読切小説
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もこもこ。ふかふか。
 週末。
 早朝。
 
「ごろごろごろごろー」

 布団の中で音がした。
 音に気づいた三室聡一は、身体は寝かせたまま首だけ動かし、毛布を持ちあげて中を覗いた。
 
「ごろごろー、ごろごろー」

 中には子供がいた。褐色の肌を備えた、小さな女の子だった。
 それが普通の女の子と違っていたのは、手足が獣のように変異していたことだった。おまけにパジャマから飛び出した手足は白く柔らかな体毛で覆われ、見るからにもこもことしていた。
 
「えへへー、むぎゅー」

 女の子はそんな獣化した手足を使い、聡一の腹に抱きついていた。たわわに実った乳房を押し付け、ぷにぷにのほっぺで鳩尾を頬擦りし、満面の笑みを浮かべて聡一にしがみついていた。全身でスキンシップを図るその姿は、見るからに楽しそうであった。
 そんな女の子――人間とは異なる外見の女の子を見つめるうちに、聡一も自然とその顔を綻ばせていった。人間離れした彼女の姿に恐怖することはない。
 元気そうで何よりだ。
 
「あっ」

 その内、女の子が聡一の視線に気づいた。そして彼の優しい視線に気づいた女の子は、頬擦りを止め、咄嗟に彼の方へ視線を移した。
 
「――えへへ♪」

 そして悪びれる素振りも見せず、にかっと笑った。邪念のない、太陽の如く眩しい笑顔だった。
 
「おはよう、ソーイチ」

 太陽の女の子が元気よく挨拶する。聡一もまた恐れることなく太陽に手を伸ばし、その白くふさふさな頭を撫でながらそれに応える。
 
「おはよう、イエティ。今日も忍び込んできたな?」
「うん。今日もこっちに来ちゃった」
「年頃の女の子は夜這いをかけちゃいけないって、何度も言ってるだろう」

 反省の色なしな女の子に注意しつつ、聡一が頭を撫で続ける。自分の頭に触れてくる男の手の感触に喜びを感じながら、女の子――イエティと呼ばれた女の子が笑顔のまま言葉を返す。
 
「だって、一人で寝てると寂しいんだもん」
「だからってこっちに来るのはやめなさい。お前用に新しい布団も買ったのに」
「やーだ! 布団よりソーイチの方があったかいの!」

 口を尖らせる聡一に、イエティが大きく首を横に振って拒絶の意を示す。それを見た聡一は苦笑をこぼし、隣にある「新しい布団」に目を移した。
 それは自分が使っている布団と全く同じ形をした物だった。そして自分の布団と隣接するように敷かれており、毛布は皺くちゃに乱れまくっていた。
 また乱暴に取っ払ったな。目の前の惨状を前にそう考える聡一の表情は、しかし憤慨とは無縁の柔和なものだった。その後聡一は怒る代わりに、再びイエティの方へ視線を移して言った。
 
「そんなに一人で寝るのは嫌か?」
「うん」

 即答である。聡一は苦笑し、同時に嬉しくなった。
 暫く後、改めて聡一が問う。
 
「じゃあ明日から、一緒に寝るか?」
「うん!」

 これも即答。予想通りだ。
 結局、良かれと思って買った布団の出番は、僅か二日で終わったと言うことか。
 
「しょうがない奴だな」

 しかし聡一は、それについて引きずることはしなかった。むしろよく二日も耐えてくれたものだと感心すらしていた。
 魔物娘の生態を知っていたが故に、彼は驚くばかりだった。
 
「さ、おいで」
「うん!」

 二つの世界が繋がって早一年。聡一とイエティが知り合って二週間経った頃のことである。
 
 
 
 
 そうして軽いスキンシップを取り終えた後、聡一は枕元にあった目覚まし時計を手に取って時刻を確認した。
 
「七時十分?」

 そしてすぐさま顔をしかめる。せっかくの休みなのだし、もうちょっと寝ていたい。というか寝かせてほしい。聡一は正直にそう思った。
 イエティにもそのことを正直に伝えた。
 
