読切小説
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オールドタイプ:五尺さま
 とある所に、A君という少年がいた。当時小学六年生になっていたA君はこの時、両親と一緒に母方の祖父母の元を訪れていた。夏休みも半ばを過ぎた頃のことである。
 祖父母は郊外の村に住んでいた。過疎が進行し、高齢者が居住者の大半を占めるようになった小村だ。古ぼけた和風家屋と田畑が無秩序に点在する、コンビニも娯楽施設もない寂びた場所である。
 しかしA君は、そんな何もない村を気に入っていた。村の持つ穏やかな空気と牧歌的な光景が、都会育ちのA君には新鮮に映ったのだ。
 だからA君は夏休みになるたびに、その不毛な村に行きたがった。両親はあんな田舎のどこがいいのかと苦笑しつつ、それでも毎年彼のリクエストを受け入れていた。
 
「おお、おお。よう来たな。なんも無いがゆっくりしてけや」

 そんなA君と彼の両親を、祖父母はいつも暖かく迎え入れた。今回も例年通り、車でやってきた三人を祖父母が玄関前で待ち構えていた。
 真っ先にA君が車から飛び降り、祖父母の元へ駆け寄って行く。遅れて母親が降り、最後に車を家の横に停めてから父親がやって来る。祖父母は家族三人揃ってから玄関の戸を開け、共に中へ入っていった。
 
「どうする? まずは風呂入るか? それとも飯にするか? どっちも準備できてるぞ」

 祖父が入れ歯を覗かせながら笑って尋ねる。祖母もニコニコ笑いながら、娘夫婦の反応を待った。どちらも神経質にならず、返答を催促することも無かった。
 都会では絶対に味わえない、弛緩しきった空気がその場に満ちていた。A君はそんな空気が大好きだった。
 
 
 
 
 翌日。A君は宿泊先の実家から離れたところにある田園地帯へ遊びに出かけていた。そこでは無駄に広い田んぼに水が敷かれ、その中で稲が青々と生い茂っていた。田畑の至る所に案山子が置かれ、害鳥対策にある程度の効果を発揮していた。
 
「お昼までには帰ってくるんだぞ」
「うん!」
 
 A君は実家に帰ると、決まってここへ足を伸ばしていた。頭に麦わら帽子を被り、慣れた足取りで「ここ」へ向かうのである。両親も祖父母もそれを知っており、その上で彼の好きにさせていた。
 何故いつもここに来るのか。この場の空気が好きだったからだ。稲の揺れる音。水の流れる音。農耕機械の立てる無機質な音。全てが瑞々しく、都会で煤けた彼の精神に癒しをもたらした。誰にも邪魔されず、自分の心を解き放てる。
 それ故に、彼は毎年ここへ来ていた。この辺りは彼にとって、自宅の庭も同然だった。
 
「……ん?」

 だからA君がそれを見つけたのは、決して偶然ではなかった。勝手知ったる庭の中に、何やら見慣れないものが混じっている。それに気づかない程、彼は鈍感ではなかった。
 それは眼前に映る田んぼの中、青い稲が生い茂るそのど真ん中に、ぼうっと突っ立っていた。
 縦長の影だ。黒く細長い影が、田んぼの中心に陣取っている。影はぴくりとも動かず、ただその場に立ち尽くしている。
 
「なんだあれ」
 
 それを見たA君は違和感を覚えた。あれは明らかに庭の内に属するものではない。
 そしてその「異物」の正体を見極めようと、目を凝らしてそれを注視した。うすぼんやりとした影にピントが合い、詳細な姿へと形を変えていく。
 
「……」

 それは人型をしていた。凹凸の少ない、小柄な体つきをした人型の何か。見た目的に女性だろうか。それが田んぼのど真ん中に立っていた。
 だらんと垂らした両手は羽毛に覆われ、膝から下の部分もまた青い羽毛に覆われていた。目は人間と同じ作りをしていたが、どこか上の空で、明後日の方を見ていた。ついでに言うと「それ」は露出の激しい格好をしており、それが一層A君の興味を引いた。
 彼も男だった。
 
