読切小説
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愛しき友人たち
どんな人間もあれは事故だった、仕方がなかった、そう言って、俺を慰めた。
いや、内心では俺のことを恨んでいたのかもしれない。俺ではなく、あいつが生きているべきだった、と。
…お前があいつを見棄てなければ、と。


「ほれ、いつもの薬じゃ」
バフォメットは丸椅子に登って、カウンター越しに薬の入った袋を差し出した。
「…?」
それを受け取るとすぐに異変に気がついた。
「いつもよりずいぶん軽いな」
「そ、それは、ほれ、ちょっと、今回は成分を変えて見たからの、いつもより量が少ないんじゃ」
目を泳がせながら白々しい嘘をつくバフォメットにため息をつきながら、おもむろに袋の中身を取り出した。中からは一見普通の白い錠剤が出てきた。
あっ、とバフォメットは慌てて俺の手から袋を取り返そうとする。しかし、そんなことをしても身長では、たとえ丸椅子に乗ったとしても、俺の方がずっと高い。手を上に伸ばしてしまえばもう奪うことは出来ない。
「…いつもと同じ様に見えるが?」
「そ、そりゃ、色は変わらんさ!だが、成分は…!」
必死に奪おうと手を伸ばすバフォメットを尻目に、器用に一粒だけ錠剤を取り出すと、そのまま口の中へと放り込んだ。
「…変わらないな」
「うぅ…」
さすがに諦めたのか、バフォメットはゆっくりと丸椅子に腰を降ろし俯いた。
「なぜ嘘をついた?ここで俺を帰らせたとしても、薬がなくなれば、俺はまたここに来る」
「…お前を、お前を心配しているからに決まっているだろ!」
バフォメットは急に顔を上げると、キッ、とこちらを睨みつけた。その可愛らしい両目にいっぱいの涙を抱えて。
「…すまない」
「ひっく、謝るくらいなら、ひっく、こんなことやめろ…」
「…それは、できない」
「何故じゃ?この薬が劇薬であることくらいお前さんだって…」
「ああ、知っている…」
「だったら…!」
「駄目だ」
バフォメットは体を乗り出してきたが、それを手で制した。
「いまさら止めるわけにはいかない」
「…それは、あの娘のためか?」
「ああ…」
「そうか…」
バフォメットは目を擦り、涙を拭うと、真っ赤になった目を向けた。
「最後に一つだけ聞かせてくれ。この薬でお前さんとあの娘は幸せになるのだな?」
「…ああ、きっと、な」
頷くとバフォメットも笑顔で頷いた。


ふと、目を開けると大きな本の壁が目に入った。どうやらいつの間にか机で寝てしまっていたらしい。
眠い目を擦りながら、そっと体を起こし、大きく伸びをする。
薄暗い室内に、ぱきぱきと固くなった体がほぐれていく音がこだます。
体を伸ばし終わり、寝起きすぐの何とも言えないけだるさに身を任していると、扉の開く音が横から聞こえた。
「おはよう」
「ああ、おはよう。少し遅いが朝食にしないか?」
「うん」
私は頷くと立ち上がり、彼と一緒に階段を上がって、一階へと向かった。
「どこかへ行っていたの?」
「ああ、少し買い出しに行ってきた」
「そう」
私は椅子に腰掛け足をぶらぶらさせながら料理する彼を、両手で頬杖をついて眺めていた。
彼の手伝いをしてもいいのだが、私がいても邪魔にしかならないことなど自分自身が一番よく知っているから手を出す気さえない。
「そういえば、例の物は出来たのか?」
手を動かしながら尋ねてくる彼に私は首を振った。
「上手く動かない」
「そうか、もし、何か必要があれば言ってくれ。また買い出しの時に買ってくる」
「ありがとう」
私が作っている物、それは望んだものの方向を指し示す魔法の方位磁針のことだ。魔法の針、魔法の容器は出来上がっているのだが、どうしても上手く望んだものの方向を向いてくれない。自分の感情が弱いのか、あるいはただ単に方位磁針に伝わっていないのか。
どちらにしても必ず作り出してみせる。私には彼のためにどうしても見つけ出さなければならない人がいるのだから。

