、いっぱい食べてね」
父さんも母さんも、完全に来客モードだった。
多分父さんの方は会社に言われて早めに帰ってきていたのだろう。すでに缶ビールを何本か開けたような赤ら顔だった。緊張しやすい方だから、恐らく景気づけでもしたに違いない。
母さんの方は、まぁいつもよりにこやかではあったものの、それほど変化もなかった。
「よろしくお願いします。私もわからないことばかりで、ご迷惑おかけすることも多いと思いますけれど、いっぱい勉強して有意義な留学にしたいと思っています」
エンナは、あくまでも礼儀正しく振舞っていた。
魔物娘は独り身の男を見つけるなり節操なく擦り寄ってきて、少しの隙も見逃さずに襲い掛かってくると聞いていたが、どうやら噂は噂にすぎないらしい。
「あ、これお土産の果物です。私達の世界でしか取れないんですよ」
そう言って彼女は荷物の中からハート形の果物を取り出した。
「あら、可愛い形をしているのね。後でデザートに食べましょうか」
「いやぁ、それにしてもエンナちゃんはこんなに可愛くて礼儀正しくて、うちの娘にしたいくらいだなぁ。うちは男の子が一人だけだからちょっと寂しくてな」
「父さん。酔っぱらってあまり変なこと言うなよ」
「ううん。いいのマサル。
ありがとうございます。私なんかでよかったら、どうぞ娘のように扱ってくださいね」
エンナは笑って父さんにビールを注ぐ。父さんはまんざらでもないようで、母さんも、本物の自分の娘を見守るような目でそれを見ていた。
「おっとっと、エンナちゃんはお酌も上手いなぁ。まるで前からこうしてもらっていたみたいな気がするよ」
「もう、お父さんったら飲み過ぎよ。でも、そうね、なんだか前からこうして居たみたいな気がしてくるわね」
父さんも母さんもそんな風に言って笑っていた。最初にあった緊張感は、いつの間にかどこかへ行ってしまったようだった。
気が付けば、エンナはうちの家族に溶け込んでしまっていた。本当にあっという間に、違和感も無く。それこそ、違和感が無いことに違和感を感じるくらいに、何の波風も立てず自然に。
両親は、そのことに何も感じてはいないようだった。驚いていたのは僕だけだった。
やがて父さんが酒に潰れると、母さんが介抱しながら寝室へと連れて行った。
「お風呂出来ているから、先に入っちゃって」
僕は一番風呂をエンナに譲った。別に下心があったというわけでは無い。今日やってきたばかりのお客さんに、誰かが使ったお湯を使わせるというのも気が引けたのだ。
僕は風呂が空くまで、自室で宿題をしていた。
その日の問題はいつもより難しく、僕はいつの間にか周りを気にせず問題に没頭してしまっていた。
だからだろう。彼女の接近にも気が付いていなかった。
「マサルって勉強家なんだね」
声に驚き振り向くと、顔のすぐ真横、息がかかりそうなほど近くにエンナの顔があった。
切れ長の目に、薄いこげ茶色の瞳。きめ細やかな白い肌は風呂上がりのせいかほんのりと赤く、なんだかいい匂いがした。
パジャマ姿は少し子供っぽかったが、浮き出た体のラインは既に熟れ始めた女性のそれだった。胸元は見事に生地が押し上げられていて、腰のあたりも下着の線やお尻の形がはっきりと浮き上がってしまっていた。
目元を彩る赤い隈取も、なんだかとても色っぽい。クラスの女子の誰からも、こんな妖艶さを感じたことは無かった。
しかしそんな大人の色香を感じさせつつも、耳が真ん丸の猿のそれであったり、尻尾が興味津々に揺れていたりと、動物的な可愛らしさも同居していた。何だか、とんでもなく魅力的だった。
「え、エンナ。部屋に入るときはノックしてくれよ。びっくりするよ」
「えー。ノックはちゃんとしたもん。マサルが気が付かなかったのが悪いんだよ」
「そうなの? いや、問題に集中してて」
「なんだか難しそうだね。後で私にも教えてくれる?」
エンナは微笑んで、じっと僕の顔を見つめてきた。心さえ覗き込もうとするような澄んだ瞳から、僕は目を離すことが出来なくなる。
「い、いいけど」
「けどその前に気分転換にお風呂入ってきちゃいなよ」
「確かに煮詰まっていたし、そうしようかな。ありがとう」
