連載小説
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彼女が願ったこと
 港町フローゼ。
 国に三つある港町のうちの一つで、他の二つと比較して城下町までの道のりが近いせいか、観光客の割合も多く、それだけ賑やかだ。
 ルークが知識として知っているのはそれくらいで、実際に行ったことはなかった。港は国にとって重要な箇所のため、しっかりと専用の拠点が設けられ、常駐する形で騎士団が滞在している。よって、港町への出張はないため、たまの休暇に足を伸ばしでもしないかぎりは訪れる機会もなかった。
 内陸では見たことのない品々を軒先に並べる露店の数々はルークの目を奪うが、足は止めずに港を目指す。
 魚の焼ける匂いと磯の香りが漂う通りを進んでいくと、やがて青い海が見えてくる。辺りの風景も住居や店から倉庫へと変わり、いくつもの船がちらほら目に入ってくる。
 まだ日が昇りきっていないことに加え、海からの風が容赦なく吹き付けて寒いはずだが、港で作業をする者達は慣れているのか、気にした様子もなく作業に励んでいる。そうして日々の仕事を営む人がいるなかで、洒落た衣服を着こんだ裕福そうな人の姿がちらほら見受けられるのが、いかにも人と物の玄関だと実感できる光景だった。
 港に到着したルークは辺りを見回し、ミラの姿を探す。世間的に有名なミラが素顔を晒して堂々と待っているはずはないので、一見しただけではわかりにくい装いのはずだ。
 ルークはそれらしい人物はいないかと目に入る人に視線を向けていく。たまに、それに気づいた人が目つきの悪さに慄いて身を引くなか、一人の女性を探し歩く。
 やがて旅船が密集して停泊している辺りに来た。ここまで来ると漁師や運搬作業をしている者の姿は減り、これから外に行く者と帰ってきた者、旅行者の姿が増えてくる。彼らは装いも様々で、似ているようで違う旅装はそれぞれ違った国から来たのだと証明しているようだった。
 そうした人々が行き交う港をしばらくうろついていた時だ。そこだけ人払いでもしたかのように静かな旅船があった。船上に人がいて荷物を積み込んでいるので、これから出港するのだろう。それを見上げるローブ姿の人物に、ルークの目は固定される。その人物は船を見上げ、次いで辺りを見回すという行為を繰り返していた。その様子は船を眺める観光者のようでもあったし、見知らぬ道に迷い込んだ少女のようにも見えた。
 ルークは迷うことなくその人物に向かって歩き出す。顔は見えないが、ミラだという直感があった。
 一歩を踏み出す度に、胸の奥で心臓の鼓動が早まっていく。それになんともいえない感情を抱きながらルークが彼女へ近づいていくと、向こうもふとした拍子にこちらへ顔を向けた。フードを目深にかぶってはいるが、その顔はやはりミラだった。
「ルーク……!」
 ミラが驚いた表情を浮かべ、次いで口元に笑みを浮かべるなか、ルークはその場で足を止める。
「来てくれたんだな……」
 ほっとした表情でミラが近づいてくる。ルークは黙ってそれを眺めた。
「ルーク……? どうしたんだ?」
 口も開かず、棒立ちになっているルークに、ミラも歩みを止めて美しい顔を若干曇らせる。
 心臓の鼓動が自然と早まり、それを堪えるようにルークは顔を少し俯けた。
「そう……か……。そういうことか……」
 不自然なルークの様子から、ミラは全て察したのだろう。ぽつりと呟いた言葉に、ルークは胸が締めつけられた気分だった。それを甘んじて受けながら顔を上げ、ミラを見つめる。全てを察して諦めたような笑みがあった。
「これが正しいことなのか、俺にもわからねぇ……。けど、どちらかを選んで、もう一人とは顔も合わせずにさよならは違うと思った。だから、俺はここに来た。隊長を傷つけるために」
