第9話
「葵……お前、一体何を言ってんだ?」
目の前のサンダーバードは、私の肩をその雄々しい翼で押さえつけるように掴んでいる。その羽根の一枚一枚がこすれるたびに静電気が小さく弾けて、私へとチリチリと流れ込んでくる。
「ですから、私は貴方のことなんて……」
だけど、私は最後まで言葉を繋げることはできなった。
悲壮に塗りつぶされたサンダーバードの顔を見た途端、喉元の筋肉がきゅうと締まって塞き止めてしまったからだ。
「悠希さん。ナベちゃんは今、体調が悪いんだ。仕事も復帰したばかりで……」
ただならぬ気配を感じたのか、仲裁のために俊介ご主人様が割って入る。
「俊介。何なんだこれは?」
でもその彼に対して送られた悠希の視線は、恐ろしく鋭く、背筋まで貫かれかねないほどの冷ややかな刃物のようだった。
「お前がいて、このざまは何だって聞いてんだよ」
「……面目ない」
「てめぇのクソも拭けねぇ便所の紙以下の謝罪なんかいらねぇよ」
「返す言葉もない」
俊介ご主人様は、悠希の口汚い罵倒を甘んじて受け入れるように、何度も何度も頷いていた。
一通りの罵倒を嘔吐した後、悠希は軽く舌打ちをして、せり上がる感情を無理矢理飲み込むように派手に首を前後させる。
「なぁ葵……本当にアタシのこと、覚えていないのか?」
悠希が天井を見上げたまま、まるで独り言みたいに声をかけてくる。
「それは……」
覚えていない。と、時が経つごとに即答できなくなる。
どこかであったかもしれない。
何かを話したかもしれない。
でも私の頭の中からは、どうしてもその記憶を掘り起こすことが出来なかった。だからといって、彼女の言葉の一つ一つを嘘と断定し、無視することもまた同様に難しかった。
「俊介のことは、覚えているのか?」
「一応、この店での私のご主人様ですから。俊介ご主人様のお知り合いの方、ですよね?」
そう返答をした途端、目の前の二人の眉間と口端に一層深いしわが刻まされる。
「本当にごめん。俺も知らなかったんだ」
消えそうな声で俊介ご主人様がそう呟いた後、悠希も俊介ご主人様も、衝動的な感情をぎりぎりで飲み込むように口元を押さえつけていた。
それきり、いつまで経っても一向に紡がれない会話に、居心地の悪さが私の喉奥に絡みつく。
あぁ、私はまた余計なことを言ってしまったのかもしれない。
自責の念が私の足元を掴み、私を私の中に閉じ込めようとしてくる。
目の前が暗く、遠く、彩りを失っていく。
どう応えればよかったのだろうか。
どう言えば、彼女らに嫌な思いをさせなかったのだろうか。
あぁ、面倒だ。何もかも。
こんなに面倒ならば意識なんて、意志なんて持たなければ良かったのに。
「葵。聞いてほしいことがある」
嘆願の声と共に、私の肩に静電気が走る。
上げた目線の視界、その両端には柔らかく弾け揺れる悠希の翼があった。
「は、はい。なんでしょう?」
「アタシと、外に行こう」
「えっ?」
突然の外出のお誘いに唖然としてしまうも、言っている悠希は紛れもなく真剣な態度だ。
「……すみません。言っている意味がよく」
「今のお前にとっちゃ、アタシは初対面なんだろ? こんなアタシが何を言ったところで、何一つも信用ならんのは分かる。だけど、これだけは確実に言える。お前は、ここに居ちゃダメだ」
はっきりとした現状の否定。
何もをもってそう判断しているのかは分からないけど、悠希の言葉には得も言われぬ決意が満ちていた。
「葵に会えない間に、アタシは色んなことを調べてきた。そして一つの可能性を見つけた。今の葵の状態を見て、それは確信になった。今まで多くの身体の不調があったな? それもそのはずだ。こんな状態じゃまともでいられる方がおかしい」
悠希の言葉が紡がれる度に、皮膚の内側から何かを無理やり引きづり出されるような居心地の悪い感覚に侵される。
確信とは何? 彼女はいったい何を言っている?
