読切小説
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メメント・モリ


 親魔物国家の繁華街は賑わいを見せていた。道行く呑兵衛どもに声をかける色気づいたサキュバスにハーピー。まさに魔物然とした態度を取る者ばかりが集うそんな国家の一角に、その店はあった。猥雑な気配を漂わせるわけではなく、寧ろ賑やかとは正反対に位置する静けさがしっくりときてしまう場所。そこにあるのが、ジパングの出であるオヒトが経営する料理店だった。が、その外観は傍から見れば酔狂な人物がその狂い具合をさらに加速させ、一夜で作り上げたと言われれば納得してしまいそうな違法建築ぶりである。地震の出る幕でもない、客一人がその店に這入ろうと辛うじてドアと判断できる部分に触れようものなら、即座に瓦礫の山へと姿を変えてしまうことが想像に難くない具合に。高名な建築家がこの店を見ればバロックだとか建築様式への挑戦状と判断するほどである。
 だが店主であるオヒトはこの外観をなぜか大層気に入っており、周りの老婆心ながらの忠告及び警告を耳に入れようとはせず、さながらジェンガのような危うい精緻さで辛うじて建っているこの店を改修しようとはしなかった。
 それでも度々客がこの店を訪れ、腹と心を満たしていくあたりに、オヒトの人となりが垣間見える。
 そんな店の名は、メメント・モリ。ジパングの出であるオヒトが西方の、それも宗教色のある用語を使っている時点で、その語の意味を熟知しているとは信じ難かった。もっとも、口にした語感が良かったからという本人の弁にはどこか底知れぬものを感じさせ、またオヒトという人物を摩訶不思議なものへと仕立て上げている。
 が、そんなことも当の本人には知らぬことであり、お腹を一杯にして帰ってくれればそれでいいというのがオヒトの全てだった。

「よし、下拵えはこれでいいか」

 大きな鍋の中でぐつぐつと煮立つ魔界いもの様子を見、一人納得するオヒトの耳に、軽やかな鈴の音が届いた。店のドアの内側に取り付けられた鈴が、来客を告げたのだ。

「いらっしゃい」

 場末酒場のような喧騒を求めてわざわざこのメメント・モリへと足を運ぶ者は少ない。あの今にも物理的に店を畳んでしまうことになる切っ掛けにさえ思えるドアを潜る者が求めているのは、大抵はゆっくりとした時間なのだ。
 丁寧に拵えられた料理に舌鼓をうち、どこか心を落ち着かせて店を出て行ってくれればそれでいい、そう思うのがオヒトなのだが店の暖簾――もといドアを開けてきたのは

「お腹すいた」

 馴染みの顔だった。
 頬を膨らませながら店内にあるカウンター席に我が物顔でどっかりと座ると、不満げな視線をオヒトへと寄越す。まるで不満の原因はオヒトにあるのだと言いたげな、そんな視線をオヒトはさも平気な風情で受け流し、ご注文は?と短く一言発するのみにとどまった。

「適当なつまみと可愛い嫁さん」

 無言を返事とし、調理を始めるオヒトの傍らではカウンターで項垂れる客人という、中々にシュールレアリスムに則った光景が広がっている。発した言葉こそ数少なかれどその節々からは切実な女欲が隠れん坊する幼子の如く見え隠れし、いや、見え隠れどころかお天道様の真下で添い遂げる者を募集するに等しい。
 そこまで女に餓えているのなら、それこそこの様な料理店ではなく場末酒場の酒精にでも身を任せ、魔物娘と流れのまにまに身体の火照りを鎮めるためにまぐわえば満足になるものと、オヒトも何度心の中で疑問を声にあげず留めたかは数え知れない。
 淫らを善し、破廉恥を善しとする魔物娘の大海に身を投げればそれこそ一生の伴侶すら容易くお目にかかることも出来ようと思うのだが、この客人は相当運が悪いらしい。
 曰く、いつも強い酒精に身を任せるのだが、気づけば酒場の二階にある寝具で一人、赤子の如く快眠を貪っているのだとか。大海に身投げして五体満足で戻ってきているようなものでもあるから、或る意味で運が良いと曲解できなくもないが、本人からすればあんまりにあんまりだ、といったところだろう。
 尤も、もう一つの事情を知っているオヒトからすれば、早いところ自身の周りを目を双眼鏡にでも取り替えて見渡せと言いたいものだった。朴念仁と毒づきたくもなりながら、オヒトは鍋の中でコトコトと煮込まれる魔界いもを取り出した。
 作り手の個性が文字通り色濃く反映される魔界いもだが、今回は辛口のものをさっと皿に盛りつけると、見た目鮮やかな青の果実から作ったソースを垂らし、未だ項垂れている客人へと差し出す。この皿で愚痴を吐くのも最後になればいいと思うのはオヒトの心境だったが、そんな心を察することなく客人はガツガツと辛口の魔界いもを胃袋に放り込んだ。

