読切小説
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魔女と男07









 わしはおおっぴらに森の中を歩く。

「ぷっは。くぅ、生き返るのぉ!」

 あやつからせしめたミード入りの水筒を傾け、手にした棒切れで地面をがりがりと削りながら、上機嫌で歩いていた。
 姿隠しに音消しを同時発動させた隠行の術式。
 後は丸ごと撹乱の術で包んで、魔力探知をばらせば良し。
 王国の宮廷魔術師どもではわしの精細かつ大胆な術を破るなど出来んだろうよ。

 それでも完璧な守りというものなど存在しないので、探知された際には特別の護符で探知者を消し飛ばす。
 完璧な攻撃は、あらゆる防御に勝る。
 人生は攻めの一点買いが華である。

 面倒くさいのはあやつに押し付けておいたので、わしはこうしてのんびり仕事を片付ければよい。
 中々に便利だ。

 さて、そろそろコマした頃であろか?
 まだまごついておるやもしれんなぁ。
 あやつはとかく前戯が長いのが玉に瑕だ。
 最終的にはずぶりであろうに。
 ずぶり。 

「うっひぇひぇひぇひぇ」

 わしは陽気に笑いながら、くるりとその場で回る。
 止まっても尚世界はぐるぐると回る。
 よい塩梅だ。

「ほいっと」

 手に握る枝を地面に突き立てる。

「ほい、ほい」

 集めた地脈を寄せて固めて隠す。
 地脈を弄る程度ならたいそうな呪文など要らぬ。
 木の枝はたちまちにむくむくと根を張り若木へと成り代わった。

 木を隠すには森の中とはよう言うたものよ。

「さて。後三つもあれば良いか」

 六つではちと足らぬ。
 七つや八つでは型が崩れる。
 三の倍数なら具合良しだ。

 わしはそこらの木の幹を適当に叩き、落ちてきた枝をひょいと手に取る。

 さて、次の触媒を埋めに行くとするか。

 わしはがりがりと地面を削る。
 削って歩いて陽気に歌う。

「たらららららららら〜♪

 無乳 貧乳 微乳 美乳
 余乳 巨乳 魔乳 覇乳
 八組ぃ〜の乳を選ぶとしたら
 君ならどれが好きぃ〜♪

 巨乳!

 巨乳が好きだと申したかこの下種が!
 思ったとしても隠せ! 黙れ!
 理想と現実は著しく違うのだ! 夢でも見ておれド阿呆が!」

 やはり景気づけにはこの歌だ。
 こう、むくむくと世界を呪う気力という物が湧いて来る。
 何やらもう魔王も勇者もグーパンで殴り殺せそうな歌だというのに、何故かあやつはわしの教えた歌詞の通りに歌わぬ。
 あの欲張りめ。

 がりがりと地脈の流れを一筋描き加えつつ、ふと足を止めた。

「……」

 歌を止めしばし自らの胸を眺める。

「……これならば、うむ…貧乳くらいは…いや、ぷにぷに感をこう…積み立て増し増しで……うむ。
 いける、いけるぞ!」

 そういえば、貧乳の歌詞は何であったか?
 そう、確か――

「中途半端」

 ……ふむ。

「よし、目が合った瞬間お仕置きだな」

 残念であったなMBよ。
 それもこれもぬしがわしの魅力に気づかんからいかんのだ。
 と言うかわしを洗って欲情せんとはいかなる事か。
 魔女たるわしは、基本的に恨みつらみは忘れんのだ。

「最近は痛くした所で堪えておらんからなぁ……ここらで新しいお仕置きの術でも考えてみるか」

 がりがりと線を引きながら、さてどういった趣向のお仕置きにしてやるかと思考を巡らせた。



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 悪寒が走った。

 ?

 何かとても嫌な予感がして、ぶるりと身体が震えた。

「……どうかしたの?」

「寒気がした」

 肩を擦りながら答えると、シーリスは少し怒ったような目をして俺を見た。

「それは、ふ、服を脱いでばかりしているからよ」

「思い当たる節はそれだな」

 後は魔女殿が理不尽な事を思いついたかどうか。
 邪悪に笑う魔女殿の顔を思い浮かべながら、そちらの方があり得そうだと思った。
 悪い予感は得てして当たるものだ。

「みだりにそういう真似をするのは、どうかなと思う」

「気をつける」

 確かにシーリスに無害を示す時には自ら脱いだが、村の中で裸になっていたのは脱ぐ暇がなかったからだ。
 その辺りの説明は省いて、耳を赤くしているシーリスに頷いた。

 俺はシーリスと共に森の中へと戻った。
 村の中で服を調達するつもりだったが、今回は見送った。
 どこもかしこも店終いの後で、気絶している者から拝借しようとしたらシーリスに止められた。
 道義的な問題(勿論相応の代金は置いていくつもりだったが)ではなく、匂いの問題であるらしい。

 シーリスは鉄の匂いが苦手だそうだった。
 森で育った彼女にとって人間の体臭に慣れていないらしく、一刻も早く村の中から出たい様子だった。

「服なら、森でも用意出来るから」

「そうか」

 シーリスの申し出を受ける事にして、目を剥き泡を吹いて気絶していた太刀の男をその場に残した。
 無事に残った外套を羽織り、荷物を担いでシーリスと出会ったあの泉の畔まで引き返して、彼女が住む家に招かれた。

 彼女の家は、年経た老木だった。
 見た目は蔓草の絡んだ枯れた大木だったが、ぽっかりと開いた洞から中に入ると、普通の住居になっていた。
 木の幹がそのまま椅子やテーブルの形になった家具だけでなく、料理をする為の窯や、別室に設けられた寝室まであった。
 ちなみに光源はランプ草という白く輝く不思議な花だった。
 
「……森の中で野宿していると思った?」

 余りにきょろきょろと見回していた為か、シーリスが疑うような眼差しで俺を見ていた。
 
「思っていた」

「ずっと昔はそうだったのかもしれないけど、私たちも家で暮らすわ。だって、雨に濡れないもの」

 怒るかと思ったが、シーリスはくすりと笑っただけだ。

「壁と屋根があるのはいいな」

 魔女殿と旅を始め野宿生活が当たり前になって以後、その二つの有り難味が身にしみる。
 俺の答えにシーリスはくすくすと笑った。

「慣れない場所かも知れないけど、楽にくつろいでね」

「そうする」

 シーリスが暮らす素朴な家は、懐かしい匂いがした。

 そして今、俺は外套に身を包んで椅子に腰掛け、服が出来上がるのを待っていた。

「もう少し我慢して。皆今にあなたの服を仕立ててくれるわ」

「有り難い」

 俺とシーリスの周囲には、様々な生き物が集まっていた。
 開放された出入り口から、栗鼠や鼠に兎といった小動物、狐や穴熊、鹿まで続々と訪れている。
 それぞれの毛並みを少しずつ分けてもらいながら、集めた毛を蜘蛛たちが編んでいる。
 八本の脚のうち四本を使って器用に編みながら、繋ぎに自らの糸を用いていた。

 俺が考えていた以上に手作業だった。

「器用なものだな。シーリスが着ている服もこうして作ったのか?」

 シーリス自身は小鳥たちが運んでくる木の葉や花、鹿がくわえて運んで来た蔓草をより合わせている。
 彼女が森の生き物に囲まれて服を編む姿は、とても絵になった。

「うん、今身につけているものはこの森に来た時に贈って貰ったのよ。ふふ。驚いた?」

「驚いた。もっと魔術を用いた特殊なものかと思っていたのだが」

「それは仕上げにね」

 シーリスが身につけている服は今も生き生きとした緑色なので、その辺りが魔術の要素なのだろう。
 俺はテーブルの上にいた手の平くらいの大きな蜘蛛に、そっと手を伸ばしてみた。
 黄色と黒の縞模様が入った尻はうっすらと毛が生えていて、すべすべとしていた。
 触り心地がいい。

「逃げないな」

 俺が触れても蜘蛛は気にした様子もなく、忙しなく四本の足を動かしている。

「皆、あなたに感謝しているのよ。あなたのお陰で森が救われたのだから」

 感謝されているのか。
 結果的に人間たちを村から殆ど追い払ってしまったので、そうなったのだろうが。
 救うと言うにはいささか大げさだ

「どうだろう。不安を煽る訳ではないが、また人間が戻って来ないとも限らない。
 一時しのぎで根本的な解決にはなっていない気がする」

 まだ村には何人か残っているし、彼らが今後どうするか迄は判らない。
 永続的に森の無事が保証された訳ではなかった。

「それでも、あなたが今日失われる森の命を助けてくれた事には変わらない。せめてこれくらいはさせて欲しい」

「それについては有り難く受け取らせて頂く」

 すべすべの感触は名残惜しかったが、これ以上仕立ての邪魔をするのは悪かったので、俺は手を引っ込めた。
 騒ぎになる前に逃げ出した者たちが、方々で真実を広めてくれる事を祈ろう。
 ホーラッドの胡散臭い笑顔を思い浮かべながら、ひとまずその件は脇に置く事にした。

 誰かに助けになりたいとは思うが、感謝されるというのはなんともむず痒かった。

 服が編み上がると生き物たちはそれぞれの生活圏へと戻り、室内に残ったのは俺とシーリスの二人だ。

「どう、かな?」

 俺は仕上がった服に袖を通していた。
 膝上までのチェニックと、下半身を足首まで覆うレギンス。
 腰紐は蔓草を束ねて編まれており、ククリ刀を差してもしっかりと重量を支えた。

