連載小説
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その2
 
 
 
 
 「追いだしたらしいな」
 「これまた耳が早い」
 
 久々に顔を出したエイハムの診療所で開口一番にそう言われてしまいました。あの一件から既に三日経ちましたが、まだ世間的に噂話になるのは早いでしょう。この男性がまだ一線を引いて尚、独自の情報網を持っていたのを感じ、私はこれ見よがしに溜め息を吐きました。
 
 「そんなにあのエルフの事が気になりますか?」
 「仮にも医療に携わる者として、全ての患者の事は気にかけている」
 
 刺々しい私の言葉をさらっと受け流しながら、エイハムはそっと白亜のティーカップを傾けました。時刻は昼を少し回ったくらいで、場所はエイハムの経営する診療所の待合室です。ちょっとしたリビングも兼ねるそこでこの男性は自慢のコーヒーに舌鼓を打ちながら、優雅に椅子へと腰を下ろしているのでした。
 
 「その為にわざわざ昔馴染みを頼ってですか?まさか貴方に衆道の気があるとは思いませんでしたよ」
 「困るとすぐに人を挑発して誤魔化そうとするのはお前の悪い癖だ」
 「貴方の分析力には頭が下がりますよ本当に」
 
 嫌味の言葉をどれだけ投げかけても、この男性は飄々とした態度を崩しません。やはり年季というものが違うのでしょうか。魔物娘を受け入れ始めた黎明期からレッドスライムを嫁にし、世間の好奇の視線や噂話の対象になってきたエイハムにとってはこの程度、痛くも痒くもないのでしょう。自分より二十年は先をいっている大先輩のそんな様子に溜め息を一つ吐きながら、私は彼の対面で肘を着きました。
 
 「まぁ、あの容姿なら誰かがすぐに拾うでしょう。魔物娘でもそう言った趣味の相手…いえ、貴方のような趣味の持ち主でも、引く手数多でしょうし」
 
 無駄だと分かっていても、私は彼に嫌味を言うのを止められません。それにエイハムは肩を落とすようにしながらも、表情を変える事はありませんでした。相変わらずの鉄面皮に感心すらしながら、私はそっと明後日の方向へと視線を彷徨わせます。
 
 「おや、嫉妬か?」
 「は?」
 
 そんな私へと投げかけられた予想外の言葉に私は思わず聞き返しました。それも当然でしょう。誰が何に対して、誰に向かって嫉妬しているのか。その全てがエイハムの言葉からは抜け落ちていたのです。この状況では到底、相応しくないその言葉に私の理解が追いついていないのも当然でしょう。
 
 「だってそうだろう?今のお前はまるでお気に入りの玩具を取られたような顔をしている」
 「何を馬鹿なことを」
 
 ― そう。馬鹿な事です。
 
 お気に入りの玩具とはきっとあのエルフの事でしょう。ですが、それを仮住まいから追い出したのは間違いなく私です。もう彼との接点全てが面倒になった私は保護者と言う被保護者と言う関係を打ち切り、彼を住居から追い出したのですから。生活費の供給も打ち切った彼がどうしているのかを私はもう把握していません。そんな私が彼のことをどうこう思っているということほど馬鹿げた話はないでしょう。
 
 「では、どうしてわざわざここに顔を出しに来たんだ?」
 「久しぶりの休日ついでに冷やかしですよ。後、最近、疲れて眠れないので薬でも貰おうかと思っただけです」
 「ほぅ。俺はてっきりここにあの青年を匿っているからだと思っていたが」
 「だから…関係ないって言っているでしょう?自説を信じるのは勝手ですが、それを他人に押し付けるのは程々にしてください」
 
 あまりにしつこい態度に思わず苛立ちの声をあげました。まるで自分の考えをごリ押すようなそれに耐えてやるほど今の私は大人ではありません。ただでさえ、この一ヶ月間、青年が起こした事件を収拾するのに大忙しであったのです。眠る暇さえ殆ど取れなかった日々は私の心から余裕と言うものを奪い取っていったのでした。
 
 「おや、知っている事自体は否定しないんだな」
 「っ!」
 
 エイハムの鋭い指摘に思わず言葉を詰まらせました。確かに…どうしているのか知らないとは言え、場所の把握程度はしています。しかし、それは別に自分から能動的に調べたのではありません。最後の事件を任せたウィルソンが「最後のチャンス」と言って、彼を釈放し、その足取りまでを馬鹿丁寧に教えてくれたのです。私としてはもう彼に興味など持っていないので、話半分程度にしか聞いていませんでしたが、知らなかったといえば嘘になるでしょう。
 
 「そもそもお前はどうしてそこまで苛立っているんだ?」
 「そんなもの…あのエルフ君が起こしてくれた事件のお陰で各所に謝りっぱなしだったからに決まっているでしょう?この一ヶ月間は殆ど寝る暇もなく動き続けていたのです。精神的余裕なんて殆どありませんよ」
 「それだよ」
 
 肩を落として言った私の一言もこの傲慢な男には届かなかったようです。まるでそれが確信だとばかりに空いた手で私を指差しました。その無礼な仕草に何か嫌味の一つでも言ってやろうと思いましたが、どうせこの男性には届きません。それならば、思いっきり馬鹿にした態度を取ってやろうと私は眉を吊り上げて、そっと口を開きました。
 
 「は?」
 「お前とあの青年との縁は三日前に切れている。それなのに、どうして未だ事後処理に走りまわる必要があるんだ?」
 
 ― そんな私の態度をまるで気にせず、言い放たれたエイハムの言葉に私は言葉を止めてしまいました。
 
 確かに彼の言う通りです。既に私と彼の関係は切れているのですから、最後の事件を穏便に済ませる為に各所へ頭を下げる必要などありません。あの時点では私は未だ彼の保護者であったとは言え、その義務は書類と苦情処理だけで十二分に済ませているでしょう。彼が少しでも街に受け入れられるようにと走りまわる必要はもうないのです。それなのにどうして私は未だそれに走り回っているのか。自分でも分からないその問いに私は一分ほど考えてから口を開きました。
 
 「…所謂、最後の情けって奴ですよ。深い意味はありません」
 
 結局、思い至ったのはそんな当たり障りのない答えでした。しかし、それ以外にはどの答えもしっくりこないのです。元々、エルフに同情的であった私は庇護下には置けずとも、彼の為に色々してやろうと考えていました。それは結局、彼を甘やかす結果にしかならなかったようですが、そう思った事自体は否定しません。そして、その感情が「どうでもいい」と投げ捨てた彼の最後の尻拭いをさせているのでしょう。
 
 「なんだ。つまりまだあの青年に情が残っているんじゃないか」
 「詭弁ですよそれは」
 
 我が意を得たりとばかりに口を開くエイハムに私は肩を落としながら言いました。けれど、彼はそれを特に何とも思っていないようです。その澄ました表情を崩さないまま、そっとコーヒーカップを傾けていました。
 
 「次に何か事件を起こしたらもう何もするつもりはありませんよ。その義務もありません。寧ろ今まで迷惑を掛けてくれた分、嬉々として捕まえに行きますとも」
 「そうか」
 
 私の言葉を言い訳とでも思っているのでしょうか。優雅さすら纏わせてカップを傾ける仕草には何の翳りもありません。その余裕ぶっこいた顔を何とか歪ませてやりたいと思いますが、今の余裕のない私ではこの男性に太刀打ちすることは出来ないのです。私に出来る事と言えば、精精、これ見よがしに溜め息を吐いてやる事くらいです。
 
 「まぁ、紆余曲折ありましたが、人の分析が大得意な貴方に拾われたのであれば今度こそ更生するでしょう。私が出張る必要は二重の意味でもうないと思っていますよ」
 
 ― それは少しばかり嫌味の色が強くはありましたが本心でした。
 
 少なくとも私の保護下にいるよりは一般的に人格者と呼ばれる――私自身がエイハムをそう判断しているかは加味しないで言えば、ですが――この男性の下の方がよっぽど彼の精神的健康にも良いでしょう。彼は自身の甥っ子に手を差し伸べられない事を悔やみ、悩んでいますが、私の知る中でもかなりの包容力を持つのですから。私の嫌味を右から左へ華麗に受け流すエイハムがエルフの言葉の刺くらい受け止められない訳がありません。きっと私が詰った青年の心もエイハムの下であればすぐに癒える事でしょう。ここ数日はあの青年が何かしら事件を起こしたという話も聞きませんし、これから街に馴染む事も期待出来るかもしれません。
 
 「そう思うか?」
 「えぇ。寧ろ貴方以外の誰に任せられるかって話なんですが」
 
 基本的に敵対しなければこの男性は穏和で、包容力もあるのです。私のように中途半端な立場ならばともかく、根が善人なエイハムは住処を二度追い出されたエルフを決して無下にはしないでしょう。謙遜こそしますが、エイハムは心のケアにも通じている博識な男性です。その知識を発揮し、精神的にも余裕を持つエイハム以上の適任者は私にはどうしても思いつきません。
 
