連載小説
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星と夜と掌と
 その地は乾いていた。世界でも指折りの広大無辺な土地を持つその大陸は、狂気に満ちた山脈がある極点を除けば、世界で最も大規模な砂漠を内包していた。そしてその砂漠を南から北の内海へ貫くように流れる大河があった。

かつてその大河を中心にして、この地には太陽神を崇め自らをその化身とする、強大な力を持った王達が連なる王朝があった。だが彼らは主神を奉じる者共に敗れ、今はその栄華と共に砂と風の下に消えた。

太陽神の恩寵と、その過酷な地で生きるための民達の知恵、主に魔術的なそれは戦いで失われ、その後にそこで人が栄える事を難しくした。侵略前は広大な版図を誇っていた王国は縮小し、現在は大河に寄り添った地でのみ人の文明圏を築くにとどまっていた。

大陸を縦断するその河の東側には人の王国が有り、河から西には砂の陰影が風以外の手に付かず広がっていた。そこは人外の地であった。かつて滅びた王家に対する畏れもあって死者の砂漠などと呼ばれ、禁忌の地として立ち入りを禁じられていた。

実際名うての墓泥棒や罪人などが、何度か河を渡りその地を踏み分け入っていったが、帰って来たものは誰一人としていなかったという。

だがそんな未踏の地に、一定の横幅と縦幅を維持したまま、二つの跡が河から続いていた。その先には背を丸め疲労を感じさせる挙動ではあったが、首から下をすっぽりとくるぶしまで覆われた、ベージュのワンピースとターバンに身を包んだ一人の男がいた。
年若い青年で高い鼻と意志を感じさせる瞳、整った眉と薄い髭を湛えた口元は堅く引き結ばれ、一歩、また一歩と、指と指の間に熱い砂が吹き出て、足の縁がすっぽりと砂に埋もれる感触を彼に伝えてくる。

男は河を越えてきた。その大河は広い所では数キロ、狭いところでも数百メートルの川幅を誇っており、たとえ緩やかな流れの河とはいえ、超えてくるのは容易ならざる事であった。そんな彼にとって地面は踏みしめるに頼りなく、まとわりつく砂粒さえ重く感じられた。
だが男は振り返らない。唯一の飲み水に背を向け、何の当てがあるのか男は只ひたすらに奥へ奥へと歩き続けていた。しかしないのだ。あてなど何処にも、男は逃亡者であり、追手から逃れる唯一の手段が、この魔境の奥地に踏み入る事しかない。ただそれだけなのであった。

いくつの砂丘を越えただろうか、自身の足跡は既に消えたか見えないだけなのか、確認する事すらできず。今引き返して果たして元の場所に戻れるかと問われれば、男としても甚だ疑わしい状況であった。だから進む只管に……
そうして一体どれだけ足を上げ下げしただろうか、太陽が高度をだいぶ下げてきたある時、男はとうとう崩れる砂に足を取られ、そのまま踏ん張る体力も無く転がっていった。三半規管をシェイクされ、目鼻や口には砂が飛び込んだ。

転がり終えた後、耳の奥が粘ついた熱でガンガン痛んだ。体を焼いているのが熱せられた砂によるものなのか、それとも溜まりつづけた疲労によるものなのか、もはや男には区別がつかなくなっていた。
悪態をつきつつ砂を勢いよく吐き出そうとしたが、張り付いた唇は少ししか開かず、砂も頬や顎を伝うようにしか出せなかった。まともな言葉をひり出す事は夢のまた夢だ。

男は暫く自身の鼓動に耳を澄ませていたが、それに被さる様に地鳴りが響いてくるのを聞いた。いや、聞くというより体で感じていた。
風も無いのに砂が動き、砂丘の下に居る男の体を少しずつ覆っていく。男は手をツッパリ何とか四つん這いになると周囲を見渡した。

砂が生き物の様に動いていた。盛り上がりが男をめがけ突進してくる。もはや地の鳴動は砂に耳をつけずともハッキリと聞こえ、その音は一瞬止んだのち砂中から音源となった巨大な物が飛び出した。
岩で作った節のある巨大な柱、それを見た男が最初にイメージしたものはそれだ。だがそれは屹立した後、ゆっくりとだが体を波打たせながらその場で回転を始める。

次第に先端部ついている縦三つに並んだ赤い宝玉の様なものが、彼の正面を捉えその内で瞬いた。目だ。巨大なそれがハッキリと彼を認識したのを男は自覚した。閉じたつぼみの様になっていた頭頂部が開いていく。
内部からはおよそ一生物とは思えぬほど長く吐き出される呼吸? と自分の五体なぞ容易く挽肉にしてしまえそうな、湾曲気味の槍の穂先の様な大きな牙が顔を出した。

(誰も帰って来ぬわけだ。)
それらを見て、彼は己が運命を察した。どちらがマシであったろう。あの河の向こうで大人しく殺されるのを待っていれば良かっただろうか? 水を飲みながら、肘や膝から先の感覚が無くなるまでかいて漕いで、今度は陽光に射られ砂で炙られながら、太ももがゴムの様に成るまで進み続けた。

その果てが巨大な芋虫の腹の中とは、笑えないが笑うしかない。男は軽く吹きだしつつ、自分にもまだまだ元気の一つくらいは残っているのだなと、自嘲気味に思った。残っていた元気で何が出来る。何をしたい? 男はこれから死ぬというのにまるで意に介さぬように、目の前のそれから目を切らぬようにしつつ、思案の淵へと自身を沈めた。