「軽いな」

 素材が素材だからか、以前よりもずっと軽い。
 少し動いて確かめてみるが、とても柔軟で身体の動きの邪魔にならない。
 あしらわれた草花が瑞々しいのは、マナが循環しているからだそうだ。

「動き易い。快適だ」

 そういった運動面だけの機能性に終わらず、衣服としても温かく通気性も良かった。

「……気に入ってくれたなら、嬉しい」

 シーリスはほっと安堵のため息を洩らした後、はにかんだ。

「匂いは気にならないか?」

 人間の体臭はきついと言っていたが、生憎俺にはあまり良く判らない。
 だからこそ体臭なのだろうが。
 シーリスは少し答えに困ったようで、指を絡めて俯いた。

「あなたはあまり鉄の匂いがしないし……今は草花の香りの方が強いから」 

 そう言われてみると、確かに草花の芳香がする。
 以前と比べてシーリスが俺と保つ距離がぐっと縮まったのは、この香りのお陰なのだろう。

「ありがとう」

 材料を持ち寄った動物たちや、仕立ててくれた蜘蛛には去り際に礼を言っておいたが、シーリスにはまだだった気がした。

「……うん」

 彼女は俯き加減のまま小さく頷いた。

「シーリス」

「な、何?」

「具合でも悪いのか?」

 森に戻ってから、彼女の表情や態度が随分柔らかくなっている事には気がついていた。
 さしあたって、突きつけられていた脅威が去った事で安心しているのだろう。
 余り目を合わせようとせず、どこか落ち着きを失っているように見えた。
 思い過ごしならそれでいいのだが、少し気になった。

「ううん、平気。どこも具合が悪くなんて、ないよ」

 慌てたように顔を上げて首を振るシーリスを、俺は向かいからじっと見つめる。

「……」

「……」

 見つめる。

「……」

「……うぅ」

 見つめた。

 シーリスの表情は再び下げられ、緑の髪の奥に隠れてしまった。

「何故目を逸らす」

「……だ、だって。そんなに見つめてくるから」

 ぽつぽつと洩らす言葉に村で見た覇気はなく、尖った耳が傾いている。
 まだ男性への苦手意識は拭えないようだ。

「そうか」

 俺はシーリスから視線を外して、室内の様子を眺めるともなく眺めた。

 さて。
 魔女殿からはコマせと言われているのだが、どうすればいいのだろう。
 多少強引に押し倒せとも言われたが、それはありなのだろうか?
 今度は鳩尾を打ち抜かれるくらいでは済まないような気がする。
 目の前にいたというのにろくに受身も取れず、軽く死ぬかと思った。
 魔女殿の言に、セックスに至るまでに伴う俺への危険は考慮されていないのでは無いだろうか?
 考慮されているはずがない。
 痛みには慣れたが別に好きという訳では無いので、なるべくなら痛くない方が俺にとって有り難い。

 だが待て。

 シーリスとセックスを行うという事は、彼女だけに苦痛を強いる事にならないか?
 かもしれない。
 そもそも破瓜の痛みというのはどの程度のものなのだろう。
 リコは膝小僧を擦り剥いた程度だと言っていたが、個人差があると考えるのが妥当だ。
 ならばこちらも殴る蹴るでもされた方が公平では無いだろうか。
 それを見越した上で、魔女殿は強引に押し倒せと言ったのだろうか。
 先見の明に感服すべきなのか、呆れるべきなのか。

 危害を加えたら反撃されるのが当たり前。
 呆れるべきのようだ。
 苦言を呈しておこう。

「え、えぇと」

 俺が考え事に没頭していると、シーリスが躊躇うような声音を洩らした。

「お……お腹空かない?」
 
「空いているな」

 言われて初めて、朝以降何も口をつけていない事を思い出した。
 そろそろ魔女殿のミードが切れているのではないだろうか。
 食料は俺の背負い袋の中にあるので、数日以上間を空けるつもりは無いのだろう。
 空腹と合わせて苛々して、無意味な破壊活動などされていなければいいのだが。

 腹を撫でながら、胃がしくしくと痛むのはおそらく、空腹に新たな心配の種が加わった為なのだと思った。

「じゃあ。食事にしましょう。ここで待ってて、すぐに戻るから」

 言うが早いか、シーリスは立ち上がるとあっという間に外へ飛び出して行った。
 本当に声をかける暇もなかった。

 俺は呼び止めようとした上げかけていた手を下ろし、床に下ろしていた背負い袋を手繰り寄せた。

 ご馳走には程遠いが、こちらもビスケットとベーコンを用意しておこう。
 エールは飲めるのだろうか。
 戻ってから訊ねてみればいい。
 ごそごそと袋を探って携帯食を取り出した。

 コマすにせよなんにせよ、ひとまず体力をつけておいた方が良いだろうから。



 シーリスはもぎたての果実を手にして戻った。
 ベリー類が主で、小指の先ほどの実は赤黒黄色と色鮮やかだ。
 他にもブドウやレモン、スモモなどが用意された。
 森の一区画が果樹林になっているらしく、年毎の新鮮な果実が味わえるという事だ。

 果実類だけでなく、窯で焼いたパンまで出してくれた。
 トチの実を用いたというパンは焼きたての上に、もちもちとしていた。

 素朴な味のパンにベリーを挟んでかぶりついた。
 口の中で甘酸っぱい果肉と絡んで良いアクセントになる。
 頬張ってからよく咀嚼し、新鮮な果実の味を堪能してから飲み込んだ。
 
「美味い」

「……良かった」

 照れ臭そうに赤面する。

「そちらは口に合わなかったようだが」

 果実を主体とした食生活を送るシーリスに、塩と香辛料をたっぷり使ったベーコンは合わないようだ。
 細かく切った一欠けらを口に含んだだけで、目を白黒とさせていた。

「こんなに味が濃いなんて思わなかったから」

 香辛料の味に驚いただけで、食肉に対する忌避感は無いようだ。
 訊ねてみると、確かに森エルフは滅多に肉を食べないが、それでも料理として出されれば食べるとの事だ。

「命を頂くのだから、それは当然だと思うの」

「そうだな」

 香辛料の刺激には弱いが、スライスしたレモンを平然と食べる様子はこちらが驚いた。
 酸っぱいのは平気だそうだ。
 レモンの果肉を噛んだ途端酸っぱい果汁が溢れ、自然に唇がすぼまった。
 向かいでシーリスはくすくすと笑っていた。

「……これ、苦いよ」

 素焼きのグラスに注いだエールを舐めて、シーリスは舌を出した。

「そういう飲み物だ」

 エールは初めて口にするそうで、べーコンの件もあったからかシーリスは警戒気味に恐る恐るとグラスを舐めていた。
 味を訊かれたが、だからといって不味いと思っている訳でもないようだ。
 もっと呷るようにして喉で飲むのが正しいのだが、酒自体初めてだったそうなので飲み方に口は出さなかった。

「美味しいの?」

「温い」

「……えぇと…美味しい?」

「温い」

「……」

「何か?」

「うん…まあ……確かに温いけど」

 シーリスと一緒に食べる食事は楽しかった。

 用意された果実をあらかた食べ終えると、シーリスが食後のお茶を用意してくれた。
 彼女は薄焼きのカップにハーブ茶を注いだ後、アプリコットジャムをスプーン一掬い加えた。

「どうぞ」

「頂きます」

 湯気と共に爽やかな香りを漂わせるカップを傾けて、熱いお茶を味わう。
 ほのかな甘みが舌を優しく包み、ハーブの香りが鼻から抜けた。

「とても美味い」

「ありがと」

 シーリスはテーブルに頬杖をついてにこにこと微笑んでいた。
 今までにない穏やかな表情で、それを俺は記憶に留めた。

 室内に広がったハーブのお陰か、俺もゆったりと心が落ち着いていく。
 気がした。

「……こんなに楽しい食事は久し振り」

 お茶を飲みながら、シーリスがほうとため息を洩らした。
 エールを舐めたせいか、白かった肌がほんのりと赤く上気している。
 とてもくつろいだ様子だった。

「俺はこれほど穏やかな食事は初めてだ」

 魔女殿との食事はいつもにぎやかで騒々しかった。
 ミードを飲んで上機嫌になったり、なくて不機嫌になったり、それだけでなく油断をすると皿のおかずを取られたりした。
 拾われて以後はいつもそのような食事時を過ごした。
 俺としてはもう少し淑女らしく振舞って欲しいが、魔女であるがゆえに半分は悪女であると言われそうだ。
 合流したら確認してみよう。