エンナは風呂が空いたことを伝えに来てくれたのだろう。用が済むとすぐに部屋から出ていった。
彼女が行ってしまうと、僕は心臓の鼓動を落ち着かせるべく大きく深呼吸を繰り返した。
驚いた。いきなり現れた事ももちろん、思っていた以上に魅力的な姿に、心臓が暴れてどうしようもなかった。
一息ついて落ち着くと、僕は着替えをもって風呂場へと向かった。
裸になって、いつもと変わらぬ浴室に立つ。
なんだか、甘い匂いがした。いつもと違う、女の子の匂いがしている気がした。
「ま、まさかな」
そんな匂いなどしているわけがない。そう自分に言い聞かせつつも、ここであのエンナが裸になって身体を洗っていたのかと思うと、下半身が反応せずにはいられなかった。
僕は一人黙って頭を振ると、少し冷たくしたシャワーで身を清めた。
それからの数日は、特に問題もなく平和に過ぎていった。
魔物娘と同棲するとなればエロいハプニングも起こるのかと思ったが、風呂場で鉢合わせる事もなければ、朝勃ちしているところを目撃されることも無かった。当然、何もないところで躓いて押し倒したり、股間に顔を埋めてしまうという事もなかった。
相変わらずエンナは可愛らしく魅力的で、ドキドキしてしまうこともしょっちゅうではあったが、それ以上のことは何もなかった。
魔物娘も人間と対して変わらないんだなぁ。そう思い始めた矢先のことだった。
「済まないマサル。父さん、ちょっと明日から長期出張に行かなければならなくなった」
いつものように食後の団欒をしていると、父さんが突然こう切り出してきた。まるでいつかの時の再現のように、今回も唐突な宣告だった。
「そうなんだ。分かった。気を付けて行ってきてね。ちなみに、どこに行くの」
しかし急な話ではあるが、別に父親が出張に行くというのはそこまで珍しい事でも無い。日常生活に大した影響はないだろうと思って何気なく聞いたのだが、父さんの返事は僕の予想を遥かに超えていた。
「それがな、エンナちゃんの母国である図鑑世界に行くことになったんだ。交換留学、という事でな」
「僕じゃなくて、父さんが行くの?」
「あぁ、文化交流と技術的な見学を兼ねてな。それで、お前には悪いんだが母さんも一緒に行かなければならないんだ」
「へぇ……」
母さんも一緒に、か。つまり家には僕だけが残されるのか。一人暮らしは初めてだけど、色々気楽だとも聞くし、それも悪くないか……。
……いや違う! 一人じゃない! 今はエンナも一緒に暮らしているから、母さんまで出て行ったら僕達二人きりで残されることになる!
「ちょ、なんでそうなるんだよ」
「向こうの会社からの頼みでな、既婚者の場合は配偶者同伴じゃないと駄目だという話で」
「……断れないの?」
「お前には悪いが、勤め人の限界もあってな」
「か、母さんはそれでいいの?」
母さんだって、きっと何か言いたいことがあるはずだ。昨日の今日で急に異世界に、しかも家の中に息子と若い女の子を二人残して行くなんて、納得するはずがない。
表情を変えずに話を聞いていた母さんは、僕の顔をじっと見る。
「まぁね。そういう事なら、仕方ないじゃない。別の世界に一人で行くのも父さんも寂しいだろうし。ちょっと長めの旅行だと思う事にするわよ。お金も無くてあまり旅行にも行けていないしね。
あんたももう年頃なんだから、いいことと悪いことの分別だってついてるでしょ」
「え、いや。それは、そうだけど」
「大丈夫よ。一年も二年も家を空けるわけじゃないんだし、お金だってうちにちゃんと入るんでしょ? お父さん?」
「あぁ、それは会社が保証してくれる」
僕は何も言えず、エンナの顔を見た。
「あちらの世界も、とても綺麗で良い世界ですよ。きっとお父さんもお母さんも気に入ると思います」
反対しているのは、どうやら自分だけのようだ。
多数決としても、社会的な道理としても、父親の出張を止める理由は無さそうだった。これ以上反対するのは、子供の駄々というものだ。
「分かったよ。けど、気を付けて、ちゃんと定期的に連絡入れろよな」
「あぁ。父さん、偉くなって帰ってくるからな」
父さんの子供のような意気揚々とした様子に、僕は黙って大きく溜息を吐いた。
この時の父さんのセリフが後々のフラグになっているとは、その時の僕は気づきもしなかった。
