連載小説
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前編
「……うし、誰もいねぇな」
魔物の殲滅、魔王の殺害を目論む軍事都市・ネルカティエ。
その中枢たるネルカティエ城中庭……木陰に隠れてキョロキョロと周囲を窺う一人の少年、その少年は『吸血鬼』と表現出来る風貌だった。
大雑把に切り揃えられた新雪のような純白の短髪、死人を思わせる程に白い肌、本人にはその気が無くとも睨んでいるように見える紅い瞳の鋭い目。
真っ白な少年はピッチリとした黒革製ボンテージと黒革製のズボンで一九四センチという滅多に見ない長身を包み、腰には金属鋲が大量に付いた黒い革ベルト。
手には指が完全に露出した黒革製の手袋、と一昔前のハードロックヴォーカリストじみた黒一色の服は病的に白い肌もあって吸血鬼を彷彿とさせる。

「ったく、面倒ったらありゃしねぇ……まぁ、コイツを誰かに見られんのは勘弁だ」
周囲に人の気配が無い事を知り、それでも用心深く警戒しながらコソコソと動くその姿は敵地に潜入したスパイそのもの。
本職も思わず感心の溜息を漏らす動きを披露する少年は、ベルトの付いた棺桶を思わせる大きな筺を担いでいる。
「さぁて、と……」
それなりに広い中庭でも人目に付かない隅の方が少年の特等席……特等席に着いた少年は担いでいた筺を下ろして蓋を開けると、筺の中身は年代物のコントラバス。
コントラバスを取り出した少年は軽く息を吐いた後、コントラバスを奏で始める。
その音色は本職も唸る程に綺麗なのだが、ハードロックヴォーカリストじみた風貌の少年がコントラバスを演奏している光景はシュールである。
コントラバス奏でる少年の名は黒井夜斗(クロイ・ヤト)、『勇者』として召喚された異世界の少年である。



元々、夜斗は科学万歳、ファンタジー要素の無い―正確には夜斗達という例外が居るが―世界の住人だった。
然し、三ヶ月前に夜斗は血よりも濃ゆい情で繋がった義兄弟三人と共に人間と魔物が住む異世界に召喚された。
夜斗達が召喚された世界は世界を創造した主神を崇拝・信仰する武装宗教組織・『教団』と、主神と敵対する魔王が率いる『魔物』の二大勢力が争っている。
一五年前、教団勢力圏内でも二番目の規模を誇ったレスカティエが魔物の攻撃で陥落して以降教団は魔物に押され、劣勢を覆す為にネルカティエは夜斗達を召喚したそうだ。

ネルカティエ曰く魔物は絶対悪だと言うが、夜斗達はソレが嘘である事を知っている。
ネルカティエに召喚されてから一ヶ月後、夜斗の義兄たる赤尉紅蓮(セキジョウ・グレン)がネルカティエ近隣の森にある魔物の集落の殲滅を命じられた。
その時、紅蓮は魔物の真実を知り、彼を通じて夜斗はネルカティエの嘘を知った。
確かに魔物は人食いだったがソレは過去の事、六〇年前の代替わりから不殺を絶対戒律に平和を愛するようになり、人間との共存を目指すようになったのだ。
尤も、魔物は全員嘗ての名残を残しつつ見目麗しい美女となり、欲求に忠実な快楽主義者だったのは予想外だったが。
魔物の真実を知ってから二週間後、義兄弟の中で最初に魔物と接触した紅蓮が反旗を翻し、その三日後に義兄の碧澤一心(ミドリサワ・イッシン)が脱走、折角召喚した勇者が二人も離反してしまった。

現在ネルカティエには夜斗と彼の義弟である灰崎勇一(カイザキ・ユウイチ)が残っているが、残る二人も真実を知ってからは魔物の討伐命令を尽くボイコット。
その為、夜斗と勇一を投入する予定だったレスカティエ奪還作戦は失敗に終わり、精鋭を一気に失った教団は戦力の補充で暫くは大人しくしているだろう。
夜斗と勇一は離反した二人の討伐をネルカティエの王たるゴールディに命じられているが、義理とはいえ兄を殺すつもりは二人には無い為、絶賛ボイコット中である。
そんな反抗的態度を取る夜斗と勇一なのだが、何時か気が変わるだろうと思っているのかネルカティエは二人を手放そうとしない。
尤も、夜斗には離れられない理由がある為にネルカティエに残っているのだが。



「ふぅ……ん?」
「……………………(じ〜)」
どわぁぁっ!? る、るる、ルエリィ!? い、何時から其処に!?」
三曲程弾いた所で夜斗はコントラバスの演奏を止めると、何時の間にか隣に座って演奏を聴いていた少女に驚き、『ピョイ〜ン』と擬音が付きそうな程に飛び跳ねる。
「ふふっ、私は二曲目の始めから居ましたよ。一度演奏を始めると、『兄様』は全然周りが見えなくなっちゃいますね」
「うぅ……あぁ……」
微笑む少女に夜斗は恥ずかしさから頬をポリポリと掻く。
夜斗の事を『兄様』と呼ぶ少女は白と紫を基調とした可愛らしいドレスを纏い、その細い首には黒いチョーカー、綺麗な銀色の長髪はクルクルと縦ロールにセットされている。
この少女の名はルエリィ・ルメール・ネルカティエ……ネルカティエの第四王女であり、彼女の存在こそ夜斗がネルカティエを離れられない理由でもある。