 シーリスははにかみながら、空になったカップの縁を指先でなぞった。

「会話を楽しみながら食事をするなんて、もう長い間忘れていた気がする」

「それは辛いな」

 一人で食べる食事ほど悲しい事は無い。
 俺はその期間が長かったので、言葉と自分を忘れそうになり、年齢と名前は忘れてしまった。

 カップの縁をなぞりながら、シーリスは俺をちらりと覗くように一瞥した。

「……あなたも、一人なの?」

「以前は。今は違う」

「そ、そう。……この森に来た理由を、聞かせてもらってもいい、かな?」

「森に来たのは偶然。村で話を聞いて気になった」

「……財宝が?」

「エルフの番人がいるというくだりが。会った事がなかったので、会って話してみたいと思った」

「……え、えぇと。幻滅、した?」

「何故?」

「だって…その……いきなり飛び掛ったりしたから」

「押し倒されるのは慣れている」

「……な、慣れる事なんだ、それって」

「初めて出会った時の事は、俺も不用意だったと今は反省している」

「えぇと……」

「歌って散策している内に、少し高揚していたのかもしれない」

「……」

「だが別に勃ってはいなかった」

「な、何が?」

「ナニが」

「……?」

 シーリスに言葉の意味が通じた様子はなく、不思議そうに小首を傾げていた。

 清純だ。
 魔女殿も見習って欲しいと思う。
 心の底から。
 切実に。

「今の発言は忘れてくれていい」

「そ、そうなの? じゃあ、そうする。
 そういえば、あなたが歌っていた歌なんだけど」

「たらららららららら〜」

「そっちじゃなくて」

「おっぱいチョイスの」

「歌い出しとかっ。そういう問題でもなくてっ」

「そういえばシーリス」

「露骨に話を逸らそうとしてない?」

「まさか。
 シーリスは歌が上手いな」

「どうだか……え?」

「二人で村に行った時に」

「……私、歌ってなんていないけど?」

「シーリスのエルフ語が美しかった。俺には歌っているように聞こえた」

「……」

「とても褒めている」

「……ぁ、あなたは音痴だったけどね」

「音痴…なのか……?」

「え?」

「……」

「ひょっとして……自覚が、なかったの?」

「……」

「あ、えぇと、ほら。発音は、発音は完璧だったからっ」

「……そうか」

「そ、それでねっ。二番目に歌っていた歌なんだけど、あの歌の題名は?」

「“森の熊さん”」

「そう……可愛い名前ね」

「逃げた方がいいですよと促してくれるのだから、熊とは慈悲深い動物なのだな」

「……いや。それはあくまで、歌の中だけだと思うの。本物の熊が人間と出会ったりしたら、驚いて張り手されると思う」

「なんと」

「けれど自分から人間を襲ったりはしないわ。熊は身体こそ大きいけれど、とても臆病なのよ」

「印象が変わった」

 一部、とてもショックな事実を知ってしまったりしたが、俺たちはテーブルに向かい合い、他愛もない会話を交わした。


 
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 私は木から木へと飛び移りながら、森の中を疾駆していた。

 夜風がいつもよりも心地良く感じられるのは、私の身体が火照っているからだろう。
 彼が勧めたエールという飲み物の味は苦いばかりだったが、飲んだ後にぽかぽかと身体が温かくなった。

 身体が温かく感じられるのは、何もエールの為だけではないのだろう。
 誰かとテーブルを囲むなんて本当に久し振りだった。
 他愛のない会話を交わしただけなのに、私の荒んでいた心は癒されてしまった。

 彼が何か私に隠し事をしているのは、何気なく判る。
 人間の集落に向かっていた時聞こえた、あの身体を砕くような声と逃げ出した人間たち。
 その、何故裸になっていたのかは判らないけれど、気絶した人間たちが累々と転がる中、彼だけが平然としていた。

 理由は聞かなかった。
 彼も喋らなかった。
 訊ねたいとは思ったけれど、結局やめた。

 私自身、彼に隠している事がある。
 それに何より、問い質してしまえばあの穏やかな空気を失ってしまうのではないかと思った。

 だから彼の言葉を逸らした。

『一時しのぎで根本的な解決にはなっていない気がする』

 判っている。
 これから先の展望はまだ見えて来ない。
 人間たちの動向は判らないし、具体的な案は今も見えない。
 森は随分衰えてしまった。

 彼は手助けをしてくれたが、森を救いにきた訳ではない。
 偶然立ち寄っただけで、またどこかへ向かうのだろう。
 恐くて訊けなかった。
 今晩泊まっていけばいいと強く勧めるだけに留まった。

 眠ってしまった頃合を見計らい、私はそっと家を抜け出し森の深部へと向かっていた。

 彼の言う通り、これで終わってしまった訳ではない。
 まだ私が意地を張ってでもここを守り続ける理由は残っている。
 その為なら私は幾らでも戦える。

 けど。
 一日だけ。
 今晩だけでも。
 孤独から逃げる私を許して欲しい。
 
 疾駆する森の様相が一変した。
 封印の弱化と共に少しずつこぼれ出た魔力が、森を侵食している。
 長く浴び続ければ魔力の影響を受けて、本来のあり方から逸れてしまう。
 私には押し留める事は出来ず、森の同胞を逃がすだけで精一杯。
 逃げる事さえ出来なかった賢き森の担い手たちは、恨み言一つ洩らさずに今の姿に形を変えていった。
 もう、呼びかけても声を聞き取る事が出来なくなってしまった。

 けれど誰も責めない。
 森の誰からも深く愛されていたからこそ、誰も責めない。
 私も、今も想い続けている。

 私は緩みかけていた気を引き締め、変貌した森を進んだ。

 ぬかるんだ地面と歪んだ木々の最奥に、それはあった。
 人の大きさほどの繭。
 その繭に歪んだ木々が絡みつき、変貌した今になってもしっかりと覆い閉じ込めている。
 地面に根を張ったようにその繭に、私は近づいた。

 おぞましい魔力を放ち森を蝕みながら、孵る日を今か今かと待ち続けるサキュバスの繭。
 繭から孵れば最後、サキュバスの本能に従い強力な魔力を用いて、生き物に多大な害を成すだろう。
 もう、かつての日々は戻らない。
 それは集落を追われた時から判っていた事だ。
 古老たちが選択した決定は、今の魔王の魔力が世界に広がってから厳粛に行われてきた掟で、そうする以外に方法がない事も知っていた。

「……」

 けれど、それが正しい選択だったとしても、納得した訳ではないの。

「会いに来たよ」

 私はぬかるんだ地面に足を取られないよう慎重に降りて、繭に近づいた。
 魔力の色合いなのだろうか、くすんだ紫色の繭に触れた。

「今日は、沢山の出来事が起きたわ」

 一日に起きた事を、ここで話し聞かせる事が私の日課だ。
 繭の中に声が届いているのかどうかは判らない。
 私の未練で今もこうしているだけ。

「本当に、色々な事が起きたの」

 振り返ると目まぐるしいほどの一日だった。
 繭に触れている手に巻かれた白い布を一瞥し、すぐに彼の姿が思い浮かんできた。

「今、聞かせるね。無表情で、恥じらいがなくて、可笑しくて、私を信じて助けてくれた人間の、フリエンドの話」

 私は綻ぶ口元を自覚しながら、繭の中で眠る半身に語りかけた。 



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 ――聞こえる――

「それで、本当に可笑しいのよ彼って」

 ――いつもとは違う――

「音痴だって自分で気づいていないの。つい口が滑ったら、随分落ち込んでいた様子でね」

 ――弾んだ声――

「と言っても表情が変わらないから、本当はどうなのか判らないのだけど」

 ――懐かしい声――

「けどエルフ語は本当に上手くて。いったい誰に習ったのかな?」

 ――大好きな声――

「そうそう。私が聞いた歌なんだけど、面白い歌詞なのよ?」

 ――知っているよ――

「……もう一つの歌は、ちょっと歌って聞かせる訳にはいかない内容なんだけどね」

 ――私はずっと見ていたから――

「“森の熊さん”っていう歌。あなたもきっと気に入るから、歌うね」

 ――ずっとずっとずっとずっと――

「ある日熊と出くわした♪」

 ――苦しんでいく姿を見ていたから――

「かなりでかい熊に 道の途中で♪」

 ――ああけれど――

「熊は僕を見て 僕も熊を見た♪」

 ――これほど声を弾ませて――

「熊は僕を見定めて 僕も熊を見定めた♪」

 ――楽しそうに歌うあなた――

「熊は言った “逃げなくて大丈夫?”」

 ――嬉しかったのね?――

「“だって君は弓を持っていないみたいだから”」

 ――判るよ――

「僕は熊に言った “そりゃいい考えだ”」

 ――だって私も――

「“それじゃ早速逃げるとしよう!”」

 ――…いから――

「……」

 ――……――

「ねぇ。この歌はあなたまで、届いてる?」

 ――ええ届いてる――

「……私、寂しいよ」

 ――だからシーリス――

「もう…失いたくないよ……」

 ――私が願いを叶えてあげる――



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 ?