 ミラの顔から笑みが消え、そっと目が下に向けられた。それだけでルークもやりきれない思いになるが、言わなくてはならない。
「俺は、隊長とは行けない」
 静かに、しかしはっきりと告げる。自分の選ぶ道はそちらではないと、意思を伝える。そのせいで、ミラがどれだけ傷つこうとも。
「隊長と行けば、きっと予想すらしない日々を過ごせるとは思う。俺自身、それはすげぇ魅力的だと思うし、きっと馬鹿なことを言ってどつかれながら、笑って歩いて行けたと思う」
 急な雨に降られて木の下で雨宿り、時には行商の馬車に乗せてもらい、何もない草原での野宿だってあるだろうし、辿りついた小さな町で羽休みをすることもあるだろう。
 一人でも楽しめると断言できることをミラと過ごせるなら、それこそいつでも笑っていられるはずだ。
 有り得たかもしれない想像に、ルークは自然と口元が緩んでしまう。だが、それをかき消すように浮かぶのは、本当にどうでもいいことでいちいち喜ぶミーネの笑顔だ。
「けどな、あいつを置いていくという選択は俺にはできない。馬鹿で、アホで、ドジで、変に意地っ張りで、悪意なく人を困らせることばかりする。およそ関わりたくないと思える要素ばかりだが、どうしてだか、見捨てる気にはなれないんだよ。あの小娘は」
 キノコのフルコースだの、昼寝してても頑なに認めないだの、いちいち例をあげれば切りがない。
 そのどれもが思い出すだけでため息ものだが、その一方で嫌じゃない、決して退屈ではない時間だった。そこまで過ごした時間は長くないはずなのに、好意を抱けてしまうくらいに。
「……だから、私は選ばれなかったというわけか」
 顔を上げたミラは儚げな、今にも泣き出してしまいそうな笑みを浮かべた。ミラにそんな顔をさせているのが自分だと理解しているルークは見ていられずにきつく目を瞑る。ぎりっと歯が鳴った。
「……ああ。俺はあいつを放っておけない。だから、隊長とは行けない」
 二度目の決別の言葉を告げ、盛大に胸が痛む。だが、ミラはもっと痛いはずだ。
 これ以上ミラを傷つけたくなかったルークはそっと踵を返す。二人の関係はこれで終わりだと、無理矢理自分に言い聞かせながら。
 そんなルークの背中に静かな声が届いた。
「ルーク」
 振り向けば、ミラが見つめていた。ルークは足を止め、ミラの視線を正面から受け止める。罵倒の言葉があるなら、全て受け止めるつもりだった。しかし、ルークの予想は空振りに終わった。
「最後に、名前を呼んでくれないか……?」
「っ……!」
 ミラが口にした願いの言葉がルークの顔を歪ませる。同時に、なぜそれが最後の願いなのかもわかってしまった。
 長い騎士団生活において、ルークは一度もミラを名前で呼んだことはなかった。最初から上下関係が決まっていたから、当然と言えば当然のこと。ルークもミラの名前を呼ぶ機会などなかったし、あったとしても言えなかっただろう。だが、その機会がこうして巡ってきた。
 胸の奥が握られたように苦しい。
 ミラの願いに応えれば、二人の関係は終わるだろう。なんてことのない日々を過ごし、どつかれ、あれこれと言い合っていた日々が懐かしいのは、もうこれで終わりだからと理解しているせいかもしれない。
 それらの日々を清算するように、言わなくてはならなかった。込み上げてくる様々な感情をぐっと堪え、ミラをしっかりと見つめる。そして、ミラと交わす最後の言葉を告げた。
「これでさよならだ……ミラ」
 ミラが薄く微笑む。その頬をつっと涙が伝う。
 胸が締め付けられ、息がつまりそうになりながら、ルークはミラに背を向けて歩き出す。最初は普通のペースだった歩幅が徐々に早くなり、港を出る頃には駆け出していた。