×××

夜斗とルエリィの出会いは実に衝撃的だ……二人が出会ったのは夜斗達が召喚されてから一週間後、一心と勇一のお披露目を兼ねたパーティーが開かれた時だ。
夜斗達が召喚された翌日、ネルカティエは彼等がどの程度戦えるか確かめる為の模擬戦を行い、一心と勇一は模擬戦の相手に圧勝したが夜斗と紅蓮は敗北。
結果、一心と勇一は勇者としてネルカティエ上層部に歓迎されたが、残る二人はちょっと待遇が良いだけの一兵卒扱いだった。
尤も、二人の敗北の原因は模擬戦の形式が二人の戦い方と相性が悪かった為であり、実力そのものは模擬戦の相手を圧倒していたのだが。

パーティーに招待された反魔物派貴族及び教団関係者が異世界の勇者の来訪に湧く最中、夜斗はパーティーに似つかわしくない怒鳴り声を耳に捉えた。
何事かと思って視線を向けた先には高圧的な態度を取る貴族と思しき女性と、その女性に怒鳴られて俯く少女。
女貴族のドレスには濃い紫色の染みが付いており、少女の手には染みと同じ色の飲み物が入ったグラス。
何事かと夜斗が聞いてみれば、俯いている少女に女貴族がぶつかった際にグラスの飲み物が零れ、女貴族のドレスに染みを作ってしまったらしい。
ソレを聞いた夜斗は持っていたグラスを片手に女貴族の背後に近付き、周囲の人間を驚愕で絶句させる行動を取った。

『ぎゃっ!?』
なんと、グラスの中身―因みに中身はビールだ―を女貴族の頭に掛けたのである。
夜斗の行動に怒鳴られていた少女は勿論、周囲の招待客や警備兵達も驚愕で言葉を失い、突然ビールを掛けられた驚きと無礼への怒りを籠めた目で女貴族は夜斗に振り向く。
其処から二人の口論が始まり、結論から言えば夜斗の言い分が正しかった。
ぶつかったのは女貴族の方なのに、ぶつかってしまった少女を責めるのは筋違いだ。
筋違いにも関わらず少女は謝っているのだから、年上らしい大人な態度を取れ。
夜斗の正論を頑なに否定する女貴族は行動の理由に思い至ったのか、フンと鼻を鳴らして見下すような視線を彼に向ける。
『フンッ、王女様を助けて出世の点数稼ぎでもしようと思ったのかしら? 残念でした、彼女は役立たずの王女様、誰も必要としない『要らない子供』でしてよ!』
女貴族の発言は勘違いも甚だしい……夜斗は少女が王女である事を知らなかったし、別に出世の点数稼ぎをしようと思った訳でもない、女貴族の態度が気に入らなかっただけだ。
だが、その勘違い発言は夜斗の逆鱗に触れるどころか無遠慮に撫でまわす発言だった。

『……………………』
『な、何ですの、貴方? 私は本当の事を、ぎゃっ!?
その発言に夜斗は濃密な殺意を湧き上がらせ、その殺意に女貴族が怯んだ瞬間だった。
夜斗は無言で女貴族を殴り飛ばし、倒れた女貴族に馬乗りしてドラムを叩くかの如く顔を殴打し始めたのだ。
『……!? ……!?』
夜斗の殺す気満々の全力殴打に女貴族は声にならない悲鳴を上げ、周囲の人間は女貴族を助けようとしない。
否、夜斗から溢れる濃密な殺意を前に助けようにも助けられなかった。
下手に手を出せば自分にその殺意が向けられる、その殺意を向けられれば自分が殺される。
誰もが本能でソレを悟り、周囲の人間達は夜斗の凶行を止められなかった。
『……、……』
次第に殴打のスピードは加速し、加速に比例して殺意も膨れ上がっていく。
絶え間無い容赦無しの連続全力殴打で女貴族の顔は無惨な程に腫れ、声にならない悲鳴も徐々に弱くなっていく。
このままでは女貴族は殴殺される、誰もがそう思った時だ。

『はぁ……お主は何をしておるのだ、馬鹿者』
『んがっ!? テメェ、邪魔す……って、紅蓮かよ』
騒ぎに気付いた紅蓮が溜息交じりに近付き、女貴族を殴り続ける夜斗の頭に拳骨をかます。
地味に痛かった拳骨を貰った夜斗は殺意に満ちた視線を向けるが、相手が紅蓮と分かると濃密な殺意が嘘のように霧散させる。
『何があったのかサッパリ皆目見当もつかんが、ソレ以上殴れば死ぬぞ?』
『殺す気でヤってたんだよ……このアマ、知らなかったとはいえ、俺の一番嫌いな言葉をほざきやがった』
『あぁ、成程のぉ……然し、GTOは考えた方がいいぞ。ほれ、場がしらけておる』
『はっ、構うかよ……つぅか、そりゃTPOだろ、『O』しか合ってねぇじゃねぇか』

『あぁ〜あ、つまんねぇったらありゃしねぇ』
その後、騒ぎを聞きつけた警備兵に夜斗は拘束され、牢屋に送られた。
件の女貴族は見るも無残な顔になった上に濃密な殺意と殴り殺されかけたショックで錯乱したらしく、両親の訴えもあってネルカティエ上層部は夜斗を死刑にするべきだと騒いだ。
然し、少女と一心と勇一の三人のとりなし―尤も、一心と勇一は『夜斗を死刑にするなら自分達も死刑にしろ』と立場を盾に脅したのだが―で死刑は免れた。
それでも御咎め無しというのは体面上悪く、ネルカティエ上層部は夜斗に三日間牢屋での謹慎と命じ、彼はソレに従って牢屋で大人しくしているのだ。
因みに、夜斗はこの凶行を全く反省していない。
『あの……』
『あぁん?』
暇を持て余してボロボロなベッドに寝っ転がっていた夜斗だったが、鉄格子の向こうから聞こえた声に彼は上体を起こして目を向ける。
其処にはパーティーで女貴族に怒鳴られていた少女……この少女はネルカティエの王女と聞いていたが、王女が夜斗に一体何の用だろうか。

