読切小説
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八千代ちゃん
 
 「もぐもぐもぐもぐ……」
高梨剛(たかな しつよし)は計算する。
最初来た時ロースカツは五切れに分かれていた。今、彼女の皿の上にあるのは二切れと半分。
「すんません!ご飯お代わり大盛りで!あ、あとみそ汁とキャベツも!」
今のが四杯目のお代わりなので一切れにつき1.5杯食べている事になる、それとは別に味噌汁も四杯目でキャベツは確か三回目だ。ちなみにご飯は四杯とも大盛り。
ほこほこと湯気を立てて椀に山盛りにされて来る白米に目を輝かせる後輩、百井八千代(ももい やちよ)を見て剛は溜息をつく。
あの一杯だって自分は食べ切れるかどうか、今食べ進めているレディースセットも半分くらいでもう結構きつい、レディースセットなのに。
半切れのカツをソースに浸けて大きく口を開けてぱくり、続けて今しがたもらった白米が次々口に放り込まれて行く。
いっぱい食べる君が好き♪ いっぱい食べる君が好き♪
見ていて自然にそんなBGMが頭に流れるほどに幸せそうに食べる。
と、その後輩の箸が止まり、こちらをじっと見始める。
「……先輩食べないんッスか?」
「……いる?」
手元の魚フライを箸で示して言うと八千代はぱたぱたと手を振る。
「あっ、ややや!そんなつもりではっ!」
「いーよ、俺食べ切れないし、ほら」
遠慮する後輩の皿にフライを置いてやるとやっぱり嬉しそうな顔になる。
「てへへ、すいませんッス、いただきまっす!」
言うが早いかタルタルを付けてかぶりつく。
我慢なんてらしくないよ♪
頭の中で歌いながら剛は後輩の食べっぷりを眺める。







 「いや〜ごちそうさまッス」
「よく食ったねえ本当に……まあ、お代わり無料だから懐には痛くないけど途中から店の親っさんの視線が痛かったよ……」
「てへへ」
照れ笑いを浮かべる後輩を連れて剛はショッピングモールのとんかつ屋を出た。
休日の昼間だけあってモール内は人でごったがえしている。
「どっか他に寄る所ある?」
「あ、CD屋寄っていいッスか?」
「いいよ、CD代は出さないけどね?」
「そこまでがめつくないッスよう」
八千代は白い歯を見せて笑う。
剛はこの表情を見るたびに無性にこの後輩の頭を撫でくり回したくなる衝動に駆られるのだった。
長身の剛に対して小柄な八千代の頭はちょうど撫でやすい位置にあり、ショートでありながらふわふわとボリュームのある柔らかそうな髪質はいかにも手触りが良さそうだ。
無論、女の子の頭をいきなり撫でるなんて失礼な事はしないが。
(ああ、これがデートだったらなあ……)
剛は心の中で密かに溜め息をつく。休日に二人で食事にお出かけといういかにもデートなシチュエーションだが、実際は八千代が女子バスケ部の助っ人として頑張ったねぎらいに剛が奢っているのだ。
別に剛がバスケ部と関係がある訳ではなく、バスケ部が剛を介して八千代に助っ人を頼んだのだ。
陸上部、サッカー部、野球部を掛け持ちしている八千代だったが、それ以外の運動部からも頻繁に助っ人を頼まれる、そこでよく仲介を頼まれるのが剛だった。
本人としては本業(といっても三つもあるが)に専念したいらしく直に頼んでも渋るのだが、剛を介して言うと「先輩の頼みだったら断れないっスねー」と引き受けてくれる事が多々あるのだ。
無論、剛も八千代のスケジュールに無理がでないよう断れる時はちゃんと断るようにしている。その様から冗談交じりに「マネージャー」なんて呼ばれたりする。
剛としても八千代との接点が保てるので好都合なのだが、そこからはどうやって仲を進展させればいいのかわからない状態なのだ。
「〜〜〜♪〜〜〜〜♪〜〜〜〜♪」
そんな悶々とした思いを抱いている剛の気を知ってか知らずか……まあ、知らないであろう八千代はCDショップの試聴コーナーでヘッドホンを耳に当てて目を閉じ、爪先でとむとむとリズムを取っている。
リズムを取るたびにその柔らかな髪がふさ、ふさ、と揺れ、ついでに小柄な体格に見合わない程に突き出した胸もぽよ、ぽよ、と揺れる。
そんな八千代の姿を、剛はCDを物色する振りをしながら見つめる。
(ああ、可愛いなあ……エロ可愛いなあ……)







 ぶっちゃけて言うと一目惚れだった、容姿というよりその動きに魅せられた、と言えるかもしれない。
剛が廊下を歩いている時だった。ただ歩いているのではなく、両手に重い書類の束を抱えて歩いていた。
先生に何か頼み事をされたからだったと思うが、そのあたりはよく覚えていない。
とにかく剛は重い書類を抱えてえっちらおっちらと廊下を歩いていたのだ。
と、やにわに先の廊下の曲がり角からばたばたと慌ただしく走る音が聞こえて来たのだ。
(あ、これはまずいかも)
と剛は思った。そう思ったなら立ち止まるなりなんなりすればよかったのだが何となく惰性で立ち止まれなかった。
当然、何やら急いでいる相手は曲がり角の先に書類を抱えた人がいるなどとは考えもしないので速度を緩めることなくカーブに差し掛かる。
(しまっ……!)
本格的にまずいと思った時には遅かった、曲がり角から現れた小柄な女子生徒の驚愕する表情が見えた。
重い物を持っている剛は機敏に避ける事はできない、そもそも運動神経が鈍いので持っていなくても避けられたかどうか。
思わず目を閉じて衝撃に耐えようとする、耐えても多分書類が盛大に散らばる大惨事は避けられないだろうと思った。
ところが体の正面から衝撃はこなかった。
ただ、とん、と両肩を軽く叩かれるような感覚だけがあった。
(えっ?)
思わず開いた目に映ったのは可愛くプリントされたくまさんの絵。
(えっ?)
二度目に思った時にはそのくまさんは視界の上に吹っ飛んで行った。
同時に背後から聞こえるスタン!という着地音。
「うおっ、スゲェ」
傍を歩いていたクラスメイトが思わず、という感じで漏らした言葉が聞こえた。
「すすすすんませんッス!大丈夫ッスか!?」
慌てた声が背後から聞こえる、よろよろ振り返ると大きな瞳をした童顔の少女がうろたえた様子で自分を気遣っている。
「あ……ああ、大丈夫、廊下走ったら駄目だよ……?」
「は、はいっ!急いでたもんでつい……!今後気を付けるッス!」
女生徒はぴょこんと頭を下げると今度は競歩のようにして素早く歩いて行った。
「……大丈夫かおい、マジスゲーなおい」
クラスメイトがそう言って来たので剛は聞いた。
「……今、どうなった?」
「跳び箱した」
「えっ?」
「こう、ぶつかるまえに肩に手ぇ付いてぴょーん、って」
「……嘘だろ、どんな運動神経だよ」
「いやいやいやマジ、マジすごかったって」
興奮するクラスメイトをよそに剛は考えた。
(って事はさっき見えたくまさんプリントは……パン……)
それが出会いだった。







(……いまいちだな)
剛はベッドの上でヘッドホンから流れる音楽を聞きながら呟いた。もともと付き合いで買ったCDなので好みに合わなくてもしょうがない。
ヘッドホンを外して時計を見てみるともう結構な時間だ。
(そろそろ寝るか……)
そう思って電気を消そうとするが、ちょっと思いとどまる。
(……そういえば今日はまだ抜いてなかったな)
おもむろに本棚の横に置いてある菓子の缶を引き出し、開く。
中には思春期の男子にとっての最重要機密事項にして夜のお供。
昔風に言うならば春画、つまるところのエロ本が数冊収められていた。
剛はその中から一冊取り出し、ぱらぱらとめくる。
「……うーん」
首を傾げて戻して他の数冊もめくるが、 どれも気分が乗らない。
「……」
剛は悩ましい顔になりながら缶の一番底に眠っていた数枚の写真を取り出した。
あまり鮮明ではなく、少しピンぼけで写っているのは今日一緒に出かけた後輩、八千代だ。
部活動中を撮ったものらしく、体操服を着ている。
手元にタオルがなかったからなのか上着の裾を引っ張り上げてそれで顔の汗を拭っている場面を捉えた一枚だ。しっとりと汗に濡れた脇腹とブラまで確認できる。
剛はごくりと喉を鳴らしてもう一枚に目を通す。
次はバレーの試合をしている時の一枚。
高々と飛び上がってスパイクを打とうとしている瞬間を捉えた躍動感溢れる一枚だ。
鞭のようにしなるその体は小柄ながら爆弾的な瞬発力を有している事が伺える。
バレー部のポスターにでもできそうな一枚だがそうするには少々被写体に問題がある。
何しろ目の前に浮いているバレーボールもかくやという膨らみが体操着の下で跳躍に合わせて元気に暴れ回っているのだから。
こう言っては八千代に失礼だがPTAから物言いが付きそうである。
過激さでいうならば先程の本の方が数段上なのだが、後輩が無自覚に振りまく健康的な色香は本の中の作られたそれらとは比べ物にならないほど剛の興奮を誘うのだ。







 「ふう……」
一仕事終えた剛はばったりとベッドに身を横たえる。と同時に胸に苦いものが込み上げる。
わかってはいた事だ、あの写真を使って致した後はいつも後悔と罪悪感に苛まれる。
八千代の天真爛漫な笑顔を思い浮かべる。
いつも付き合っている先輩がこんな事をしていると知ったらどう思うだろう。軽蔑するだろうか、不潔だと思うだろうか。
(……あの写真を使うのはこれで最後にしよう)
剛はこれで何度目になるかわからない決意をするのだった。






 キュッ キュキュッ キュッ
シューズの鳴らす音が体育館に響いている。
その音に合わせてバスケットゴール前で二つの影が激しく入れ替わる。
ボールをキープしているのは八千代だ。
姿勢を低くして細かくドリブルをするその表情は普段の人懐こい笑顔からは想像出来ないほど引き締まっている、試合の時にしか見せない真剣な表情だ。
その八千代の前に長い腕を広げて対峙しているのはしなやかな体をした長身の男子。
うなじまで伸ばされた黒髪は所々ぴんぴんと外に跳ねており、そのラフな髪の下から覗く切れ長の目と口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
街ですれ違ったなら誰もが振り返るような端正な顔立ちだ。
その顔を大きな瞳でじっと睨みながら八千代はボールをついて一気に懐に飛び込む。
接触する寸前、素人目には何が何だかわからないくらいの細かいフェイクがかけられ、それに翻弄された男子の脇を八千代の小柄な体がすり抜けたかに見えた。
と、すり抜けた八千代の手の中にボールはなく、男子の手に掴まれていた。やはり素人目にはいつどうやって奪ったのかわからない。
男子は体格の差を生かしてたちまちゴール下まで詰め寄り、ゴールに向けて跳躍する。八千代も合わせて飛びあがる。
当然のごとく身長の高い男の方が有利になるはずだが信じられない事に八千代の方が高く飛んだ。物凄い跳躍力である。
そのままシュートを放っていれば八千代の手に引っ掛かっていた所だが、男は上に投げると見せかけてボールを持ち替え、ブロックの脇を潜らせるようにしてシュートを放った。
宙に縫い付けられているのかという滞空時間の中での出来事だった。
笑みを浮かべた男と悔しげな表情の八千代が地面に戻って来るのと同時にボールはフープの中を通った。
おおう、と見守っていた他の生徒達の間から声が上がる。それに混じって観戦しながら心の中で八千代を応援していた剛は「あーくそっ」と思わず声を上げる。
時間は体育の授業中だが体育の教師が休みだということで自習になった。
各々好き勝手に遊んでいたのだがその中でやにわに始まった学校の中でも最高峰の運動神経を持つ女子と男子のワンオンワンの勝負につい皆見入っていたのだ。
八千代は汗を拭って天を仰ぐ。
「くあー!やっぱ先輩には敵わないッス!」
「ははっ、やっちゃんも相当とんでもないよ、女子の運動神経じゃないって」
「むうう……そう言ってもらえたら嬉しいッスけど、やっぱり悔しいッス……」
「練習練習」
そう言って男子はむくれる八千代の頭をくしゃくしゃと撫でる。八千代もそれを嫌がらない。
「……」
それを見るたびに剛は胸が苦しくなる、自分が常々したいと思っている事をあっさりとやってのけるその男子が妬ましくなる。
スポーツだけではない、容姿も頭も成績も人望も女子からの人気も、人の羨むものは何でもかんでも持っている。
そういう神様に贔屓を受けたとしか思えない人間がこの世には存在するのだ。
その男子、長塚隆二(ながつかりゅうじ)がいい例だ。
「反則だよなあ」
「でもとんでもない性格してんだぜアレ……」
思わず呟いた言葉に答えたのは同じクラスの水瀬智樹(みなせともき)だ。
「え?そうなのか?人当たりよくていい奴じゃないか」
「人当たりはな……」
思わず聞き返す剛に智樹は首を振る、そう言えば交友関係が広い隆二の中でも水瀬は特に付き合いが深いらしい。
「女癖がアレだしな……」
「……それ、聞いたことあるけど本当なのか」
隆二の女癖の悪さはちょくちょく耳にする、かわいい子にはすぐ手を付ける、三股四股は当たり前だとかは流石に尾ひれがついたものと思いたいが……。
「おいそこー、今俺に関して良からぬ噂を立てようとしてるなー?」
と、いつの間に近付いたのか隆二が二人のすぐそばでしゃがみこんでにやにやしていた、後ろには八千代も立っている。
「いや、ありのままの事実の流布をだな」
「俺がモテモテ色男って事実か」
「……ものは言いようだな」
二人のやり取りからも付き合いの長さが伺える。
「うう……剛先輩も見てたッスか……かっこいいところ見せたかったッス」
「いやいや、長塚相手にあそこまでよくやるよ……」
「やっちゃーん!一緒にバスケやろ!」
と、後ろから八千代に他の女子生徒の声がかかった。
「あ、今行くッス!じゃ、失礼するッス」
ぺこりと頭を下げて八千代は他の生徒の所へ走って行った。その後ろ姿を水瀬は眺める。
「可愛いよなあやっちゃんは……」
「ああ……ダイエットダイエットって鶏ガラになりたがる女よりかよっぽどそそる体してるぜ」
「やっぱり体だけかよお前は」
剛は内心穏やかでない、女子の誰が可愛いとかエロいとかなんて男子の間ではよく交わされる話題だが、それが女癖が悪いと評判の男の口から聞こえると実際に手を出すんじゃないかと不安になる。
「なあ、いいよなやっちゃん……」
「え?あ、うん、あー……」
話を振られて剛は口ごもる。
本当は可愛いどころか毎晩写真でお世話になっているくらいなのだが、自分が好意を持っているという事が八千代に変な形で伝わる事を剛は恐れた。
「八千代もいいけど、魚住も可愛いよな」
そこで二番目に可愛いと思っている女生徒の名前を挙げた。
別のクラスの女子であまり目立つタイプではないが、スリムなスタイルと物静かな美貌は密かに人気がある。
「あーいいよなぁ、魚住、目立たないけど」
「いいところに目を付けたな……ナチュラルにモデル体型でしかも結構着痩せするタイプだぜあれ」
「お前は黙ってろ」
「ははは……う、ん?」
ふと、視線を感じた。
見てみると八千代がこちらを見ていた。目を大きく開いてじっとこっちを見ている。
(まさか……聞かれた?いや、そんなにデカい声で喋ってないし……あんな距離で聞こえる訳ないし)
「あ、ちょ、危ない!」
そんな事を考えているうちに八千代の背後にバスケットボールが飛んできた。
と、八千代はひょいと仰け反った。
すぱん!
見るも見事なオーバーヘッドキックでバスケットボールを蹴り返した。しかもボールは正確にフープに吸い込まれていった。
「あっ……すんませんッス……ついサッカーのつもりで」
「すーごーい!」
「ありえない!」
「やっちゃん凄すぎー!もう惚れちゃう!」
大騒ぎになる女子達、剛達も思わず感嘆する。
「すっげぇなホント……」
「滅茶苦茶するなあ……」
「ほほっ、やるねー」
しかし騒ぎを余所に八千代は終始こちらをちらちらと気にしている様子だった。







