連載小説
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第二話 『あんたら、何で食卓で戦争始めるんだよ!』
「時計が沢山ついてる」

 夜。我が愛機の操縦席に乗り、レミィナが最初に発した言葉がそれだった。

「高度や速度、エンジンの調子などを測る装置です」
「ふむふむ、そしてこの棒で動かすのね」

 昇降口の縁に掴まる私の前で、彼女は操縦桿を動かしたり、ペダルを踏み込んだりしている。好奇心旺盛そうなこの悪魔は、機体各所の舵が動くのを興味深げに見ていた。

 周囲にはバフォメットのミシュレ率いる魔女達が、機体を見ながら図面を引いたり、あれこれ話し合っていた。見た目が非常に幼いことを除けば、服装などは一般的な魔女のイメージに近い。とはいえそれでも何処か、男受けしそうなデザインではあるが……。他にも周囲には青い肌をした単眼の魔物・サイクロプスや、子供のような外見のドワーフもいる。金属加工に長けているとのことだ。全員が美女または美少女の姿とはいえ、私の世界の伝承と通じている部分もある。
 サバトの研究施設だという倉庫に愛機は安置されており、昼間からこうして調査を受けているのだ。魔法で動くように改造するため、私も飛行の原理について簡単に説明している。だが戦術利用に関しては一切話していない。

「魔法も無しで、よくこんなものまで作るわね」
「もっと巨大な物や、恐ろしく速く飛ぶ物もありましたよ」

 この程度のことなら言っても差し支えないだろう。別に軍事機密のためなどではないが、飛行機の戦術的な運用法については話さないつもりだ。
 操縦席から降りようとするレミィナに手を貸す。彼女の白い手は柔らかく温かだったが、どこかたくましさを感じた。つくづく不思議な女性だ。男を誘惑する悪魔の妖艶さと、清々しい雰囲気を併せ持っている。軽い足取りで地面に降り立つと、彼女は改めて機体を眺めた。

「この子の名前は?」
「Fi156」

 正確に答えると、彼女はつまらなそうな顔をした。

「味気ない名前ね」
「シュトルヒ、とも呼ばれています」
「シュトルヒ?」
「コウノトリですよ」

 彼女たちが私に注射した魔法薬というのはこの世界の言語を刷り込む物らしく、母国の言語も話そうと思えば話せる。翻訳もしようと思えばできるのだ。

 フィーゼラーFi156『シュトルヒ』。
 短い距離で離着陸することを主眼に開発された、多目的飛行機である。足は遅いが、軽い重量と大きな主翼によって五十メートル前後で離着陸できる。燃料切れになった後、滑空して町中に着陸できたのもその軽さのおかげだ。加えて荒れ地での着陸も安全に行えるため、動力源さえ確保すれば滑走路の無いこの世界でも飛ぶことができる。
 今までこれで数え切れないほど偵察飛行を行い、不時着した味方の救助も行った。スパイの脱出を手伝うこともあった。それらの功績が積み重なり、勲章を得るに至ったのだ。私の血筋からすれば、本来得られるはずのない勲章だが……。

「コウノトリかぁ。何となく似合ってるわね」
「そうですね。翼が大きいし、飛行中は脚も伸びるのでコウノトリのように……」
「ううん、そうじゃなくてさ」

 私をじっと見つめ、レミィナは微笑んだ。未だにこの赤い瞳の力には慣れず、長く見つめ合っていると魅了されかかってしまう。古今東西、多くの英雄賢人が美女に惑わされ失敗してきたが、この女を見れば誰も先人達を非難できない気がする。

「貴方に似合ってるな、って」
「私に?」

 よく分からない評価だった。面食らった私を見て、彼女はくすりと笑う。

「クールで気高い感じなのに、猛禽みたいな獰猛さはなくて、紳士的で。ヴェルナーにぴったりだと思うな」
「……そうでしょうか」

 改めて、自分はどのような男なのだろうと思った。人間の男無しではいられないというこの世界の魔物たちの目に、私はどう映るのだろうか。無論シュトルヒには愛着があるから、似合うと言われて悪い気はしないが。
 それにしてもこの悪魔、私の何にそんなに興味があるのだろうか。

「ねえヴェルナー。貴方からもわたしに訊きたいこととかある?」

 わたしばかり質問してるから、と彼女は付け加えた。確かに、私には今なお情報が不足している。この世界の歴史などは簡単に教わったが、そもそも魔物だの魔法だの、私の世界とは根本的なところが違っているのだ。特に彼女たち魔物のことはよく知っておく必要があるだろう。