「釣りはとっとけ」
「毎度」

 短く言うと、またとぼとぼと財布を掏られて今にも消え入りそうな浮浪者といった体を成しながら店を出て行った。
 さて客人が店を後にし、再び店内に響く音が煮沸音のみとなって暫時、今度は先程とは違う姿が店内に見えた。勿論ここが親魔物国家である以上はその姿が女人のものであればそれは単なる女人であるはずがない。見た目だけならそれは西洋に開かれる魑魅魍魎に仮装した童が跋扈して甘菓子を強請る、年に一度の奇祭のそれにも疑わしく見えるが、そうではなく。
 身形こそ童なれど、その知能は老獪さという陳腐な言葉で飾ることすら烏滸がましく、背徳感に苛まれながらもその身体に手を出せば予想だにしない成熟した魅力と官能に虜に落ちてしまう。口から奇々怪々な呪文を紡げば飛び出すのはビロウドのような奇跡、奇術の数々。バフォメットと呼ばれる高位の魔物である。
 威厳と尊厳を兼ね備え、店に這入るその足取りも堂々たるや王の闊歩に等しい貫禄を備え。そして王に等しい貫禄を備えているならば、相槌一つで意思疎通をこなすことなど朝飯前であり、オヒトは一つ頷くと手品師顔負けの収納を誇る懐から真っ赤なアイスを取り出すと差し出した。
 さて意思疎通にも様々なものがあり、阿吽の呼吸などというよく耳にする便利なものもあれば、熟年夫婦が言われずとも相手の意思を手に取るように推し量る以心伝心のようなものまでその種類は人の縁の数ほどあると言っても決して大袈裟になるものではないが、しかしてオヒトとこのバフォメットの間にある意思疎通の部類は、通い慣れて馴染みになってしまった常連客が夜の帳も深い頃に暖簾を潜り、居酒屋でもう顔も名前も憶えてしまった大将に吐く愚痴とそれを聞く大将に近いものだった。

「またダメじゃったあああああぁぁあぁあぁあ!!!」

 泣く子と地頭には勝てぬとはオヒトの故郷の諺だが、ここに合わせて言葉を置き換えるなら泣く女子と魔物には勝てぬと成る風に、耳を劈きかねない何度目かになる大号泣にいくらオヒトであれど若干の辟易の色を隠しきれない。

「なぜあやつはこうもワシのあぴぃるに気づかないのじゃ!諸行無常じゃ!鬼でももう少し情け容赦というものがある!」

 朴念仁という先ほどの男性の客に対しての評価の理由をここで明瞭にするならば、このバフォメットが正に朴念仁という不名誉な評価を与える原因となっていた。双眸から未だ滔々と湧き出る水源の如く涙を流すこのバフォメット、先程の出逢い求めてやまぬ男にかねてより恋をしていた。恋は人どころか魔物をも例外なく盲目にする。
 その盲目になってしまったバフォメットは、その身に宿した魔性の数々を駆使して男性に迫っていた。これだけを聞くならば、なんと羨ましいことか。健全たる男ならば冥利に尽きる幸福を与えられているのだから、その身を木乃伊にするまで生涯を全うして、孫、ひ孫に囲まれてしまえと呪詛の言葉を血涙と共に投げられそうなものである。

「どうして!どうしてじゃ!」
「そりゃあ、仕方ないでしょう」

 しかし己の武器を存分に生かして迫ったところで、簡単に籠絡されてしまうならば男に朴念仁の言葉は似つかわしくないだろう。朴念仁とまで言われるならば、言われるだけの理由の理由というものがきちんと存在している。
 例えばある日ある市場ある時刻にて。
 男が買い物をするためにぶらついていた市場にてバフォメットは己の幼い外見を利用して、賢しい策を講じた。男の眼の前ですってんころりんと、転べば三年しか生きることの出来ぬ峠で転がってしまった翁――いや媼の如く派手に転んだ。当然男はそれに気づき、それを見逃さずあざとい泣き声をあげるバフォメットの姿は幼子ではあったが、心に関しては強かなものだった。
 ごく一般的な慎ましい紳士的な世の中の男性からして、泣き喚く幼子を前にした時の反応は一つであり、男性も嘘泣きをしているバフォメットに対して親切に声をかけた。それを好機、ここぞとばかりに泣き言を吐きながら己が未発達な身体を男性の腕の内に滑り込ませ、擦り付けたのだが。

