連載小説
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日誌
『日誌 第1253日目
1251日目の原料を四分割し、二つを1番と2番の鍋で濃縮、残る二つを5番と8番の抽出器で抽出。作業終了は明日の昼ごろ。
また、昨日仕込んだ1番から4番までの抽出器が作業完了。それぞれ試験してみたが、結果はいずれも三点から四点程度。

今日は東の貧民街を下見も兼ねて散策していたが、ある集合住宅の前で数人の衛兵を見かけた。
野次馬の様子からすると、どうや異臭のする一室に管理人が踏み込んで、首つり死体を見つけたらしい。
その部屋に住んでいたのは老人に足を踏み込みつつある壮年の男で、死体の特徴もその男の物のようだ。
老人が自殺する街は遠からず滅ぶという。くだらない。
このダーツェニカはすでに滅んでいるのだ。
大陸中の金品の情報が集められ、ダーツェニカを通ることなく街道を通じて方々へ送り出されていく。魚や野菜と言った日持ちのしない品物も、商人同士の約束と金のやり取りにより、数年先まで売買契約が成立している。
商都ダーツェニカと呼ばれたこの街を支えるのは、品物の存在しない商取引である。
二年後の麦を売りさばいて財を成した男が、去年売った麦を用意することができず破滅する。
持つもの同士が己の欲しい物を求めるという単純な商取引はもはやこの街には存在しない。あるのは未来の商品と過去の約束、そして現在の金だけだ。
現在の状況を整理するだけでも一苦労だというのに、未来の悪霊と過去の亡霊まで相手に出来る者がいるだろうか?
いない。居たとしても、それは相手にしていると思い込んでいる愚か者か、狂ってしまった者だろう。
事実、この街には狂人が溢れている。狂わなければ、生きていけないのだ。
そして今日もまた、狂いきることのできなかった男が一人、己の手で死んだ。
男の名は、ケイル・O・ブリビオンと言ったが、担ぎ出される男は、私にとってはドクターバッドヘッドの名の方が分かりやすかった。
今日書くべきことはたった一言だ。世界一邪悪な頭脳の持ち主が死んだ』