 「その青年が私と一度もマトモに会話したことがないと知ってもか?」
 「…は?」
 
 そんなエイハムからもたらされた言葉は私にとって予想外も良い所でした。何せこれまで私が保護者になる事や住居の手配をしている事などは全てエイハムを通じてあの青年に伝わっていたはずなのです。そのエイハムがあの青年と会話したことがないなんて質の悪い冗談か嘘にしか思えません。
 
 「冗談だと思うか?しかし、事実だ。私たちのコミュニケーションは全て私たち――私と妻が問いかけ、彼が首肯を示す形で行われている」
 
 そっと手に持ったカップをソーサーへと戻し、エイハムがそっと溜め息を吐きました。何処か苦悩を感じさせるそれは演技ではなく、心からのものなのでしょう。そこにはまるで心を開く様子のない患者の姿に思い悩む医者の姿があるのですから。しかし、それが演技ではないと知っても私は信じられません。何せ、私とエイハムの容姿は比べるまでもなく前者のほうが善人らしいのです。
 清潔感のあるように切り揃えられたディープブルーの髪は暖かな太陽の光の下で人を安心させるような輝きを放っていました。知性と包容力をたっぷりと湛えた瞳は無条件な信頼感を掻き立てられるものです。顔立ちもエルフほどでなくとも整っており、すっきりとした男らしさに溢れていました。身体つきは一見華奢ですが、よくよく観察すればその白衣と白いシャツの下には整った筋肉があることが分かり、彼の長身と含めて独特の信頼感を与える姿をしています。
 そんな『ザ・善人』とも言うべき姿をしているエイハムに口を開かず、私には返事を返すというのは俄に信じがたい事でした。エルフと人間の思考回路を同列に並べるのは問題があるかも知れませんが、普通は逆のはずです。
 
 ― と言うか、そもそも…。
 
 「それじゃあ、あの青年をどうやって匿ったんです?それこそ無理矢理、連れてきた訳じゃないでしょう?」
 
 かつてこの街で最も恐れられていた者の一人とは言え、エイハムは基本的には善人です。相手の嫌がることは出来るだけしないようにするでしょう。そんな彼が幾ら見過ごせないとは言え、無理矢理、あの青年を連れ込むとは思えません。その辺りの事はウィルソンにも聞いていなかったので適当に説得して連れ帰ったのだと脳内変換していたのです。
 
 「何、身なりの悪い若者たちにリンチされ、気絶していた彼を奪い取り、逃げ帰っただけだ」
 「…は?」
 
 ― そんなエイハムの言葉は二重の意味で信じられないものでした。
 
 魔物娘が闊歩するこの街も決して治安が絶対的に良いとは言い切れません。他の都市よりも圧倒的に凶悪事件が少ない自信はありますが、それでも不良というカテゴリーに入る若者――勿論、この中にはエイハムの甥っ子も入りますが――もまだまだ残っているのです。きっとそんな連中に絡まれたのでしょう。仮にも治安に関わるものとしてその事実に心痛まないわけではありませんが、さほど驚くべき事ではありません。
 
 ― 私が驚いたのは彼がこのエルフの青年が気絶したという言葉です。
 
 この青年から挑発したのであれば、彼は躊躇なくその魔術を使ったでしょう。そして、使ったのであれば囲んでリンチするしか能がないような低能共に負けるはずがありません。しかし、彼はそれをしなかった。のであれば、彼にとって不測であった事態である可能性が高いのです。
 
 ― …しかし、どうして魔術を…。
 
 ただでさえ、彼はその傲慢な態度と何時爆発するか分からない気性から街の人々に恐れられ、忌み嫌われているのです。今までの人間を見下す――と言うより恐怖していた彼であれば躊躇なく魔術を使っていたでしょう。しかし、あの青年はリンチと言う命の危機が迫るまでそれをしなかったのです。それは本格的に自暴自棄になり、死んでも良いと思ったのか、それとも――。
 
 ― …私の為…?
 
 エルフは元々、聡明な種族です。自分の起こした騒動の大きさくらいは良く理解しているでしょう。その度に関係者各所に頭を下げる私の姿だって想像出来ていてもおかしくはありません。だから、これ以上、騒ぎを起こさないように我慢した…と言う事だって考えられるのです。
 
 ― …何を馬鹿な事を。
 
 勝手に想像が膨らんでいくのを自覚して、私は思わず自嘲を胸に浮かばせました。これはあくまで想像です。そもそも私の為に彼が魔術を我慢したと思うほど、自意識過剰ではありません。私と彼の間には未だに深い溝が横たわっており、そう思われるほどの心理的距離には決して無いのです。それよりも本格的に自暴自棄になったと考えるほうがよっぽどしっくり来るでしょう。
 
 ― それでも…それが離れないのはどうしてなんですかね。
 
 あの日、去り際に浮かべた彼の捨てられた犬のような表情が脳裏に浮かびます。縋るようなその視線を私は胸糞悪いと内心、吐き捨てていました。勿論、今だってそうです。街の中で騒ぎを起こした臆病さを隠すために偽悪者を気取り、人に多大な迷惑を被らせたあのエルフは未だに許せはしませんし、どうだって良い相手でした。しかし、それでも、彼の最後の表情が、先の考えを切り捨てる事を許さないのです。
 
 「それでも多少は話したでしょう?」
 
 こべりついたその考えを振り払うように私は再びエイハムに問い直しました。しかし、彼はそれを首を振って否定します。何処か残念そうな色が浮かぶその姿はやはり医療関係者としてかなりショックだったからなのでしょう。エイハムは出来ない事を出来ないと割り切る事の出来る強さを持っていますが、医療関係にいるだけあって人の傷には敏感な男です。目に見える人の悩みを解決できない事に思い悩んでいてもおかしくはありません。
 
 「目を覚ました時には多少、話しかけたがな。それも首肯だけで碌な会話が出来ていない。そもそも、今は部屋に閉じこもって出てこない始末だ。食事も誘ってもまるで出てこないので、部屋の前に置いているのが現状だな。一応、時間が経てば空になった食器が出ているので食べてはいると思うが…」
 「それは…」
 
 まるでコミュニケーションを取るつもりのないその態度に思わず頭痛を感じてしまいました。自分から殻の内側に篭るようなそれは完全にエイハムたちを拒絶しているに他なりません。私の訪問に答えなかった時もそうだったが、困った時に内側へと篭ろうとするその癖は割と切実に何とかして欲しいと思います。
 
 「まぁ、根気よく接してみるよ。ただ…一つだけ言わせて貰えるとすれば…だ」
 
 そう言いながらエイハムはそっと視線を落としました。その目を追えば、ゆらゆらと揺れる褐色の水面が目に入ります。まるで逡巡する彼の心を表しているようなそれを見ながら、私は彼が再び口を開くのを待っていました。
 
 「彼は身体的には健康で何の問題も――この言い方は彼からすれば不適切かもしれないが、ともあれ命の危険に晒されている訳ではない。彼が問題を抱えているのはあくまで心の問題だ」
 「…それで?」
 「心の問題というやつは…感情に左右される面が強い。つまり…個人差が激しいんだ。そして…それが故に知識を持つ有象無象が放つ万の言葉よりも、心を開きかけた相手から受けた一つの言葉の方が効果が高い」
 
 ― エイハムの言いたい事は少しずつ私にも分かってきました。
 
 つまり自分よりも彼とコミュニケーションを取る手段を持っている私の方がより効果的に彼を癒せると言いたいのでしょう。それは門外漢である私にも何となく分かります。有象無象に何と言われても気にならない言葉が執着を感じる相手に言われるだけで辛いなんて想像するまでもない自明の理でしょう。しかし、かと言って、私が彼を癒せるかどうかは必ずしも=ではありません。
 
 「言いたいことは何となく分かりますよ。しかし、私と彼では性格が不一致が過ぎます」
 
 接触は短い間でしたが、あの青年は言われたら言い返さなければ気が済まない性質であると分かります。そして、それは彼にとって不幸なことに私も同じであるのでした。お互いに言い返さなければ気が済まない二人が一緒にいては延々とヒートアップしていきます。その結果、彼を傷つけてしまう事になるのは今からでも眼に見えている結果です。
 
 「不一致…な。私はむしろ逆だと思うんだが」
 「逆?」
 「つまり…お前と彼はとても似ていると言う事だ」
 
 そう言い放ち、我関せずとばかりにカップを傾ける彼に私は肩を落としました。確かにそれは認めざるを得ません。彼の言動一つ一つが妙に癪に障るのもきっとあの青年が私に似ているからでしょう。あの最後の事件にしてもそう。偽悪者を気取る姿があまりにも自分に酷似していたがゆえにあれほどの怒りを抱いたです。少なくとも…少しだけ冷静になった今ではそう思えるのでした。
 