「ほら、できたぞ。運ぶのを手伝ってくれ」
「うん」
私は椅子から飛び降り、彼の元へと駆け寄った。とても良い匂いがする料理に生唾を飲むと、自分の分のお皿を受け取り、椅子へと戻る。その途中…。
ガシャン!
急に後ろから聞こえたあまりの大きな音に、私はびくっと体を震わせた。お皿を落とさないようにしっかりと持ったまま、ゆっくり振り返ると彼が膝をついて頭を必死に押さえていた。
「どうしたの!?」
お皿を持ったまま彼に駆け寄ると、彼は苦しげな表情を浮かべながらも、壁などに体を押し付けてなんとか立ち上がった。そして、ポケットからいつもの薬を出すと、なんの躊躇いもなく三錠も飲み込んだ。
「大丈夫…?」
「はぁ、はぁ、ああ、大丈夫だ。少し立ちくらみがしただけだ」
彼はそう言いつつも、洗面台へと手をついて苦しそうに荒い呼吸を繰り返した。私はお皿を料理台に置くと、椅子の上に乗り、彼の背中をさすった。二日酔いだとか、気持ちが悪いわけではないのだろうが、こうすること以外、私には何も思いつかなかった。
「ありがとう、もう大丈夫だ」
数分彼の背中をさすっていると、ほんの少し彼の顔色は良くなった。しかし、私はまだ心配だった。
「近頃多い気がする、本当に大丈夫?」
「…少し疲れているだけだ。問題ない」
彼は一度深く深呼吸をすると、落とした料理やお皿の破片を片付ける、と言って箒とちりとりを取りに行ってしまった。
最近、彼が立ちくらみを起こすことが多くなった。昨日の夜も危うく私が研究室にさせてもらっている地下室に転がり落ちるところだった。
彼が立ちくらみを起こすようになったは、確か二年程前からだった。元々、子供の頃から、そんなに元気や活力みなぎるような質ではない彼だが、特別体が弱いとか、何か持病を持つとかそういうことはなかった。
しかし、とある事件が起きて、彼と暮らすことになった五年前。気がつくと彼はあの薬を服用していた。なんなのかを尋ねても適当に流されてしまうだけで、まともに答えてもらったことが一度もない。何度か盗んで薬の成分を調べようと考え、彼が寝付くのを度々待ったが、彼は一度も眠ることはなかった。
私が知る中で、この五年間、彼がベッドで眠るのはおろか、居眠りをしているのを見た記憶すらない。
「早く食べないと料理が冷めるぞ」
箒とちりとりを持って戻ってきた彼は顔色がすっかり良くなっていた。
「うん。でも、あなたの分は?」
「落とした料理には悪いがこれは食べられない。もう一度似たようなものを作る」
「私もそれまで待つ」
「俺はこの片付けをしなければならない。それから料理を作ることになる、かなり遅くなるかもしれないぞ?」
「構わない」
私が淡々と答えると、彼はため息をついた。
「…ありがとう」


遅めの朝食がより遅くなり、すっかり開店時間をオーバーしていたが、父親が生きていた頃から、この小さな時計屋に滅多に客が来ないこと知っている俺は、特に気にすることもなくカーテンを開け、クローズと書かれた札を裏返した。
すると、今まで気にも留めていなかった無数の針が動く音が耳に響き始めた。
カチ、カチ、カチ…
「すまん、ほんの少し遅れた」
何の返答もない時計たちに謝ると、いくつかの道具と脚立を持ってきて、日課の点検を始めた。
時間のずれ、音の違和感、ネジの緩み等がないかを確認し、三十近くある掛け時計の点検が終わると、今度は腕時計を見る。そして、それらの整備点検が終わる頃にはお昼になるのが毎日だった。
汚れた手を洗い、朝の市場で買ってきた食材で昼食を作る。そして、それを持って彼女の元へと向かった。
朝と夜は一緒に彼女とご飯を食べるが、一度研究に没頭してしまうと彼女はなかなか地下室から上がって来ない。お腹が空いていることさえ忘れて、彼女はあの方位磁針を作っているのだ。
あいつと会うために…。
案の定というよりも、いつも通り彼女に見向きもされずに地下室から戻ると、再びめまいと頭痛に襲われた。後ろの階段に落ちないように何とか体勢を保つが、朝のものとは比べものにならない程のめまいだと分かると、すぐに壁へと体を叩きつけ、そのままずるずるとしゃがみこんだ。
そして、霞んだ目で例の錠剤を三つ取り出し飲み込む。しかし、それでもめまいと頭痛は治まらなかった。仕方なくもう二錠飲むと、やっと和らいだ。
ドクン、ドクン、ドクン
異常なまでに早くなった鼓動を落ち着かせる様に手を心臓に当てて深呼吸をする。次第に症状が落ち着いてくると、手に握った錠剤の束に目を向けた。
「一ヶ月も持たないかもな…」
かといって、今日の様にあのバフォメットを泣かすのも気が引ける。
「…できるだけ、早くあれを作ってくれ。そして、あいつを…」
救いを求める様に俺は暗い階段の底にある地下室への扉を見つめた。