「そんなの……で、でたらめじゃ……」
「何がでたらめかなんて、確かめなきゃ分からないだろ?」
言いかけた抵抗も、悠希の圧にぴしゃりとはねのけられる。文字通り有無を言わせなかった。
「葵。アタシはお前を助けたい。今すぐここを出て、アタシとある場所に来て欲しいんだ」
「貴方は、私の何を知っているんですか……?」
「ここじゃ言えないようなことをだ。だから葵、外へ行こう?」
なんておかしなやりとりなんだろうか。
この三十分程度の間で、私は俊介ご主人様をデートに誘い、突如現れたサンダーバードは私を逆に連れ出そうとしている。
偶然なのかは分からない。
悠希のことを覚えていないことも、本当のことだ。
なのに、私自身は何一つとして思い出せないのに、悠希の稚拙な言葉を聞くたびに、小さな静電気が起きるたびに、つられて私の身体にも小さな電撃が走る。
胸に刺さった楔が無理やり引き抜かれていくような、悶えそうな感覚。
もういい、もうたくさんなのに。
そのはずなのに、私の中では確かに何かが「足りてない」と枯渇を訴える。
だけど今度は、私の心臓がそれに対して何度も何度も、警告音を鳴らし始めた。
『やめておいた方がいい』
『この店からは出られない、出てはいけない』
『そんなことをする必要はない』
『なんの意味もない』
両脚が地面に吸盤のように吸い付く。
どういうわけか全身がひどく震えて、悠希の意見に全力で反対しているのだった。
―――ズキン。
そしてあの頭痛が、一際大きく顔を揺さぶる。
引き返せと警告をする。進むんじゃないと否定する。
諦めろ、ここで終わっておけと、未来を覆い隠す。
思い出すんじゃないと、過去を押しつぶす。
どうしようもないほどに薄気味悪い灰色が、強く胸中で荒波を立てる。
それでも、私が私自身を磨り潰す前に、まだ為さねばならないことがある。
そんな予感だけがあった。それだけだった。
「……分かりました」
その言葉を喉奥からサルベージした途端、身体の震えも脚の抵抗感も頭痛も、諦めたかのように身を引いていく。
私は安堵した反面、何か取り返しのつかないことをしでかしたような、酷い罪悪感にも似た不快さに苛まれる。
(大丈夫? 何かノリで返事をしてしまった感じがあるけれど、普通に考えたら初対面の人と出かけるってどうなの? まずくない? お店を抜けること自体は病み上がりだし、引き止められることは無いと思うけど……)
しかしそんなのウジウジした不安感も数秒で、相手にもならなくなった。
「ありがとう葵。受け入れてくれて」
目の前の、悠希のその屈託ない微笑みに目を奪われていたからだった。
私が何もしなくともそのニカリとした悠希を見ただけで、先ほどの念は全て、頭の隅に追いやられて薄れていった。
何も迷いのない感謝に、私はすっと綺麗に自分の背筋が伸びるのを感じる。
(案外、簡単なことだったのかもしれない)
「じゃあ詳しい話は移動しながらするか。行くぞ俊介」
「えっ、俺?」
当然のように催促する悠希に、きょとんとした顔でご主人様が答える。
「でも……深刻そうな話だし、俺が一緒に行ったところで何が出来るわけでも無いし」
ご主人様がそう切り出した途端、悠希は呆れたように眉を歪ませる。
「あのなぁ俊介。"今の"葵はアタシのこと覚えていねぇんだぞ? 顔見知りの付き添いは必要だろ?」
強引に鼓舞するようにご主人様の肩を叩く。
がさつなように見えて、意外と細かい配慮ができるらしい。
しかしそれでもご主人様には自信がないのか、なかなか踏ん切りがつかないようだった。
「ナベちゃんはどう? 俺がついて行っても大丈夫?」
結局悩んだ末、答えを私の方へと投げかけてきた。
そこでビシッと決められないのがご主人様らしくて、つい苦笑してしまう。
「……丁度良いんじゃないでしょうか?」
「丁度良い?」
「ええ、さっきのデートの話です。映画じゃありませんが、悠希さんの言う場所に行ってみましょう。私も見知った人間がいた方が安心します」
そう告げると、俊介ご主人様は安心したように胸を撫で下ろす。
「ナベちゃんがそういうのなら、ついて行くよ」
「決まったな! 二人にオススメのデートスポットを紹介してやるぜ」
「お待ち下さい」
突如、背後から降りかかる、冷たく平坦な口調。