 物音が聞こえた気がして、俺は身体を起こした。
 会話を楽しんでいる内にすっかりと日は落ち、シーリスの強い勧めで今晩は泊まっていくように言われた。
 俺はその申し出を受けた。
 広間の隅でいいと言ったのだが、寝室に半ば閉じ込められるように押し込まれた。
 閉じ込められるというのは大げさで、扉に鍵まではかけられていなかったが。

 俺は部屋の隅に蹲り、外套に身体を包んでずっと考えていた。

 シーリスが俺を泊めたのは、夜這いなのかどうか。
 いよいよそういう事なのだろうか。

 夜這いをされる事には(大抵簀巻きとセットになっていたが)慣れていたので、眠らずに暗闇の中でじっと蹲り、シーリスを待っていた。
 のだが。

 また聞こえた。

 静かな夜の静寂に、小さな物が混じる。
 音は外から聞こえてくるようだ。
 二度目の物音に俺は立ち上がり、かすかに差し込む月明かりを頼りに寝室を出た。

「シーリス?」

 広間を見回すがそれらしき人影は見受けられない。
 きょろきょろと見回していると、こつんと小さな物音が聞こえた。
 外で何かをしているのかもしれない。
 俺は扉を開けて外へ出た。

 夜空には満月が浮かんでいた。
 白銀色に輝いて、夜が沈む森を冴え冴えと照らしている。
 俺の目には充分な明かりだった。

 月に照らされる静かな畔の様子を眺めて、人影を見つけた。

「シーリス」

 彼女は泉にいた。
 腰まで泉に浸かって、俯き加減に佇んでいる。
 何も身につけていないところを見ると、泉で水浴びをしていたのか。
 ならば彼女の次の行動は――

「……」

 予想していた悲鳴も、電光石火の拳もなかった。 
 彼女は下げていた顔を上げただけだ。
 月の明かりを帯びて、透き通った青い瞳が俺を見つめていた。

「どうした」

 狼狽もなく平然と佇むシーリスに訊ね、良く見ると違和感があった。
 髪が短い。
 シーリスの髪は腰に届くほど長いが、泉に浸かる彼女は襟口辺りまでしかない。
 色合いも違っている。
 緑もゆる新緑色ではなく、冷たい光沢を持った銀色。
 ちょうど、頭上に昇っている月の色をしていた。

 それでも思わず見間違えてしまうほど顔が瓜二つだ。
 別人と考えるよりも、髪を染めて切っただけなのではないかと思う程似ている。

「こんばんわ」

 俺は改めて、泉に佇むエルフに声をかけた。
 なだらかな白い肌に控えめに膨らんだ胸を惜しげもなく晒して、彼女ははにかむように微笑んだ。

 顔がそっくりな為かとても良く似た笑い方だったが、シーリスは泉の彼女ほど妖艶に笑わない。
 その笑みを留めた記憶と照らし合わせ、俺ははっきりと別人だと判断した。

 彼女から返事はなく、泉に浸かったまま俺を手招いた。
 濡れたように揺らぐ瞳が細められ、口元の笑みは少女っぽいはにかみを残したまま、匂い立つ色気が絡んだ。
 誘っている。
 俺はさくさくと草を踏んで泉に近づいた。

 女から誘われたら拒むな。
 嘘は笑って許せ。
 というのが俺の友人の弁だ。

 その代わり女を泣かせて振り回してもいいと言っていたのだが、泣かれるのは苦手だ。
 振り回す自信も無く、むしろこちらが振り回されてばかりなような気がする。
 こう言うと友人は、男は病院のベッドと変わらず誰が来ても拒めないものだと笑っていた。
 ままならないものだ。

 だがまあ。

 さくさくと草を踏む音に、背後でかさっと草が擦れる音が混じった。

 魔女殿の言いつけがある場合は別だ。

 俺は振り向きざまにククリ刀の一本を抜いて、何か飛んできたものを水平に斬った。
 飛んできたものは、その勢いのまま二つに分かれてあらぬ方向に落ちて転がった。
 意外に重い音が聞こえた。

 俺は白い骨刀を構えたまま何を斬ったのか確認せず、血か体液にべったりと濡れた刃先を泉の中にいる少女に向けた。
 彼女の顔から笑みは消え、招いていた手は下ろされた。
 人形のような能面で俺を見つめる。

 怒っているのか悲しんでいるのか良く判らなかった。

「俺はMB。名前は?」

 訊ねても答えずに、彼女はすうっと音も無く泉を進んだ。
 水音一つたてずに、鏡のように夜空を映していた泉の水面がわずかに波立った。

「そうか」

 答えられないのか、答えるつもりが無いのか。
 せめて名前を聞いておきたかったのだが、残念だ。

 俺は近づいてくる分だけ後ろに下がりながら、ちらりと視線を動かした。

 俺が斬った何かは、地面に転がった今もまだ動き続けていた。
 大きさは子供の頭くらいだろうか。
 親指ほどの太さをした蚯蚓のようなものが無数、苦痛にのたうつようにうねうねと蠢いている。
 蚯蚓が一〇匹二〇匹絡まりあって丸くなれば、こういう形になるかもしれない。

 俺は視線を泉の少女に戻す。
 彼女は全く上半身を揺らさずに、泉を滑るように移動して近づいてくる。
 底を歩いているのか、泳いでいるのか判らない。
 凍りついた能面のまま俺に近づいてくる。

 彼女は無音のまま泉の畔まで近づいて、唐突にその身体が伸び上がった。
 俺は月明かりを遮る影を見上げた。

 少女の腰から下は、蠢く無数の触手だった。
 太いもの細いもの、長いもの短いもの。
 その先端の形状も様々で、大きく膨らむように広がった触手をうねらせながら、無言で俺を目指す。

 エルフと、人間以外の何か。

「さようなら」

 俺は別れを告げると共に、素早く腰に差したままのククリ刀を抜いて投げた。
 彼女は避けようともせず無表情のまま、胸元でククリ刀を受け止めた。
 苦痛を感じていないのか、表情一つ変えずに俺に迫りながら、触手の一本が柄に絡みつく。
 少女が胸に刺さった赤いククリ刀を抜こうとした矢先に、炎が炸裂した。
 
 魔女殿が手を加えた特別製。
 赤い刀身に魔力が注ぎ込まれており、触れれば発火する。
 焼けないのはこの刀身を納めている火鎮めの鞘くらいだろうか。
 日常生活でも火を起こすのに重宝したりする。

 少女は胸元を焼かれても声一つ上げなかったが、一度大きく震えた後動きが止まった。
 炎は広がり煌々と夜を照らす。
 彼女はぶるぶるとおこりのように震えていたかと思うと、唐突にその輪郭が崩れた。

 半身は少女の形をしていたものは、その原形も残さず無数の蠢く塊に変わった。
 俺が初めに斬ったものが幾つも固まり集まって、あの姿を保っていたらしい。 
 炎に追われて悶えのたうちながら、あるものは泉に、あるものは森の木々の中へ、散り散りに逃れようと地面を跳ね回る。

【ド ノト カレ アト アルル スタグ ホオヴ】

 森の中から、

【クレエピング ミネ!】

 美しい声が響いた。

 魔力を宿した無数の矢が地面を這い、跳び回っていた触手の塊を一つ残らず粉砕した。
 無数の肉の塊は、一つ残らず体液の飛沫を残して飛び散る。
 撃ち漏らしはなく、素晴らしい射撃精度だった。

「MB、無事!?」

 森の奥から跳躍してきたのは、シーリス本人だ。
 流れはためく新緑色の髪は見間違いようがない。
 泉の中にいた少女を彼女と見間違った事は、忘れる事にした。

「ああ」

 着地と同時に息せき切って駆け寄ってくる彼女に応えて、俺は投げつけたククリ刀を拾い上げた。
 黒く炭化した肉片が焦げ付いて、ぶすぶすと燻っている。
 俺は白いククリ刀で刀身にこびりついた焦げた肉片をこそぎ落とし、派手な火花が散った。

「な、なに、それ」

「とても便利な火を噴くククリ刀」

 駆け寄る途中で足を止めたシーリスに答えて、俺は手に馴染んだ武器を片方鞘に納めた。
 火を噴くククリ刀を剥き出しにしておくのは危険だ。
 彼女は飛び散った火花の勢いに面食らったのか目を丸くしていたが、すぐ我に返って俺の元まで駆け寄った。

「平気? どこか、怪我をしたりしてない?」

「どこも。平気だ」

「……良かったぁ」

 胸を撫で下ろしたシーリスに頷き、俺は地面に落ちている肉片に近づく。
 まだうねうねと動いているが、随分動きは弱々しくなってきている。
 俺は逆手に持ち替えた白のククリ刀をずぶりと肉片に突き刺して、月明かりの元でよく観察してみた。

 なんだろう、これは。

 痛覚があるのか、うねうねからぐねぐねくらいに触手の動きが激しさを増しながらも、二つに両断して尚旺盛な生命力を見せている。
 生き物にはとても見えない形だが、これもまた世界を彩る生き物の一種――魔物なのだろう。
 群れで集まって人型を真似る生態といい、中々ユニークな魔物だ。

「シーリス。森にこういう生き物が住んでいるのか?」

「ま、まさか」

 振り返って訊ねてみると、シーリスは口元を引きつらせて後ずさった。
 村のならず者を相手に堂々と戦い、今も逃げようとしていた魔物を殲滅して見せた割りには、妙に怯えていた。

「魔物を見た事は?」

「……こ、これが初めて」

 遠距離で狙撃する分にはいいが、間近で見るのは抵抗があるのだろう。
 彼女の目には異形に映るのかも知れない。
 見た事がないという点では異形と言えなくも無いが、俺には嫌悪感よりも好奇心の方がはるかに勝った。

「ふむ」

 ぐねぐねとした触手に触れてみた。

 柔らかいが弾力を持っている為、感触に硬軟の違いがある。
 滑らかな触り心地で、常にこうなのか刺激を受けて分泌しているのか、表面は液体でぬめぬめと湿っていた。
 カエルかイモリの触り心地と少し似ている。
 気がした。

「さ、さ、触って平気なのっ?!」

「それを確かめている」

 集まっていたものは殲滅されたが、他にも同じものが潜んでいるかもしれない。
 種の特定くらいはしておきたかった。

 触っている事が判るのか、不規則に蠢いていた触手は俺の手に絡みついてくる。
 体液を皮膚に擦り付けるようにうねり、指の股から手の平までくすぐる様にくねる。
 触手の一本が俺の手を這い回りながら、少し形が変化した。
 ふるふると震えたかと思うと、丸っこい先端が四つに裂けた。