 他の人に比べると付き合いは深い、しかしやはりその役割は「マネージャー」の域を出ない。
そんな関係に一石を投じる出来事が起きた。切っ掛けを作ったのは隆二だった。
「……登山?」
「そッス」
教室にやってきた後輩の急な誘いに剛は首を傾げた。
「いや、俺そういう体育会系の活動は……」
「登山って言っても低くて安全って隆二先輩は言ってたッスよ、ハイキングみたいなものらしいッス」
(俺ハイキングでもキツいんだけど……)
八千代経由で隆二から登山への誘いがあったのだ。
確かに今度の休みは特に予定も無いが、体育の成績は毎回2で季節の変わり目には毎年体調を崩す剛にとって登山とはかなりハードルが高い。
「うーん、それじゃあ、無理にとは言わないッス」
「……八千代は行くのか?」
「行くッスよ」
「……俺も行くよ」
「あ、本当ッスか?じゃあ、そう伝えておくッス!」
失礼しまッス、と頭を下げて教室を出て行く八千代を見送りながら剛は内心頭を抱えた。
(あー言っちゃったなあ……まいったなあ……)
本当のところは行きたくないのだが、八千代が同行するとなると話は別だ。
八千代と一緒に過ごせる、と言うのもあるが何より隆二と八千代が一緒に行くという事に危機感を感じたのだ。
無論、二人きりではなくグループで行くのだがそう言った機会に慣れてそうな隆二はきっといつもより女性の目に魅力的に映るだろう。
それで八千代がコロッと行くとは流石に思わないが……。
加えて前に言っていた隆二の台詞が気になった、確か八千代の事を「いい体してる」と評していた。
「たらし」であると本人も公言している隆二がこの機会に八千代の事を狙って来ないという確証は無い、いや、きっと狙って来るに違いない。
(八千代は俺が守らなきゃ……いや、むしろこれを機会に俺も八千代にアピールするんだ!)
一念発起した剛は早速帰りに本屋に寄り、山登りに関する書籍を漁った。
それによるとやはり基礎的な体力は最低限必要らしい、当たり前の事なのだが剛はこの前提条件すら怪しい。
ペラペラと本を立ち読みしながら剛は考える。
(当日までそんなに期間はないけれど……出来る限りの体力強化をしておきたいな……と、なると……)
また別のコーナーに立ち寄り、健康やエクササイズ関連の雑誌に目を通す。
(ジョギング……朝にジョギングをしよう、あと食べる物も選ぼう、当日まで出来る事は全部する……!)
「これ下さい」
「明日から出来る!簡単筋トレ術!」「男らしい肉体を作る食事方法」「効果覿面!肉体改造ノウハウ」
レジに持って行った書籍から自分が何を考えているかが店員に悟られる気がして恥ずかしかったが、剛はなりふり構わなかった。







 登山当日、天気はまさしく行楽日和の快晴、見上げる剛の表情も晴々としている。
体調は今までにないくらいに絶好調、ひと山ふた山楽々登頂できそうだ。これこそ当日までの努力の成果だ。
「先輩、何だか今日は一味違うッスね!すごく頼りになりそうッス!」
八千代も目を輝かせてくれている、その言葉だけで努力が報われるというものだ。
「よーし!出発しようか!こっちのルートだったな?」
剛は「山頂行き」と書かれた看板に従って道を歩き出そうとする。
「はい!いってらっしゃいッス!」
「おう!……え?いや、いってらっしゃいって……八千代も……皆も一緒に行くんだろう?」
「あ、実は直前で予定変更になって自分は隆二先輩と別のルートで行く事になったッス!」
「…………は?」
と、八千代の背後から現れる隆二。
「おー、調子よさそうじゃん、これなら心配する必要もなさそうだな?じゃ、俺らはゆっくりと別ルートで行くからよろしく」
笑みを浮かべて言いながらさり気なく八千代の腰を抱き寄せる隆二。
「やん♪ここじゃ駄目ッスよう隆二先輩……♪」
八千代は嫌がるでもなく、むしろ媚びを含んだ目で隆二を見上げる。
「ははっ、それじゃあな♪」
爽やかな笑みを浮かべて八千代を抱き寄せたまま去って行く隆二、抵抗するでもなく素直に従う八千代。
「ちょっ……待って、待ってくれ!待っ……!







 「待っ……ふぇーっくしょい!」
自分の寝言とくしゃみで目が覚めた。
「ごほっ!げほっごほごほごほ!ゲーホゲホゲホ!」
ついでに盛大に咳が出る、咳をした拍子に腫れた喉がひりひり痛む。
「あ゛ー……ひでえ夢……」
ガラガラになった声で呟く、現実は夢に勝るとも劣らずひどいものだった。
登山予定日の当日、剛は見事に大風邪でダウンして自室のベッドで横になっているのだった。
熱い額に手を当て、剛は部屋の壁に貼られた紙に目をやる。
そこには自分で設定したトレーニングメニューから食事の献立までが詳細に書き込まれている。
予定をこなし始めた最初の数日で既に体に違和感を感じ始めたのだが、構わずに決行した結果がこれである。
几帳面な剛の性格が裏目に出た形だ。
予定表から目を逸らし、窓の外に目をやるとそこだけは夢と同じ行楽日和の青空。せめて雨でも降って中止になれば……という剛の卑しい願いも通じなかったようだ。
メンバーには自分が参加できなくなった事は前日に伝えてある、登山に参加する面々はそろそろ出発する頃だ。
当然八千代と隆二も……。
「はーぁ……」
溜息しか出ない。自分は一体何をやっているのだろう。わざわざ誘ってもらったのに張り切り過ぎて風邪を引くとは……。
「……」
両親は仕事でいない、家の中には自分一人だ、静寂にカッチコッチという時計の音がやけに大きく響いて聞こえる。
「……うっ……」
(あ、やばい、泣きそう)
「……ん、ううん、ごほんっ」
こみ上げる涙を咳払いで誤魔化す、この上めそめそ泣き出したらそれこそ惨めだ。
(……寂しい……八千代に会いたいな)
今、青空の下で元気に登山しているであろう八千代の事を思い浮かべる。思い浮かべたら余計に寂しくなってきた。
「……」
落ち着かない気持ちになった剛はのそりとベッドから起き上がり、本棚の脇に置いてある菓子缶を引っ張り出す。
ぱか、と蓋を開けて底をごそごそ探り、あの写真を取り出した。
写真の中にある躍動感溢れる八千代の姿をじっと見る。
「……」
体調が悪いはずなのに下半身だけは元気になって来る、これには剛も驚いた。
「……ちょっと……ちょっとだけ……」
ごそごそと元気になった愚息を取り出し、いつもよりゆっくりしたペースで自家発電を始める。
「…………」
自分には結局これが一番なのかもしれない、いい所を見せようなんて考えず。
黙って一人で性欲を処理しているのがお似合なのいかもしれない。
八千代の事は好きだが、自分がそれに見合う男かというと明らかに否だ。
昔から体が弱くてしょっちゅう病気をしていて、小学校の頃についたあだ名が「モヤシ」。
嫌だったけれどもこれほど自分に似合うあだ名もないだろう、身長だけ高くて青白くて痩せていてひょろひょろしていて……。
「……う………うっ……」
本格的に泣けて来た。
こんなに惨めな気持ちになる自慰は初めてだ。
ピンポーン
と、インターホンの音が家の中に鳴り響いた。
(……誰だこんな時間に……セールスか何か?)
いずれにせよ出る義理はない、こちとら病気中でしかも取り込み中なのだ。
ピンポーン
「……」
ピンポーン
「……」
ピンポーン
「あーもう……」
剛は渋々写真をベッドの上に投げ出すと重い体を引き摺って二階の自室から出て階段を降りた。
「だれだよもぉ……ぉっっっ!?!?」
ぶつぶつ言いながらドアの覗き穴を覗いた剛は心臓が止まりそうになる。
丁度向こう側からもこちらを覗き込んだのか魚眼レンズで歪んだ八千代の大きな瞳がドアップになっていたのだ。
(何で!?登山に行ったんじゃ……!?そっちから覗いてもこっちは見えないぞ八千代!?)
混乱の極地に陥る剛の目の前でまたインターホンが鳴った。
「あっ……あー!はいはいはいちょっと待ってて……!」
慌ててチェーンと鍵を外す。開いた扉からおずおずと八千代が入って来た。
「お、お邪魔しまッス……すいませんッス、中々出ないから心配になって……先輩大丈夫ッスか?」
「あ、ああ、うん、おう」
(な、何で八千代が……?ええと、とりあえずもてなし……お、お茶でも出さなきゃ……)
まだ混乱から抜け出していない剛は熱のある頭でぐるぐると考える。
「ちょ、ちょっと、待ってて、今、お茶……」
「あっ、先輩!」
ふらつく足取りで台所に行こうとするのを八千代が支える。
「先輩まだ熱高いッスよ……?」
そう言ってリビングのソファーに寝かしつけてくれた。
「やち、よ」
「はい?」
「と……登山は……?」
「あ、キャンセルしたッス」
「えっ?……何で?」
「先輩来なきゃ意味ないッスよう」
「……何で俺が来ないと意味ないの……?」
「えっ?……や……何で、と、言われ、まして、も、ソレはその……」
いつもはきはき答える八千代には珍しくつっかえつっかえな返答だ。
「あ、ええと、お見舞いの色々、持って来たッス」
八千代は誤魔化した、剛は不思議に思ったがそれ以上突っ込まなかった。
「えっと、リンゴに、バナナに、キウイに……」
八千代は背負っていたリュックサックから次々果物を取り出していく。
「……ど、動物園みたいだな……」
「果物は体にいいんッスよ……!あ、先輩ご両親は……?」
「今パート行ってていないよ……昼には帰って来るけど……こほん」
「そうッスか……」
「……」
「……」
会話が途切れる。
隆二と一緒に行った訳ではないと言う事が分かって一安心だったが、いざこうして二人になると少し緊張してしまう。
今まで二人で出掛けた事は何度かあったが、こうして静かな所で二人きりになるというのは今までには無かった。
「……八千代」
「は、はい?」
「ごめんな、わざわざキャンセルまでして見舞いに来てもらっちゃって……ごほん、」
八千代はにっこり笑った。
「気にしなくていいッスよ、登山より大事だと思ったッスから……」
「……」
今の言葉にはじーんと来てしまった、単なる思い込みだとは思うが隆二よりも自分を取ってくれたという風に聞こえなくもない。
「あ、ありが……っくしょん!」
「あ、すいません、寒いッスよね?」
確かに上着を羽織っているだけだと寒気が来る、やはりまだ熱が高いようだ。
「何か毛布とか……」
「あー……部屋にあるから……そっから持って来るわ……」
「あっ、じっとしてて下さい!自分が取って来るッス!二階ッスよね?」
「ん……上がってすぐ……右手の部屋だから……」
「了解ッス!」
八千代は二階に向かって行った。それを見送って剛は溜息をついた。
(家に八千代がいるって何か不思議だ……つい行ってもらったけど部屋、大丈夫だよな?何も変な物は置いて―――――――――――――)
剛はソファーから飛び起きようとしてつんのめって転んだ。
「っ……ぁっ……!!!」
必死に声を出そうとするが腫れた喉からは掠れた空気音が漏れ出るばかりだ。
まずい
部屋を出る前自分は……
まずい
八千代の写真を使って……
まずい
写真は今ベッドの上に散らばって……
まずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずいまずい
終わる、八千代との関係が終わる、先輩でいられなくなる、終わってしまう。もう、あの笑顔が自分に向けられなくなってしまう。
「ゃっぁ……がはっ!ゲホッ!八千代ぉぉっぉぉおお!!!!!」
剛は絶叫した、人生でこれ程凄惨な声を上げたのは初めてだ。
……ドタドタドタドタ!
喉が潰れているので大した声量にはならなかったが、八千代がのぼっていた階段を転げるように駆け降りて来る音が聞こえた、どうやら何とか破滅を回避できた。
「どどどどどどどどうしたんッスか!何事ッスか!?強盗ッスか!?」
鳩が豆鉄砲食らった顔で八千代がリビングにまで戻って来た、ささっと奇妙な構えを取って周囲を警戒したりしている。
そりゃあいきなり血を吐くような絶叫で呼ばれれば何事かと思うだろう。
「え……ええっと……」
咄嗟に叫んで呼び戻したものの部屋にエロ本と君の写真あるから見ないで欲しい、とも言えない剛は口をぱくぱくさせるしか出来ない。
「や……ちよ……」
「先輩……?」
八千代が訝しげな表情になる、何か言わなくては、呼んだ理由を何か……。
「さ……」
「さ……?」
「さび、しい……寂しいから……離れないでくれ……」
自分で言ってびっくりだ、もうちょっとマシな理由を思い付かなかったのか。
「……!!!」
それを聞いた八千代はぶるぶるっと体を震わせてその場で小さくぴょん、と跳ねた、合わせて胸もぱいん、と揺れる。
剛は知っている、それは八千代のテンションが上がった時の癖みたいな動きだ、何故今?
と、思う間に八千代の小柄な体がこちらに吹っ飛んで来た。
「うわっ!?」
「先輩!」
たちまちソファーの上の剛に大型犬の如くのしかかって来た。
「大丈夫ッス先輩!離れないッス!八千代が付いてるッス!」
「あ、わ、うわ、ちょ」
「先輩ー!」
八千代は剛の胴体に手を回して胸に顔を埋めるように密着して来た。
慌てたのは剛だ、こんなに八千代と多くの面積で触れ合った事はこれまで無かった。
ぎゅううううう
「か、風邪うつっちゃうって……」
「大丈夫ッス!自分馬鹿だから風邪引かないッス!」
無茶な理論を言って離れようとしない、いや、離れないで欲しいと言ったのは剛だが。
(や、やわ……柔らかあったかいい匂い……!)
見た目から分かっていたが八千代は小柄な体に豊満な肉付きというトランジスタグラマーな体型だ。
腕の中にすっぽりと収まるサイズでありながらどこもかしこもむちむちとボリュームがある。
それもただの脂肪ではなく、しなやかさと柔軟さを秘めた筋肉で作られた体だ。触れると服の下からなんとも言えないソフトで弾力に富んだ感触が返って来る。
そしてちょうど顎の下あたりに触れる柔らかな髪から太陽のようないい匂いがしてくる。
剛は半ば無意識に八千代の頭を撫でた、思いもよらない所で長年の夢が叶った。
指の間をふわふわとした感触の髪が通る、思った通り柔らかで最高の手触りだ。
「ふぅぅぅぅ……ん」
八千代はふにゃふにゃと表情を崩す、心を許しきった表情だ、その表情も相まって愛玩動物の毛並みを撫でている気分にさせられる。
ふと、頭を撫でる手に違和感を感じた。頭頂部のあたりに二つの柔らかな突起物を感じる。
(あれ……八千代、髪型変えたのか?)
一瞬そう思ったのだが髪の毛の感触とは明らかに違う。
と、思ったそばから剛の手の下からぴょこん、とふさふさの毛に覆われた獣の耳が立ち上がった。
(……)
剛は無心にその耳ごと頭を撫でる、髪と同じ色の毛に覆われた耳は極上の手触りを返してくる、そして撫でられるたびにひこひこ、と気持ち良さそうに動く。
ぺし、ぺし、ぺし
撫でている腰に回しているもう一方の手に何かが当たっている感覚がした、見てみると八千代の腰から生えたこれまたふさふさの尻尾がふりふり揺れて剛の手に当たっているのだ。
(…………ああ、熱のせいで幻覚が見えてるんだな)
そう納得した剛は遠慮なく尻尾に手をかける。
さわさわさわ……。
「きゅぅぅぅ……ん」
八千代の上げる声まで犬の甘える声に聞こえて来る。
「くぅぅぅん……ふー、ふー……すんすん……すふー……もふー……」
八千代は胸に顔を埋めてすりすり擦り付けながら鼻を鳴らす。しばらく何をしているのかわからなかったが、理解して剛は赤面した。
「ちょ……嗅ぐな、昨日風呂入ってないから」
そう言って引き離そうとするが、八千代はしっかりとしがみ付いて話さず、顔を擦り付けるのも止めない。
「先輩の……先輩の匂いぃ……もふー、もふー……」
「ばか、やめろってやめて……」
「ただいまー」
玄関からの声に二人の動きがぴた、と止まる。
咄嗟に時計を見ると丁度12時、母がパートから帰って来る時間だ。
「剛ー?……誰の靴かしら」
そんな言葉と共に玄関からリビングに足音が近づいて来る。
「……っっ!!」
びゅんっ!!
瞬時に体の上から八千代の体の重みが消失する、と同時にリビングのドアが開けられ、母が入って来た。
「あら……いらっしゃい、お見舞いの方?」
「はっ……ははははははいっ!せ、先輩にはいつもお世話になってるッス!も、もみょ、も、百井、八千代と、申しまッス!!」
八千代はソファーから離れた場所でぴしーっと背筋を伸ばしてどもりながらも応対する。
「あらぁ、こちらこそ」
「あ、あの!ええと!じじじじ自分は決して先輩に不埒な真似をしようとしていた訳では……!」
「?」
「あ!いえ!あの、今後ともよろしくお願いしまッス!」
ぶんっと音が鳴りそうに勢いよく頭を下げた、体育会系だ。
「いえいえ、うちの息子が迷惑かけてません?」
「いえ!せ、先輩はとてもいい匂いッス!」
「はい?」
「だっ!あっ……いや!その……!こ、これからお昼ッスね!?それじゃあ自分は失礼しまッス!」
「まあ、そんなに焦らなくても……ところで、その……」
「はい!?」
「それはその……何かしら?」
そう言って母は頭に手をやる、八千代も合わせて手をやる。
ふさっ
「あっ」
ぴょこん、と頭頂部から飛び出た耳に手が触れた。
気付いた八千代はぱぱっと髪を乱す。そうすると既に耳は無くなっていた。
「すいません!ちょ、ちょっと寝癖が立ってたッス……!し、失礼しまッス!」
八千代は逃げるようにばたばたと帰ってしまった。
母はその後ろ姿を見送ると、ソファーに倒れ込んでいる息子に向き直った。
「まあ……随分可愛い子だったわねえ、やるじゃないのあんた……大丈夫?」
剛はソファーの上で放心状態になっていた、母が心配して目の前で手を振っても無反応だ。
「こら」
ぺしん!
「あいた!」
「しっかりしなさいな、熱まだ高いの?」
「い、いや、大丈夫……あれ、本当に大丈夫だ」
自分で額に手を当ててみると熱っぽさが前より軽減されている気がする、それだけでなく体のだるさも取れている。
「……体調良くなった」
「……可愛い子の看病は効くのかしらやっぱり」
首を傾げる母をよそに剛は考え込む。
今起きた事は何だったんだろう、熱で見た幻覚ではないのか、しかし確かに母も目撃したのでやっぱり幻覚とは違うみたいだが……。
そして、何だったんだろうあの雰囲気……。
剛は体に残る八千代の感触を思い返すように両肩をさすった。