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―


有名人であるかそうでないかの境界は、己の名を知る人物の数が、自分の知ってる人間より多いかどうかというところにあるという。
イコンにとっては、イコンの名を知るのは彼の住処の近辺の住人ぐらいのものだ。
両親を一とする、既に死別した親族や部族の者たちも加えれば、彼の名を知るものの数は増えるが、同時に彼が名前を知っている人間も増えてしまう。
だが、彼につけられたもう一つの名を合わせて考えれば、イコンはこのダーツェニカに置いては有名人であった。
火災人パイロの名を知らぬ者は、ダーツェニカにはほとんどいないからだ。
「はぁ、はぁ…」
ダーツェニカに広がる路地裏の一角に、イコンは荒く息をつきつつ、壁にもたれかかるようにしながら立っていた。
どこかで奉公している少年風の衣服をまとっており、先ほどまで着ていた砂漠の民の衣装は傍らの肩掛け鞄の中にしまっている。
傍目には、お使い仕事で駆けまわって息が上がり、少々休憩しているだけにしか見えないだろう。
だが、そうではないことは彼自身が理解していた。
彼の視線の先、建物と建物の合間にのぞく青空に、黒い煙が上がっていた。
少し鼻に意識を向ければ、何かが焼ける臭いも感じられるだろう。
それもそのはず、ここからほど近い建物が燃えているのだ。
イコンが少量の油を撒き、故郷の砂漠から彼に付き従っている炎の精霊に発火させたのだ。
小さな火はイコンの計算通り燃え広がり、建物の一階を炎で包囲してから、徐々に二階より上を炙り始めた。
ある程度延焼するのを見届けると、イコンはその場を離れてこの路地裏に引っ込み、立ち上る煙を見ていた。
パイロとして幾度となく放火を繰り返し、火が建物を舐めつくしついには崩す様を見届けた彼にとって、最初の燃え広がりと煙さえ見えれば、今建物がどれほど燃えているかを知るのはたやすいことだった。
同時に、建物の中で炎に包まれ、悶える人々の姿も彼の脳裏に浮かび上がっていた。
「はぁはぁ…」
イコンの身体を、炎の中にいる人々が味わっているであろう悦びが、舐める。
熱く、一切の硬さを持たない炎が、身体をくすぐり肌を焦がし、直に肉を愛撫する。
文字通り身を焼くような快感が、彼の脳裏にいる人々を身悶えさせ、その場に崩れ落ちさせていく。
拝火教徒にとって炎は全てだ。炎によって土と風と雨雲が生まれ、土と風と雨から木が生え、木から炎が生じる。
全ての始まりにしてすべてが最後に行くつくば署に存在する炎に身を焼かれることこそ、巨大な輪廻の車輪に身を投じることと同じなのだ。
拝火教徒であるイコンは、その輪廻の輪に加わるのは最期を迎えてからだと定められていた。
だが、イコンの炎の輪廻に対する欲求は抑えがたく、こうして他者にその悦びを体験させて発散しなければ、彼は狂いそうであった。
「はぁはぁはぁ…!」
潤んだ瞳で煙を眺めたまま、彼は腰に下げているランタンに指を伸ばした。
蓋を開くと、小さく燃えていた炎が溢れ出し、彼の前で人の形を成した。
燃える頭髪に、踊り子の薄衣のように炎を纏った美女。炎の精霊イグニスだ。
彼女は腰をかがめると、興奮した様子の少年と顔の高さを合わせ、そっと唇を重ねた。
柔らかく、熱い唇が触れ合い、少年の身体が小さく跳ねる。
彼女の熱のこもった吐息がイコンの顔を撫で、炎を前にしているような錯覚を彼にもたらした。
いや、炎の精霊であるイグニスを前にしているのだ。その錯覚は正しいともいえる。
自身より大きな、人の形をした炎に唇を焼かれながら、彼はいつか加わるであろう炎の輪廻の悦びをわずかながら味わっていた。
拝火教徒には、最期の瞬間にしか許されていない快感をもう少しでも味わおうと、イコンの両手がイグニスの背中へ回される。
魔力によって形を成した炎は、彼の掌を柔らかな肌で持って受け止めた。
すべすべとし、微かな汗ばみを孕んだ肌の奥で、炎が燃えていた。
掌を皮一枚隔てて炙る炎に、イコンの快感と興奮は強まっていく。
もっとイグニスを、もっと炎を味わいたい。もっと焼かれたい。身も心も、この美しく艶やかな炎に焼き尽くされてしまいたい。
「んん…」
少年は唇をふさがれたまま小さく呻くと、炎に抱かれた際に邪魔になるであろう衣服を取り除くべく、イグニスの背中から自身のシャツのボタンに指を移していた。
「パイロ」
不意に横からかけられた言葉に、少年は弾かれたようにイグニスと離れた。
越えの下方向に向き直りつつ、イグニスが両手の中に火の玉を作り出す。
だが、投げつけそうになった火の玉を、イコンはどうにかその直前で踏みとどまった。
「なんだ…獏仮面か」
イコンの視線の先、路地の真ん中にいつの間にか立っていたのは、鼻が細い馬のような面を付けた、コートとフードの人物だった。
「もう、驚いたじゃないか」
「それはすまなかったな」
大して申し訳のなさそうな様子で、彼は軽く応じた。
「それで、何?」