 まるで花が咲くように広がると、内側が露になる。
 白い表面と違い内側は赤い肉の色で、瘤のような突起がびっしりと並んでいる。
 細く黄色い雌しべに似た触手が八本。
 内側は乾燥から守られているのか、表面以上に濡れてねっとりとした粘膜に守られているのが判る。
 花弁の奥には縦に裂けた肉の亀裂が、ぱくぱくと口のように開いたり閉じたりしていた。

 その部分を口と仮定して、口を開けた触手は俺の中指をゆっくりと包んだ。
 ぐねぐねと蠢きながら前後に動き、ひねりを加えて蠕動する。
 歯牙は生えておらず、触手の口に飲まれても痛みはなかった。
 捕食というよりも交尾を連想させる行動だった。

「……ご、ごめん。ちょっと気分が」

 振り返ると、シーリスが露骨に引いていた。
 どうもこの魔物が生理的に受け付けないようだ。

「判った」

 顔色が悪いのが月明かりでも判ったので、俺は観察を中断してククリ刀を地面に突き立て魔物を固定する。
 魔物はしっかりと俺の中指をくわえたまま、むしゃぶるように吸い付いている。
 再び抜いた火を噴くククリ刀を押し付けた。
 じゅっと水分が蒸発する音と白い煙が上がり、触手は俺の手から離れて激しく暴れた。

 火に弱いらしい。
 これ以上苦しませるのも忍びないので、ざくりと一突きにした。
 ぼっと発火して、魔物はしばらく暴れた後黒く焦げて見る見る小さく縮んでいった。

「ローパーの幼生、なのかも知れないな」

「……」

 知っている中で一番近いとしたら、それだ。
 女性に寄生する魔物だが、確かローパーは自らの種を直接女性の身体に植えつけたはずだ。
 宿主を持たない幼生が、それ単体で行動しているという記述はなかった。
 群れで行動し、俺を誘惑して、さらに不意打ちを仕掛けるという知的な行動まで見せている。
 ローパーは餌である男性をおびき寄せる為、宿主の声などを利用はするが、それ自体は本能的な行動しか見せない。
 はずなのだが。

 色々と謎の多い魔物らしいので、書物で知られていない希少種という可能性もあった。

「宿主を探してどこかから迷い込んだのか」

「……」

 様々な可能性を思いながら、すっかり粘液で粘つく左手に土をかけて擦った。
 べとつきを落とすには、水よりも土や砂を使った方が落とし易い。
 左腕を土で擦って粘液を落とし、ククリ刀に残った炭化した肉片をこそぎ落とした。

 疑問は数多く残るが、一番の疑問は何故ああまでシーリスに似た姿を模っていたのか。

「シーリス?」

「……」

 彼女は貝のように口を噤んで俯いていた。
 月光に照らされる泉の畔が、静寂に包まれた。

「確かに」

 俺の言葉に、シーリスの肩がびくりと跳ねた。

「野宿はしない方が良さそうだな」

 ククリ刀を鞘に収めて、俺はシーリスを見つめる。
 彼女も、少し顔を上げて俺を上目遣いに見上げてきた。

「改めて、泊めて貰う事に感謝する。ありがとう」

「……。何も、聞かないの?」

「聞く必要がある事なのか?」

 シーリスは口を噤んだ。

「俺がシーリスを信じるのと、シーリスが俺を信じるのかは別の問題だ。
 信じて貰えるなら嬉しいが、信じられないならそれは仕方ない」

「……」

「人を信じる事は難しい」

 固く引き結んだシーリスの唇が、強張るように歪んだ。

「なら、あなたは、どうして……そこまで私を信じられるの? 信じようと、するの?」

「当たり前だから」 

 世界には壁が数多く建てられ、幾つも細かく区切っている。
 種の壁、性別の壁、それらだけでなく様々な壁がある。
 俺はその壁の中に閉じこもった。
 誰も入れないようにうず高く積み上げた。
 けれどそれは間違いだった。

 その壁に扉をつけられるかどうかで、世界の広さが変わっていくのだと、魔女殿が教えてくれた。

『壁を乗り越える、というのは好かん。まるで小悪党が空き巣を狙うようではないか』

 本気なのか冗談なのか、そんな言葉を付け加えて。

 だから、俺は今までしてこなかった当たり前の事をしているつもりだ。
 高く積み上げた壁に扉を設けて、扉から出て、出会った隣人に挨拶を交わす。
 挨拶が返って来れば嬉しいし、返って来ないからと言っても怒るのは見当違いだ。
 隣人には色々な者たちがいる。
 どうやっても判り合えない者もいるし、利害が生まれて敵対する事もある。
 俺自身、厄介な隣人そのものだった。

 けれど、仲良くなれる者は確かにいるのだ。
 どうせならいがみ合うよりも仲良くありたい。
 ただそれだけだ。

「……」

 シーリスは握り拳を固めたまま、口を開こうとしなかった。
 打ちひしがれたようにうなだれる彼女の様子を見るのは、心苦しかった。

 確固たる思いは確かにあるのだが、言葉を使って説明するのは難しい。
 余り説教じみた事を言えた身では無いという思いもある。
 どう言ったものかと俺は首を傾げて、傾いた視界の端に何かが映った。

 シーリスの足元、地面で何かが膨らんでいる。
 茸?
 先ほどまでそこになかった。
 それは俺が感じとった嫌な予感と一緒に、見る見るうちに膨らんでいく。

「シーリス」

 一歩踏み出しその手を掴む。

「えっ」

 彼女は足元の異物にまだ気がついていない。

 すっかり形が変わっていたが、あれは俺が切り落とした肉片の片割れだ。
 膨張した肉片から少しでも離れられるよう、ぐいと背後に引き寄せる。

 間に合わなかった。

 丸々と膨れ上がった肉片は、ぼふっと気の抜けるような音を響かせて弾けた。
 弾けた途端、視界が紫色に染まった。
 胸が焼けそうなほど甘ったるい香りが漂った。

 咄嗟に俺は地面を蹴っていた。
 シーリスと一緒にごろごろともつれ合って転がった。

 ?

 すぐに起き上がり、俺たちがいた場所でゆったりと漂う濃い紫色の煙を目にした。
 霧なのかガスなのか判断はつかないが、気体である事は確かだ。
 少し吸い込んでしまったが、毒の類だろうか。
 とりあえず目立った異常は感じられない。
 頑丈な身体とやたらと高い抵抗力が数少ない自慢だ。

「大丈」

 俺はすぐに足元で倒れたままの彼女を抱き起こし、

「ひぐっ」

 夫か、と訊ねる間もなく顔にしがみつかれた。

 しゃっくりのような声を聞いたかと思うと、バランスを崩して尻餅をついてしまう。
 前が見えない。

「はぅっ、あっ、は、はぁっ、はっ」 

 言葉にすらなっていないシーリスの乱れた呼吸が聞こえた。
 濃厚な花と草の香りの中、ぎりぎりと俺の首を押さえ込むように締め付けてくる。
 俺は視界を塞がれたまま、手探りにシーリスの腕を探り当てた。

「あぐっ、はあ、あっ、あっ、あっ!」

 純粋な力比べでは俺の方が強いようで、もがくシーリスをなんとか力づくで引き剥がす事が出来た。

「どうした?」

「あっ、ああっ、ああぅああああっ!」

 訊ねても、シーリスからはまともな受け答えすら返って来なかった。
 もがき暴れながら、髪を激しく振り乱している。
 白かった肌は赤く紅潮し、じとりと汗が染み出している。
 両腕を押さえて組み敷いているが、まるで捕まった獣そのものだ。

 これがあの気体の効果なのか?
 シーリスは間に合わずに吸い込んでしまったのか。

 どうすれば、と考えていた矢先に激しい衝撃に見舞われた。
 股間から頭頂まで抜ける衝撃に全身が痺れた。
 鳩尾がぎゅっと縮まる感覚に、今度はこちらが言葉を失う番だった。

 痺れの後に下腹部に激痛と鈍痛が合わせてやってきて、額から脂汗が滲んだ。

 痛みのお陰でようやく思考も戻ってきて、何が起きたのかを理解した。
 暴れる拍子に、シーリスのしなやかな脚が俺の股間に直撃した。
 当然シーリスを押さえつけておく事など出来ずに、強引に押しのけられていた。

 潰れただろうか。
 多分潰れていないと思うのだが。

 呼吸を止めたまま、股間を押さえて痛みに耐えるしか出来ない俺の耳に、

「あくっ、あっ、ぐっ、あつっ、あつぅいぃぃいっ!」

 辛うじて言葉の名残を留めたシーリスの声が聞こえた。

 俺は立ち上がるなどとても出来なかったが、地面を転がる事でシーリスの姿を探した。
 これも今まで簀巻きにされ続けてきた経験のお陰だろう。
 見た目は情けないが構っていられないので良しとした。

「はぐ、ぅぐっ……ああああっ」

 俺を押しのけたシーリスは、地面に膝をついたまま胸をかきむしっている。
 身につけた服にあしらわれた草花を引き千切り、自ら破り捨てている。

「やめ、ろ」

 何とか声が出た。

『うん、今身につけているものはこの森に来た時に贈って貰ったのよ』

 森の生き物に囲まれ、シーリスが嬉しそうに聞かせてくれた言葉が甦った。

「それは、大切な物、じゃ」

 股間など大層に押さえている場合ではない。
 シーリスを止めようと地面を這いずってにじり寄る。

「はっ、はっ、はぁっ」

 俺が辿りつく前に、獣のように唸るシーリスが飛びかかってきた。
 まだ睾丸を蹴られた後遺症から立ち直れない俺を地面に押さえつけて、そのまま覆いかぶさってくる。

「シ 、リス」

「はぁっ、はぁっ、はぁああっ!」

 腕の取り合い掴み合いになるばかりで、こちらの呼びかけに応えなかった。
 息を切らすばかりで言葉にならないようだ。
 とても話が通じる状態ではない。
 下手に抵抗を続けて、何かの拍子で傷つけては元も子もない。
 俺はシーリスの状態を確かめる為にも、動きを止めた。

「んっ、はっ、あぅ、あっ、はぁっ」

 シーリスは半裸の格好で身体を摺り寄せてくる。
 馬乗りになりながら、彼女自身戸惑っている様子が見受けられた。

 理性を失っている。
 興奮作用?