(逃げる? 不可能。 戦う? 論外。 交渉? 狂気の沙汰。)
あれやこれやと思いついては、気が進まぬか無理という結論を数度繰り返したのち、男はようやく収まりの良い行動を見つけた。この状況で自身に出来る数少ない、そして有意義な事。神を呪い天に唾を吐く事も考えた。気分的にはとても魅力的ではあったが、それは膝を屈する事と同義と彼は考え、馬鹿々々しくももう一つの選択肢を取った。天に屹立していた巨体が、ゆっくりとだが次第に速度を上げて彼の方に倒れ込んできた。

「ダレヵ……ォ……タス……ヶヨ。」
回らぬ舌で、掠れた喉で、吐き出したのは、漏れ出でたのは求める言葉。何処の誰とも知れぬ者への、精一杯の救いの求め。誰が知るだろう。ここまでの彼の怖れ、涙、心、切望の全ては今、死の坂を転がり落ち果てようとしていた。

「仰せのままに。」
だがそれは舞い降りた。男の眼前に、何処からか。男が見上げたそれは、二足で立つ大きな黄金虫を思わせた。だがよく見ると髪が有り、甲殻の隙間から褐色の肌が覗く。人がまるで虫の甲殻を着こんだが如きそれは、倒れ込んでくる岩の柱のようなそれに対し、軽く片足を砂から浮かせたように見えた。

その後の事を男は覚えていない。岩に鞭を打ったかの様な音、それを何倍にもしたような音と共に、木の根を掘り起こすように巨体が砂中からメリメリと一気に起き上がる。その勢いは落ちぬまま、その太く長い体が空中に完全に飛び出し、大きく弧を描きつつ、それは砂丘を幾つも跨いで消えていった。それだけの力をその小さな体から出した者、その後ろに居た男は一瞬で陥没する地面により、逆に後方に弾き飛ばされていた。

極度の衰弱で限界だった男は、その衝撃で一瞬に落ちる。まるでひっくり返されたメンコの様に投げ出された男、その体に再び砂がつく前に、大きな黄金虫はその落下地点に滑り込み、自分より一回りは大きな男の体を、まるで玉子か赤子の様に丁寧にキャッチした。だらりとのびた四肢が地面に擦らぬよう。虫は掲げる様に男を持ち上げていた。そしてそのまま膝をつき、首を垂れ、男を地につけぬまま出来うるギリギリの姿勢でもって、長く長く男に拝礼をした。
「お待ち致しておりました。」


※※※


 男は覚醒を自覚するも、直ちに目を開けたりはしない。ノンレム睡眠中の深く少ない呼吸を装いつつ、呼吸によって入ってくる空気、その匂いや音、肌の感覚で周囲の情報を収集する。
(ひんやり湿った空気、呼吸音が僅かだが反響している。洞窟か何かの中?)

そんな事を考えていると、硬い足音が響き近づいてくる。男はその足音から気絶前に現れた。大きな二足歩行の黄金虫を連想した。
(さらわれて、どこかへ寝かされている? 甘い香り……花の様な、香水?)

カツンカツンとヒールの様な音が響き、更には金具が擦れている様な音もする。そしてそれは男の枕元で停止した。覗かれているのを感じる。男は見られている気配には敏いところが有り、それが数分程立っても少しも動かぬ事を確認し、根負け気味に目を開けた。明るくは無いが、十分に周囲を見渡せる、ほの青い優しい光源が其処には有り、男は自身を見下ろしている虫の顔をおがむ事が出来た。
(虫ではなく人……女性の、いやこの背格好なら女子か。)

「御目覚めですか、王。」
覚醒を確認すると、その女性は膝をつき頭を下げる。

男はゆっくりと視線を巡らせ、相手の全身を視界にとらえた。褐色の肌に黒い髪、前髪は切り揃えていて後ろは結って団子状にしている。四肢は虫の様な鎧で覆われ、背中にはこれまた甲虫の前羽を思わせるデザインの装具を付けている。
(成程、背中から見たらデカい甲虫に見えるわけだ。しかし……これは。)

だが背中から見た印象、虫の甲殻の隙間から人肌が覗くという印象は、前から見ると180度覆された。肩から先と太腿から先と、体の少しは装具に覆われているが、それ以外はノーガードにも程がある格好であった。四肢と局部以外はほぼ裸身といっても過言ではない肌色率だ。前羽のような装具が全身をマントの様に隠していたための錯覚であった。
(色仕掛け……だとしたらもう少し、何というかその。)

目の前の女性はだいぶ小柄であった。子供といってもいい背格好で、腰つきや太腿はそれなりにボリュームが有り、性的に見る事は十分に叶うが、それでもそういう目的でいるとしたらだいぶマニアックな人選と言えた。
「痴女か。」

目覚めのあいさつを無視されたばかりか、失礼極まる男の第一声に対し少しだけ、上気した顔を上げ彼女は答える。
「女とみていただける事、光栄の至りにごさいます。」

予想外の反応を返され男は少し押し黙る。だが、先ほどの会話に聞き流せない言葉が有ったので、そちらの方を掘る事にした。
「王と言ったか。俺を。」
「はい。畏れながら、貴方様は我らが王で在らせられます。」
「何故俺だ?」
「助けよと、勅命を拝しました。」