騒動の手伝いか何かの誘いに来たのだろうか、と考えながら、イコンは獏仮面の目的について問いかけた。
「ああ、少々気になることがあって、話を聞きに来た」
「へえ?珍しいね」
イコンにとって見れば、獏仮面は常に話を持ってきて、何かを教えてくれる人物だった。
そんな彼が、わざわざ話を聞きに来たのだ。もしかしたら、パイロに建物の延焼について聞きに来たのかもしれない。
獏仮面が物を聞きに来た、という珍しい状況と、単純に人を何かを教えることに対するわくわくに頬をほころばせるイコンに、獏仮面は彼が予想もしていなかった一言を口にした。
「バッドヘッドが死んだ。最近の彼の動きについて、何か知らないか?」
「……へ?」
ドクターバッドヘッドが、死んだ。
その一文が意識に染み込むまで、イコンは数秒の時を要し、さらに返答することすらできなかった。
「それ…本当…?」
「ああ。私が集合住宅から担ぎ出される彼を見た。そのあとで遺体安置所に入り込み、顔を確認した」
ようやくイコンの絞り出した問いかけに、獏仮面はバッドヘッドが本人だったことを保証した。
「バッドヘッドが…何で…?」
「私もそれが知りたい。検死の結果では首つりによる自殺とされていたが、彼が自殺すると思うか?」
「……」
イコンは黙して、バッドヘッドのことを想起した。
世界一邪悪な頭脳の持ち主を自称し、去年のダーツェニカ全体を舞台とした大魔術儀式事件を皮切りに、パイロや獏仮面と言った怪人たちとともにいくつもの事件を引き起こした怪人。
彼の活動によって多くの人々が影響を受け、数多くの新たな怪人と、それらを取り締まろうとする自警団がいくつも発生した。
だがバッドヘッドは、その連中を相手にすることなく、ただバードマンを相手に事件を起こし続けた。
パイロも、バッドヘッドの計画には幾度か協力し、見返りとして油脂の運搬情報や建物の設計図、あるいは綿密な放火計画を受け取ったことがある。
彼の計画した事件はいずれも、自身の退路をいくつも確保した上で、相手に可能な限り損害を与え騒ぎを起こすことを目的としていた。
その傾向は事件だけにとどまらず、彼の生活にも及んでいた。衛兵やバードマンに彼の所在が漏れて襲撃を受けた際も、退却しつつ衛兵たちに損害を与えられるよう、住処や日々の行動パターンも調整しているのだ。
そんな彼が、どのような理由があったとしても、自殺するだろうか?
「…しないと思う…」
胸中と獏仮面の問いに、彼はぼそりと答えた。
「私もそう思う。だからこうして調べているのだ」
面に取り付けられた赤いレンズ越しにイコンを見ながら、彼は続けた。
「最近バッドヘッドの様子で、何か変わったことはなかったか?」
「……いや、特に何も…」
イコンは力なく頭を振った。
「そうか…協力感謝する」
「力になれなくてごめん…代わりに何かできることはあるかな?」
「そうだな…少し調べて欲しいことがある。バッドヘッドの住処近辺で発生した、新興怪人による事件についてだ」
コートの懐からメモ帳を取り出すと、彼は一枚に何かを書きつけ、破ってイコンに差し出した。
「まずないとは思うが、連中が売名のためにバッドヘッドに手を掛けた可能性がある」
ダーツェニカを舞台にした大魔術儀式事件以降に、雨後の竹の子のように発生した何人もの怪人たちが犯人であることを、獏仮面は口にした。
「売名目的ならば、そのうち成果を喧伝する噂話も出てくるはずだ。住処近辺の事件と併せて、噂話も調べてくれ」
「分かった」
差し出されたメモを受け取りながら、イコンは頷く。
「それで、この後はどうするの?」
「私はもう少しバッドヘッド本人について調査する」
獏仮面はそう応えると、踵を返して歩き出して行った。


『日誌 第1254日目
濃縮作業が終わったため、1番と2番を試験。1番は硬度が7強で、2番は8だった。
硬すぎるため実用には不向き。しかし高温環境下では硬度が4程度になるため、高速馬車の車軸に適すると思われる。
5番と8番の抽出作業は順調。明日試験の予定。

今日はパイロに協力を申請し、ソードブレイカーとオケアノシアの探索を行った。
パイロは快く私の依頼を請け、調査を開始する模様。
ケイル・O・ブリビオンの遺体は、本日昼ごろに北東部の共同墓地に埋葬された。
墓を暴きいて遺体を盗むことも考えたが、検視結果などの調査書類を確認して断念した。
書類に記されていたのは、あくまでケイル・O・ブリビオンの調査結果であって、ドクターバッドヘッドの物ではなかった。
バッドヘッドは生前の偽装通り、加齢によって仕事が無くなった傭兵のケイル・O・ブリビオンが、ついに日々の仕事さえも失って将来を悲観し、自殺したということになっていた。
我々を捕えられず、多発する行方不明者も探すことができない衛兵隊には、バッドヘッドの偽装を見抜いて真実を調査することも出来ないということだ。
それだけに、なぜバッドヘッドが死んだのかが分からない。
自殺にせよ他殺にせよ、バッドヘッドが易々死ぬとは思えない。
引き続き、バッドヘッドの身辺と最近の行動について調査する』