両親が居なくなると、学校はともかくとして、家の中の生活は大きく変化せざるを得ない。
何しろ、料理、洗濯、掃除。すべての家事を自分達だけでやらなければならないのだから。
その夜、僕とエンナは二人で家事をどうしてゆこうかと相談をした。
特に喧嘩にもならず、話はすんなり進んだ。お互いに気づいていない部分を補い合って、話はすぐに決まった。
その結果、僕達は家事を二人分で割り振って、当番制で毎日やることを互いに入れ替えて担当してゆくことにした。
そうすれば片方に一つの家事が集中したり、掃除や料理だけを毎日し続けなければならないというストレスも生じにくいという考えだった。
二人ともあまり家事はやったことが無かったが、それでも力を合わせてゆけばきっとなんとかなる。
僕達は協力し合うことを決めて、両親の出張を見送った。
こうして、僕とエンナの二人だけの共同生活が始まった。
その世界には魔法という技術が存在していて、人間や動物以外にも、魔物娘という生き物が暮らしていた。動植物の生態系や地理学的な諸々は僕達の世界と同様ではあったらしいのだけれど、こちらの世界では感知できない法則もまた存在している、似ているようで全然違う世界だった。
ファンタジーの世界よろしく強大な魔力を持った魔王という存在も居て、かつては人間との間に戦争も度々起こっていたらしい。けれども、今のサキュバスの種族の魔王が魔物達を束ねるようになってからは魔物は皆人間に友好的な魔物娘へと姿を変え、それからは平和な治世が長く続いているという話だった。
けれどもそんなことを知らない当時のこの世界の人々は、彼女こそが予言の恐怖の大王なのではないかと噂していたらしい。
存在が発覚した当初は研究者達も新しく発見された世界に対してどういった対応をするべきかかなり神経質だったらしい。けれど、魔法という技術も魔物娘という存在も害の無いものだという事が分かってくると、研究者達は更なる技術開発のために、異世界の技術や文化を積極的に受け入れるようになった。
そして異世界が発見されて十数年が経った現代、異世界からの移住者や、文化的交流として異世界との交換留学も当たり前となり、僕らのような市井の間にも魔物娘はそれほど珍しい存在ではなくなり始めていた。
しかしそうはいっても、留学生の受け入れはまだ少数の家庭に限られていた。外交的にいろいろナイーブな問題もあるらしく、留学生の滞在は選ばれた家にのみ認められていた。
きっと金銭的に裕福だったり、家柄がしっかりした家庭にこそ、この世界の事を学びに留学生がやってくるのだろう。
その点、うちは清く正しい一般庶民だ。父親は中小企業に勤めるヒラリーマン、母親は主婦業の傍らでパートしつつ、習い事を楽しみにするどこにでもいるその妻、そして二人の息子であるこの僕は公立の高校に通う、勉強も運動も顔も平均的な目立たない学生。
そんな普通を材料にして作り上げたような一般家庭なんて、魔物娘とは一生関わり合いを持つ事なんて無いだろう。
僕はそんな風に考えていた。
……けれどそれは間違っていたらしい。
「明日から留学生の子が来るぞ」
という父親の宣告は、本当に突然の事だった。
夕食を終えて居間でテレビでも見ながらくつろごうとしていた、油断し切った状態での予想外で意味不明な宣告は、不意打ちもいいところだった。
裕福でも貧乏でもないけれど、景気が悪くなるといろいろと苦しい、どこにでもある一家庭。そんなうちに、ある日突然別世界からの闖入者がやってくることとなった。
なぜうちのような特徴が無い事が特徴のような家庭が魔物娘の留学生を受け入れなければならないのか。それはひとえに、父親の会社の都合だった。
父親の勤める会社が懇意にしている取引先の一つ、アビスコーポレーションとかいう企業が魔物娘との交流を推し進めているらしく、会社同士の関係を強めるために何人かの社員の家庭で留学生を受け入れる事になったのだという。
突然降ってわいた話に、家族一同騒然となった。かと思われたが、その実そうでもなかった。
"魔物"娘と言われているが、彼女達はそこまで恐ろしい外見をしているわけでは無いのだ。確かに体の一部に動植物や昆虫の特徴を持っているが、魔物"娘"と言うだけあって人間の女性に近い姿をしている。