話が繋がらない。まるで悪酔いしたものとでも会話しているようだ。そう男は感じた。だが害意や悪意の類は感じないし、彼女の言動や態度は本当に、彼を王として奉らんとするものだ。それが戯れによるものでない事だけはハッキリと判った。その男には。
「そういえば、礼がまだだったな。ありがとう、助けてくれて。」
「臣が王の求めに従うのは当然にて。」
「それだ。初対面の相手にいきなりそんな事を言われてもな。」
「ご納得いただけませんか?」
「私見だが、この状況で唯々諾々と、その言葉を受け入れる奴は王の器じゃない。」
「おおぉ?! 既に王の何たるかを御存じで在らせられる。素晴らしいです。王よ。」

男はデカイため息をついた。するとその女性はピタリと感心を止め、頭を更に下げて地に擦りつけた。
「申し訳ございません。」
「……なぜ、謝る。」
「失望させました。」
「そういうところなんだがな、まあいい、話が進まんから直線で聞く。」
「なんなりと。」
「別に俺で無くても良かったのだろう?」

男の言葉に打てば響くように動いていた口が、初めて言葉を探し言いよどむ。
「……それは。」
「もういい、判った。」
「お、お待ちを! 我らの事を聞いて頂きたく。」

会話を打ち切り、顔を背けて横寝に戻ろうとする男に対し、
女性は初めて出す上擦った声で哀願した。
「お気づきでしょうが、我らは人ではありません。」
「あの蹴りと、そんな恰好を見せられたらな。」
「ケプリと言います。魔王様が代替わりされる前は、スカラベ姿の魔物でした。」
「それでその恰好か。」
「はい、我らは以前の姿の頃より、統率者を頂き、群れで生きるものです。」
「だから王がいると? 誰でもいいから君達の上に君臨し命ずる王が。」
「仰せの通りにて。」
「他を当たれ、こんな辺鄙な所に人など早々来ぬだろうが、それは逆に言えば、今までだって空位のままずっとやってきたのだろう?」
「然り、ですが後生です。我らに取ってそれは息を吸って吐くだけと同義にて。」

縋る様に必死に額を擦り付ける。彼女を見て男は考える。
(ムキに成り過ぎだな。冷静に考えて悪い話じゃない。追われて行く当てもない身で随分とまあ。)

「すまないが期待には沿えない。」
「ソ……そんな。」
「だが雨風を凌げる場所は俺にとっても有り難い。客として滞在する。それでもいいなら。」

その言葉を聞いた時の女性の顔の落差、絶望から歓喜への変貌に男は息を飲む。砂漠に花が咲いたような、その顔をそんな風に思いつつ、落ち着かぬように前髪をグシャグシャと掻いた。
「勿論でございます。歓迎いたします。我ら一同心より。」


※※※


 簡素な石で築かれた室内、其処はガランとしており椅子もテーブルも家具の類が一切ない。其処には三人の女性が無造作に立ち額を突き合わせるようにして立っていた。一人は先ほど男が会話を交わしていた女性だ。
「王の御様子は?」
「現在、ご就寝中です。」
彼女に話しかけるのは、同じような背格好ながら、より引き締まった体で髪もショートヘア。少女というよりは、中性的でボーイッシュな容姿の女性だった。その口調もどこか堅さを感じさせる。

「料理に付いては、何か仰っていたかしら? 頑張って当世風に仕上げたつもりなのだけど。」
「味見役が我らのみでしたからね。だが憂いは杞憂でした。空腹もあったでしょうが完飲完食です。」
「まあ!」
もう一人、料理を作ったという彼女は、背は二人同様に低いのだがスタイルが対照的だ。胸を始め全身の肉づきが良く、後ろから見ても前羽から出るところの肉がはみ出て見えるくらいだ。顔の横で掌を合わせて、踵を上げ下げしているが、その度に毛先にくせのあるセミロングと一緒に、胸部がずれたタイミングで弾んでいる。

「食べっぷりはどうだったかしら? 何がお好きなのかしら。」
「ふむ、プルスやアカルは比較的普通でしたが、ガルムを使ったステーキは食いつきが違いました。あとラムシチューの味付けは優しくて好きだと褒めておられました。」
「当世風が特にお好きとは限らないのね。味付けもスパイシーなものと薄口の野菜出汁、どちらもお気にいられて。」
「味付けは兎も角、肉が好きという事だろう。男らしくて結構ではないか。」

三人は次の食事や今後の献立について、基本方針を話まとめると次の議題に移る。

「さて、メルト。」
「解ってます。イプト。回りくどいと言うのでしょう?」
「そうだ。サッサと皆で押しかけ、思う存分世話をして差し上げるべきであろう。此処と我々以外目に入らぬよう。快と悦で頭から足先まで満たして。」
メルトと呼ばれた最初の少女の物静かな応対に対し、切り込むようにイプトと呼ばれた中性的な少女は声を上げる。それに対しもう一人の豊満な少女は、柔らかな声色でその堅さを包むように口を挟んだ。

「まあまあイプトちゃん。まずは話を最後まで聞きましょう。」
「逸る気持ちは判ります。ですがそれはなりません。」
「何故だ? それが我ら、それが流儀。」
納得いかぬとイプトの下唇は更に上がる。

「王が命ぜられたからです。自分を客人として扱うように。」
「何と?! ただのもてなしは良いが、それ以上は……か。」
「ええ、あの方がどういうおつもりであれ、あの方は我らが王です。そのご命令を我々が無碍にするなど。」
「出来るわけないわねえ。」
頬に手を当てて嘆息する豊満少女は眉根を寄せて、イプトも憤懣を鼻から出して、二人はメルトに目をやる。

