おるすばん
『こうして、筆をとっていると。
数年前の事を思い出します。
たった一年だけど、忘れられない大切な思い出
ご主人様と出会えて
あなたと出会えて
本当に、良かった−−』
◇
「ん……」
カーテン越しの爽やかな光で、わたし−−進藤いなほは目を覚ましました。
枕もとの時計は五時三十分。いつも通り、目覚ましに頼らない目覚めです。
伸びをひとつして布団から出て深呼吸、涼しい空気が胸いっぱいに広がります。
春と、夏の間。梅雨の時期をこえた頃。
段々暑くなる時期ですが、まだまだ朝は爽やかな気分です。
「よしっ!今日も一日頑張ります!」
布団を畳んで寝巻きを白のワンピースに着替え、洗面所で顔を洗えば、頭の中もすっきりです
。
歯磨きをするのも忘れません。
毎朝の歯磨きには風邪を予防する力があるのです。
歯磨きを終えたら寝癖だらけの長い黒髪を梳かしつつ、鏡で軽く体をチェックします。
頭にはえた稲荷の狐耳と、おしりからはえた尻尾。
服の上でもわかるほど平らなプロポーションは昨日から何一つ変わりません。
毎日ホルスタウロスさんからミルクを貰っているのですが。一朝一夕にはならず、ということでしょうか。
ご主人様のような見事な肉体への道は中々に遠いようです。
「……さて」
ちょっとだけ、落ち込んだ気分を誤魔化すように、台所へ向かいます。
とてとてと音を立てる冷たい板張りの廊下が、足に心地よさを伝えてくれます。
「今日は、何にしましょうか」
冷蔵庫の中身を思い出しながら、流し台にたつための踏み台とエプロンを用意します。
とりあえず昨日買ったばかりの鯖と、炊き立てのご飯。
旬ですし塩焼きは確定です。
ちなみに鯖の旬はもっと後ですが、この鯖は夏が旬だったりします。ゴマサバ、というのだそうです。……実際には一年中美味しい。というのが正しかったりしますが。
栄養を考えたらあとは汁物と、副菜をひとつかふたつ。
夏も近いですし、体を冷やす茄子を味噌汁にしてみるとしましょう。だしは先日のうちに煮干からとったものです。
あとは夏ばて防止にオクラと梅肉の和え物。
箸休めのお漬物は胡瓜です。
一度メニューが決まったら動きは早いです。
鯖には塩をして、水が出てきたらふき取って臭みを取って十字に切込みをいれます。お酒をちょっと使えばふっくら、ぱりっと仕上がります。
茄子は切ってから水につけてアクを取ってから炒めて油を吸わせてから味噌汁へと。
オクラは塩水で洗ってちくちくとした外側を綺麗にして行きます。
ちょっとしたひと手間と愛情が大切だと、どれもお母様が教えてくれた事です。
「よし、いい香りですっ」
グリルから鯖の良い香りがするころには、ご飯の炊ける蒸気がふわりと上がりました。
炊飯器、というのは本当に便利です。
ジパングにいた頃も炊く道具こそあったものの、腕に依存してしまいます。
こうして時間を指定して、美味しいお米が食べられる。
本当にこちらの世界の技術力には感謝です。
「あら、いい香りね」
「ご主人様、おはようございます」
「ええ、おはよう。いなほちゃん。ご飯はこぶの手伝うわ」
「ありがとうございます!」
不意にかけられた声。ふりかえると、美しい女性がたっていました。
美しい金色のさらりとした髪と優しい表情、見事にくびれた腰と女性らしい曲線を描く胸と腰
。
そしてぴょこんと主張した耳、なによりも目を引く黄金の尾は九本です。
彼女こそ、わたしが居候している『金玉の湯』の女将さん。
すなわちわたしが、ご主人様と呼ぶお人です。
……とても凄い力をもっていて、美人だと言うのに結婚相手がみつからないのは本当に不思議……。
「いなほちゃん?」
う、謎の寒気がしてきました。
考えるのはやめにします。
「ご、ご主人様。冷めちゃいますから!早く運びましょう」
誤魔化すように叫びつつ、目覚ましのほうじ茶をたっぷりと二人分のコップに注ぐわたし。
ちなみに、ご飯は交互に担当となっています。
「ご飯くらい出すわよ」と言ってくれたご主人様に、わたしが頼み込んだ形です。
「いただきます」
鯖の塩焼きの前で一礼をひとつ。
向かい合ってご飯を食べます。
鯖の塩焼きをほぐして一口、そのままご飯に合わせると魚の味わいと旨みが口の中に広がります。
ふわふわの油揚げも大好きですが、新鮮なお魚も大好きです。何度も咀嚼して丁寧に味わいます。
そうして口の中がくどくなったところをとろけた茄子の味噌汁で流してさっぱりとさせつつもう一回お魚へ。
時折別の食感と酸味のために茹でて刻んだオクラと梅肉の和え物を織り交ぜつつ、箸を進めて行きます。
うん、ご主人様ほどではないけれど中々美味しく出来ました。
「いなほちゃん、本当にいいの?お留守番頼んじゃって」
「ええ、行ってらっしゃいませ」
半分くらい箸を進めた当たりで、ご主人様の発した言葉に、わたしはうなずきます。
今日は、ご主人様が遠くへ出かける日なのです。
本来は『金玉の湯』を閉めていくのですが、わたしができます!と語ったのが先日。
頑張って仕事を覚えて、いざと言うときのメモもあります。
普段、手伝っている分の経験もあるはずです。
きっと大変でしょうが、そこは、ご主人様の役に立つため。
なにも準備もせずにこちらの世界に来てしまったわたしをたすけてくれた恩を少しずつでも返せるように頑張らないといけないのです。
「ちゃんと、一日だけですが『金玉の湯』を守って見せます!」
「ふふ、ありがとうね」
ぎゅっと手を握って気合を入れるわたしに、ご主人様は優しく微笑んでくれたのでした。
◇
「ちゃんとお昼とか夕飯は食べてね?冷蔵庫の中に用意しておいたから」
「はい!」
「あと、困った事があったらここに連絡してね」
「はい!」
「あとは……そうね。帰るのが遅かったら。先に寝てていいわよ」
玄関口で、ご主人様をお見送りします。
普段とは違う、気合の入った服装。