チリン…
ドアベルが悲しげな音を立てたことに気がつき、顔を上げた。窓からは日没間近の燃える様な真っ赤な西日が入ってきていた。
しかし、その西日に勝るとも劣らない程真っ赤なドレスに身を包み、胸元からは大胆に真っ白な肌を露出した、白みがかった金髪の女性が悠然と立っていた。
「…あら、この店はいらっしゃいませの一つもないのかしら?」
「…」
挑発する様に言ってくるその女性に、俺は何も言わなかった。別にこの手の奴が嫌いだからとかそんな理由ではない。ただこの女性の得体の知れない威圧感が何なのかを探っていた。普通の人間の女性に、こんな威圧感はまずありえない。
「安っぽい店、安っぽい時計、あなたも…。いえ、あなたには一円の価値すらないかしら。罪人さん?」
「どういう意味だ?」
「あら、そんなことあなたが一番分かってるんじゃないのかしら?自分が親友を捨てて逃げた卑怯者だってこと」
「どこでそれを…?」
「本人から聞いたのよ」
「…あんたとは初対面のはずだが?」
「そうね、あなたとはね」
「だったら、どうしてそのことを知っている?」
「言ったでしょ?本人から聞いたって」
女性は特に冗談めかしたり、戯けたりすることなく答えた。その顔には言っていることを信じてもらえず、どこか拗ねた様な印象さえ見える。
「本人とはどういうことだ?彼女から聞いたということか?」
「彼女?あぁ、あなたが抱えて逃げた女の子?いいえ、違うわ。あなたが置いていった子から、よ」
女性からそう言われた瞬間、頭を金槌で殴られた様な凄まじい衝撃が頭に走った。
ドクドクドクドク
一気に鼓動が早くなり、呼吸もどんどん苦しくなっていく。
「…あんたは誰だ?」
「私?私はワイト。あなたたち二人に届け物を持ってきたわ」
ワイトはくすくすと笑うと、その柔らかで細い指をパチンと鳴らした。


「できた…」
私はランプの方を迷いなく指す針を見て、この魔法の方位磁針が出来上がったことを確信した。もう何十回もランプや本を心の中で欲しいと願い、試してみたが、そのどれもが上手くいった。
「早く見せに行こう…!」
私は両手で大事に方位磁針を持つと、急いで扉を開けて階段を上がった。
「ねぇ!ねぇ!できた…よ?」
一階へと上がると、胸を押さえて苦しそうに呼吸する彼と、真っ赤なドレスを着た女性、そして…
「誰…?」
私がつぶやくと、少し残念そうに少年は微笑んだ。そんな彼に女性はちらりと目をやると、くすくすと笑い始めた。
「あらあら、すっかり忘れられちゃったみたいね?まぁ、いいわ。ここではなんだから思い出話は…」
女性が話している時だった、彼ががっくりと膝をついた。その額にはびっしりと汗が張り付いていた。私が駆け寄ると、彼はいつもの様にポケットから薬を取り出した。しかし、パチンと誰かが指を鳴らすと、錠剤はひとりでに彼の手から離れ、宙へと浮かんだ。
彼は必死にそれを掴もうとするが、錠剤は巧みに彼の手を回避する。私も彼を手伝い錠剤を掴もうとするが、二人がかりでも捕まえることができない。
「ぐぅぅ…!」
なんとか錠剤を掴もうと必死になっていた彼だったが、その体勢はどんどんと前かがみになっていき、最後には倒れこんでしまった。
「あらあら、もう諦めたのかしら?」
くすくすと女性が笑うと、彼女の手に錠剤は飛んで行った。
「それを返して」
「あら、返してしまってもいいのかしら?彼があんな風になっているのはこの薬のせいなのよ?」
「えっ?」
私は倒れこんだ彼に目を向けた。ぐったりと倒れこんだ彼はすでに呻き声などを上げず、痛みあまりか気絶していた。
「ど、どういう意味?」
「聞きたくなったみたいね。じゃあ、彼をこのままにしておくわけにはいかないから、彼の寝室へ行きましょうか。彼を運んであげて」
「はい」
女性が少年に指示すると、少年は軽々と彼を背負い、まるで家の間取りを知っているかの様に階段を上がり、二階にある彼の寝室へ向かっていった。
「さて、何から話そうかしら?」
彼をベッドに寝かせると女性は近くの椅子に座り、少年は女性のすぐ横に立った。私はベッドに腰掛けて彼の様子が見れる位置に座った。
女性は腕を組むと私を見つめながら考え始めた。
「う〜ん、そうねぇ。ねぇ、あなた、自分が人間だった時の記憶ってあるかしら?」
「う、うん。ほんのすこしだけ」
「でも、この子ことは覚えていないんだ?」
「ごめんなさい…」
私が頭を下げると、さっきと同じように少年は困った様に微笑み、後頭部をかいた。それを見て女性はくすりと笑うと、そこから話そうかしらと言った。
「彼は元々あなたたち二人と友人、それもかなり昔からの知り合い。親友と言っても差し支えないかしら。でも、五年前、あなたたち三人は不慮の事故に巻き込まれた。そして、あなたはリッチに、この子は一度死に、彼は贖罪のための道を歩むことになった」
私と少年は黙って女性の話に耳を傾けた。