「よしよし、飴玉やるから、な?痛かったな。お母さんかお父さんはどこだ?」

 と、欲情よりも先に一般常識を優先させてしまったあたりに、この男の朴念仁ぶりが窺えた。

「あり得るか!?」

 口を滑らせ、そりゃあ体躯のせいだとは言えずに無言を貫き、首を左右に振る事を返事としたオヒトだったが、少なからずバフォメットに同情の念を抱かざるを得なかった。
 これだけならば、ケセラセラと笑い飛ばすことも可能な域であったし、酒の肴にする程度の噺で収まっていた。察しが良ければこれだけで終わる筈も無いことは想像に難くないので、余計に複雑な入り混じった想いをオヒトに抱かせている。
 まだ更にこのバフォメットの同情の涙を禁じ得ぬ失敗談を続けるならば、大胆に魅了の魔法を使い男を振り向かせようとした時に限って妹分の魔女がサバトの集会にバフォメットを連行したり、恥をかなぐり捨て告白という正攻法を用いようとしても己の体躯のせいで男性を追いかける間に人の波に埋もれてしまったりと、枚挙にいとまがない。
 閻魔でさえ憐れに感じ、地獄逝きと判断した杓をへし折り天国逝きの道を指さしかねないものである。
 盲目になった挙句、お頭まで麻痺してしまったのではないが、恋をしてしまった瞬間から不幸がすぐ傍で舞踏会へ招待していると疑いたくなる程、バフォメットの計画は悉く水泡へと帰していた。

「どうなっとるんじゃ、なにかに憑かれておるのか」
「どちらかと言えば……」

 疲れている、なんて下手な洒落を口にしたが最後、癇癪を起したバフォメットから何を言われるかわかったものではないと思ったオヒトは寸前で言葉を呑み込んだ。
 どこか気まずい空気が偏在する店内を少しでも和らげるべく、サービスの品を不器用とも熟練ともつかぬ手で差し出した。それを涙ぐみながらも勢いよく、ぱくりと平らげるぶんには矢張り、バフォメットも男と同じくいつもの愚痴を吐きにきたと判断できた。

「そこまで魅力がないのかのう」
「気づいてないだけでしょう。鈍感も鈍感ですから」

 果たしてあそこまでのもはや傑物として讃えたくなるほどの男をそのような言葉で表現するのも烏滸がましく感じたのも刹那、ここまでくると昼夜の大火事の如き恋の熱量を孕んだバフォメットの方に問題があるのかと、懐疑心に身を委ねたくもなるオヒトではあった。しかしてバフォメットの失敗談はあくまでもバフォメットが悪でも、ましてや気づかない男が藍染された布のように見た目麗しい悪に染まっているわけでもない。
 ただただ、運が悪い。
 その運の悪さを店の料理を食べて、前向きに活かすか克服でもしてくれれば、本当に店には胃の腑を満たして満足気な表情で後にする客人しかいなくなるだろう。
 本気でオヒトはそう思っていた。
 夢寐の幸せよりも、他者と悦びを共有する幸せを、早くこのバフォメットにも味わってほしいと。今度こそ杞憂に終わればこれ幸いと、オヒトは自身がお先真暗なバフォメットの未来を光明赫奕と照らさずとも、蛍の灯り程度になればいいと考えながら、駄賃を置いて轟足で出て行くバフォメットの姿を目で追った。



