読切小説
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テンダー・シュガー
「たっだいまー!」

 午後六時。玄関口のドアが開かれると同時に、そこから明朗快活な女の声が轟いた。
 季節は冬。外は既に陽が落ち、寒さと静けさに満ちていた。空気も乾き、それが余計に女の声を遠方まで響かせた。
 
「セレネさん、もうちょっと声抑えてください。夜も遅いんですから」

 実際彼女の声は家の隅々にも響いていた。そして案の定、家の奥から一人の青年が忌々しそうに顔をしかめて姿を現した。明らかに女の言動に眉をひそめている風であった。
 
「ね? お願いしますよ?」
 
 懇願する青年はこの時、露出の低い私服の上からエプロンを身に着けていた。帰って来た女の方もまた、厚いコートで体を覆っていた。寒波に当てられた白い肌も赤く染まり、見るからに寒そうであった。
 
「おなかすいたー!」

 そしてエプロン姿の青年からセレネと呼ばれた女は、その青年の忠告を真っ向から無視した。最初に放ったのと同じ声量でそう言い放ち、手に持っていたカバンを足元に放り投げた。
 
「荷物くらい自分の部屋に持ってってくださいよ」
「だるいんだもーん」
「まったく」
 
 自身の忠告に耳を貸さない女に対し、青年が呆れたように顔をしかめる。その一方で、件の女が靴を脱ぎ捨て、跳ねるように意気揚々と家の中に上がり込む。
 直後、魔力で構成したコートが雲散霧消し、中に着ていた露出の激しい「普段着」を露わにする。魔力で隠していた二本一対の角を現出させ、背中から翼と尻尾を生やし、白い肌を青ざめたそれに回帰させる。
 人の皮を脱ぎ捨てた一匹の悪魔。それがルンルン気分で青年に迫っていった。
 
「ねえねえ、今日の夕飯は何かしら?」

 本性を現した魔物が青年の眼前に辿り着き、楽しげな口調で彼に問いかける。青年もまた女の変化に驚くことなく、自然な態度でセレネに答えた。
 
「今日は肉じゃがです」
「肉じゃが? やった! 私ケンジ君の肉じゃが大好きなんだ!」
「そう言ってくれると僕も嬉しいですよ。あとちょっとで出来ますから、リビングで待っててください」

 ケンジと呼ばれたその青年の言葉に、セレネが「はーい」と元気に答える。背丈は青い肌の悪魔の方が一回り大きかったが、この時は小柄な青年の方が悪魔の保護者と言うべき有様であった。
 
「どーん!」

 そしてこの時も、セレネはケンジの要求を無視した。セレネは彼の言う通りリビングには向かわず、その場で彼の背後に回って後ろから抱きついた。当然反省の色ゼロな笑顔のままである。

「ちょ、ちょっと」
「やっぱり私も手伝うわ。一緒にキッチン行きましょ?」

 一瞬困惑するケンジにセレネが言い返す。さらにセレネは追い打ちとばかりに彼の首に回した腕に力を込め、自分の体をより強くケンジの背中に押しつけていく。
 
「お願い。あなたと一緒にいたいの。寒がりなデーモンさんを慰めてほしいな」
 
 たわわに実った二つの乳房がぐにゃりと潰れ、身体に纏うラベンダーの香りがケンジの鼻をくすぐる。悪魔の熱い囁きが耳を舐め回し、頬に当たる吐息が思考を鈍らせる。
 
「いいでしょ?」
 
 そんなスキンシップに対して、ケンジは微塵も抵抗しなかった。むしろ自分の首に回された腕を大事そうに掴み、体の力を抜いて彼女の温もりを全身で感じた。
 そうしてデーモンの優しさを心行くまで堪能しつつ、穏やかな笑みを浮かべてそれに答えた。
 
「……じゃあ行きましょうか」
「ええ。エスコートお願いね」

 ケンジの返答にセレネが満面の笑みで頷く。そして二人は引っ付いたまま、仲良くキッチンへと向かった。とはいっても、この家はキッチンとリビングが一体になっている構造をしていた。いわゆるダイニングキッチンというものである。
 閑話休題。二人一緒にシンクの前までやってきたケンジとセレネはそこで一旦離れ、それぞれ作業を分担することにした。セレネが食器、ケンジが料理の入った鍋である。
 