「では、貴女は何という魔物なのですか?」
「わたしはね、リリム」

 レミィナは滑らかな声で答える。

「サキュバスの中で、最も強い魔力を持つ一族……つまり、魔王の娘の一柱ってこと」
「魔王の……それで『姫』と?」
「うん。別にどう呼んでもいいけどね」

 朗らかに笑う彼女の佇まいからは、確かに王侯貴族のような気品を感じる。人間も魔物も関係なく、王族の風格というものはあるのだろう。私には魔王と言われても精々ゲーテの詩くらいしか思い浮かばないが、レミィナは『悪魔の王女』と呼ばれても違和感がないほど、高貴な雰囲気を身に纏っていた。それでいて何処か破天荒で、放っておけないやんちゃ娘のような印象も受ける。

「レミィナ姫は何故、私の世話係などを買って出たのですか?」

 最大の疑問だった。悪魔の王族ともあろう者が、私ごときを手助けして何の得があるのか。飛行機の情報を引き出したところで、魔物には飛べる者も多いだろうから役には立つまい。

「理由はいろいろあるよ。単に異世界人に興味があるとか、仲良くなってみたいとか。後は……わたしの母上がサキュバスだってこと、聞いたでしょ?」
「ええ」

 先ほど述べたとおり、領主らからこの世界の歴史は簡単に教わった。
 この世界の神々は人間と魔物を争わせ、それを陰で操ることで互いの数を調整してきた。人間側は主神を信仰する教団のため、魔物はそれぞれの野望のためと思いつつも、神々の手の上で踊る戦いを続けてきたという。しかし強大な力を身につけたサキュバスが魔王の座に就いてから、そのシステムが破綻し始めたのだ。
 サキュバスは性交を通じ、人間の男から精気を吸い取る悪魔。そして魔王となったサキュバスは人間に愛情を持ち、ある人間の勇者と手を組んでこの世界を転覆させる計画に着手したのである。それは全ての魔物を美しい女性に変え、サキュバスと同じように人間の男と性交する存在にしてしまうという物。さらに人間の女性も魔物に変え、人間の男と魔物の女を『愛し合わせる』ことで、古来から続く争いに終止符を打つつもりらしい。

「母上はこの世界で最強のサキュバス。その娘であるわたし達リリムは魔法なんか使わなくても、簡単に男を虜にできるの」

 ゆっくり歩きながら、レミィナは語る。そのニーソックスに包まれた足が一歩一歩踏み出していく動きさえ、好色に男を誘っているかのように見えた。

「激しく魔物を嫌っている人でも、色欲とは無縁に見える人でも……自分からわたし達の前に体を差し出し、餌になりたがる」
「……恐ろしい話だ」

 人を殺すわけでなくとも、結局彼女たちは『捕食者』というわけか。
 彼女の言いたいことが何となく分かった。私は仮にも、一度彼女の魅力をはね除けたことになる。差し出された手を取るため飛行手袋を脱ごうとしたとき、自分が飛行機乗りだということを思い出した。そのプライドによって、理性を保っていられたのだ。

「わたしに魅了されない人、されてもすぐに正気を取り戻せる人……なんか、興味湧いちゃうの。わたしをリリムとしてじゃなくて、レミィナとして見てくれそうだし」
「よく分かりませんが、私は興味を持たれる価値もない、つまらない男です。飛ぶことだけが生き甲斐の……」

 率直な自己評価を述べると、レミィナはくすりと笑い声を漏らした。

「男ってそういうものでしょ? 何かに夢中になっちゃうと、他のことが何処かにすっ飛んじゃう。でもそういう人って、不思議な格好良さがあるのよね……」

 レミィナは懐から時計を取り出し、文字盤を確認する。そう言えば私も腹が減ってきた頃だ、飯時か。

「昼間はここにかかり切りだったじゃない。外へご飯食べに行きましょ」
「食費はありませんが」
「んふふっ、世話役に任せなさい」

 女性に奢ってもらうのは少し情けないが、背に腹は代えられない。素直に従うことにした。

 正直、私も彼女に興味が湧いている。可憐な女性ではあるが、紛う事なき本物の悪魔であり、元の世界では絶対に出会えない存在だ。いや、むしろ悪魔に一番近い生き物は人間というのがあの世界の現状だろう。だがレミィナは現に目の前にいるのに何処か幻想的で、話していると自分が『ファウスト』や『魔弾の射手』の登場人物になったような気分になるのだ。
 私は元々信仰心に篤い方ではないし、むしろ神には嫌われていたような気がする。だからというわけではないが、今更悪魔と友達付き合いをしても祟りはないだろう。