ぴしりと決まったご主人様は、本当に素敵でした。
どんな用事かきくことは出来ませんでしたが、きっと大変なことがあるのでしょう。
まるで、戦場に向かうかのような、覚悟が決まった表情からもそれが察せられます。
推し量る事しか出来ないので、わたしは祈る事しか出来ませんが……。
「じゃあ、行って来るわね」
「はい、いってらっしゃいませ」
九つの尾をピンとたたせたご主人様が角を曲がるまで、手を振ってから、家の中に戻ります。
やることはいっぱいです。
お掃除に、お洗濯。
そして、何より『金玉の湯』の番台。
頭の中でやることを確認しながら、深呼吸をひとつ。
空を見上げれば、美しい青空が広がっていました。
◇
「洗濯から、がんばりますか!」
最初にわたしが手をつけたのはお洗濯でした。
目の前にあるのは、一杯のタオルと雑巾。
毎日沢山掃除をするのでどうしてもたまってしまうのです。
「よい、しょっと……」
カゴに山盛りのタオルを洗濯機で洗います。
バスタオルと、体を洗うタオル。雑巾は別々です。
実はカゴにも魔力が込めてあって、一晩のうちに汚れの大半を取り除いていてくれたりします(お客様にも大好評です)が、最後はちゃんと洗濯機で洗うのです。
特製の柔軟剤と洗剤を入れて洗い、さんさんと輝く太陽光で干せば良い香りが心に優しく響きます。
「よしっ!」
洗いおえたバスタオルをいっせいに竿に干すと、白い布がひらひらと舞いました。
こうして水分を蒸発させると、周囲の気温もしっかりと下げてくれるのです。
梅雨の間は外に干せず、ご主人様の狐火で乾燥させていた為。こうして太陽の下でじっくり干せる。というのは中々に嬉しいです。
「さて、お掃除もしっかりとしないと!」
さて、洗濯機に物干しと時間はかかりましたが、お仕事はいっぱいあります。
わたしが次に手をつけたのはお掃除。
清潔な場所、というのは大切です。
特に銭湯は体を洗う憩いの場所。
汚くては話になりません。水質を検査したら、すぐに清掃に取り掛かります。
裾を折って、素足で立つわたしの前にあるのは、たくさんの浴槽。
深夜のうちにあかなめさん達がぴっかぴかにしてくれるのですが、夜のうちにたまってしまう汚れは防ぐことができません。そして何より、彼女たちの魔力の残滓が残ってしまうという大きな欠点があります。
「来たれ〜狐火っ」
なので指先に集中して、魔力を集めます。
ぽわんと浮かぶのは手のひらくらいの大きさの青白い炎。
これは狐火、と呼ばれる魔力と欲望の塊です。
こうして集めた炎は魔力の塊という性質上、普通の燃え方をせず、熱くもなく、精を燃料に燃えていくという性質があります(そして、たまに魔物娘になったりします)。
そのため、お掃除の時はこうして残った精の残滓を丁寧に燃やし、汚れの元を断っていくのです。
「えいっ!」
指先を舞わせ、丁寧に、丁寧に壁面をなぞって浴槽を清めます。
ご主人様であれば、周囲八方に狐火を飛ばして、座りながらにして掃除ができるのですが、そこはまだまだ一尾のわたし。
周囲を歩き回って、時間をかけてやっていくのです。
炎で清めたら、今度は床はポリッシャー(モップのお化けみたいな機械です)鏡や細かい部分は雑巾でぬぐいます。
内風呂を終えたら、サウナ、地下。そして露天へ向かいます。
「ふふ、おはよう」
「おはようございます!」
そうしてがんばっていると、上から声が聞こえます。
見上げると美しい緑色の葉桜が目に鮮やかです。
隣の塀、向こう側に居るのはドリアードのお隣さんした。
目があうと、彼女はにっこりと微笑みました。
「落ち葉のほうは心配しなくても大丈夫よ。お湯には落とさないであげたから」
「あ、ありがとうございます」
さらさらとそよぐ葉桜の音を聞きながら、浴槽を磨くと季節を感じます。
葉っぱの間からこぼれる日の光が、水の上に独特の濃淡を作り出していました。
「今日は一人なの?」
「はい、お留守番なのです」
「ふふ、頑張ってね。−−あ、いい時間ね。私もお昼ご飯とらなきゃ♪」
手を振る彼女に頭を下げつつ、部屋へと戻ります。
戻るついでに洗濯物を入れ替えるのも忘れません。
こうして腰を使った後はううん、と伸びをすると、背中がぎゅうっと気持ちよくなります。
時計をちらりと見れば、そろそろお昼の時間なのでした。
◇
「こんにちは……」
昼下がり、お昼ごはんのきつねうどんをすすり終えるころ。
玄関から聞こえてきた声へと、急いで向かいます。
からり、とガラス製のドアを開ければ、立っているのは美しい着物を着たゆきおんなさんでした。
額から汗をかきつつ、ゆるりと歩くさまは本当に大変そうです。
初夏の陽射しでも、彼女たちにとっては大事なのでしょう。
「うう、暑いわね。もう……」
「もう初夏の頃合ですから」
「もっと暑くなるのよね……これから」
彼女はこの『金玉の湯』内にある食事処『淡雪』の女将さん。
湯上りのお客様たちお食事を楽しんだり、サウナ上がりの一杯をいただく場所を提供してくれる方です。
その料理の腕は的確で、話し上手ということもあり、時折ご飯だけ利用のお客様もいらっしゃるほど。
店内からは毎日、よくコロコロという彼女の笑い声や、お客さんたちの話し声がちょうどよく聞こえてくるのでした。
「はやくいい人を見つけて、がっつりクーラーの利いた部屋で二人で睦びたいわ……」
「はは……」
「いなほちゃんも、もふもふだから大変でしょう?まったく、夏なんて……」
とはいえ、それは営業時間の話。
今のような暑い時間帯は、唯一といっていい彼女の弱点。
普段はしない愚痴をはきながら、彼女はふらふらと歩いていくのでした。
ちなみに、この食事処『淡雪』の女将さんはすでに十代を超える代替わりをしていたりします
。
ほとんどがお客さんにほれ込んで、そのまま寿退職のパターンです。