まるで、その場の空気がピリッと氷の薄い膜が何層も張ったみたいに固まった。
「あ、その……」
あまりに露骨すぎる展開だった。
悩みなんてそう簡単に解決するわけがないのだ。
カウンター席の後方数m。そこには声をかけてきた彼女―――シュロさんが佇んでいた。
そして表情一つ変えないまま、しなりしなりと、そよ風一つ立てずに近づいてくる。立ち振る舞いだけなら、彼女は誰の目から見ても完璧なメイドであった。
だけど私には、その態度がそのまま本心ではないことが分かっていた。
私には分かる。
シュロさんは、今、激怒している。
「ナベちゃん、これはどういうことなの?」
シュロさんは異様に柔らかい物腰でそう告げると、静かにその場になおる。
私は何を言えば良いのかも分からず、四肢を硬直させたまま身じろぎもできなかった。
表情は朗らかに微笑んでいるのに、遠目から見た時よりも何倍もの圧力が、シュロさんの背後から押しよせていた。
「あの……これは……」
言葉が続かない。続くわけがなかった。
この全身に降り注ぐような憤怒は、付け焼き刃のような言葉じゃ到底降り払うことは出来ない。
「ねぇナベちゃん。私、何度も言ったはずよ。彼女には近づかない方がいいって」
私が困惑している間、シュロさんは溢れんばかりの苛立ちを口にして、ひたすらにこちらに向けて微笑み続けてくる。
「おう、ショゴスの姉さん。突然だがこの子なんだけどさ。お持ち帰りさせてもらうぜ」
対処の仕方が分からず震え上がるばかりの私をそっちのけに、悠希が何の悪びれもなくそう言ってのけた。
そんな言い方じゃ誤解されるに決まっているのに。
いえ、むしろ誤解させるためにわざと言っているのかもしれない。なんてたちの悪い魔物なのか。
「サンダーバードのお嬢様。貴方には伺っておりません。うちの、従業員の、渡辺葵に聞いているのです」
重く冷たい巨大なギロチンのような、断頭台のイメージがシュロさんの背後に禍々しく浮かび上がる。
下手をすれば本当に首を落とされかねない。そんな雰囲気だった。
「ナベちゃん、一度こちらにいらっしゃい。言い訳は後でゆっくり聞くから」
シュロさんはそういうと、私に向かって右手を差し出す。
先程より幾分か声音が落ちている。
「シュロさん。彼女とはその……ふわ」
何とか誤解を訴えようとすると、一歩を踏み出そうとした時―――突然、後ろから悠希の大きな翼が伸びてきた。
完全に油断していたせいか、すっぽりと顔ごと包まれてしまい、視界もナイルグリーンで覆われてしまう。
「まぁまぁ、ちょっと落ち着けって」
「あ、あわ……んんぁ、んっ!」
顔に掛かっていた翼がもぞもぞと動かされ、やがて上半身を包んでしまう。
羽はトゲトゲした見た目に反して、適度に暖かくふわふわだ。
肌に羽毛が触れる度、鼻孔の近くを柔くくすぐる。心地よさが皮下に向かってビリリと静電気に紛れて伝わってくる。
背筋から続々と蕩けるような暖かな感覚が、脳天に昇っていく。
本来は男性を包み込んで虜にするためのものなのでしょう。
心地よさのせいでちゃんと怒れない自分がいるのが悔しくてもがいていると、その動きがさらに新たな静電気を産み出してしまうきっかけになる。下手に動いたらかえって身動きがとれなくなりそうだ。
「アタシの羽、気に入った奴にしか触らせないんだぜ?」
「どう、でも、いいです……んぅ」
あまり喋ると変な声が出そうだ。
俊介ご主人様に助けを求めようかと思う反面、この姿を見られている恥ずかしさもあって、まるで言葉を出せなかった。
対するシュロさんは力を抜く気などなく、努めて落ち着いているのが、かえって恥辱に拍車をかけてくる。
ちなみにご主人様は端から止める気がないのか。無意味かつ無駄に真剣な顔で私の悶える姿を凝視している。後でシメて差し上げましょう。
「お話をしてもよろしいでしょうか?」
悠希の奇行にもまるで表情を変えずに、シュロさんは淡々と発言する。
「おお、悪いね。最近イチャついていなかったからよ」
「そちらは従業員となっておりますので、プライベートでのお付き合いはご遠慮願います」
「従業員ならよぉ。もっと体調管理をしっかりした方がいいぞ。コイツ体調がひどすぎて記憶がすっ飛んで、仲良しこよしな私のこともよく覚えていないってよ」