 脇目も振らずに町を走り抜け、一気に厩まで戻って来る。
「くそっ……!」
 乱れた呼吸も整えず、苛立つ感情に任せて厩の柱を殴りつける。いきなり生じた鈍い音に近くの馬がぴくりと顔を動かし、辺りを見回す。殴りつけた拳にじんわりと痛みと熱が広がっていくが、それ以上に心の方が痛かった。
 涙が頬を伝うミラの顔が頭に焼き付いて消えない。あの顔をさせたルークには忘れられない光景だ。
「俺は特別でもなんでもない、ただの騎士なんだよっ!」
 喚きながら、もう一度柱を殴りつける。
 自分は捕らわれの姫をたった一人で助ける騎士でもなければ、国の窮地を救う英雄でもない。ちんけな強盗に刺されて死にかけるような、ただの騎士なのだ。
「そんな俺に、物語の主人公みたいな真似させんなよ……」
 これが正しい選択だとは思わない。だが、凡人でしかないルークには二人の手を取ってどうにかするなんて真似はできない。
 番頭に代金を払って馬に乗ると、ルークはミーネの家に向かう。例え間違っていても、これが自分の選んだ道だと言い聞かせながら。


 馬を走らせ、ここに来るのは一体何度目だろうか。ミーネが住む家を見上げながら、ルークはなんとなくそんなことを考えた。
 家の中に入るとそれだけで冷えた身体が幾分か温まるのを感じる。ただ、暖炉を使用しているにしては寒いので、まだミーネは起きていないらしい。リビングを横目で見ながら、ルークは静かにミーネの部屋に向かう。
 廊下を進み、突き当たりの部屋を開けようとしたところでルークは動きを止めた。ミーネを起こしてしまわないようにと気遣ったわけではない。そのミーネの声が聞こえたからだ。
「うっ……ふ……うぅ……ふぇっ……」
 室内から聞こえてきたのは啜り泣くミーネの声。一拍の間を開けてルークはそっと扉を開ける。
 ミーネはベッドの上にいた。裸のままで、白い背中がこちらを向き、その肩が小さく震えている。ルークが入ってきた音が聞こえたのか、すぐに振り向き、潤んだ瞳と目が合った。
「ルーク……?」
 驚いたように目を見開くミーネの頬を涙が伝う。場違いかもしれないが、ルークは素直に綺麗だと思った。
「ルークっ!」
 ベッドから転げるように降り、ミーネが胸の中に飛び込んでくる。華奢で柔らかい身体を抱きしめると、ミーネの腕がぎゅっと服を掴んだ。
「なに泣いてんだよ」
「だって……朝起きたらルークがいなかったから……だから……」
「だから自分は選ばれなかったんじゃないかって? 昨夜、あんなに抱き合ったのにか?」
「最後に、思い出をくれたのかなって……」
 それで泣いていたのかとルークは納得する。同時に、少しも自分に都合よく考えようとしないミーネに呆れるような笑みが浮かんでしまう。
 胸の中でぐずるミーネの頭をぽんぽんと叩きながら、ルークは言ってやった。
「俺は、お前が好きなんだよ」
 狐の耳がぴんと立ち、次いでミーネが顔を上げた。本当? と目で訴えてくるミーネの視線から顔を逸らす。
「二度は言わねーぞ。だから泣くな」
 好きなことは認める。だが、それを本人に何度も伝えるのはやはり恥ずかしい。照れてる顔を見るなとばかりにミーネの顔を胸に押し付けるようにすると、狐の尻尾がぱったぱったと揺れた。
「なあ、この国を出ないか?」
 しばらく無言でミーネを抱きしめていたルークはそう切り出した。
「それは……」
 驚いたようにミーネの目が見開かれるなか、ルークはそっとその頭を撫でる。
「文字通りだよ。この国を出て、別の所に行こうって言ってる。ここじゃ、お前は窮屈な思いしかできないだろうからな」
「わ、わたしは、ルークがいてくれるなら、どこでも……」
 予想できた言葉だ。どうしたって口元が笑ってしまう。