最短記録は二日だったようで、ご主人様が代役を探すのに苦労したとか。
「お届けにあがりましたー」
「今日はいい天気だねえ!」
「こんにちは」
「うんうん、挨拶は大事大事。ワインもおいしくなるからね!」
そんな疲れた雰囲気を持つ女将さんが下ごしらえに入るころ。
やってきたのはサテュロスである酒屋さん(兼:バッカスの神官)とその夫さん(ハンドルキーパー)でした。
真っ赤な顔をした彼女からはかすかどころではないアルコールの香りがします。
しかし、こつこつと蹄を鳴らし、ひょいと酒の入ったケースを置く彼女の動きにはまったくのよどみがありません。
酒は飲んでも呑まれるな、ということなのでしょうか。
お酒を呑んだことがないのでよく分かりませんが……。
「さて、今日の分のビールと日本酒とチューハイに。あと牛乳屋さんが今日結婚式に出席して休みだから代わりの牛乳……」
「手伝うよ!」
「僕は『淡雪』の分を運んどくから」
「あ、ありがとうございます」
「ふふっ、お留守番がんばってね♪」
ウィンクをつややかに決める彼女に、思わず微笑みながらケースの中身を、丁寧に冷蔵庫に並べていきます。
ちなみに牛乳はホルスタウロス牛乳と、普通の牛乳の二種類+フレーバー。ワインも陶酔の果実から作ったものだけではなく。普通の葡萄を使ったものも用意します。
ホルスタウロスさんの牛乳はおいしいのですが、魔物化の可能性があるからだそうです。
『人として生きるのも、魔物として生きるのも。インキュバスになるのも。いっぱい悩んで、いっぱい考えて。それからでもいいと思うからね』とは、彼女の談。『酒は無理やり飲まされたら、おいしくないでしょ?幸せも、きっと同じかもしれないよ』。そう笑ってウィンクする彼女には、確かに、神官と名乗るだけの何かがあったのを覚えています。
きっと、このあたりがご主人様がこの酒屋から卸してもらう理由なのでしょう。
「うーん、仕事中に呑むお酒最ッ高!太陽に、ワイン。最強だね!」
「……あはは、ごめんね」
「もう、つれないんだから……ほら、一口一口」
「わぁっ!?待て!僕はハンドルキーパーだって言ってるだろっ」
……なので、店先でワインをあけ始める彼女については黙っていることにしました。
◇
「魚のえさやりよし。テレビよし。給湯器よし。マッサージの派遣ゴーレムさんの配備よし、シャンプーよし。サウナよし。砂風呂に岩盤浴よし。五右衛門風呂もよし。水質もばっちり」
開店直前の時間。
番台のメモを見て、一つ一つ指を折りながら仕事を確認します。
多分、大丈夫のはずです。
ちょっとだけ昼寝もして、眠気も吹き飛ばしました。
「女将さん、開けても大丈夫ですか?」
「ええ、仕込みも終わったわ。大分クーラーも利いてきたし……」
「はい。承知しました!」
『淡雪』と書かれた暖簾のむこうから聞こえた声を確認してから、ドアを開けます。
むわり、と入ってくる外の熱気と太陽の光。
きっと今日も、たくさんの人が汗をかいてやってくるのがわかる。そんな天気でした。
「たのもー!なのじゃ!」
「なのじゃっ!」
店を開けてから数分、一番目のお客さんがいらっしゃいます。
バフォメットの二人姉妹。
元気よく肉球のついた手を振る姿は、本当にかわいらしいです。
「ふっふっふ、仕事が終わったお兄ちゃんに、一番風呂で磨き上げた体を見せるのじゃぞ、賢妹よ」
「うん、がんばる。あねうえー」
「と、言うわけで二人なのじゃ」
「子供料金ですね?」
「ん、ワシの分は大人料金じゃ。15歳になったのじゃからな!」
二人分の料金を置いて、女湯のほうに向かう二人。
偽れば男湯にも入れる彼女たちですが。夫が出来てからはずっと女湯に通っています。
「一番風呂はワシのものなのじゃ!」
「あー、溺れないでくださいね」
「大丈夫、ワシがついておるからの!」
健やかに笑う彼女たちからは、暖かな精の香りがしました。
「お、今日は一人か」
「はい。お留守番です!」
「ご苦労様。あ、シャンプー買って良いかな?」
「はい、喜んで!」
「あ、あたしも欲しいんだなぁ……今日は大きなアレンジメントのお仕事があって、髪がぼさぼさだあ」
「どうぞ」
「ふふ、やっぱりいい香りだぁ……」
「マスター。ココでございますか?」
「んほぉぉぉぉっ!?しょこなのぉぉぉぉ!このマッサージしゅごぉぉい!?」
それから、日がくれていき、だんだんと人が増えてきます。
夕食前のひとっ風呂とあがりこんでくる方がやってくるのです。
人間の男の人をはじめとして、既婚のインキュバスさん。
そして、多くの魔物たち。
トロールのさんや、オーガさんなどの地上で暮らす種族から。
クラーケンやセルキー、シー・ビショップなどの海で暮らす種族。
サンダーバードさんやシルフさんなどの空で暮らす種族。
本当に、種族を選ばず色々な人が来ます。
−−そう、本当に種族を選ばないのです。
「たのもう」
「はい、こんばんは。プレシャナさん」
聞こえてきた声に振り返ると、たっていたのは美しい女の人でした。
現実感を感じさせない金色の髪。
湖水を映したような蒼の瞳。
そして、天使の証である純白の翼。
この銭湯の常連さん。ヴァルキリーのプレシャナさんもその一人。
本来天使というとわたしたち魔物と敵対している存在のはずなのですが。彼女は良くこの銭湯に来ているのでした。
「む、今日は主人はおらんのか?」
「ええ、今日はお留守番です」
「−−ふ、そうか。ならば」
不敵な笑みを浮かべる彼女はわたしに近づくと、そっとあるものを握らせました。
ビニールに包まれた、小さな塊。
手を開くと、『漢方のど飴』と達筆な文字で書かれたパッケージが見えました。
「あとで、食べるといい。今は仕事中だから駄目だぞ?」
「はい!ありがとうございます!」
「ふ、糖分は脳にとって欠かせない栄養素だからな。ああ……大切な栄養素だ」