『こ、こうしてちゃんと顔を合わせるのは初めてでしたね……私はルエリィ・ルメール・ネルカティエと申します』
『おぉ、あのアマと違って良い子だなぁ、オメェ……俺は黒井夜斗、夜斗って呼び捨てで構わねぇぜ。んで? 俺に何の用よ』
自己紹介を済ませた後、ルエリィに何の用かを尋ねると、あの時の礼をちゃんと言おうと思って来たそうで、その言葉に夜斗は呆れたように頬を掻く。
普通に考えれば、殺意ダダ漏れで凶行に走った男に態々礼を言いに来る必要は無く、寧ろ怖がって近付こうとは思わないだろう。
夜斗がソレを告げると
『皆さんは私を『要らない子供』だと言って、私を気に掛けてくれませんでした。けど、夜斗様が怒ってくれたのが私には嬉しくて……だから、ちゃんとお礼を言おうと思って』
との事で、そう言われると夜斗には何も言えない。

『夜斗様、あの時はどうもありがとうございました』
『お、おぅ……』
お辞儀しながらパーティーの時の礼を言うルエリィ。
『様』付けで呼ばれるのが生まれて初めての夜斗は恥ずかしさから頬を掻く。
『ま、まぁ、その、なんだ……俺で良ければ頼れ、何時でも何処でもオメェを『要らねぇ子供』呼ばわりした奴をブン殴ってやっからさ』
『ふふっ、頼らせてもらいますね。でも、やり過ぎは駄目ですよ』
視線を泳がせながら何時でも頼ってくれと言う夜斗に、ルエリィは微笑みで返す。
こうして、夜斗とルエリィは交流を持つようになったのである。



「私、もっと兄様のコントラバスを聞きたいです」
「分かったよ、オメェの頼みじゃ断れねぇな」
演奏をせがむルエリィに夜斗は肩を竦めてからコントラバスを奏で始め、荒っぽい風貌と相反する綺麗な音色が中庭に響き渡る。
その風貌に反して夜斗はクラシックを好む……夜斗の敬愛する義父がクラシックを好んで聞いており、義父に聞かせようと思って独学で練習を繰り返した結果である。
まぁ、似合わない事を自覚しており、義父に聞かせようと練習していた所を目撃した紅蓮に大笑いされた為、夜斗は人目につかない場所でしか弾かないのだが。
「ふあぁ……兄様の音色、凄く綺麗です……」
音色に聞き惚れるルエリィの呟きに夜斗は無言を貫く。
先程ルエリィが言っていたように、演奏中の夜斗は演奏に集中する為周囲が見えなくなる。
ある意味夜斗の最も無防備な瞬間で、本来なら半径一〇メートル以内に誰かが接近すれば気配で気付く彼がルエリィの接近に気付かなかったのもその所為だ。

さて、ルエリィが夜斗の事を『兄様』と呼ぶのは訳がある。
四人姉妹の末っ子であるルエリィは『兄』という存在に憧れており、理想とする兄は彼女曰く『自由奔放で野性的』。
真面目―夜斗曰く、斬鉄剣でも斬れねぇくれぇの石頭―な家族に囲まれていた為か、その対極にルエリィは憧れており、その理想像に夜斗が当てはまったのだ。
理想の兄に相応しい夜斗にルエリィは『兄様と呼ばせてほしい』と頼み、恥ずかしさから最初は渋った夜斗だが
『駄目、ですか……?』
『No! 寧ろ、Yes!』
雨の日に捨てられた子犬のような、過剰なまでに保護欲を掻き立てられるルエリィの姿に両穴から鼻血を出しつつサムズアップ、爽やかな笑みと共に夜斗は頼みを承諾した。
因みに夜斗は一七歳でルエリィは一四歳、兄と呼ばれるには丁度良い具合の年齢差がある。

「あれ? 『要らず姫』じゃねぇか、何で中庭に居るんだ?」
「しぃっ! 馬鹿、隣にはアイツが居るんだぞ! 殺されたいのか!?」
「殺されるも何も、聞こえてないだろうから大丈夫だって」

演奏を終え、ルエリィの控えめな拍手を受けながら一息吐いた夜斗の耳に蚊の羽音の如き小さな声での会話が届き、会話の聞こえた方に彼は視線を向ける。
夜斗の視線の先は中庭に面した廊下に立つ二人の兵士……暴言を吐いた兵士をもう一人の兵士が慌てて注意し、暴言を吐いた兵士が注意を聞き流そうとしていた所だった。
確かに廊下の兵士二人と中庭の隅に居る夜斗との距離は開いており、普通に考えれば二人の会話は夜斗の耳には届かないのだが、
(バッチリ聞こえてたっての)
元の世界で受けた『訓練』で強化された聴覚は二人の会話を一言一句逃さず捉えており、その会話に夜斗は胸中で毒づきながら指を鳴らす。
「それに聞(ボンッ!)
「ぎ、ぎゃあぁぁぁ――――――――!?」

夜斗が指を鳴らした瞬間、暴言を吐いた兵士の頭が『まるで内側から爆ぜるように』爆発、普通に会話していたら突然頭が爆発したという不可解な状況に残る兵士が絶叫を上げる。

「……兄様? 今、叫び声が聞こえませんでした?」
「ン? キノセイダトオモウヨ?」
兵士の絶叫はルエリィの耳にも聞こえ、微かに届いた絶叫に首を傾げるルエリィに夜斗は気の所為だと棒読みで告げる。
「ほれ、なんか聞きたい曲はあるか? まぁ、この世界の曲は知らねぇから、俺の世界の曲になるけどよ」
「え? え、えぇと……」
リクエストはあるか? と問う夜斗に、何処か釈然としない様子でルエリィは今まで彼が弾いた曲の中から聞きたい曲を考える。
(俺の前で『要らず姫』って言ったんだ、当然の報いってヤツさ)
今頃、廊下では突然頭が爆発した兵士の死体の処理にてんやわんやの状態だろう。
聞こえないからと高を括っていた兵士の末路に、夜斗は何を頼もうか悩んでいるルエリィに悟られないように笑みを浮かべる。
その笑みは残虐性に溢れ、地獄の悪鬼も裸足で逃げ出す程に凶悪な笑みだった。