 「だからこそ、お前は彼が嫌いで、苦手で、けれども、放っておけないんだ」
 「随分な分析ですね。まぁ、否定はしませんけれど」
 
 どうでも良いと投げ捨てて置きながら、今もこうして彼のことを気にかけている。一緒にいれば彼を傷つけてしまう。そんな矛盾した感情を抱くのは彼がどれだけ見まいとしても視界に入ってしまう自分自身に似ているからだ。そう言われれば、薄々、自分でもそう思っていただけに納得も出来ます。しかし――
 
 「だからこそ、私には貴方が彼という面倒事を押し付けようとしているようにしか見えないんですがね」
 「随分な言い様だな。まぁ、否定はしないが」
 
 お互いに先の相手の言葉をもじりながらの切り返しに私たちは苦笑めいた笑みを浮かべました。こういう時だけ気が合う事に妙なムズ痒さと居心地の悪さを感じながら、私は椅子から立ち上がります。ガタンと言う決して小さくない音と共に立ち上がった私を見上げる彼の視線は先程よりも幾分、穏やかなものに変わっていました。きっと多少は気が紛れたのでしょう。
 
 「帰るのか?」
 「えぇ。このまま居ても出てくるのは説教ばかりで睡眠薬一つ出しては貰えないみたいですし」
 
 嫌味を込めたその言葉に座ったままのエイハムがそっと肩を落としたのが見えました。「やれやれ」と全身で表現するようなそれにもう反発は感じません。私も彼とこうして話をして多少は気も紛れたのでしょう。そう思えばここに来たのはそう無駄では無かったような気がしました。
 
 ― まぁ…何だかんだで安心したんでしょうね。
 
 きっとエイハムの言うとおりなのです。私はあのエルフの青年のことを今も尚、気にかけてしまっているのでしょう。自分から放り出した癖に気になるとか、どれだけ面倒臭い男なんだ、と自嘲が胸の底から沸き上がって来ました。自分には所謂、「ツンデレ」気質はないと思っていただけに意外ですらあります。しかし、どれだけ否定しようとしても、あのエルフの近況を聞いて、身体が軽くなったのは否めません。
 
 ― それに…まぁ…。
 
 自分の中でもやもやとしていた彼への嫌悪感をはっきりと口にされて自覚できたと言うのも大きな収穫の一つでしょう。自分の中で定義のし辛い感情と、はっきりと分かりきった感情では後者の方がよっぽど御し易いものであるのです。エイハムの言葉によりはっきりと自己嫌悪を投射しているだけだと理解できた今、彼に多少は優しくなれるかも知れません。
 
 ― まぁ、もっとも…もう会う事はないでしょうが。
 
 「そうか。気をつけてな。お前も恨みを買っているのには違いない」
 「まぁ、そうなった時は全力で逃げますよ」
 
 そう思考を打ち切りながら、私はそっと肩を落としながら頭を振りました。決して根が善良とは言えない私は多くの恨みを――下手をすればあのエルフの青年以上に――買っている自覚があるのです。だからこそ、私は風の魔術を独力かつ最優先で習得したのでした。それほど飛び抜けた攻撃力がある訳ではありませんが、私の知る風の魔術は汎用性が高いのです。元は運搬用に使われる魔術も少し構成を変えてやれば、逃げる事にも使えるのですから。流石にそう頻繁に使ってはいられませんが、やばそうな雰囲気を感じて、切るのを迷っていられるような札ではありません。
 
 「そう言い切れるなら大丈夫だな。それじゃ、また」
 「えぇ。また」
 
 見送りに立つ気配も無い彼に振り返りながら私はそう返しました。そのままリビングを抜け、短いながらもしっかりとした作りの廊下に出ます。それなりに年季の入った木で作られている壁や天井は、古いが故の独特の安心感を感じさせます。優しいベージュ色の壁紙もそれを助長させていました。
 
 ― ん…?
 
 瞬間、コツンと何かが当たったような音に私は思わず足を止めました。そのまま自然と周囲を警戒し、ゆっくりと後ろへと振り返ります。その瞬間、私の視界の端で新緑色の何かがふっと消えて行くのが見えました。
 
 ― アレは…。
 
 見覚えのあるその色を見間違えるはずがありません。それは間違いなく彼の髪の色でしょう。部屋の中に引き篭っているとエイハムが言っていた彼がどうして廊下に出ているのか不思議ですが、その特徴的な色はそうとしか考えられません。そこまで考えた瞬間、私の足はゆっくりと後ろへと歩き出しました。
 
 ― …何をしているんでしょうね、私は。
 
 今更、彼に出会ってどうしようとしているのか、私自身にも分かりません。私にとって確かなのはその新緑色の輝きがやけに目を惹いて、心から離れないと言うだけです。まるで誘うようなその輝きを追って、私はゆっくりと歩き続けていました。まるで身体全体が彼を求めているように、それはもう止められるものではないのです。
 
 ― まぁ…彼を突き放した私が何をしたいかなんてある程度、決まっているでしょうが。
 
 今更、優しくすることも出来ません。愛想が尽きたと言うのも本当のことです。彼を住処から追い出したのも後悔していませんし、もし、時間が巻き戻ったとしても私は同じことをやるでしょう。しかし、それでも言わなければいけない言葉がある。純粋にその衝動に背中を押されるようにして、私は行き止まりまで足を進めました。
 
 ― そして、その右側の扉は少しだけ開いていて…。
 
 その合間から特徴的な瞳がこちらを伺っているのが見えました。不安そうなその光はコントラストの強い扉の間から丸見えです。視線があってもこっちに向けられ続けているその光はきっとバレていないとでも思っているのでしょう。聡明と言われるエルフの少しドジな部分をそんな仕草の中に見つけて、私はそっと笑みを浮かべてしまいました。
 
 「っ!!」
 
 その私の笑みに慌ててあたふたとする様子が扉の向こう側から伝わってきます。事此処に至ってようやく自分が見つかっているという可能性に思い至ったのでしょうか。その姿に微笑ましいものを感じても、そこに近づこうとは思いません。今の私には…というか最初から私にはその資格などありませんし、そのつもりはないのです。
 
 ― やりたい事はただ一つ。そして、それはここから出来る事なのですから。
 
 そう呟いた心がようやく私の中で言葉を形にしていきます。それを頭の中でそっと吟味しながら、私は口を開きました。そして、心の中に浮かんだ言葉をそのまま紡いでいくのです。
 
 「…これはあくまでも私の独り言…と言うか懺悔なのですが…」
 
 そう前置きしたのは彼を逃げさせない為。何せ私はこれからそれなりに恥ずかしいことを言おうとしているのです。ここで逃げられて聞こえてなかったとなれば、恥と言うレベルではありません。私の我侭ではありますが、彼にはしっかりと聞いて貰わなければいけないのです。
 
 「私は別にあの青年を追い出したことを後悔はしていません。それなりの額は既に渡していますし、無駄遣いさえしていなければ数ヶ月は持つでしょう。魔物娘の多いこの街であれば、その間に寄るべき所を見つけられる可能性は高かったですから。やばい場所にさえ踏み込まなければ基本的に人身売買などもありませんし、この街は比較的安全です。まぁ、それにあの青年には山ほどの迷惑を掛けられていましたし、いい加減、個人的にも限界でしたから」
 
 ― 最初に私の口から出たのは言い訳でした。
 
 そう。それらは言い訳です。別に後から何とでも付け加えられる事なのですから。確かに拠り所云々は私の頭の中にもありましたが、彼を追い出したのはあくまでも怒っていたからです。それは何と言い換えようとしても私の中では変えられません。結局、どれだけ言い繕っても私は自分の感情のまま彼を追い出した下衆な男なのです。
 
 「彼の保護者として名乗り出たのも後悔していませんよ。私は…エルフに一度、命を救われましたから。あの青年にはエルフが人間を助けたなんて信じられないことかもしれませんが、私はその恩返しをしたかったのです。けれど…それは私と彼の相性の都合から難しく…遠巻きに彼を保護する形にならざるを得ませんでした。結果としてはそれさえ破綻しましたが…その行為そのものが悪かったとは思っていません」
 
 ― 懺悔はまだまだ続きます。
 
 この一ヶ月、言いたい事は色々ありました。聞きたい事も色々あったのです。しかし、それは様々な都合によって…いえ、私自身が臆病だった所為で上手くいきませんでした。もっと上手く、そして以前からこうして踏み込んでいればもしかしたらこんな結果にはならなかったかも知れません。しかし、それはあくまでIFの話です。破綻した後にそんな事を考えても何の意味もありません。しかし…しかし、それでも――
 
 「…それでも私はあの青年ともっと話が出来なかったのかと言う事だけは後悔しています。もっと傷つける事を恐れずに踏み込んでやればまた結果も違ったかも知れない。そう思う程度には…私は後悔しているのですよ」
 
 ― そこで一つ溜め息を吐いて話を中断させました。
 
 その間、彼からの返事はありません。いきなりこんな話をされてあのエルフも戸惑っているのでしょう。しかし、今更、私は止まれません。既にこれだけ恥ずかしい話をしている以上、ここで止まってしまえばその恥ずかしさも無駄になってしまうのですから。
 