加えて、魔物と呼ばれてはいるが人間を殺して食べたりはせず、むしろ人間に対して友好的だという事も既に一般常識だ。
サキュバスの系列ということで非常に性欲が強いということも言われてはいたが、既婚の男性を襲うという事は非常に稀であり、さらに夫を持った魔物娘が浮気をする例に至っては皆無で、むしろ人間の夫婦よりも倫理観は高いのではないかとさえ言われていた。
そのため父さんも母さんも、特にそれほど気にしてはいないようだった。むしろ留学生を受け入れることで発生する臨時収入に目を輝かせていたくらいだった。
不安になったのは僕だけだった。
何しろ、両親が一緒だとはいえ一つ屋根の下で女の子と暮らすことになるのだ。間違いがあってはいけないし、クラスメイト達からも変な目で見られてしまいそうで嫌だった。
父さんの話によれば、彼女がうちにやってくるのは翌日の夕方になるらしい。
……ただし、彼女が留学先として訪れるのはうちの学校で、しかも編入先はうちのクラスとの事だった。つまり家に来る前に、僕は誰より先に彼女と顔を合わせることになるのだ。
当たり前のように、その日は全然眠ることができなかった。
眠れなくても、朝は来る。朝が来れば学校に行かなくてはならない。これからうちで暮らす留学生を迎えに行くという役も兼ねていれば、休むわけにもいかなかった。
普段のように学校に通い、いつものように自分の席に着く。
朝のホームルームが始まるまでの時間が、長いようで短かった。
あっという間にチャイムが鳴って、担任と件の留学生が教室の中に入ってきた。
魔物娘の存在自体は今やそれほど珍しいものではない。クラスにも天使やら悪魔やらを含めた魔物娘は在籍しているし、魔物娘の夫婦を町で見かけることもある。
けれど転校生が入ってくるとなれば、やっぱり学生である僕らはざわめきを抑えることは出来なかった。
「初めまして。私、カク猿のエンナです。よろしくお願いします」
やってきたのは猿の特徴を持った魔物娘だった。カク猿というのはきっと種族名で、名前をエンナと言うのだろう。
クラスメイト達の反応は様々だった。可愛い転校生がやってきたことを喜ぶ男子も居れば、獣のような手足がお気に召さない奴も居るようだった。男子に比べて女子の反応はわかりやすく、少し冷めている感じだ。
クラスに元から居た魔物娘達に関しても同様、仲間が来たという喜色を浮かべている者も居れば、無関心そうな子も居た。
エンナは、有体に言って美少女だった。両腕、両足の先の方が獣毛に覆われてはいたが、レッグウォーマー、アームウォーマーのように見えないこともない。正直に言って、思っていたよりもずっと普通だった。
ぼんやりと眺めていると、教壇の上の彼女と目が合った。僕と目が合うと、彼女はにっこりとほほ笑む。
「彼女は家の事情で、猿渡の家にホームステイすることになっている」
クラス中の視線が僕の方に集まってきた。特に男達からは、あからさまな羨みや妬みの視線ばかりだ。
とはいえ家庭の事情という事もあるし、もう最初からそういうことになっていたという事もあって、本気で僕をどうこうしたいと思っているような奴はいないようだった。
色々と面倒なやっかみもあるかもしれないが、何はともあれ身の危険までは無さそうで一安心だった。
「本当なの。マサル君」
「え?」
小声でつぶやいたのは、隣の席の犬飼だった。長い黒髪を抑えながら、彼女は僕に向かって怪訝そうな視線を向けてくる。
「魔物娘と同棲って。そんな話全然して無かったよね」
「それが、僕も昨日父さんから聞いたばかりなんだよ。何か、会社の命令とかそういうのみたいで、急に決まっちゃってさ」
「そう、なんだ」
犬飼は眼鏡を押し上げる。そして、少し険しい視線を壇上の魔物娘へと向けた。
「獣人の魔物娘、かぁ。クラスの風紀、乱さないでくれるといいんだけど」
そういうことか。と僕は一人合点する。彼女は学級委員で、学級活動や行事についてもクラスをまとめる立場にあった。新しい仲間がクラスにちゃんと馴染んでくれるか不安なのだろう。