「すごい……」
 
 もっと見たい。A君の欲望がどんどん大きくなる。その欲望のまま、目を皿のようにして眼前の「それ」を凝視する。
 鼻息が荒くなる。興奮と背徳で顔が真っ赤になる。
 
「ん?」

 しかしA君が生唾を飲み込んだ次の瞬間、その女性型の「何か」が彼に気づいた。素早く首を動かし、A君の方へ視線を向けた。
 A君に視線を逸らす余裕は無かった。食い入るように見つめるA君の視線と、謎の女性の視線がばっちり重なり合う。
 直後、女性は自分に熱視線を向ける少年の存在に気が付いた。そこでようやく、A君が「先方に自分の存在を知られた」ことに気づいた。
 
「あっ」
 
 反射的にA君が叫んだ。それが引き金になった。田んぼの真ん中に立つ「それ」が、とうとう全身で彼に向き直った。ここに来て「それ」は、完全にA君を射程に収めた。
 
「ぽっ?」
 
 A君はその場から動けなかった。異形の存在に正面から見つめられた彼は、恐怖のあまり足が石のように固まってしまっていた。「それ」はよく見ると可憐な容姿をした美少女だったが、今のA君にとってそれは「未知の怪物」でしかなかった。
 
「……」

 その怪物が一歩、前に踏み出す。ふさふさの右脚が濁った水の中からゆっくりと飛び出し、距離を取って再び水の中へ沈んでいく。怪物はにこやかに笑い、A君をじっと見つめたまま、彼との距離を詰め始めた。
 
「ぽ」
 
 「それ」が短く呟く。
 たった一語。それがA君の恐怖を一層煽った。
 
「ひっ」

 思わずA君が短い悲鳴を上げる。構わず「それ」がもう一歩前に進む。
 A君が一歩後ずさる。
 
「ぽ」
 
 「それ」の動きが止まる。A君も動きを止め、向こうの出方を伺う。
 
「ぽ、ポ……ゲホ、ゴホン……」
 
 唐突に「それ」が咳払いする。その後暫し、静寂が場を支配する。
 先に動いたのは「それ」だった。
 
「……ポーウ!」

 「それ」は突然口を開け、奇声を発しながらその場でポーズを取った。背を反らし、右足に重心を置き、左手を胸に当てて右手を僅かに曲げ水平に伸ばす。顔は右手の向く方へ向けられ、その表情は自信に満ちた凛々しいものだった。
 一瞬の動きだった。その動きは素早く、力強く、猛々しいものだった。
 
「ポォーウ!」

 「それ」の追撃は続いた。前のものより一オクターブ高い奇声を放ち、また別のポーズを取ってみせる。今度はその場で一回転した後仁王立ちになり、背筋を反らして胸を前に突き出す。胸筋を強調するように両腕を外向きに膨らませ、顔は右斜め上を向いたまま固定させる。
 その動き――ポーズの移行は全身の筋肉を総動員して生み出された、雄々しさと躍動感に満ちたものだった。動く度に水が跳ね、泥混じりの水滴が全身に飛び散るが、「それ」は全く気にする素振りを見せなかった。

「ハッ!」

 そうして二つ目の珍妙なポーズを取った後、「それ」は三度奇声を上げた。キレのある動作で顔を正面に戻し、A君をじっと見つめながら、彼女はそう叫んだ。
 そこにあったのは達成感と自信、愛らしさと雄々しさの混ざり合った、会心の笑みだった。しかしそれはA君にとって逆効果だった。
 
「ヒュウ! アオーウ!」
「う、うわああっ」

 再度見つめられた――ついでに叫ばれたことで、A君の生存本能にスイッチが入った。彼は目の前の脅威から逃れようと、踵を返して一目散に来た道を戻っていった。
 
「あれっ」
 
 背後から気の抜けた声が聞こえてくる。後ろを振り返ることなど出来なかった。A君はただひたすら、息の続く限り走り続けるだけだった。
 そしてその後姿を、田んぼに立つ異形はポーズを取ったまま、ただ見つめるだけだった。その顔はどこか残念そうだった。
 
 
 
 
 その日の夜も、祖父母は豪華な夕食をご馳走してくれた。無事帰って来れたA君は両親と一緒にそれを堪能したが、彼は終始――もっと言うと家に帰って来た頃からずっと――上の空だった。
 
「ねえ、聞きたいことあるんだけど」

 意を決したA君が祖父母に話しかけたのは、夕食が終わった後のことだった。なおこの時、祖母と母は後片付けのためキッチンにいた。居間にいたのは父と祖父とA君だけだった。彼らは三人揃ってテレビ番組を観ていた。他にすることが無かったからだ。
 他にすることが無かったので、すかさず父と祖父がA君に注目する。少し間を置いてから、A君が質問を再開する。
 