「いつもの奴でいいかしら」
「はい。お願いします」

 ケンジの指示を受け、慣れた手つきでセレネが食器棚を開けて必要なものを取り出す。元々ここはセレネの家。どこに何があるのか、勝手はケンジ以上に知っていた。一方のケンジもまた、セレネに負けず劣らずスムーズな動きで、料理の入った鍋や白米をよそった茶碗をリビングのテーブルに移していく。
 そしてケンジがあらかた置き終えた直後、唐突にセレネが彼の名前を呼んだ。
 
「ケンジ君」

 呼ばれたケンジが鍋から手を離し、その場で動きを止める。彼の左隣にセレネが立ち、テーブルの上に持ってきた食器類を置く。
 
「リストバンド」

 置き終えてから、唐突にセレネが口を開く。突然のことにケンジが驚き、緊張から肩をいからせる。悪戯を見抜かれた子供のようだった。
 悪魔が目線を動かし、ケンジの左手首に注目する。
 
「新しいのに変えたんだね」

 そこに嵌められていた黄緑色のリストバンドを見ながら、明るい口調でセレネが言う。言われたケンジは思い出したように右手でそれを隠し、苦笑交じりにセレネに答えた。
 
「うん。ちょっとおしゃれしようと思ってね」
「それ、自分で買いに行ったの?」
「うん」
「一人で?」
「……うん」

 セレネの問いに、ケンジが小さく頷く。横目でそれを見たセレネが、穏やかな声でケンジに言う。
 
「階段とか大丈夫だった?」
「……少し、怖かった」

 ケンジの体が僅かに震える。
 彼の肩にセレネが手を添える。
 
「無理しないでいいんだからね」
「うん」
「もっと私に頼っていいんだからね」
「……ありがと」

 ケンジが顔を上げ、力を振り絞って笑顔を浮かべる。セレネもつられて笑みを見せる。
 
「さ! 湿っぽい話はこれでおしまい! 温かいうちに食べちゃいましょう!」

 その後ケンジから手を離し、セレネが明るい声を出す。ついでに手を叩き、小気味良い音をリビングに響かせる。
 言われたケンジもまた肩の力を抜き、陰のない笑顔に変えてセレネに頷いた。
 
「そうですね。食べましょう」
「うんうん、それがいいわ。ほら、早く座る座る! 善は急げよ!」

 無駄に明るい声でセレネが催促する。彼女の見せる笑みもまた、相手を喜ばせようと必要以上に力のこもったものとなっていた。
 ケンジはそこを指摘しなかった。むしろ彼女がそうして気を張る姿を見て、彼は心が救われたような心地になった。
 
「ありがと」

 ふと、全く無意識のうちに、ケンジの口から言葉が漏れる。それは異界から来た悪魔の耳にも届いており、そしてそれを聞いたセレネは微笑んだまま返事をした。
 
「どういたしまして」

 二人の会話は一旦そこで途切れた。後は二人で横並びに席につき、無言で食事を開始した。二人で話すのが嫌なのではない。食べることに集中したかったのだ。
 現にこの時、リビングには暖かい空気が漂っていた。二人は口数こそ少なかったが、今の幸せを料理と共に噛み締めていた。
 
「おいしいね」
「うん」

 誰かが一緒にいる。
 それが何より幸せだった。
 
 
 
 
 その日の夜、唐突にケンジは目を覚ました。
 額には汗が浮かび、心臓は焦燥するように早鐘を打っていた。
 
「……」

 毛布を被ったまま身をよじり、頭の上にある目覚まし時計を手に取る。
 午前零時。アラームはセットされていない。ケンジはただ長針と短針の組み合わせだけを、ぼうっと見つめた。
 
「眠れないの?」

 不意に横から声がかかる。時計から視線を外し、ケンジが隣に目をやる。
 そこにはセレナがいた。自分と同じ布団の中で、自分と同じ毛布を羽織っていた。
 
「大丈夫?」

 青い肌を持った角持ちの悪魔が、ケンジの額を撫でながら優しく声をかける。
 ケンジは言葉で答えず、無言で頷いた。セレネも頷き返し、彼の額の汗を掌でそっと拭った。
 
「怖い夢でも見た?」

 慈愛に満ちた声でセレネが問う。ケンジは伏し目がちになりながら、小さく首を縦に振る。
 セレネの顔が一瞬歪む。その後少し躊躇ってから、意を決して口を開く。
 
「……昔のこと?」

 ケンジが頷く。セレネの瞳に悲しみがよぎる。
 毛布の中でセレネが手を動かす。ケンジの左手を優しく掴み、手首に指を這わせる。
 ざらざらしていた。
 
「そうだよね」

 同調するようにセレネが呟く。
 
「まだ忘れられないよね」

 セレネの言葉にケンジが頷く。今の彼は頷くことしか出来なかった。
 彼の顔には暗い影が差していた。夕飯時の明るさは完全に消え失せていた。
 過去の記憶が彼を追い詰めていた。
 