現在の夜斗のネルカティエ内部での立場はルエリィの筆頭近衛騎士で、父にして王であるゴールディに彼女がどうしてもと頼んだらしい。
筆頭近衛騎士、と言ってもルエリィの護衛を務める騎士は夜斗しかいない。
何故ならルエリィは『要らず姫』……優秀な姉三人を持ちながら本人には何の才能も無く、『王女』という肩書に反して誰からも必要とされていないからだ。
故に、ルエリィには今まで護衛の騎士が就かず、夜斗だけが彼女の唯一の護衛なのだ。
誰からも必要とされていない故に実父からも『要らず姫』と呼ばれてきたルエリィだが、夜斗が近衛騎士に就いてから彼女を『要らず姫』と呼ぶ人間は急激に減った。


『要らず姫に要らぬと言ってはならぬ、言えば死神に狙われる
 要らず姫に要らぬと言ってはならぬ、言えば死神に殺される』


ネルカティエは勿論、他の教団勢力圏内でもそう囁かれるようになったのは夜斗が原因だ。
夜斗は『要らない子供』という言葉を嫌っている、そう言った者が『重要な立場に立つ者だろうと殺さずにはいられない程』に嫌っている。
例えば教団懇意の大商人、例えば教団勢力圏内でも有力な貴族、例えば軍を率いる司令官、例えば主神の声を聞ける聖職者。
どれだけ地位があろうとも夜斗は『要らない子供』と言った者を殺さずにはいられない、それこそ『ルエリィの父にしてネルカティエの王であるゴールディが相手でも』、だ。

事実、夜斗はルエリィの事を『要らず姫』と呼んだ者を一切の例外無く殺してきた。
仮に殺し損ねたとしても、夜斗の濃密で苛烈な殺意に中てられた者は精神に重度の異常をきたして社会的には死亡同然となる。
夜斗に殺意を抱かせたら最後、その殺意に狙われた者は身体が死ぬか、精神が死ぬか、のどちらかを強制的に選ばされる事になる。
殺意を抱いた夜斗は万人に等しく死を与える死神と化し、死神を恐れて面だって言う者は急激に減ったのである。
夜斗が近衛騎士に就任してから二ヶ月強……その僅かな期間でネルカティエは勿論、他の教団勢力圏内でも夜斗は魔物以上の恐怖の象徴として恐れられるようになったのだ。

×××

―ドンドンッ、ドンドンドンドンッ
「……? あ、もう来る頃ですね」
この日の夜、自室で読書に耽っていたルエリィは乱暴なノックで現実に引き戻される。
既に夜の巡回の兵士以外は眠っている時間帯であり、緊急事態でもない限りこんな夜更けに王族の寝室が集まる区画に訪れる人間はいない。
然し、近所迷惑も顧みず乱暴にノックする人間に心当たりのあるルエリィは、読んでいた本に栞を挟んでから扉を開ける。
「……………………」
「こんばんは、兄様。さぁ、早く……」
扉の向こうには無言で佇む夜斗……ただでさえ目つきの悪い目を血走らせ、耐え難い何かを我慢しているように荒い息を漏らす姿は、まるで禁断症状を起こした麻薬中毒者。
ルエリィは見るからに危ない夜斗を中に招くと手早く鍵を掛け、首のチョーカーを外す。
すると、その下から現れたのは四センチ程離れて縦に並んだ二つの傷痕、頸動脈の真上に位置する二つの傷痕は見るからに痛々しい。

「わ、悪ぃ……何時も、の、頼む……」
「分かりました、兄様。さぁ、どうぞ……」
息も絶え絶えに呟く夜斗にルエリィは首を傾けて首筋の傷痕を晒すと、フラフラと傷痕に惹かれるように夜斗は近付き―――
「んっ……」
ルエリィの首筋に噛みつくと、傷痕を抉るように犬歯を突き立てる。
犬歯で抉られた傷痕からジンワリと血が溢れ出し、ジュルジュルと下品な音を立てながら傷痕から溢れる血を啜る夜斗の姿はまさしく吸血鬼。
可憐な姫君の首筋に噛みついて血を啜る黒衣の吸血鬼、その光景には怖気を誘いながらも見る者の目を離さない美しさがあった。

夜な夜な生血を求めて徘徊し、獲物を見つければ噛みついて血を啜る、『吸血衝動』とでも言うべき危険な性癖を夜斗は持っている。
ある程度啜れば衝動は治まるがソレも一時の間……吸血衝動は食欲や性欲と同じであり、意志の力で耐え忍ぶ事も出来るがソレを断つ事に苦痛を覚えるのだ。
夜斗が吸血衝動を自覚したのは四歳の頃で、自覚してから義父に引き取られるまでの間は拷問に等しかった。
幼くとも異常だと自覚出来る衝動に、当時の夜斗は自分の指に噛みついて自分の血を啜るという蛸が己の足を食うような真似で堪えていた。
最初はソレで衝動は治まっていたが、次第に自慰行為では衝動が治まらなくなり、義父に引き取られる直前の夜斗は発狂寸前にまで陥っていた。
引き取られてから暫くの間は義父の用意した輸血パック―どんな方法で入手したかは不明だが―で、成長してからは吸血鬼宜しく獲物を求めて夜斗は吸血衝動を治めてきた。

