連載小説
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転:噛んだ痛みに戸惑われ
 聞き慣れた目覚ましの音で目が覚めた。
 通勤時間を知らせる地獄の鐘の音。黙示録の喇叭。と言うのは言い過ぎかもしれないが、いつ終わるとも知れない苦痛が再開されるのだと思えば、俺にとっての意味合いとしてはあながち間違いでも無い。
 日曜日は楽しかった。あんなに楽しい休日は本当に久しぶりだった。本当に、夢だったんじゃないかと疑ってしまうくらいに。
 けれど夢では無い。机の上に香水もあるし、鼻腔の奥にまだチコと一緒に飲んだ酒の残り香が残っている。
 ただ、バーの途中からの記憶が怪しかった。帰ってきた時の記憶が無い。
 俺は布団から抜け出し、部屋の各所を確認する。酔って帰ってきた割には、部屋の中は特に何の異常も無かった。昨日着ていた服でさえ、しっかりとたたんで洗濯かごの中に入っていた。
「意外とちゃんとしてたんだな、昨日の俺。さて、飯でも食って用意するか」
 朝の準備を進めながら、俺は自分がいつもと違っている事に気が付き始めていた。
 いつもならば逃げ出したくて辞めたくてたまらずに吐き気さえ覚える程にむかついている気分が、今朝は不思議と落ち着いていた。今ならこんな自分でも何かが出来そうな気がした。
 胃腸にも違和感は無く、身体も快調そのものだった。今なら二日連続で完徹しても耐えられそうだ。……いや、したくはないが。
 昨日、純粋に心の底から楽しめたからだろうか。
 それともあかすりマッサージの効果がまだ続いているのだろうか。
 だとすれば物凄い効果だ。こんな効果が得られるのならば毎日通ったっていいくらいだ。
「チコにも会えるし、今日も寄ってみようかな」
 昨日の夜を思い出して一人赤くなりながら、俺は急いで朝飯をかきこみ、通勤の準備を始めた。