「大丈夫」

 心を縛る過去の鎖から彼を解き放とうとするかのように、セレネが柔和な笑みと共にケンジに声をかける。
 ケンジもそれに反応し、顔を上げて横並びになっていたセレネを見つめる。
 自分を見つめる青年の瞳――涙で滲みかけていた人間の瞳を、デーモンがまっすぐ見つめ返す。
 
「私が必ず、あなたを守ってあげる。今度は私たちが、あなたを守る番だから」




 お前、自分が何してんのかわかってんのか!?
 そいつ化け物なんだぞ!
 違うよ! この子達は化け物なんかじゃない!
 ちゃんと話せばわかってくれる! 優しい人たちなんだ!
 
 
 
 
 セレネがケンジの背後に手を回す。
 手の感触を背中で感じたケンジが、反射的に背筋を反らして体を震わせる。
 
「……まだ、怖い?」

 恐る恐るセレネが問いかける。
 ケンジは何も言わず、セレネの胸の中に飛び込んだ。
 
「きゃっ」

 青年の不意打ちに悪魔が小さく悲鳴を上げる。ケンジは相手の反応を無視し、自分も両手をセレネの背中に回して彼女を強く抱きしめる。
 
「……」

 ケンジはそのまま、セレネにしがみついた。同じ毛布の中で、悪魔に縋りついた。
 この世でたった一人の自分の味方。最後まで自分を信じて、支えてくれた大切な人。
 
「お姉ちゃん……!」

 ケンジが声を漏らす。悲しみと痛みで震えた、羽虫のように弱弱しい声。
 感情が溢れ出す。それ以上は何も言えなかった。
 セレネもそれ以上、何も聞こうとしなかった。
 
「お姉ちゃんが守ってあげる」

 代わりに、それだけを告げる。
 
「今度は、お姉ちゃんがあなたを守ってあげるから」




 『魔物娘』と呼ばれる存在がこちら側の世界に来て一ヶ月が経過した。そしてその間、出現した魔物娘たちは一貫して、自分達に侵略や攻撃の意志は無いと言い続けてきた。
 しかしはいそうですかと鵜呑みに出来る程、こちら側の人間は単純ではなかった。彼らはファーストコンタクトを迎えてから今日に至るまで、魔物娘たちに警戒の眼差しを向け続けてきた。人間のルールや性質に詳しく、また無駄に空気を読んでくるその性格もまた、却って人間達の不信を強める結果となってしまっていた。
 
「私達は元いた世界で愛を説き続けてきました。人間と魔物の間で愛を結ぼうと努力してきました。そしてその愛をもっと他の世界にも広めようと思い、こうしてこちらの世界にやって来たというわけです」

 魔物娘たちの代表は、そう言って理解を求めてきた。胡散臭いことこの上ない。大多数の人間は警戒を解こうとしなかった。
 しかしそんな人間の中にも、彼女達を信じてみようと考える者達が存在した。その数は人類全体からすれば極少数であったが、融和を果たそうと動き始めた人間がいることも事実だった。個人レベルでそれを行った者もいれば、組織レベルで大規模な共存運動を展開した者達もいた。
 
「我々は獣ではありません! 相手を理解し、尊重することだって出来るはずです! 我々は今、その気持ちに従って行動しています!」
 
 それを知った魔物娘たちは一様に歓喜した。そして受け身のままではいけないと考え、自ら積極的にコンタクトを取り始めた。
 そうして歩み寄る一部の人間達と魔物娘たちを見て、残りの大多数の人間達は不愉快に思った。やがて「多数」側の者達は、魔物娘と触れ合う人々を「異邦人の侵略行為の手助けをする連中」であると結論づけた。
 それがマイノリティへの物理的攻撃へと移行するのに、さして時間はかからなかった。
 
 
 
 
 あやすように背中を摩る。
 恐れを和らげるように。トラウマを拭い去るように。飛びついた青年の背中を撫で続ける。
 
「……」

 ケンジは無言のままだった。代わりに彼の頭の中では、二週間前に経験した記憶の情景が生々しくフラッシュバックしていた。
 異邦人を庇ったこと。孤立したこと。それでも諦めなかったこと。
 背中を押されたこと。
 