 ――どの道私は、神に許されないだろうからな――

 襟から提げている騎士鉄十字勲章……正確にはその中心に刻まれた鈎十字を眺め、私は一人苦笑した。








 ……










 愛機に積んであった制服に、地上勤務・外出用のオーバーコートの出で立ちで、レミィナと共に夜の町を歩く。コートのポケットには短剣を吊しているが、この程度はアクセサリとして許可してもらえた。
 町はレンガや石造りの建物が並び、景観としてはとても美しい。緑も多く、故郷の古い市街地や、家族の疎開先のドレスデン市を思い出す。住民は魔物だから夜こそ活発になると思っていたが、以外にも人通りは少ない。レミィナ曰く、夜は「ベッドの中で活発になる時間」とのことだ。女の姿をしているだけでなく、性格も相当好色らしい。だが単なる餌としてではなく、人間同様の愛情を持って男と接すると彼女は語った。

「ヴェルナーは母上の野望をどう思う?」

 石畳の上を軽い足取りで歩きながら、レミィナはふいに尋ねてきた。

「魔物を女、人間を男とし、愛し合わせることで一つの種族に統合する、というやつですか」
「うん」
「ふざけた発想だと思います」

 率直な感想を述べた。私の世界の価値観からすれば、あまりにも希有広大な話だ。しかし。

「ですがそれで戦争が無くなるなら、いくらでもふざけるべきだと思います」
「そうね」

 彼女は私の顔を見上げる。赤い瞳は夜道でも妖しく輝き、彼女が魔の娘だと実感させる。

「やっぱり、ヴェルナーは優しい人なんだ」
「……言っておきますが、私はあなた方の話を信じ切っているわけではない。『教団』とやらの言うように、人間を食らうために誘惑しているのかもしれない」
「んふふっ。そう、最初は疑ってかからなくちゃね」

 レミィナは指で髪をそっと梳いた。

「ま、わたし達が磔や火焙りにされなきゃいけないほど凶悪な存在かは、この町を見てれば分かると思うけど。……それとも、体で教えてあげようか?」

 少し声を低くし、耳元で囁かれた。背筋がぞくりとする。そんな私の様子を見てか、突然彼女は体を近づけてくる。
 息がかかりそうな距離。そして何よりも開けた胸元が、その谷間が私の腕に触れそうになっている。うっかりそのすべすべした白い肌を凝視しそうになり、慌てて目を逸らした。

「んー? どうしたのかなー?」
「……からかわないでください」
「んふふっ、見たければ見ていいのに」

 くすくすと笑いながら、レミィナは私にぴったりと寄り添っている。まずい、完全に手玉に取られている。我が祖国の誇る詩人が書いた歌曲で、瀕死の少年が霞を魔王、柳の木をその娘だと思い怯える場面があったのを思い出す。あの歌では魔王の台詞は甘く誘うようで、それが得体の知れない恐怖を生むのだ。私の置かれている状況も似たようなものだが、面倒なのは目の前にいる女の正体は柳の木ではなく、本物の魔王の娘ということだ。

「またわたしが怖くなったの? そんなことないよねぇ?」
「その捕食者の目つき、やめてください」
「美味しく食べてあげるよ?」
「それよりも私は自分の腹を満たしたいです。お勧めの店というのはまだなんですか?」
「ほら、そこよ」

 レミィナは料理屋らしい建物を指さした。看板の文字は読めないが、ドアの向こうからは笑い声が聞こえ、食欲をそそるクリーミーな匂いが漂ってくる。私はほっと息を吐き、心臓の鼓動を鎮めた。
 彼女がドアを開けると内側に付けられた鈴が鳴り、ウェイターらしき少年が「いらっしゃいませ!」と陽気に応じた。中で談笑していた多種多様な種族の客たちが、一斉に我々の方を見る。