「だーめ! 休みの日だからってゴロゴロしてちゃ、健康に悪いよ!」

 イエティのお節介がそれを許さなかった。微笑ましい思いやりに聡一は苦笑し、しかしそれでも二度寝を決めたかった。
 
「でも外寒いだろ。俺まだここから出たくないんだよ。こっちの方が暖かいし」
「えー? このくらい平気だよー」
「人間はこのくらいでも寒いんだよ」
「ふーん……」

 初耳とばかりに、興味津々な顔でイエティが相槌を打つ。
 直後、何かを閃いたようにイエティが聡一に声をかける。
 
「じゃあさ、私があっためてあげる!」
「え?」
「私がソーイチにくっつくの! そうすればソーイチはぽかぽか、でしょ?」

 渾身のアイデアと言わんばかりにイエティが目を輝かせる。聡一は再度苦笑した。
 俺は暖まりたいのではなく寝たいんだが。彼は苦笑いの奥でそんなことを思った。
 
「はい! 決定! 起きるよソーイチ!」

 しかしイエティの方が速かった。彼女はそのもこもこの両手で毛布を掴み、勢いよく引っぺがした。
 魔物娘の膂力は人間のそれを凌駕する。聡一は何の抵抗も出来ぬまま、ただ自分の生命線が宙を舞い、隣の布団の上にどさりと落ちるのを見守るしかなかった。
 
「ぎゅー!」

 その後間髪入れず、再び聡一の腹にしがみつく。喜色満面の顔のまま頬を擦りつけ、意地でも離れないと言わんばかりに手足に力を込める。
 手詰まりである。聡一の取れる手は一つしか無かった。
 
「わかったよ。起きるよ。起きればいいんだろ」

 投げ遣りな調子で聡一が言う。それを聞いたイエティはしがみついたまま「やったあ!」と叫んだ。
 
「じゃあ立って! 起きて歯を磨いて、その後朝ごはん食べよ!」

 元気一杯にイエティが言い放つ。完全に彼女のペースだ。寝起きのテンションで今のイエティに反論することは不可能である。
 
「はいはい」

 だから聡一も素直にそれに従った。彼は腹にイエティをくっつけたまま起き上がり、自分の足で立って寝室を後にする。そしてイエティをくっつけたまま洗面台に向かい、イエティをくっつけたままそこで歯磨きをした。
 イエティも聡一にくっついたまま歯磨きをした。片手で歯ブラシを持ち、もう片方の手で聡一にしがみついたのである。イエティの腕力ならば、この程度は朝飯前である。
 
「ちゃんと三分磨くんだよ?」
「わかってるよ」

 そしてアドバイスを入れることも忘れない。イエティの助言通り、聡一は三分間歯磨きに集中した。イエティも同様に、自分の歯を丁寧に磨いていった。
 三分後、仲良く口の中をゆすぐ。それから聡一とイエティは一緒にリビングに行き、朝ご飯の準備を始めた。
 
「今日はどっちにする? 米? パン?」
「パン!」

 聡一の問いかけに元気よく答える。聡一は彼女の言葉に従い、キッチンの奥から食パンの入った袋を持ち出してリビングに戻った。オーブントースターはリビングのテーブルの上に既に置かれており、その横にパン入りの袋をどさりと置く。
 ダイニングキッチンなので移動も楽々である。
 
「じゃあイエティ、冷蔵庫からバターとジャム持ってきてくれるか?」
「いやー」

 その後聡一はイエティにそう頼んだが、今日のイエティはそれを拒絶した。
 聡一は憤慨するでなく困惑した。
 
「いつもならすぐに持ってきてくれるだろ」
「今日はダメなのー」

 腹部にぎゅうっとしがみつきながら、イエティが頑なに彼の頼みを拒絶する。
 いつもは自分の頼みであればすぐ飛んで行ってくれるのに、なぜ今日はここまで拒むのか。聡一はまったく見当もつかなかった。
 
「今日の私はソーイチ暖めるマシーンなの! だから手伝うことは出来ませーん!」

 そんな聡一の困惑を察してか、イエティが自分から「頼みを聞かない」理由を告げる。一方でそれを聞いた聡一は苦笑するしかなかった。
 
「そうか、そう来たか」
「そうなの。だから今日一日は、全部ソーイチが頑張ってね! 私はソーイチをぽかぽかさせることに集中するから!」

 イエティが日課の家事手伝いを放棄することを高らかに宣言する。聡一は怒る気力も湧かなかった。
 自分の腹にしがみついた褐色の肌の女の子(露出高め)が、こちらを見つめながらドヤ顔で自信たっぷりに言ってくるのだ。これを可愛いと言わずしてなんと言うのか。
 