 どんなに朝の気分が最高で快調だったとしても、やはり一日中怒鳴られ、なじられながら夜まで仕事をしていれば心身ともに疲れ切ってしまう。
 疲れた身体を電車に押し込むと、自然と身体は下りるべき駅では動かず、チコの居る店へと進み出した。
 週末に比べてひっそりとした盛り場を抜けて路地裏へ入る。
 昨日のころころと変わるチコの表情が蘇る。楽しげな声が、甘い匂いが、体温が。
 あまりに彼女の事を考えすぎたのか、路地に彼女の幻覚さえ見えて来るようだった。
「あ、厚司! やっぱり来てくれた」
 幻覚では無かった。
 路地裏。初めて会った場所に、彼女は今日もそこに居た。
「来てくれるんじゃないかって思ってたんだ。今日もしたいんでしょ? 案内するよ」
 チコは踊るような足取りで駆け寄ってくると、躊躇いも無く俺に腕を絡めて身体を押し付けてきた。
「なんか、そう言うお店の常連さんみたいだなぁ」
「お金目当てだって? 厚司、そんなにお金持ってるのぉ?」
「いや、持ってないけど」
 チコはきゃらきゃらと笑う。
「だから女も寄って来ない。チコは特別だったけど」
「ボクはお金なんて無くても、厚司と一緒に居られるだけで楽しいし、幸せ感じちゃってるからね」
 男が女に言われたい上位のセリフを言われ、思わず胸が熱くなる。涙腺さえ緩みそうだ。
「と言うか、見ていられなかったしね。行き倒れそうになってる人なんて初めて見たよ。この人にはもう、ボクが付いて無きゃダメなんだって思ってさ」
「そこまでか? いや、否定できない所が辛いが」
「ふふ。なんちゃって、冗談だよ」
 そんなやり取りをするうちに店に着き、受付の店長さんに軽く挨拶をして、この間と同じ部屋に入る。
 そしてこれまた前回と同じようにあっという間に服を脱がされてベッドに横たえられた。アイマスクを掛けられるところまで一緒だった。
「これ、今回はいらないんじゃないのか」
「え? いや、えっと。一応、ボクの技を盗まれないために、だよ。やり方が分かったら、厚司が来てくれなくなっちゃうかもしれないし」
 チコはなぜだか狼狽した様子だった。そんなに気にする事は無いと思うのだが、何か思うところがあるのだろう。
「別にやり方が分かったって手の届かない所もあるし、それにチコに会うために来るさ。外してもいいだろ?」
「だ、ダメ。お願い……」
 その心細い声は初夜に電気を消して欲しいと懇願する新妻のようで、何だかちょっと変な気分になりかける。
「分かった。そこまで言うなら」
「良かったぁ。じゃあ、始めるね」
 今日も例の軟体質とも粘膜質とも言えない、濡れそぼった感触の何かであかすりをされるのかと思いきや、チコはまず最初に俺の背中や肩のあたりに触れてきた。
 細い指が肩や背中の筋肉を確認するように撫でて来て、ちょっとこそばゆい。
「うーん。やっぱり疲れが随分溜まってるね。一回や二回じゃ無理そう。すぐにまた疲れやすくなっちゃう。何度か通ってもらった方がいいんだけど、どうかな」
「そうなのか? 昨日も今日も、自分でも驚くくらい快調なんだけど」
「でも、今は疲れてるでしょ?」
 反論できず、俺は低く唸る。
「こんな生活続けてたら、またこの間みたいに倒れちゃうよ。お仕事だから仕方ない部分もあるけど、定期的に通ってくれたら、疲れも取れやすくなるし、疲れにくくもなると思う」
「分かった。この時間まで営業しているなら帰りに寄れるし、何日かにいっぺん来ることにするよ」
 まぁ、俺としても元気になれるのであればここに通うというのもやぶさかでは無い。それにチコにも会えるとなれば、心身共に活気が出るというものだ。
 返事をすると、チコは本当に嬉しそうな声を上げた。
「ほんと? やったぁ。それじゃあ、あかすり始めるねぇ」
 触診が済むと、あの感触が背中に押し付けられた。
 感触が背中を這い回る。
 全身に鳥肌が立つような感覚が走り抜けてゆく。けれどもそれが心地よく、身体が温かく軽くなっていって、身体の芯から疲れがこそぎ落とされてゆくようだった。
 背中が終わり、うつぶせから仰向けに体勢を変える。
「厚司は毎日ちゃんとお風呂に入る人なんだね。ちょっとだけ残念かな」
「え? どうして? 綺麗にしている方がいいだろう?」
「でもお店に来る前日ぐらい入らなくても、その方が厚司の味……。じゃなくて、垢がいっぱい出せておいし……、ううん、やってて気持ちいいって言うか」
「よく分からないけど、じゃあ今度は来る前日は風呂に入らないようにするよ」
「本当? えへへ、ありがと」
 今度は身体の前側をマッサージされ、あかすりをされる。
 以前の夢ではこの後局部まで揉みしだかれ、いわゆる手コキをされて射精させられてしまったが、流石に現実でそんな事は無いだろう。
 そう思っていたのだが。
「ウッ。チコ? 何をしているんだ」
 身体の前側が終わったと思ったら、パンツを下ろされて局部にあの感触を巻き付けられていた。
 まるで生き物の舌のような、ねっとりと吸いついて来るあの感触。それが今回も隙間無くみっちりと竿と睾丸を覆い尽くし、蠢き始める。
「何って、特別サービス」
「でも、ここは性的なお店じゃ、無いんだろ」
 話をしながらも、俺は着実に追いつめられてゆく。実際のところ、昨日の夜もキスの感触を思い出しては悶々としてしまい、欲求不満で仕方なかったのだ。
 抵抗しようにも気持ち良すぎて手足に力が入らず、腰も砕けてどうしようもない。
「いいの。ボクがしたいの。厚司に気持ち良くなって欲しいし、気持ち良くなってる厚司を見たいし、それに厚司は気持ち良くなれるし、一石二鳥でしょ」
「それは、いや、だけど……」
 動きは次第にねちっこくなってゆく。睾丸を優しく揉み上げられ、肉棒を根元から絞り上げるように揉みしだかれる。ねっとりした粘膜質のそれが裏筋に合わせて吸い付き、擦り上げ、かりを舐め上げるように動き回る。
 何度も、何度も。俺のカタチを確かめようとするかのように、丁寧に繰り返される。
 押しては返す官能の波に、俺は追い詰められてゆき、そして。
「くっ。チコ、もう出るっ」
「いいよ。我慢しないで、全部出しちゃって」
 あっけない程簡単に、解き放ってしまった。
「あ、あああっ」
 腰が跳ね、手足が震える。下半身が脈打ち、欲望が迸る。
 見る事は出来なかったが、身体の中で煮詰められていた分、射精の勢いは相当なように思われた。それだけ、快楽も強烈だった。
「ん、あ……、厚司の、すご……」
 罪悪感が無いわけでは無かった。けれど、それを余裕で忘れてしまうくらいに気持ちが良かった。
 やがて射精が落ち着き、最後に例の軟体質が鈴口を拭い取ったところで、チコの一連の特別サービスは終わった。
「気持ち良かったでしょ? いっぱい射精してたもんね。何も言わなくても分かっちゃうんだから」
 全身から力が抜けて、俺は放心しながら考えていた。
 前回のは夢では無かったのだと。好きな人にこんな事をさせ続けてはいけないと。
「また来てね。毎回、気持ち良く抜いてあげるから」
 俺は気の抜けた頭でぼんやりとそう思いながらも、しかし同時に次にいつ来ようかとも考え始めてしまっていた。