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―


ダーツェニカを流れる水路は、二層に分けられる。
ダーツェニカの近くを流れるアルアタ川から引き込まれ、街の隅々まできれいな水を行き渡らせる上水道。
街に降り注いだ雨水や住居からの下水、上水道から溢れた水を集めて排出する下水道。
街の地下に、高さを変えて引かれた水路を、上と下の二種類の水が流れていた。
そして、海と群れから切り離されたネレイス、オケアノシアの住処は上水道だった。
「……」
街の地下、石組みの水路を彼女は泳ぎ進んでいた。
鼻を抓まれても分からないような暗闇が彼女を包み込んでいたが、オケアノシアはすらりとした足を操り、迷うことなくその先の鰭で水を蹴る。
水路の水流に自身の生み出した水流が加わり、地上で人が走るよりも早く、闇の中を彼女は泳ぐ。
暗闇に対する恐怖も、入り組んだ水路への迷いも存在しない。彼女の青い肌を包む水と、彼女の数年に及ぶ経験が、水路がどうなっているかを教えてくれるからだ。
「……?」
彼女の耳を、水を伝わった音が打った。
地上の通行人や馬車が石畳を鳴らすのとは異なる、石と石のぶつかる規則正しい音。
まるで、誰かが水路の壁面を石で立ていているような音だ。
「誰かしら…?」
数少ない知り合いの間でしか通じない、彼女を呼び出すための手順に、彼女はそう呟いてから水を蹴った。
折れ曲がり、分岐し、一本に収束する水路を突き進み、音の出元を目指した。
やがて、彼女の前方に光が現れる。水路のところどころに存在する、地上に露出した部分だ。
彼女は光の中に飛び込むと、水面から顔を出した。
「オケアノシア」
倉庫街の裏、まったく人通りのない通りの水路脇に屈み、石を手に握っていた、鼻の細い馬のような面を付けた人物が、水面を突き破ったオケアノシアを呼んだ。
「なんだ…獏仮面じゃないの」
「なんだとはなんだ」
オケアノシアは水路の脇まで泳ぎ進むと、縁に手を掛けて水路から上がり、屈む獏仮面の傍らに腰を下ろした。
「あなたが私を訪ねるなんて、珍しいわね」
「少々用事があってな」
「それで、何の用かしら?バッドヘッドのこと?」
「…知ってるのか?」
面にはめ込まれた赤いレンズの両眼に、驚きめいた色が浮かぶ。
「知ってるも何も、バッドヘッドは先週私が地下に案内したのよ。たぶんまだ調査中じゃないかしら」
「待て、何の話だ」
獏仮面は彼女の言葉を遮ると、フードに包まれた頭を振った。
「何の話って、バッドヘッドを探してるんじゃないの?」
「確かにバッドヘッドがらみであるが、バッドヘッドを探しているわけではない」
「じゃあ何?」
「バッドヘッドが死んだから、その原因を調べている」
獏仮面の一言に、オケアノシアは脳裏が白く塗りつぶされた。


彼女が思考の途絶から復帰し、混乱から立ち直るまでしばしの時を要した。
「……落ち着いたか?」
驚き、すすり泣き、声を上げる彼女をなだめながら、獏仮面は何度目かの問いを放った。
目元を擦りながら、いくらか落ち着いたもののすすり泣く彼女は、どうにか一つ頷いた。
「調子が悪いなら、今日のところは引き返すが…」
「大丈夫、ちょっと驚いただけだから…」
最後に目元をもう一度だけ擦ると、彼女はすすり泣きを辞めて顔を上げた。
「それで、バッドヘッドが死んだって本当?」
「本当だ」
オケアノシアの目に、覚悟のようなものが宿っていることを確認した獏仮面が、一つ頷いた。
「バッドヘッドの何かの計画の準備段階とかじゃなくて?」
「その可能性は否定できないが、バッドヘッドの顔をした死体が埋葬されるところまで確認した。彼が死んだにせよ、そのような偽装をしなければならない状況になったにせよ、その原因を調べる必要がある」
「そう…」
「それで、先ほど『バッドヘッドを地下に案内した』と言っていたが、何の話だ」
「…先週、バッドヘッドに呼び出されてダーツェニカの水路について質問されたの」
彼女はポツリポツリと語り出した。
「バッドヘッドが言うには、ダーツェニカの地下には上水道と下水道のほかに、地下通路があるの。その一部分を人間会の連中が使ってるんだけど、まだ良く分かってない部分が多いらしいのよ。
それで、バッドヘッドがその地下通路の調査の一環で、私に水路の地図を作らせてたんだけど、その途中でバッドヘッドが水路よりもっと深い地下に、別な地下通路があるらしいことに気が付いたの」
その日のことを思い出すように、一瞬の間を挟んで続ける。
「それで一週間前、私はバッドヘッドを、指定された上水道の亀裂まで連れて行ったの」
「そして、今の今まで調査していると思っていたわけか」
彼女は小さく頷いた。
「出口を見つけたらそこから出て行くから、迎えは不要だって」
「ふむ…」
獏仮面は、面の下に手を当てつつ小さく呻いた。
一体何のためにバッドヘッドは地下通路を調査しようとしたのだろうか。
「地下通路を調査する理由について、何か聞いたか?」
「さあ…次の計画で、逃走路か何かに地下通路を使うつもりだったんじゃないかと思う」
人間会も把握していない地下通路ならば、ある程度自由に行き来できる。
場合によっては、未探索の地下通路を崩落させて大混乱を起こすことも可能だ。
(と言うことは、バッドヘッドは何らかの計画を抱えていたわけか…)
少なくとも彼の死が、何の計画も思いつかなくなったことに対する絶望による自殺ではないと、獏仮面は判断した。
「ところで、地下通路の調査に同行した連中は?」
同行者がいれば、地下でのバッドヘッドの様子を聞くことができる。
だが、獏仮面の思惑に反して、彼女は首を振った。
「潜っていったのはバッドヘッド一人だったわ」
「一人だと」
何が潜み、何が起こるか分からない地下通路に、世界一邪悪な頭脳の持ち主といえど壮年の男がただ一人で潜るだろうか。
手間を省くためという可能性も考えられるが、彼ならばむしろ、バードマンか衛兵たちに地下通路の情報を流して、その調査結果を横からかすめ取るだろう。
それとも、一人で潜り込んでも問題ない、と確信できるほど地下通路の情報を手に入れていたのだろうか。
むしろ、もう一つの地下通路の存在を知っていたうえで、その位置を確かめるために地下水路を調査させていたように獏仮面には思えた。
「いずれにせよ、地下から地上に戻ることはできたわけだ」
「私は呼ばれてないし、あなたが地上でバッドヘッドを見たって言うんなら、そうなんでだろうけど…」
いくらか釈然としない物を抱えた様子で、彼女はそう応じた。
「ということは、地上に戻ってから何かが起こったか、地下で遭遇した何者かによって自殺を装って殺害されたか」
口に出してから、獏仮面は内心頭を振った。
地下にいた何者かがバッドヘッドを殺害したとして、どうやって彼の住処を知ってそこまで遺体を運ぶのだろうか。
意味がない。
「恐らく、別経路で地上に戻る際に、商工会か人間会のスキャンダルに触れてしまい、もみ消しのために殺害されたのだろう」
「そうなのかな…」
獏仮面の推測に、オケアノシアは疑問の声をもらした。
「もちろんただの推測にすぎないが、否定しきることは出来ない。私は引き続き地上でバッドヘッドの足取りを探る。お前は、念のためバッドヘッドが調査したという地下通路を確認してほしい」
「でも私、水のないところはほとんど動けないわよ?」
「余り歩き回る必要はない。少し様子を確認する程度でいい」
頭を振るオケアノシアに、彼はそう続けた。
「可能ならば通路に水を注ぎ込んで、奥まで見て来てほしいのだが」
「…分かった、やってみるわ」
「頼む」
獏仮面はそう言うと、立ち上がった。
「明後日までにはできるだけ見ておくわ」
「では明後日のこの時間に、また来よう」
そう言葉を交わすと、オケアノシアは水路に飛び込み、獏仮面は踵を返して歩きだした。