「今日さ、ちょっと変な人に会ったんだよね」
「変な人?」
「どんな奴だ?」

 父と祖父がそれぞれ問い返す。A君は請われるまま、自分が午後に田んぼで出会った「それ」のことを話して聞かせた。
 
「ほう、そんな奴が?」
「むう……」

 それを聞いた父と祖父の反応は百八十度異なっていた。父は興味深そうに目を輝かせ、祖父は忌々しげに眉間に皺を寄せた。
 A君はまず祖父の態度が気になった。A君は祖父の方を見ながら声をかけた。
 
「何かまずいことでもあるの?」
「いや、まずいというかな……」

 A君からの問いに祖父が渋る。祖父は何も言わず、そのまま隣にいた父を横目で見つめた。餅は餅屋に任せようという魂胆である。
 祖父の眼差しに気づいた父は、彼の意を汲むことにした。父がA君に声をかけ、そのまま説明を始める。
 
「パパがいつもどんな仕事をしてるか知ってるよな?」
「うん。まものむすめ、とかいう人たちに関係する仕事でしょ」
「そうだ。それで今日お前が会った怪物って言うのが、その魔物娘なんだよ」

 A君の父――国連魔界研究チームの一員であった彼の父は、自分の研究を通して得た魔物娘の知識を総動員した。
 
「それは多分、セイレーンだ」

 父が推測する。A君の話した外見的特徴から予測した結果である。それから父は、今から数年前に出現した魔物娘に関する詳しい情報も含めて、その「セイレーン」に関する話の一切をA君と祖父に話して聞かせた。
 
「要約すると、セイレーンというのは歌や踊りを得意とする魔物娘なんだ。お前の前でポーズを取りだしたのも、おそらくそれが理由だろう」
「本当にそんな人がいるんだ……!」

 父の話を聞いたA君は喜びを露わにした。彼も魔物娘の存在は知っていたが、実物を見るのはこれが初めてだった。
 日本政府は魔物娘の日本進入を許可していたが、都市部への進入までは許可していなかった。未知の存在をいきなり都心にぶち込んでは大混乱になる。それを避けるために魔物娘を郊外部から浸透させ、徐々に「慣らしていく」という、長期的計画による措置である。
 しかしそれによって、A君のように魔物娘の存在を認知していない都市部在住者もまだまだ多かった。
 
「しかし、もしそれが本当だとすると」
 
 その一方で、父の話を聞いた祖父はまだ渋面を崩さなかった。彼は世間知らずなA君と違い、魔物娘の危険性をよく知っていた。田舎にいる分、魔物娘と接触する機会も多いのだ。
 
「ちょっとまずいんじゃないのか」
「ええ」

 渋い顔で祖父が父に問う。父も表情を一瞬で神妙なものに変え、祖父の言葉に頷く。
 A君は一人、事情が呑み込めずにいた。そのA君に向かって、渋い顔の祖父が言葉を投げる。
 
「お前はな、そのセイレーンちゅう魔物娘にマークされたんだよ」
「マーク?」
「狙われてるってことだよ。向こうはお前のお嫁さんになりたいって思ってるんだ」
「へえ……」

 A君が祖父の言葉を理解するのに数秒かかった。
 
「えっ?」
 
 そして数秒後、全てを理解したA君は一瞬でその顔を茹蛸のように熱くした。
 そこにA君の父親が説明を挟む。
 
「おそらくお前の前でポーズを取ったのも、お前の気を引きたいからだろうな」
「それって、つまり?」
「お前と結婚したいってことだ。魔物娘は何というか、恋愛に貪欲なんだ。欲張りな人たちなんだよ」

 父の説明は淡々としていた。私情を交えない、客観的な調査内容から導き出された結論だけを口から吐きだした。
 しかしそれを聞いた祖父は、A君の父のように冷静ではいられなかった。彼は父の話を聞くにつけ、一層眉間の皺を深くした。
 
「――やっぱり駄目だ! まだ大人にもなってない内から結婚なんて! けしからん!」

 そして叫んだ。昔ながらの価値観を捨てられない祖父にとって、魔物娘の恋愛観は毒でしかなかった。一方で魔物娘を研究している父もまた、心情的にはA君を誘うセイレーンに抵抗を抱いていた。
 