「ふふーん! 私のあったかボディは凄いんだから! もっと褒めてもいいんだからね!」

 鼻息荒く、得意満面な顔で言ってのける。
 畜生。可愛い。聡一はその可愛さの前に完全降伏するしかなかった。
 
「ああもう、わかったよ。俺が取るよ」
「よろしくー!」
「ジャムはどうする? バターだけ使うか?」
「いちごジャム! いちご食べたい!」
「はいよ」

 結局聡一は自分の足で冷蔵庫の前まで進み、そこでイエティに請われるまま中身を取り出していく。その後両手にジャム瓶とバター入り容器を持った聡一は、トースターと食パンの置かれた所まで戻っていった。
 当然、イエティをオプション装備したままである。
 
「焼くのは一枚でいいか?」
「うん! 私は一枚でいいよ。ソーイチは?」
「俺も一枚でいいかな」
「腹八分目だね!」

 イエティがにこにこ笑って言う。聡一もつられて笑って頷く。それから聡一は食パンを二枚トースターに入れ、ツマミを回して焼き上がるのを待った。
 その間、二人は口を開かなかった。揃って無言のまま、部屋を静寂が包んだ。
 気まずくはなかった。それは心地の良い、二人だけの空気を共有出来る、静音で至福の一時であった。
 
 
 
 
 朝食はそれぞれパン一枚とコーヒーで済ませた。二人揃って小食であった。聡一はブラックコーヒーを、イエティは砂糖マシマシの物を嗜んだ。
 当然ながら、イエティは聡一の体にしがみついて飲食した。この時彼女はそれとなく口移しを希望したが、聡一はそれをやんわりと断った。聡一暖めマシーンと化したイエティもまた、この時は素直に退いた。
 
「ねーソーイチ、散歩しようよ!」

 そうして朝食を済ませ、テレビもつけずに二人して一息ついていると、唐突にイエティがそう提案してきた。口移しを断られたことの埋め合わせを要求してきたのだ。
 
「ねえねえ、いいでしょいいでしょ? たまには二人で散歩しようよ!」

 甘えん坊のように体を揺すりつつ、イエティが聡一に請う。鳩尾にイエティの柔らかな頬が当たり、ぷにぷにの感触が服越しに伝わってくる。
 その柔らかさに頬を綻ばせながら、聡一は頭を下げてイエティを見下ろした。
 
「そんなに行きたいのか?」

 聡一が尋ねる。太陽のように笑ってイエティが答える。
 
「うん!」

 気持ちのいい返事である。こんな風に言われたら、断る気も失せるというものだ。
 最初から断るつもりも無かったが。
 
「そうか。それじゃ行くか」
「やったー!」
「ところでお前、しがみついていくのか?」
「もちろん! 外は寒いし、ソーイチが風邪引いたら大変だもん!」

 真冬の季節に水着のような格好で平然と生活してみせるイエティが、そう言って聡一に笑いかける。何かが色々とおかしい気もするが、魔物娘相手にそれを突っ込むのは野暮だ。
 
「お前も一緒に歩かないと散歩にならないだろ」
「いーの! 一緒に外に出れば、それでもう十分散歩になるの!」

 なお、イエティは微塵も離れる気は無かった。両手足を器用に使って聡一の体にがっしり組み付き、頬をふくらませて聡一に抗議の視線を向ける。
 自分はこのままでいたいのだ、わからず屋め。イエティの目はそう訴えていた。
 
「わからずやめー!」

 親切にも言葉にしてくれた。聡一は改めてイエティの心情を理解し、可笑しさと愛しさを同時に覚えた。
 自然と笑みがこぼれる。こんな可愛い子と一緒にいられるなんて、自分は幸せ者だ。そんなことも考えたりした。
 
