読切小説
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酩酊好々夜
1

 眠りの淵にあったハルカは目を覚ましつつあり、網膜の裏に見え隠れする闇も徐々にその姿を薄れさせていく様をしかと感じ取れてはいたけれど、それでも目を開くことを億劫に思う程度の倦怠感が身を愛撫してはまた微睡みの渦中へと引きずり込まれかけ、そこでようやくまともな判断をして身を起こすと、ベッドのスプリングが軋む音が耳にやけに厭わしく届く。
 昨晩、自棄酒に溺れた代償とばかりに後頭部を苛む疼痛が気にはなったが、しかしそもそも自棄酒に溺れたのは自身の身の境遇もそうだが、明日つまりは今日が休日とわかっていたから悲しさを酒で紛らわせていたのであったことを思い出し、ハルカほっと胸をなでおろす。
 さて、目が覚めると次に気になるのはここはどこかということで、少なくともベッドで惰眠を貪っていたとなると氷河期のような人の冷たさに触れてしまい路上で過ごしていたわけではないし、ドグラマグラの類にかかっているわけでもない。そうなると一体どこなのか、と思案しかけて、ふと違和感に気づく。
 その違和感というもの、一度頭の隅に芽を出すと童話に出てくる豆の樹のようにむくむくと育ち、一気に弾けたとなっては頭に流れてくるのは昨夜の出来事の数々であり、それに合わせて油を挿し忘れたブリキ人形のぎこちなさに似た動きで、首はゆっくりと己の隣、緩やかに呼吸に合わせて上下する一人の男の姿を、つまるところ自身の夫の姿を視界におさめると。
 ハルカのそこからの表情の変化ぶりは百面相でさえ弟子入りに志願するかと思えるほどの複雑怪奇極まる心情の動きを筋肉で存分に表現しており、その顔面の動きぶりは男を見つめてからも変化に目まぐるしい。
 そこでようやく自身が一糸纏わぬ姿であることや、胎に新しい命を宿している身であることも思い出され、自己嫌悪の波は緩やかにハルカを苛んだ。また自分を抑えられなかったという不安に思わず、噛んだ奥歯を軋ませること暫く。精々並大抵のことならば、よくあることで折り合いなどをつけられるのが通常ではあるが、そこは彼女の種族にも動揺と後悔の一因があった。
 アヌビスというのがハルカの種族であり、それは常に冷静、分析眼の煌めき鋭く、理知的な普段の姿は育ちの良さも窺い知れて、人間の女性からは異形にもかかわらず羨望の眼差しを集めるほどであったけれど。同時に厄介なのは、計画性に優れようとも冷静沈着であろうとも、突然の出来事にはその鍍金とも言うべき上っ面の特性が剥がれてしまい、慌てふためくのもまたアヌビスの常であった。鍍金、というよりそれも含めてアヌビスの特性ではあるので、正確にはまた違った表現になるのだろうが、しかし、普段冷静さを見せるハルカが途端に余裕を崩し狼狽える姿などは、普段の姿を見慣れている者が見る程意外性というものに富んでいて、それでいてその眸に映るのは破瓜を迎える直前のような窮地に立たされた表情であるだけに嗜虐心の覚えのないものにもその芽を自覚させること請け合いで。
 端的に言えば、突然の出来事や提案には対応する術を失ってしまうのがアヌビスなのである。
 そして若干の疼痛を訴える脳が追憶するのは昨日の記憶、仕事で本来ならばするはずのないミスをしてしまい、それをいつまでも引きずっているのを見かねた夫は、妊娠しているのに働いているハルカが凹んでいるのを励ますつもりだったのだろう。
 が、それは気づけば居酒屋の呑兵衛が無関係の客に絡む性質の悪い酔い方そのものへと変貌を遂げており、普段のハルカならば考えられないような淫猥混じりのセクハラに夫が悲鳴をあげるのも構わず、身体は正直だの下の口に訊いてみるかだの本来と立場が逆転してほとほと困り果てた夫の鼻先に酒精強い吐息を浴びせかけるとまでくれば、この暴走を止める遮断桿はどこかと探すも既に手遅れというもの。
 ピリリと舌に染みるウイスキイが心地よく、それを酔いに任せて夫に口移ししたとあっては、魔物の淫らな性は抑えきられず、汗ばむ身体から漂うのは発情した牝犬の匂い、瞳の中で激しく盛るのは情欲の炎とあっては夫の夜はたじたじで。
 もともと子を孕み、少々精神的に不安定な時期であったことを差し引いても、ハルカからすれば昨夜の自分はやり過ぎだった。
 およそ計画性などまったくない原始へ回帰したような交わりにひたすら喜悦と快感を見出すのみの欲望に忠実で、しかしそれがどこか気分を昂揚させていたのも確かで身体は昨夜のそれを思い出し、朝から乳首を軽く甘勃ちさせているのが自身でもわかり。
 まずハルカの自己嫌悪は己に回り、どうして理性で自身を律することができなかったのかと、声高々に頭の中では自身を逆しまに吊し上げての弾劾裁判へと縺れ込む次第で。他の種であればそれはちょっぴりの反省に収まったのだろうが、しかしアヌビスであるハルカはそれを許さない。さすがにそこまで反省するのは種族という枠に収まらぬ、ハルカの矯正するべき個性ではあったが、それを直せているならここまでの事態が起こるわけでもなく、さらに正確に是正するならば直す必要はさほどないということになり。
 いつの間にか目を覚ましていた夫はハルカを後ろから抱きしめると、ただじっとする。それを振りほどこうとするも、中々意固地になって解放しようとしない夫に根負けすると、ハルカはただその身を委ねる。そうすると不思議なことに、心の中にあった蟠りだとかそういったものは、するすると指の隙間から落ちる流水のように、あるいはふらふらと千鳥足になった旅人の如くどこかへと消えてしまう。
 それは言い得もない心地よさで、思わず依存してしまいそうになる薬物に似た危険ではあったけれど、和やかな風情にそれを察することは許されず、ただうっとりとしかし重い吐息をハルカは洩らすに留まった。
 ずるい、と胸中で呟く。
 そう、ずるいのだ。
 言葉など何も飛んでは来ない、ただこうして抱きしめてくれることがどれだけ心を安堵させ、そしてなぜだか焚火にも似た、芯からのぬくもりを与えてくれるのか、ハルカはまだわからなかった。ただ、落ち着くのだ。ただ、愛しくなるのだ。
 後悔の波も気づけば消え、ただ穏やかな凪が心にあるのを感じ取ったハルカは、また、ずるいと、今度は拗ねたような口ぶりで呟いた。
 上手く聴き取れなかったらしい夫は、首を傾げて、しかし些細なことと思ったのか気にせずハルカの頭を撫で始める。
 ずるい。
 何度もそう呟いたハルカの胸の中に、もう煩わしいものは残っていない。あるのはただ、一寸の擽ったさだけだった。
15/11/11 21:54更新 /

■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただければ幸いです。
お菓子のつまみになる程度の小噺です。

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