「ですよね。こういうのはやっぱり、ちゃんと大人になってから真剣に考えた方がいいですよね」

 比較的近い位置にいるとは言っても、やはり父も旧人類の一人だった。どっちつかずの立場にいたA君は、納得しあうようにうんうん頷く父と祖父を見て怪訝な顔をした。
 
「そのセイレーンって人と会っちゃ駄目なの?」
「いかん。そういうことはまず二十歳になって、ちゃんと常識を覚えてからするべきだ。小学生のうちから恋愛なんて、ませたことするんじゃない」

 祖父が即座に言い返す。彼は石頭だった。父も祖父と同じ思考回路をしていた。
 
「いいか、物事には順序というものがあるんだ。お前はまだ小学生で、まだ結婚とかを考える頃合いじゃないんだ。そういうのはまだ早い」
「でも」
「駄目だぞ! セイレーンと会っちゃいかん! 今日はもう家から出るな!」

 父と祖父は頑なだった。二人はそれからA君そっちのけで、「A君の閉じ込め」に関して話し合いを始めた。父曰く、セイレーンは今日の夜に「夜這い」をかけに来るだろうとのことであった。
 それだけは何としても避けねばならない。それが父と祖父の共通見解だった。
 
「夜這いって何?」
「お前にはまだ早い」

 父と祖父は、A君の疑問に答えようとしなかった。小学生が知るにはまだ早いと判断したからである。途中から片づけを終えた母と祖母もそこに合流したが、彼女達もA君からの同じ質問に答えることは無かった。
 
「だめだめ、あんたにはまだ早いわよ」
「そういう難しいことは大人になってから覚えましょう。ね?」

 あまつさえ、母と祖母も父と祖父の意見に賛同した。結局この後は四人がかりで家を封鎖することになり、セイレーンをA君に近づけないことが確定した。家の事情で他所様に迷惑をかけるわけにもいかないので、自分達だけで内密に行うことも決定した。
 A君は蚊帳の外だった。
 
 
 
 
 そのまま夜になった。一家はA君だけを和室の一つに隔離して寝かしつけ、全員で寝ずの番をすることになった。またその際、A君には「何があっても戸を開けてはいけない」と厳命してあった。
 しかし当のA君は、全く眠ることが出来なかった。入浴を終えてパジャマに着替え、毛布を被って布団に入ったが、全く眠れる気がしない。午後九時に寝ろと言われて寝られるわけがない。今のような異常な状況下であればなおさらである。
 
「……」

 布団の中に入ったまま、無言で天井を注視する。暇だ。何もすることが無い。退屈で仕方ない。しかし親から「出るな」と言われている以上、下手に出る訳にもいかない。唯一の出入口である戸の向こうで父が見張りをしているから、出られないのだ。
 なおこの時、A君の心の中に恐怖の感情は全く無かった。むしろ困惑しか無かった。セイレーンと言う存在は本当に恐ろしい怪物なのだろうか? 誰も教えてくれなかった。
 
「セイレーンに魅入られたら、もう二度と元の生活には戻れんのだ。それだけ覚えていればいいんだ」
 
 本当のことが知りたかった。A君の頭の中は好奇心でいっぱいだった。
 
「はあ……」

 だがどれだけ望んでも、今ここに彼の願望を叶えてくれる者はいない。ただ徒に時間を潰す以外に出来ることは無い。観念したようにA君ため息をつき、寝返りを打つ。視界が移り変わり、目の前に戸が見える。
 件の戸。唯一の出入口だ。ここと他の部屋を行き来するには、この戸を開けて外に出る以外に方法は無い。
 その戸が、彼の目の前でゆっくりと開き始めた。
 
「え」

 無意識のうちA君が言葉を漏らす。朝が来るまで絶対に戸を開けることは無いと、親たちは事前にA君にそう告げていたからだ。
 その戸が外から開き始めている。誰がそんなことをしているのか? A君が本格的にそれを疑い出す前に、戸が勢いよく開け放たれた。
 
「ひっ」

 思い出したように、A君の心に恐怖心が芽生える。布団の中にくるまったまま、小さく悲鳴を上げる。開けた戸の向こうで死んだように寝息を立てる父の姿を認めたことで、彼の恐怖が更に増幅する。
 ついでに言うとこの時、この和室と繋がる廊下の方から、何やら甘い匂いが漂い始めていた。A君がそれに気づくことはなかった。彼の意識はこの時、戸を開けて眼前に姿を現した存在に向けられていた。
 