 その日から俺の生活は変わった。
 チコの店に二日に一回。予定が入ってどうしても駄目な時でも三日に一回は通うようになった。
 睡眠時間は少し減った。しかしチコにあかすりをしてもらった翌日は、一緒に抜いてもらっているにもかかわらず、ぐっすり寝て休んだ時よりもずっと体が快調だった。
 疲れが少しずつ無くなってきたおかげか、仕事でミスをする事も少なくなり、上司やお客の理不尽な要求にも精神的に少し余裕を持てるようになってきた。
 休みが合えば二人でデートもした。
 俺達は、もう胸を張って恋人と言える関係だった。
 仕事も少しずつ好転し始め、本当に奇跡的な事に彼女も出来た。幸せになった、と言っても何の問題も無かった。
 けれど、手に入れば手に入るだけ欲深くなるのも人間の業らしい。俺はそんな幸せな生活の中にも、以前には無かった物足りなさを感じ始めてしまっていた。
 チコと俺は恋人同士になった。手を繋いだりキスをしたりと言った事も普通にするようになった。互いの事を知り、より大切に思うようになった。けれど、俺は今の関係に不満もあった。
 それこそキスくらいなら出会ってすぐにでもしていたのだ。俺は、もっと二人の関係を進展させたかった。
 マッサージをしてくれる時もそうだった。仕事をする彼女の姿を見たくて、何度もアイマスクを外したいと頼んでいるのだが、彼女は頑として外す事を許してはくれなかった。
 俺とチコの間には、まだ肝心なところで壁がある。小さなことではあったが、俺にはそれがどうにも気になって仕方なかった。