「その件も勿論問題なのですが、もう一つ問題が。」
「まだ何か?」
「王は全ての食事を平らげました。ですが非常に空腹であったにも拘らず、最初の一口にはとてもお時間を掛けられました。」
「……何が言いたい?」
訝しむイプトに対し、豊満な少女は自らの手で口をおさえて目を見開いた。そして悲し気に目を伏せる。

「フルラ?」
「疑われたのね。毒が入っていないかと。」
「恐らくは。」
イプトも流石にその考えには目を細める。

「先にすべきことがある。という事か。」
「ええ、遺憾とは思うけれど、暫くは私一人に任せて欲しいの。」
「任せる。我らには不向きな任務だ。」
「あたしもメルトちゃんを信じてるから異論はないわ。」
イプトは腕を組んで憮然として、フルラは首を傾げながら笑顔でそれぞれ応えた。


※※※


 抜ける様な雲一つない青空と、日の光を反射してオレンジにさえ見える砂の稜線。只ひたすら砂丘と刻まれた風紋しか見えぬその砂漠を、奇妙な二つの影が横断していた。
一つは酒や果物などでいっぱいにした。自分より大きな笊を頭に載せ、頼りない砂の坂を全くバランスを崩さず歩く小柄な影。
もう一つは更に奇天烈だ。直径が大の大人程もある真っ黒い球体が、彼女に付き従うように隣を移動している。下部は砂を貫通していてそれが移動した跡には二つの足跡がしっかりと残されていた。
 
「凄いな此れは。」
黒い球から半歩前を行くメルトに感嘆の声が上がる。
「大したものでは、この程度の事は我らなら誰でも出来ます。」
そんな事を言っているが、その口調の跳ねる様なアクセントにはハッキリと彼女の心持がにじみ出る。

その黒い球体の内側にはあの男がいた。その恰好は以前ここを彷徨っていた時のゆったりしたベージュのワンピースではなく。腰回りに豪奢な金糸の入った帯と、藍色の腰巻をつけてる以外はほぼ上半身裸といっていい格好であった。
「拷問の類かと思ったが、外出にこんな格好をといった言った時は。」
「滅相もございません。お……お客様に対しそのような。」
「いい加減名前で呼んでくれ。そっちなら口も滑らんだろ。」
「承知いたしました。ではシャハルール様と。」
二人が再び日差しと熱風に煽られながらこんなところを歩いている理由、それは少し前に遡る。

あれから数日が立っていた。憔悴していた男の肉体もメルトの甲斐甲斐しい世話によって今ではすっかり元に戻っていた。
用意された食事と部屋での休養の賜物だが、その間、自身の背丈が小さく見える様な大きなベッドでひたすら横になっていたシャハルールは、しかしてその退屈をメルトとの会話や彼女が持ってきてくれた書物で紛らわしていた。
その書物の殆どは、教団のある一派を国教とする彼の国ではお目に掛かれぬもので、元来本を読む事を好む彼に取って、上げ膳据え膳でゴロゴロしながら刺激的な本を読める今の環境は天国であった。
無論それらの本を頭から盲信したりもしなかったが、本当かよぉ、などと呆れ半分感心半分といった感じでとある本を読み進めるうち、彼の眉根はあるページを開いたところで寄せられた。
「ん……んんっ?!」
彼は急いで首から下げている何かの文字やらが掘られ、宝石などもあしらわれている美麗な金の笛をプピョッと吹いた。
すると戸口の脇にずっと控えていたのか、音もなくメルトが戸口に立っていた。

「御呼びでございますか?」
「これだ。これ、これは本当の事か?」
男は魔物娘図鑑Uと装丁に記された書物を開き、その内の一つのページを真剣に読んでいた。それを見てメルトはしてやったりと心の中でガッツポーズ。千夜一夜の様な鉄板エンタメ小説から、古代王朝の歴史などお堅いものに混ぜて、
こっそり彼女達について書かれた図鑑を読ませることで、警戒を解いてもらおうという彼女の企みが功を奏したに違いない。彼女はそう考えてあくまで慇懃に応える。

「勿論でございます。教団圏では焚書かよくて禁書扱いの書物ではありますが、其処に書かれている事は皆真実でございます。魔物と称させる者達が人を喰らい人と殺し合っていたのも今は昔、今や我らは貴方様方の僕にして妻でございます。」
「……そうか〜〜。」
それを聞いて軽く頭を抱えるシャハルールの反応が解せず。メルトは思わずそろりと近づき、彼が読んでいるページを覗き込んだ。大体の位置から彼女達ケプリについてのページを読んでいると思い込んでいたが、数ページずれたページをシャハルールは開いていた。そして其処には大きな文字でサンドウォームと書かれていた。
「…………ぁぁあっぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁああ。」
シャハルールの懊悩に思い至り、その横でメルトはそれ以上に深く頭を抱えた。

そして二人は謝罪の言葉とお詫びの品を携え、シャハルールが遭難した砂漠へと再び足を向けたのであった。
朽ちたピラミッドや王墓を流用した彼女達のねぐら、そこから日差しの元へと出る前にメルトはシャハルールを引き留める。
彼女は片足を上げ、片足立ちのまま上げた方の脚で宙に大きく円を描く、何度も何度も、最初はその奇妙な動作とバランス感覚に感心していたシャハルールだが、
次第に別のものに目を奪われる。足の軌跡が描く円の中央に何やら黒い靄の様なものが次第に集まっていく。それは握りこぶしほどの黒く朧げな球体だったが、見る見るうちに明度を下げ、反比例するように直径は増し、確かな漆黒の球体へと変貌を遂げる。
「これは?」
「周囲に漂う魔力を集め、実体化したものです。」
「脚をグルグルしただけでか。」
「我らは空気中の魔力を集め加工する術に長けておりますれば。」
「で、これは一体。」
「判りやすく申しますれば、日傘とサンダルと砂漠用の衣類一式を兼ねるものでございます。」