「ふっ、んんっ? はぁ、あっ。ひぃん!」

 ただしゃにむに身体を押しつけては擦りつける内に、荒々しいばかりだった声に甲高い甘さが混じった。
 彼女の胸の膨らみの先端は、見ただけでそれと判るほど勃起している。

「はっ、はひっ、ひぃぃ、いんっ、はっ」

 シーリスはようやく痒い場所を見つけたように、何度も何度も俺の身体で乳首を擦っては甘く鳴き続けた。

 催淫効果か。

 俺はあの煙の効果がなんであったのかを絞った。

 あのシーリスをここまで豹変させるからには、相当強烈なものだったのか。
 エルフか、或いは女性だけに覿面に効くのか。
 俺自身の抵抗力と、魔女殿が持たせてくれている封じの護符のお陰かもしれない。

「んっ、ぅんっ、ふぅ、うううっ、はっはっ。ああっ」

 シーリスが理性を失い凶暴化したのは初めだけで、今はもう荒々しさは無かった。
 いや、理性を失っているのは今も同じだ。
 知ったばかりの性感の虜になっている。

 あれほど荒れ狂っていたのは、性感が高められていながら、発散する手段をシーリス自身判らなかったからなのだろう。
 性に関して忌避感を持っているようだったが、それ以上に無知だったという事だ。
 偶然知った乳首の刺激に夢中になっているものの、それ以外に何かをするという訳ではなかった。

 発散されれば、元に戻るのだろうか?

 魔女殿がこの場にいれば解毒の魔術を頼むが、今は別行動中だ。
 魔女殿には頼れない。
 俺は解毒の魔術など扱えない。

「ひっ、あぐっ。やっ、いや、やっ。ふぅんっ、はっ!」
 
 性感を拒んでいるのか、更なる刺激を求めているのか。
 シーリスはどこか苦しそうに悶えながら身体を摺り寄せている。
 考え込んでいるだけではいつまで経ってもシーリスは苦しむだけだ。
 少なくとも性感に反応している時の方が、彼女の声はまだ言葉に近かった。

 思いついた事を試していく事にした。

 抵抗を止めた為か、シーリスはもう俺を押さえつける事もしていない。
 ただ快楽を欲してそれだけに集中している。
 股間の鈍い痛みはまだ尾を引いていたが、手足を動かす程度ならいける。
 俺はもがく程にはならないよう身体の位置をずらして、脚をシーリスの股の間に差し込む。
 差し込んだ腿を使って、シーリスの股間を軽く擦った。

「はぅ、ぁんっ!?」

 シーリスの身体は過敏なほどに反応した。
 背が反り返って長い髪が振り上げられる。
 汗に濡れた首筋はすっかり赤く紅潮していた。

「ふぅっ、ふっ、うーっ? う、ふぅんっ」

 今のシーリスは貪欲で、勤勉だった。
 新たに得られた性感をすぐさま覚え、何の躊躇いもなく求める。
 股の間に立てた俺の膝から腿を使い、四つん這いの格好で股間を上下に擦り始めていた。

 しきりに背後を振り返っているのは、乳首と股間から得られる快感のどちらが大きいのか、図りかねているからだろうか。
 シーリスが四つん這いになって生まれた空間に、俺は手を差し入れた。

「あっ、はっ、あは、あはぁっ」

 感極まったような、歓喜にも似た声。
 俺はシーリスの乳房を揉み解し、乳首を指で摘んでこねていた。
 迷いを無くして股間を擦り付ける彼女に、俺の方も胸を集中的に愛撫した。 

 乳房を手の平で円く揉み解す。
 手を乗せると覆い隠せるささやかな膨らみだったが、トチの実のパンに似たもっちりとした感触がある。
 色素が薄いのか綺麗な桃色の乳首は、今も勃起したままだ。
 摘み易く、敏感になっているのかくすぐるだけでもシーリスの身体が震えた。

「ひゃうっ、ふっ、ひっ! んくっ、んっ」

 そこに清純なシーリスの姿はなかった。
 知ったばかりの性感に飢えた、剥き出しの雌そのものだった。

 色づいた胸元には赤い蚯蚓腫れが目立った。
 胸を掻き毟った際についた傷だろう。
 痛々しい傷跡に顔を寄せ、唇をつけた。

 少し血の滲んだ傷を舐める。
 汗と混じって血の味がする。
 腫れ上がった引っかき傷に舌を這わせ、胸を揉みしだき、脚の角度を変えて摩擦に変化を加えた。
 
「はっ、はーっ、あっ、ぁっ」

 無闇に腰を使って擦り付けるばかりのシーリスに、俺は左手の指を舐めて良く唾液で濡らしてから、下半身へとそっと忍ばせた。

「あっ、あーっ」

 スカートの脇から指を差し込んで探る。
 引き締まった太腿を一撫でしてから、股間の奥へ。
 煙の効果か一心不乱に腰を振っていた為か、もう充分過ぎるほど濡れて解れていた。

「あっ、あっ、あ」

 指に気がついたのか擦り付ける腰を止めて、シーリスは俺の頭を抱き寄せて来る。
 手が離れて寂しいのか、手が回らなくなっていた片方の乳房をぐいぐいと押し付けられる。
 俺は首をひねって、もっちりと柔らかい乳房の先で、硬くしこっていた乳首を口元に寄せる。
 その先端をぱくと含んだ。

 口と手を使ってシーリスを愛撫する。
 蒸れた下着の奥でぴょこんと立った突起を指で、乳首を舌先で転がす。
 
「ふっ、んっ、んんっ!」

 陰核の溝をなぞって指先でくすぐる。
 乳首を音を立てて吸い上げる。 

「はっ、あっ、ああっ、んっんっんっ」

 シーリスは身体を震わせながら、腰を上げたまま陰核からの刺激を甘受している。
 耳元で聞こえる彼女の声が、切れ切れに速くなっていくのを聞いて、俺は強めの刺激を与えた。

 陰核をきゅっと摘む。
 こりこりとした乳首を甘噛みする。

「あっ!」

 鋭い嬌声と共にシーリスの腰が縦に跳ねた。
 逃がさず左腕で抱き寄せ刺激を続けた。

「あっ、はっ、あっ、あんっ、あっあっぁっ――」

 シーリスの身体に痙攣が訪れた。
 弛緩し始めていた四肢を張って小刻みに震えている。
 絶頂に達した。

「は、あ……ふぅん…」

 鼻に掛かった甘いため息を洩らし、シーリスはくたりと俺の上で力を失った。
 強張っていた身体はすっかり力が抜けて、柔らかく俺の胸に覆いかぶさる。
 すっかり汗に濡れて脱力した身体を受け止め、刺激しないように髪を撫でる。
 彼女は俺の肩にかじりつく格好で、空気を貪るように吸い込み喘いでいた。

 股間を蹴り上げられた痛みはだいぶ引いていた。
 これなら動ける。
 俺はゆっくりと身体を起こしてシーリスの顔を覗き込んだ。

「俺が判るか」

 ぺちぺちと頬を叩いて反応を窺う。
 潤んだ青い瞳の焦点が目の前にいる俺に合わさり、腕を掴まれた。

「……あつい、あついの…身体があつくて……とまらなくて」

 眉根を寄せ、怯えるように呟いた。
 性欲が発散されて随分意識が戻ってきたのか、掠れてはいたが彼女の言葉がしっかりと聞き取れた。

「たすけて」

「ああ」

 間近で求められた懇願に、俺は頷いた。
 腕を掴んでいたシーリスの手から、力が抜けるのが判った。

 俺はシーリスの両手首を掴んで、その場でぐるんと後転した。
 彼女の腹を足に乗せて、反動を利用しながら後ろへ思い切り投げた。

 空中に放り出されたシーリスと、仰向けに転がった俺の目が合った。
 何が起こっているのか判らないぽかんと呆けた表情を見つめて、俺は記憶に留めた。
 彼女の姿が俺の視界から消えると、ばっしゃんと水を叩く音が耳に届いた。
 
 シーリスを泉に向かって投げた。
 組み合った上での体術も学んでおいて正解だった。

 溺れてはいけないのですぐに起き上がって泉の中に入り、ざぶざぶと水を掻き分け数歩進んだ所で、ぷかりとシーリスが浮かび上がった。
 鼻から上だけ水面に上げて、じとりと俺を睨んできた。

「頭は冷えたか?」

 熱いと言っていたので、ひとまず冷やしてみればどうなるのか試してみた。
 絶頂に導き発散させた為か意識も戻っているようだったので、泉に放り込んで効果がなければ、再び欲求に応えるだけの話だ。
 思いついた事は、色々試してみるものだ。