 金曜の夜。珍しく土曜も日曜も休みが許された週末に、俺は一つの決意を固めてチコに店に向かった。
 いつものように通りで待っていてくれていたチコと合流し、雑談を交わしながら部屋に入る。
 そして裸でベッドにうつぶせに寝転び、アイマスクを付けられてあかすりが始まった。
「あのね。ボクの友達の女の子なんだけど、彼氏がなかなか出来ないってすっごく悩んじゃってて。色々相談されてるんだけどね」
「うん」
「料理とか洗濯とか、家事全般も凄く出来る子で、スタイルもいいし、性格も凄く尽くすタイプだし、どうして恋人が出来ないのか不思議なくらいなんだけど」
 会話に夢中になっている間に、俺は少しずつ腕を動かしてゆく。腕で枕を作ろうとする動きに見せかけて、目元に手を持って行く。
「ボク、大事なのは出会いだと思うんだ。ボクが厚司と会えたのも、偶然と言うか、運命と言うか。……ボク達みたいな出会い方じゃなくても、いい人に会えればきっと上手くいくと思うんだ」
「そうだな。相手が居なければ始まらないし」
「でしょ。だから、良かったら厚司の知り合いを紹介してあげられないかな? 周りからダメな奴って思われてる人でも、むしろそう言う人の方が、あの子は喜んで尽くしてくれるだろうし」
「ああ、構わないよ」
「本当? ありがとう。彼女も喜ぶよ」
 俺は気付かれないよう、そっとアイマスクを外す。
 うつぶせなので首を回さないとチコの姿は見えない。が、視線を巡らすと姿見の鏡があった。俺とチコの姿もばっちりと映り込んでいた。
 裸で寝転ぶ俺と、薄い生地の丈の短い浴衣姿のチコ。二人の影が重なっている。
 この感触の正体は何なのだろうか。長い間の疑問を解決すべくチコの手元を見るが、彼女は何も持っていなかった。それどころか、両手はベッドに置かれているだけで俺の身体には触れていなかった。
 しかし、例の感触はまだ背中を這い回っている。
 焦りながらも自分の背中に目をやると、確かにそこには細長い蛇のようなものが押し付けられていた。
 それは長く伸びて、チコの口の中に繋がっていて……。
「え? チコ?」
「なぁに、厚司」
「お前、舌……」
 チコの動きがぎこちなく止まる。鏡を見て、俺のアイマスクが外れている事に気が付いて表情を凍りつかせる。
「な、見ちゃダメって、言ったのに……。どうして」
「だって、気になるだろう。好きな人が、どうやってしてくれてるのか」
 俺は起き上がって、チコに向き直り。
 そして言葉を失う。
「そっか。好きだった人が、どんな風にしてくれてたか分かって、どんな気持ち?」
 チコは寂しそうに笑い、そして涙を流していた。
 俺は狼狽する。なぜチコが泣いているのか考える以前に、彼女が泣いているという事実に打ちのめされ、そしてその原因は俺にあるという事だけは分かって、全身が寒くなる。
「チコ。ちょっと待ってくれ。俺は別に」
 チコは首を振る。涙が飛び散る程、激しく。
「もう、おしまいだね。ごめん」
 止める間もなかった。チコは踵を返して、部屋を飛び出していってしまった。
 俺は、呆然とそれを見送る事しか出来なかった。
 何が起こったのか理解できなかった。分からないことだらけだった。
 なぜ彼女の舌があんなに長いのかも分からなかったし、舌であかすりをしていた理由も分からなかった。そして、彼女が泣きながら出て行ってしまった理由も。
 色々な事に圧倒されて、その場から動けなかった。
 だが、それが一番最悪な選択だったのだとすぐに気が付いた。本当なら、裸のままであったとしてもすぐに走って追いかけて抱きしめるべきだったのだ。
 俺は頭を掻きむしり、ベッドの端に拳を叩きつけて、八つ当たりしている自分に自己嫌悪する。
 歯噛みし、気付けなかった自分に怒りながらも、俺は自分がどうしたいのか、その為に今の自分に出来る事は何かと考える。チコを離さずにいるには、どうしたらいいのかと。
 答えは、意外にもすぐに出た。
 俺はすぐに服を身に付けて受付に向かった。