ネルカティエに召喚されてからは紅蓮か一心の血を啜って夜斗は吸血衝動を治めてきたが、ルエリィに吸血衝動を知られてからは彼女の血を啜って治めている。
無論、ルエリィも夜斗の吸血衝動には驚いたが、『誰かから必要とされたい』という思いが彼女を動かしたのだろう。
気味悪がって距離を置くか離れるだろうと思っていた夜斗に、ルエリィは自ら進んで血を捧げると言ったのだ。
ルエリィの思いを汲んだ夜斗は彼女の血を啜り、毎晩衝動が襲う度にこうして彼女の血を啜りに来るのである。

「毎晩毎晩、済まねぇなぁ」
「いいえ、兄様のお役に立てるならこのくらい大丈夫です」
血を啜って吸血衝動を治めた後、チョーカーを着けるルエリィに夜斗は申し訳なさそうに呟き、その呟きに彼女は微笑みを浮かべる。
「ほれ、今度はオメェの番だ」
「……はい」
チョーカーを着けたのを確認した夜斗は人差し指を差し出し、仄かに頬を赤く染めながらルエリィは差し出された人差し指を咥える。
ルエリィの舌が飴を舐めるように人差し指に絡まり、その感覚に若干前屈みになりながら夜斗は人差し指に意識を集中させる。

魔力充填/設計開始
生成物質/投与用血液
投与対象/ルエリィ・ルメール・ネルカティエ/対象適合調整開始
調整完了/設計完了/生成開始

「ん……っ」
咥えてから数秒後、人差し指から滲み出る生温かい液体をルエリィは嚥下する。
生温かい液体が喉を通る度に、欠けていたモノが埋まっていくような充足感に満たされるルエリィは恍惚とした表情を浮かべる。
ルエリィの喉を潤す生温かい液体は血液、彼女の免疫が拒絶反応を起こさないよう成分を調整した人造ならぬ『魔造』の血液だ。

元の世界には存在せず、この世界に存在する魔術を夜斗は扱う事が出来る魔術師であり、彼の魔術は体内に蓄えられた魔力で物品を作る魔術だ。
頭の中に作りたい物品の設計図を描き、設計図を基に魔力で物品を生成する。
『素材や成分構成、内部構造等を把握している物品限定』という制限があるものの、逆に言えばソレ等を把握している物品なら夜斗は何でも作る事が出来るのだ。
その気になれば魔力だけで生物を作る―まぁ、作ったとしても『魂』は作れない為、質感がリアルな1/1スケール人形止まりだが―事も出来る。
尤も、構成成分や内部構造の複雑さに比例して消費する魔力の量も増える為、『生物を創る』という神の領域を侵す暴挙を夜斗はやらないが。

「はぁ……」
兎も角、夜斗は魔力で物品を作る事を得意とする魔術師で、ルエリィに飲ませたのも彼が魔術で作った血液だ。
吸血衝動で啜る血液の量はそれ程多くないが、それでも毎晩啜られていては何時か貧血で倒れてしまう。
ルエリィが貧血で倒れてしまわないように夜斗は血を啜った後、啜った分の血液を魔術で作って彼女に輸血しているのである。
「兄様の作った『栄養剤』、凄く甘くて美味しいです」
尤も、ルエリィには『血液の生成を促す特製の栄養剤』と誤魔化しているのだが。
「んじゃ、また明日も頼むぜ」
「はい、明日もお待ちしています」
吸血衝動を治めてルエリィに輸血した後、手をヒラヒラと振りながら夜斗は部屋から去り、ルエリィは明日も待っていると告げて自室に戻る彼の背中を見送る。
二人は知らない、このやり取りがルエリィの運命を大きく変える事を。



「いやぁ、オメェの持ってきた見取り図のお陰で潜入の目途が立ったぜ」
「へへっ、そいつぁどうも。まぁ、礼なら見取り図を作った……に言ってくだせぇ」
「あぁ、そうさせてもらうっての。警備兵の配置から巡回ルート、警備の交代時間に狙撃スポットと細か過ぎて覚えるのが大変だったからな」



「オイ、糞爺ぃ! 朝っぱらから俺に何の用だってんだ、ゴルァッ!」
「……全く、貴様の弟は礼儀正しいというのに。いや、兄の貴様が無礼だからこそ、か」
その翌日の朝、夕方まで惰眠を貪ろうと―『体質上』、夜斗は昼間が苦手なのだ―していた夜斗に一人の兵士が訪れ、彼は呼び出しを受けた。
惰眠を邪魔された怒りで青筋を浮かべた夜斗が、彼を呼び出した人物の部屋の扉を乱暴に蹴り開けると其処には豪華な机に座る初老の男性。
枯れ木を思わせる程に痩せた、夜斗の無礼極まる来室に皺だらけの顔の眉間に皺を寄せる初老の男性は大司祭、国王のゴールディに次ぐネルカティエのナンバー2である。
「寝起きで機嫌が滅茶苦茶悪ぃんだ、碌でもねぇ用だったらシめんぞ、あぁ?」
不機嫌と怒りを露に威嚇する夜斗の姿は完全にチンピラであり、敬意の欠片も無い態度に大司祭は呆れた溜息を吐く。

「呼び出したのは要ら……んんっ、ルエリィ様の事だ」
「あぁ? ルエリィ?」
『要らず姫』と言った直後に訪れる惨劇は大司祭も知っている。
思わず言いそうになった禁句を咳払いで誤魔化した後、ルエリィの事で話があると言った大司祭に夜斗は嫌な予感を覚える。
「結論から言おう、この時点をもってルエリィ様の近衛騎士から貴様を解任する。同時に貴様は金輪際ルエリィ様に近付くな」
「……………………はぁ!?
その言葉の意味を一瞬理解出来ずに一〇秒は固まっていた夜斗、フリーズから再起動した彼は大司祭の発言に驚きを隠せない。
近衛騎士の解任なら心当たりは大量にあるが、ルエリィに今後一切近付くな、というのは一体どういう事なのだろうか。