そうして半信半疑でシャハルールはその黒き球に恐る恐る指を振れる。何か少しひんやりと感じるがまるで霧に触れているかのようで水よりも抵抗を感じない。指先、手首、肘、肩、そこで止まるとシャハルールは思いっきり深呼吸し、目を閉じ息を止めて中に飛び込んだ。ゆっくりと息を吐き出し、息苦しさを感じぬと次は鼻で呼吸、特に匂いもしない。その段になって彼はそろそろと瞼を開ける。水の中で目を開ける様な違和感はない。外から見た漆黒の見た目と裏腹に、中から見るとその球は色こそついているが透けていた。サングラスをしたかのように薄暗いくらいで視覚に全く不快感は無い。
素通りしようと思えば出来て、中で固定しようと思考すると、まるで足から生えた影のようにピタリと彼を追走しその内に彼を留めておいてくれる。

そうして彼らは歩き出した。メルトが言ったようにその球体の内にいるシャハルールにとって炎天下の日差しもただの明るい光でしかなく、吹きすさぶ熱風も心地よい風にしか感じない。殊更彼を驚かせたのは、ジリジリと焼かれた砂の上を裸足て歩いているというのに、その熱すらほんのりと冷めた状態で彼の足裏には全く熱さが感じられない事だ。
メルトは荷物を持っているが、シャハルールよりしっかりとした足取りで、全く迷う気配を見せずズンズンと代り映えしない景色の中を突き進む。
「よく迷わないものだな。俺には景色の見分けが全くつかん。」
「砂漠の景色は風の機嫌しだいですので、我らもあまりあてにはいたしません。」
「それじゃあ?」
「我らは元々砂漠の生まれ故か、方角や位置に強いのです。人の目には見えづらいでしょうが、昼でも星は出ています。太陽と星があれば我々は本能的に位置と方角が判る生き物なのです。それに加え、大気中や砂中の魔力には場所ごとの特徴もございますので、両方をすり合わせれば領内で迷う事はまずございません。」
「便利だな。」
「はい。ですので行きたいところがございましたら、言って下さればお供いたします。迷わずどこへでもお連れいたします。」
「何処へでも……か。」
その時シャハルールが何を考えていたのか、メルトはある程度察しがついたようだったが、彼女はその事に触れる事はなかった。
そうして暫く無言のまま歩く二人、しかしメルトが突然その歩みを止めた。少し彼女を追い抜いた場所でシャハルールも振り返り様に止まる。
メルトは大笊を砂の上に降ろすと、片足を上げ地面をトントンと不規則に踏み始めた。
「寝てるかしてなければ、これで。」

シャハルールは何とはなしにメルトのステップを眺めていたが、足裏に違和感を感じ始める。
「お、おぉ?! 何か気持ちいいなこれ。」
地面が静かに振動していた。砂がサラサラと足の指の間からこぼれ落ちていなければ、気づけるかどうかというレベルで、
そして砂丘の稜線が突如、ラクダのこぶの様に膨れ上がるのが見え、次にそのこぶがこちらへ向けて移動してくるのが見えた。
「きたきた。」
シャハルールは一応とメルトの後ろに回り込む。メルトも大丈夫と言わんばかりに自ら一歩前へ進み出る。
そして砂こぶは彼らの前で止まり、地面がはっきりと鳴動を始める。シャハルールは懐かしささえ感じながら、巨大な音源がこぶを断ち割って屹立するのを見ていた。
相も変わらず節のある石柱のような雄々しさだ。現在その最上部に位置する口が開き、中から湿ったピンク色の肉塊がズルリと飛び出した。

「よばれてとびでてジャンジャジャーン♪ さばくのエンターテイナー、さすらいのギンユーシジンすいさん!」
それは図鑑で見たように人の女性を象っており、内容は兎も角、滑舌は流暢に人語を操り始める。しかも図鑑ではほぼ裸身であったが、その個体は髪を結いあげてまとめて頭にターバンを巻き、裸身にチョッキを羽織って、何処で仕入れてきたのか弦楽器に指を走らせていた。
「エロィ。」
豊満な女性の前が開き気味の裸チョッキという衣装に対し、シャハルールの心の声が思わず飛び出る。それに対して言われた当人より間に立っているメルトの方が激烈に反応する。首が回転して墜ちるのではという速度でシャハルールを振り返り、続いて目の前の自称吟遊詩人に対し穏やかならざる視線を送る。
「相変わらずですね、全く。」
とはいえ蹴とばした謝罪に訪れた身の上としては、文句も言いづらいらしく、メルトの舌も切れ味は鈍り気味だ。
ボンボバンボン♪ 何故か返事の代わりに楽器を鳴らし始めるさすらいのギンユーシジン。
「ここはさみしー、なんでさみしい? あたしはたびの ショーニンさんにききました。カンコーシゲンがないからだって。おはかとか、りっぱなたてものあるのにね。それじゃあナニがたりないか、あたしはいっぱいかんがえた。」
「それでそれですか。」
「そーだよ〜、りっぱなたてものきれーなさばく、しみじみゆうひにキラキラおほし、あとはしょくじにうたおどり。りょーりはムリそー、だからあたしは、ギンユーシジンになったのさ。」
ボボンボンボンボン♪ 

