読切小説
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いつか、月の下で
黄色の丸が浮かぶ、黒の空。あれは、上弦、というのだろうか。
私は一人、人気も明かりもない海辺へと歩く。
片手にはスケッチブックを、片手には鉛筆を持って。
適当な、平らな岩に座り、黙って月に照らされた海を見る。
寄せては返す波。
私はスケッチブックを開け、さら、と鉛筆を走らせる。
毎夜、私は人目を忍んでスケッチをしている。
単なる趣味だ。お世辞にもうまいとは言えない。
私は無心で鉛筆を滑らせる。
さ、さ、さ。
いつものように、大体が黒で埋まってしまう。
それでも、私は濃淡をつけて描く。
絵を描くのではなく、「風景を切り取る」。
私にとっては、それが大事なのかもしれない。
ただ、私はこうして鉛筆で風景を切り取ることが好きだ。
なぜなら、この切り取られた風景は、私が見ている風景と、同じだからだ。
手が止まらない。
不思議と、今日は全くと言っていいほど鉛筆が動く。
気分がノっているのか。うれしい話だ。
一枚、スケッチを仕上げた。
私の正面に、月と、海と、そして私の足とがキャンバスに描かれている。
上出来だ、と私自身思える出来だった。
気分良く私は立ち上がり、帰ろうとする。
しかし、私の意識はすぐに帰る意思を打ち消した。

  ――別れの日が 訪れても
    二人 過ごした時
    その記憶は 消えはしない――

「歌」が聞こえた。

なぜだ。
私はあたりを見回す。明かりもない以上、ぼんやりとした月が頼りだ。
明かりがない。
それは、周りに人がいないことを示す。
だが、確かに、今もなお「歌」が聞こえる。
どこだ。
そして、私は見つける。
月明かりが一つの場所に焦点が当たっているように見える。
そこには、一人の女性が座っている。
座って、月を見て、のどに手を当て、澄んだ声で「歌って」いる。
私は思わず、その「歌声」に聞き入ってしまっていた。
自分が考えるべき疑問をも忘れて。


いつの間にか、私は座って目を閉じて「歌」に聞き惚れてしまっていた。
愛の歌。
いつかは死別してしまう。それでも、愛さずにはいられない。
彼女の歌う「歌」だけでも、一つのオペラとして完成してしまいそうだった。
それほどまでに、彼女の「歌」には言い得ない「力」があった。
「歌」が終わった。
私はふと、正気に戻る。
そうだ、彼女は?
目を開ける。
すでに彼女の姿はなかった。ただ、海からの波が寄せて、返すだけ。
気になる。
彼女は一体誰なのかも。
あそこで歌を歌っていたことも。
そして、なぜ私がそれを聞けたのかも。


私はいつものように夜の海へ出た。
穏やかな海だ。
今日は曇っていて月を見ることはできないのが残念だ。
月が出ていれば、満月に近いきれいな月を見ることができただろうに。
ただ、月の明かりを期待できない夜でも、私はランプを持って海辺に座る。
そして、いつものようにスケッチを描く。
静かな海と、陰っている空と、私の足と。
いつもと似ているが、確実に違う風景を、キャンバスに切り取っていく。
思った以上に鉛筆が進まない。
うまくはいかないようだ。
うまくいくほうが稀だと思い直し、私は鉛筆で風景をなぞっていく。
今日は、彼女は現れないのか。
私はキャンパスに風景を再現しながら、私は考える。
できるならば、もう一度会いたい。
そして。
考えに詰まる。
どうするというのだろう。
会って、何をするというのだろう。
鉛筆を動かす手が止まる。
私が、彼女に伝えられることなど無いに等しいというのに。