「レミィナ姫、いつもありがとうございます」
「今夜も繁盛してるわね、シャルル君」
「お陰様で。……お連れの方ですか?」

 この世界では私の来ているような軍服は珍しいのだろう。注文メモを片手に、まじまじと見つめてくる。

「昨日、空からやってきた人よ」
「えっ、じゃあ……噂の異世界人!?」

 店内がざわめく。どうやら私の噂はすでに伝わっていたようだ。「ぱっと見、普通の人間ね」「あの服かっけー」「あんまり強くなさそう」などという声が聞こえる。ウェイターの少年はやや慌てた様子で私を見る。

「ええと、俺らと同じ食べ物で大丈夫なんでしょうか? 何か消化できない物とかありますか?」

 そう来たか。

「彼はね、石とか鉄とかをバリバリ食べるのよ」
「デタラメを教えんでください。普通の肉や野菜の料理をお願いします」


 そのようなやりとりの後、我々は着席した。陽気な雰囲気の田舎料理屋といった風情で、客は労働者階級の者が多いらしい。名物だというシチューを注文した後、しばらく周囲からの質問責めにあった。やはりこの世界でも、異世界の人間というのは相当に珍しいようだ。しばらくこのような場に来ていなかったので多少戸惑ったが、皆親切そうな連中で、次第に流れに引き込まれていく。

「貴方が乗ってきた乗り物は、偵察に使うのですか?」

 近くの席にいる少女が尋ねてくる。その姿は耳が尖っている以外人間と変わりないが、禍々しい意匠の長剣を机に立てかけていた。悪魔版のジャンヌ・ダルクなどと例えたらフランス人が怒るだろうか。

「そんなところです」
「この世界でも作れるでしょうか?」
「無理でしょう」

 実際のところ魔法などを使えばどうだか分からないが、きっぱりと言い切っておくことにした。機体を飛べるようにしてくれるというから改造には協力はするが、この町で生産してみたいという話になったら手を貸す気はない。

「そもそも必要ありません。空から偵察ができる魔物などいくらでもいるのでしょう」
「でもさ、ヴェルナー」

 突き出しのサラダを食べながら、レミィナが口を挟んだ。

「あんな素敵な乗り物、独り占めするのってずるくない?」
「その素敵な乗り物に乗って、大勢の戦友や敵兵が死んでいきました」

 そう言うと、レミィナの顔から笑顔が消えた。長剣を携えた少女も、はっとしたように押し黙る。彼女達はきっと軽い気持ちで言ったのだろうが、これははっきりと言っておかねばならないだろう。
 少年時代には夢の乗り物だった飛行機もいつしか棺桶代わりとなり、ついには町を焼き払う化け物になっていった。この世界でもそれを見たくはない。今私が戦友や家族のためにできることは、それくらいだろうから……。

「……それでも、飛行機が好きなの?」

 レミィナの言葉に、私は自嘲気味に笑った。確かに、おかしな話だ。仲間や家族を奪った機械を、未だに相棒と呼んでいるのだ。

「子供の頃、『世界一の飛行機乗りになる』って父と約束しましてね。それを嘘にしたくなかったんです」
「……そっか」

 レミィナは微笑んだ。蔑んだ様子のない、赤い瞳が夕焼けのように見える穏やかな笑顔である。何かを懐かしんでいるようでもあった。

「ほい! 特性ホル乳シチュー、お待ちどうさま!」

 しんみりした雰囲気が、威勢の良い声と湯気の立つ料理によって打ち消された。シェフらしき屈強そうな男と、牛のような角と耳を持つ女性が器を並べていく。良い香りのするシチューにパン、そして付け合わせなのか、黄金色の艶が美しいオムレツもついている。レミィナが心底幸せそうな顔で「待ってました!」と叫んだ。

「どうぞ食ってみてくれや、異世界人さん。オムレツはサービスだ。うちのウェイターが作ったんだが、味は保証する」
「お、お口に合えばいいんですけど〜」

 シェフは陽気に、細君らしき女性はどもりがちに言う。何だかんだで腹が減っていた所へようやく熱々の料理が出てきたのだ、言われるまでも無く食すしかない。

「では、いただきます」

 シチューをスプーンで一口食べる。その瞬間、口の中に濃厚な味わいとハーブの香りが広がった。ジャガイモのほっくりとした食感にクリーミーな味わいがからみ、得も言われぬ美味しさを作り出す。肉の方はというと、これもしっかり歯ごたえがありながらも柔らかく、噛めばいくらでも味が出てきそうだ。材料が良いだけではあるまい、手間暇かけて考え抜かれた芸術品なのだろう。