 「もし、の話は好きではありませんが…きっと私がもっとマシな男であれば、あの青年を傷つける事などはなかったでしょう。或いは私がもっと上手く保護出来る相手であれば、結果もまた違ったでしょう。全ては私の責任です。だから…すみません」
 
 ― そこまで言って私は深々と扉に向かって頭を下げました。
 
 それを新緑色の瞳が射抜いているのを感じます。少なくとも私の言葉は彼の耳には届いているでしょう。それが…彼の心にまで届いているかは私には分かりません。けれど、私にとってはそれは別にどうでも良い事なのです。やりたいことはあくまで自己満足に過ぎない自慰行為なのですから。後で「やりたい事はやった」と自分を慰める為の材料作りに過ぎないのです。
 
 ― …それでも…それでも私は…。
 
 そう思う反面、私の言葉が少しでも彼の胸に響けば良いと感じるのもまた事実でした。自己満足からの言葉でも少しでも彼が前を歩くための一助になれば良い。この直情型の青年が私のように斜に構えるのではなく、真正面からエイハムたちの好意を受け取れるようになって欲しい。そう思うのはどうしても否定できない事なのです。
 
 「……以上です」
 
 そう言いながら顔をあげた私と若草を彷彿とさせる瞳が交差しました。そこに何の感情が浮かんでいるかを私は怖くて見ることが出来ません。少なくとも…以前、彼の懺悔を切り捨てた私がこんな事を言える義理ではないのです。このエルフと同じくらい臆病な私はそこに浮かんでいるであろう悪い感情を確認する事無く、逃げるように振り返りました。
 
 「ま、待ってくれ…!!」
 
 そんな私の背中に掛かった声に思わず足が止まってしまいます。逃げなければいけないと分かっているはずなのに、縫い付けられたかのように動かない足に私は微かな苛立ちすら感じていました。きっと思考ではどう否定しても、やっぱり彼が受け止めてくれたのだと期待しているのでしょう。そんな自分勝手な衝動に吐き気すら感じますが、私の身体は動くことはありません。そんな私の背中からキィと蝶番が擦れる音は響き、ゆっくりと扉の奥から誰かが出てくるのが分かりました。
 
 「ひ、一人だけ勝手に納得して帰るのは卑怯だぞニンゲン!!」
 「…とは言われましても…ね。私が言ってたのはあくまで独り言な訳ですし」
 
 背中から投げかけられる言葉に私は振り返らないままそう答えました。その行為が人を小馬鹿にするような態度と取られてもおかしくはないと自覚していても私は止められません。今、彼の顔を見たら恥ずかしさで死んでしまいそうですし、何よりまた顔を合わせると罵り合いを始めてしまいそうなのです。
 
 「そ、そもそもだな…っ!お前は自分が全面的に悪いように言っているが…私の責任だって…その少しは…いや、極一部…欠片くらいはあると思うし…」
 「……」
 
 しかし、そんな私の態度を気にしていないかのように彼は言葉を紡ぎでいきます。その支離滅裂な言葉や口調から察するに、テンパり過ぎてそれどころではないのかもしれません。それに微かな安堵と、彼から歩み寄ってくれたことに嬉しさを感じました。
 
 「お、お前はとても生意気で酷い奴だが…言っている事は正論だった。い、いや…最初に会った時の話なんだが…その…えっと…つまりだな…。…逆の立場になってみれば…お前が私を見放すのも無理はない…と思う」
 
 少しずつトーンダウンしていくその言葉はあっちへこっちへと飛んでいきます。そこには聡明と言われるエルフらしさはありません。ただ、自分の心の中に浮かんだ言葉を一つ一つ必死に紡いでいく不器用な青年の姿があるだけです。そんなエルフの顔を見てみたいという欲求がむくむくと胸の中で鎌首をもたげましたが、私はそれを必死に抑えて、彼の言葉に耳を傾け続けていました。
 
 「勿論、人を問答無用で殴ったのはやっぱりムカついてるし、酷い事を沢山言われたのも忘れていない。だけど…お前のその手を最初に振り払い、酷い事を言ったのは私だ。騒動を起こしてお前に迷惑を掛けたのも…。だから…私にはニンゲン、お前を責める資格がない」
 「…随分とエルフらしくない言葉ですね」
 
 ― 思わず出たその言葉は決して嫌味のつもりはありませんでした。
 
 ただ、純粋に不思議であったのです。聡明である反面、頑固で傲慢なエルフがどうして人間にここまで言えるのかと驚いてさえいるのでした。勿論、彼が『エルフ』という共通認識から大きくズレている可能性もあります。しかし、最初の接触の際にそのプライドの高さを伺わせていたのですから、それほど大きく外れているとは思えません。
 
 「…私だってこれだけ環境の変わった中で一ヶ月も過ごせば考えも多少は変わる。勿論…ニンゲンはまだ嫌いだが…認めるべき所はあるとは思っているんだ」
 
 そんな私の言葉に素直に答える彼の脳裏には一体、何が映っているのか私には分かりません。しかし、森の中というある種の閉鎖空間から飛び出した彼がこの街で多大な影響を受けているのがその言葉だけで強く感じられるのです。それが一体、どういう方向性に転ぼうとしているのかは分かりませんが…少なくとも彼から少しは刺が抜け落ちたのは歓迎すべき事でしょう。
 
 「ま、まぁ、だから、その…な。お互いに悪かった…って事で手打ちにしないか?その方が…まだ幾らか建設的だろう?」
 
 ― それは私にとっても渡りの船と言っても良い言葉でした。
 
 幾ら言い訳の材料を手に入れたとしても、私はコレから先、この青年に対して後ろ暗さと後悔を感じ続けて生きて行くことでしょう。ただでさえ、『彼』の事で胸が疼いている私がこれ以上の後ろ暗さの種を抱くのは大きなマイナスとなってしまいます。出来ればそれは避けたいですし…私も自分だけが悪いとは決して思っていません。彼が許してくれるのであれば、示談という形で済ませるのも決してやぶさかではないのです。
 
 「…それは私としても嬉しい申し出ではありますが…」
 「ほ、本当か!?」
 
 私の言葉に後ろから喜色に溢れた彼の声が届きました。一体、何がそれだけ嬉しいのか私には分かりませんが、少なくとも彼にとってはこの手打ちは悪くない選択だったようです。しかし、それだけ喜ばれるような要素があるのか私には分かりません。一瞬、寝首を掻くつもりなのかとさえ思うほどの喜びっぷりだったのですから。
 
 「あ、いや、その、先走ってすまない。が…と言っていたが、ニンゲンは何か気になることでもあるのか?」
 「いえ、気になる事と言うか…そこまでされる意味がよく…」
 
 私にとっては決してそうではありませんが、彼にとって私はこの街で最初に接触した人間兼命の恩人でしかないのです。正直、プライド高いエルフにここまで歩み寄って貰える理由が私には分かりません。この直情型の青年ならあり得ないと思うのですが、その腹に良からぬ物を抱えているのかとさえ思うほどの態度に私の胸に危機感が湧き上がりました。人を陥れるのを性分としているが故に、人を信用出来ない私の悪い面がむくむくと起き上がり始めているのです。
 
 「…べ、別に大した理由など無い」
 「…とは言われますが、ここの主人と殆ど会話した事がないと聞きましたよ?」
 
 別にそれだけであれば私の危機感をこれだけ煽らなかったでしょう。しかし、その一方でこのエルフは私に今まででは考えられないほどの譲歩を示しているのです。正直、ファーストコンタクトからずっと最悪続きであった私に譲歩し、私よりもよっぽど第一印象の良さそうなエイハムを拒む理由が私には分かりません。それこそ今までのことを根に持っていて、背中からブスリとされるかもしれないと思ってもおかしくはないでしょう。
 
 「そ、それは…」
 「自慢じゃないですが私の性格は最悪に近いですよ?それは少なからず私に接してきた貴方も分かっているでしょう?一方、ここの主人は人々に頼りにされるだけあって根が善人です。それも拾われた貴方には分かっていると思いますがね」
 「うぅ…」
 
 特に追い詰めるつもりはなかったのですが、青年の口からは小さな呻き声が漏れ出ていました。恐らくよっぽど話したくない内容なのでしょう。それは羞恥故か、それとも本当に悪意を持っていたのかは分かりませんが、私の中の警戒心がさらに大きくなっていくのを感じます。微かに生える産毛の先端まで意識するように後ろを警戒する私の後ろで彼はゆっくりと言葉を漏らし始めました。
 
 「わ、私は…その…あのニンゲンが…こ、怖いんだ…」
 「は?」
 
 思わず間抜けな顔で聞き返したのはそれがあまりにも予想外だったからです。「胡散臭い」と大絶賛され続けている私の顔と、子どもにも親しみやすいと大人気のエイハムであれば間違い無く後者の方が親しみやすいでしょう。まさかエルフとは美的感覚すら大きく違うのかと一瞬、そんな事を考えましたが、人間基準でも美しい顔立ちをしている彼らが人間とそれほど美的感覚が離れているとはあまり思えません。ならば、他の理由で、となりますが、結局、答えは出ないままでした。
 