「ま、お前ならそう言うだろうとは思ってた。だがな、俺が納得できない。確かにここでも今まで通りに暮らしていくことはできるだろう。だが、俺はお前に笑っていてほしい。家でも、町でも、どこでもな。姿を変えることなく、ずっとそうしていてほしいんだよ」
 姿を人に変えれば問題ないのはわかっている。だが、そうしなければ町も歩けない状況をミーネに強いるのは我慢ならない。ならばいっそ、そんな環境は捨ててしまった方がいい。
「で、でも、そんなことしたら、ルークが……」
「騎士じゃなくなる、か? 別にいいさ」
「キースさん達ともお別れなんだよ? それでもいいの……?」
 それはもちろん理解している。だが、自然と惜しむ気持ちはなかった。ルークが薄情なのか、別れを惜しむような関係ではなかったのか。大事ではなかったといえば嘘になるが、ルークはもう選んだのだ。
「そうだな……。国も、仕事も、あいつらも、全部捨てていくんだ。そうさせた責任は取れよ?」
 少し強めに頭を撫でてやると、ミーネの瞳が潤む。
「うん……。取るよ、責任……。その代わりにずっと一緒にいるから……」
 泣き顔を見られたくなかったのか、胸に顔を押し付けてくるミーネの頭を撫でながら、ルークは呆れたように笑った。責任と取れと女に言う男など、これではまるで男女の立場が逆だ。だが、姫を助ける騎士ではなく、騎士を助ける狐娘と、そもそも始まりからして自分達はおかしかったのだ。だったら、終わりもおかしくていいのかもしれない。
 腕の中でぐずるミーネをそっと抱きしめながら、ルークはそんなことを思った。


 ミーネが泣き止むまで待った後は、すぐに準備に取りかかった。とはいっても、ルークはすぐにでも旅立てるため、ミーネに簡単な準備をさせただけだ。
「それじゃ、行くとするか」
 ミーネの荷物をまとめた麻袋を持つと、旅装姿になったミーネは微笑みながら頷いた。部屋を出て廊下を歩き、玄関に向かう。
「ねえ、どうやって国を出るの?」
「そりゃ船だろ。海を渡って別の大陸に行けば親魔物領はいくらでもある。そこでなら、お前もそのままの姿でいられるだろ」
「わたし、人から魔物になったから純粋な魔物じゃないけど、他の人と上手くやっていけるかな……?」
「ま、そりゃ行ってからのお楽しみだな」
 少し先のことを話しながら、こいつとでもそれなりに上手くやっていける。そう確信しながら扉を開ける。
「さて、まずは港町に―」
 言いかけた言葉はそこで途切れた。
「あら、様子を見に来たつもりだったけれど、どうやら答えが出たみたいね?」
「え……あなたは……」
 玄関先、十歩ほど先に立つ二人の人物。先日の占い師と、並ぶように立つ黒衣の青年にルークは瞠目する。隣りのミーネが見知った様子なのもそうだが、なによりなぜここを知っているのかという疑問が浮かぶ。
「なんであんたがここにいる? 占い師って言ってたが、あれは出まかせってことか?」
 ミーネを後ろに追いやり、対峙するように占い師を睨む。
「そうね。占い師ではないのは事実よ」
「だったら目的はなんだ」
「さあ、なにかしら。もし当てることができたら、ご褒美をあげるわ」
 煙に巻くような言い方に、ルークの口元が引きつる。
「つまらない会話に付き合うつもりはねぇ。言う気がないならそれでもいい。だからそこをどけ。俺達の邪魔をするっていうなら……悪いが強引にどいてもらう」
 正体も目的もわからない以上、こちらに危害を加えるつもりなら容赦しないという意思を示すように剣を抜いてみせる。
「ル、ルーク……!」
 後ろでミーネがうろたえた声を出すなか、占い師は動揺の素振りも見せず、小さくため息をつく。
 動いたのは今まで占い師の傍に控えていた黒髪の青年だった。ルークと同じように占い師をかばうように前に立ち、静かにルークを見据える。