  ――この青い 月光の下で
    私の思いただ伝えたい
    時よ止まれ この思いが
    二人に溶けて 消えるように――

まただ。

また、「歌」が聞こえた。

なんだ。
私は再び、見渡す。
見慣れた景色の、見慣れない場所を探して。
やはり、居た。
月明かりの下、朗々と「歌う」彼女の姿が。
暗くてよく見えないが、髪が長いのだけはうっすらとだが分かった。
美しいのだろう。
そう思える「歌声」だった。いや、そうとしか思えない「歌声」だ。
私は筆を動かした。
私が切り取るべき風景は、これなのだ。
無根拠ながら、ひどく力強い自信が持てる。
筆が風景を写し取っていく。
夜の黒と、月の白と、彼女の陰影を。
思った以上に、そして、今まで以上に早く筆が動いた。
スケッチの完成まで、さほど時間はかからなかった。
その間、彼女は「歌い続けた」。
私のスケッチの完成を待つかのように。
そして、完成した時に、彼女は海へ身を投げた。
身を投げた?
立ち上がった。
ランプを持って、走った。
彼女がいた場所まで。
ステージ代わりだった岩場までたどり着き、私は海を見た。
ただ、ざざーん、と波が返事をした。
私は落胆する。
彼女に、質問したいことがあった。
一つ、たった一つだ。
視界の端に何かが見えた。
ランプの光に反射した、小さい丸い何か。
私は拾い上げる。イヤリング、それも、真珠でできている。
これは、彼女のものなのだろうか?
思わずポケットの中にいれてしまった。
これがあれば、彼女と話せるきっかけになるはずだ。
その時に、私は聞いてみようと思う。

なぜ、あなたの「歌声」は私に聞こえるのか、と。


次の日。
私は再び、陽が落ちてから私は海に向かう。
ランプと、スケッチブックと、鉛筆を持って。
ただ、私は絵を、風景を書くために行くのではない。
胸に湧き上がるこの疑問を解くために、彼女に会いに行くのだ。

彼女は、すでに居た。
岩場に座り、こちらを見つめていた。
晴れた夜空には、煌々と光る満月が浮かぶ。
月明かりの下の彼女は、ひどく綺麗に、そして妖しく見えた。
「――――――」
あなたが、私のイヤリングを?
彼女の口が動いた。
何を言っているのかは分かる。
私は頷く。
しかし、疑問はますます深まった。
「――――」
どうして――
矢継ぎ早に私に話しかけてくる彼女を、手で制す。
警戒した目つきで私を見つめる彼女を後目に、私はスケッチブックに書く。
唯一の、私が聞きたかった質問を。

書き終わり、私は彼女に提示する。
彼女が目を丸くして、スケッチブックと、私の顔を交互に見る。
苦笑いする。
それもそうだ。
質問の意図が分からないだろう。
私は、「しゃべって」みることにした。
「わタしは、みミガきこエなイんだ」
驚愕の表情が彼女の顔に表出した。
苦笑いを深くする。
だからこそ、私は不思議だった。
なぜ彼女の「歌声」が、「聞こえるはずのない歌声」が、聞こえるのだろうかと。
初めてだったのだ。
私が何かを聞いたのは、あの「歌」が初めてだった。
だからこそ、気になった。
彼女の答えは、「歌」だった。

それは、私が人ではないからでしょう。

音程をつけただけのものだが、私にははっきり聞こえた。
なるほど、合点がいった。
つまり、魔物の魔力が「歌」に籠っているおかげで、私に聞こえているのだ。
嬉しかった。
第一の感想がそれだった。
この魔物は、私に「歌を聴く」喜びを教えてくれた。
「歌が聴ける」。
一歩入ったわき道を歩くような、新鮮な好奇心を私に与えてくれる。
彼女の答えを、目を閉じて何度も反芻し、私は頷く。
イヤリングを返そう。
それは、もちろん、持ち主に返す、ただそれだけのことだ。
ただ、私は一つ言うべきことがあったのだ。
「あリがトウ」
「――――――」
どういたしまして。
そのちぐはぐな問答に、私と彼女は笑いあった。


今でも、私は海に行く。
夜だけではない。もはや人目を忍ぶような感情は無い。
私が行くといつも、彼女はいつもの岩場に座っている。
そして、私は風景を切り取り、彼女は心を奏でる。
鉛筆だけではなく、色鉛筆も必要になった。
追加の出費だが、この喜びの前ではなんの問題もない。
今のキャンバスには、多彩な色が遊んでいる。
最近では、私の絵と、彼女の歌を目当てに観客まで出る始末だ。


私は、いつか彼女に言おうと思う。
いつか、月の下で。
10/10/23 01:31更新 / フォル

■作者メッセージ
この歌が分かる人は、握手しましょう。

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