こうして飴をもらう回数は一度ではありません。
天使、魔物という立ち居地は関係なく、わたしはいつも優しい彼女のことは大好きなのです。
「留守番、頑張れよ?」
「はい!」
お代を払う彼女の背を見ながら、わたしは静かに微笑むのでした。
◇
「ふああ……」
夜もふける時間、お客さんが少なくなったころ。
わたしは小さくあくびをかみ殺しました。
少しだけかすむ視界で時計を見れば、すでに日付がかわってから久しい時間。
「うぃ、また来るよ……」
「はぁい、今度は真夏の美味しい料理でおもてなししますね♪」
ちらりと首を伸ばせば『淡雪』から酔客さんが一人ひとりと見送られていくのが見えました。
「ご主人様、大丈夫かなあ」
「おや、どうしたんだい?こんな時間に番頭に立ってるなんて」
「お留守番です」
そんな風に、眠気と戦いながらぼんやりとしていると、聞き覚えのある声が耳に響きます。
顔を上げると、にやりと笑う女性が立っていました。
ちろり、とのばされた舌の長さが彼女の種族−−あかなめであることを物語っています。
彼女はこの『金玉の湯』の掃除をしてくれる人です。
いつもぴかぴかに磨いてくれる彼女には感謝しても仕切れません。
「そっか。大分汗かいてるにおいもするし。女将さんが帰ったら早めに寝るんだよ?」
「ふああ……ありがとうございます……」
「おっと」
眠気でちょっとふらふらになったところを、やわらかな感触が支えます。
目をあけると、するりと伸びた彼女の舌がわたしの体を受け止めていました。
「全く。そんな状態で番台にたってもしょうがないだろ」
「うう、申し訳ありません」
「とにかく、寝ることは難しいだろうからさ。眠気覚ましにもなるし、さっさとお風呂に入っきなよ。番台くらいなら代わってやるから」
「でも」
「でもも、かももなし!番台は清潔感があるほうが良いだろ?ほら、行った行った」
そのままの姿勢で、風呂場に連行されてしまいます。
いつの間にか服を脱がされてしまったので、番台に戻ることも出来ません。
どうやら、拒否権はないようでした。
◇
「……ふう」
体を洗ってから、風呂場のお湯に沈みこみます。
口まで沈むとぷくぷくと小さな泡が水面に浮かびました。
全身を包むのは、濃い生薬の香り。すう、と息を吸えば体の中に独特の匂いが満ちていきます
。
わたしが入っているのは「金玉の湯」、特製の薬湯。茶色の湯が、たぷんとゆれると。ぴりぴりと肌にしみこむ湯の温かさが心地よく意識をゆるめました。
効能は『疲労回復』『リウマチ』『冷え性』といった基本のものから。
『眠気覚まし』『辛い気持ち』『骨折』『尾っぽがふかふかになる』と、普通の薬湯とは思えない作用まで。
多くの効能がある、すごいお風呂なのです。
「名も知らぬ 遠き島より……♪」
周囲を見るともうほとんどのお客さんが帰ったようで。
ほとんど貸しきりのような状態になっていました。
誰も居ないのをいいことに、少しだけ鼻歌を歌ってしまいます。
お風呂は音が響きやすいですが、貸切ですし、なにより打たせ湯やジェット風呂が音を消してくれます。
「……いずれの日にか 国に帰らん♪」
その歌は、わたしが生まれるずっと前の曲だと、ご主人様が教えてくれたのを思い出しながら、のんびりと歌います。
ひとつ歌い終わるころには、ちょうど良く薬湯の効能が体に染み渡っていました。
ざぱり、と風呂から上がってシャワーで流すと、頭はすっきりと冴え渡ります。
「ふふ、歌を歌ってたってことは、リラックス出来たみたいだね」
「はい、ありがとうございます!」
「うんいい返事だ」
籠の力できれいになった服を着るわたしに、にやり、と番頭に座っていた彼女が笑います。
長く伸びた舌が、器用にわたしの頭を叩きました。
「じゃ、今度はこっちの番だね。ぴっかぴかにしてあげる」
「お願いします」
女風呂に消える彼女の姿を見送りながら、番台に座ります。
最後の、ひと踏ん張りです。
◇
「ただいまあ……」
「おかえりなさいませ、ご主人様」
「ええ、ありがとう。いなほちゃん」
閉店のアナウンスを流し終え、お客様が居なくなった頃。
最後にやってきたのはご主人様でした。
美しく長い髪はややくたびれ、尾も少しだけたれてしまっていました。
「大丈夫ですか?」
「ブーケ争奪戦に、まさかリリムとファラオ、ワイトまで参戦するなんて……」
「……?」
とにかく、大変なことがあったようです。
ふらふらとするご主人様の体を支えると、汗の甘い香りがただよっていました。
「お留守番、本当にお疲れ様。とりあえず、もう寝て良いわよ?お風呂入ってくるから」
「……は、はい」
ふらふらとお風呂に歩いていくご主人様。
その姿をみたわたしは−−少しだけ嘘をつく決意をしました。
「わたしもお風呂、まだ入っていないですから。一緒に入っていいですか?」
「あら、本当?」
「お背中、お流ししますから」
服を脱ぐご主人様のとなりで、わたしも急いで服を脱いで籠に入れます。
いくらシャワーで流しているとはいえ、ご主人様の嗅覚をもってすればを薬湯の香りなどは簡単にかぎ分けられるでしょう。
きっと、わたしの嘘なんてお見通しに違いありません。
しかし彼女はにっこりと微笑んで。
「じゃ、お願いするわね♪」
ふるりと、大きな9本の尾を振ったのでした。
◇
「……おやすみなさい」
「ええ、いい夢を見てね」
ゆっくりとお湯に浸かった後、そのままずるずるとお布団にもぐりこみます。
やわらかなシャンプーの香りが、眠りの世界へといざなってくれました。
思い出すのは、一緒に湯に浸かったご主人様の、ふかふかの尻尾。
そして、もう一つ。
彼女に出会ったときの思い出でした。
−−そう、春先のあの日。
無謀なわたしが、ご主人様に出会ったときの事。
恥ずかしくて、大切な思い出でした。
数年前の事を思い出します。
たった一年だけど、忘れられない大切な思い出