 「おっす、風邪もう大丈夫か?」
休み明けの教室で茶髪のクラスメイト大島宏樹(おおしまひろき)が声を掛けて来た、隆二に誘われたメンバーの一人だ。
「あー……良くなったよ、悪かったなドタキャンして」
「……良くなったか……そうか……そりゃあなあ、元気にもなっちゃうよなあ」
大島は急ににやにやし始める。
「何だよ気持ち悪い」
「やっちゃんに看病されたらなあ」
「……!?」
剛は混乱する、あの事は誰にも言っていない、何で知っているのだ。
「ああ、やっちゃんから聞いた訳じゃないけどな、ただ、お前が病欠だって知った途端にそわそわし始めて「すいません!自分、大事な用事思い出したッス!」とか言って飛ぶような勢いで帰ったら誰だってわかるって」
「いやそっ……まあ、うん」
何か言って誤魔化そうと思ったが、隠しだてする事でもないと思い直した。
「よかったじゃん、脈ありそうで」
「脈って……な、何の事だよ」
どもってしまった。
「何の事だろうなあ?」
またにやにやされる、腹立たしい、この大島という奴は人の機微にやたら敏感な所がある。
明るくて気が効くのでクラスでも人気者だが、こう言う時には若干タチが悪い。
「あー……登山はどうだった?楽しかったか?」
旗色が悪いので強引に話題を変えた。
「まあ、楽しかったよ……俺らは」
「俺らは?」
ガラガラッ
何か含みのある言い方を気にした所で教室の入り口が開き、一人の生徒が入って来た、水瀬だ。
「おう、昨日は……」
「……」
ギシッ、ギシッ、ギシッ、ギシッ
声を掛けようとしたがその動きを見て思わず止めた。
ギシッ、ギシッ、ギシッ、ギギギ……
実際にそういう音がしている訳ではないのだが、そういう効果音が似合いそうな水瀬の動きだった、
微妙に肘が曲がったままの形で固定された両腕、丸められた背中、杖をつく老人のような小さな歩幅でゆっくりゆっくりと自分の席にまで歩いて行く。
ギギギ……コツン
「はぐっ……!」
慎重に席に着こうとしたが座りしなに机の足に太股がぶつかり、びくーんと全身で反応する。
普通なら爆笑しているところだが水瀬の表情が余りに悲壮なので笑う事も出来なかった。
「……どうしたんだアレ」
「いやな、俺達は普通の一般向けの山道を行ったんだけど、出発直前に隆二が「俺はせっかくだからこの上級者コースを選ぶぜ!あと智樹もな!」って言って二人だけ違うコースに……」
「筋肉痛なのかあれ……」
「壮絶だったらしい」
そう言えば隆二が何がしか騒動を起こす時はいつも無関係な水瀬が一番被害を受けている気がする、ゆっくりとした動きで鞄を開く水瀬を見ながら剛は思った。
ちなみに隆二の方は登校する時に見掛けたが全く平気そうだった。
「帰りに奢って何か奢ってやるか……」
「あ、悪い、俺パス」
「えー、またかよお前……」
人の誘いは基本的に断らない大島だが、最近はやけに付き合いが悪い。
「最近ずっとじゃん、何か始めた?」
「ちょっとな」
「ちょっとって何だ」
「ヒ・ミ・ツ」
「キモッ」







 (そういう事だったのか……!)
剛は本棚の影に身を隠しつつ思った。
場所は市内の図書館、時刻は夕暮れの赤い日差しが館内に差し込む頃。
その日差しに照らされて窓際の席に二人並んで座っているのは茶髪の少年と長い黒髪の少女。
大島と魚住だ。
学校の帰りに借りていた本を返却しに寄ったらたまたま見付けたのだ。
(最近付き合い悪いと思ったら魚住に勉強見てもらってたのか……そういややたらと成績伸びてたな……羨ましいなくそう)
「……で……だから……でしょう?」
「ああ……そういう……ははっ」
「ふふっ……」
(いやそれにしても……)
近すぎないだろうか、距離が。
無論、ここは図書館なのだから大きな声は出せない、なので喋る時には必然的に距離が近くなる。
だがそれにしたって近い、肩と腕が触れ合いそうだ。
自分があの立場だったら間違いなく勉強になんか集中出来ない。
それに遠くてよく聞こえないが微かに聞こえる話し声は親しげで楽しげだ。
(これはひょっとしなくても……むむむ)
そういう事なのだろう。
言ってくれてもいいのに、とも思ったがよく考えると目立たないながらも密かに人気のある魚住と付き合っていると公言すると色々面倒が起きる可能性も否定できない。
(そういうことなら……黙っとこう)
むやみに言いふらして二人に嫌な思いをさせる気は剛には無いし、嫉妬心も無い、やりやがったなあんちきしょうというやっかみはちょっぴりあるが。
むしろ陽気でお人好しな大島と物静かで良く気が付く魚住の二人はとてもお似合いだと剛は思った。
「……」
しかしそれはそれとして野次馬根性は働くもので、本を物色するふりをしながらこっそりと二人の後ろ姿を観察するのだった。
(……おっ)
二人が席を立った。
机に筆記用具が残っているところを見ると資料を探しに行くようだ。
本棚の立ち並ぶ通路へ入って行く二人の背中を見送って剛はため息をついた。
(ああ……いいなあ……俺も彼女欲しいなあ……俺も八千代と……)
しかし自分は大島ほどの積極性はないし、会話のセンスもないし、明るくもないし、モヤシだし……。
いつもの自己嫌悪のループにはまり込んでげんなりする。
「……?」
それにしても遅い、外は暗くなり始め、そろそろ閉館時間も近付いているというのに机の上に筆記用具を残したまま二人は一向に戻って来ない。
(何やってんだあの二人……)
剛は館内をちょっとうろついて二人の姿を探してみたが、見当たらない。
少なくとも勉強に必要そうな参考書の並びにはいない。
荷物は置いてあるんだから帰ったという訳ではないだろう。
(こんな所にいないよな……?)
剛は図書館でも一番奥まっていて人気のない場所、古書やら何やらが並んでいる棚に近付いた。
ここのあたりは少々入り組んでいて本棚の背も高いので入り込むと表から見えなくなる。
少し薄暗いその一画に剛は入り込む。
(あっ……いた?)
入ってみると確かに奥の方から衣擦れの音と人の息遣いが聞こえる気がする。
(何やってんだこんな所で……借りるもんなんかないだろここ)
ぴちゃっ
(えっ……?)
水音のようなものが聞こえた。
ほんの小さな音だったが、カーペットを踏む足音や紙を捲る音の中で確かにその異質な音は耳に届いた。
「……ごくっ」
剛は固唾を飲むと足音を立てないように忍び足で音の発生源に近付いた。
ちゅっ
また聞こえた、近い、目の前の本棚の向こう側からだ。
見付かったらどうしようという思いもあったが、ここで引き返すには音源が気になり過ぎる。
そもそも見付かったらまずい事をしている方が悪いのだし。
(まさか……まさかだよな……?)
そんな事を考えながら極限まで気配を殺して本棚の向こう側を覗き見た。
「……っ!!」
思わず声が漏れそうになった。
確かに二人が何か怪しい事をしているのではないかと疑ってはいたがそれは隠れてキスか何かしているのではないかとか、そういう疑いだった。
「……ちゅぱっ……」
目の前で起こっている事態は違った、そういうレベルではなかった。
「ちゅず、ず……」
本棚にもたれかかる大島の足元にひざまづく魚住が大島の股関に顔を埋め、首をゆっくりと前後させている、水音の発生源はそこだ。長い髪で隠れてはいるが……。
(……あれって、フェラ……チオ……だよな……?)
剛は頭がぐらぐらした、見知った顔のクラスメイトがそんな事をしていたたなんて、そんな場面に遭遇してしまうだなんて、しかもこんな場所で。
(お、大島の奴……!何て事させるんだ……!)
剛は憤りを感じた。
清楚な印象の魚住がそんな事を望むとは思えない。
つまり大島が魚住にこの非常識な行為を求めたのだと思ったのだ。
「ぢゅぴ……ちゅっぱ……」
しかし、見ているとどうも想像したのと様子が違う。
大島の真っ赤に紅潮した顔に余裕は一切伺えず、膝は今にも崩れそうにガクガクと震えている。
右手は声が漏れないようにしているのか、口元を必死に押さえつけている。
そしてしきりにかぶりを振って左手で自分の下半身にすがりつく魚住を引き離そうとしているようだ。
とても魚住にその行為を強要しているようには見えない。
「んっ……ぢゅるんっ……」
(うわっ)
大島の手で魚住の顔が股間から引き離された、ずるん、と隆起した大島の一物が糸を引いて魚住の口から引き抜かれる。
あんなに大きくて長い物をよくあの小さな唇が咥え込むものだと驚きを覚えると同時に興奮してしまう。
「うおず……まず……だめ……ひっ……」
やはり小声なのでよく聞き取れないが、大島は魚住を諭そうとしているらしい。
しかしその言葉を聞いているのかいないのか、魚住の白魚のような手が口から解放された大島の一物に絡み付く。
にゅっち……にゅっち……にゅっち……
解放されてなお快楽の波が引かないようにスナップを利かせてぬるぬると光沢を放つ大島の一物を魚住はしごく、スムーズな手付きだ。
たまらず大島の腰が砕け、ずるずると本棚を背が滑り落ちる。
「おおし……く……飲ませ……ね?……ね?……」
魚住も小さな声で何かを大島に囁く、その顔はやはり長い髪に邪魔されて見えない、あの透明感のある美貌が今一体どんな表情をしているのか剛には想像できなかった。
「ぢゅぷぷ……」
「……っ!……うおず……!」
座り込んでしまった大島の股間に四つん這いになった魚住がまた顔を沈める、大島は必死に声を堪えている様子だ。
どうやらこれは自分の想像とは違う事態だと剛は理解する。
貪っている、大島は魚住に貪られているのだ。