 「あのニンゲンからは…魔物の匂いがする…」
 「それは…」
 
 長年、レッドスライムと共に暮らしてきた彼には既に魔物娘の匂いがしっかりと染み込んでいてもおかしくはありません。生まれてからずっと街の中で暮らしてきた私はその感覚が既に麻痺してきていますが、外からやってきたこの青年にとっては感じ取れるものであっても不思議ではないでしょう。そして、魔物娘の匂いを感じ取った彼がエイハムのことを恐れるのは――。
 
 「も、勿論…あのニンゲンに非がないのは分かっているんだ。ただ…やはり…どうしても魔物の事を思い出して…」
 
 ― その声は少しばかり震えていました。
 
 きっとその脳裏には魔物娘に襲われた過去が浮かんでいるのでしょう。彼がエルフの集落から追い出される元凶となっただろう魔物との逢瀬はやはり彼の心に強い傷を残しているのが分かりました。きっと振り返れば声だけでなく身体全体が震える彼の姿が目に入るでしょう。しかし…同じ男としてそんな姿を誰かに見られたくないのは分かります。故に私は振り返ること無く、その場に立ち尽くしていたのでした。
 
 「…お前も知っている通り…エルフは少数の閉鎖社会だ。その中に…魔物が生まれればすぐさまそれは周囲に感染していく事になる。だから…多くの集落では魔物化した同族は例外なく全て放り出される事になっていて…」
 
 それは多少、見識のある人間であれば殆ど知っている程度には有名な話です。勿論、他にも大罪を犯した罪人を放逐することもあるらしいですが、閉鎖社会であり、お互いに密接に関係しあっている社会で大罪がそう起こるはずがありません。自然、エルフが集落から放逐される最大の理由がこの魔物化によるものなのです。ある種、非情にも見える選択ではありますが、それをしなかったドワーフの殆どが魔物に変わっていると聞く辺り、種の保存としては正しいものであるのかもしれません。
 
 ― そして、女性ならばまだしも男性が魔物化する理由なんて一つしかないのです。
 
 これから先、サキュバスの魔力に対する研究が進めば話は別かもしれませんが、私が知る中で男性の魔物化は魔物娘との性交でしか起こりません。そして、森の中には数えきれないほどの魔物娘が虎視眈々と男性を狙っているのです。その中の一つに捕まってしまえば、魔物化するまでたっぷりと愛されてしまう事でしょう。運良くそれから逃れられても身を蝕むサキュバスの魔力が性欲を増大させ、また魔性の快楽を求めさせると聞きます。
 
 ― 今は彼にその症状は出ていないようですが…。
 
 しかし、エルフにとって見れば、『魔物娘と交わった』と言うだけでも唾棄すべき存在であるのは疑いようがありません。後の災いの芽を摘むために、彼もまた仲間から弾きだされたのでしょう。それが痛々しいまでの彼の声からも良く伝わってきます。
 
 「…その時の事を思い出すから魔物娘の匂いがする彼は苦手…ですか」
 「あぁ。別に…信じて貰える…とは思っていないが…」
 
 あまり辛いことばかり思い出させるのも可哀想だと私は彼の言葉を遮りながら結論づけました。それに青年が同意の言葉を返し、私の背中で小さなため息を吐きました。きっと出来れば言いたくはなかったのでしょう。匂いが苦手なんてある種、変態染みた答えでは納得しない人間だっているかもしれません。しかし、それなりのエルフの社会の事を知る私は彼の言っている事が冗談でも嘘でもないと思うのです。
 
 「しかし…それだと私からはその魔物娘の匂いがしないって事ですか?」
 
 実際、私はまだ未婚です。街をあるけばカップルの二組に一つは魔物娘であるこの街ではかなりの少数派でしょうが、今まで襲われたことも好意を示された事も無かったのでした。しかし、それでも私は生まれた時からずっとこの街に暮らしているのです。任務の時は魔物娘避けに香水を使うこともある私から魔物娘の匂いがしないとはあまり考えられないのでした。
 
 「あぁ、いや…具体的にはちょっと違うんだが…その…色々な匂いが混ざって誰の物でもないのが分かるっていうか…飛び抜けて自己主張してる匂いが無いっていうか…」
 「自分では今一、その違いが良く分かりませんが…ともあれ変な匂いじゃないのですね?」
 「いや、寧ろイイ匂いだと思…」
 
 ― ぽつりと漏らされたその言葉は本当に本心からだったのでしょう。
 
 しかし、だからこそ、私と彼の間に降りた沈黙という名の帳は重く、厚いものであったのです。自分一人でははねのけることさえ難しそうなそれは私から何かしらのリアクションを取らせる力さえ奪っていました。それはきっと彼も同じであったのでしょう。後ろでは青年が身動ぎする気配をまるで感じないどころか、音を立てて固まった気配すら感じるのですから。
 
 ― ともあれ…何時までもこのままにしておく訳にはいきません。
 
 このまま沈黙が続けばお互いに気まずくなりかねないのです。折角、仲直りするキッカケを得られたのですから、それをふいにしたくはありません。その為にはここは小粋なジョーク一つで空気を和ませるのが必要でしょう。
 
 「…貴方、匂いフェチだったんですね」
 「ち、違っ!!違うぞ!!人を匂いだけで判断する犬のような言い方をするな!!わ、私はただ…お前の匂いが好きだってだけで…」
 「……それドツボはまってるって気づいてます?」
 
 ― …と言うか、そんな風に言われると私も気恥ずかいような、悲しいような微妙な気分になるんですが。
 
 良く誤解されがちですが、私は決してホモではありません。たまたま唯一の友人が男性であり、彼にしか殆ど価値を見出さなかっただけで恋愛対象として『彼』を好いていた訳ではないのです。性欲処理として抱いた娼婦は全て女性ですし、霞のようにぼやけた恋愛観も女性と行うべきであると考えているのでした。そんな私が同性から匂いが好きと言われて、喜べるかというと流石に微妙です。距離を取りたくなるほどではなくとも、居心地の悪さを感じてしまうのは仕方が無いと言えるでしょう。
 
 「ああああああ!!!わ、忘れろ!!いいな!!忘れるんだぞ!!!」
 「…まぁ、私としても覚えておきたくない情報なんで構いませんが…」
 
 普段であれば後から弄るネタとして使ってやろうと心の隅に留めておきますが、流石にこの情報は私へのダメージも大きすぎるのです。気分が落ち込んだ時に思い返せば、さらに心が沈み込むのが確実であろうそれを私も早めに忘れておきたいのは事実なのでした。
 
 「そ、それでだな…どうなんだ?」
 「どうって…?」
 「だ、だから…少しは…納得してくれたか?」
 「…まぁ、貴方が私の匂いが大好きなのは分かりましたよ」
 「だから、それは忘れろってばああああああ!!!」
 
 診療所中に響き渡るその言葉は確実にエイハムにも届いているでしょう。多分、この声を聞きつけたあの男性は嬉々として盗み聞きしに来るはずです。その前に何とかこの嬉しくも恥ずかしい会話を終わらせなければいけません。そう判断した私は話の脱線はそこそこに本題へと戻そうと口を開きました。
 
 「…とりあえずは納得出来ましたよ」
 「そ、そうか…それなら良かったんだが…」
 
 一つ溜め息を吐く音を聞きながら私はそっと振り返りました。三日ぶりに見たその姿は以前よりも何処かやつれているようにも見えます。元々、細身だったシルエットが全体的に細く、身長も縮んでいるように見えるのですから。何処かアンバランスささえ感じるその姿に私は首を傾げましたが、輝くような若草色が彼が健康であることを教えてくれました。
 
 「そ、それで…な。その…とても言いづらい事ではあるんだが……」
 「なんです?私と貴方の仲じゃないですかー。何でも言ってください。嫌味以外は」
 「…段々、自重しなくなってきてるなニンゲン。いや、まぁ、嫌味の一つも言わないニンゲンなんてニンゲンじゃないから寧ろ安心する私もどうかと言うか…」
 
 ― …まさか心配までされていたとは。
 
 自分の心情がそこまではっきり漏れているとは気づいていないのでしょう。ゴニョゴニョと動かす唇は何時もよりもかなり緩慢で、そこから漏れる言葉も曖昧なものでありました。特に大きな反応を返している訳ではないので、きっと本当に無意識なのでしょう。そんな無防備な彼の姿にむくむくと悪戯心が沸き上がってきても不思議ではありません。少なくとも私にとってはそうです。
 
 「おや、心配までしてくれたんですか?」
 「なっ!?え?…も、もしかして私、口に出して…た?」
 「えぇ。そりゃもうばっちり」
 「……わ、忘れろおおおおおおおおお!!!」
 
 半ば涙目にも近い瞳を晒しながら再び廊下に彼の絶叫が響きました。しかし、今度のこれは忘れてやる義理など私にはありません。何せ私にダメージがない反面、彼にとっては大きな弱味となるのです。新たに彼を弄るネタを手に入れた私としてはそれ以上のネタが手に入るまでしゃぶり尽くすようにこのネタを使うしかありません。
 