口ぶりからすれば、妄想の類いに思われても仕方のない言い方だった。
なにがなんでも連れて行こうという意志の現れなのか。
私を掴む悠希の翼にぐっと力を込められる。
「体調不良に関してはこちらの不徳のいたすところです。ですが、それは医者の領分です。わざわざお嬢様がその娘を連れ回す必要はありませんね」
「そうもいかねぇ。もしアタシの考えが当たっていたら、手遅れになる前に何とかした方がいい。が、それは"ここ"じゃあ不可能だ」
「……お嬢様には関係ないでしょう」
「関係があれば、何してもいいのかよ? って言いそうだよな。"深月さん"ならよぉ」
聞き慣れない名前。
悠希がその一言を告げた途端、シュロさんの様子が一変する。
彼女の口元は糸で引っ張られたように引きつり、黄色の眼は今までで一番というくらいに見開かれて、足元の触手はブルブルと激しく震えている。
明らかに動揺しているのが見てとれた。
「その名前……やっぱり彼女の差し金なのね?」
「さぁ? 今ここで言えることはそれだけでね。誤魔化したままじゃ終われねえぞ?」
いつになく強い語気で悠希はシュロさんを睨み付ける。
シュロさんの口元は笑顔のままだが、その背後からは引きつりそうなほどに膨大な圧が飛んでいる。
お互いに固まったまま、何も言わず。
しかし、決して一歩も退かない。
「誤魔化す? 深月の周りには妄想癖が集まるんですか?」
「けっ、偉そうに。またもう一騒ぎしたっていいんだぜ?」
「……」
それを機にシュロさんは押し黙り、悠希もいつものニカリとした下品な笑みをこぼす。
後方には、顔を引きつらせた俊介ご主人様が呆然と立っている。
暴力や暴言というのは、又聞きしたものと直接経験したものでは根本的に違う。
『自分が巻き込まれる可能性』―――その未知への不安がご主人様から表情というものを容易に奪い取っていた。
繰り返し、繰り返し、続く沈黙。
「……」
「……」
全員、人形のようにピクリとも動かない。
緊張感に喉がやられて、口腔がひどく粘いてくる。
いつまでこの笑顔の睨み合いが続くのか。
一秒一秒がやたら長い。胃袋がひっくり返りそうだ。
早くしなければまた取り返しのつかない事態になってしまいそうだった。
冷や汗が滲むほどに、強烈に何度も折り重ねられる一瞬一瞬。背中の筋肉に力が入りっぱなしで攣りそうになる。
「……もういいシュロ。十分だ」
その嵐の終わりは突如としてやってくた。
諸手を挙げる仕草をしながら、その声の主はシュロさんの後方から現れた。
「店長っ!」
振り向きながらシュロさんが投げつけるようにそう告げる。
そこには堅そうな髪をスポーツ刈り寸前まで短く切った中年の男性が立っていた。
「おお。まさか店長が出てくるとはな」
「君が噂のサンダーバードの娘だね? 私がこのブルーバードの店長だ。改めて挨拶させてもらうよ」
「ご丁寧にどうも。アタシはサンダーバードの榎本悠希だ。突然だが、葵を借りてくぜ?」
「ああ、構わない」
「店長! どうしてっ!」
普段見慣れないほどの形相でシュロさんが咎める。
だが対する店長はまるで反応せず、水を切るように彼女の感情を受け流してしまう。
「前にも言っただろう、シュロ。出来る限り自由にしてあげたいって」
「そうだけど……」
シュロさんはあくまで抗う。だけど、店長の中で既に何かが定まっていることが、その穏和な表情からは読み取れる。
「榎本さんは私の望みを叶えてくれるかもしれないんだ。そして、それは君の望みでもある。君も言ってくれたじゃないか。私が望むのなら、と」
「……言ったわ。確かに言ったわよ。でも……」
最後の抵抗は無駄だと理解したのか。シュロさんは両肩を落とし、項垂れたまま一歩引き下がる。
「榎本さん。彼女のこと、頼んでもいいかい?」
店長はこちらに向き直り、襟元を整えて告げる。
「任せてくれ。ちゃんと終わらせてくる」
「ああ」
店長は悠希の返事に満足げに頷き、シュロさんの肩に手を置く。シュロさんも相当渋っていたが、やがて怨めしそうに悠希を睨みながら店長に連れられて店の奥へと戻っていった。
「ぶはっ!」
完全に二人が見えなくなったのを見計らってから、ようやく悠希の翼の中から解放される。
「はぁー、緊張したぜ」