「うそ……」

 呆然とA君が呟く。まさか、本当に来るなんて。
 
「ぽっ」

 セイレーン。あの時田んぼで遭遇した、変なポーズ取って来る奴。
 それが今、目の前で仁王立ちしていた。
 
「ぽっ、ぽーう……うーん、マンネリか……」

 そのセイレーンが、寝転がるA君の前で唸り始める。翼手を腰に当て、何か考え込んでいるようであった。
 何をそんなに悩んでいるのか。A君には分からなかった。セイレーンもそれをA君に明かすことはせず、ただ「ぽー、ぽっ? ぽー」と不思議な言葉を呟くだけだった。A君もリアクションせず、それを黙って見守った。
 恐怖はあった。しかしそれ以上に好奇心があった。逃げるという選択肢は、A君の心の中から消えていた。
 何をするつもりなのか見てみたい。それはある意味、無謀な好奇心だった。
 
「あっ!」

 と、その時。何か思いついたようにセイレーンが吠える。顔を輝かせ、喉に詰まっていた魚の骨が取れたかのように安堵混じりの笑みを浮かべる。
 期待が膨らむ。A君が生唾を飲み込む。その彼の目の前で、セイレーンが全身を動かす。
 
「これならどうだあ……?」
 
 確かめるように呟き、軽く舌なめずり。その後両方の翼手で何かを構えるポーズを取り、内股になって尻を後ろに突き出し、前に屈みこむ。そのまま両目を閉じ、口を開けて力強く叫ぶ。
 
「アーオ!」

 渾身のモノマネ。セイレーンはやり切ったような、晴れ晴れとした雰囲気を周囲に放っていた。
 当のA君はポカンとしていた。セイレーンが何をしているのか、全然分からなかった。
 痛ましい沈黙が和室に流れる。額から脂汗が流れ落ちる。セイレーンは焦った。
 
「……アァーオ!」

 しかし他にネタを用意していなかった。ゴリ押すしかなかった。同じポーズのまま、前より強く叫ぶ。
 だがセイレーンのネタはA君には届かなかった。
 
「なんですかそれ」

 恐る恐るA君が尋ねる。事ここに至って、セイレーンは自分のアプローチが全く的外れなものであったことに気づいた。
 小学六年生にマーク・ボランの形態模写は通用しなかった。当たり前だ。
 
 
 
 
 「魔物娘」と呼ばれる存在がこちらの人間の世界に介入する理由は、大きく分けて二つあるとされている。一つは知的好奇心を満たすため。そしてもう一つは結婚相手を探すためである。
 例のセイレーンが「こちら側」に来たのは後者の理由からだった。そのハーピー属の魔物娘は愛に飢えていた。
 しかしいざ「こちら側」に来ようとしたところで、一つ誤算が起きた。自分達のいる世界から専用の門を通って彼女が降り立った場所は、内陸部にある小さな村だったのだ。海辺でもなければ、妙齢の男もいない。他所に行こうにも道がわからない。そもそも地図すら売られていない。
 全てが村の中で完結していた。老人たちの作る内向きの社会の中にあって、セイレーンは完全に孤立していた。聡い魔物娘はやがてその事実に気づき、そして容易にここから出られないことも同時に悟った。
 そんな状況下で、セイレーンはA君と出会った。彼女にとって僥倖だったのは、A君が自分の好みにどストライクなことだった。
 考えるより前に体が動いた。歌と踊りを好む彼女は、村の中でかき集めた「こちら側」の音楽の知識を総動員し、A君にアプローチを仕掛けた。音楽が嫌いな者はいない、そう考えての行動だった。
 その思考自体は間違いではなかった。
 
 
 
 
 A君はその後両親と一緒に、何事もなく自宅へ帰っていった。監禁した翌朝、両親と祖父母は五体満足なA君の姿を見て、何も起きなかったと思い安堵した。
 誰も何も覚えていなかった。全てを知っていたA君はそれを指摘しなかった。彼はセイレーンとの約束を頑なに守った。
 
「ここまで来ればもう大丈夫だろう」
「あの魔物もここまで追っては来ないでしょうから、もう安全よね」

 自宅に帰って来た父と母は、揃って安心しきっていた。あの村から離れた以上、もう例の魔物娘に気を揉む必要はない。彼らは祖父母と同じ心境を抱いていた。
 
「あいつはこの辺の道がわからねえから、村の外には絶対に出ねえんだ。出れねえって言った方がいいか。とにかく夜を凌いだから、後はここから離れれば、もう大丈夫なはずだ」