 「まさかプライド高いエルフに心配して頂けるなんて…光栄ですよ」
 「うぅ…つまり忘れるつもりはないって事か…」
 
 私の言葉と輝かんばかりの笑顔に私の真意を悟ったのでしょう。その肩をこれ見よがしに大きく落とした彼には微かな披露さえ見て取れました。口は災いの元とジパングでは言うそうですが、その口から二度もいじられる材料を漏らしてしまったのですから当然でしょう。自業自得であるだけに私を責める事の出来ない彼が次に何をするかと言えば…きっと無理矢理、話を本筋に戻す事です。
 
 「そ、それはともかくとしてだな!だから…関係は修復された訳だから…あの…その…」
 「……」
 「…だから…わ、私を…な。その…えっと…」
 
 ― 流石に必死で言葉を紡ごうとしている彼を茶化すほど私は空気が読めない男ではありません。
 
 今の彼からはその片鱗が殆ど見えませんが、元々、彼は人間を見下すプライド高いエルフ様なのです。そんなエルフが、私に頼みごとをしようとしている。それだけでも信じられないほどの成長と言えるでしょう。最初に会った時の尊大な態度は何処へやったのかと不思議になるほどの彼の様子に水を差してやるほど私は愚かではありません。
 
 「…お、お前の家に置いて欲しいんだ」
 「…え?」
 
 ― しかし、彼からもたらされた言葉は私の予想を大きく上回るものでした。
 
 てっきりこれからも仲良くして欲しいとかその程度だと思っていた私にはそれは完全に予想外であった言葉です。何せ私にとっては既にそれは予定の外へと弾き出されていたものであったのでした。ファーストコンタクトから絶対にありえないと思っていた選択肢が、エイハムに何度となく勧められた選択肢が、今またこうしてここに戻ってきている。それが妙に質の悪い悪夢のように感じて、私の思考が一瞬、立ち止まってしまったのでした。
 
 「勿論、お前に損だけはさせない。炊事…はまだ無理だが、洗濯や掃除は私の担当でもあったからな。それなりの腕は約束しよう。それに我侭だって言わない。寝る場所と食事さえ確保すれば迷惑はかけないぞ。…今更な気もするが…」
 
 そんな私に畳み掛けるように彼の口からどんどんと言葉が漏れ出してくるのです。それに一々、思考が揺らされてどうにも上手く考えが纏まりません。期待するような不安がるようなそんな視線が答えを急かしますが、横からガツンといきなり殴られたような混乱が続く私には今すぐ返事が出来るはずがありません。
 
 ― そもそも…なんで私と?
 
 確かにエイハムは彼にとって恐ろしい魔物娘の匂いが染み付いているのかもしれません。しかし、人格的に彼のほうが優れているのはこの青年とて分かっているはずです。私とは違い、懐も大きいエイハムの元であればこうして引き篭っていた所で見放されはしません。彼の方からすれば私と一緒に住むよりはここでずっと引き篭っていたほうがストレス的にも小さいはずなのです。
 
 「…どうして私なんです?別にここに居たって追い出されたりはしませんよ」
 
 長年、レッドスライムと共にいたエイハムは既に魔物化してしまっているのです。見た目の数倍近い期間を既に生きている彼は気の長さでも有名な男でした。一年や二年は世話になった所できっと何も言いません。そしてそれだけの期間があればこの青年もまたエイハムに気を許すでしょう。その未来がありありと想像出来るだけに、私は胸に湧いた疑問だけではなく、そう付け加えました。
 
 「…私もそう思うよ。あの医者はきっと私を追い出さない。見ず知らずのエルフをわざわざ助けて、こうして匿ってくれている訳だしな。だけど…私はもうそれじゃいけないんだ」
 「…いけないとは?」
 
 ゆっくりと自分の中でも咀嚼するような彼の言葉に私は思わず聞き返しました。それに彼は瞳に迷いを浮かばせて、視線を彷徨わせます。右へ左へと揺れる視線は見ている私がもどかしささえ感じてしまうほどでした。しかし、ここで急かしてやるほど私は鬼ではありません。多分、もう盗み聞きはされている事でしょうし、今更急かしても意味が無いという諦観もありました。
 
 「私はお前とあの医者に二度も命を助けられた。それで…自暴自棄を続けられるほど私は刹那的な性格じゃないって事だよ」
 
 苦笑するような笑みはきっと自分に向けているものなのでしょう。何処か自嘲が交じるその表情に何となくそう思います。今までの自分を恥じるようなそれは間違いなく彼が成長している――或いは本来の自分自身を取り戻しつつある――からでしょう。それに嬉しさを感じる反面、妙な違和感を拭い切れないのでした。
 
 「例え…少しずつでも前を向いて行かなきゃいけない。もう誰かに頼ってばかりじゃいられないからって…そう思うんだ。まぁ…まだ怖いものは沢山あるけれど」
 「…随分と前向きになったものですね」
 
 その違和感を胸の奥に留めながら、私は彼にそう返しました。勿論、そこに嫌味のつもりはありません。ただ、純粋に不思議であったのです。三日前の彼は何時、世界が終わっても悔いはないとばかりに諦めた――それでいて怯えたような表情をしていました。しかし、今の彼にはそれがありません。そこにあるのは不器用ながらも前へと進もうとする青年本来の姿があるだけです。
 
 「…それもニンゲン、お前のお陰なんだぞ」
 「…私の?」
 
 言われて自分の中でも思い返してみますが、彼にそんな良い効果を与えるようなことをした覚えはありません。私がやったことといえばこの青年を傷つけ、突き放したことくらいなものです。一応、衣食住の提供こそしていましたが、それはあくまで保護者としての最低限の義務でしょう。決して誇れるものではありません。
 
 「あの日…お前に見放されてから、私がどれだけお前に甘えてきたのかようやく分かったんだ。生活的にも精神的にも…な。特に…前者はとても大変なのだと聞いたから…このままじゃいけないと思って」
 「…誰にです?」
 「あの日、私を取り調べたお前の部下を名乗る男に…な。確か名前は…ウィなんとかだったはずだ」
 
 ― …あぁ、まず間違いなくウィルソンですね。
 
 そんなお節介な真似をする部下なんて私には一人しかいません。ジパングの血を引き、ジパングからやってきた魔物娘と結婚した部下の笑顔を脳裏に思い浮かべて私は内心、溜め息を吐きました。青年の処遇を任せた部下が一体、どんな事を考えたのかは分かりません。ですが、私にこのエルフの居場所を教え、彼に金銭的な負担を教えたウィルソンがこの一件に深く関わっているのはほぼ疑いようがないでしょう。
 
 ― その真意は後々、聞き出すとして…。
 
 「…それで前を見るのと私と暮らすのとどう言った関係が?」
 「ま、まだニンゲンは…やっぱり慣れないし…魔物は…もっとだ。だけど…お前は…その…言うほど怖くはない。だから…お前と一緒にいることで少しずつニンゲンやこの街に馴染めるんじゃないかと…」
 「…なるほど」
 
 彼の話にはしっかりと筋が通っています。少なくとも私にはそう聞こえました。つまりこの街で暮らしていくためのモデルケースとして一緒に住まわせて欲しいと彼は言っているのでしょう。その前向きな思考に安堵する反面、自分と似ているはずだった青年が私とは違い、前を向き始めた事に何処か憧憬や嫉妬のような感情を抱いてしまうのでした。
 
 「それに…この街じゃ一人では生きていけないのは…もう分かってる。私は…それほど強くない。だけど…この街の外は…この街よりもさらに魔物だらけと聞いた。それは…この街で暮らすのよりはよっぽど怖い。だから…その…消去法のようで悪いのだが…」
 
 そんな醜い私の表情を伺うように青年はそっと私の顔を覗き込みました。何処か不安げなその表情に拒絶するのは簡単です。いえ、寧ろそうすべきなのでしょう。私の傍に居て、彼が歪んでしまわないという保証はないのですから。それならば、ここにいてゆっくりとエイハム達との交流を深めたほうがよっぽど安心出来ます。それに彼が再び厄介事を起こさないという可能性も決してない訳ではありません。殊勝なことを言って反省しているように見えるとは言え、今までが今までだけに完全に信用は出来ないでしょう。
 
 ― しかし…。
 
 「…構いませんよ」
 「…え?」
 「ですから、私も良いと言ったのですよ。最近は忙しいですし、家を維持する人手も欲しかったですから」
 
 ― しかし、私の口から出たその言葉はまったく真逆のものでした。
 
 別に彼の決意を無駄にはしまいとかそんな偉そうなことを考えている訳ではありません。ただ…折角、彼がこうして前へと出てくれたのです。私だって…少しは我侭になっても構わないでしょう。そして…私も彼もそれを望んでいるのですから、断る理由などないのです。
 