悠希はわざとらしく胸元を押さえると、やれやれとばかりに息を漏らす。
後方からは同じく息を止めていたのか、ご主人様の派手な深呼吸が聞こえてきた。
「よし、さぁ店の許可は取ったぜ。お二人さん」
「あの……そういえば行くって、何処にですか?」
「決まってんだろ」
悠希は振り返ると、意地悪そうにニタリと口端を上げる。
「一推しデートスポット、アタシの職場だぜ」
目の前のサンダーバードは、私の肩をその雄々しい翼で押さえつけるように掴んでいる。その羽根の一枚一枚がこすれるたびに静電気が小さく弾けて、私へとチリチリと流れ込んでくる。
「ですから、私は貴方のことなんて……」
だけど、私は最後まで言葉を繋げることはできなった。
悲壮に塗りつぶされたサンダーバードの顔を見た途端、喉元の筋肉がきゅうと締まって塞き止めてしまったからだ。
「悠希さん。ナベちゃんは今、体調が悪いんだ。仕事も復帰したばかりで……」
ただならぬ気配を感じたのか、仲裁のために俊介ご主人様が割って入る。
「俊介。何なんだこれは?」
でもその彼に対して送られた悠希の視線は、恐ろしく鋭く、背筋まで貫かれかねないほどの冷ややかな刃物のようだった。
「お前がいて、このざまは何だって聞いてんだよ」
「……面目ない」
「てめぇのクソも拭けねぇ便所の紙以下の謝罪なんかいらねぇよ」
「返す言葉もない」
俊介ご主人様は、悠希の口汚い罵倒を甘んじて受け入れるように、何度も何度も頷いていた。
一通りの罵倒を嘔吐した後、悠希は軽く舌打ちをして、せり上がる感情を無理矢理飲み込むように派手に首を前後させる。
「なぁ葵……本当にアタシのこと、覚えていないのか?」
悠希が天井を見上げたまま、まるで独り言みたいに声をかけてくる。
「それは……」
覚えていない。と、時が経つごとに即答できなくなる。
どこかであったかもしれない。
何かを話したかもしれない。
でも私の頭の中からは、どうしてもその記憶を掘り起こすことが出来なかった。だからといって、彼女の言葉の一つ一つを嘘と断定し、無視することもまた同様に難しかった。
「俊介のことは、覚えているのか?」
「一応、この店での私のご主人様ですから。俊介ご主人様のお知り合いの方、ですよね?」
そう返答をした途端、目の前の二人の眉間と口端に一層深いしわが刻まされる。
「本当にごめん。俺も知らなかったんだ」
消えそうな声で俊介ご主人様がそう呟いた後、悠希も俊介ご主人様も、衝動的な感情をぎりぎりで飲み込むように口元を押さえつけていた。
それきり、いつまで経っても一向に紡がれない会話に、居心地の悪さが私の喉奥に絡みつく。
あぁ、私はまた余計なことを言ってしまったのかもしれない。
自責の念が私の足元を掴み、私を私の中に閉じ込めようとしてくる。
目の前が暗く、遠く、彩りを失っていく。
どう応えればよかったのだろうか。
どう言えば、彼女らに嫌な思いをさせなかったのだろうか。
あぁ、面倒だ。何もかも。
こんなに面倒ならば意識なんて、意志なんて持たなければ良かったのに。
「葵。聞いてほしいことがある」
嘆願の声と共に、私の肩に静電気が走る。
上げた目線の視界、その両端には柔らかく弾け揺れる悠希の翼があった。
「は、はい。なんでしょう?」
「アタシと、外に行こう」
「えっ?」
突然の外出のお誘いに唖然としてしまうも、言っている悠希は紛れもなく真剣な態度だ。
「……すみません。言っている意味がよく」
「今のお前にとっちゃ、アタシは初対面なんだろ? こんなアタシが何を言ったところで、何一つも信用ならんのは分かる。だけど、これだけは確実に言える。お前は、ここに居ちゃダメだ」
はっきりとした現状の否定。
何もをもってそう判断しているのかは分からないけど、悠希の言葉には得も言われぬ決意が満ちていた。
「葵に会えない間に、アタシは色んなことを調べてきた。そして一つの可能性を見つけた。今の葵の状態を見て、それは確信になった。今まで多くの身体の不調があったな? それもそのはずだ。こんな状態じゃまともでいられる方がおかしい」
悠希の言葉が紡がれる度に、皮膚の内側から何かを無理やり引きづり出されるような居心地の悪い感覚に侵される。
確信とは何? 彼女はいったい何を言っている?