「生憎と、妻に剣を向けられている状況を静観しているほど、俺は楽天家ではない」
 言ったと同時に腰に吊るされていた細い剣が静かに抜かれる。
「ミリアに手を出してみろ。容赦なく斬り伏せる」
 場の空気が一気に重たくなった気がした。それが勘違いではないのは、否応なしに早まる鼓動が証明している。
「涼しい顔して意外と愛妻家だな……」
 軽口を叩いてみるが、怒気も敵意もなく、淡々とこちらを見つめる青年はぴくりとも表情を動かさない。その氷のような意思に、ルークは内心で渋面を浮かべていた。
 自惚れているわけではないが、剣の腕にはそこそこ自信がある。だからこそ、対峙した相手の力量もある程度なら把握できる。そんな勘に近い感覚が告げるのは、まずい相手に喧嘩を売ったということだ。背中に嫌な汗が流れる。
 こちらから攻めてもまず負ける。かといって、向こうに攻め手を譲れば、それこそ容易く斬り伏せられる。
 詰んでやがる、と頭が下した結論を剣を握る手に力を込めることで誤魔化すが、状況は最悪だった。幸い、向こうから攻めてくる気配はないが、ルークも動くことができず、直立したまま相手を睨むだけだ。状況判断に迷った頭の中で思考がぐるぐると渦巻き、真っ白になっていく。
 重い空気の中、最初に動いたのは意外なことにミーネだった。
「だ、だめだよルーク……!」
 剣を使わせないと言わんばかりに右腕を両手で掴まれ、無理矢理下ろされる。ルークが驚くなか、占い師もそっと告げる。
「グレン、あなたもよ」
 名を呼ばれた青年はちらりと背後を窺うと、あっさりと剣を納め、最初のように占い師の隣りに戻った。
 相手が戦う気配を消したことでルークの身体から緊張が抜けていき、異常な気だるさが全身を襲う。
「さて、話が変な方向に行ってしまったことだし、仕切り直しといきましょうか」
 どこか楽しげな声の占い師に言い返す気もおきず、ルークとミーネが見つめるなか、彼女は続けた。
「私達がここに来たのは、一つは様子見よ。その後の進展を聞きにきたの。もっとも、今のやり取りを見れば、わざわざ聞く必要はなさそうね」
 ミーネと並び立つルークを見て、フードの下で彼女が微笑んだ気がした。
「一つはってことは他にもあるわけか。もう一つはなんだ」
 とりあえず話は聞こうと剣を鞘に納めつつも、油断なく占い師を睨む。
「ちょっとした提案よ。あなた達が望むのなら、ここではない別の場所に連れていこうと思ってね」
 思ってもみない言葉だった。
「連れてくって、そんなことをしてあんた達にどんなメリットがあるっていうんだ? そんな俺達だけに都合のいい話を信じてもらえると思ってんのか?」
「当然の感想ね。信じてもらえないことを承知で話すけど、まず利益目的ではないわ。私達がこんな提案をするのは、人と魔物が愛し合っていける世界にすることが、私に課せられた仕事だからよ。隣りの可愛い彼女には以前話したわね?」
 隣りのミーネを見ると、目が合ったミーネはこくこくと頷いた。
「提案の理由はわかった。その仕事の見返りに、あんたは何を望むんだ?」
「何も? 言ったように、人と魔物が愛し合っていける世界へすることが私の仕事よ。だからそうね、強いて言うなら末長く愛し合っていく夫婦の一組になってくれればそれでいいわ」
「ふ、夫婦……?」
 隣りでミーネが顔を赤くしながらうろたえた声を出すなか、ルークは占い師の言葉を吟味する。今のところ嘘を言っている感じはしないが、すんなりと占い師という嘘に騙された経験があるため、信用するかしないかはとりあえず保留にする。
「あんたがほとんどボランティアでしてるってことはわかった。で、具体的には何をしてくれんだ? どこかに連れてくってことは、船の手配でもしてくれんのか?」