「どうしたの? 急に笑ったりして?」

 いきなり微笑み始めた聡一に対し、きょとんとした顔でイエティが問いかける。聡一は躊躇うことなく、自分の想いを言葉に乗せた。
 
「俺って幸せだなって思ってさ」
「そうなの? ソーイチは今、幸せなの?」
「ああ」
「そうなんだ。でもイエティの方がもっと幸せだよ!」

 イエティが正面から切り返す。不思議に思った聡一が彼女に問う。

「どうして?」
「ソーイチと一緒にいられるから!」

 即答。イエティの言葉には一片の迷いも無かった。
 太陽の如き眩さを放つ魔物娘を前にして、聡一は返す台詞を失った。こんなの卑怯すぎる。
 
「ソーイチ? 何固くなってんの? おーい」

 クリティカルヒットを食らって思考停止し、体を硬直させる聡一に、イエティが不思議そうに問いかける。
 彼が意識を取り戻したのは、それから暫く経ってのことだった。
 
 
 
 
 なんやかんやあった後、二人は家の外に出た。外は雲一つない快晴で、風が乾燥して寒くなければ絶好の散歩日和であった。
 
「さすがにこんな日に散歩なんてするもんじゃないな」

 身を打つ北風に肩を竦めながら、聡一が震える声で愚痴をこぼす。この時彼は上着を着ておらず、代わりにフリースの上からイエティがしがみついていた。
 要は家にいた時と同じ格好である。イエティも家にいた時と同じ格好であった。この時彼らは家の近くの街路樹を歩いており、そこですれ違う者達は一様に聡一達の姿を目で追っていた。
 イエティはお構いなしだった。恥じらうことなく聡一にくっつき、周囲に見せつけるように己の姿を晒していた。
 
「大丈夫! ソーイチのことは私があっためてあげるから!」

 そうして聡一の腹にしがみつきながら、イエティがニコニコ笑って声をかける。何か話す度に口から白い吐息が漏れ出ていたが、当のイエティはまるで寒そうな素振りを見せなかった。
 
「お前はいいよな。前は寒冷地帯に住んでるんだから、これくらいなんともないんだろ?」
「うん!」

 聡一の皮肉めいた問いかけにイエティが即答する。良くも悪くも純真だった。
 
「これくらいへっちゃらだよ! 私がいたところはもっと寒かったもん!」

 純真無垢なイエティが続けて答える。当然のことながら、太陽のようにニコニコ笑ったままである。
 
「だからもっと頼っていいんだよ! ソーイチは私が暖めてあげる! 寒かったらすぐに言ってね!」
「……わかった。頼りにしてるからな」
「うん!」
 
 それを見た聡一はただ苦笑いするしかなかった。そんな顔されたら許すしかないではないか。
 それから二人は会話を止め、暫く散歩に集中した。イエティは何も言わず、ただ笑みを浮かべながら聡一にしがみつくだけだった。
 
「でもね」

 と、不意にイエティが声を漏らす。
 散歩に出かけて十数分後のこと。ふと何かを思い出したかのような、唐突な呟きだった。
 
「どうした?」

 歩みを止めた聡一がイエティに尋ねる。こちらを見る彼の視線に気づいたイエティが、顔を上げて聡一を見返す。
 そこに太陽は無かった。笑ってはいたが、そこには悲しみの影が差していた。
 
「私も寒かったこと、あったよ」

 聡一の目をじっと見ながら、イエティが言う。聡一は何も言わず、イエティの次の言葉を待つ。
 やがてイエティが口を開く。
 
「最初に私達が会った時のこと、覚えてる?」

 その問いに、聡一は無言で頷いた。それから聡一は顔を上げて辺りを見回し、近くにベンチを発見する。聡一はそのベンチに向かい、イエティを抱っこするような格好でそこに腰を降ろす。落ち着いて話をするためである。
 その間イエティは何も言わなかった。聡一の動きの意図を理解していたからだ。イエティは彼が動きを止めるまで素直に待ち、座ったところで会話を再開した。
 
「ソーイチが、私を拾ってくれた時のこと」

 イエティの言葉に、聡一は再度頷いた。あの日のことは今でも鮮明に思い出せる。聡一にとってそれは、それだけ衝撃的な記憶だった。
 



 二週間前。その時聡一は大学から家へ帰る最中だった。電車を降りて駅を出て、「たった今」散歩していた街路樹を通って家に向かっていた。
 
「ん?」

 聡一が「それ」に気づいたのは、街路樹を一人歩いていた時だった。彼はその脇にあるベンチの一つに、ちょこんと座る物陰に気づいた。
 午後六時。既に陽は沈み、夜闇が空を覆っていた。道は暗く、街路樹に並ぶ街灯の灯は弱く心細い。
 物陰の正体を知るには直接近づくしかなかった。
 