ご主人様と出会えて
あなたと出会えて
本当に、良かった−−』
◇
「ん……」
カーテン越しの爽やかな光で、わたし−−進藤いなほは目を覚ましました。
枕もとの時計は五時三十分。いつも通り、目覚ましに頼らない目覚めです。
伸びをひとつして布団から出て深呼吸、涼しい空気が胸いっぱいに広がります。
春と、夏の間。梅雨の時期をこえた頃。
段々暑くなる時期ですが、まだまだ朝は爽やかな気分です。
「よしっ!今日も一日頑張ります!」
布団を畳んで寝巻きを白のワンピースに着替え、洗面所で顔を洗えば、頭の中もすっきりです
。
歯磨きをするのも忘れません。
毎朝の歯磨きには風邪を予防する力があるのです。
歯磨きを終えたら寝癖だらけの長い黒髪を梳かしつつ、鏡で軽く体をチェックします。
頭にはえた稲荷の狐耳と、おしりからはえた尻尾。
服の上でもわかるほど平らなプロポーションは昨日から何一つ変わりません。
毎日ホルスタウロスさんからミルクを貰っているのですが。一朝一夕にはならず、ということでしょうか。
ご主人様のような見事な肉体への道は中々に遠いようです。
「……さて」
ちょっとだけ、落ち込んだ気分を誤魔化すように、台所へ向かいます。
とてとてと音を立てる冷たい板張りの廊下が、足に心地よさを伝えてくれます。
「今日は、何にしましょうか」
冷蔵庫の中身を思い出しながら、流し台にたつための踏み台とエプロンを用意します。
とりあえず昨日買ったばかりの鯖と、炊き立てのご飯。
旬ですし塩焼きは確定です。
ちなみに鯖の旬はもっと後ですが、この鯖は夏が旬だったりします。ゴマサバ、というのだそうです。……実際には一年中美味しい。というのが正しかったりしますが。
栄養を考えたらあとは汁物と、副菜をひとつかふたつ。
夏も近いですし、体を冷やす茄子を味噌汁にしてみるとしましょう。だしは先日のうちに煮干からとったものです。
あとは夏ばて防止にオクラと梅肉の和え物。
箸休めのお漬物は胡瓜です。
一度メニューが決まったら動きは早いです。
鯖には塩をして、水が出てきたらふき取って臭みを取って十字に切込みをいれます。お酒をちょっと使えばふっくら、ぱりっと仕上がります。
茄子は切ってから水につけてアクを取ってから炒めて油を吸わせてから味噌汁へと。
オクラは塩水で洗ってちくちくとした外側を綺麗にして行きます。
ちょっとしたひと手間と愛情が大切だと、どれもお母様が教えてくれた事です。
「よし、いい香りですっ」
グリルから鯖の良い香りがするころには、ご飯の炊ける蒸気がふわりと上がりました。
炊飯器、というのは本当に便利です。
ジパングにいた頃も炊く道具こそあったものの、腕に依存してしまいます。
こうして時間を指定して、美味しいお米が食べられる。
本当にこちらの世界の技術力には感謝です。
「あら、いい香りね」
「ご主人様、おはようございます」
「ええ、おはよう。いなほちゃん。ご飯はこぶの手伝うわ」
「ありがとうございます!」
不意にかけられた声。ふりかえると、美しい女性がたっていました。
美しい金色のさらりとした髪と優しい表情、見事にくびれた腰と女性らしい曲線を描く胸と腰
。
そしてぴょこんと主張した耳、なによりも目を引く黄金の尾は九本です。
彼女こそ、わたしが居候している『金玉の湯』の女将さん。
すなわちわたしが、ご主人様と呼ぶお人です。
……とても凄い力をもっていて、美人だと言うのに結婚相手がみつからないのは本当に不思議……。
「いなほちゃん?」
う、謎の寒気がしてきました。
考えるのはやめにします。
「ご、ご主人様。冷めちゃいますから!早く運びましょう」
誤魔化すように叫びつつ、目覚ましのほうじ茶をたっぷりと二人分のコップに注ぐわたし。
ちなみに、ご飯は交互に担当となっています。
「ご飯くらい出すわよ」と言ってくれたご主人様に、わたしが頼み込んだ形です。
「いただきます」
鯖の塩焼きの前で一礼をひとつ。
向かい合ってご飯を食べます。
鯖の塩焼きをほぐして一口、そのままご飯に合わせると魚の味わいと旨みが口の中に広がります。
ふわふわの油揚げも大好きですが、新鮮なお魚も大好きです。何度も咀嚼して丁寧に味わいます。
そうして口の中がくどくなったところをとろけた茄子の味噌汁で流してさっぱりとさせつつもう一回お魚へ。
時折別の食感と酸味のために茹でて刻んだオクラと梅肉の和え物を織り交ぜつつ、箸を進めて行きます。
うん、ご主人様ほどではないけれど中々美味しく出来ました。
「いなほちゃん、本当にいいの?お留守番頼んじゃって」
「ええ、行ってらっしゃいませ」
半分くらい箸を進めた当たりで、ご主人様の発した言葉に、わたしはうなずきます。
今日は、ご主人様が遠くへ出かける日なのです。
本来は『金玉の湯』を閉めていくのですが、わたしができます!と語ったのが先日。
頑張って仕事を覚えて、いざと言うときのメモもあります。
普段、手伝っている分の経験もあるはずです。
きっと大変でしょうが、そこは、ご主人様の役に立つため。
なにも準備もせずにこちらの世界に来てしまったわたしをたすけてくれた恩を少しずつでも返せるように頑張らないといけないのです。
「ちゃんと、一日だけですが『金玉の湯』を守って見せます!」
「ふふ、ありがとうね」
ぎゅっと手を握って気合を入れるわたしに、ご主人様は優しく微笑んでくれたのでした。
◇
「ちゃんとお昼とか夕飯は食べてね?冷蔵庫の中に用意しておいたから」
「はい!」
「あと、困った事があったらここに連絡してね」
「はい!」
「あとは……そうね。帰るのが遅かったら。先に寝てていいわよ」
玄関口で、ご主人様をお見送りします。
普段とは違う、気合の入った服装。
ぴしりと決まったご主人様は、本当に素敵でした。