 受付では、店長さんが落ち着かない様子で出口の方を気にしていた。
 彼女は俺の姿を認めると、すぐに駆け寄ってきた。
「あ、厚司さん。何かあったの? チコちゃんが血相を変えて出て行ってしまって。……何だか、泣いてるように見えたのだけど」
「俺が、チコのあかすりをしている姿を見てしまって」
「それで、どうして?」
「チコは舌であかすりをしていたんです。俺はそれを知らなくて、見るなって言われていたんですが、見たくて仕方なくて、約束を破って見てしまって」
 店長さんは俺の話を聞いて合点がいったようだった。そしてすぐに表情を曇らせる。
「そう、チコちゃんまだ言ってなかったんだ」
「言って、無かった?」
「私達の正体の事。厚司さん、私達は人間じゃないの。最近テレビやインターネットで噂されている、魔物娘って言う存在なの」
 人間の美人のお姉さんにしか見えない店長さんは、ごくごく真面目な口調でそんな事を言う。けれど、いきなり自分達は人間では無いなんて言われてもわけのわからない冗談にしか聞こえなかった。
「信じられないって顔ね、これを見ても、そう言っていられるかしら?」
 店長さんはそんな事を言うと、目を閉じて大きく深呼吸をし始める。
「ん、んんんっ、あ、ああぁん」
 急に目の前で艶っぽい声で喘ぎ出され、わけがわからず一体何なのだと訝しみ始めた時だった。
「嘘、だろ」
 頬を染めている店長さんの、その頭から一対の角が生えた。続いて布を裂くような音と共に背中に翼が生え、スカートから尻尾が姿を現す。
 その姿は、色仕掛けで男をたぶらかす女悪魔、サキュバスそのものだった。
「これが本当に私。いつもは魔法で姿を変えているってわけよ。どう? 信じてくれるかしら?」
「まさか、マンガじゃあるまいし……。いや、でも、流石にこんなものを目の前で見せられたら……」
「私達は、いわゆる別の世界からこの世界にやって来たの。私達の世界には、この世界では伝説とか神話の存在とされている魔物が、この世界とは少し違った形で存在している。
 姿形と生態がまるで違うのね。私もそうだけれど、私達の世界では魔物はみんな女の子の姿をしているの。だから魔物"娘"なのよ」
「な、なるほど」
 何だか、変身した事で店長さんの雰囲気ががらりと変わった気がした。心なしか、しゃべり方も違っている気がする。
「男の魔物はいないの。女の子しか居ないから、子供を残すためには人間の男の人と交わらなければならない。私達がこの世界に来ているのは主にその為よ。要は子作りに来てるってわけ。
 向こうにも男は居るけど、まぁ出会いの可能性は多い方がいいじゃない?」
 ファンタジー世界の魔物が、女の子の姿形で存在している。しかも人間の男としか子を残せない。そんな世界が本当にあるのだろうか。
 けど待て。姿は女の形をしていたとしても、食性が魔性であるのならば、人を喰うような種族もいるんじゃないのか? あるいはカマキリみたいに、事が終われば喰い殺してしまうのでは……。
「サキュバスって、男の精を吸って殺してしまうんじゃ?」
「そんな事しないわよ。人間の男の人としか子を残せないのに、殺していたんじゃ子孫を残せないじゃない」
「なるほど、まぁそうですね」
 確かに、そうだ。単純に男の精液を摂取し、喰らう事が目的だとすれば、チコはやろうと思えばいつだって出来たはずだ。
 必要以上に俺に親切にする必要もないし、恋人のふりを続ける必要だって無い。正体が分かって、泣きながら逃げる事だって無いはずだ。
 ならば、なぜチコはあんな風に俺に接してくれた? どうして出て行ってしまった?
 短い間ではあるが一緒の時間を過ごしてきた俺だ、ここまで条件が揃えば答えは何となくは分かった。けれどそれでも、理由をチコの口から聞きたかった。自分の気持ちも伝えたかった。
「それに、セックスの相手との気持ちも大事だと思っているのよ? 愛し合う夫婦の方がお互いを大切にし合えるし、子供だって大事に育てられる。私達は子供が出来にくいから……。
 あとは好きあってる者同士のセックスの方が断然気持ちいいし燃え上がるしね。どうせ子作りするなら気持ちいい方がいいじゃない?」
「はぁ……」
「あ、もしかしてそれなら何人もの男をとっかえひっかえすればいいんじゃないかとか思ってるかしら。だとすればそれは誤解よ。サキュバスとは言え私達はそれほど尻軽では無いし、それに大人数を相手にするよりは一人の相手を選んで、その人に自分の魔力を馴染ませることで、より自分を孕ませやすい自分だけの旦那様にした方が着床率も」
「えっと、分かりましたから、俺からもお願いしていいですか?」
 店長さんは虚を突かれたのか、しばらくぽかんとした後、口を開いた。
「何かしら」
「チコがどこに行ったのか、心当たりはありませんか」
「追いかけるの? 私達が人間では無いって分かっても?」
「確かに、それは重大な問題だとは思います。ちゃんと考えなきゃいけない事なんだって頭では分かるし、自分がやろうとしている事が正しいのかも分からない。
 けど俺はチコが好きなんです。大切なんです。好きな人が自分のしでかしたことで泣いて出て行ってしまったら、すぐにでも謝って誤解を解かなきゃ。ずっとそばに居て欲しいから」
 そのときの店長さんの表情は、なんとも表現しづらい物だった。
 何だか呆れているような、羨ましがっているような、眩しい物でも見るような、そんな顔をしていた。けれど淫魔だからだろうか。そんな彼女の表情も、とても魅力的なものに見えた。
 ……もっとも、チコの笑顔が一番である事には変わりはないのだが。
「分かったわ。あの子の探し方を教えてあげる」