「そんなの……で、でたらめじゃ……」
「何がでたらめかなんて、確かめなきゃ分からないだろ?」
言いかけた抵抗も、悠希の圧にぴしゃりとはねのけられる。文字通り有無を言わせなかった。
「葵。アタシはお前を助けたい。今すぐここを出て、アタシとある場所に来て欲しいんだ」
「貴方は、私の何を知っているんですか……?」
「ここじゃ言えないようなことをだ。だから葵、外へ行こう?」
なんておかしなやりとりなんだろうか。
この三十分程度の間で、私は俊介ご主人様をデートに誘い、突如現れたサンダーバードは私を逆に連れ出そうとしている。
偶然なのかは分からない。
悠希のことを覚えていないことも、本当のことだ。
なのに、私自身は何一つとして思い出せないのに、悠希の稚拙な言葉を聞くたびに、小さな静電気が起きるたびに、つられて私の身体にも小さな電撃が走る。
胸に刺さった楔が無理やり引き抜かれていくような、悶えそうな感覚。
もういい、もうたくさんなのに。
そのはずなのに、私の中では確かに何かが「足りてない」と枯渇を訴える。
だけど今度は、私の心臓がそれに対して何度も何度も、警告音を鳴らし始めた。
『やめておいた方がいい』
『この店からは出られない、出てはいけない』
『そんなことをする必要はない』
『なんの意味もない』
両脚が地面に吸盤のように吸い付く。
どういうわけか全身がひどく震えて、悠希の意見に全力で反対しているのだった。
―――ズキン。
そしてあの頭痛が、一際大きく顔を揺さぶる。
引き返せと警告をする。進むんじゃないと否定する。
諦めろ、ここで終わっておけと、未来を覆い隠す。
思い出すんじゃないと、過去を押しつぶす。
どうしようもないほどに薄気味悪い灰色が、強く胸中で荒波を立てる。
それでも、私が私自身を磨り潰す前に、まだ為さねばならないことがある。
そんな予感だけがあった。それだけだった。
「……分かりました」
その言葉を喉奥からサルベージした途端、身体の震えも脚の抵抗感も頭痛も、諦めたかのように身を引いていく。
私は安堵した反面、何か取り返しのつかないことをしでかしたような、酷い罪悪感にも似た不快さに苛まれる。
(大丈夫? 何かノリで返事をしてしまった感じがあるけれど、普通に考えたら初対面の人と出かけるってどうなの? まずくない? お店を抜けること自体は病み上がりだし、引き止められることは無いと思うけど……)
しかしそんなのウジウジした不安感も数秒で、相手にもならなくなった。
「ありがとう葵。受け入れてくれて」
目の前の、悠希のその屈託ない微笑みに目を奪われていたからだった。
私が何もしなくともそのニカリとした悠希を見ただけで、先ほどの念は全て、頭の隅に追いやられて薄れていった。
何も迷いのない感謝に、私はすっと綺麗に自分の背筋が伸びるのを感じる。
(案外、簡単なことだったのかもしれない)
「じゃあ詳しい話は移動しながらするか。行くぞ俊介」
「えっ、俺?」
当然のように催促する悠希に、きょとんとした顔でご主人様が答える。
「でも……深刻そうな話だし、俺が一緒に行ったところで何が出来るわけでも無いし」
ご主人様がそう切り出した途端、悠希は呆れたように眉を歪ませる。
「あのなぁ俊介。"今の"葵はアタシのこと覚えていねぇんだぞ? 顔見知りの付き添いは必要だろ?」
強引に鼓舞するようにご主人様の肩を叩く。
がさつなように見えて、意外と細かい配慮ができるらしい。
しかしそれでもご主人様には自信がないのか、なかなか踏ん切りがつかないようだった。
「ナベちゃんはどう? 俺がついて行っても大丈夫?」
結局悩んだ末、答えを私の方へと投げかけてきた。
そこでビシッと決められないのがご主人様らしくて、つい苦笑してしまう。
「……丁度良いんじゃないでしょうか?」
「丁度良い?」
「ええ、さっきのデートの話です。映画じゃありませんが、悠希さんの言う場所に行ってみましょう。私も見知った人間がいた方が安心します」
そう告げると、俊介ご主人様は安心したように胸を撫で下ろす。
「ナベちゃんがそういうのなら、ついて行くよ」
「決まったな! 二人にオススメのデートスポットを紹介してやるぜ」
「お待ち下さい」
突如、背後から降りかかる、冷たく平坦な口調。
まるで、その場の空気がピリッと氷の薄い膜が何層も張ったみたいに固まった。
「あ、その……」
あまりに露骨すぎる展開だった。