 仮にそうなら少しは信用してもいいかもしれない。そんなことを思うルークだったが、続く言葉は予想を超えていた。
「いいえ、そんな面倒なことはしないわ。転移魔法で親魔物領の町に連れていくだけよ」
「なっ……転移魔法って、かなり高度な魔法だろっ!? そんなもん使えるのよ!?」
「ええ、もちろん。さあ、どうするかしら? 今まで通りここで暮らしていくというのなら、無理には勧めないけど」
 渡りに船としか思えない申し出と、どうするの? と隣りから見つめてくるミーネに心が揺れる。結論から言えば、向こうの提案を蹴って当初の予定通り船で行くことはできる。だが、なにかと苦労してきたミーネに、避けられる面倒はかけさせたくなかった。
「……わかった。それで頼む」
「そう。じゃあ、こちらに来て」
 言われた通りに近づくと、占い師は「グレン」と傍の青年を呼んで何事かを耳打ちする。
「後は任せるわね」
「わかった」
 どんな内容だったのかはわからないが、グレンは静かに頷く。
「さて、さっそく送らせてもらうわね」
 白い手が払われると、足元に巨大な魔法陣が現れる。
「じゃあね、二人とも。後はグレンが案内してくれるわ」
 一人だけ魔法陣の外にいる占い師が小さく手を振る。
「あんたは行かないのか?」
「やり残したことがあるの。だからあなた達だけ送るわ。機会があったらまた会いましょ」
 顔を森の方に向け、彼女はそう言った。
 直後、足元の魔法陣が光を放ち、視界が一色に塗り潰される。あまりの眩しさにルークは目を瞑る。するりと右手を温かい手が握ってくる。柔らかい感触に口元を綻ばせながらルークもミーネの手を握り返し、転移魔法に身を任せた。


 ミラは言葉もなくその光景を見ていた。家から出てきたルークとミーネが対峙するように立つ二人の人物と何事かを話している。そしてローブ姿の人物が手を払うとルーク達の足元に光の魔法陣が現れた。その魔法陣が光を放つとルーク達の姿が消え、ローブ姿の魔道士らしい人物だけが残った。
「っ……」
 ルークがいなくなった。
 その事実がミラの胸を痛める。ルークから別れの言葉をもらった後、ミラは船には乗らず、ルークの後を尾行した。国を出る唯一の機会を放り出してまでそうしたのは、なにもルークを振り向かせたかったからではない。単純に見届けたかったのだ。
「私は……」
 ルークが好きなのだと、改めて理解する。ミーネの正体が魔物だったことよりも、ルークが手の届かない所に行ってしまった事実の方が遥かに感情を乱す。自分が想像する以上にルークに想いが傾いていた。国を出る機会を捨ててしまうほどに。
 早まる鼓動を鎮めるように胸に手を当てる。だが、生じた喪失感は少しも消えそうになかった。それに追い打ちをかけるように、ミラの耳に綺麗な声が届く。
「隠れていないで、出てきたら?」
 まるで自分が隠れていることをわかっているかのような口ぶりに、ミラは驚きながらそっと木から顔を出して様子を窺う。そして心臓が跳ねた。
 ローブをまとった彼女はしっかりとこちらを見ていた。どうするか逡巡するミラだったが、ここで誤魔化したところで意味はないと判断し、大人しく木の裏から出て行く。
「役者が鑑賞に回ったら駄目じゃない。物語を見ていいのは客だけよ?」
 楽しげな声で話しながら、彼女が静かに歩いてくる。
「あなたは何者だ」
「さあ、なにかしら? 当ててみせて?」
 ミラの数メートル先で足を止めると、彼女はからかうように言った。
「ルークをどこにやった?」
 向こうの言葉には取り合わず、厳しい声音で質問だけをぶつける。
「そうね。この島ではないどこか、かしら」
 真面目に答える気はないらしい。ルークを消した張本人に感情が昂ったミラは護身用に持ってきた剣を抜く。