どんな用事かきくことは出来ませんでしたが、きっと大変なことがあるのでしょう。
まるで、戦場に向かうかのような、覚悟が決まった表情からもそれが察せられます。
推し量る事しか出来ないので、わたしは祈る事しか出来ませんが……。
「じゃあ、行って来るわね」
「はい、いってらっしゃいませ」
九つの尾をピンとたたせたご主人様が角を曲がるまで、手を振ってから、家の中に戻ります。
やることはいっぱいです。
お掃除に、お洗濯。
そして、何より『金玉の湯』の番台。
頭の中でやることを確認しながら、深呼吸をひとつ。
空を見上げれば、美しい青空が広がっていました。
◇
「洗濯から、がんばりますか!」
最初にわたしが手をつけたのはお洗濯でした。
目の前にあるのは、一杯のタオルと雑巾。
毎日沢山掃除をするのでどうしてもたまってしまうのです。
「よい、しょっと……」
カゴに山盛りのタオルを洗濯機で洗います。
バスタオルと、体を洗うタオル。雑巾は別々です。
実はカゴにも魔力が込めてあって、一晩のうちに汚れの大半を取り除いていてくれたりします(お客様にも大好評です)が、最後はちゃんと洗濯機で洗うのです。
特製の柔軟剤と洗剤を入れて洗い、さんさんと輝く太陽光で干せば良い香りが心に優しく響きます。
「よしっ!」
洗いおえたバスタオルをいっせいに竿に干すと、白い布がひらひらと舞いました。
こうして水分を蒸発させると、周囲の気温もしっかりと下げてくれるのです。
梅雨の間は外に干せず、ご主人様の狐火で乾燥させていた為。こうして太陽の下でじっくり干せる。というのは中々に嬉しいです。
「さて、お掃除もしっかりとしないと!」
さて、洗濯機に物干しと時間はかかりましたが、お仕事はいっぱいあります。
わたしが次に手をつけたのはお掃除。
清潔な場所、というのは大切です。
特に銭湯は体を洗う憩いの場所。
汚くては話になりません。水質を検査したら、すぐに清掃に取り掛かります。
裾を折って、素足で立つわたしの前にあるのは、たくさんの浴槽。
深夜のうちにあかなめさん達がぴっかぴかにしてくれるのですが、夜のうちにたまってしまう汚れは防ぐことができません。そして何より、彼女たちの魔力の残滓が残ってしまうという大きな欠点があります。
「来たれ〜狐火っ」
なので指先に集中して、魔力を集めます。
ぽわんと浮かぶのは手のひらくらいの大きさの青白い炎。
これは狐火、と呼ばれる魔力と欲望の塊です。
こうして集めた炎は魔力の塊という性質上、普通の燃え方をせず、熱くもなく、精を燃料に燃えていくという性質があります(そして、たまに魔物娘になったりします)。
そのため、お掃除の時はこうして残った精の残滓を丁寧に燃やし、汚れの元を断っていくのです。
「えいっ!」
指先を舞わせ、丁寧に、丁寧に壁面をなぞって浴槽を清めます。
ご主人様であれば、周囲八方に狐火を飛ばして、座りながらにして掃除ができるのですが、そこはまだまだ一尾のわたし。
周囲を歩き回って、時間をかけてやっていくのです。
炎で清めたら、今度は床はポリッシャー(モップのお化けみたいな機械です)鏡や細かい部分は雑巾でぬぐいます。
内風呂を終えたら、サウナ、地下。そして露天へ向かいます。
「ふふ、おはよう」
「おはようございます!」
そうしてがんばっていると、上から声が聞こえます。
見上げると美しい緑色の葉桜が目に鮮やかです。
隣の塀、向こう側に居るのはドリアードのお隣さんした。
目があうと、彼女はにっこりと微笑みました。
「落ち葉のほうは心配しなくても大丈夫よ。お湯には落とさないであげたから」
「あ、ありがとうございます」
さらさらとそよぐ葉桜の音を聞きながら、浴槽を磨くと季節を感じます。
葉っぱの間からこぼれる日の光が、水の上に独特の濃淡を作り出していました。
「今日は一人なの?」
「はい、お留守番なのです」
「ふふ、頑張ってね。−−あ、いい時間ね。私もお昼ご飯とらなきゃ♪」
手を振る彼女に頭を下げつつ、部屋へと戻ります。
戻るついでに洗濯物を入れ替えるのも忘れません。
こうして腰を使った後はううん、と伸びをすると、背中がぎゅうっと気持ちよくなります。
時計をちらりと見れば、そろそろお昼の時間なのでした。
◇
「こんにちは……」
昼下がり、お昼ごはんのきつねうどんをすすり終えるころ。
玄関から聞こえてきた声へと、急いで向かいます。
からり、とガラス製のドアを開ければ、立っているのは美しい着物を着たゆきおんなさんでした。
額から汗をかきつつ、ゆるりと歩くさまは本当に大変そうです。
初夏の陽射しでも、彼女たちにとっては大事なのでしょう。
「うう、暑いわね。もう……」
「もう初夏の頃合ですから」
「もっと暑くなるのよね……これから」
彼女はこの『金玉の湯』内にある食事処『淡雪』の女将さん。
湯上りのお客様たちお食事を楽しんだり、サウナ上がりの一杯をいただく場所を提供してくれる方です。
その料理の腕は的確で、話し上手ということもあり、時折ご飯だけ利用のお客様もいらっしゃるほど。
店内からは毎日、よくコロコロという彼女の笑い声や、お客さんたちの話し声がちょうどよく聞こえてくるのでした。
「はやくいい人を見つけて、がっつりクーラーの利いた部屋で二人で睦びたいわ……」
「はは……」
「いなほちゃんも、もふもふだから大変でしょう?まったく、夏なんて……」
とはいえ、それは営業時間の話。
今のような暑い時間帯は、唯一といっていい彼女の弱点。
普段はしない愚痴をはきながら、彼女はふらふらと歩いていくのでした。
ちなみに、この食事処『淡雪』の女将さんはすでに十代を超える代替わりをしていたりします
。
ほとんどがお客さんにほれ込んで、そのまま寿退職のパターンです。
最短記録は二日だったようで、ご主人様が代役を探すのに苦労したとか。
「お届けにあがりましたー」
「今日はいい天気だねえ!」