『日誌 第1255日
5番と8番の抽出が完了。試験の結果、両方とも硬度が4.5となった。
実用には理想的だが、連続使用時による高温の影響が懸念される。加熱試験を行う予定。

オケアノシアに地下通路の調査を依頼した。
バッドヘッドは地下通路を調査していたらしいが、目的は不明。
オケアノシアによれば、彼は単独で潜行したらしいが、どういうつもりだったのだろうか。
オケアノシアからの伝聞ではあるが、バッドヘッドの行動はまるで、地下通路に何もないことを知っているようだった。
あるいは、既に地下通路の特定を済ませており、その確認作業のために実際に潜ったのかもしれない。
今回はオケアノシアに通路の確認を頼んだが、バッドヘッドの状況からすると、通路に何者かが潜んでいる可能性は低い。
地下通路の主がバッドヘッドの隠れ家を知っているわけがないからだ。通路でバッドヘッドが襲われたとしても、それはバッドヘッドを狙うために待ち伏せしていただけだ。
バッドヘッドが倒れた以上、オケアノシアに危険はないだろう。
仮にバッドヘッドが地下で人間会か商工会のスキャンダルに触れてしまったのだとしても、世界一邪悪な頭脳の持ち主を始末した連中ならば、スキャンダルの種を隠ぺいするか移動しているだろう。
だが問題は、本当に地下に何の問題もなかった場合だ。
一体、何がバッドヘッドを死に追いやったのだろうか。
明日はソードブレイカーの探索と、バッドヘッドの住処近辺の調査を行う』


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数日前に一人の男が運び出された集合住宅に向かって、獏仮面は歩いていた。
鼻の細い馬のような面は取り外し、フードも脱いでいる。
人探しや調査を行う探偵のような顔で、ケイル・O・ブリビオンことバッドヘッドの身辺調査を行うためだ。
衛兵隊は、ケイル・O・ブリビオンはただの傭兵崩れという判断を下したらしく、集合住宅の捜査はすでに終了させている。
だが、獏仮面の目が件の集合住宅を捉えたところで、彼は足を止めた。集合住宅に並ぶ窓の一つ、ケイル・O・ブリビオンの部屋のそれに人影を見出したからだ。
部屋には現在だれも住んでいないはず。だが、あの人影は?
獏仮面は足早に建物に寄ると、窓に気を払いながら集合住宅にそっと入った。
安物の木材の板を可能な限り鳴らさぬように、集合住宅の廊下を忍び足で廊下を進み階段を上っていく。
そして、ケイル・O・ブリビオンの部屋の前で足を止めた。
薄い木板の扉に耳を寄せると、中で動く何者かによる木板の軋みが聞こえた。
軋みの数からすると、中にいるのは一人。
衛兵隊が何かに気がついて捜査していたとしても、一人で捜査するはずがない。
「……」
獏仮面はコートの内から面を取り出すと、顔に当てつつ背中に下ろしていたフードを被った。
そしてドアノブを握り、そっと回すと、勢い良く開け放った。
部屋の中、床に屈んでいた人影が、突然押し入ってきた獏仮面に、半ば立ち上がりながら振り返った。
獏仮面はコートの懐に右手を差し入れながら、人影に歩み寄りつつ左手を掲げた。
コートの袖口から、白いガスが噴出する。
だが、人影は中途半端に屈んでいた姿勢から、床板を蹴り破らんばかりの勢いで跳躍すると、迫るガスから逃れた。
その身体能力に驚愕しつつも、猫のように跳躍する人影に腕を向け直した。
人影は壁に沿って置かれたベッドのそばに跳び寄ると、その脚に指を絡めた。そしてそのまま、目つぶしのために砂を巻き上げるような勢いで、ベッドを低めに放った。
相手の姿がベッドの向こうに隠れ、代わりに木製のベッドが迫る。
獏仮面はガスを吹き付けるのを止め、ベッドを避けるように真横に身を投げ出した。
しかしベッドは空中でぴたりと動きを止めた。
「獏仮面」
ベッドの向こうから、男の声がした。彼にとって聞き覚えのある声だった。
「ソードブレイカーか」
「ああ」
怪人仲間の一人であるソードブレイカーが、その異常な膂力で支えていたベッドを、何気ない様子でそっと床に戻した。
「獏仮面、お前がここに何の用だ?」
「それは私が聞きたい」
床から立ち上がりながら、彼はソードブレイカーの問いに応じた。
「バッドヘッドの頼みで、ここに隠してある資料の回収に来た」
「バッドヘッドの頼みだと?」
「ああ、先週のことだ」
ソードブレイカーはそう言うと、つい先ほどまで屈んでいた辺りを示した。
獏仮面が目を向けると、そこには床板を剥がしてできた穴が開いていた。
「俺がここにいた理由はそれだけだ。それで獏仮面、お前がここにいるのはなぜだ?」
自分の手札を見せた、とばかりに彼は獏仮面に返答を要求した。
「…この部屋の住人だったケイル・O・ブリビオンという男と知り合いでな。ふと通りがかったのだが、無人のはずなのに窓に人影が見えた」
「それで殴りこんだ、というわけか?」
「ああ」
真実そのままではないが、嘘の含まれていない獏仮面の返答を、ソードブレイカーは無言で吟味していた。
同時に、獏仮面もケイル・O・ブリビオンの名前にソードブレイカーが反応しないか、赤いレンズ越しにその表情を伺っていた。
「……それで、そのブリビオンとかいう男はどうしてる?」
「この部屋で首を吊って死んだ」
「そうか…」
ソードブレイカーは言葉を濁らせると、吟味するような目を獏仮面からそらした。
そこには、単に言い辛いことを聞いてしまったことに対する気まずさが宿っているだけであった。
首を吊ったという言葉への反応どころか、ケイル・O・ブリビオンという名前に対する反応すら全くなかった。
(ソードブレイカーは何も知らないようだ)
彼が全て知った上で、完全に内心を制御しているのならばお手上げだが、そういった器用なことのことのできる人間ではないことを彼は知っていた。
「まあ、お前に他意のないことが分かった以上、バッドヘッドの頼みを仕上げるべきだな」
ソードブレイカーは話題を変えようと、上着の懐に手を入れつつ言った。
「バッドヘッドは先週、俺に回収した資料をお前に渡すよう頼んでいた」
懐から出た手には、革表紙の本が一冊収まっている。
「バッドヘッドの意図はさっぱりだが、受け取ってくれ。ちょっと読んだが俺にはさっぱりだったからな」
「そうか」
獏仮面は革表紙の本を受け取ると、軽く頁をめくった。
そこには文章が踊っており、一見するとただの日記のようだった。
「さて、これで俺の仕事は終わりだ。正直、剣を振りまわしていた方が百倍は楽だからな」
ソードブレイカーはそう言うと、獏仮面の脇を通って部屋の出入り口に向かった。
「じゃあな獏仮面、またどこかで」
「ああ待て、ソードブレイカー。一つ言っておきたいことがある」
「何だ?」
ソードブレイカーが足を止め、首をひねって肩越しに後ろを見ると、向き直った獏仮面が口を開いた。
「ケイル・O・ブリビオンはバッドヘッドだった」
その一言に、ソードブレイカーの動きが止まる。
「…………なるほど、だからここに資料が隠してあった訳か…」
たっぷり間をおいてから、半ば上の空と言った様子で呟いた。
「オケアノシアによれば、バッドヘッドは一週間前に地下通路の調査に行ったらしい」
「一週間前?ちょうど俺が資料を取ってくるよう頼まれる前後か」
「ああ、状況からすると、お前に資料回収を頼んでから潜ったと考えるべきだろう」
受け取った革表紙の本を示しながら、獏仮面は言った。
「わざわざ俺にものを頼んだということは、帰ってこれない可能性を自覚していたのか?」
「可能性はある」
「だったら誰か連れていけばよかったのに。俺とか」
「いや、バッドヘッドはとりあえずこの部屋まで戻ることは出来たようだ。そのあとで、彼は首を吊ったらしい」
「つまり何か起こったのは、外に出てからか」
「断言はできないが、そうだ」
ソードブレイカーの推測に、彼は頷く。
「だが、お前が回収した資料のお陰で、少なくともバッドヘッドが地下通路に潜る前、何をしようとしていたかは分かる」
革表紙の本を懐に収めながら、獏仮面は続けた。
「地下通路の調査が、彼の死に関わりがあるかはっきりさせる」