「どうだい?」
「ええ、実に美味しいです。ジャガイモの茹で加減も完璧だ」
「分かるかい? まあ俺の腕もさることながら、女房のミルクが最高に美味くて、野菜も引き立つんだよ」

 女房のミルク、という辺りが理解できず、細君の方へ目をやる。

「わ、私たちホルスタウロスのお乳は〜、と、とても美味しくて栄養たっぷりなんですよ〜」

 穏やかな口調の細君の説明で、ようやくその意味が分かった。そう言えば彼女は牛の魔物だけにか、胸がかなり大きい。

 ――つまり……魔物の母乳?――

「ヴェルナー、この世界じゃ普通のことだから」

 シチューに視線を落としたまま固まっていた私に、レミィナが静かに告げた。周囲の客達はそんな我々を微笑ましげに眺めながら、自分たちのシチューを食している。
 ……郷に入っては郷に従え。同盟国のことわざを思い出し、とにかく気にせず食事を続けることにした。

 その時。突如、私のシチューの器目がけ、銀色のスプーンが迫ってきた。狙いは……鶏肉か!

 ――そう何度もやらせるか!――

 即座に、そのスプーンを持つ手を掴んで止める。シチューに着水する寸前でスプーンが止まり、レミィナが感心したような声を出した。

「やるわね」
「二度もやられてたまりますか」

 ゆっくりと手を離しつつ、私は不敵な笑みを浮かべて見せた。観察眼と反射神経によって地獄の空を生き抜いてきたのだ、このくらいの芸当はできる。
 彼女は舌打ちしつつ、白い手を引っ込め……次の瞬間、空いたもう片方の手を伸ばしてきた。今度の狙いは……パンだ!

「はっ!」

 私はレミィナの手を止めなかった。その代わり、彼女のパンへと手を伸ばす。それに気づいたレミィナも、止めることはできなかった。
 かくして、私は互いのパンを交換するという形で自分の食事を守った。

「むむむ……」
「何がむむむですか。航空兵を甘く見てもらっては困る」
「くっ、勝負はここからよ。この風来姫レミィナの本領を見せてあげる」
「ほほう、サキュバスの姫君の本領が夕食の取り合いですか?」
「全てに全力を尽くすのがわたしの流儀なの。特に、くだらないことにはね!」
「面白い、貴女の力を見せていただきましょう」
「あんたら、何で食卓で戦争始めるんだよ!」

 シェフのもっともな突っ込みに、店内が哄笑に包まれた。








 ……その後、レミィナと互いに隙を伺いつつスリリングな食事を楽しみ、最後には酒を手に互いを賞賛し合った。さらに私はジャガイモについてシェフと熱く語り合ったり、レミィナにせがまれて故郷の民話を語ったりもした。音楽家とセイレーンの夫婦がギター演奏と踊りを披露してくれたり、長剣の少女の首がいきなりとれたり、その少女がウェイターを押し倒したので店長と何人かの客が二人をまとめて二階へ運んだり……久しぶりの、陽気で賑やかな夜だった。実に楽しい気分だ。まだ自分にこんな経験ができるなど、考えてもいなかった気がする。

 他の客の帰った店内でテーブルに突っ伏しながら、私はレミィナに心から感謝していた。

「ヴェルナー、ほら」

 アルコールも回り、まどろみかけた私にレミィナが声をかける。重い頭を持ち上げてみると、目の前に一枚の紙切れが突き出された。

「これにサインして」
「サイン……何ですか、これ?」
「外泊証明書よ。明日領主邸に提出しなくちゃ……ほら、ここ」

 私同様に眠そうな声で、レミィナは答えた。
 その紙は外泊証明書にしては大きいし、さわり心地はどうも羊皮紙のようだ。あの学習用魔法薬とやらは字までは読めるようにならないらしく、書いてある内容は分からない。だが完全に酔いの回った私は、早く睡魔に身をゆだねたい一心で羽ペンを手に取った。

「ヴェルナー・フィッケル……と」

 母国語で書くと、再び机に突っ伏す。レミィナの手が、背中をそっとさすってくれていた。

「おやすみなさい、姫……」
「うん、おやすみ」

 頭が重い。だるい。騒ぎ疲れて寝る、心地よい感触だ。
 目を閉ざすとすぐに、私の意識は闇の中へ堕ちていく。



「……これからよろしくね、ヴェルナー」

 最後に、そんな声が聞こえた気がした。
12/03/14 19:31更新 / 空き缶号
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