「こんにちは」
「うんうん、挨拶は大事大事。ワインもおいしくなるからね!」
そんな疲れた雰囲気を持つ女将さんが下ごしらえに入るころ。
やってきたのはサテュロスである酒屋さん(兼:バッカスの神官)とその夫さん(ハンドルキーパー)でした。
真っ赤な顔をした彼女からはかすかどころではないアルコールの香りがします。
しかし、こつこつと蹄を鳴らし、ひょいと酒の入ったケースを置く彼女の動きにはまったくのよどみがありません。
酒は飲んでも呑まれるな、ということなのでしょうか。
お酒を呑んだことがないのでよく分かりませんが……。
「さて、今日の分のビールと日本酒とチューハイに。あと牛乳屋さんが今日結婚式に出席して休みだから代わりの牛乳……」
「手伝うよ!」
「僕は『淡雪』の分を運んどくから」
「あ、ありがとうございます」
「ふふっ、お留守番がんばってね♪」
ウィンクをつややかに決める彼女に、思わず微笑みながらケースの中身を、丁寧に冷蔵庫に並べていきます。
ちなみに牛乳はホルスタウロス牛乳と、普通の牛乳の二種類+フレーバー。ワインも陶酔の果実から作ったものだけではなく。普通の葡萄を使ったものも用意します。
ホルスタウロスさんの牛乳はおいしいのですが、魔物化の可能性があるからだそうです。
『人として生きるのも、魔物として生きるのも。インキュバスになるのも。いっぱい悩んで、いっぱい考えて。それからでもいいと思うからね』とは、彼女の談。『酒は無理やり飲まされたら、おいしくないでしょ?幸せも、きっと同じかもしれないよ』。そう笑ってウィンクする彼女には、確かに、神官と名乗るだけの何かがあったのを覚えています。
きっと、このあたりがご主人様がこの酒屋から卸してもらう理由なのでしょう。
「うーん、仕事中に呑むお酒最ッ高!太陽に、ワイン。最強だね!」
「……あはは、ごめんね」
「もう、つれないんだから……ほら、一口一口」
「わぁっ!?待て!僕はハンドルキーパーだって言ってるだろっ」
……なので、店先でワインをあけ始める彼女については黙っていることにしました。
◇
「魚のえさやりよし。テレビよし。給湯器よし。マッサージの派遣ゴーレムさんの配備よし、シャンプーよし。サウナよし。砂風呂に岩盤浴よし。五右衛門風呂もよし。水質もばっちり」
開店直前の時間。
番台のメモを見て、一つ一つ指を折りながら仕事を確認します。
多分、大丈夫のはずです。
ちょっとだけ昼寝もして、眠気も吹き飛ばしました。
「女将さん、開けても大丈夫ですか?」
「ええ、仕込みも終わったわ。大分クーラーも利いてきたし……」
「はい。承知しました!」
『淡雪』と書かれた暖簾のむこうから聞こえた声を確認してから、ドアを開けます。
むわり、と入ってくる外の熱気と太陽の光。
きっと今日も、たくさんの人が汗をかいてやってくるのがわかる。そんな天気でした。
「たのもー!なのじゃ!」
「なのじゃっ!」
店を開けてから数分、一番目のお客さんがいらっしゃいます。
バフォメットの二人姉妹。
元気よく肉球のついた手を振る姿は、本当にかわいらしいです。
「ふっふっふ、仕事が終わったお兄ちゃんに、一番風呂で磨き上げた体を見せるのじゃぞ、賢妹よ」
「うん、がんばる。あねうえー」
「と、言うわけで二人なのじゃ」
「子供料金ですね?」
「ん、ワシの分は大人料金じゃ。15歳になったのじゃからな!」
二人分の料金を置いて、女湯のほうに向かう二人。
偽れば男湯にも入れる彼女たちですが。夫が出来てからはずっと女湯に通っています。
「一番風呂はワシのものなのじゃ!」
「あー、溺れないでくださいね」
「大丈夫、ワシがついておるからの!」
健やかに笑う彼女たちからは、暖かな精の香りがしました。
「お、今日は一人か」
「はい。お留守番です!」
「ご苦労様。あ、シャンプー買って良いかな?」
「はい、喜んで!」
「あ、あたしも欲しいんだなぁ……今日は大きなアレンジメントのお仕事があって、髪がぼさぼさだあ」
「どうぞ」
「ふふ、やっぱりいい香りだぁ……」
「マスター。ココでございますか?」
「んほぉぉぉぉっ!?しょこなのぉぉぉぉ!このマッサージしゅごぉぉい!?」
それから、日がくれていき、だんだんと人が増えてきます。
夕食前のひとっ風呂とあがりこんでくる方がやってくるのです。
人間の男の人をはじめとして、既婚のインキュバスさん。
そして、多くの魔物たち。
トロールのさんや、オーガさんなどの地上で暮らす種族から。
クラーケンやセルキー、シー・ビショップなどの海で暮らす種族。
サンダーバードさんやシルフさんなどの空で暮らす種族。
本当に、種族を選ばず色々な人が来ます。
−−そう、本当に種族を選ばないのです。
「たのもう」
「はい、こんばんは。プレシャナさん」
聞こえてきた声に振り返ると、たっていたのは美しい女の人でした。
現実感を感じさせない金色の髪。
湖水を映したような蒼の瞳。
そして、天使の証である純白の翼。
この銭湯の常連さん。ヴァルキリーのプレシャナさんもその一人。
本来天使というとわたしたち魔物と敵対している存在のはずなのですが。彼女は良くこの銭湯に来ているのでした。
「む、今日は主人はおらんのか?」
「ええ、今日はお留守番です」
「−−ふ、そうか。ならば」
不敵な笑みを浮かべる彼女はわたしに近づくと、そっとあるものを握らせました。
ビニールに包まれた、小さな塊。
手を開くと、『漢方のど飴』と達筆な文字で書かれたパッケージが見えました。
「あとで、食べるといい。今は仕事中だから駄目だぞ?」
「はい!ありがとうございます!」
「ふ、糖分は脳にとって欠かせない栄養素だからな。ああ……大切な栄養素だ」
こうして飴をもらう回数は一度ではありません。
天使、魔物という立ち居地は関係なく、わたしはいつも優しい彼女のことは大好きなのです。