弾き語りというにも何か違う、みょうちきりんな言い回しの〆に適当に弾かれる弦の音が、吹き抜ける風と砂にしみいるように消えていく。
「それでどーした。あたしにごよー?」
そう問われて、漸くシャハルールとメルトは当初の目的を思い出す。
「数日前、ここで蹴飛ばされたのはあんたで間違いないか?」
人違いならぬ魔物違いだったら不味いと思い、シャハルールはそう彼女に問いかけた。
「ん〜〜、ああ、そうだそうだ。どこかでみたとおもったら。げんきそうでなによりさ。」
「助けようと、してくれたのだよな?」
「うんうん、フラフラあしおときいたのさ。いまにもパタンといきそうな。」
「勅命とはいえ、荒っぽくなり申し訳ありませんでした。」

メルトは深く頭を下げる。だがギンユーシジンはその長い体をその場でグルグル旋回させながら、手にしたギターを弾き始める。
ボンボバボバボ♪ その妙なダンスで元気アピールをしたサンドウォームは軽妙な笑顔を見せた。
「あたしはあたしはぜんぜんへーき、からだががんじょーあたしのとりえ。」
本当に何ともないようでシャハルールも胸をなでおろした。
「大事なくて何よりだ。それにしてもメルト。」
「何でしょうか?」
「何で蹴ったの?」
「それは……」
スゥーと歯と歯の間からゆっくり息を吸い込んだメルトは、顔を逸らして黙り込んだ。
シャハルールは少しずるいかなとも思ったが、彼女に質問した。
「言ってくれ。怒らないから。」
「待望の王の帰還、舞い上がりまして、取られてなるものかと群がる羽虫を払うべく。
あとはその、第一印象が大事だと思いまして、その……あの。」
「ええかっこしたかったの?」
「……然様にて。」
消え入りそうに頭を下げると、メルトはゴロンと堅そうな前羽を丸めて球状に変形した。
「おお! 丸い。」
正しく人間ダンゴムシとでも言うべき彼女の姿に、シャハルールの感心はむしろそっちに移っているようで、ペタペタと彼女の背中に当たる丸まった前羽を触り始める。
「こんなに変形してるのにしっかり堅いんだな。」
「おとめごころはせんさいさ、ゆるしてあげて ほしいのさ。」
「あんたが許してるなら、俺からは何も言う事は無い。」
シャハルールはそういうと、怒ってないぞとばかりに丸まったメルトの髪を、その手で軽くクシクシし始めた。
「よかったよかった なかなおり、おしえておしえて おなまえを。」
「シャハルールだ。あんたは?」
「シ……シュー……さはるーる?」
上手く発音できぬようで、ギンユーシジンは舌を噛み噛みしていたが、すまなそうに妥協した。
シャハルールは別段気を悪くしたようではなかったが、彼が撫でている団子からはフケイ! などという音が聞こえてくる。
髪をグシャグシャとやってその音を黙らせるシャハルール、団子の方はだいぶほぐれてきたようで、球体から土下座のような姿勢になって彼の掌を堪能しているようだった。

「まあそっちの発音でもかまわんさ。よくある。」
「すてきなすてきなサハルール、あたしはあたしはムジカだよ。」
「そうか、早速で何だがムジカ、その楽器は?」
「きたからうみこえやってきた。いこくのねいろ そのなはギータ。」
「ふむ、パッと見はウードやラバーブのお仲間に見えるが。」
「さわってみるかい? サハルール。」
体を折り曲げる形でぐっと近づいてくるムジカ。彼を一飲みに出来そうな巨大な口腔は迫力満点だが、それよりその中の彼女の本体を見て感心するサハルール。
「下腹から下もしっかりあるのな。」
「そっちもさわってみるかい? サハルール。と、いいたいとこだが ざんねんむねん。わたしはきこん おっとにぞっこん。」
内部の肉壁をくねらせて自分の肢体を少し隠すと、ムジカは手に持っている楽器をシャハルールに手渡した。
シャハルールは両手を空け楽器を受け取るが、地面に付していた団子の方は頭から手が離れると、それに引きずられる様に顔を砂からあげた。
だがそれには頓着せず、シャハルールは楽器のネックや箱、弦などに指を滑らしている。目の高さまで持ち上げ穴から内側をじっくり眺めたりもする。

「何かネックにギザギザが付いてるな。あと内側に文字が掘られてるが。」
「そこにげん、おさえてひくの やってみて。あとはルーンだ かぜまほー、おとをおおきくするらしい。」
ムジカの言葉に従い、シャハルールは弦を引いて音を色々鳴らしてみたり、耳元まで上げて音に耳を澄ましたりしている。、
ボン ボン ボボン♪ バン ババン バボン♪ そして納得がいったと首を上下させる。
「成程、こりゃ弾きやすい。自由度は下がるかもだが、少ない練習でちゃんと引けそうだ。それに材質はよく判らんが、この弦や張りでこんな澄んだ音が、良い楽器だと思う。」
そう言うが早いか、シャハルールは左右の指を軽やかに躍らせ始める。その瞬間、まるで暑い風が生まれそよぎ始めたようにメルトには感じられた。
ムジカの出す音が幼児のケンケンパなら、高音と低音の粒を連ならせ躍らせる。シャハルールのそれは、粗削りだが情熱的な若手見習いのベリーダンスだ。初めての楽器ゆえ時々音を外すが、それも次第に修正されていき音の硬さも取れ、伸びやかに熱く鳴り響く。
シャハルールのそれはうろ覚えの曲の一節を適当に連ねたもので、聴く者が聴けば滅茶苦茶だと嘲笑されてもおかしくない、そんな外れた代物ではあった。だが音楽のおの字も知らない二人に取って判る事もあった。
次第にレパートリーも切れたのか、弾く行為に飽きたのか、それとも指が疲れたか、シャハルールの演奏は唐突に終わりを告げた。彼は大きく息を吐いた。
其処には少しの熱と自身に対する自嘲の様なものが入り混じっていたが、でもそんなの関係ねえとばかりに、彼は突如そらに掻っ攫われた。