 「ふうい……」
日も大分傾き、そろそろ夕闇が迫ろかという中、図書館の入り口付近にある休憩用ベンチに剛はいた。
缶コーヒーを片手にぐったりとうなだれている。
あの後、二人の行為が終わる前に音を立てないようにしてこっそり退散して来たのだ。
流石にあの場面で気付かれたら洒落にならない。
(……そっかぁ……あの二人そんな所まで進んでたのか……それにしても……)
剛の脳裏には普段の清楚なイメージからかけ離れた魚住の痴態が焼き付いてしまった。明日から普段通り接する自信が無い。
「……あっ……」
二人が図書館から出てきた、剛は咄嗟にベンチから離れて二人に見付からないようにする。
(よかった……無事に終わったのか……)
剛が心配する事でもないのだが、自分以外の誰かに見付かったら大変な事態になっていただろう。
手を繋いで歩く二人は勉強をしている最中の和気あいあいという雰囲気とは違って、どこか落ち着きのない様子だった。
二人共やけに急ぎ歩きだ。
(……そうか、落ち付ける場所であれの続きをする気なんだ……)
火照った二人の顔色とどこかしら切羽詰まった様子から剛はそう読み取った。
(ああ……大島、お前はもう俺の届かないような遠い所に行っちまったんだな……幸せにな……)
日の沈む街に消えて行く二人を剛は遠い目で見送った。







 「高梨君……」
「ん?」
その翌日、廊下を歩いていた剛に静かな声で話しかける女生徒がいた。
「……はぁぅっ!?う、魚住さ……ん!?」
「?」
一瞬、昨日自分が覗いていた事がばれていてその事で話があるのかと思ったが、思い切り動揺する剛の姿を見て訝しげな表情をしているのでそういう事ではなさそうだ。
「どうか、したの?」
「あ、ああ!いや、何でもない何でもない、うん、何?」
「このプリント……先生が高梨君に渡してって……」
「お、おう!ありがとな!」
ぎくしゃくした動きでプリントを受け取る。
「……?」
不自然な剛の挙動に首を傾げる魚住、剛の視線は思わずその唇に吸い寄せられる。
(……昨日……あの口で大島のを……それだけじゃない、あの後帰って二人は……)
「高梨君……どうか、したの?」
「あ、いやいやいや、何でも、何でもないよ!」
顔の前でぱたぱたと手を振るが、顔が紅潮するのを止められない。
(駄目だ、とても普通に話せない)
「ありがとな!それじゃな!」
「あ、うん……」
逃げるように魚住の前から立ち去ろうとする。
「……っとぉ!」
振り返るとすぐそばに八千代が立っていた、あやうくぶつかる所だった。
「……」
八千代はじっと剛を見ていた、いつも表情豊かな八千代には珍しく無表情だ。ただ大きな瞳でじいっと剛を見ている。
「……ど、どうかしたか?八千代」
剛がそう声を掛けるとふい、と視線を落とした。
「何でもないッス……」
そう言って足早に剛の前から歩き去ってしまった。
(どうしたんだろ、様子が変だったな……)
剛は首を傾げるしかなかった。







 校庭でランニングする八千代の姿を剛は教室から見ていた。
軽快な足取りで他の女子を周回遅れにするその姿から体調は悪く無さそうに見える。
(……でも、なんか変なんだよなあ)
変、というのは最近の八千代の様子がである。
具体的に言うと元気がない。
表面上はいつもと変わらないのだが、どうもいつも通りにしようと無理に振る舞っているように見えるのだ。
話をしていてもどこか上の空であり、見ているだけで元気がもらえるいつもの笑顔もどこかしら不自然だ。
と、校庭でどっと笑いが起こった。
見てみると八千代が回っていた校庭を慌てて横切り、笑っている皆の集団に戻ろうとしている。
どうやら既定の周回を終えたのに気付かず、延々と走り続けていたらしい。
(……やっぱり何かぼんやりしてるよなあ……)
「……変だよな?やっちゃん……」
丁度思っている事を小声で言って来たのは席の近い大島だ。
「……やっぱ思う?」
「運動部の皆も言ってるぜ?何かあったのかって……しっかりケアしてくれよ「マネージャー」」
「マネージャー言うなって……」
「俺の授業はそんなに退屈か?ん?」
「「あっ……」」







 八千代は帰り道を歩いていた、部活を終えたのでもう夕日で影が長くなる頃だ。
その足取りはやはりとぼとぼという感じに元気がない、人の見ていない所だとより顕著だ。
「八千代」
「あっ……先輩?」
声を掛けられて八千代は意外そうな顔になる、剛は帰宅部なので普通この時間帯には会わない。
「どうかしたんッスか?」
「奢るよ」
「えっ?」
きょとんとする八千代を前に剛は頭を掻く、どう言おうかと悩んだが結局ストレートに言う事にした。
「最近なんだか元気ないからさ……」
「そっ……そんな事ないッス!自分、元気だけが取り柄ッスから!」
そう言ってガッツポーズを取って見せるが、やはりその表情は無理をしているように剛には見える。
「いいからいいから、たまには先輩らしく奢らせてよ、まあコンビニだけど」
「アッハイ」
剛にしては珍しい強引な誘いに八千代も頷くしかなかった。
コンビニで二人してパンと飲み物を買って近くの公園のベンチに座った。
かなり大きな公園で昼に来ると緑が爽やかな場所だが、日も暮れて街灯の明かりだけになると薄暗くて人もいない。
その街灯のオレンジ色の明かりにぼんやりと照らされながら二人はパンを頬張った。
(……食べる時はいつも幸せそうだったんだけどなあ)
やっぱり俯き気味にパンをもそもそと食べる八千代を見て剛は悲しくなる。見ていて気持ち良くなるあの食べっぷりが見る影もない。
「ごちそうさまッス」
「なあ、八千代」
「は、はい?」
「……言えない悩みだったらさ……しょうがないんだけど……何か……ないかな……」
「は……い?」
「俺にできる事ないかな……飯奢る以外に……何かさ……何かできないかな……八千代に……」
「……」
「皆八千代の事心配してるし……その、そういう顔されてると、その……俺も辛いからさ……」
「……」
「なあ、八千……」
言いながら八千代の方を向いて剛は言葉を失った。
八千代は俯いてコンビニの袋を強く握りしめ、顔をくしゃくしゃにして涙をこぼしていた。
(ああ、くそっ)
剛は心底悔しかった、こんな場面に自分はどうしていいのかわからない、きっと隆二や大島ならうまく慰めてあげる事が出来るのだろう。
自分は好きな子がこうして泣いているのにただおろおろと見ているしか出来ない。情けない。
(いや、そうだ、確か……)
剛は右のポケットを探った、あった、駅前で配られたティッシュ。
「……」
「ずいません……」
無言で差し出すと受け取ってくれた。
「ぐしゅ……ぐず……びーーっ!」
鼻をかんだ、ちょっとは役に立てた気がして救われる。
「ぐず……くすん」
とりあえず少しは落ち着いてくれた様子だ、薄暗い中でも鼻の頭と頬がリンゴのように赤くなっているのがわかる。
(泣き顔もかわいいなあ……)
不謹慎だが剛は思った。
「何も出来ないけど……そっ、相談相手にくらいはなれない、かな……や、無理にとはいわ、言わないけど……」
かみながら遠慮がちに剛は言った。
「ひ、人に話す、だけでもその、少しは楽に……な?いや、無理にとは」
「先輩、は……」
「あ、うん?」
すん、と鼻を鳴らして八千代は剛の方を見た。
大きな瞳が濡れて光っている。
「う、魚住先輩が……す、好きなんッスよね……?」
「……えっ?」
剛は色々な意味で混乱した。
どうして今そんな質問を?、八千代の悩みについて話していたのではないのか。
質問の意味もわからない、何故自分が魚住の事を好きだという事になっているのか。確かに美人だとは思っていたけれども魚住は大島の彼女であって……いやそれは皆は知らないんだったか。
「ええと……」
「自分は……諦め、きれないッス……先輩の事、諦められないッス」
「う、うん?」
「諦められないッス……!」
剛がまだ考えをまとめないうちに八千代は何やらヒートアップし始める。
「ちょっと、落ち着いて、俺も落ち付けてないから」
「じ、自分、聞いたッスどうしたらいいか、隆二先輩に……」
聞いちゃいない。
「男なんて、体使えば一発だって言ってたッス!」
「それ、聞く人が悪い……」
「じ、自分!魚住さんみたいにスタイルよくなッスけど!おしとやかでもないッスけど!頭……良くないッスけど……うぅ……」
また目の端にじわ、と涙が溜まり始める、自分で言って自爆している。
「こ、こここ、こう見えて自分、脱いだらスゴいッス!」
脱いだらも何も脱がなくてもスゴいのはわかる。
部活で元気に跳ね回る姿がどれだけ男子の目の毒になっていることか。
どうやら八千代はそういった物事に明るくないので自分の魅力にも気付いていないようだ。
「や、八千代は十分に……」
ジイィィ……
「ちょちょちょちょっ!」
フォローしようとしたところで突然八千代が着ているスポーツウェアのチャックを下ろし出したので流石に剛も慌てて止めに入った。
「待って待って待って!八千代は魅力的だよ!十分に!」
肩を掴んで脱ぐのを阻止して剛は言う、女の子に対してこんなにストレートな褒め言葉を使うのは恥ずかしかったが、そうも言ってられない事態だ。
「ううっ……きゅーん……」
動きを止められた八千代はまた涙目になって仔犬のような鳴き声を上げる。
(ああっやっぱり可愛いなあ……!)
そこでふと剛は思った、この気持ちを自分はいつも心の中で思うばかりで口に出して言った事がない。
無論、恥ずかしいからだが今こそちゃんと伝えるべきではないだろうか。
「八千代は可愛い」
「で、でも……」
「可愛い!」
「だけど」
「八千代は可愛い!」
「あの」
「可愛い!可愛い!可愛い!」
「」
「あーっ!可愛い!」
「は、あわっ!?」
勢い余った剛は力一杯八千代を抱き締めた、これには八千代も驚いて目を白黒させる。
体温が高く、弾むような弾力を返す八千代の体を腕の中に感じた剛は頭が真っ白になる。
「可愛い!可愛い過ぎる!」
「あ、あ、あ、」
「エロい!!」
「え、エロ……!?」
「八千代は……!」
一旦体を離して八千代の顔を直視する。
八千代の顔はもはやリンゴ色を通り越して今にも倒れそうな色になっており、涙目で金魚のように口をぱくぱくさせている。
「八千代はエロ可愛い!!」
魂の籠もった一言だった。言霊となって悪霊退散できそうな勢いだ。
「せ……先、輩」
「ぜー、ぜー、ぜー」
「あの……お、落ち着いてください」
「……」
落ち着きのない八千代に落ち着け、と言われて我に返った。
八千代しか見えていなかった視界に背景が戻り、自分が公園にいる事を思い出す。
遠くの方でサラリーマンの二人組がこちらを見ており、若い方は目を丸くしていて歳のいった方は若いねえ、と笑っている。
ついでに自分が八千代の肩を指が食い込むほど掴んでいる事にも気付く。
「……ご、ごめん」
「……いえ」
手を離すと八千代は乱れたジャージをごそごそと直した。
その手が震えているのが見えて剛は死にたくなった。
恐がらせてどうするのだ、あと可愛いはともかくエロいって……。
「……ごめん」
「い、いえ……」
「ほんとにごめん……」
「あ、謝らないで欲しいッス」
うなだれていた顔を上げて見てみると八千代がふるふる震えながこちらを見て……いや、微妙に視線を逸らしている。
「せ、先輩の気持ちは、すごく、その……伝わった……ッス」
首元のチャックをもじもじ弄りながら蚊の鳴くような声で言った。先ほどのように元気を無くしている訳では無いが、かといって元気を取り戻した訳でもないみたいだ、しいて言うならしおらしい。
「その、嬉しかった……ッス」
「そ、そうか、伝わったならよかった、うん……」
果たして伝わってしまって良かったものか、と悩みながら剛は言った。
「ひ、一つ聞かせて欲しいッス」
「うん?」
「そのう……魚住先輩、とは……」
「魚住さんは同じ学校の同級生だよ、それ以外の何でもないよ」
「そッスか……」
ほわ、と八千代の表情が緩んだ。
「良かった?」
「良かったッスぅ……」
「気持ちはわかるよ、うん、俺も八千代が隆二の事好きなんじゃないかって悩んだ事があったから……あの人女癖悪いって噂だし……」
「そんな事思ってたんッスか?」
「うん……まあ……恥ずかしながら……」
「隆二先輩は尊敬してる先輩ッスよ……でもそういうのじゃないッス、そもそも隆二先輩の本命は……」
「えっ、あの人本命とかいたの?誰?」
「えっと……いえ、それは……自分の口からは、とても……色々な意味で……」
「ああ、下世話だったな、ごめん」
ちょっと変な反応だったが、気にしないことにした。
(……ん?あれ?待てよ……八千代も同じ気持ちって……)
「俺の事好きなの?」
「……っっ」
(あれっ……あっ!?うわっ!何言ってんだ俺!?)
ぽろっ、とこぼれるように言ってしまったがよく考えるととんでもない事を言ってしまった。
しかし言ってしまったものは取り消せない。
それを聞いた八千代は一瞬ぴん、と背筋を伸ばして硬直した後ふにゃふにゃと脱力した。
そうして手の平をすりすりと擦り合わせ、上半身を落ち着きなくゆらゆらと揺らし始める。
(待って、待ってくれ、まだ心の準備が……)
ついうっかりこぼした言葉だったが、「自分が好きか?」と聞くのは告白とほぼ変わらない事に気付いたが後の祭りだった。
剛にはもうどうする事も出来ない。
両の耳たぶがライターであぶられたように急速に熱を持ち始め、キーン、と耳鳴りが鳴り始める。
八千代はゆらゆらしながら両手を組み合わせ、ポキポキッと鳴らした。
そして自分の膝を見つめながらぼそっと言った。
「ひょっとしてバレバレッスか……?」
剛は耳と鼻から血が噴き出るかと思った。
「ああ、うん」
「ッスよねー」
半ば呆然とした状態で生返事をすると八千代はぴしゃぴしゃと両膝を叩きながら言った。
「そういう事ッス」
「うん……」
「それでその」
「うん……」
「付き合ったりとか、してもらえたら、嬉しいなあ、とか……その……」
「……」
「そのお……先輩が、よければ……ッスけど……」
「うん……」
「……いいんスか?」
「うん……」
ふわふわと現実感がないままに剛は答える。
「いいんス……ね?」
「うん……」
「ふ……」
ずっとこっちをまともに見なかった八千代がようやく目を合わせた。
泣きそうな切なそうな嬉しそうな今まで見たことのない表情だ。
「ふ……ふふ、ふ、ふ、ふへへへへえへへへへ……」
そして聞いたことのない笑い声を上げ始めた。
「えへへへへ……やった……やった……♪ふへへへぇ……やったッスよぅお母さん……ふへへへへ……」
にたにたしながら頭を振り始める。
剛はそんな八千代も可愛いと思う、飽きることなく何度も思う、多分、これからもずっと死ぬまで思い続けるのだろう。
夢のような心地のなかで剛は思った。
「八千代……とりあえずあの」
「はいっ♪」
「今日は遅いからもう帰ろう」
「あっ、えっ、は、はい、そうッス……ね」
「明日も学校で会えるから、ね?」
ちょっと残念そうな顔になる八千代に言う、こんな台詞を言う日が来ようとは思いもしなかった。
「そ、それじゃあ、今日はこれで……」
「あっ、待って、八千代」
「はい?」
「俺も好きだよ」
「……はァ、い……」
もじもじしながら頷いてくれた、現実感が全然沸かないが、これだけは言っておかないといけないと思った。
「……それじゃ、帰るか」
「はい……」
と、剛はベンチから腰を上げたのだが、八千代は何故だか上半身を右左に振ってベンチをぺたぺたと触るばかりで立ち上がらない。
「何してんの?」
「あの……すいません腰が……びっくりして……」
「抜けたの!?」