 「まぁ、私はこの通り嫌味っぽい人間ですからある程度は覚悟してもらった方が嬉しいですがね。我慢できなければまたここに帰ってくるという手段もありますし」
 「それは…まぁ…我慢…する。…と言うか、共同生活するってのに私に優しくするつもりがまったくないな、ニンゲン」
 「当たり前でしょう?私が家主で貴方が居候なんですから」
 「…まぁ、それはそうなんだが…」
 
 私の切り返しに青年は言葉を濁しました。それは完全無欠に正論であるが故に彼が反論する余地はまったくありません。そもそも、既に彼からこの関係を言い出した時点で力関係は確定してしまっているのです。彼がどれだけプライド高いエルフであろうと――まぁ、既にその片鱗を失いつつありますが――彼が下で私が上と言う関係は固定化されてしまったのですから。
 
 ― とは言え、あんまり追い詰めすぎるのも…ね。
 
 ここでまた喧嘩をすれば元の木阿弥です。流石にそれは私としても避けたい未来でした。折角、こうして彼から言い出すと言う理想の形で仲直りが出来たのですから、状態を維持するのが理想です。その為には多少、この青年に優しくするのも吝かではありませんでした。
 
 「まぁ…また面倒を起こされても困りますしね。多少は手加減しますよ。気が向けば」
 「うぅ…まったく優しくない…」
 
 しかし、私の優しい言葉は残念ながら彼には届かなかったようです。まぁ…私としても正面切って「じゃあ、優しくしますよハハッ」なんて爽やかに言えるキャラじゃありません。少なくとも、今の言葉を真正面から受け取って期待されるよりは、冗談や嫌味半分にでも受け取ってもらった方がまだ気が楽です。
 
 「何を言いますか。その優しくない男を選んだのは貴方ですよ?まったく…ここにいれば特に傷つく必要もないというのに…マゾですか貴方」
 「ま、マゾ…!?よ、よりにもよってそんな淫猥なレッテルを私に…っ!!」
 「実際、そうでしょう?安寧よりも罵られる日々を選んだのは貴方なのですから」
 「うぐぐぐぐぐ」
 
 これまでの彼であれば、そんな挑発をされれば魔術の一つでもぶっぱなしていたかもしれません。しかし、この青年は悔しそうに歯噛みして私を睨めつけるだけで特に実力行使や反撃には出ませんでした。自分の立場が圧倒的に弱いという事は彼もまた理解しているのでしょう。そんな彼にご褒美の一つでもあげようと口を開く前に、青年の口がごにょごにょと動くのが見えたのです。
 
 「わ、私はただ…お前くらいしかこの街で頼れるニンゲンがいないって言うだけで…それに…今まで誰かがあんな風に怒ってくれた事はない…から…」
 「……」
 
 ― 流石にそれは聞かなかった事にしてやるのが情けというものでしょう。
 
 彼が一体、集落の中でどんな生活をしてきたのかは知りません。しかし、彼のその言葉を信じればよっぽど物分りの良い子どもであったか、或いはかなり地位の高いエルフの親類であったのかのどちらかでしょう。此処から先はあくまで勘ではありますが…最初の尊大な態度や甘ったれた行動から後者の可能性が高い気がするのです。
 それを弄ってやった所で彼のプライドを刺激し、集落での生活を思い出させるだけでしょう。私は鬼畜や外道と呼ばれる事が多々ありますが、これから共同生活をしようと言う相手をそこまで追い詰めるほど趣味が悪くはありません。力関係そのものは既に確定しているのですから、追い詰めても得られるメリットは私の自己満足だけです。彼との関係が悪化しすぎると言うデメリットを顧みれば、私でも易々と選べる選択肢ではありません。
 
 「それより…まだお互いの名前も知らないのですよね」
 「あ、あー…そう…だったな。今まではずっと喧嘩別れな形だったから…」
 
 その為に話題を変えた私の言葉に彼もまた同意を示しました。彼とてマゾだなんだと弄られる続けるような話題は御免なのでしょう。そもそもあれだけプライド高かった彼がこうして人間に弄られて吉としている状況の方が異常だと心に止めておくべきです。私とて別に本気で彼がマゾだと思っている訳ではありません。それよりも内側に色々、貯めこんで我慢していると思った方がよっぽど自然でしょう。
 
 「それじゃあ先に私が。ハワード・ノリスンですよ。よろしく」
 
 ― そう言って私はすっと右手を差し出しました。
 
 人間の間では握手を意味するそれに彼が逡巡の色を浮かべました。それが何をするのか、彼には分かっていないのかもしれません。そもそもエルフの社会の中にも『握手』と言う概念があるのか知らないのです。ついつい習慣で手を出してしまった自分を恥じながら、その行為の意味を説明しようとした瞬間、私の手に柔らかいものが触れました。
 
 「…私は…ラウルだ。よろしく」
 
 視線を下に向けながらも、しっかりと私の手を握り替えした彼――ラウルの手は同じ男とは思えないほど柔らかいものでした。私自身も細身で男性にしては指が長いと言われるとは言え、やはり何処かゴツゴツした印象を否めません。しかし、彼の手は私と同じくらいに指が長い上に、女性のように滑らかなのです。シルクのような肌触りと女性の肌を例えることがありますが、シミ一つ無い彼の手はシルク以上に滑らかな感触を私の手に残していました。
 
 ― やっぱりエルフって人間とは比べものにならない生き物なんですねー…。
 
 特にそれに劣等感を感じることはありませんが、何となく心の中でそう思ってしまいます。エルフの男性でもこれだけの感触を得られるのですから、好事家が大枚を叩いてでも手に入れようとするのが良く分かるのでした。特に男色も行ける好事家からすれば咽喉から手が出るほど欲しい逸材であるのは確かです。
 
 ― …ま、この街では人身売買は禁止されていますが。
 
 以前の領主からの方針で人身売買は厳しく取り締まられているのです。この街に少なからずある暗部でも奴隷だけは決して扱ってはいません。そんな街で誘拐が起こる可能性は他よりも少ないですが、警戒しすぎるに越したことはないでしょう。特にラウルは悪い意味でも有名になってしまったのです。その手の好事家が虎視眈々と狙っていてもおかしくはありません。追い出した当初ならばいざ知らず、私の庇護下にある状況でそれは他の連中にも舐められる事にも繋がります。それだけは絶対に防がなければいけません。
 
 「……」
 「……」
 
 そこまで考えても尚、ラウルの手は私を手放しませんでした。真っ赤になった顔でチラチラと握り合った手を見続けているのです。まるで初心な少女が初恋の男性と始めて握手したような姿に強い初々しさを感じました。しかし…それ以上に居心地の悪さを感じるのは仕方のない事でしょう。何せ相手はどれだけ中性的な魅力に溢れていても男性であると知っているのです。ラウルの見せるその恥らいに妙な危機感すら感じるのでした。
 
 ― それでも自分から手を離してくれというのは妙に可哀想で…。
 
 別に拒絶の意味だけではなく、このままだと話が先に進まないからこそ手放して欲しいのです。しかし、その辺りのニュアンスが今のラウルに伝わるかはとても疑問でした。下手をすればまた誤解を招きかねない言葉をどうやってオブラードに包むかを私は必死に思考しながら、口を開いていくのです。
 
 「あの…そう長い間握りしめなくてもですね…」
 「っ!!」
 
 私の言葉を聞いた瞬間、まるで弾かれたようにラウルの手が私から離れました。そのまままるで汚いものでも触った子どものように激しく右手を上下させます。必死で手についた「何か」を振り払うような仕草に内心、傷ついたのを私は否定出来ませんでした。
 
 「そ、それくらい知っているぞ!ば、馬鹿にするなよ!!そ、そももも誰が汚らしいニンゲンとずっと握手していたいって証拠だよ!!」
 「いや、別に何も言ってませんが…」
 「に、ニンゲンなんて下等で穢らわしくて、淫猥な事ばっかり考えてない種族なんだぞ!!多少、見直したとは言え、その評価は決して変わってないんだからな!そ、そんな相手とエルフである私が握手をして喜ぶなんて自意識過剰にも程があるぞ変態!!」
 「いや、ですから、何も言ってませんってば」
 
 凄い勢いで墓穴を掘るラウルに思わずそう言い返しましたが、ヒートアップした彼は止まりません。右から左へと流されるように様々な罵詈雑言が通り過ぎていきます。そんな彼の様子に無駄だと悟った私は幾らでも湧き出るような罵詈雑言を夕飯の材料を考えることでやり過ごしました。
 
 「ぜー…はー…」
 「…落ち着きました?」
 「…あぁ」
 
 幾分、冷静になったとは言え、彼の顔はまだ真っ赤になっていました。荒く息を吐きながら肩を上下させる姿はいっそ艶っぽいと表現しても言いくらいかもしれません。元々が美形なだけにこんな姿でさえ様になるのです。それに不公平さを微かに感じながら、私は口を開きました。
 