「ルエリィの騎士から外されるだけなら理由が腐る程に在るからまだ分かるがなぁ、今後一切ルエリィに近付くなってなぁ一体全体どういう事だ!?」
「ふん、単純な理由だ。貴様の存在が『ルエリィ様の結婚』に不都合だからだ」
はぁぁぁっ!?
驚愕と困惑を隠せない夜斗へ追い打ちを掛けるように紡がれた、『結婚』という単語は彼を混乱させるには充分過ぎた。
ルエリィと一緒に居た時間は多かったが、今まで彼女は結婚の話をした事は無い。
私は政略結婚にも使えない役立たずだから……寂しげな笑みを浮かべながら、ルエリィがそう言っていたのを夜斗はハッキリ覚えている。
口止めされていたにしても、ソレを匂わせる素振りもルエリィは見せなかった。
何故突然ルエリィの結婚が決まったのか、何故自分が居ると彼女の結婚に不都合なのか、夜斗は混乱する頭で考えるが上手く思考が回らない。

「何故、と言いたそうな顔だな? 貴様のような『化け物』がルエリィ様の傍に居る、と周囲に知られれば我々の面子が丸潰れだ」
『化け物』。
大司祭の言葉の中に混じっていたその一語で、混乱していた頭が一気に冴える。
『化け物』と呼ばれる心当たりは一つだけある……だが、『ソレ』は周囲に露見しないよう細心の注意を払っていた筈だ。
「…………おい、テメェ、まさか」
まさか、と思いたい。
心臓が早鐘の如く脈動し、嫌な予感で口の中がカラカラに乾く。
「そのまさか、だ。昨日の夜、貴様がルエリィ様の血を啜っているのを見た者が居るのだ」
「…………っ!?」
夜斗の嫌な予感は的中した、吸血衝動を治める為の吸血を目撃されてしまったのだ。

「全く、勇者として異世界から召喚された貴様がゴミ共と同じだとは思わなんだ。貴様が化け物だと早く知っておれば……」
苦虫を噛み潰したような顔で大司祭が何か言っているが、夜斗の耳には届いていない。
在り得ない、信じられない、その二つが夜斗の頭の中を駆け巡っている。
この身に修めた技能上、自分は気配に敏感で吸血時は普段以上に周囲を警戒していた。
自分の感覚を欺ける程の手練れなら、『同類』の自分にはその身に纏う気配で直ぐ分かる。
少なくとも、自分以上にそういった技能に優れている者はネルカティエに居なかった筈だ。
「……とは言え、ル………様を娶ら………ハーウ……殿も……だな。………『役立たずの要らない小娘』、………ところで……と財産を………けなの……に見えるわ」
吸血が知られた事に混乱し、呆然としていた夜斗の耳に禁句が届く。
うっかり漏らしてしまったのだろうが、ショックで聞こえていないと思っているらしく、大司祭は誤魔化そうともせずに言葉を続ける。
途切れ途切れに聞こえる言葉、夜斗の耳は禁句だけを鮮明に捉えていた。

「……………………」
混乱する頭を抑えきれない、抑えるつもりもない殺意が支配する。
「……ん? な、何だ、貴様!?」
魂をも焼き尽くす勢いで燃え上がる殺意は夜斗の全てを支配する。
「ま、まさか……貴様、私を殺す気か!?」
殺そう。
「私を殺せばどうなるか(ゴキンッ)……は?」
この男を殺そう。
「や、止め……ぎゃあぁぁ――――――――――――!!
もう、ソレ以外、何も考えたくない。

×××

「うっ、ぐすっ……ひっく……う、うぅ……」
この日の夜、ルエリィは泣いていた、枕に顔を埋めて泣いていた。
今日は夜斗とどう過ごそうか、そう考えながら部屋を出ようとしたルエリィの許に一人の男性が血相を変えて飛び込んできた。
その男性にルエリィは覚えがある、飛び込んできたのは夜斗の義弟・灰崎勇一だった。
飛び込んできた勇一にルエリィは何が起きたのかを尋ねると、彼の口から語られた事情に彼女は衝撃を受けた。

夜斗が大司祭を殺した。

何故、とルエリィは思ったが、直ぐに心当たりに思い至った。
何故かは知らないが、夜斗は『要らない子供』という言葉を嫌って……いや、アレは最早嫌悪では済まない。
アレは『憎悪』だ、夜斗は『要らない子供』という言葉を心底憎んでいる。
恐らく、大司祭は夜斗の前でうっかり言ってしまったのだろう。
禁句を聞いた夜斗は言った者を殺す事しか考えなくなる、そうなった彼を止められるのは目前に居る勇一とネルカティエから去った彼の義兄の三人だけだ。
然し、運悪く―夜斗にとっては運良く―、勇一は日課である朝練に出ていた。
朝練に励む勇一の許に大司祭の護衛の兵士が血相を変えて訪れ、兵士の報告に慌てて彼が向かった時には既に終わっていた。
夜斗は既に事切れた大司祭を執拗に痛めつけており、勇一が止めた時には大司祭の死体は骨という骨が砕かれ、まるで軟体生物のようだったらしい。

『済まない、ルエリィ君……流石に今回ばかりは、私でも庇いきれない』
苦渋の表情を浮かべる勇一だがソレも当然だろう。
夜斗はネルカティエのナンバー2である大司祭を惨殺したのだ、義兄二人の離反で立場が危うくなりつつある勇一では彼の減刑を訴えたところで徒労に終わるのが目に見える。
『ルエリィ君、今から開かれる緊急会議に向かおう。徒労に終わる可能性が非常に高いが、それでも夜斗の減刑を我々は訴えるぞ!』
『は、はい!』
夜斗の減刑を訴えるべく二人は急いで緊急会議が行われる部屋に向かうが、二人の訴えは空しく終わり、夜斗に死刑が下された。