 家のバスルームで八千代は服を脱いでいた。
結局あの後、八千代は剛に肩を貸してもらいながらどうにか家にたどり着いた。
スポーツウェアを脱ぎ、ジャージを脱ぎ、少しためらった後にスパッツを下ろした。
「あう……」
予想はしていたがクマさんプリントの下着はぐっしょりと濡れている。
足もまだふるふると小刻みに震えている、あの時「エロ可愛い!」と言われた時からずっとだ。
脱ごうと片足立ちになるだけでふらふらところびそうになってしまう。
そしてぐしゃぐしゃに濡れた下着を洗濯機に入れるのを悩み、これは自分で洗おうと考えて浴室に投げた。
脱ぎ終えて浴室に移り、シャワーの蛇口を捻る。
温度を調節してからじゃっと頭から被った、小柄ながらはち切れんばかりの肢体が濡れていく。
と、犬のようにぶるぶる、と体を震わせると体の各所……主に手足の末端部分にふさりと獣毛が生え、爪も大きく鋭く伸びる。
腰にはこちらもふさふさの尻尾が揺れ、頭頂部にぴん、と獣の耳が立つ。
「ほぅぅ……」
本来の姿に戻ってほっとしたように息をつきながらお湯を全身に浴びる。
ふと、浴室の壁の鏡に目が行く。
獣の特徴を顕にしたその姿は野生のしなやかさと美しさを体現しているが、この姿が剛に受け入れられるかどうかという問題は告白を受け入れてもらった今もなお八千代の頭を悩ませる。それに……。
八千代はそっと腰と頭に手をやって雑誌で見るモデルのポージングを真似てみる。
鍛えられた健康的に太い足、むちむちとした安産型のお尻、引き締まった腰、豊満な乳房、どれも男からすると垂涎の肉感を有している。
「むう〜……」
だけど八千代にはわからない、自分の体の性的な魅力は自分では理解できない。
どちらかというとやはり魚住のようにスラッとスリムな方が綺麗なんじゃないだろうか、と考えてしまう。
端的に言うとそれは無いものねだりというか、隣の芝は青く見える理論なのだが……。
「う〜……それにこれ……かっこわるい……」
八千代の体には日焼け跡がくっきりと残っている、具体的に言うといつも袖から出る部分、腕や太ももから先が日に焼けた色で、胴体や腰周りは真っ白だ。
「……?」
と、その白い肩の部分にうっすらと赤い跡が残っているのを見つけた。
部活でちょっとした擦り傷などはよく作るのだが、今日はそんな怪我をしただろうか。
鏡に寄ってよく見てみる、指がくい込んだような……誰かに強く掴まれた跡のようだ。
「あっ……」
思い出す、確かに今日、肩を強く掴まれた。
(……八千代はエロ可愛い!)
そう言われながら。
「あ……あっ……あっ……?はっ……はっ……!はっはっはっ……」
その掴まれた時の感触を鮮明に思い出す。
膝がぶるぶるとまた震え出す、下腹部がじゅくりと熱を持つ。
「はっ……はっ……はっ……はっ……」
鏡の中の自分は舌を出して息を荒げ、完全にメスの顔になっている。
剛は自分をエロ可愛いと言ってくれた、エロい、とは淫らだという意味だ、自分が淫らでいやらしいと言ってくれた。
性的な魅力を感じてくれたという事だ、犯したいと思ってくれたという事だ。
「ふくぅぅ……きゅふぅぅ……」
八千代は自慰の仕方など知らない、しようと思ったこともない、これほどの欲望に身を焼かれた事も今までなかった。
いや、あのお見舞いをしに行った時に剛の匂いを沢山感じた時は近い状態になった。しかしこれ程ではなかった。
八千代は手を伸ばしてシャワーの湯を冷水に変えて全身に浴びた。
「ふぅ……ふぅ……ふぅ……ふぅ……」
冷水で体表の温度は下がったが、体の芯に篭る熱はいつまでも八千代を炙り続けた。
「せんぱ……いぃ……」







 剛はベッドの中で安らかな寝息を立てていた。
帰ってからやっと自分に何が起こったかを把握し、母に容態を心配される程テンションを上げまくった。
その後自室に戻った彼は一日五回という新記録を樹立した、何の新記録かは敢えて語るまでもない。
その寝顔はさながら賢者のようであった。







 「……何かいい事あったか?」
「本当に鋭いねお前は」
次の日に登校した剛に第一声をかけて来たのが大島だった、顔を見るやそう言われたのだ。相変わらず油断ならないくらいに鋭い。
「まあ、うん、実はな、うん……」
初めて女の子と付き合うことになったのだ、しかも皆に人気の飛び切り可愛いあの子とだ。
実のところ誰かに話したくてうずうずしている。それに相手の大島は口が堅い。
「ちょっといい事あってな……」
「おー、とうとう八千代ちゃんとか……!」
ここまで先読みされると微妙に悔しい。
「うん、まあな……」
「よー、よかったじゃん、時間の問題だとは思ってたけど」
なのでちょっとやり返してやりたくなった。
「そっちもうまくいってるみたいだな」
「ん?」
「魚住さんと」
目をまん丸にする大島はちょっと見ものだった。
「あー……あんまり人には……」
「言わない言わない、魚住さん人気あるからな」
「やっちゃんだって大概だぜ?あんま自慢げに言い振らさない方がいいと思うな俺は」
「わかってるって……本当はクラス全員に公表したいくらいだけど……」
「だよな……言い触らしたいよな……」
「大声で近所に言って回りたいよな……」
二人の幸せ者は互いにしばし恋人の事を思い浮かべてにやにやと黙り込んだ、若干不気味だ。
「……よう」
そこに声を掛ける男子が一人いた。
「おう、みな……せ……」
爽やかに挨拶を交わそうとした剛は途中で表情を凍りつかせた。
 負
一言で言うなら負のオーラ、どんなに人の機微に疎い者でも気づかざるを得ないレベルの瘴気とも言えるおどろおどろしい物を水瀬は纏っていた。
「……何か……いい事でも……あった?」
化学薬品を垂れ流された川で大量死して浮いているフナのような目で水瀬は言う。
この状態の人間に「いやあ、実は初めての彼女ができちゃってさーはっはっは」などと言えるほど剛は精神の太い男ではなかった。
「いや……別にその、いい天気だなあって……なあ?大島?」
「ああ、そうだな、いい天気だな」
引き攣った笑顔で大島も言う。
それを聞いて水瀬は空を見上げる、いや、実際目に入るのは教室の天井なのだが。
「そうだな……今日は……紫外線の降り注ぐ……いい天気だ……」
そう言って負のオーラの残像を引かせながら自分の席に去っていった。
「……何だアレ、どうしたんだアレ……」
「あー、そう言えば隆二、美奈先輩と付き合い始めたらしいな……」
「あー……」
美奈先輩というとたまに水瀬との会話で聞いた名前だ、好きだったらしい。
「……前も無かったっけ、こういう事」
「智恵ちゃんだな」
「そうだ、智恵ちゃんだったな……」
「……」
「……」
剛は心の中で水瀬に手を合わせた、いつか彼にも春が訪れますように……。







 水瀬の事はとりあえず置いおいて二人は付き合い始めた。
以前にも増して一緒にいる事が多くなり、八千代には笑顔が戻った。
学校の帰りには八千代の部活が終るのを待って一緒に帰った。
一緒に帰る時、八千代はご主人の散歩ではしゃぐ子犬のように剛の周りをちょこちょこ動き回り。
しきりに剛に話しかける、剛はその八千代の仕草に癒されながらも答える。
二人の仲は順調だ、少なくとも剛はそう思っていた。