 さてはて、当のバフォメットは店を出て間もなくして、妙な火照りに襲われていた。媚薬のような恋心をあらぬ方向へとひた走らせる、妖しい火照りではない。どこか甘ったるく、恋の妙薬と呼ばれるそれを真偽は偽薬効果とも知らずに口にし、幻術まがいの錯覚を抱いてしまったような火照り。しかし火照りそのものは決して混ざり物でも紛い物でもなく、身体の内側を心地よい男への恋心で、恋の灯でじわじわと炙られている得も言われぬ快楽だった。余韻を残しては消え、残しては消えを繰り返し意地の悪い余韻の残し方をする火照りに困惑を覚える一方で、バフォメットの怜悧さは失われ、急速に頭の中は男の姿だけになってしまう。
 好きな理由などない。ただ好きなのだ。恋しくて仕方がないし、胸が万力で拷問でも受けているような切なさと苦しさで満たされてしまう。胸中を満たすものは甘いと酸いで十二分に事足りるというのに。
 明らかに色欲を善しとし、淫らを善しとする魔物娘とて少々逸している思考に怪しげな影を見入る余裕など、バフォメットからは当の昔に鬼に食われた霧に等しく散り散りになってしまい、ただ好きという言葉と想いが乱反射を繰り返す。
 恋のいろはも知らぬ輩にこの想いをとやかく言われる筋合いなど無い。己が欲望の赴くままに、想いを伝えることにどのような原罪があろうか。かの高名な天使とて己が欲望を優先させ神罰をその身に受けたところで、その身から溢れる深淵にも通ずる欲からは逃れられることはなかったではないか。これまでがまどろっこしかったのだ。逃げ道もないほどに、窮鼠が噛み付こうと前歯をキラリと輝かせる気すら削ぐほどに、伝えてしまえばいい。
 単純だからこそ、それでいい。しんぷるいずなんとやら。
 止まることを知らぬと言われる猪だが、世間一般が抱く想像と現実は大きく違うことなど度々あることで、事実猪でも獲物を追う時にはその巨体を見た目からは想像力を養わせる機敏さで、彼方へ此方へと曲がることを容易とする。
 その猪の曲がる知恵を今のバフォメットが少しでも有していれば、この熱暴走に等しい直線的すぎる火照りに囚われた思考回路から脱することもあったかもしれない。
 もしものことであり、一縷の望みに賭けるほどの確率ではあったが、たとえ流れ星がバフォメットの脳天を直撃したところでこの火照りが恐らく下火になることはなかった。
 そもそも恋の邪魔をしてしまえば、馬に蹴られて死んでしまうのにどうして誰かが茶々入れや邪魔をしようか。
 男の後ろ姿を見つけると、目を爛々と輝かせながら陸上最速を誇る肉食動物もかくやという勢いで突っ走る。その様たるや一つの台風が過ぎ去ったに近しく、道行く人々魔物共は何が起こったのかも理解追いつかぬまま、ただただ呆気に取られた面を晒すだけとなった。
 その台風に急速接近を許してしまった男はその捨て身とも受け取れる突進を受け止められず、もつれ転び顔面を地面に擦り付けるに至った。
 理不尽には怒りを覚えるのが人間の性であり、当然聖人君子でもない男も露骨に怒りを露わにすると喧嘩を売ってきた主はどこかと声を荒げる……が、その肝心の主がいつぞや見た記憶のあるバフォメットともなれば、怒りの剣を静かに鞘へと収める他にない。