「答えろ。そうでなければ、力づくで聞かせてもらう」
 ミラが威圧しても彼女は身じろぎすらしなかった。代わりにローブから手が出てきてそっとフードを外す。露わになった彼女の素顔にミラは無意識に目を奪われた。
 彼女はまさに美そのものだった。整ったではすまない、いき過ぎたとさえ言えるその顔は同じ女でさえも魅了し、目を奪ってしまうほどに。金でこの容姿になれるなら、貴族の女は喜んで全財産を投げだすことだろう。
「そう。じゃあ、やって見せて」
 白銀の髪が微風によって踊るなか、彼女はそう言って微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、意識を奪われていたミラの全身に鳥肌が走る。本能が真っ先に状況を把握し、遅れて頭がそれを理解する。
 これから始まるのは戦いではなく、一方的な狩り。剣を抜いているのはミラなのに、どちらが狩る側で、どちらが狩られるのか、はっきりとわかってしまった。
 見惚れる程に美しい笑顔に気圧され、無意識に一歩後ずさる。それに気付き、歯を噛みしめて睨み返す。気を抜けば震えそうになる手足に力を入れ、剣をしっかりと握ると、逃げろと命令する本能を無視して走った。
「ああああぁぁぁぁっ!」
 これは悪い夢だ。国を出る機会を失ってしまったことも、ルークが自分の手の届かない場所に行ってしまったことも全部夢。だから、目を覚ませばいつもの日常が来る。そこにはルークもいてくれる。
 目の前の彼女が消えれば悪夢から覚めると信じてミラは躊躇うことなく剣を振るう。だが、ミラの悪夢は覚めなかった。剣が肉を斬る感触はなく、そっと出された彼女の左手が糸でも摘まむかのようにミラの剣を受け止めていた。
「馬鹿な……」
 手加減はしていない。だから、素手で受け止めるなんてことをすれば、手を斬り飛ばしていたはずだ。だが、彼女の手には傷一つ付いていない。
 有り得ない光景にミラが目を見開いている隙に、白い手が刀身をつっと撫でていく。それだけで剣の柄から先が塵芥となって消えていった。
「あ……」
 柄から先が消滅し、武器としての意味をなさなくなった自分の剣。今のミラを支えていた唯一のものがあっさりと壊され、刃向かう気力を失ったミラは膝から崩れ落ちた。
「あいつとなら、どこでもやって行けると思ったんだ……」
 少しも思うようにならない現実に疲れたミラの口から本音が漏れる。張り詰めた心が緩み、溜まっていた想いが溢れ出す。
「私にとってこの国は牢獄みたいなものだった。いつも息苦しくて、ずっともがいていた。それでも、あいつといる時だけは息ができた。だから、一緒にこの国を出たかった。国を出て、二人で笑いながら歩いて行きたかった」
 目の前に立つ彼女はそれ以上ミラに手を出す気はないのか、静かに話を聞いていた。
「あいつとなら、外の世界でなら、私は生まれ変われる気がしたんだ……。だが、そんな奇跡は起きないらしい」
 手元の剣だったものを放り出すとミラは目の前の美しい顔を見上げた。
「殺してくれないか……? この国で息苦しいまま生きていたくない。あいつがいない場所など、私にはなんの意味もないんだ……」
 独白にも近い言葉を聞いた彼女は困ったように微笑んだ。
「私とあなたでは奇跡に対する考え方が違うみたいね。奇跡は起きるのを待つものではないわ。自分の手で起こしてこそ価値があるものよ」
 ミラは力なく笑った。そんなミラに手が差し出される。
「だから、望むのなら手を貸すわ」
「あなたは私になにを望めと言うんだ……? 今更、奇跡を望んだところで……」
 ルークはいない。その事実だけでどんな奇跡も意味のないものに思えた。
「あなたの想いは?」
「え……?」
「あなたの願いは?」