 「なあ、ちょっといいか」
夕日の差し込む無人の教室で八千代の部活の終わりを待っていた剛に声をかけたのは隆二だった。
珍しい事だ。
「何?」
「高梨ってさ、やっちゃんと付き合ってんだよな?」
「……ああ、うん」
あえて皆に知らせた訳ではないが特に隠しだてする事でもないし、隆二なら別に知られても構わないと思ったので素直に言った。
「ふーん……そりゃあいいんだけど、やっちゃんにお預け食わしてるのは何かのプレイ?」
「……うん?何?お預け?」
「いっつも見てて思うんだけどさ、指一本触れさせないじゃん」
「……」
確かに剛は八千代との身体的接触は極力控えている、それには理由がある。
以前、今のような無人の教室で八千代とちょっといい雰囲気になった事があった。
いい雰囲気といのはつまり唇の接触事故が起きてしまっても致し方ないという雰囲気の事である。
ところがその時八千代は、
「だめッス……!」
と、剛の胸を押し返したのだった。
これに剛は大変焦った、嫌な思いをさせてしまっただろうか、と。
過敏にすぎるかもしれないが、そこはそれ夢にまで見た想い人との付き合いだ、相手に嫌われたり愛想を尽かされる事に対して過度に恐怖を覚えるのも仕方の無い事だ。
それ以来、剛は八千代に触れること自体に臆病になってしまったのだ。
無論、本当は触れたくて触れたくて仕方がないのだが……。
「いや、その……俺達まだ高校生じゃん?関係を焦る必要はないって言うか……」
「向こうの方が焦れてるように見えるけどなあ……」
「焦れてるって……?」
「気付かないか?やっちゃん、めっちゃめちゃヤリたがってるぞ」
「や、ヤリ……」
これこれ、と隆二は指で輪っかを作ってその中に人差し指を出し入れする下品なジェスチャーをして見せる。
「おまっ……!いい加減なこと言うなよ……!」
「いや、マジもマジ、たまにお前の事じぃーって見てるぜ、もうお預け食らって限界って感じで」
「そっ……!」
「何でしてやんないの?」
軽々しく言ってくれる、こちとらそちらのようなプレイボーイとは違うのだ。
「まあ……お前がそういう風なら……構わんか……」
と、隆二は前髪をかきあげるとすうっと目を細めてどこか酷薄な表情になった。
あまり見たことのない表情だ。
「構わんかって……何が?」
「俺が貰うよ」
「何を?」
「やっちゃんを」
「……は?」
頭の中が瞬時に掻き回される。
「あんな状態の女の子を放っておけるほど俺、紳士じゃないし……」
「ちょ、いや、ちょ、何言ってんの……?」
隆二が冗談を言っているのかと思い、思わず笑いを漏らす、しかし隆二はその冷たい表情を変えない。
「いいの?いいんだな?」
「待て!待てよ!」
椅子から乱暴に立ち上がって隆二に近づく、隆二はやはり表情を変えない。
本気なのだろうか。
ぜえぜえと息が荒くなる、詰め寄りはしたものの相手に何を言っていいかわからず、口ごもる。
「だっ……おまっ……!美奈先輩と付き合ってるだろうが!?」
思い出した事実をぶつけてみる。
隆二は笑った。
「大丈夫、俺要領いいから両立できるし?」
剛の頭は真っ白になった。

べちっ

我に返った時には拳を振り終えていた。
手の甲にじんじんと衝撃の余韻が残っている。
人を殴ったのは生まれて初めてかもしれなかった。
見てみると隆二の頬に赤い跡が残っている、しかし隆二に堪えた様子はなく、表情も微笑を浮かべたままだ。
「ふう……ふう……」
全身が紅潮し、震える、怖い、隆二が怖かった。
喧嘩をして勝てる相手であるはずがない、方や病弱なもやし、方やスポーツ万能の怪物。
しかし殴った事に後悔はなかった、自分の意思というより衝動的な行動だったが、それでも自分の心から出た行動だ。
すっと隆二が前に出た。
大きい、こんなに差があったかと思う、身長では同じくらいだが体の厚みがまるで違う、見上げるほど巨大に見える。
歯の根ががたがた震えた、膝もがくがく震え出した。
でも逃げ出さなかった、殴っておいて逃げるのは筋が違うと思ったからだ。
「お前さあ」
笑顔を崩さずに隆二が言った。
「そんだけ男気があるんだったらさあ」
隆二の体がふっと下に沈んだ。
ひっと声を漏らして目を閉じた、殴られると思った。

「男らしく決めんかい!!」

顔か腹に来るものかと身構えていたらまったく予想と違う箇所に衝撃が来た。

ばっしーーーーん!

尻だ、尻に猛烈な平手打ち、体が一瞬浮くほどの。
「あいだぁーーーーーーー!!」
悲鳴を上げて剛は飛び上がった、そのまま尻を押さえてぴょんぴょん跳ねる、跳ねずにいられない痛さだ。
「ど、どうしたんッスか!?」
と、その時に部活を終えた八千代が教室に入ってきた。
「しりとりしてた」
さらっと隆二が答える。
「し、しりとりッスか?」
「負けたらケツ叩きってな、尻とりなだけに」
「た、叩きすぎじゃないッスか?悶絶してるッスよ!?」
未だに涙目でぴょんぴょんを繰り返す剛を見ながら八千代は言う。
「罰ゲームだからな、あ、それと高梨が用事あるから家に来てって」
「えっ」
「な?」
「えっ」
八千代と剛は顔を見合わせる、一瞬の間の後、どういうこと?と剛が隆二に視線を向けると隆二は大げさにぱちんぱちんとウインクをして見せた。
「……あ、ああ、そうだ、その……大事な用があるんだ……」
尻をさすりながら剛は言った。
「わ、わかったッス……大丈夫ッスかほんと」
「だ、大丈夫……」
びっこを引きながら八千代を連れて教室を出る直前、剛は教室の中の隆二にそっと手を合わせた。
殴ってごめん、の意味を込めたつもりだ。
隆二はぱたぱた手を振るとニヤニヤ笑いで二人を見送った。







 「あー……ってぇ……」
二人が去った後の教室で隆二は頬をさすりながら呟いた。
「いいなぁ……いいなー……あんな風に……互いに全力で……」
教室のドアを見つめながら隆二はぶつぶつとぼやいた。
「……はぁ、美奈に慰めてもらお……」
そう言って携帯を懐から取り出し、新しい恋人の番号を探し始める。
と、教室の窓から外に見慣れた人影を見つけた。
一人でとぼとぼと校舎から出ようとする後ろ姿は見間違えようがない、水瀬だ。
「……」
隆二はにやぁ、と笑みを浮かべるとぱちん、と携帯を閉じた。
一方外を歩く水瀬は背後の学校からの視線に気付くこともなく、足元の石ころを蹴飛ばしながらフナみたいな目をして歩いていた。
その背後で二階の窓から忍者の如く飛び降り、音もなく隆二が迫る。
両手の親指を立て、満面の笑みですっと背後に付く。
「ウラートモキー」
どこっ
「おぅふぅ!?」
その親指で水瀬の両脇腹を突く、水瀬は飛び上がる。
「何だおまっ……!どこから沸いて出た!」
「暇だから構えオラー」
言いながら執拗に水瀬の脇腹を狙う。
「ちょおっ!やめっ……!なんっ……!俺じゃなくて美奈さんに構ってあげろよお前ぇ!?」
「美奈?」
「彼女なんだろーが!?」
「……」
「……」
「ウラートモキー」
「もうやだこいつー!?」







「ワカモーレ」
「なんスか?わかもれって」
「メキシコ料理だよ、ほら「れ」」
「れ、れ、レモ……じゃなくてれんこ……でもなくて、れ、レバー!」
「「ば」ば、ば、馬刺し」
「し……ししゃも……」
八千代と剛は食べ物しりとりをしながら帰り道を歩いている。
そうして時間を稼ぎながら剛は考えていた、決める、とは言ったもののどうすればいいのか?どうすればそういう流れに持って行けるのか?
「もも」
「も……も……モモンガ、は、食べ物じゃない……もち……は言っちゃった……も、も、う〜降参ッス」
「ははっ」
「……」
「……」
「あの先輩、大事な用事って……」
聞かれてしまった、まだ考えもまとまっていないのに。
「……」
「先輩?」
ままよ。
「なあ八千代」
「はい」
「今日って、泊まれる?」
「はい?」
非常にストレートな誘い文句になってしまった。
しかし八千代にこのニュアンスは伝わるだろうか……。
「……ちょっと、待って欲しいッス」
腹の温度がすうっと下がった、失敗したか。
と、八千代は懐から携帯を取り出して電話を掛けはじめた。
通話する口元に手を当ててこちらに気を使いながら話し出す。
「あ……お母さん?……今日、ちょっと……」
小声だったがお母さん、は聞き取れた。
考えて見れば当たり前だ、年頃の娘が急に外泊だなんて親は心配するだろう、テンパり過ぎていてちっとも頭が回らなかった。
「泊まり……うん……ちょっと……」
(あんた……晩……かしら?)
話し相手の八千代の母は結構声のボリュームが大きいようで携帯越しでも所々言葉が聞こえる。
ここで外泊がNGになったら自分の覚悟も何もおじゃんだ、しかし心のどこかでそうなって欲しいような複雑な心境に剛は陥る。
「うん……うん……だから……うん……」
(八千代……だから……だからね?……ガッツよ!)
「ッス……!」
何か、母の言葉でガッツって聞こえた気がする、何がガッツなんだろうか。八千代も力強く応えている。
ぽち、と携帯を切って八千代が剛に向き直る。
「いけるッス」
ああ、いけてしまった、もう腹を括ってアタックするしかない。
剛はやにわに緊張し始めた。
「お邪魔しまッス」
「どうぞ」
八千代を玄関に上げながら剛はどうにか緊張をほぐそうと努めていた。
両親は今日たまたま出張で家にいない、これは本当に偶然だ、その事実が剛を後押しした面もある。
リビングに通そうとした剛は一瞬考えた、今、自分の部屋の状態はどうだったろうか。
こんな事態は想定していなかったのでそこそこ散らかっているが、この前のように見られてまずい物が散乱している訳ではない。
それにベッドが傍にあった方が事がスムーズに運ぶ……かもしれない。
「俺の部屋でいい?」
「……」
先程から借りて来た犬……いや、猫のようにおとなしい八千代はこくこく頷く。
二階に上がり、剛の自室に入る。
「お邪魔しまッス……」
二回だが八千代は言った。
(……部屋に女の子を連れ込んでしまった……モヤシの俺が……!)
何やら感慨深いものを感じながら剛は座布団を二枚出す。
そこに二人共腰を下ろす。
「……」
「……」
沈黙。
「……あーっと……何か持って来るよ、うん、飲み物でも……」
沈黙に堪えかねて剛は立ち上がる。
「先輩」
それを呼び止めるように八千代が声を掛けた。
「うん?」
「あの……自分はその……」
しきりに手を握ったり開いたりしながら八千代は言葉を選んでいる様子だ。
「いっつも飛んだり跳ねたり走ったりしてばっかッスから……よ、よく友達とかにも、「そういう事」には疎いって……よく言われるッス」
「疎い?」
「でも自分……し、知らない訳じゃない……ッス」
「……う、うん?」
「お、「お泊り」に誘われるっていう事は……あのう……そのう……」
見る見るゆでだこになってごにょごにょ口ごもる。
「か、勘違いだったらすいません……エッ……ごほん、エッチ、するんスよね……?」
剛は頭を掻いてうろうろと挙動不審に視線を彷徨わせた後に口を開いた。
「……怖い?」
「えっ?」
「あの教室の時にも思ったんだけど……」
以前、教室でいい雰囲気になったが、八千代が拒んだ時の事だ。
「そういう事がまだ怖いなら、まだ、いいよ……待つよ、いつまででも……俺は八千代の嫌がる事は……」
剛が言い終わる前に八千代はぶんぶんぶん!と残像が見えそうなほど素早く頭を振った。
「違うッス!あの時はその……あの……じ、自分が抑え効かなくなりそうで……!」
「抑え?」
「あー、いや、あのっ……!と、とにかく、嫌じゃないッス!したいッス!自分は、先輩とエッチしたいッス!」
剛のうなじの毛がぶわわっと逆立った。
どうやら自分が今日、童貞を喪失する事が確定した。
「や……八千代ちゃん……!」
「で、あ、でも、ちょっとだけ待って欲しいッス」
ちょこん、と手を挙げて八千代が言う。
「自分、部活終わったばかりでその……シ、シャワー、貸して貰えたら嬉しい……ッス」
「あ、ああ、そうだな、俺も入りたいって思ってたんだ」
「えっ?い、一緒に入るんスか?」
剛はむせ返った、誰もそんな事は言っていない。
「い、いや、それは魅力的だけどその、それはまたにして、今日は別に入ろう?」
「は、はいっ、了解ッス」







 部屋で剛は胡坐をかいてじっと目を閉じていた。
(落ち着け……落ち着け……落ち着いて……)
サァァァァァ……
耳にシャワーの音が届いて来た、八千代がシャワーを浴びる音が……。
剛はかっと目を見開いた。
(落ち着けるかー!馬鹿ー!うあー!)
頭を抱えて一人転げ回る。
八千代とできるのは無論嬉しい、嬉しいがしかし同時に剛は怖かった。
うまくいかなかったらどうしよう、怖い思いをさせてしまったらどうしよう、それで嫌われてしまったら……?
(ああ……もっとこういう事勉強しておけばよかった……そもそも何の準備もなく急にこんな事になったもんだから……せめて一日予習の期間があれば……くそーっ、それもこれも隆二のやつがけしかけるから……!)
「ど、どうも……お借りしたッス……」
妙な逆恨みを始めたところで八千代が部屋に戻ってきた。
「お、おか……えり……」
洗い立てでしっとりした髪を手で撫でつけるその姿に剛はどきどきする。
風呂上りの姿というのは普段目にすることがなく、なんとも言えない生活感を感じさせる。それがたまらなく色っぽい。
(ああ……いいんだろうか……こんなに可愛い子と俺が……隆二、ありがとう)
剛は夢見心地であっさりと意見を翻す。
「そ、それじゃ、俺も入ってくる」
「あ、はい、いってらっしゃい」
剛が部屋を出た後、八千代はしばらく行儀よく座っていた。
が、階下からシャワーの音が聞こえ出すとささっとドアに近づいて廊下を覗き込み、ぴん、と獣の耳を立ててよく音を聞いた。
間違いなく浴びている。
確認した直後、ぶるぶるっと全身を震わせて獣の正体を現した八千代は部屋に舞い戻り、剛のベッドに勢いよくダイブした。
その勢いのままベッドの上をころころと転がり、掛け布団を体に巻き付けてしまう。
「ふもわー!先輩のベッド!ベッド!」
ベッドの上で白い芋虫になった八千代は体を伸ばしたり縮めたりして身悶えながらくぐもった声で叫ぶ。
「もふー……先輩の匂いー……」
そうしてひとしきり堪能した後ころころと逆に転がって布団をベッドに戻す、くしゃくしゃになった布団を手で慣らして一応元通りに見えるようにする。
「先輩の部屋……」
尻尾をぱたぱたと揺らしながら目を爛々と輝かせ、きょろきょろうろうろと部屋を見て回る。
と、目に付いたものがあった。
本棚の横に立てかけてある菓子の缶。
「……」
八千代はその缶に手を伸ばした。
彼女の名誉のために補足しておくと決して剛に無断でつまみ食いをしようと考えた訳ではない。
ただ、食いしん坊である彼女は何のお菓子なのか気になったので中身が見たいと考えただけなのである。
パカッ
八千代は缶を開けた。