「怖かったよね」

 ケンジの心を読み取ったかのように、絶妙なタイミングでセレネが声をかける。ケンジは驚くこともしなければ声を返すこともせず、ただ豊満な胸の中に埋めた顔を上下させるだけだった。
 
「学校は……まだ怖いよね?」

 続けてセレネが問う。ケンジは今回も何も言わず、ただ首を縦に振る。
 
「安心して」

 それを見つつ背中をさすりながらセレネが言う。そして「何も考えないで眠りなさい」と思考放棄を促し、ケンジに再びの眠りをもたらさんとする。
 
「おねえ……」

 ケンジもそれに身を任せた。安心感に包まれた彼はそこまで言ったところで意識を手放し、再びのまどろみへと落ちていった。
 そう。今はそれでいい。
 今は傷を癒す時だ。
 
「眠りなさい。可愛い人間」

 自分にしがみつきながら寝息を立てるケンジの姿を見下ろしつつ、セレネが優しく声をかける。それはケンジの耳には届かなかったが、それでもセレネはそう言わずにはいられなかった。ケンジの無事を祈らずにはいられなかった。
 このデーモンは、それだけ彼に惹かれていた。
 
 
 
 
 人魔融和委員会メンバーのセレネア・ブリランティがその報を聞いたのは、二週間前のことだった。
 とある高校で魔物娘を庇った男子生徒が、「排斥派」の攻撃を受けて病院送りになったのだ。
 それを知ったセレネアは義憤に駆られ、すぐにその男子生徒に会いに行った。彼女は人魔共存に強い熱意を抱いていたのだ。自分の住む地区内にその高校と病院があったのも、彼女がそこに向かおうと思った一因であった。
 幸いにも面会謝絶とはなっておらず、セレネアは何の障害もなく男子生徒と面会することが出来た。彼の両親はどちらもいなかった。同級生や教員の見舞い客もいなかった。
 マイノリティの彼は、腫れ物であった。
 
「……」
 
 真っ白な病室でセレネアと男子生徒が相対する。男子生徒は頭に包帯を巻き、見るからに憔悴していた。目の前にやって来たセレネアに反応することもしなかった。ただ虚ろな目で、前方をじっと見つめるだけだった。
 何が彼をそうしたのか。あまり考えたくなかった。
 
「――!」
 
 セレネアは違った。男子生徒の横顔を一目見た瞬間、彼女の頭に雷が落ちた。心臓が早鐘を打ち、全身の血液が激しく行き交い、体中が際限なしに熱くなっていく。
 一目惚れだった。
 
「あ、あの! ちょっといいかしら?」

 気づいた時には声をかけていた。呼ばれた男子生徒が、ゆっくり首を動かしてセレネアを見る。
 もう後戻りは出来ない。
 
「もし良ければ……今の環境に居辛かったら、私のところに来ないかしら?」

 それが二人の馴れ初めだった。
 
 
 
 
 そして今、セレネア――愛称セレネ――はその男子生徒の寝顔を微笑ましげに見つめていた。
 自分を姉と呼んで慕ってくれる青年。優しい心を持った、か弱く強い人間。
 魔物娘セレネアは、この青年を守ろうと誓っていた。そのためなら手段を選ばないつもりでもいた。
 
「いっそのこと、侵略しちゃおうかしら」

 「過激派」としての顔を覗かせながら、セレネアがぽつりと呟く。今はまだ偵察段階、異世界への本格的侵攻はまだ早いと、司令官のリリムから止められていたが、知ったことか。
 セレネアは本気で攻撃を考えていた。具体的な侵略プランも構築済みであった。
 それも全ては、愛する彼のため。
 
「安心して。ここにいれば安全だから。誰にも襲わせたりしないから」

 前髪を指先で揺らしながら、過保護な悪魔が愛する青年にそっと告げる。青年はそれに反応するかのように、寝顔のまま口元を僅かに緩める。
 それを見たセレネアもつられて微笑む。
 
「好きよ。ケンジ。大好き」

 微笑んだままセレネアが言う。続けざまに顔を近づけ、ケンジの頬に優しくキスを落とす。
 今はこれだけ。本番は目が覚めた時に。
 
「ずっと一緒にいましょうね。愛しい人」




 互いが知り合って一か月。人と魔物の間にはまだ深い溝があった。
 しかし互いを結ぶ愛の輪は、確実に広がり始めていた。
 種族の垣根を越えた愛が許容される時代は、すぐそこまで迫っていた。
17/11/14 06:55更新 / 黒尻尾

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