「スッゴーイ!!」
ムジカが大興奮と彼を抱えて天に体を伸ばし、その場で旋回する。さながら人で言えば子供を高い高いしてその場で回っているかのように。メルトは反応していたが、害意が無いと瞬時に判断して、今はムジカの外殻上部の横に垂直に立っている。彼女の虫の様な足の爪が、ムジカの体の僅かな凹凸や節の部分に引っかけられていて、それだけで彼女の体重や回転の遠心力を支えているらしい。
一方シャハルールは彼女の体から飛んでくる、大量のツバと大音量に瞼を閉じ耳をふさいでいた。滅茶苦茶な高さによる怖さを誤魔化す意味合いもある。
「……うるせぇ。」
その言葉を持ってメルトも抗議を上げる。片足を離してノックするようにムジカの体を踵でゴツゴツやる。ムジカもその抗議を受けて漸く察したらしく。回転を止め、体を折り曲げシャハルールを地面に降ろした。
「ごめんよめんご、かんにんさ。すてきなすてきなサハルール。これはあげるよあなたにね。」
ムジカはターバンをシュルりと外し、ギータと共にシャハルールの手に握らせた。

「さすらいのギンユーシジンは廃業か?」
「ちがうさちがうさセッションさ。わたしはうたを、あなたはきょくを。」
「セッションは知らんがまあ意味は判る。で、何て歌だ? 知ってればいいが、知らなきゃ楽譜がいるぞ?」
「ちょーゆーめー、さいだいヒットナンバーさ。さばくじゃみんな、しっている。」
「みんなのうたか。それで?」
「まんまるケプリ。」
得意満面のムジカだったが、シャハルールの口からは冷や水が。
「……知らん。」
「ご存じないのですか?!」
「お前が食いつくのか。」
その応えにむしろメルトが食い気味な反応を示す。その後、曲は短い繰り返しなので、メルトの鼻歌を頼りにシャハルールは弾き始め、その横で大虫と小虫は並んで合唱を始めた。その珍妙なトリオの様子、詳細は諸事情により割愛せねばならないのであった。


※※※


 その夜、シャハルールは何度目か判らぬ寝返りをうった。寝床が堅いわけではない。空気が寝苦しいわけでもない。疲れていないわけでもない。
だというのにシャハルールの体はどこか熱に浮かされたようで、そのまま床に就く事を承服しかねているようであった。はやる何かに押されるようにまたシャハルールは寝返りを打った。
彼は根負けしたように深くため息をつくと、首元から下げた笛を吹こうとしたが、それをやめて上体を起こすと、口から直にその名を呼んだ。
「メルト。」
「はい、此処に。」
彼が思った通り其処に居た。その事に不快感は無い。何時もの様に戸口の横に控えていたのであろう、少女はゆっくりと室内に入ってくる。
「寝付けなくて、少し歩きたい。」
「散歩ですね。判りました。」
彼のおおざっぱな要求に、彼女は何時もしっかりと応えてくれる。二人は寝室を出て暗すぎず明るすぎない、薄明るい少し広めの石造りの通路を歩いていく。
歩幅の大きな柔らかい足音と、歩幅の小さな堅い足音がそれぞれのリズムで反響している。そんな二人の沈黙を最初に破ったのはシャハルールの方だ。
「愉快な奴だったな。あいつ。」
「そうですね。ムジカ様は良くも悪くも裏表のない方ですが。」
「知っていたのか? いや、此処いらに住んで居るなら当然か。」
「言うよりも会う方が早い。そう考えました。」
「ハッ、確かに、あれを口で説明するのはな。」
他愛ない会話、大して意味の無いそれをゆるりと交わしながら、二人は建物の外壁へ通じる出口へといつの間にか辿りついていた。
その外には一面の星明り、満天が瞬いていた。シャハルールは圧倒されたようにそれをみつめ、暫し其処に立ち尽くしていた。
そこは少し広めの階段の踊り場のような石造りの通路が続いていたが、手摺りや仕切りの様なものは無く、足を滑らせればそれなりの高所から落下する。そういう危なさもある場所ではあったが、シャハルールの腕は隣の小さな影にしっかりと握られていてその心配もない。
「此処で少し涼みましょうか?」
「そうだな、腰を下ろさせて貰う。暫くあれを見ていたい。」
(星、星空か……家でもこれの下に居たはずなんだが、これは、こんなにも……。)
シャハルールは物思いに耽り、メルトはそれを静かに寄り添って見守る。二人の手は握られたまま、僅かな温もりを夜風の中交換し合っている
夜風と星と、手の温もり、ひんやりと沈むような石の床。それは彼にとってどれもありふれたものだった。そのはずだ。
だが彼はそれらを今までそのように意識した事が、あまりに無い事に気づいていた。それらの感覚を奇妙だと感じていたが、不快だとは思わなかった。
それについて何故を巡らしていると、次第に顎の下から染み出るような眠気が、彼の自我と平行を優しく奪っていく。彼の背骨はその事に警告を発したようだったが、
何時の間にか頬と首、肩に感じる温かな感触と、耳が拾うトクリ……トクリ……という優しいリズムにそれは押し流されていった。