『日誌 第1256日
ここ数日の調査により、本日は試験も仕込みも無し。
今回の一件がひと段落したら、採集を行う。

バッドヘッドの残した資料をソードブレイカーが回収。バッドヘッドの依頼に従い、私が受け取った。
最初の数ページを確認したところ、一見ただの日記のように見えた。
だが、ところどころで文法に誤りが生じたり、内容に変化が起こったりしている。
おそらく、これは暗号によるものだろう。
文法の誤りなどを足掛かりに解読すれば、本文を読むことが可能だ。
これで少なくとも、どういう意図で地下通路に潜ったのかが判明する。
そうなれば、彼の死の原因調査がだいぶ楽になるだろう。
そして明日はオケアノシアの通路調査の結果報告もある。
世界一邪悪な頭脳の持ち主が自死したのか、殺害されたのか。もうじきはっきりするはずだ』


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―


ダーツェニカの一角、人通りの全くない倉庫街の裏、水路が地上に露出している場所があった。
一昨日、獏仮面とオケアノシアが言葉を交わした場所でもあるが、そこには誰の姿もない。
代わりに残っているのは、水路から石畳に滴り落ちた大量の水だった。
石畳に波が叩き付けられたかのように濡れており、そこから半ば引きずるような足跡が続いている。
足跡は右に左に揺れながら、路地裏を進み、倉庫街を通り抜け、表通りに続いていた。
やがて足跡を描く水滴に、赤い物が混ざり始め、透明な繊維状の何かが加わる。
そして足跡は表通りを横切り、路地口に設置された梯子の下までたどり着くと、梯子の段に赤と繊維状の何かを貼りつかせながら、屋上へ上って行った。
なだらかな斜面を成す屋根を、幅広の赤い筋が這いずり、通りに面した一角へ至る。
屋根を背に、通りに向けて設置されていたのは魔よけのガーゴイル像であった。
旧魔王の時代の姿のまま、街の中をうろつく矮小な悪霊や魔物、災厄から家屋を守る目的で設置されたガーゴイル像。
街を睥睨し、通りを一望するそのガーゴイル像に今、数十の視線が集まっていた。
いや、正確に言えばガーゴイル像の背中、首に手を回すようにしながらしがみつく、一体の魔物を人々は見ていた。
青い肌に、長い髪の間から覗く角のようなもの。肘から指先までを包む遠洋のような青い鱗に、くるぶしから先にたなびく鰭。
しかし、水中では華麗に舞うはずの鰭はボロボロに擦り切れ、血で濡れていた。
また、身体を覆う鱗や肌にも、擦れによる抜けや擦り傷が刻まれている。
ほぼ水中のみで生活するネレイスが、無理やり地上を歩き回ったためだ。
見ているのも辛いほどの痛々しい傷だが、当のネレイスは擦れた鰭も、血のにじむ傷口もそのままに、ただガーゴイル像にしがみついていた。
がちがちがちがち、と喰いしばった歯を鳴らしながら、眼下に並ぶ人々を見下ろしていた。
特定の誰かを見ているというわけではない。彼女の震える瞳は、漠然と下の方を見下ろしているだけである。
だがそれでも、十分彼女が何かにおびえていることは分かった。
「……」
足を止めて見上げる通行人に紛れ、オケアノシアの様子を確認していた男が、踵を返し足早にその場を離れる。
コートの裾を揺らし、コツコツと石畳を鳴らすその男は、獏仮面であった。通行人に紛れるため、フードは下ろし面も外している。
(何故だ…?)
彼は胸中で呟きながら足早に道を進み、角を折れて路地に入ると、裏通りに抜けた。
(何故オケアノシアが…?)
彼女と会ったのはつい一昨日。地下水路調査について言葉を交わし、今日調査結果を受け取るつもりだった。
だが、オケアノシアはつい先ほど見たとおり、表通りの建物に上ったまま降りようとしなかった。
あのままではおそらく、時期に押し掛ける衛兵隊によって捕縛され、人間会の牢獄に押し込まれるだろう。
陸上に上がって歩き回り、屋根の上で過ごすなどと言う自殺行為に走るなんて、一体何が彼女の身に起こったのだろうか。
(自殺行為…?)
裏通りを進む彼の脳裏をよぎった言葉に、獏仮面の意識がふとその回転を緩めた。
微かな何かが引っ掛かったからだ。
「地下水路を出て、そのまま石畳の上を歩き回り、屋根に上った。地下水路を出て、誰にも連絡を取ることなく住処に戻り、首を吊った」
オケアノシアの状況と、バッドヘッドの状況をあえて彼は口に出した。
バッドヘッドの死は、自殺に見せかけた他殺だと彼は考えていた。
だがオケアノシアの動きと、獏仮面の一週間前の動き、そして発見されたバッドヘッドの遺体の状況が彼の脳裏で重なり合った。
(バッドヘッドの遺体は、異臭が原因で発見された。肉が臭い始めるには数日かかるはず。つまり…)
バッドヘッドは地下水路の調査の後、住処に戻って自ら首を吊ったのだ。
「そんなバカげたことが…!」
たどり着いた推論に、彼は低く呻いた。
自身の邪悪な才能の枯渇に絶望して自殺。
地下通路で待ち構えていた何者かにより殺害され、偽装のために住処へ。
これまでに立てた推測の方が、よっぽど現実味があった。
だが、それではオケアノシアの状況を説明できない。
(と言うことは、やはり…)
二人とも地下で何かを見て、あんな行動に走ったのか。
獏仮面は、足早に路地の一本に入ると、建物の裏に屈んでいた小さな人影に向けて声をかけた。
「おい、パイロ」
「うわっ!?」
油の樽に穴をあけ、石畳の溝を通じて広げていたパイロが、獏仮面の声に一瞬跳びあがった。
「…あ、あーあなんだ獏仮面か…」
声の主を確認すると、彼はほっと胸を撫で下ろした。
「急に何の用?って言うかどうやって僕を見つけたのさ」
「お前のこれまでの動きから推測しただけだ。それより用事がある。放火は後にしろ」
不満げな表情をパイロは浮かべたが、獏仮面は構うことなく続けた。
「お前には新興怪人について頼んでいたが、状況が変わった。バッドヘッドが氏の前に地下水路を調査していたことが判明した。それでオケアノシアに調査をさせたのだが、バッドヘッドの死の原因を見つけた可能性がある」
「へえ、お手柄だね」
「だがオケアノシアは精神を病んだらしく、3番通りの建物のガーゴイル像に登ってしがみついている」
「はあ?何で?」
「知らん。というより、お前に彼女から聞きだしてほしいところだ」
裏路地を表通りに向けて歩きだすと、パイロは立ちあがって彼について行った。
「恐らくもうじき、彼女を保護しに衛兵隊か人間会の連中が動き出すはずだ。お前にはオケアノシアがどこに連れて行かれたかを確認し、可能ならば彼女を連れだしてもらいたい」
「気軽に言ってくれるなあ」
「お前ならできるだろう、パイロ」
振り返ることなく、足を進めながら彼は言った。
「私はバッドヘッドの遺した手記を解読して、バッドヘッドが調査していた水路について調べる」
「…なんて言うか、潜入と解読って比重が違いすぎないかな」
「お前がどうしても、というのなら代わってやってもいいが?ただし、解読作業は超特急で頼むぞ」
「………やっぱりやめとく」
獏仮面の期限指定に、パイロは大人しく従うことにした。
やがて二人は裏路地から表通りに出て、一角を取り囲む人だかりに歩み寄った。
既にガーゴイル像の上にはオケアノシアの姿はなく、代わりに衛兵たちが毛布でくるんだ何かを屋根の上から下ろしているところだった。
水が滴り落ちるほど濡れた毛布の中からはくぐもった呻き声のような声が響き、もぞもぞと蠢いていた。
仮に紐で縛っていなければ、中身が飛び出しそうなほどだ。
衛兵たちは梯子を伝って毛布の包みを下ろすと、待ち構えていた担架にそれを乗せた。
そして紐で担架に固定すると、二人がかりで抱えた。
「ほら、何にもないぞ!行った行った!」
衛兵が野次馬たちを払い、担架を運び出す。
「頼む」
「分かった」
獏仮面とパイロは短く言葉をかわすと、その場で別れた。
獏仮面は裏通りに向けて。パイロは運ばれる担架に向けて。
足を進めていった。



『日誌 第1257日
15番の在庫が二瓶を切った。22番か24番のいずれを使うか決定する必要あり。
一瓶ずつ試験運用し、継続的に使う物を決定する予定。

本日、あるいは昨日、オケアノシアが精神に異常をきたした。
地下通路の調査が原因であることは明白だ。しかし、彼女が地下で何を見たかは分からない。
そのため、彼女が何を見たのか確認するため、のこのこ潜っていくのは危険だ。
だが、私の手元にはバッドヘッドの手記が存在する。暗号解読の糸口は既に掴んである。
文字一つ一つに数字を割り振り、単語ごとに合計して、その数値の順番の文字を文ごとに組み合わせればいいのだ。
単語ごとに文字が一つ。文章ごとに単語が一つ。節ごとに文章が一つ。
手間と文字量が多い物の、比較的容易な暗号でほっとした。
だがその一方で、バッドヘッドからはこの程度の暗号しか解けないだろう、と軽く見られていたようで不満でもある。
とにかく、解読法が分かった以上、作業を進めるべきである。
オケアノシアについてはパイロに任せてあるが、超特急で解読できるかどうか尋ねた以上、大急ぎで仕上げなければならない。
一旦ここで筆を置いて、解読作業を再開する』