彼女とは小学校から同じ学校だったからよく知っているが、昔から本当に真面目な子なのだ。
「きっと大丈夫だよ。ほかの魔物娘がいても何とかなってるんだし」
「そう、かな」
「それに、うちのクラスは男子も女子もみんな協力的な方だし、犬飼さんが言えばみんな言うこと聞いてくれるよ」
「うん。……猿渡君も気を付けてね。何かトラブルがあったら、私も相談に乗るから」
「あぁ、わかったよ」
まったく犬飼の言うとおりだった。まずは自分の家の風紀を守らないといけない。
そんなことを考えていると、エンナがこちらに向かって歩いてきていた。犬飼とは反対側の、僕の隣の席に座る。
「これからよろしくね」
「あぁ、よろしく」
尻尾が嬉しそうにくねくねと動いていた。機械では再現しようのない、動物的ななめらかな動きだった。
本物の、魔物娘だった。
学校での活動、授業やら何やらは、特に何事もなくいつも通りに終わった。
放課後になるとエンナはクラスメイトの女子や魔物娘達に連れられて部活や校舎の案内に行ってしまった。あいにくと女子たちの間に入っていくほどの勇気は無かったし、「家まで案内するから終わったら呼んでくれ」等とクラスメイト達の前で所帯じみた話をすることも出来なかったので、僕は教室の中でぼんやりと待っているしか無かった。
「帰っていいのかなぁ。待っていた方がいいよなぁ」
既に教室には誰も居ない。
窓の外を見れば、もう日も暮れ始めていた。カラスのような黒い翼のハーピーが連れ立って空を飛んでゆく。
校庭を見下ろせば、陸上部の女性教師が帰ろうとしている魔物娘、半人半馬のケンタウロスや、爬虫類の特徴を持つリザードマンに声をかけていた。
まさか、先に帰ってしまったのだろうか。そんなことを考え始めたその時だった。教室の引き戸が開いて、僕の待ち人が姿を現した。
「あ」
「マサル君、待っていてくれたんだ」
彼女は駆け寄ってくると、僕の正面に立って満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。やさしいんだね」
「その、まぁ。エンナさんは、これからうちに住むわけだし。案内しないとさ」
「エンナでいいよ。私もマサルって呼んでいい?」
「それは、うん。構わないけど。えと、他のみんなは」
「先に帰ってもらったよ。帰り道は心配ない、駅とは別方向だからみんなとは違うって言って。忘れ物取りに教室に寄るからって」
「そっか」
「じゃあ、いこっか」
彼女は自分の荷物を手に取り、僕の腕に尻尾を絡めてきた。
思いのほかフカフカで心地よいそれに少しドギマギしながら、僕は彼女に引かれるように教室を後にした。
うちに帰ると、普段は見た事が無い程の量の料理がテーブルに並んでいた。
肉じゃが、煮魚、焼き鳥、サラダ、その他いろいろな揚げ物の乗ったオードブル。母さんが料理したものからスーパーで買い足したものまでいろいろあった。
僕とエンナが帰ってくると、すぐに歓迎会が始まった。
「エンナちゃん。ようこそこちらの世界に」
「あまり裕福な家じゃないからこんなものしか用意できなかったけど、いっぱい食べてね」
父さんも母さんも、完全に来客モードだった。
多分父さんの方は会社に言われて早めに帰ってきていたのだろう。すでに缶ビールを何本か開けたような赤ら顔だった。緊張しやすい方だから、恐らく景気づけでもしたに違いない。
母さんの方は、まぁいつもよりにこやかではあったものの、それほど変化もなかった。
「よろしくお願いします。私もわからないことばかりで、ご迷惑おかけすることも多いと思いますけれど、いっぱい勉強して有意義な留学にしたいと思っています」
エンナは、あくまでも礼儀正しく振舞っていた。
魔物娘は独り身の男を見つけるなり節操なく擦り寄ってきて、少しの隙も見逃さずに襲い掛かってくると聞いていたが、どうやら噂は噂にすぎないらしい。
「あ、これお土産の果物です。私達の世界でしか取れないんですよ」
そう言って彼女は荷物の中からハート形の果物を取り出した。
「あら、可愛い形をしているのね。後でデザートに食べましょうか」
「いやぁ、それにしてもエンナちゃんはこんなに可愛くて礼儀正しくて、うちの娘にしたいくらいだなぁ。うちは男の子が一人だけだからちょっと寂しくてな」