 「ふーう……よし……」
いつもの倍の時間をかけて体を綺麗にした剛ははやる鼓動を鎮めながら自分の部屋の前に立った。
(もう、こうなったらやれるだけやるしかない……普段通り、いつもどおりの明るい感じで行こう、うん)
腹を決めてドアを開けた。
ガチャ
「よう、おまた(シュババババ!!)
せ、を言い終わる前に八千代が物凄い動きで部屋の中をバク転し、隅の方に正座するのが見えた。
「お、おか、おか、おかえりッス!早いお帰りでゲスね!」
何故か三つ指をついてぴしーっと背筋を伸ばす八千代はだらだらと冷や汗を流している、キャラも間違ってる。
「八千代……?」
「な、何にもないッス、自分、何も見てないッス」
八千代は清々しいほどに嘘が下手だった、一瞬視線が缶の方を向いた。そして他に気になる点もある。
「それ、何?……コスプレ?」
「はうぅっ!?」
八千代の手は深い獣毛に覆われ、爪が鋭く伸びていた。
それだけでなく頭頂部にはふさふさの耳、背後にはふさふさの尻尾。
(……幻覚じゃなかったんだ……)
あの日看病しに来てくれた時に見えた物、その時は熱のせいかと思ったが……。
「だ、だ、駄目ッス……み、見ないで欲しいッス……!」
八千代は体を縮めるようにしてそれらを隠そうとする、しかし混乱しているためか全然隠れない。
剛は部屋の隅で怯えるように丸まっている八千代に近付いていった。
「こ……来ないで、先輩……見ないで……!」
それから逃れようとするように尻尾と耳をぺったり体にくっつけて八千代は涙目になる。
「八千代」
「……」
「それ、自前?」
「……ッス……」
「可愛いよ」
「えっ」
「やっぱり八千代は可愛いよ、人間じゃなくったって可愛いよ」
「……先輩……?こ、怖くないんスか……?」
「怖くなんてあるもんか、八千代は可愛い、そしてエロい、この事実は一切変わらない」
「……先輩……!」
拒否される事への恐怖の涙が、歓喜の涙に変わる、受け入れてくれた、本当に受け入れてくれた。
八千代の最大の悩みが解決された瞬間だった。
「うっ……せんぱぁい!「八千代、ステイ」
歓喜のあまり飛びつこうとした八千代をすっと剛の手が遮る。
八千代はぴた、と止まる。
「そんな事よりも八千代」
「は、はい……「そんな事」なんスかこれ……」
「何を見てた?」
「……ええと……」
八千代はごつい指先をくるくる触れ合わせながら目を逸らす。
「あの缶の中、見たか?」
「……すっ……スイマセン……」
「本を?」
「見たッス……」
「一番底の写真は?」
「……見たッス……」
「そうか……見たか……」
爪の先をつんつんする八千代はいけないと思いながらも口元が緩んでしまうのを自覚した。
「そ、その……先輩は、あの、制服よりも体操着の方が……せ、先輩?」
「見た」という言葉を聞いた瞬間、剛はふらりと八千代のそばから離れてベッドに乗り、カーテンと窓を開けた。
「?」
「八千代……」
外の風に髪をたなびかせ、剛は爽やかでありながら儚い表情で八千代を振り返る。
「さようなら」
「のわーーーーーー!駄目ッスーーーーー!」
風に身を任せて二階から身を踊らせようとした剛の背中に八千代は全力でしがみつく。
「離してー!行かせてー!」
「早まっちゃ駄目ッス!」
「あんなの本人に見られて生きていけなぁい!」
「だ、大丈夫ッス先輩!大丈夫ッス!」
「俺が大丈夫じゃなぁい!」
ばたばたともがく剛の腰に手を回し、八千代は足を踏ん張る。
本来の姿なので力も普段の比ではない。肋骨がみしみしと音を立てる。
「ふりゃー!」
「ぐえー!」
剛は自分の体重が急に消失したように感じた、次の瞬間目の前の景色が下に吹っ飛んでいく。
八千代がバランスを崩した一瞬で重心の真下に潜り込み、へそを支点にしたブリッジの動きで背後のベッドに剛を投げ飛ばしたのだ。
それはそれは見事なスープレックスであった、ルー・テーズが膝を叩いて賞賛する技量だ。レスリング部が目撃していたら放っておかなかっただろう。
頭からベッドに落下した剛は上下不覚になる、その剛に間髪入れず八千代が飛びかかった。
しばらくじたばたしていた剛だったが、抑える八千代の力が強すぎてまったく抵抗にならず、やがて打ち上げられた魚の如くぐったりしてしまう。
「ううっ……最低だ……」
「す、すいません、その、好奇心に勝てなくて……」
「……いーよ、八千代は悪くないよ、見つかりやすい所に置いてるのが悪いんだ……ぐすん」
「すいません……」
「ぐすん……」
「……」
「……」
「先輩って……」
「……」
「泣き顔可愛いッスね……」
「……は?」
唐突な言葉に見上げてみてぎょっとした、自分に覆い被さる八千代の目が逆光のせいかやたらに光って見える。そして笑顔だ。
同時に漂うシャンプーの匂いと他の何にも例えられない八千代の匂い。
そっと八千代が顔を下ろしてきた。自然に剛も目を閉じた。
ぺろ
「えっ?」
キスするかと思ったら鼻先を舐められた。意表を突かれて目を開けると悪戯気な八千代の笑顔、その笑顔が今一度降りてくる。
ちゅっ
今度は唇にぷにっと柔らかい感触があった。同時に胸にもむにゅっと二つの塊が押し付けられる。
「……」
「……」
一旦離れて見つめ合う、目と目の距離が近い、瞳の中に映る自分の瞳が見えそうな程だ。
「先輩……自分、やり方よくわからないッス」
「俺だってわからないよ」
「先輩の好きなようにしてもらって構わないッス」
「いや、だからわかんないって」
「先輩が……」
八千代は状態を起こして剛に跨った形になる。
剛のお腹に手を付いた姿勢は腕に挟まれて乳房が盛り上がって見える。剛はごくりと喉を鳴らした。
「先輩が一番気持ちよくなれるやりかたでして欲しいッス……」
「八千代……」
「り、リクエストがあれば何でも……」
「じゃあ、今の台詞もっかい言って」
「えっ」
「もっかい言って」
「り、リクエスト……」
「違う、その前」
「……せ……先輩が一番」
「ポーズ、ポーズも再現してほら」
「せっ……先輩が一番き……気持ちよくなれっ、なれるやりかたでして欲しい……ッス」
「ああ……」
剛はしみじみと八千代の姿を目に焼き付ける。
「もっかい言ってくれ……」
「せ、せ、せ、先輩、が一番……すいません、勘弁して下さい、恥ずかし死にするッス……」
「今のでもう三週間はおかずに困らない」
「一人で処理されたら意味ないッスよ!?」
ごしごし、と剛は顔を両手で擦った。
「そっか……そうなんだなあ……もう一人で処理することないんだ……いいのかなあ……本当にいいのかなあ……」
「?」
手をどけると剛は何やら泣きそうな顔をしていた。
「先輩?」
「……いや、な?みっともないから言わなかったけどさあ……俺って取り柄ないし……八千代は皆の人気者だし……スポーツ万能だし……可愛いし……本当は、俺じゃ釣り合いがんむっ」
八千代は剛の手を抑えるともう一度キスした、先ほどよりちょっと深く。
「ちゅ……むちゅっ……」
「あ、ぷっ……」
「ちゅぱっ」
糸を引いて二人の唇が離れる、剛の息が一気に荒くなる。
「先輩以上のオスはいないッス」
八千代はきっぱりと言った、剛の胸の中のもやもやを一発で吹き飛ばす一言だった。それだけ本気の気持ちが伝わってきた。
「……怖かったのは、自分の方ッス……」
その表情がふにゃ、と弱気なものに変わった。
「自分、人間じゃないッスから……この姿、見られた時、本当に怖かったッス……」
剛は体を起こして八千代を抱き締めた、自分から積極的にこうして触れたのは初めてかもしれない。
「あぅ……先輩……」
「そんな事は全然問題にならないな、例え八千代が……」
八千代は剛の肩に顎を預けてうっとりと目を閉じる。
「犬娘でも……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……狼ッス」
「えっ」
「じ……自分、狼ッス……」
「ええ?うっそ、見えない、豆しば娘とかじゃ?」
八千代はぷるぷると震え始める。
「上等ッス!自分が危険な狼って事を思い知らせてやるッス!」
滅多に怒る事のない八千代だが、どうやらこれは急所だったらしい。
顔を真っ赤にするとがばっと剛を押し倒す。
「うわっ」
「むふー、先輩なんて食べてやるッス」
あーん、と口を開けると鋭い八重歯が覗く。こうしてみると確かにちょっと怖い。
「かぷっ」
しかし首筋に感じる感触は思ったより軽く、心地よいくらいだ、無論加減してくれているのだろうが。
「……んふふっ」
首に付いた歯形を見て八千代はドヤ顔になる、可愛い。
そのまま同じ箇所にまた顔を下ろし、今度は舌を這わせ始める。
「ぺろ……ぴちゃ……ちゅっ」
くすぐったさと同時に熱い吐息と舌の感触を感じる。
その様はやっぱり狼というより犬だな、と剛は思ったが言うと怒るので言わなかった。
「ん……む、うー……」
と、八千代は剛の胸元で何やら唸り出すと獣の手でぐいぐい剛の服を下ろそうとする。
「わっ、ちょっ、待って、脱ぐ、脱ぐから……」
鋭い爪が今にも服を裂きそうに見えて剛は焦る。さすがに破られては困る。
それを聞いて八千代は一旦離れ、尻尾をぱたぱたさせながら剛が脱ぐのを待った。
「……」
「はふぅ……ふぅ……ふぅ……ふぅ……」
脱ぐたびに肌にすごい視線を感じる、同時に八千代の息が荒くなっていくのが聞こえる、慣れない感覚に赤面するが流石に「恥ずかしいから見ないで」とも言えなかった。
「な、なあ」
「はい?」
「俺だけって不公平じゃね?」
「あっ……は、はいっ!」
慌てたようにぱぱっと上のジャージを脱ぎ捨てる、色気も素っ気もないけれどもらしいと言えばらしい。
「んしょっ……」
(ふおおお!)
しかしその下から現れた肢体は仕草とは裏腹に圧巻の色気を振りまく。
下着に詳しくない剛の目から見ても相当に大きそうなサイズのブラに収まる乳房はもちろん、腰周りも太腿もお尻も、どの角度から見ても迫力がある。小さな体躯にいやらしい肉を詰めるだけ詰め込んだという感じだ。
かといって緩いとかだらしないという印象は欠片もなく、力強いうねりを感じさせる肉付きだ、それが尻尾や耳、獣毛と相まって野生味を与えている。
(うん……?)
と、剛は懐かしさを感じた、一瞬何かと思ったがその原因はすぐにわかった、あのくまさんパンツだ。
八千代と最初に出会った時に一瞬だけ目に入って強烈に脳裏に焼き付いたくまさん模様、もしかしてあの時と同じパンツだろうか。
「……」
下着姿になった八千代は照れくさそうに、しかし嬉しそうに剛を見ている、いや、剛の顔よりも下の方に視線を向けている。
「……?あ、うわわっ」
その視線が自分のトランクスを思いっきり突き上げている陰茎に注がれている事に気づいた剛は思わず両手で隠す。
八千代はにまあ、と笑って剛の顔に視線を戻す、ものすごく恥ずかしい。
「てへへ……自分を見てそうなったんスね?……百回褒められるより嬉しいッス」
そう言って八千代は四つん這いになってベッドの上をきしきしと移動して来る。
剛の足の間に移動した八千代は股間を隠す剛の手を獣の手でちょんちょんと叩いた。
「手、どけて欲しいッス……」
そう言われてどけない訳にはいかないので手をどけた、八千代の目の前にトランクスの突っ張りが晒される。
「……失礼しまッス」
そう言ってずる、と剛のトランクスを引き下ろした。
八千代の目にとうとう生の剛が晒された。
「ふわわっ……」
八千代は潤んでいた目を更に輝かせる。
「……あ、あまり大きくは、無いと、思うけど……」
思わず言い訳がましい事を呟いたが八千代は小首を傾げる。
「ちっさい頃に見たお父さんのぐらいしか知らないッスから他の人の大きさとかよくわからないッス……興味もないッス」
(ああ……)
半ば予想通りではあったが、その言葉で八千代も初めてなんだと確信して剛の胸に小さな感動が生まれる。
卑しい話だがちょっとした安堵も。
「……ま、前からちょっと試してみたい事があったんッス……やってみて、いいッスか?」
「い、痛い事はしないでくれよ?」
「痛くはない……と、思うッス」
(と思うって……)
戦々恐々とする剛の股の間で八千代は上体を上げて膝立ちになり、ブラの……乳房の根元に手を添える。
むにゅ、と乳房がくびり出される。改めてすごいボリュームだ。
(えっ……胸で……?えっ……?えっ……?)
困惑する剛をよそに八千代は胸の谷間……下乳の谷間に陰茎の先端を当てがった。そして。
むにゅぅぅぅぅぅぅぅぅ
ブラを付けたままの乳房で剛の陰茎を包み込んだ。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
その時の感覚をどう表現したものか、ふわふわに柔らかくて暖かくてすべすべでしっとりしていてでもぴちぴちした弾力が感じられて……。
そして何よりずっと羨望を抱いていた八千代の乳房に手より口より先に陰茎で触れてしまった事への衝撃。
剛は頭の中で何かがぶちぶちと弾け飛ぶ音を聞いた気がした。
「えへへ……こ、これ、えっと、確かパイズ……えっ?あっ、ふわわわわわっ!?」
八千代の胸の谷間で爆発が起こった。
びぢゃっ!!!
深い胸の谷間から間欠泉のように白濁液が吹き出し、八千代の顎に直撃した。
びぢゅっ!
二回めは驚いて胸元を見た八千代の頬にべったりと付着する。
八千代は慌てて角度を変え、先端が胸の奥を向くようにする、それによってより一層乳圧が高まった。
びゅぐっ!びゅグッ!びゅぐっ!びゅぐぅっ!
「……っっ……ぁっ……ぁがっ……ぁぁぁ……」
剛は目の前をちかちかと舞い踊る星を見ながらただただ忘我の境地を彷徨うしかできない。
そんな剛の顔を八千代は目をまん丸にして見つめながら熱い迸りを胸に受け続けた。
無意識の動きなのか、陰茎のわななきに合わせて乳房を支える腕で胸をぎゅっ……ぎゅっ……と寄せて乳圧を高め、射精の快楽を助長する。
「あっ……かはっ……くはっ……や、やち、八千代、やめて、止めて、胸、動かさな……!」
本当は胸にぶちまけた事を謝りたいところだったが八千代が許さなかった、まだ射精している最中の陰茎に追い討ちをかけてさらに搾り取ろうとする。
だぷるんっ
激しい乳愛撫にブラがずり落ち、そのサイズに相応しい乳輪大きめの薄ピンクの乳首まで露になる。
夢にまで見たその白い柔肉は剛の白濁にデコレーションされ、その谷間に剛の陰茎をみっちり咥えている。
「ふぐぅぅぅぅ」
剛はだらしなくお漏らしをするように八千代にぶっかけ続けた。
どぷ……どぷ……どぷ……
ようやく射精が終わる頃には八千代の胸、肩、顔におびただしい量と濃度の精液が付着していた、本当に自分の体から出た物なのかと疑う程だ。
「はあ……はあ……はあ……ご、ごめん、我慢できなくって……八千代……八千代?」
「ぴちゃ……ぴちゃ……ちゅっ……」
八千代は剛の言葉も聞こえない様子で自分の体や体毛に付着した剛の精液を一心不乱に舐めていた、それはそれは美味しそうに。
「お、おい、そんなの口にしちゃ……おい?」
「ちゅっ」
目立った所に付いていた精液をあらかた舐め取ってしまった八千代は改めて剛に視線を向けた。
「はーっ♪はーっ♪はーっ♪せん……ぱぁい……♪」
八千代は息を乱しながら四つんばいで剛に近づいて来た。
その笑顔はいつもの人懐っこい笑顔でも天真爛漫な笑顔でも照れ隠しの笑顔でもなかった。
メスの顔、しなやかなメスの獣の顔だった。
剛はぞぞっと鳥肌が立つのを感じた。
蛇に睨まれた蛙のようだ、しかし陰茎だけは先程の射精をものともせずにいきり立っている。
思わず後ずさるが当然逃げられる訳もなく、音もなくスムーズに押し倒されてしまう。
「先輩っ♪先輩っ♪先輩と交尾っ♪交尾っ♪交尾っ♪」
興奮のあまり日本語が不自由になってしまっている。
「やっ、八千代!落ち着」
「ちゅぅぅぅぅ」
言葉は無用とばかりに口を塞がれ、両手足もがっちりとホールドされる。
ねろねろと這い回る八千代の舌に翻弄されている隙にぐりぐりと陰茎の先端に擦り付けられるものがある、じっとり湿った布地の感触。
パンツだ、あのくまさんパンツが押し付けられているのだ。当然そのままでは入らないがどうやら下着を横にずらして挿入しようとしているらしい。
ねちゃっ
布がずれてその下に先端が触れる、熱い、沼のようにどろどろだ。
しかしやはり腰の誘導だけで入れるのは難しいらしい、ぬるん、ぬるん、と滑るばかりで入れる事ができない。
「んむぅぅぅぅ〜」
キスをしながらまた八千代が涙目になる。
「や、やち、ちゅっ、やち、ちゅぱ、落ち着け、大丈夫だ、俺は逃げないから!」
舌をしつこく吸われながらも何とか手足の拘束を解いてくれるように頼む、「逃げないから」なんて台詞を言うことになろうとは思わなかった
「……ふちゅぱっ」
渋々という感じで八千代が手足のホールドを解く、やっと自由になった手で八千代の安産型のお尻をむんずと掴む。
ぴちぴちの肌が手の平に心地いい。
「ふわひゃっ」
「こんのっ……好き勝手やりやがってぇ!こっちだって……!」
熱い沼を先端で探索するように入口を探す。
「もう、お前の写真でないと抜けないくらいに!お前と!八千代と!」
見つけた、ヌルヌルの何かが自分を咥え込もうと蠢くのを感じた。
「やりたかったんだ!」
「しぇ、しぇんぴゃいぃ!」
ぐぢゅ、
熱くて狭い中に飲み込まれた。
「ーーーーー!!!」
「ーーーーー!!!」
二人は人の言葉を忘れた。