 それが祖父の見解だった。しかし「村の外に出られない」という部分は、別に祖父が立てた予測ではなかった。以前挨拶回りに来たセイレーンからそう言われたことを思い出し、それをそのまま話して聞かせただけだった。
 セイレーンは実際フレンドリーだった。村の人達と積極的に交流し、触れ合おうとしていた。しかし祖父母は彼女への親愛よりもA君の身の安全を取った。
 
「それじゃあ俺達はちょっと出かけてくるから、留守番頼んだぞ」

 とにかく、魔物娘の脅威は去った。両親はそう判断していた。そして帰宅した次の日には、魔物娘のことをすっかり忘れていた。翌日、彼らはA君にそう告げると、軽い足取りで家の外へと出ていった。A君一人だけでも留守番は出来るし、危険も無いだろうと彼らは判断した。
 実際、A君の身に危険は降りかからなかった。
 
「……行ったよ」

 出かける両親を玄関で見送った後、A君はそそくさとリビングに戻り、ベランダに向かってそう言った。直後、何かが上からベランダに降ってきた。そして前触れなく降って来た「それ」は予め鍵の開けられていた窓を開け、悠々と室内に進入してきた。
 
「本当に? もう入っても大丈夫?」

 不安そうに呟きながら入って来たのは、例のセイレーンであった。田んぼと実家で奇怪なポーズを取っていた女性である。
 その人外の姿をした女性を「大丈夫だよ」と言って迎え入れながら、A君が続けて声をかける。
 
「もう変なポーズしないんだ」
「しないってば。あの時はあれ以外知らなかったんだって」
「でも結構楽しかったでしょ」
「恥ずかしいから思い出させないでよお! だってあそこで聞き込みしたら、今流行ってるのはあれだって聞いたんだもん! 何も知らない私に適当吹き込んだ村の連中が悪いんだもん!」

 セイレーンにとって不幸だったのは、飛ばされた先が「老人ばかりの小村」であったことだった。そこは何もかもが停滞した、現代から取り残された陸の孤島であった。
 しかしロクに情報収集もせずにやってきたセイレーンは、そこで得られた情報を鵜呑みにしてしまった。それが現代の若者にも通用するものであると確信してしまったのである。
 それが大きな間違いだった。その村ではまだ現役であったかもしれないが、一般的にはマイケルジャクソンは過去の人間であった。
 
「ねえ、もう一回やってよ。あのポーとか言う奴」
「本当に見たいの? からかってる訳じゃないよね?」
「からかってないよ。本当に見たいんだって」

 しかしその時代遅れのパフォーマンスは、A君の目には却って新鮮に映った。それがウケると思ってやった行為が、本当に受けたのだ。
 結果としてA君はセイレーンに懐いた。怪我の功名と言うべきか。そして両親や祖父母にとって想定外だったのは、このセイレーンがどこまでも執念深いことだった。
 彼女はA君に会いたいがために平然と村を飛び出し、誰にも気取られずにA君の自宅まで追ってきたのである。この点はむしろ、魔物娘の執念深さを甘く見ていた親側の不手際と言うべきである。
 閑話休題。
 
「じゃあせっかくだから、一緒にやってみようか」
「えー?」
「そこ! 残念そうな顔しない! 一緒にやれば絶対楽しいから!」
「そんなこと言われてもなー……」

 必死に弁解するセイレーンに、A君が悪戯っぽく笑みを浮かべながら怪訝な声を上げる。彼は実家で遭遇して以来、セイレーンのことを好ましく思っていた。両親や祖父母が散々してきた警告は、綺麗さっぱり頭の中から消え失せていた。
 彼は既に魔物娘に魅了されていた。異界の味を知った彼は、もう普通の生活には戻れなかった。
 
「ほらほら! 隣に立って! 私の指示通りに動いてね!」
「しょうがないなあ……」

 それでも構わない。むしろそれでいい。A君は本気でそう思っていた。彼は心の底からセイレーンを好ましく思っていた。
 この魔物娘と一緒にいたい。そんなことさえ思っていた。
 
「じゃあいくよ、せーの……ポーウ!」
「ぽう!」

 隣の彼女と同じポーズを取りながら、底なし沼に嵌ったA君は一人そう思うのだった。
17/12/06 19:54更新 / 黒尻尾

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