悩みなんてそう簡単に解決するわけがないのだ。
カウンター席の後方数m。そこには声をかけてきた彼女―――シュロさんが佇んでいた。
そして表情一つ変えないまま、しなりしなりと、そよ風一つ立てずに近づいてくる。立ち振る舞いだけなら、彼女は誰の目から見ても完璧なメイドであった。
だけど私には、その態度がそのまま本心ではないことが分かっていた。
私には分かる。
シュロさんは、今、激怒している。
「ナベちゃん、これはどういうことなの?」
シュロさんは異様に柔らかい物腰でそう告げると、静かにその場になおる。
私は何を言えば良いのかも分からず、四肢を硬直させたまま身じろぎもできなかった。
表情は朗らかに微笑んでいるのに、遠目から見た時よりも何倍もの圧力が、シュロさんの背後から押しよせていた。
「あの……これは……」
言葉が続かない。続くわけがなかった。
この全身に降り注ぐような憤怒は、付け焼き刃のような言葉じゃ到底降り払うことは出来ない。
「ねぇナベちゃん。私、何度も言ったはずよ。彼女には近づかない方がいいって」
私が困惑している間、シュロさんは溢れんばかりの苛立ちを口にして、ひたすらにこちらに向けて微笑み続けてくる。
「おう、ショゴスの姉さん。突然だがこの子なんだけどさ。お持ち帰りさせてもらうぜ」
対処の仕方が分からず震え上がるばかりの私をそっちのけに、悠希が何の悪びれもなくそう言ってのけた。
そんな言い方じゃ誤解されるに決まっているのに。
いえ、むしろ誤解させるためにわざと言っているのかもしれない。なんてたちの悪い魔物なのか。
「サンダーバードのお嬢様。貴方には伺っておりません。うちの、従業員の、渡辺葵に聞いているのです」
重く冷たい巨大なギロチンのような、断頭台のイメージがシュロさんの背後に禍々しく浮かび上がる。
下手をすれば本当に首を落とされかねない。そんな雰囲気だった。
「ナベちゃん、一度こちらにいらっしゃい。言い訳は後でゆっくり聞くから」
シュロさんはそういうと、私に向かって右手を差し出す。
先程より幾分か声音が落ちている。
「シュロさん。彼女とはその……ふわ」
何とか誤解を訴えようとすると、一歩を踏み出そうとした時―――突然、後ろから悠希の大きな翼が伸びてきた。
完全に油断していたせいか、すっぽりと顔ごと包まれてしまい、視界もナイルグリーンで覆われてしまう。
「まぁまぁ、ちょっと落ち着けって」
「あ、あわ……んんぁ、んっ!」
顔に掛かっていた翼がもぞもぞと動かされ、やがて上半身を包んでしまう。
羽はトゲトゲした見た目に反して、適度に暖かくふわふわだ。
肌に羽毛が触れる度、鼻孔の近くを柔くくすぐる。心地よさが皮下に向かってビリリと静電気に紛れて伝わってくる。
背筋から続々と蕩けるような暖かな感覚が、脳天に昇っていく。
本来は男性を包み込んで虜にするためのものなのでしょう。
心地よさのせいでちゃんと怒れない自分がいるのが悔しくてもがいていると、その動きがさらに新たな静電気を産み出してしまうきっかけになる。下手に動いたらかえって身動きがとれなくなりそうだ。
「アタシの羽、気に入った奴にしか触らせないんだぜ?」
「どう、でも、いいです……んぅ」
あまり喋ると変な声が出そうだ。
俊介ご主人様に助けを求めようかと思う反面、この姿を見られている恥ずかしさもあって、まるで言葉を出せなかった。
対するシュロさんは力を抜く気などなく、努めて落ち着いているのが、かえって恥辱に拍車をかけてくる。
ちなみにご主人様は端から止める気がないのか。無意味かつ無駄に真剣な顔で私の悶える姿を凝視している。後でシメて差し上げましょう。
「お話をしてもよろしいでしょうか?」
悠希の奇行にもまるで表情を変えずに、シュロさんは淡々と発言する。
「おお、悪いね。最近イチャついていなかったからよ」
「そちらは従業員となっておりますので、プライベートでのお付き合いはご遠慮願います」
「従業員ならよぉ。もっと体調管理をしっかりした方がいいぞ。コイツ体調がひどすぎて記憶がすっ飛んで、仲良しこよしな私のこともよく覚えていないってよ」
口ぶりからすれば、妄想の類いに思われても仕方のない言い方だった。
なにがなんでも連れて行こうという意志の現れなのか。
私を掴む悠希の翼にぐっと力を込められる。
「体調不良に関してはこちらの不徳のいたすところです。ですが、それは医者の領分です。わざわざお嬢様がその娘を連れ回す必要はありませんね」