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―


文字を数え、数字を合計し、一字書き記す。
単純ではあるが、やたら手間のかかる作業を、獏仮面は住処で延々と繰り返していた。
テーブルの上の燭台には、ちびた蝋燭が刺さり、大量の溶けた蝋が纏わりついていた。
一睡することなく、夜通し蝋燭を代えながら解読にいそしんだ結果だ。
彼の目元には隈が浮かび、顔もいくらかやつれたように見える。
だが、その表情に疲労は一欠けも浮かんでおらず、むしろぎらぎらと輝いているようであった。
無理もない。バッドヘッドの手記の解読を進め、一文一文が明らかになっていくにつれ、あれほど追い求めたバッドヘッドの足取りが露わになっていくからだ。
がりがりと紙の上をペンが踊り、ページが捲られていく。
だが、残り少ないページを指が捲った瞬間、彼の手がぴたりと止まった。
「………」
しばしの間をおいて、手が動きだし、文字をつづっていく。
しかし、一文から導き出された単語は、まったく単語の体を成していない、でたらめな文字の集まりだった。
「……ううむ…」
暗号が変わったのか、まったく読めなくなった文面に、獏仮面は呻いた。
と、その時、不意に部屋のドアを何者かが叩いた。
ノックの音に、獏仮面はがば、と音を立てるような勢いで振りむいた。
扉の下、床との隙間に影が見える。
空耳などではなく、立派に誰かが来ているのだ。
「…」
彼は椅子から立ち上がると、椅子にかけていたコートを羽織りながら扉に向かった。
袖に腕を通し、袖口の位置を整える。
そして二度、三度指を曲げ伸ばしし、調子を確認する。
扉の前で歩を止めると、ドアノブを掴んで囁いた。
「……誰だ?」
「俺だ獏仮面。ソードブレイカーだ」
「それとパイロ」
聞き覚えのある声に、彼は閂を抜くと、左手をかざしながらそっと扉を開いた。
わずかな隙間の向こうに、男と少年の二人が立っていた。
「入れ」
「邪魔する」
扉を開くと、二人は部屋に入ってきた。
「オケアノシアについて、報告に来たよ」
「そうか。こちらもちょうど、バッドヘッドの手記についてある程度わかったところだが…ソードブレイカーは何だ?」
「地下水路について、新興怪人の連中を締めあげて、いくらか聞きだしてきてな。それを教えに来たら、たまたまそこでパイロと会った」
獏仮面の問いに、ソードブレイカーは簡単に応えた。
「それでは各人、報告するとしよう。椅子かベッドに座るといい」
獏仮面は、丸椅子とベッドを示すと、つい先ほどまで座っていた椅子に腰を下ろした。
パイロが丸椅子に腰かけ、ソードブレイカーがベッドに尻を下ろす。
「それでは、誰から始めようか」
「じゃあ、僕から」
パイロは手を軽く上げると、そのまま続けた。
「まず、最初に言っておくと、オケアノシアから話を聞くことは出来なかった。人間会の地下施設に押し込められて、終日の監視体制が組まれていたからね」
やれやれ、とばかりに頭を振った。
「それで代わりに、医者の診断書を盗み読みしたんだけど、かなりひどかったよ。完全に正気を失っているせいで会話できないどころか、歯ぎしりのせいで舌を何度も噛んでいて、命にかかわる状況だって」
「…オケアノシアから聞きだすのは不可能だな…」
「でも、そんな精神状態になるほどのことが起こった、って言うのは分かったね」
そう言うと、彼は自分の番は終わりだ、とばかりに言葉を切った。
「では地下通路つながり、ということで俺が聞きだした情報を話そう」
ソードブレイカーがパイロの後に続いた。
「俺がバッドヘッドの情報を集める過程で、地下水路に関する話をいくらか聞いてきた。新興怪人連中によれば、ダーツェニカで発生している連続失踪事件と地下水路には、何らかの関わりがあるらしい」
彼は懐からいくつか書き込みのされた小さな地図を取り出すと、獏仮面とパイロの前に広げた。
「とりあえず最近の失踪事件六件だ」
地図上に記された六つの点を示しながら、彼は続ける。
「どれもこれも、地下水路の下水道が地上に露出しているところと近いのが分かるな」
「ああ、確かに」
「新興怪人連中によれば、夜中に犠牲者を求めて歩いていたら、人を担いで歩いている人影を見たという。
後をつけた連中もいたが、どの人影も地下水路に飛び降りて行ったそうだ」
「人影が飛び降りた水路は?」
「ここと、ここと、ここだ」
獏仮面の問いに、ソードブレイカーは地図上に書き込まれた線を指示した。
「…一つの地下水路から出入りしてるかと思ったが、どれも違うのか…」
ソードブレイカーの示した地下水路はいずれも場所が離れており、失踪事件現場に近いということと、人通りのない通りに存在すること以外はほとんど共通点がなかった。
「どの水路も下水道で、オケアノシアの縄張りから外れていたから、今まで彼女も気がつくことが出来なかったのだろう」
「だろうな。だがとにかく、連続失踪事件の鍵は地下水路にあることが、俺の収穫だ」
ソードブレイカーは、地図を出したまま、そう話を締めくくった。
「それでは最後に、私の番だな」
獏仮面は机に手を伸ばし、革表紙の本と紙を手に取った。
「これは、バッドヘッドことケイル・O・ブリビオンの部屋に残されていた日誌だが、どうにか内容の解読に成功した」
手にしていた紙に目を向けると、彼は続けた。
「簡単に内容を要約すると…
『次の犯罪計画に地下水路を用いようと思うが、どうも上水道と下水道の二つのほかに、別の地下通路があるらしい。それどころか、その地下通路を使っている者がいるようだ。地下通路の慨形は地下水路の形状から分かったので、水路と壁一枚隔てて接している場所から調査を試みる』
といった内容だ」
彼は紙の文字から目を上げると、軽く頭を振った。
「正直、オケアノシアやお前たちが仕入れた情報と、特に相違がなかった。何の収穫もないと言ってしまえばそれまでだが、裏付けが取れたと考えるべきだな」
彼の言葉に、二人から落胆の気配が滲み出る。
「ただ、最後の記事が暗号を変えているらしく、まだ解読できていない。もしかしたら、ここに何か重要な何かが残されているのかもしれない。
だが、私の脳みそではもう解読法が思いつきそうにないから、お前たちに見てもらいたい」
彼は革表紙の本を開き、頁をめくると、二人に本を向けて差し出した。
「どうだ?何か妙なところか、気がついたことはないか?」
「う、うん…」
「ああ、その…」
獏仮面の言葉に、二人は一度目を見合わせた。
「どうした?何でもいい、言ってくれ」
「その、獏仮面…これだけど…」
「書いてあるそのままではないのか…?」
二人の言葉に、獏仮面は手にした本に目を落とし、本の向きを変えた。
そして最後に記された、震える文字から成る文章を、彼は改めて呼んだ。