 シーリスは恨みがましい目で俺をじっと睨むと、こぽこぽと気泡を洩らした。
 何を言ったのかは判らなかったが、飛び掛ってくる素振りも見せず、どうやらもうあの毒の影響は抜けたようだ。

「初めからこうすれば良かったのかもしれないな」

「……」

「冷たい」

 シーリスに水を掛けられた。



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 私はその様子を一部始終見ていた。

 ――……――

 上手くいかなかった。
 こっそりと、シーリスに気づかれない内に彼を性欲の虜にするはずだった。
 彼が本気で求めればシーリスは拒まないから。
 二人が結ばれればシーリスの願いが叶う。

 ――はずだったのに――

 彼は誘惑になびかず、力づくで迫っても敵わず、シーリスに見つかってしまった。
 その後は怪我の功名だと思った。
 彼ではなくシーリスを虜にした。
 シーリスが求めたら彼も拒まないだろう。

 ――そう思っていたのに――

 彼はシーリスを正気に戻してしまった。
 シーリスは気づいた。
 またやってくる。
 おそらく彼と一緒に。

 ――どうしよう――

 私は考えた。

 ――ああそうか――

 二人まとめて虜にしてしまえばいい。
 今度こそ二人が結ばれるように。
 私の中で睦まじく過ごせばいい。
 それでシーリスの願いは叶う。
 もう一人で泣かなくて済む。

 ――けれど――
 
 私はずっとシーリスを見ていた。
 同じものを見続けてきた。
 同じ時間を生きてきた。
 そのつもりだったのに。

 ――どうして―

 私はこれほど違ってしまったんだろう。
 違うものになってしまった私には、もう判らない。

 ――早く来て――

 彼と楽しそうに喋るシーリスを思い出す。
 思い出してしくしくと泣きながら待つ。
 早く欲しいもっと欲しいとお腹が泣く。

 ――優しく食べてあげるから――



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 シーリスが濡れた身体を乾かし、新しい服に着替えるのを待ってから、俺たちは森の奥へと向かっていた。

「森の奥に封じられているのは、私の双子の妹なの」

 あの毒々しい森の中を歩きながら、彼女が今まで黙して秘めていた事情を話してくれていた。

「魔王の呪いに侵されている事が判り、以前暮らしていた森から追放された。その時私も一緒に集落を出た」

 シーリスは俺の前に立って案内をしてくれているので、今どんな表情を浮かべているのか判らない。
 硬い口調で語るシーリスに任せ、俺は口を挟まずに聞いていた。

「あちこち流れてこの森で過ごすようになって、静かに過ごしていてもサキュバス化は進んだ。それにずっと耐えていた。
 ……苦しそうだった」

 それがとても辛い事であったのは判った。
 自分が何者であるのかを脅かされるエルフも、妹が変わっていく様子をただ見ているしかなかったシーリスも。

「魔王の魔力に耐え切れた者はいない。例えエルフでも。
 耐えたとしても、終わりが来る日を遠ざけるだけ。耐えれば耐える程、その反動で強力なサキュバスが生まれてしまう。
 だから、完全なサキュバスに変わってしまう前に、私は森の力を借りてあの子を封じた。せめて、エルフのままでいられるようにと。
 あの子もそれを望んだ」

 シーリスはそこで言葉を区切った。

「ひょっとしたら、長い時間を掛ければ、森のマナがあの子を助けてくれるのではないかと。
 あの子はエルフのままでいられるんじゃないかと……そう思っていた」

 そう信じたからこそ、シーリスは必死に森を守ろうとしていた。
 サキュバスの危険性を訴えていたのも、それは事実も含んでいるのだろうが、それ以上に妹が傷つく事を恐れていたからだ。

「私は、本当はあの子を守りたいだけだった。この森を守ると言い張って、ただ利用しているだけ。
 その結果、森を巻き込んでしまった。ここまであり方を変えてしまった。
 あなたの言う通り、私は人間と同じだ。ありもしないものを求めて、それが誰かを傷つけるかもしれないなんて考えてもいなかった」

 シーリスは歩きながら、ねじくれた木の幹をそっと撫でた。
 懺悔するように、愛おしそうに。
 俺はそんな彼女の独白を聞いていた。

 言葉が途切れるのを待ってから、俺は口を開いた。

「結果として森を守れるならそれでいいのではないか?」

 双子の妹を守る為とは言え、森の殺戮を食い止めていたのなら森も喜ぶのではないか。

「シーリスがこの森を愛しているのは判る」

 だからあれほどの怒りを見せた。
 森の悲鳴が判らないと答えた俺に、彼女は悲痛な絶叫で森の苦痛を訴えた。
 ただ利用しているだけならあれほど怒ったりはしない。

「誰かに遠慮していて叶えられる願いはない。願いを果たそうとする事は、別の誰かの願いを潰す事と同義だ」

 もしも誰の願いも脅かさず、願いを果たして一緒に笑っていられるとしたら。
 それはとても幸福な事なのだろう。

「だから欲張りになればいいのだと思う」

 俺の言葉に、シーリスが足を止めた。
 肩越しに振り返った彼女はきょとんと俺を見つめてきた。

「……欲張りに?」

「そう」

 誰かの願いを自分の願いにして叶えてしまえば、喜びを分かち合える。
 何か一つしか叶えられないよりも、沢山叶えられた方が嬉しい。

「シーリスの妹を助けて、森も助ける。その方がどちらか一方だけ、というより良くないか?」

「それは、そうだけど……」

「ではそうなるようにやってみよう」

 やれるかどうか、やってみなければ判らない。
 どうせなら、より良い理想を思い描いて努力した方がいい。
 悲観的な未来を描いているより、精神衛生上にもいい。

「け、けど。それは私の願いでっ」

 身体ごと俺に向き直って、シーリスは叫んだ。

「……勝手な願いで」

 けれどすぐに勢いを失い、力なく呟いた。

 俺はうなだれる彼女を見つめて答える。

「俺の今の願いは、シーリスの妹に会ってみたいという事。
 シーリスと二人で過ごす時間は楽しかった。それが三人になるのだとしたら、きっともっと楽しいはずだ」

 俺はその様子を思い描きながら、ふと魔女殿を加えて四人にしてみた。
 魔女殿は意地悪だから、きっと色事に疎いシーリスに様々な事を吹き込むだろう。
 彼女がどういう意味なのかを俺に訊ねてくる様子を、にやにやと笑いながら眺める姿がありありと思い浮かべられた。

 混ぜるな卑猥。

「そういう事だ」

 そうなったらその時考えよう。
 願わくば、シーリスの清純さが失われませんように。 

 顔を上げてまじまじと俺を見入っていたシーリスは、長い髪に表情を隠して俯いてしまった。
 落胆した時と似た格好だったが、気落ちしている様子は感じられなかった。

「……ありがとう」

「お構いなく」

 包帯を巻きつけた手の指を絡め、もじもじと礼を言うシーリスの姿を、俺は記憶に留め置いた。

 それっきり黙り込んでしまったシーリスの案内で、俺は彼女の妹が封印されているという場所に出た。
 木々が開けた地面の上に、忽然と大きな紫色の繭があった。
 地中から地上に姿を見せている木々の根が、複雑に絡みついている。
 まるで血管が浮き出ているようだと思った。

 辺りは静まり返っていて、動くものは見当たらない。
 それはここに至るまでの道中でも同じだ。
 特に目に付く異常の痕跡はなかった。
 俺とシーリスは慎重に繭へと近づいていった。

「触れても?」

「……うん」

 シーリスに警戒を任せて、俺は繭に触れてみた。
 手で撫で回しながら感触を確かめる。
 柔らかいかと思ったが、表面は硬くざらざらしている。
 繭というよりは卵の殻だった。
 
 感触を確かめた後、俺は身を乗り出して繭に耳を当ててみた。
 背後でごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。

 繭の中からは何も聞こえない。
 温度も感じられず冷たくて、生き物を感じさせるものは何も伝わってこなかった。

「シーリス」

 俺は背後に振り返って、弓を手にしている彼女に問いかける。

 彼女は生きているのか?

 それが残酷な問いだという事は理解していたので、言葉にするのを躊躇った。
 躊躇っている間に、ぱきっと何かが割れる呆気ない音が耳に響いた。

 繭が割れた。
 体重をかけていた俺はバランスを崩して、肩までずぼっと繭の中に入り込んだ。

 ?