 優しい声音で語られる言葉がミラの胸を打つ。見上げた彼女は優しく微笑んでいた。
「思い描いた軌跡が現実になる。そんな奇跡をあなたは望んだのではないの?」
「それは……」
「諦めるにはまだ早いんじゃないかしら」
 差し出された手に藍色の光が浮かんだ。それは意思でもあるかのようにミラの前へと移動し、光を放つ。
「これは……」
「私の魔力を凝縮したものよ。これを使えば、あなたは魔物として生まれ変わることができるわ」
「……!」
 目の前の淡い光にとてもそんな効果があるとは思えないが、不思議と嘘は言ってない気がした。
「魔物になったら……魔物になっても私は私でいられるのか……? そうすることで私の願いが叶うと……?」
「これはあくまであなたの願いを叶えるための第一歩にすぎないわ。言ったように、奇跡を起こすのはあなた。私は少しその手助けをするだけよ」
「これが第一歩……」
 有り得るのだろうか。
 そんなミラの心情を見透かしたかのように、彼女は言った。
「誤解しないように言っておくわ。それは確かにあなたにとって奇跡を起こすための第一歩になるかもしれない。けれど、同時にそれはあなたの人生を狂わす呪いにもなり得る。だから、必要ないと思うのなら手を出すのはやめておきなさい」
「あくまで決めるのは私というわけか……」
「ええ。だから無理強いはしないわ。あなたなら、人のままでも望む未来を手に入れることができるかもしれない。その可能性を信じるなら、人のままで生きていたいと望むのなら、手を出すのはやめておくことね」
 彼女の言葉を聞いたミラは浮遊する光を包み込むように両手を伸ばした。凍えた手を温めようとするように、手を光に近づける。
「これの使い方は?」
 見上げると、深紅の瞳と目が合った。ミラの言葉に彼女はふっと優しげな笑みを浮かべる。
「例え人ではなくなっても、奇跡を望むのね?」
 釣られるようにミラも弱々しく微笑んだ。
「私はなにもかも捨てて国を出るつもりだった。今更、惜しむものなんてない。あいつに選ばれなかった時点で、私にはなにも残っていないのだからな……」
「いいえ、残っているわ。例え全てを捨てたつもりでも、誰かを想う気持ちはなくならない。それを捨てることなんてできはしない。だからあるでしょ? その胸の奥に、手放せない大切な想いが」
 彼女の指摘通りだった。港でしっかりと決別の言葉を言われたはずなのに、まだ胸の奥でルークへの想いがくすぶっている。どうしようもないくらいに好きなのだと訴え、辛くて、痛くて、苦しい。溢れてきた想いが感情を揺らす。嗚咽を抑えられず、涙が零れる。
「あなたは……なんでもわかるのだな……」
 彼女は女神のように優しく微笑んだ。
「さあ、始めましょ。両手で光を包んで、胸に抱きしめて。そして願いなさい。思い描いた軌跡が現実になる、そんな奇跡を」
 言われた通りに光を包み、胸へと抱きしめる。すっと、光が身体へと入っていく。少しだけ温かいそれは、すぐにミラの身体全体へと広がっていく。
「ぅ……!」
 身体を駆け巡る快感に声が漏れてしまう。内側から溶けていくような感覚に身体を折り、目を瞑って耐える。身体全体が熱を帯びていくなか、その言葉だけがはっきりと聞こえた。
「恐れず希望に手を伸ばしたあなたに、終わりの幸福を」
 なんとか彼女の顔を見ると、その美しい顔には微笑が浮かび、優しい眼差しでミラを見ていた。見守ってくれていると、すぐに実感する。
「そして、幸せであり続ける物語を」
 魔物でありながら女神のような彼女の言葉に感謝しつつ、ミラは小さく笑って意識を手放した。
15/07/21 21:51更新 / エンプティ
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