「なんだい。いつかの嬢ちゃんか」

 多少言葉の端に諌める色こそあれど、そこは男とて立派な成人である。露骨に怒鳴りつける事はせず、神経に障っているであろう苛立ちを隔絶し、やんわりとした口調で注意をしようとしたのだが、そんな男の思案は消えてしまった。
 それも無理はない。縋るような目で自分のことを受け入れろと口にするバフォメットを前にして、いかに常識という人間の倫理を持ち込もうともそれは脆弱さで着飾った鎧であり、本能を前にして色欲の底へと墜落を極める魔物娘にとっては紙よりも薄っぺらい壁でしかない。
 コミュニケーションを魔物娘とて重要視する者も存在し、その中にやれ強引に腕を組み、己が豊かな胸部の逆らい難い誘惑を以て男の意識を手中に搦めとる手法もあれども、自分に気づいて貰いたい、相手を知りたいという恋のいろはのような意識を持つ者が存在することを否定する材料にはとどかず。
 このバフォメットもあくまで自分に気づいてもらうことを意中になる第一歩としていたのは間違いないのだが、その一歩を悉く空振りし、さながら一本の棒の上で器用に片足で立つ曲芸師のように、ここまでくると奇跡と拍手喝采で迎えられそうな空振りの代償か、踏み込んだ一歩は藪の中の龍の尾を踏みつけるものであり。
 いやそれも本人ではなく、正体不明の火照りが原因ではあるのだが、ともすれば熱暴走によって発情間近といった身体にいよいよ辛坊ならぬ疼きが芽生えるのも必然。
 が、実のところ異変が起きているのはバフォメットだけではなかった。
 通行人はいつもの事かと微笑んで去る者もあれば、事の顛末まで見届けようとする野次馬根性逞しい者、その後ろから羽交い絞めにして路地裏に連れ込もうと目論む者まで様々であったが、それはそれ。
 異変が起きているのは男も同じだった。
 店を出てからではなく、このバフォメットに激突されてから男の脳が変調でもきたしたのか、先程から、お嬢ちゃんと言ってから間もなくして思考停止の先に訪れた疼きがあった。疼痛の部類ではない。どちらかと言えば昔も昔、まだ男も純粋で色遊びも知らなかった出来たばかりの羊皮紙のような純粋さだった頃に抱いた、初恋のような疼きである。
 その白にインクを垂らし、綴り紙に仕立て上げたのも間違いなく初恋であったほろ苦い経験ではあるが、なぜかその時と同じ胸の高鳴りが、なぜか眼前のバフォメットに対して向けられているのである。
 いやいや確かに最上位の魔物ではあるし、その名器ぶりたるや魔物を毛嫌いする神父でさえ心折られるほどと聞くし、何よりなかなかどうして縋る目に若干の涙を堪えているのはなるほど外見相応の愛くるしさを思わせて仕方ない。
 と、心の中で既にバフォメットへの魅力に吸い寄せられつつある男の頭には、未だ幾分理性は残っていた。理性は理性で混乱するばかりで、羅針盤をあっちへこっちへと男の節操なさに等しく振れていたが。
 しかしここまで圧倒的に男の理性を蕩けさせ、一気に魅力で自分のものへと性質を変貌させるほどにバフォメットは偉大だったのかと、疑問を投げかけた男の問いに答える者はおらず、ただ手は勝手にバフォメットの頭を、ちょうど兄が妹にするような慈愛の満ちたそれに似たもので、そっと撫でるとバフォメットは満更でもないように目を細める様といったら。

「んうぅ」

 小さく喉を鳴らすバフォメットの声に、男の胸はキューピッドとかいう天使の矢で射られた。明瞭にできない、しかし不快では無く寧ろ快感にさえ感じてしまう胸の高鳴りに、僅かに残っていた疑問と理性も消し飛んでいた。
 そもそも男の理性をこうして容易く消し飛ばすのはバフォメットの元来の魅力であり、そこに今まで気づかなかった男の朴念仁ぶりがいかに凄まじいのかを如実に物語ってはいるのだが、それもここまでの話だった。まともに魅力を見、そして無下にできる男はそうそういないし、ましてや女遊び激しいこの男が真正面から立ち向かえる筈も無いのだ。
 親魔物国家にとってはまた幸せそうな夫婦が一組増えただけに過ぎないが、それでも本人たちにとっては一大事業であり、またどうにも形容できない達成感と多幸感に呑み込まれるものではあった。
 常に女っ気を求めて夜の街を歩いては己の境遇を嘆いていた男と、その男にどうしてか惚れてしまい、ならばと策を講じては策に溺れるなりまったくの不運に策を潰されていたバフォメット。
 二人にとっては求めていたものが、パズルのピースがピタリと嵌め込まれたような、純粋な心地よさがその身を浸し。

「まあそんなわけでよ。嫁さんを貰えたわけだよ」
「めでたいな」
「ああ、愛でたいよ」
「むぅ、アイスはまだか!」
「お待ち」

 メメント・モリではその祝宴が行われていた。祝宴といっても三人でこっそりと酒を呑んだくれ、駄弁るだけのものだがオヒトも男もバフォメットも、酒精に顔を赤くして幸せ一色といった風情であった。
 オヒトからすれば、これでやっと二人も自分の店で純粋に胃の腑を満たして、笑みながら帰ってくれるのが一番の吉報であろう。
 それにしてもなぜあの時は火照りがあったのかと、バフォメットは言うが、男の運命だったのだという惚気にそれもそうかと考えるのを止める始末だった。
 恬然としたカップルぶりにオヒトは苦笑いを漏らしながら、そっと自分の行いを顧みる。夫婦の果実を混ぜ込んでいたことを、墓場まで持っていくことを密かに決めながら、オヒトは再び酒の肴を二人に提供するべく、調理を始めた。
15/12/31 19:34更新 /

■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただければ幸いです。
一瞬自分のパスワード忘れかけて焦りました。

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