 のだが。

「ない」

 繭の中で幾ら手を動かしても、何も触れるものがない。

「空っぽだ」

「……嘘?」

「本当だ」

 驚きに目を見開いて固まっていたシーリスが、弓を担いで近づいて来た。
 俺は腕を引き抜いて場所を譲った。
 彼女は俺が割ってしまった隙間から中を覗き込む。
 繭の中は空洞になっていた。

 半信半疑だったシーリスの横顔が、見る見る強張っていった。

「そんな。もう…孵って、いたの?」

 だとしたら、中身はどこに行ったのだろう。

 俺たちの疑問に答えるように、地面が縦に揺れた。

「地震?」

「MB、掴まってっ」

 俺はシーリスに言われて目の前の根っこを掴んだ。
 断続的に揺れる大地のせいで、根が絡まっていた繭は俺たちが見ている前でくしゃくしゃに割れて砕けた。
 揺れはさらに強く、激しさを増していく。
 俺はシーリスの手を借りて根っこの上に登り、揺れが収まるのを待った。

 地震が収まった時、

「なに、あれ」

 それが目の前に姿を現していた。

 森に面した地中から、見上げるほど大きなものが姿を見せていた。
 丸くて生白い肉の塊、のようなもの。
 
 上部はよじれた皺が集まりすぼまっていて、下の方では細長いものがのたうっている。
 細長いと言っても、一本の太さは大人の腰周りは優に超えていた。

 小高い丘ほどのそれを眺めて、

「球根みたいだな」

 俺は感じた印象を答えた。

「こ、こんなに成長していたなんて」

 シーリスは現れた巨大な球根を愕然と見上げていた。
 球根はぶるりと大きくたわんで泥を落としながら、ぐねぐねと触手をのたうたせてこちらにゆっくりと近づいてくる。
 さすがにあれだけ巨大だと、動きは遅いらしい。
 俺はその様子と隣のシーリスを見比べた。

「似てない姉妹だな」

「何呑気な事を――っ。跳んで!」

 シーリスの鋭い指示に従って、俺は彼女に続いてその場から跳び離れた。

 触手の中でも太い、ちょっとした大木くらいはありそうなものが、無造作に俺たちがいた場所に叩きつけられた。
 木の根で出来た牢獄は一撃でぐしゃりと潰れた。

「つい手が出る辺りは姉と似ている」

 俺はその様子を、泥まみれの逆さまになって見ていた。
 地面がぬかるんでいたので、着地の時に足を取られた。

「からかわないで! 早く起きて!」

 切羽詰った様子のシーリスに促されて起き上がり、外套の泥を大雑把に払う。

「別にからかってはいない」

「尚悪いわよ! どうしてあなたはそんなに緊張感がないのよ!?」

「どうしてと言われても困るな」

「私はもっと困るの!」

「そうか。では、緊張した」

「では、じゃないの! 真面目にしてよ、真面目に!」

「心外だな。俺はいつでも真面目だ」

「あの変な歌を歌って、森の中で裸になった事も!?」

「ふざけて全裸になる方が問題だと思う」

「あーっ、もう!」

「あはははははは」

 誰かの笑い声がこの場に響いた。

 シーリスのものではない。
 もっと高い場所から聞こえてきた。

 俺とシーリスは顔を見合わせて、球根を見上げた。

 俺たちの足場だった場所を砕いてから動きを止めていた球根は、ぶるりと大きく震えた。
 先端のすぼまりがゆるゆると解け、めくれて広がった。

 あの触手が口を開けたのと似ていた。
 あの時は花が咲くように見えたが、今回は果実の皮を剥くようだった。

 白い皮がめくれて垂れ下がり、内側の熟れた実が姿を現す。
 無数の触手が蠢く中に、種のようなぽつぽつと白い点を見つけた。
 人間だ。
 手足が触手に絡め取られて埋め込まれ、身動きが取れないようだ。
 股間に触手が張り付いているところを見ると、精を絞られているのか。
 魂が抜けたような表情で、時折痙攣していた。

「くやしいっ、でもん゛ん゛ん゛ぎも゛ぢい゛い゛い゛い゛〜!」
「う゛っ……ふぅ。これはこれでいいもんだな」
「なじむ。実に! なじむぞ!」

 一部はまだ元気なようだが。

「あははははは――」

 その艶かしい果実の上で、少女が笑っていた。

「あはっ。本当に、シーリスが言っていた通り可笑しな人」

 目の前の光景にそぐわない無邪気な声音で、冴え冴えとした銀髪を揺らしている。

「ユーリス……」

 隣で呟くシーリスの言葉が聞こえた。
 それが彼女の名なのだろう。
 俺は彼女を見た事があった。

「先程はどうも。ユーリス?」

「なぁに? MBさん」

「いや。名前を確認しただけだ」

「ふっ、くふふ! ふふふふ」

 彼女は笑いながら、苦しそうにお腹を押さえた。

 どうやら彼女にも俺は可笑しいという印象を持たれてしまったようだ。

「……」

「な、なに」

「いや」

 さすが姉妹だな、と思ったが口に出したらまた怒られそうな気がしたのでやめた。
 代わりに、視線をシーリスから彼女の妹に戻して見上げた。

 ユーリスは衣服を身につけておらず、左腕と腰から下は熟れた果実の奥に沈んでいる。
 双子というだけあって顔は瓜二つだが、泉で見た時と印象が違う。
 妖艶さもはにかみもない、ずっと無邪気で幼い笑い方だった。

「ごめんなさいね、ふふ。驚く顔が見たくて、少しからかうつもりだったけど。まだこの身体は上手く動かせなくて」

 笑う妹に、シーリスが呼びかける。

「あなた、何をしているのか判っている?」

 ユーリスは笑いを収めて、姉を見下ろした。

「何を?」

「私が判るなら、こんな真似は止めて! 本当にサキュバスになってしまう! エルフでいられなくなっちゃう!」

「何を言っているの? シーリス、私を見て。私のどこが、エルフに見えるの? 私のどこが、サキュバスでないと言うの?」

「半分エルフで、半分サキュバスに見える」

「MB!」

「怒られた」

 双子の姉妹の再会に、部外者である俺が口を挟むのは良くないらしい。
 黙る事にした。

「ふふふっ。怒られちゃったね。
 けど、そこにいるMBさんの言う通り。私はもう半分サキュバスになっているの。正論を突かれて怒るのは図星の証拠。
 シーリスもそう思ってるんでしょ?」

「まだ半分でしょ!?」

「そう、まだ半分。そして夜が明ける頃にはもう完全にサキュバス。
 そうなる為にも、二人も手伝って? 森の封印を解くにはまだ人間の精が足りないの」

「どうしてそんな事を……あれだけ優しかったあなたが!」

「もうシーリスが知っていた頃の私はいないの。けれど、悲しまないで。今はとても……気分がいい。もう我慢しなくていい。耐えて苦しまなくてもいい。
 エルフである事をやめるだけで、こんなに晴れやかになれるなんて思わなかった」

「……ユーリス」

「心配しないで、シーリス」

 ユーリスの瞳が細まり、月光を浴びて妖しく輝いた。

「今寂しくなくしてあげる」

 自らの手の平を舐め上げるのを合図に、ユーリスが動き始めた。
 巨大で淫靡な果実が、地響きを上げてゆっくりと俺たちに向かってくる。

「どうする?」

 俺は膨れ上がった果実から蠢く根まで視線を下げて、シーリスに訊ねた。

「どうするって……」

 シーリスは弓に矢を番えながらも、引く事が出来ないのか戸惑っていた。

「戦うのか、助けるのか。シーリスが決めてくれ。俺はその言葉に従う」

「……」

 シーリスは尚も悩んだが、すぐに顔を上げてユーリスを睨んだ。

「……戦って、助ける。魔力に魅入られて逆上せているなら、泉にでも放り込んで頭を冷やさせるわ。
 それで駄目なら思い切り引っ叩いて正気に返すだけよ!」

「根に持っていたのか」

 何かを吹っ切ったように気炎を上げながら、シーリスは力強く弓の弦を引いた。
 俺も二本のククリ刀を抜き放った。

「ええ。あの子を元に戻したら、MB。あなたも引っ叩くから!」

「予約を受けつけた」

 迫るは巨体はすでに眼前。
 視界を埋め尽くすほどの巨体の上で、ユーリスはくすくすと笑っていた。

「まだそんな事を言っているの? 大丈夫よ。私が二人とも、優しく食べてあげる」

 蛇が獲物を定めて首をもたげるように、何一〇本という太い触手がゆっくりと振り上げられた。

「……ごめんね。あなたまで巻き込んでしまって」

「好んで巻き込まれた。謝る必要は無い」

 それに、彼女らと過ごす事が願いであるのは今も変わらない。 

 前を見上げたシーリスの横顔が、少し綻ぶのを感じた。

「……お節介な人ね」

「だとしても困らない」

 鞭のようにしなった触手の群れを、俺たちは二手に分かれてかわした。

 凄まじい地響きと共に土砂が巻き上げられる中、

【ストレングス オフ ベアール!】

【ブロオム アルル オヴェア ロサ!】

 姉妹が美しい声で詠った。

 鋭い魔力の残滓で弧を描く矢が、咲き乱れるバラの花弁に受け止められて矢ごと消滅する。

「シーリス! こんな時もお喋り? あなたはそこにいるMBさんから歌を聞かせてもらって、さぞ嬉しかったでしょうね! ご丁寧に私にまで歌って聞かせて!
 ちゃんと聞いてたのよ!?」

「ユーリス! 聞こえていたのなら私に答えなさいよ! あなたがここで眠っている間に、私がMBにどんな目に遭わされたのか聞いていなかったの!?
 都合のいい事しか聞こえないのは相変わらずね!」

「呼び捨てだなんて、出会ってまだ一日も経ってないのに気安いわ!」

「何がMBさんよ! あなたなんてまだ出会ったばかりでしょうに!」

【ストレトヒ ウプ ロベリア!】

【ロンプ アボウト ア ハレ!】

 ぬかるんだ大地を進む鈴なりに咲いた桔梗を、跳ね回る野兎が踏み潰す。

「何よ!」

「何さ!」

「……」

 歌と魔術と罵声が、憚る事無く乱れ飛んでいた。

 俺はククリ刀を閃かせて振り回される触手に斬りつけながら、壮大な姉妹喧嘩に首を突っ込んだのだと知った。








09/11/03 02:11更新 / 紺菜

■作者メッセージ
四篇になりました。てへっ。

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