「そうもいかねぇ。もしアタシの考えが当たっていたら、手遅れになる前に何とかした方がいい。が、それは"ここ"じゃあ不可能だ」
「……お嬢様には関係ないでしょう」
「関係があれば、何してもいいのかよ? って言いそうだよな。"深月さん"ならよぉ」
聞き慣れない名前。
悠希がその一言を告げた途端、シュロさんの様子が一変する。
彼女の口元は糸で引っ張られたように引きつり、黄色の眼は今までで一番というくらいに見開かれて、足元の触手はブルブルと激しく震えている。
明らかに動揺しているのが見てとれた。
「その名前……やっぱり彼女の差し金なのね?」
「さぁ? 今ここで言えることはそれだけでね。誤魔化したままじゃ終われねえぞ?」
いつになく強い語気で悠希はシュロさんを睨み付ける。
シュロさんの口元は笑顔のままだが、その背後からは引きつりそうなほどに膨大な圧が飛んでいる。
お互いに固まったまま、何も言わず。
しかし、決して一歩も退かない。
「誤魔化す? 深月の周りには妄想癖が集まるんですか?」
「けっ、偉そうに。またもう一騒ぎしたっていいんだぜ?」
「……」
それを機にシュロさんは押し黙り、悠希もいつものニカリとした下品な笑みをこぼす。
後方には、顔を引きつらせた俊介ご主人様が呆然と立っている。
暴力や暴言というのは、又聞きしたものと直接経験したものでは根本的に違う。
『自分が巻き込まれる可能性』―――その未知への不安がご主人様から表情というものを容易に奪い取っていた。
繰り返し、繰り返し、続く沈黙。
「……」
「……」
全員、人形のようにピクリとも動かない。
緊張感に喉がやられて、口腔がひどく粘いてくる。
いつまでこの笑顔の睨み合いが続くのか。
一秒一秒がやたら長い。胃袋がひっくり返りそうだ。
早くしなければまた取り返しのつかない事態になってしまいそうだった。
冷や汗が滲むほどに、強烈に何度も折り重ねられる一瞬一瞬。背中の筋肉に力が入りっぱなしで攣りそうになる。
「……もういいシュロ。十分だ」
その嵐の終わりは突如としてやってくた。
諸手を挙げる仕草をしながら、その声の主はシュロさんの後方から現れた。
「店長っ!」
振り向きながらシュロさんが投げつけるようにそう告げる。
そこには堅そうな髪をスポーツ刈り寸前まで短く切った中年の男性が立っていた。
「おお。まさか店長が出てくるとはな」
「君が噂のサンダーバードの娘だね? 私がこのブルーバードの店長だ。改めて挨拶させてもらうよ」
「ご丁寧にどうも。アタシはサンダーバードの榎本悠希だ。突然だが、葵を借りてくぜ?」
「ああ、構わない」
「店長! どうしてっ!」
普段見慣れないほどの形相でシュロさんが咎める。
だが対する店長はまるで反応せず、水を切るように彼女の感情を受け流してしまう。
「前にも言っただろう、シュロ。出来る限り自由にしてあげたいって」
「そうだけど……」
シュロさんはあくまで抗う。だけど、店長の中で既に何かが定まっていることが、その穏和な表情からは読み取れる。
「榎本さんは私の望みを叶えてくれるかもしれないんだ。そして、それは君の望みでもある。君も言ってくれたじゃないか。私が望むのなら、と」
「……言ったわ。確かに言ったわよ。でも……」
最後の抵抗は無駄だと理解したのか。シュロさんは両肩を落とし、項垂れたまま一歩引き下がる。
「榎本さん。彼女のこと、頼んでもいいかい?」
店長はこちらに向き直り、襟元を整えて告げる。
「任せてくれ。ちゃんと終わらせてくる」
「ああ」
店長は悠希の返事に満足げに頷き、シュロさんの肩に手を置く。シュロさんも相当渋っていたが、やがて怨めしそうに悠希を睨みながら店長に連れられて店の奥へと戻っていった。
「ぶはっ!」
完全に二人が見えなくなったのを見計らってから、ようやく悠希の翼の中から解放される。
「はぁー、緊張したぜ」
悠希はわざとらしく胸元を押さえると、やれやれとばかりに息を漏らす。
後方からは同じく息を止めていたのか、ご主人様の派手な深呼吸が聞こえてきた。
「よし、さぁ店の許可は取ったぜ。お二人さん」
「あの……そういえば行くって、何処にですか?」
「決まってんだろ」
悠希は振り返ると、意地悪そうにニタリと口端を上げる。
「一推しデートスポット、アタシの職場だぜ」
19/01/06 18:19更新 / とげまる
戻る
次へ