一人の少年と一人の少女がいた。彼らは一人の少年の手を引いた。優しいのにとても力強く。
時計をいじりくらいしか遊びを知らない少年に、二人はいろいろな遊びを教えてくれた。鬼ごっこやかくれんぼ、魚釣り、昆虫採集、天体観測、もちろん遊び以外のことも。
そうして、三人で過ごすようになって、少年は少女に恋をした。美しくなおかつ強い少女にとても惹かれたのだ。
しかし、それは許される恋ではなかった。
もう一方の少年も少女を好いていたのだ。
少年はすぐに手を引いた。
自分のような暗い人間よりも、彼のように優しく素敵な人間の方が彼女にはきっといいに決まっている。彼らは元々二人だった、自分がお邪魔虫なのだ。
そう何度も自分に言い聞かせて、何度も涙を堪えて、何度も弱い自分を責め立てて。
それでも、彼らから離れることのできなかった弱い少年が彼らの人生を壊した。
とある街へ馬車で時計を届けに行く時、少年は二人を誘った。
そして、その帰り道、頭上では雷鳴が轟き、打ちつけるような土砂降りの中、必死に山道を走っていると、急に目の前が光った。雷がすぐ目の前に落ち、それに驚いた馬が崖から落ちたのだ。
気がつくと、少年は泥まみれで倒れていた。周囲を見渡すと、ばらばらになった馬車の残骸と馬の死体が目に入った。
それを見た瞬間、少年はすぐに立ち上がると二人の名を呼んだ。何度も何度も。しかし、返事が返ってくることはなかった。パニックになった少年はすぐにあたりを探した。
そして、大きめ馬車の残骸が落ちている場所に、その残骸が下腹部に刺さった少女を見つけた。少年はすぐに駆け寄り、少女の肩を揺すった。うぅ、少女は小さく呻くと微かに目を開けた。少年が少女の名を呼ぶと、少女はもう一方の少年の名を呼んだ。何度もか細い声で。
少年は涙を押し殺し、再びもう一方の少年を捜索した。しかし、一向に見つからない。仕方なく少年は少女の元へと戻った。少女はすでに意識を失っていた。傷口からの大量の血を流しすぎていたからだ。
少年は迷った。
このままもう一方の少年を探し、二人を助けるか、少女だけでも助けるか。

“そして、君は彼女を選んだ”
「…」
“君は僕が君を恨んでいる、そう思っているのかい?”
「ああ…」
“…そうやって、物事を悪い方に考えちゃうのは相変わらずだね。僕はこれっぽっちも君を恨んでなんかいないよ?”
「…なぜだ?」
“だって、君は彼女を救ってくれたじゃないか”
「だが、お前を救うことは出来なかった」
“うん、でも、僕はあの人に助けられたから。…ごめんね、本当はもっと早く君たちに会うべきだった。そうすれば君は…”
「いや、いいんだ。俺が勝手にやったことだ」
“でも、君は五年間眠らなかった。死んでしまったと思っていた僕の代わりに。そして、僕のことを決して忘れないために。あんな薬で眠気や疲労を誤魔化してまで”
「言っただろ?俺が勝手にやったことだと。それに、ただ単に罰を受ければお前から罪を許される、そう信じ込んでいただけだ」
“…君に罪なんか元々ないよ。君が勝手にそう思い込んでいただけ。…でも、もし許しが欲しければ、それで君が楽になるのなら、いくらでもあげるよ?”
「…相変わらず、お人好しだな」
“そりゃ、成長も止まっちゃったからね。それにそれは君も一緒だよ。さぁ、帰ろう?彼女が待ってる”
「…彼女が待っているのはお前のことだろう?」
“いや、彼女の記憶に僕はいないよ”
「なんだと…?じゃあ、なぜ彼女はあの方位磁針を作ったんだ…?」
“…きっと、君のためなんじゃないかな?彼女自身が僕を探すためじゃなくて、君が僕を探す手助けをしたかったんじゃないかな?”
「…」
“どちらにしても僕は君に彼女を任せるしかない。僕にはもう守るべき人がいるから”
「俺は…」
“聞こえるかい?彼女の君を呼ぶ声が”
「えっ…?」
“これで本当に最後だよ、君の手を引いてあげるのは。これからは君が彼女の手を引いて、共に歩んでね”