「おやすみなさいませ、我が王。」
彼の頭が傾く前に、彼女の手は先回りするようにそれを受け止め、自身の膝にするりと誘導していた。その此処に来てから初めて聞く寝息を聞いて、彼女は肩を落としながら深呼吸した。
そしてその頭に手を伸ばし、少し逡巡して、彼のサラサラな黒髪を指の先の方ですくようにして触り始める。その表情は目尻や口元に皺が寄せられている。そして指や手、脚に感じる全てを噛み締めているようであった。
「やっと御就寝なされたか。」
「お疲れさま、メルトちゃん。」
何時の間にか音も無く、イプトとフルラが傍らに控えていた。いや、二人だけではない。暗さで正確な人数は判らないが、少なく見積もっても数百人以上の小柄な影がシャハルールとメルトを囲んでいる。
狭い通路のみならず、其処への出口の中や壁などにも、彼女達は彫像の様に制止している。さながら墳墓にて王と共に埋められる俑の様に微動だにしない。それらがまるでタケノコが生える様に、突如として其処彼処に現れていた。
フルラがその手に持っていた、黒い魔力球をシャハルールの頭部にフィットさせる。それは消音と遮光により、外界の刺激を遮断して快眠を促す為のものだ。
「皆もよく我慢してくれました。酷な命令を。」
「見くびり過ぎだ。」
「自分も私達の事もね。」
その二人の言葉に、後ろで控えている他のケプリ達の何人かも頷いている。そんな彼女達に目を細めるメルト。
「さあ、このような恰好で寝かせてしまっては、お客様がお風邪を召してしまわれます。皆で、寝室までお運び差し上げましょう。」
メルトは声を抑える必要が無くなり、通る声で集団に指令を下す。その内容に規律で出来ていたようなその集団も俄かに色めき立つ。
メルトが初めて出会った時の様に、意識の無いシャハルールを高々と持ち上げようとすると、絶妙の連携でイプトとフルラも肩から上や腰から下を担当し、スムーズにシャハルールの体を空中に送り出した。そしてその先にはまた別のケプリ達の手、手、手。
熟練のバケツリレーどころか、キャタピラよりも静かに滑らかにシャハルールの体は等速運動で送られていく。その滑らかさは彼が起きていても、移動している事を感じられるかどうかという鮮やかさで、寝室からの短い散歩コースをゆっくりと逆走していく。
そうして空中に作られた掌の回廊を通って、彼は寝室に彼にとっての心地よい寝姿のままに滑り込んだ。頭部を覆っていた黒い魔力の球は取り払われたが、彼の呼吸はまるで乱れていないようだった。

その寝顔を、皆が列を作り流れる様に愛おし気に覗き込んでは去っていく。その列は暫く途切れることなく続いていく、部屋を後にした彼女達は、それぞれ自分の持ち場に戻っていったが、戻った先では皆一様にほぼ同じ行為をしていた。
シャハルールの体が触れた指や掌、その感触を思い出し顔を上気させ、鼻で深く掌の匂いを嗅ぎ、あまつさえ指先を情熱的に舐めしゃぶり始める。それぞれの行為の順番や、それぞれの行為に掛ける時間の割合に差は有ったが、その後は決まって、その彼に触れた指で秘部を弄る事は共通していた。

唯一群れの中で違う行動をしていたのはメルトで、何時もの様に寝室の戸口に控えていた彼女は、先ほどシャハルールの頭部に使用したのと同様の薄い魔力の壁を作り出し、寝室の入口を覆うとその場にぺたりと座り込んだ。
彼女はシャハルールが彼女の膝枕に顔を埋めた時の感触を思い出し、内またで太腿を擦りつけては切なげに鼻から息をした。やがてそれだけでは我慢できなくなったのか、両足の間に魔力の渦を作り、今のシャハルールには目視できぬ速度で脚先や足の指を動かし始めた。
空中に黒いボーリング球程の魔力の球が、あっという間に繊細に成型されていく、その形状はシャハルールのそれを模したマネキンの頭部ようなものであった。
「王、我が王……アァッ!」
少女の様なあどけない顔はなりを潜め、彼女は呼気を荒くしながら、その黒いものの鼻先や唇で、押し付ける様に自分の真ん中を愛撫していく。
シャハルールの寝顔を見ながら、その頭部を模したもので、体の隅から隅までを彼女の望む順番と方法で、刺激し続けて戸口の床を濡らしていく。
「申し……わけ……ア……せん……よご……。」
彼女の脳内でその行為が叱責されているのか許されているのか、それを知る事は余人には出来ぬことであったが、どちらにせよその思索が彼女に取って、大層良きものであることだけは疑いが無かった。
19/08/15 22:03更新 / 430
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■作者メッセージ
前作の更新が3年前……うせやろ?!
何とか帰ってきました。うず高く積まれた書きたいの中から、
今一番を選んだ結果がコレ。
何処までを形に出来るかは判りませんが、今作だけはキッチリ完結させる所存。
テーマはハーレムもので面白く、三年という月日がたっても、
何も成長していない……と思われないよう頑張っていきたい

そしてKJKJ先生ごめんなさい。

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