ダーツェニカの地下に奴らがいた。アレは邪悪そのものだ。
奴らが善ならば、私は天使だ。いや、邪悪だ。
何が旧時代に引き戻すだ。新たな魔王を仕立て上げ、旧時代に引き戻す計画のどこが善良だ。
奴のやり方の方がよっぽど善良だ。いや邪悪だ。
もう何が邪悪で何が善なのか分からない。私はここから逃げるんだ。


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『日誌 第1258日
22番と24番をそれぞれ試用することにした。
15番の瓶は未洗浄。帰宅後に洗浄する。

オケアノシが死亡した。舌の傷が原因だ。
地下通路で、バッドヘッドが見た物と同じ物を見てしまったからだ。
バッドヘッドは自身の価値観を破壊され、オケアノシアは地下を恐怖するようになった。
その結果、一人は死を選び、一人は死に至った。
二人が地下で何を見て、地下で何が起こったのかは分からない。
ただはっきりしているのは、連続失踪事件と地下通路に深い関わりがあり、事件の犯人があそこにいるということだ。
必要なのはたった一つ。あの地下通路を確かめることだ。
今、パイロとソードブレイカーと共に、地下水路の一角にいる。バッドヘッドの資料によれば、ここは件の地下通路と隣接しているはずだ。
しかし水路の壁に、オケアノシアが言っていた亀裂は存在せず、微妙に不格好な石壁しかない。
どうやら相手は、崩れた穴を塞いで偽装する程度の知恵はあるらしい。
私、獏仮面は、これから二人が入って行った地下通路に足を踏み入れる。
あそこで何が起こっているのか、あそこに何がいるのかを確かめるためだ。
連続失踪事件と地下通路の関係と、地下通路にいるモノを明らかにしなければ』


「まだか、獏仮面」
「もう少しだ」
獏仮面はソードブレイカーの言葉に、日誌に文字を連ねながら応じた。
「こんなところまで来て日誌とか、まったくマメだねえ」
ランタンからイグニスを出し、辺りを照らしながらパイロが呟く。
三人がいるのは地下水路、バッドヘッドが日誌に記した、地下水路との隣接地点だった。
壁には亀裂があるはずだったが、今は不格好な石組の壁が立ちはだかっていた。
適当に石を拾ってきて積み上げたような壁は、明らかに素人によるものだったが、組んだのが猛獣などではなく、知性のある存在であることを示していた。
「…よし、出来た」
ペンを日誌から離すと、獏仮面はそう言った。
「とりあえず、読めば一通りの状況が分かる様にしておいた」
閉ざした日誌を、パイロに差しだしつつ、彼は続ける。
「衛兵隊の詰め所に放り込むか、バードマンにでも渡すかはお前に任せる。だが、ダーツェニカの地下について誰かに確実に伝えてくれ」
「分かった」
パイロは受け取った日誌を、上着の懐に収めた。
獏仮面は二人に背を向けると、コートのポケットから塗料の入った瓶を取り出し、蓋を開けた。
「本当に一人でいいのか?」
「ああ。むしろ、お前たちが地上に残っていないと困る」
塗料を指ですくい、不格好な石組の壁に塗りつけながら、獏仮面は言った。
「私は帰って器具の洗浄などしなければならないが、何か起こる可能性もある。その時は、お前たちに片づけだとかを頼んでおきたい」
石壁に模様を描きながら、彼は言った。
「…よし」
最後に模様を大きな円で囲むと、彼は塗料の瓶を懐に収めた。
曲線が絡み合い、大きな円に囲まれた模様だった。
「ちょっと離れろ」
距離を取る二人を背に、皮手袋をつけると、獏仮面は右手を広げた。
右手のひらに描かれた、円と直線から成る模様を、彼は壁の模様に重ねた。
瞬間、石壁に描かれた模様が発光し、回転した。
石材に描かれた模様が回転することで、石組の壁さえもが回転し、石材が砕け割れる。
そして亀裂を塞いでいた不格好な石組の壁が崩壊し、その奥の空間を露わにした。
「やはりな…」
砕けた壁の向こう、水路に沿うように左右に伸びる土むき出しの通路に、獏仮面はそう呟いた。
通路の奥の闇に向けてランタンを掲げるが、通路は少し進んだところで曲がっており、先まで見通すことは出来なかった。
「それでは行ってくる」
「おう」
「片づけは自分でやれよ」
振り返ることなく軽く手を掲げて、二人の言葉を背に亀裂の中に入って行った。
土の通路を獏仮面が進み、石造りの水路をパイロとソードブレイカーが進んでいく。
二つの光が離れていき、やがて水路が闇に没した。
水の流れる音だけが響いていた。



―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―



音を立てて建物が燃えている。
空を塗りつぶさんとばかりに、黒煙が立ち上っている。
燃え上がる建物を、通りを挟んだ向かいの建物の屋上から眺めながら、イコンは立ちつくしていた。
普段なら興奮に濡れている少年の瞳は、ただぼんやりと煙を見つめ、避難する近隣住民と衛兵たちの声を聞いていた。
彼がこの屋上に立ってから、どれほど経っただろうか。不意に彼の背後に、何か重い物が落ちる音が響いた。
「やあ、来たね、バードマン」
そう言いながら振り返るイコンの目に、黒いマントを羽織り、丸い兜を被った男の姿が映った。
バードマンは衝撃を和らげる着地の姿勢から、ゆっくりと屈めていた膝を伸ばしながら立ち上がる。
「こそこそ隠れているかと思ったが、珍しいな、パイロ」
「…今日は用事があってね」
パイロはそう言うと、懐に手を差し入れ、何かを取り出した。
「いろいろソードブレイカーと相談したり、自分で考えたりしたけど、これはバードマンに渡した方が良いと思ってね…獏仮面からの伝言だよ」
彼は言葉を切ると、手にしていた物をバードマンに向けて放った。
バードマンは飛んできた帳面を目で追い、直接当たらぬよう距離を取ると、屋上に落ちるのに任せた。
そしてパイロの方に顔を向けるが、彼の姿は消えていた。
「…伝言…?」
パイロの最後の言葉に首を傾げつつ、彼は帳面を手にり、開いた。
するとそこには、一文が記されていた。


『日誌 第1253日目
バッドヘッドが死んだ』
12/04/07 21:57更新 / 十二屋月蝕
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■作者メッセージ
死者は何も語らない。
生者と思い出だけが語る。

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