「ねぇ、起きて、起きて!お願い、起きて!」
私は彼に馬乗りになって必死で彼の体を揺すった。しかし、彼はまるで死んでしまった様に眠り続けた。それでも、私は彼の名を呼んだ。
五年前、ほとんどの記憶がない私を支え、リッチになってしまったが故に家を追い出された私に共に住むことを提案してくれた。そんな優しく、大好きな彼の名を。
過去の忘れていたことを聞かされても、もう私は人間じゃない、あの少年のことを思い出しても、恋心まで思い出すことは出来ない。
今の、人間ではなく、リッチの私は、彼のことだけを愛している。
私は冷たくなった彼の手を自分の頬へと当てがった。
「お願い…。死なないで…。もっともっと、一緒にいようよ…!」
ポロポロと大粒の涙がこぼれた。その涙を擦り付ける様に私は彼の胸に頭を埋めた。
「なんとか言ってよ!」
「…ナントカ」
私は耳を疑った。すぐに顔を上げると、冷たいもう片方の手が私の頭に乗せられ、その手は優しく私の頭を撫でてくれた。
「ばかっ…!」
ギュッと彼の首に手を回し、冷えた体に私の体を押し付けた。
「あらあら、ラブラブなのね。どお?気分は?」
「…体が重い、それに眠い」
「まぁ、五年間も眠らなければそうもなるわよ。疲労の方は私が何とかしておいたから心配しなくてもいいわ」
「そうか…。いろいろと世話になった。ありがとう」
私も頭を上げると涙を拭きながら、彼らに頭を下げた。
「お礼なんていいわよ、別に。手助けはしたけど、結局はあなたたち三人の力だもの。それじゃ、私は先に店を出ているわ。あなたはきっちりお別れしてくるのよ?」
女性はそう言うと、一人手を振り寝室を出て行ってしまった。残された少年は私たちに一歩近くと、優しげな微笑みを浮かべた。
「戻ってこれたみたいだね?」
「ああ、お前のおかげだ」
「僕だけじゃないよ。あの人の魔法のおかげで君と話せたし、何より彼女の呼び声があったからこそじゃないの?」
「そうだな…。お前はもう行くのか?」
「そう…だね。僕はあの人と一緒に行くよ」
「そうか…」
「そんなに悲しそうな顔をしないでよ。永遠の別れじゃないんだからさ」
「ああ、じゃあな」
「うん、それじゃあね」
少年は軽く手を上げる、変わらない優しげな微笑みを浮かべたまま寝室を出て行った。
結局、話は聞いたが彼が誰なのかを、自分で思い出すことは出来なかった。
私は二人を見送る様に閉まった扉を見つめていた。すると、急に私は彼に抱き寄せられた。
「きゃっ!?ど、どうしたの…?」
「五年間も騙す様なことをしてすまなかった」
「…いいよ、だって全部聞いたもの。それでも、今の私はあなたのことが大好き」
「…ありがとう。俺もずっと大好きだ」
私たちはお互いの気持ちを伝え合うと、ゆっくりと目を閉じた。


「だいぶ顔色が良くなったみたいじゃな?」
「ああ、だが、まだ体が重い」
「そりゃあ、そうじゃろう。それで今日は何をしに来たんじゃ?」
不思議そうな顔をするバフォメットに俺はポケットからあるものを差し出した。
「なんじゃ?これは?」
「方位磁針だが?」
「そんなことは分かっておる!これをどうしろと言うんだ!?」
「売りたい」
「ただの方位磁針なんぞ、わしが買い取るか!」
「これは欲しいものの方向を示すらしい」
「本当か!?じゃが、ならどうしてそんな良いものをくれるんじゃ?」
「もう俺には必要ない」
「なぜじゃ?」
「…俺が持つと、ずっと同じ方向ばかり指すからな」
16/09/29 07:54更新 / フーリーレェーヴ

■作者メッセージ
読んでいただきありがとうございました。
かなり長くなってしまいました。その上、設定等もいつもどおり適当、なおかつ、いつも以上に重いという、波状攻撃になってしまったことをお詫びいたします。
それでも読んでいただきありがとうございました。
ご感想やご指摘等がございましたら、気軽に書いていただくとありがたいです。

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