 店を出て通りに出た俺は、目を瞑って心を落ち着かせ、チコの事を頭に思い浮かべる。
 チコの笑顔、チコの声、チコの匂い。
 イメージしているうちに、不思議と彼女が通りの奥の方へと走っていったことが分かってくる。姿が見えたような、足音が聞こえたような。感覚的に言うなれば、感じた。と言うのが一番近いだろうか。
 俺は第六感が命じるまま、そちらに足を向ける。
 交差点に来てまた同じようにイメージし、彼女の進んでいった方向を感じ取る。そして、そちらに歩いてゆく。
 これが店長さんに教えてもらった、チコの探し方だった。

『あなたはチコちゃんに何度も舌で全身を嘗め回されているし、セックスまではしていなくても、キスは何度もしているでしょう。そんな顔しないでよ、チコちゃんから聞いてただけよ。別に見てたわけじゃ無いから。
 つまりね、それだけチコちゃんと接触していれば、もう十分あなたの身体にはチコちゃんの魔力が染み渡ってるの。
 本当なら、チコちゃんはあなたとしたくてしたくてたまらないはずなんだけど。あの子は我慢強いというか、頑固な所と言うか、自分を抑えようとするところがあるのよねぇ。
 もっとも魔力の影響はあなたにも強く出ているはず。あなたも、チコちゃんとしたくてしたくてたまらない。違う? ふふ。図星ね。
 その欲望の命じるままに、感じるままにチコちゃんを探すのよ。あの子はそこに居る』

 俺は店長さんの言葉を思い返しながら、必死でチコを探し続ける。

『チコちゃんの事、大事にしてあげてね。あなたはチコちゃんを変えてくれた。チコちゃんにとって世界にただ一人の、運命の人なんだから。
 そうは見えないかもしれないけど、あの子はもともと引っ込み事案で、後ろ向きなところがあったのよ。
 大人しくて暗いところもあるけど、そんな自分を押し殺してみんなに合わせて明るく振る舞ってしまう。けどそれが嘘をついているように思えて、自分が好きになれない。あの子はそんな子よ。
 でも、あなたの前では自然に楽しい気分になってはしゃいでしまうんだって。演技じゃ無く、明るく振る舞えるんだって言ってたわ。
 デートの時の洋服選びも手伝ったし、色々と相談も受けて来た。嫌われないためにはどうしたらいいだろうって、何度も聞かれたわ。
 まぁ、そんな必要無かったみたいだけれど。
 チコちゃんはあなたの事大好きよ。間違いない。
 あ、あととても大事な事を教えるわね』

 夜の街を走り回り、俺はついに、チコの住んでいるアパートまでたどり着いた。

『チコちゃんは、処女よ』

 何号室か確認するまでも無かった。それほどにチコを強く感じていた。
 俺はチコの部屋の扉の前に立ち、インターホンを押した。


 返事を待つ時間は、数分にも数時間にも思えた。
「……厚司」
 扉は開かなかった。けれど、チコの声が聞こえてきた時は歓喜と安堵で膝が崩れそうになってしまった。
 俺は深呼吸して、焦る自分を落ち着かせる。
「酷いじゃないか。いきなり途中で出て行っちゃうなんて」
「だって。見ちゃダメって言ったのに、厚司が」
「それは悪かったと思っている。素直に謝るよ。
 でも、もっとチコの事を知りたかった。チコとの距離を縮めたかった俺の気持ちも、分かって欲しい」
 返事は帰って来なかった。
 焦りで胸が避けそうになったその時、かちゃり、と鍵の開く音が響いた。
 ドアの隙間にチコが顔をのぞかせて。
「入って」
 それが、彼女の答えだった。
15/05/05 00:43更新 / 玉虫色
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■作者メッセージ
と言ったところで、急展開の章でした。
なまじ人の形に近い分、わずかな違いに悩む魔物娘も中には居ると思うんですよね。(まぁ大体の魔物娘は関係無く襲って来そうですが)
図鑑のあかなめの『陰気』の解釈の一つだと思って頂ければ……。

次章で完結となる予定となっております。
展開については、大体予想される通りかと思われます。


楽しんで頂けたら嬉しいです。
ここまで読んで頂きありがとうございました。

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