「父さん。酔っぱらってあまり変なこと言うなよ」
「ううん。いいのマサル。
ありがとうございます。私なんかでよかったら、どうぞ娘のように扱ってくださいね」
エンナは笑って父さんにビールを注ぐ。父さんはまんざらでもないようで、母さんも、本物の自分の娘を見守るような目でそれを見ていた。
「おっとっと、エンナちゃんはお酌も上手いなぁ。まるで前からこうしてもらっていたみたいな気がするよ」
「もう、お父さんったら飲み過ぎよ。でも、そうね、なんだか前からこうして居たみたいな気がしてくるわね」
父さんも母さんもそんな風に言って笑っていた。最初にあった緊張感は、いつの間にかどこかへ行ってしまったようだった。
気が付けば、エンナはうちの家族に溶け込んでしまっていた。本当にあっという間に、違和感も無く。それこそ、違和感が無いことに違和感を感じるくらいに、何の波風も立てず自然に。
両親は、そのことに何も感じてはいないようだった。驚いていたのは僕だけだった。
やがて父さんが酒に潰れると、母さんが介抱しながら寝室へと連れて行った。
「お風呂出来ているから、先に入っちゃって」
僕は一番風呂をエンナに譲った。別に下心があったというわけでは無い。今日やってきたばかりのお客さんに、誰かが使ったお湯を使わせるというのも気が引けたのだ。
僕は風呂が空くまで、自室で宿題をしていた。
その日の問題はいつもより難しく、僕はいつの間にか周りを気にせず問題に没頭してしまっていた。
だからだろう。彼女の接近にも気が付いていなかった。
「マサルって勉強家なんだね」
声に驚き振り向くと、顔のすぐ真横、息がかかりそうなほど近くにエンナの顔があった。
切れ長の目に、薄いこげ茶色の瞳。きめ細やかな白い肌は風呂上がりのせいかほんのりと赤く、なんだかいい匂いがした。
パジャマ姿は少し子供っぽかったが、浮き出た体のラインは既に熟れ始めた女性のそれだった。胸元は見事に生地が押し上げられていて、腰のあたりも下着の線やお尻の形がはっきりと浮き上がってしまっていた。
目元を彩る赤い隈取も、なんだかとても色っぽい。クラスの女子の誰からも、こんな妖艶さを感じたことは無かった。
しかしそんな大人の色香を感じさせつつも、耳が真ん丸の猿のそれであったり、尻尾が興味津々に揺れていたりと、動物的な可愛らしさも同居していた。何だか、とんでもなく魅力的だった。
「え、エンナ。部屋に入るときはノックしてくれよ。びっくりするよ」
「えー。ノックはちゃんとしたもん。マサルが気が付かなかったのが悪いんだよ」
「そうなの? いや、問題に集中してて」
「なんだか難しそうだね。後で私にも教えてくれる?」
エンナは微笑んで、じっと僕の顔を見つめてきた。心さえ覗き込もうとするような澄んだ瞳から、僕は目を離すことが出来なくなる。
「い、いいけど」
「けどその前に気分転換にお風呂入ってきちゃいなよ」
「確かに煮詰まっていたし、そうしようかな。ありがとう」
エンナは風呂が空いたことを伝えに来てくれたのだろう。用が済むとすぐに部屋から出ていった。
彼女が行ってしまうと、僕は心臓の鼓動を落ち着かせるべく大きく深呼吸を繰り返した。
驚いた。いきなり現れた事ももちろん、思っていた以上に魅力的な姿に、心臓が暴れてどうしようもなかった。
一息ついて落ち着くと、僕は着替えをもって風呂場へと向かった。
裸になって、いつもと変わらぬ浴室に立つ。
なんだか、甘い匂いがした。いつもと違う、女の子の匂いがしている気がした。
「ま、まさかな」
そんな匂いなどしているわけがない。そう自分に言い聞かせつつも、ここであのエンナが裸になって身体を洗っていたのかと思うと、下半身が反応せずにはいられなかった。
僕は一人黙って頭を振ると、少し冷たくしたシャワーで身を清めた。
それからの数日は、特に問題もなく平和に過ぎていった。
魔物娘と同棲するとなればエロいハプニングも起こるのかと思ったが、風呂場で鉢合わせる事もなければ、朝勃ちしているところを目撃されることも無かった。当然、何もないところで躓いて押し倒したり、股間に顔を埋めてしまうという事もなかった。