「嫌、嫌ぁ……結婚なんて嫌ぁ……」
会議が終わり、夜斗に死刑宣告が下された後、ルエリィに追い打ちを掛けるように父から結婚を言い渡された。
相手は教団でも有力な貴族らしいが、並べば祖父と孫娘にしか見えない程にルエリィとは歳が離れている。
年齢差の在り過ぎる老貴族へ嫁がされる事にルエリィは勿論、彼女の味方でもある勇一も反対したが、二人の反対は黙殺された。
兄と慕う夜斗の死刑、老貴族との望まぬ結婚……一週間後に行われる結婚式は、夜斗との永久の別れを意味する。
結婚を言い渡した後、父は結婚式の後に夜斗を処刑すると言ったのだ。
「兄様ぁ……兄様ぁ……」
父の決定は絶対であり、このネルカティエで父の決定に異を唱えられる者は居ない。
覆しようのない現実にルエリィは絶望の海に沈んでいく、『王女』の肩書を持ちながら何も出来ない無力感に泣き続ける。

「オイオイ……諦めるにゃあまだ早いぜ、お姫様」
「っ!?」
ルエリィが諦めようとした、その瞬間だった……突然部屋の隅の空間に亀裂が入り、亀裂の入った空間から部屋の空気とは場違いな程に明るい声が響いたのだ。
空間の亀裂から響いた声にルエリィは枕に埋めていた顔を上げ、空間の亀裂に目を向ける。
「よっこいしょっ、と」
すると空間の亀裂から一〇本の指が現れ、現れた指は引き裂くように空間を抉じ開ける。
抉じ開けられた空間の向こう、純白の虚空から現れたのは
「やぁ、お姫様。アテの名はアステラ・フォン・ラブハルト、魔王の五番目の娘さ」
色気の欠片も無い武骨な軍装を纏ったリリムだった。



「……魔王の娘が私に何の用ですか?」
「あり? 驚かねぇの? 連中、アテが現れると逃げるか、腰を抜かすかすんだけどなぁ」
突然現れた軍装のリリム―アステラ、と名乗ったか―を前にルエリィは溜息を吐きながら用を尋ね、彼女の予想外の反応にアステラはガリガリと頭を掻く。
アステラの名は教団内部でもかなり有名だ……素手の戦いなら大陸に並ぶ者無しと謳われ、白地に黒い縞の入った無骨な防具を纏う事から人呼んで『アーカムの白虎』。
アステラを前にした者は一目散に逃げ出すか、恐怖で腰を抜かすかのどちらかだったが、溜息を吐かれるのは初めてだ。
「欲求に忠実な快楽主義者なのが玉に瑕ですけれど平和と人間を愛する方々、と兄様から聞きましたから」
「あ、成程」
抱きしめた枕に顔を埋めながら魔物の事はある程度知っているとルエリィは告げ、彼女の答えにアステラは納得する。

「んじゃ、話は早ぇな……オメェ、魔物になる?」
「魔物に……?」
驚かない理由に納得したアステラはルエリィに魔物になりたいか? と問い、その問いに彼女は首を傾げる。
「盗み聞きさせてもらったけど、オメェの事情をアテは知ってる。結婚、嫌なんだろ?」
「…………」
確認するようなアステラの問いにルエリィは―何時から、何処で、どうやって父との口論を聞いていたのかはこの際聞かない事にした―無言で首を横に振る。
弱々しく首を振るルエリィにアステラは眉間に皺を寄せた険しい表情を浮かべ、枕に顔を埋める彼女の許に歩み寄ると
「痛っ」
ルエリィの頭を軽く小突いた。
「うぅ……どうして叩くんですか?」
突然小突かれた事にルエリィは顔を上げて涙で赤く腫らした目で抗議すると、アステラは屈んで彼女と視線を合わせる。

「諦めんな」
「……え?」
「諦めんな、ってアテは言ったろ? ほれ、お姉さんに本音をぶつけてみ?」
ポン、ポン…と子供をあやすように優しく頭を叩くアステラ。
その手は温かくて、その声は優しくて、アステラの優しい温もりにルエリィの顔が歪む。
「…………す」
「んん?」
「好きでもない殿方と結婚するなんて嫌です! 子供っぽくてもいい! 私は好きな人と、心から好きだって言える人と結婚したいです! だけど……」
優しい温もりは心の壁を打ち崩し、ルエリィはアステラに本音をぶつける。
「お父様の言葉は此処じゃ絶対で、肩書だけの王女の私にはどうしようもないんです! 何も出来ない、何も出来なかった私は」
「は〜い、其処でストップ。諦めるしかない、ってのは無しな」
諦めるしかない、と叫ぼうとしたルエリィの口に人差し指を当ててアステラは言葉を遮り、言葉を遮られた彼女は目を丸くする。

「諦めたくねぇんだろ? だったら、アテがオメェに現実を覆す力をくれてやる」
「現実を覆す、力……?」
その言葉に首を傾げるルエリィの胸にアステラは右手をそっと添える。
胸に添えられた手は妖しくも慈愛に溢れた紫色の光を放ち、光は徐々に輝きを強めながらルエリィの身体を包んでいく。
「あぁ、そうだ……オメェに相応しい、現実を覆すにゃあ充分な力をくれてやらぁ」
光がルエリィの全身を包み、アステラが手を離した時、其処には巨大な卵を思わせる光の塊があった。
ボンヤリと淡く輝く、アステラと並ぶ大きさの光の卵、その殻の向こうでは胎児のように丸まって浮かぶルエリィの影がうっすらと見える。
今はまだルエリィの魔物化は始まっていない……この光の卵は方向性を持たない魔力の塊、方向性を決めればルエリィの魔物化が始まる。