「なんだあれ」

 案の定、聡一が「それ」に近づく。下心からではない。それは純粋な好奇心から来る行為だった。恐れることなく、どんどん距離を縮めていく。
 聡一が「それ」の目の前まで到達する。そしてその場で息をのむ。
 
「……」

 そこにいたのは一人のイエティだった。魔物娘の存在は既に常識となっており、故に聡一もそれが「イエティという種族の魔物娘」であることをすぐに理解した。特徴的な外見だったので、判別は容易だった。
 しかしそのイエティを見た彼は動揺した。目の前で背筋を曲げ、ぐったりとベンチに座り込むそのイエティは、傷だらけだった。
 
「何があったんだ……?」

 至る所に生傷が刻まれていた。止血も消毒も済んでおらず、傷口はどこも赤黒く変色していた。本来もこもこであるはずの体毛も所々が赤く染まり、力なく萎れていた。
 
「……ッ」
 
 酷い。それ以外に言いようがない。初めて見る魔物娘と、その痛々しい姿を前にして、聡一の頭は思考を停止した。
 
「……早く病院に!」

 それから暫くして、漸く我に返った聡一が行動を起こす。今では病院も当たり前のように魔物娘の面倒を見てくれる。大きな進歩だ。
 実際、病院側はすぐに救急車の手配をしてくれた。数分で着くからそこで待っていてくれ。病院側は次いで聡一にそう伝え、聡一も素直にそれを守った。そして救急車が着くまでの間、聡一はイエティの傍に寄り添うことにした。
 他に出来ることが無かったからだ。ベンチに腰掛けるイエティの横に座り、しかし直接手は触れずに目線だけを投げかける。
 
「え……?」

 すぐにイエティが聡一の存在に気づく。首を動かし、緩やかな動作で顔をこちらに向ける。そして横に人間がいることを知り、目を見開いて息をのむ。
 警戒している。相手が体を強張らせたのを察した聡一は、すぐに自分に敵意は無いことをアピールしようとした。
 
「もう」
 
 しかし彼が口を開くより前に、イエティが聡一に言った。
 
「もういじめないで……!」




 その時のイエティの表情を、聡一は恐らく死ぬまで忘れないだろう。
 恐怖と苦痛と絶望。それら全てがそこに凝縮されていた。いったい何をされたらあんな顔になるのだろう。聡一は今でも疑問に思う。
 イエティは何をされて、何故あそこにいたのだろうか。彼女は何を見たというのか。
 
「……ああ。全部覚えてるよ」
 
 しかし彼は、それを直接問うことはしなかった。調べようともしなかった。彼は何も聞かず、ただイエティを病院まで連れて行き、そのまま彼女の後見人になることを決めた。
 下世話な欲望からではない。単純に放っておけなかった。だから聡一は動いた。彼はお人好しだった。
 お人好しであるが故に、聡一はイエティを問い詰めなかった。雑談の種にもしなかった。イエティの古傷を抉るようなことは一度もしなかった。
 当然今もしない。彼は無言でイエティを見た。
 
「あの時は、凄く寒かった」

 そんな聡一に向かって、イエティが口を開く。聡一の熱をより感じようと、手足に力を込めて一層強く抱きつく。
 
「寒くて痛くて、死にそうだった。目の前は真っ暗で、何もかもが嫌になってた。でもそんな時に、あなたが来てくれた」

 イエティが聡一の鳩尾に顔を埋める。震える声でイエティが言う。
 
「最初は怖かった。でも病院まで一緒にいてくれて、お見舞いにも来てくれて、優しくしてくれた。だからすぐに怖くなくなって、ソーイチにまた会いたくなった。ソーイチは優しい人だってわかったから、この人とずっと一緒にいたいなって思った」
「簡単に他人のこと信じすぎじゃないか」
「いいの。わかるんだから。魔物娘ってね、人間の悪意には結構敏感なんだよ?」