時刻は深夜に差し掛かっている。
ぎし、ぎし、ぎし、ぎし
覗き込めば確かにうさぎの餅つきに見えなくもない月の模様が見えるほどに綺麗な満月が覗いている。
ぎっ、ぎっ、ぎっ、ぎっ
その月の光が差し込む剛の部屋は暗くて静かだった。
ぎっし、ぎっし、ぎっし、ぎっし、
人の声がしないという意味では。
ぎっ……ぎっ……ぎっ……
代わりに物音に満ちていた。リズミカルにベッドが軋む音。
ぱちゅ、ぱちゅ、ぱちゅ、ぴちゅ
濡れた肉がぶつかり合う音。
「……っ……っっ……っ……!」
「…………っっ……っ……!」
声にならない声。
剛は青白い月に照らされながら自分の上で踊る八千代の体を見上げていた。
じっとりと全身汗濡れになっているため、神秘的な月の光でてらてらと濡れ光り、飛び散る汗と体液も光る。
八千代は口元を押さえて腰を振り続けていた、その目は月の光を反射しているというより自ら光を放つように輝いている。
腰の動きに合わせるように背後で尻尾もゆらゆら揺れていた、艶やかな毛並みを月に光らせている
と、八千代がきゅぅっと眉を寄せて腰の動きを早める、ぺちん、ぺちん、と青白く濡れて光る大きな乳房が揺られて胴体に当たって音を立てる。
ああ、いきそうなんだ、と、どろどろに溶けて一つの生き物になってしまったように感じる下半身の中でも唯一鋭敏に伝わる肉の感触に意識を集中する。
一滴残さず搾りつくそうとするような肉の蠕動を受けて剛は腰を突き上げる。
「……ぁぅっ……!」
堪えきれなかった声が八千代の喉から漏れる。剛はうねる肉の中に放った。
(気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい)
それしか頭に浮かばない。
もう、回数を数えるのは止めている、というより数える余裕もない。
射精を受けて八千代が背筋をぴんと伸ばしてぷるぷる震える、背後の尻尾も毛を逆立たせて震えている。
「……せんぱ……っくッス……じぶ……イク……っすぅ……」
なんて可愛いんだろう、自分が射精すると必ず一緒に達してくれる、そして必ずそれを小さな声で必死に伝えようとしてくれる。
そんな風にいじましい様子を見せられるものだからいつまでも自分は萎える事が出来ないんだ。
気持ちを伝えたくて抱き寄せる、柔らかな肌と体毛を全身で感じ、恋人のいやらしい肉が望むままに最後の一滴まで注ぎ尽くす。
萎えない、やっぱり萎えられない、ああ、もうこのまま搾り尽くされて枯れ死んでもいいや。
そんな事を思いながら体勢を入れ替えて上になる。
「はっ……はっ……はっ……はぁっ……ふぅぁっ……!」
上から突き入れる時も八千代はその動きに合わせて下から腰を合わせて振ってくれる、背筋が必要なちょっと普通の女の子にはできない腰の運動だ。
そんな風に動くものだから予想よりも激しい摩擦が起きて快楽をコントロールできない。
自分の限界が予想より早そうだったので剛は八千代の乳房に手を伸ばしてむにゅりと指を沈める。
暖かい水風船のようなその肉を愛撫してやると八千代はか細くて可愛い鳴き声を上げ、きゅうきゅうと締め付けを強くする。こちとら揉んでいる手触りだけでも射精しそうだというのに。
相手に快楽を与えられるが、自分にもそれ以上の快楽が返される。
くそう、
剛は揉みしだき、打ち付けながら歯をぎりぎりと食いしばって耐える、先にイかせたい、八千代を自分より先に……。
「せんぱ……せんぱいぃぃぃ……♪」
きゅん♪、きゅん♪、きゅん♪、どく、どく、どく、どく、
また一緒にいってしまった、いや、悪い事ではないのだが、ちょっとでも先に八千代をいかせたい、奇妙な拘りに取り憑かれた剛はまた八千代の淫らな体に挑みかかって行った。
「せんぱぁ……い♪……またぁ……自分、またイクっすぅ……♪」







 「ねえ、高梨君、ちょっといい?」
放課後、八千代の部活終わりを待っていると上級生の女子に声を掛けられた、確か女子サッカー部の主将……それに野球部、陸上部の子達だ。
「な、何です?そんなにぞろぞろと……」
「いいから」
大勢の女子に声をかけられてたじろぐ剛を女の子達はやや強引に引っ張り、あまり人の寄り付かない校舎裏にまで連れて行った。
「高梨君、ちょっと聞きたい事があるの」
「は……はい……?」
びくびくする剛に女子達は怖い顔で詰め寄る。
(な、何だろう……ヤキ入れでもされるのか……!?)
「やっちゃんと付き合ってるって本当?」
「……えっ?」
「どうなの?」
「ねえ!」
予想していなかった質問にきょとん、とする剛に女子たちは矢継ぎ早に問う。
「ええと……」
一瞬悩んだが、後ろめたい事はないはずだ、と正直に答える事にする。
「うん……まぁ……お付き合い、させて、もらってますです、はい」
ああ……
何故か女子達の間から何とも言えない溜息のような声が漏れた、なんだろうかその反応は。
「うう……私たちのやっちゃんがぁ……」
「泣かないでみゃーこ、やっちゃんの事を思えばここは祝福してあげるべきなのよ……!」
「くっそー!男子なんかに取られるとはー!」
何やら不穏な言葉も聞こえる。
しかし普段の八千代の可愛がられぶりを鑑みると部員達のこの反応も止むべからずという所か。
「しかしまあ……高梨ならまあ、問題ないか」
と、陸上部の主将が剛を値踏みするように見ながら言った。
「そうだね……そこらのチャラ男よりはね」
「襲ったりする度胸なさそうだし?」
「何かこう……薄そうだもんね」
「ねー」
何がだ。
「でも一言は言っとかなきゃね?」
「だね」
そう言って皆の代表なのかサッカー部主将がずい、と剛の前に出て来て言った。
「高梨君、私たちの言いたい事は一言だけ、やっちゃん泣かせたら許さないかんね、私らにそんな事言う権利も何もないっていうのはわかってるけど……」
きっと剛の目を見る。
「でも!泣かしたら許さないかんね!」
「お、おう」
皆でそうやって詰め寄られたらそう言うしかない。
「特に!あの子にその……あの……変な事したら駄目よ?」
「変な事?」
「ほら、あの子、ちっちゃいくせにこう……ボンキュッボンじゃん?」
「まあ、ね」
「あー!ほらそれだもう!男子ったらすぐそうして鼻の下伸ばす!そんな調子でやっちゃんにヒドイ事したらそれこそ許さないかんね!?」
「えっ?」
「……」
「……」
「……」
「ちょっ何その反応は!?」
「まままままさか……!」
「いっ、イヤイヤイヤ何も、何もしてないですってマジでマジで!」
本当はそれこそ変な事ってレベルでない事まで経験済みなのだがとてもそんな事を正直に言える空気ではない。
「だっ……だよね、うん」
「やっちゃんはこう……ピュアなんだからね!」
「なーんにも知らないんだからねあの子!その無知に付け込んでアレコレしたらダメよ!」
「……はぁ」
剛としては苦笑するしかない。
「先輩方、集まって何してるんッスか?」
と、校舎裏に顔を出したのは八千代だ。
先輩方は慌ててさっと囲いを解く。
「べっ……別に何も、ね?」
「ただ、やっちゃんの彼ってどんな人かな〜って」
「そうそう!」
「そッスか……あ、先輩!一緒に帰るッス!」
「お、おう!」
これ幸いと八千代の元に駆けつける剛、何だか知らないが助かった。
「悪い悪い、……っとぉ!?」
たどり着いた瞬間、八千代は剛の腰に手を回してぐいっと引っ張った、強い力だった。
そうしてしっかりと剛を捕まえておいてから先輩方に頭を下げた。
「お疲れ様ッス!」
「あ、お疲れ」
「またね!」
「うう……嘘であって欲しかった……」
「うう……私のやっちゃんがぁ……」
挨拶とやっかみを背に受けながら剛と八千代は家路に付いた。








「……すんすん」
「……や、八千代?」
「むー……先輩達のニオイが付いてるッス」
「そ、そうか?」
剛には全然わからないが、八千代の嗅覚は人間の比ではない。
(……八千代はピュア、か……)
ちょっと不機嫌になる八千代を見て剛は思う。
多分、先輩達は八千代の事を小動物……それこそ自分の思っていたように豆しばみたいに可愛い存在だと思っているのだろう。
だが、それが大きな誤りである事を自分は知っている、思い知らされている。
「他のメスのニオイは……」
多分、他の誰にも見せたことのない獣の笑顔で八千代は言いながらぺろり、と愛らしい舌なめずりをした。
そうだ、この仕草だ、自分は知っている、この可愛い後輩は。
「上書きしなきゃ……ッスね?……先輩♪」
オオカミだ。
14/05/22 06:31更新 / 雑兵

■作者メッセージ
これを読んだ後に「セックスフレンド」を読み返すと味わい深いかもしれない。
深くないかもしれない。

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