相変わらずエンナは可愛らしく魅力的で、ドキドキしてしまうこともしょっちゅうではあったが、それ以上のことは何もなかった。
魔物娘も人間と対して変わらないんだなぁ。そう思い始めた矢先のことだった。
「済まないマサル。父さん、ちょっと明日から長期出張に行かなければならなくなった」
いつものように食後の団欒をしていると、父さんが突然こう切り出してきた。まるでいつかの時の再現のように、今回も唐突な宣告だった。
「そうなんだ。分かった。気を付けて行ってきてね。ちなみに、どこに行くの」
しかし急な話ではあるが、別に父親が出張に行くというのはそこまで珍しい事でも無い。日常生活に大した影響はないだろうと思って何気なく聞いたのだが、父さんの返事は僕の予想を遥かに超えていた。
「それがな、エンナちゃんの母国である図鑑世界に行くことになったんだ。交換留学、という事でな」
「僕じゃなくて、父さんが行くの?」
「あぁ、文化交流と技術的な見学を兼ねてな。それで、お前には悪いんだが母さんも一緒に行かなければならないんだ」
「へぇ……」
母さんも一緒に、か。つまり家には僕だけが残されるのか。一人暮らしは初めてだけど、色々気楽だとも聞くし、それも悪くないか……。
……いや違う! 一人じゃない! 今はエンナも一緒に暮らしているから、母さんまで出て行ったら僕達二人きりで残されることになる!
「ちょ、なんでそうなるんだよ」
「向こうの会社からの頼みでな、既婚者の場合は配偶者同伴じゃないと駄目だという話で」
「……断れないの?」
「お前には悪いが、勤め人の限界もあってな」
「か、母さんはそれでいいの?」
母さんだって、きっと何か言いたいことがあるはずだ。昨日の今日で急に異世界に、しかも家の中に息子と若い女の子を二人残して行くなんて、納得するはずがない。
表情を変えずに話を聞いていた母さんは、僕の顔をじっと見る。
「まぁね。そういう事なら、仕方ないじゃない。別の世界に一人で行くのも父さんも寂しいだろうし。ちょっと長めの旅行だと思う事にするわよ。お金も無くてあまり旅行にも行けていないしね。
あんたももう年頃なんだから、いいことと悪いことの分別だってついてるでしょ」
「え、いや。それは、そうだけど」
「大丈夫よ。一年も二年も家を空けるわけじゃないんだし、お金だってうちにちゃんと入るんでしょ? お父さん?」
「あぁ、それは会社が保証してくれる」
僕は何も言えず、エンナの顔を見た。
「あちらの世界も、とても綺麗で良い世界ですよ。きっとお父さんもお母さんも気に入ると思います」
反対しているのは、どうやら自分だけのようだ。
多数決としても、社会的な道理としても、父親の出張を止める理由は無さそうだった。これ以上反対するのは、子供の駄々というものだ。
「分かったよ。けど、気を付けて、ちゃんと定期的に連絡入れろよな」
「あぁ。父さん、偉くなって帰ってくるからな」
父さんの子供のような意気揚々とした様子に、僕は黙って大きく溜息を吐いた。
この時の父さんのセリフが後々のフラグになっているとは、その時の僕は気づきもしなかった。
両親が居なくなると、学校はともかくとして、家の中の生活は大きく変化せざるを得ない。
何しろ、料理、洗濯、掃除。すべての家事を自分達だけでやらなければならないのだから。
その夜、僕とエンナは二人で家事をどうしてゆこうかと相談をした。
特に喧嘩にもならず、話はすんなり進んだ。お互いに気づいていない部分を補い合って、話はすぐに決まった。
その結果、僕達は家事を二人分で割り振って、当番制で毎日やることを互いに入れ替えて担当してゆくことにした。
そうすれば片方に一つの家事が集中したり、掃除や料理だけを毎日し続けなければならないというストレスも生じにくいという考えだった。
二人ともあまり家事はやったことが無かったが、それでも力を合わせてゆけばきっとなんとかなる。
僕達は協力し合うことを決めて、両親の出張を見送った。
こうして、僕とエンナの二人だけの共同生活が始まった。
15/08/29 23:13更新 / 玉虫色
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