 聡一の指摘にイエティが答える。それが自分の気を引くための方便か否か、聡一には判断できなかった。
 イエティが続ける。

「だからソーイチが私を引き取ってくれるってわかった時は、泣きそうなくらい嬉しかった。実際、あの時本当に泣いちゃったんだから」

 イエティの声はまだ震えていた。時折、鼻をすする音も聞こえてくる。
 聡一は何も言わず、そのイエティの背中に手を回した。そして優しく、そっと彼女の体を抱きしめる。
 
「だからその時ね、私誓ったんだ」

 その温もりを感じながら、イエティが聡一から顔を離して言った。イエティが顔を上げ、また彼女の視線に気づいた聡一がイエティを見つめ返す。
 大好きな人の相貌を潤んだ瞳に焼き付けながら、イエティがはっきりと告げる。
 
「一生かけて恩返ししようって。ずっとこの人と一緒にいようって」

 聡一が思わず息をのむ。全身がかっと熱くなる。
 再び陽が上る。影を消し、にっこり笑いながらイエティが言う。
 
「私、絶対あなたを幸せにする。約束するね……絶対、約束だから」

 それだけ言って、イエティが再び聡一の胸元に顔を埋める。イエティの耳は熱で真っ赤に染まっていた。
 そこに気づいた聡一は苦笑した。慣れないことするから恥なんて覚えるんだ。そんなことを考えながら、イエティだけに聞こえるよう小さい声で言い返した。
 
「……俺はもう十分幸せだよ」

 直後、耳まで真っ赤になる。心臓が早鐘を打ち、嫌な汗が流れてくる。本当に慣れないことはするべきではない。
 聡一は心からそう思った。
 
 
 
 
 この人に会えてよかった。
 イエティはそう思った。何度も何度も思ったことを、この日の帰り道にまた思った。
 この人は自分のことを詮索しない。何も聞かずに優しく接してくれる。
 自分の傷を広げるようなことは絶対にしない。それがイエティには何より嬉しかった。それだけでなく、新しい寝床と居場所まで用意してくれた。本当に、この人には感謝してもしきれない。
 でも、施されるだけでは駄目だ。イエティはそうも思った。だから恩返しをしよう。イエティは心に誓った。
 正直、この人に対する疑問はいくつかある。親とか家とか、どうなっているのか。考えたことも一度や二度ではない。
 しかしイエティはそれを尋ねなかった。聡一がそうしなかったように、イエティもまた自分から彼にそれを聞くことはしなかった。
 何が傷になっているのか、わかったものではない。そのことは自分が一番よく知っている。
 だからそれは聞かないことにした。聡一の方から話してくれるまで、イエティは待つことにした。
 赤裸々に晒し合うだけが信頼じゃない。相手を信じているが故に秘密を暴かない。そんな選択肢もあるはずだ。
 
「ソーイチ」

 自分を引っ付けたまま、思い出の街路樹を聡一が歩く。もう帰る時間だ。
 その中で、イエティが不意に声をかける。
 
「ん?」

 聡一が反応する。歩みは止めず、声だけをイエティに向ける。
 イエティも顔を埋めたまま、声だけを聡一に返す。
 
「ずっと、一緒にいようね」

 恥ずかしくて顔を見せられないのが本音だ。でもそれは言わないことにした。代わりに何も言わずに顔を隠すことにした。
 女はミステリアスな方が魅力的に映る。前に見たドラマでそんなことを聞いた。それを実践しようというわけである。
 
「ずっと、ずっと」
「……ああ」

 聡一もそれに応えた。しがみつくイエティの頭を撫でながら、しみじみと言葉を放る。
 
「来年も、再来年も、その後も。ずっと一緒だ」
「……うん!」

 聡一の言葉に、イエティが元気よく答える。そしてそこで初めて、イエティが顔を上げて聡一を見上げる。
 視線に気づいた聡一が立ち止まり、イエティを見下ろす。二人の視線が重なる中で、イエティが言う。
 
「ずっと一緒だよ! ソーイチ!」

 深い夜の闇の中、太陽が眩い輝きを放っていた。
17/12/29 18:58更新 / 黒尻尾

■作者メッセージ
これで書き納め。
来年もよろしくお願いします。

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