「留守番、頑張れよ?」
「はい!」
お代を払う彼女の背を見ながら、わたしは静かに微笑むのでした。
◇
「ふああ……」
夜もふける時間、お客さんが少なくなったころ。
わたしは小さくあくびをかみ殺しました。
少しだけかすむ視界で時計を見れば、すでに日付がかわってから久しい時間。
「うぃ、また来るよ……」
「はぁい、今度は真夏の美味しい料理でおもてなししますね♪」
ちらりと首を伸ばせば『淡雪』から酔客さんが一人ひとりと見送られていくのが見えました。
「ご主人様、大丈夫かなあ」
「おや、どうしたんだい?こんな時間に番頭に立ってるなんて」
「お留守番です」
そんな風に、眠気と戦いながらぼんやりとしていると、聞き覚えのある声が耳に響きます。
顔を上げると、にやりと笑う女性が立っていました。
ちろり、とのばされた舌の長さが彼女の種族−−あかなめであることを物語っています。
彼女はこの『金玉の湯』の掃除をしてくれる人です。
いつもぴかぴかに磨いてくれる彼女には感謝しても仕切れません。
「そっか。大分汗かいてるにおいもするし。女将さんが帰ったら早めに寝るんだよ?」
「ふああ……ありがとうございます……」
「おっと」
眠気でちょっとふらふらになったところを、やわらかな感触が支えます。
目をあけると、するりと伸びた彼女の舌がわたしの体を受け止めていました。
「全く。そんな状態で番台にたってもしょうがないだろ」
「うう、申し訳ありません」
「とにかく、寝ることは難しいだろうからさ。眠気覚ましにもなるし、さっさとお風呂に入っきなよ。番台くらいなら代わってやるから」
「でも」
「でもも、かももなし!番台は清潔感があるほうが良いだろ?ほら、行った行った」
そのままの姿勢で、風呂場に連行されてしまいます。
いつの間にか服を脱がされてしまったので、番台に戻ることも出来ません。
どうやら、拒否権はないようでした。
◇
「……ふう」
体を洗ってから、風呂場のお湯に沈みこみます。
口まで沈むとぷくぷくと小さな泡が水面に浮かびました。
全身を包むのは、濃い生薬の香り。すう、と息を吸えば体の中に独特の匂いが満ちていきます
。
わたしが入っているのは「金玉の湯」、特製の薬湯。茶色の湯が、たぷんとゆれると。ぴりぴりと肌にしみこむ湯の温かさが心地よく意識をゆるめました。
効能は『疲労回復』『リウマチ』『冷え性』といった基本のものから。
『眠気覚まし』『辛い気持ち』『骨折』『尾っぽがふかふかになる』と、普通の薬湯とは思えない作用まで。
多くの効能がある、すごいお風呂なのです。
「名も知らぬ 遠き島より……♪」
周囲を見るともうほとんどのお客さんが帰ったようで。
ほとんど貸しきりのような状態になっていました。
誰も居ないのをいいことに、少しだけ鼻歌を歌ってしまいます。
お風呂は音が響きやすいですが、貸切ですし、なにより打たせ湯やジェット風呂が音を消してくれます。
「……いずれの日にか 国に帰らん♪」
その歌は、わたしが生まれるずっと前の曲だと、ご主人様が教えてくれたのを思い出しながら、のんびりと歌います。
ひとつ歌い終わるころには、ちょうど良く薬湯の効能が体に染み渡っていました。
ざぱり、と風呂から上がってシャワーで流すと、頭はすっきりと冴え渡ります。
「ふふ、歌を歌ってたってことは、リラックス出来たみたいだね」
「はい、ありがとうございます!」
「うんいい返事だ」
籠の力できれいになった服を着るわたしに、にやり、と番頭に座っていた彼女が笑います。
長く伸びた舌が、器用にわたしの頭を叩きました。
「じゃ、今度はこっちの番だね。ぴっかぴかにしてあげる」
「お願いします」
女風呂に消える彼女の姿を見送りながら、番台に座ります。
最後の、ひと踏ん張りです。
◇
「ただいまあ……」
「おかえりなさいませ、ご主人様」
「ええ、ありがとう。いなほちゃん」
閉店のアナウンスを流し終え、お客様が居なくなった頃。
最後にやってきたのはご主人様でした。
美しく長い髪はややくたびれ、尾も少しだけたれてしまっていました。
「大丈夫ですか?」
「ブーケ争奪戦に、まさかリリムとファラオ、ワイトまで参戦するなんて……」
「……?」
とにかく、大変なことがあったようです。
ふらふらとするご主人様の体を支えると、汗の甘い香りがただよっていました。
「お留守番、本当にお疲れ様。とりあえず、もう寝て良いわよ?お風呂入ってくるから」
「……は、はい」
ふらふらとお風呂に歩いていくご主人様。
その姿をみたわたしは−−少しだけ嘘をつく決意をしました。
「わたしもお風呂、まだ入っていないですから。一緒に入っていいですか?」
「あら、本当?」
「お背中、お流ししますから」
服を脱ぐご主人様のとなりで、わたしも急いで服を脱いで籠に入れます。
いくらシャワーで流しているとはいえ、ご主人様の嗅覚をもってすればを薬湯の香りなどは簡単にかぎ分けられるでしょう。
きっと、わたしの嘘なんてお見通しに違いありません。
しかし彼女はにっこりと微笑んで。
「じゃ、お願いするわね♪」
ふるりと、大きな9本の尾を振ったのでした。
◇
「……おやすみなさい」
「ええ、いい夢を見てね」
ゆっくりとお湯に浸かった後、そのままずるずるとお布団にもぐりこみます。
やわらかなシャンプーの香りが、眠りの世界へといざなってくれました。
思い出すのは、一緒に湯に浸かったご主人様の、ふかふかの尻尾。
そして、もう一つ。
彼女に出会ったときの思い出でした。
−−そう、春先のあの日。
無謀なわたしが、ご主人様に出会ったときの事。
恥ずかしくて、大切な思い出でした。
17/05/03 23:38更新 / くらげ
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