「さて、と……」
光の卵にアステラは額を当てると額から記憶や素質、心の奥底に隠していた想いといったルエリィの情報が彼女に流れ込んでくる。
アステラは額を通じて流れ込む情報を吟味し、ルエリィに相応しい魔物を決めるのだ。
「愛しの『兄様』の隣に立つのに相応しい魔物、ねぇ。地味に大雑把な注文だな、オイ」
額から流れ込む『兄と慕う夜斗の隣に相応しい魔物になりたい』というルエリィの思いに苦笑しながらアステラは彼女の情報の中から『兄様』の情報を引き出し、
「……って、なんじゃこりゃぁぁっ!?
その情報に思わず大声を上げてしまったアステラは慌てて自分の口を塞ぐ。
危ない、危ない、危うく潜入がバレるところだった。
「う〜わ〜、コイツが愛しの兄様かよ……」
大声の原因は夜斗の吸血衝動、アステラから見れば夜斗は人間の皮を被ったヴァンパイア、こんな魔物紛いの彼を『兄様』と慕い、恋心を抱いているとは驚きだ。

「ヴァンパイアもどきの兄様の隣に相応しい、ねぇ……」
ルエリィの希望にアステラは眉間に皺を寄せる。
安直に考えればヴァンパイアだがルエリィの器では無理で、ルエリィの素質では中堅格の魔物が精々だろう。
『魔物化させる者に相応しい魔物にする』というポリシーがアステラにはあるが、
「でも、なぁ……お姫様の事がどうにも放っておけないんだよなぁ」
だからと言ってポリシーに従うのも嫌だ。
家庭環境は違えど、ルエリィとアステラは同じ末っ子の王女。
愛情を受け易い立場にいながら愛されなかったルエリィの事を考えると、今までの不幸を帳消しに出来るか、ソレ以上の幸福を掴み取れるだけの力を持つ魔物にしてあげたい。
「あぁ、もう! 悩むのは止めだ、止め!」
自分のポリシーか、自分の正直な思いか。
そのどちらを取るかで卵に額を当てながらアステラは暫く悩んでいたが、漸く彼女の中で答えが決まった。

「アテも末っ子のお姫様だ、同じ立場のオメェには幸せになってほしい……だから、」
卵から額を離し、控えめな声で叫んだアステラは卵に手を当てると、卵に触れた右手から方向性を決められた膨大な魔力が溢れる。
「アーカムに帰る分だけ残してアテの魔力、全部オメェにくれてやらぁ!」
そして、アステラは右手から溢れる膨大な魔力を、必要最低限の量を残した全ての魔力を卵に注ぎ込む。
一気に注がれる膨大な魔力に卵は痙攣するように震え、殻の向こうにうっすら見える影は悶えるように暴れ回る。
今頃卵の中では注がれた魔力に比例した、魔物でも意識が強制シャットダウンされる程の快感にルエリィは震えているのだろう。

ベッドから転げ落ちるのでは? と危惧する程に震えていた卵だが次第に震えは治まり、中で暴れ回っていた影も徐々に落ち着いていく。
卵の震えが完全に止まり、中で暴れ回っていた影もピタリと動きを止めた瞬間、卵が一気に縮んでいく。
卵の縮小は魔物化の完了が近い事を意味する……掌サイズにまで縮んだ卵、今度は徐々に巨大化を始める。
巨大化する卵はルエリィの身長程の大きさになると巨大化を止め、ルエリィの新たな形に合わせて形を変えていく。
変形は瞬く間に終わり、変形を終えた卵は頭の方から光の粒子となって消え始める。

「やぁ、新生おめでとう、気分はどうだい?」
上から徐々に消えつつある光に包まれたルエリィに、魔力を使い過ぎて床に腰を抜かしたアステラが問う。
その問いに魔物化したルエリィはゆっくりと目を開き、
「…………あはっ、最高です♪」
恍惚とした笑みを浮かべながら答える、最高の気分だと。



「……………………」
ルエリィがアステラの手で魔物化を果たした頃、夜斗は牢屋で自分の内側を見つめていた。
牢屋の質素なベッドに腰掛け、夜斗は自分の内側に目を凝らしていた。
脳裏に思い浮かぶのは大司祭殺害のシーン、正確には殺す前の大司祭の言葉。
無邪気に自分を慕う可愛い妹分、ソレがルエリィに対する夜斗の認識だった。
然し、ルエリィが結婚すると聞いた時、何故自分は混乱したのだろう。
兄貴分として祝福すべき事なのに、何故あの時見知らぬ新郎に黒い感情を抱いたのだろう。
「……はっ、ははっ」
何を今更、と言いたげな失笑を漏らす夜斗。
改めて考える事でもない、以前から解っていた事である。
ただ、ソレをハッキリと理解していなかっただけだ。
「一応感謝するぜ、糞爺ぃ」
ルエリィへの想いを正しく理解させる切欠をくれた大司祭に夜斗は礼を言う。
正しく理解した以上、自分のやるべき事は決まっている。

「礼代わりと言っちゃなんだが……へへっ」
最高に最悪なタイミングでルエリィの結婚式を台無しにする、結婚式を台無しにした上でルエリィを『奪い返す』。
「そうと決まりゃぁ……」
後は最高に最悪な結婚式を演出する為の準備をするだけだ。
どうやって台無しにしてやろうか、その方法に夜斗は思考をシフトさせる。
考える時間は大量、とまではいかないがそれなりにはある。
結婚式当日、どうやって脱獄するかも含め、夜斗は結婚式を台無しにする演出を考える。
14/03/05 09:01更新 / 斬魔大聖
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