 「まぁ、さっきのは今まで私が弄っていた分と相殺って事にしておいてあげますよ」
 「う…」
 
 自分が家主を相手にどんな事を言っていたのかを思い出したのでしょう。小さく呻くラウルの表情は後悔の色が強く表れていました。とは言え、私はそれほど今回の件を根に持つつもりはないのです。今まで弄っていた分の我慢が暴発したと考えれば、丁度、ガス抜きになったとも言えるのですから。言われた言葉も特に私の逆鱗に触れる様なものではありませんでしたし、このくらいは相殺として許してあげるべきでしょう。
 
 ― そう思えるのもきっとエイハムのお陰で…。
 
 今までであればここで私が言い返してまた泥沼になっていたかもしれません。しかし、自分がラウルに向ける感情の中に自己投影があると理解した今、それを抑える事はそれほど難しくはないのです。流石に限度というものがありますが、少なくともこの程度で激昂するような事はない。それにこれからの共同生活における手応えを感じました。
 
 「それともずっと根に持っていた方が良いですか?」
 「…相殺で頼む…」
 「えぇ。いやぁ、これでまた次から手加減抜きで貴方を弄れますから楽しみですよ」
 「手加減などしてない癖に…うぅ…なんで私はあんな事言ったんだろう…」
 
 ― まぁ、確かに私がやっているのは手加減ではなくて打算なのでラウルの言葉は正しいのですが。
 
 とは言え、そこまで言い切られるとちょっと『本気』とやらを出してやりたくもなるのです。その上、肩を落とすラウルの姿がまるで小動物のようで私の嗜虐心をそそるのですから、心の中で悪戯心がむくむくと沸き上がっても仕方がない事でしょう。
 
 「やっぱりマゾだからじゃないですかね?」
 「んなっ!?ま、まだ言うかああっ!!」
 「だって、後で反撃されるの分かっているのにあれだけ罵られるなんて…ねぇ?後でお仕置きされるのを楽しみにしているとしか思えませんよ?」
 「わ、私にそんな趣味はない!!」
 
 ― …いや、どうでしょう。
 
 最初こそ冗談ではあったものの、ラウルにそんな趣味がないというのは私にとって少しずつ疑わしいものになってきていました。さっきから彼は自分から墓穴を掘って、私のカウンターを受けているのです。この短い間に複数回起こったそれはよほど彼がうっかりでもそうそう起こりはしないでしょう。それこそ本能的に口を滑らして反撃して欲しがっているようにしか思えないのです。
 
 ― まぁ、それはラウルの趣味嗜好はさておき。
 
 「まぁ、それはとりあえず脇に置いておきましょうか。とりあえず自己紹介も終わった事ですし、これからの事ですが…」
 「む…む…まぁ、良いか。私には特に荷物など無いから、一応、すぐにでもお前の家に行けるが…やはり…世話になった分、一言くらいは…言っておきたい…かな」
 「…いえ、その必要はないと思いますよ」
 「え?」
 
 唖然とするラウルの顔を見ながら私はそっと後ろを振り返りました。そこには私が来た時とまったく同じ光景が広がっています。しかし、よくよく気配を感じようとしてみれば、そこに微かな気配があるのを感じました。やはり盗み聞きしていたのでしょう。相変わらず悪趣味な彼に私は溜息を一つ吐きながら、口を開きました。
 
 「こっちの話は終わりましたよ。もう出てきたらどうです?」
 「…やれやれ。やはりお前は可愛げのないな。もう少し驚いても良いだろうに」
 「これだけ大騒ぎして貴方が様子を見に来ないはずがありませんしね」
 
 そう言葉を返した瞬間、廊下の陰からそっと白衣を着た男性が現れました。ついさっきリビングでコーヒーを飲んでいたその男性は口ではそう言いつつも、穏やかな笑顔を浮かべています。よっぽど人に厄介事を押し付けられたのが嬉しいのでしょう。何処か清々しささえ感じるその顔は一発殴ってやりたいとさえ思うものでした。
 
 「っ!!」
 
 そんな私とは裏腹にラウルは微かな声をあげて私の背中に隠れました。私を盾にするようにしてそっと伺う姿は本当に小動物めいています。プライド高いエルフの怯えきったその姿は可愛いと言えるものであるのかもしれません。しかし、どれだけ中性的でもラウルは男性です。流石に男性に向かって可愛いとは思えず、私は盾にされている事に文句の一つでも言いたい気分になるのでした。
 
 ― …だけど…まぁ…。
 
 そう思う反面、私の腕を掴むラウルの手が微かに震えているのが分かるのです。流石にその状態で文句や嫌味を言ってやるのは可哀想でしょう。それに…彼は私とは違い、不器用ながらも前へと進もうとしているのです。まだその一歩目を踏み出したばかりなのですから、細かいことを言ってやる気を削いでやる訳にもいきません。
 
 「…話は聞いていましたね?」
 「あぁ。私としても異論はない。…と言うかようやく元の鞘に収まったかという気分でさえあるぞ」
 「元鞘って…」
 
 それは別れた恋人同士に使う表現ではないでしょうか。少なくとも同性同士で、しかも、共同生活を行おうとしている相手に向ける言葉としては不適切極まりでしょう。エイハムは私に同性愛趣味がないと知っているので、これも彼なりの冗談ではあるのかも知れません。しかし、そうやって茶化される側としては文句の一つでも言ってやろうと言う気分になるのでした。
 
 「な、何か…変…なのか?」
 
 しかし、それを私が口にする前に私をそっと見上げたラウルと視線が合いました。明らかにエイハムと視線を合わせまいとするその姿は本当に怯えきっています。不器用ながらも私の前に立ち、自己主張していた姿はそこにはありません。冗談ではなく本当に彼にとってはエイハムが怖いのでしょう。それを脳裏に留めておきながら、私は安心させるようにそっと口を開こうとしました。
 
 「何、この男も最初はお前の事を引き取ろうとしていただけだ」
 「エイハム!?」
 
 しかし、それよりも先に目の前の医者が口を開きました。明らかに今の状況を面白がっているそれを、顔を見まいとしているラウルには分からないのでしょう。馬鹿正直にそれを受け取って、しきりに頷いていました。少しは疑ってくれれば私としても言い訳のしようがあるというのに、そうやって素直に受け取られてしまうと変な否定は逆効果になりかねません。
 
 「え…?な、なんだ…そうだったのか…。それがモトサヤと言うんだなニンゲン」
 「あぁ。本来のあるべき姿に戻った事をジパングの方ではそう言うのだぞ」
 「…それ、色々と語弊があると思うんですがね」
 
 ある種、カオスとも言える状況に私は一つ肩を落としました。どうしてこうなったのかと信じていない神様にもで嘆いてやりたい気分です。しかし、嘆いた所でこの滅茶苦茶な状況は元には戻りません。嘆くよりは前へと進もうとすべきでしょう。そう心を切り替えて、私は話を本題に戻そうとしました。
 
 「とりあえず…異論がないのであれば私としても有り難い話ですよ。ただ…出来ればラウルの帰る場所は…」
 「まぁ、そんな事にはならんと思っているが…最悪の場合、私が保護者になっても構わん。こっちとしてもこれから忙しくなるし、人手が多ければ多いほど有り難いしな」
 
 ― そう言ったのはきっとエイハムなりの優しさなのでしょう。
 
 そもそもニンゲンと魔物娘が怖いと言い放ったラウルが看病など出来るはずがないのです。それはラウルに怖がられ続け、今もこうして盗み聞きとしていたエイハムが分かっていないはずがありません。それでもこう言ったのは彼が他に頼れる場所があるとアピールしたかったからでしょう。もし、私と上手くいかなくても、帰ってくることが出来る。その精神的安心感は今の不安定な彼にこそ必要なものであると素人の私にも分かります。
 
 「…あ、ありが…とう」
 
 ここに至ってようやくラウルはエイハムの顔を真正面から見据えました。同時に放たれた感謝の言葉。それに一体、どれだけの勇気が篭っていた事か。ここで第三者でしかない私には分かりませんし、向けられたエイハムにもその全てを察することは不可能でしょう。しかし、それでも、彼が勇気を出して前向きに進もうとしている。それがはっきりと分かる言葉だったのです。
 
 「気にするな。そもそも…私は殆ど何もやっていない訳だからな」
 
 そう自嘲を浮かばせながら答えつつ、エイハムは肩を落としました。しかし、彼がいなければこの結果は確実にあり得なかった事ではあるのです。そこまで自分を責める必要はありません。そう言おうとする私よりも先に何処か子どもらしさを残すラウルの声が先に廊下を震わせたのです。
 
 「いや…でも、ニンゲンがいなければ…私は今頃、死んでいたかも知れない。だから…」
 「…ありがとう」
 
 ラウルの勇気を振り絞った慰めの言葉にエイハムはそっと笑みを浮かべました。穏やかなその笑顔は少しは心労が軽くなったが故でしょう。それに安堵を感じると同時に私は驚きを隠しきれませんでした。ついこの間までラウルはこうして人間相手に気を使えるような状態ではなかったはずです。それがこの三日間で見間違えるほどの成長を果たしている。それが私にとっては驚きの種であり、そして、嫉妬の源でもあったのでした。
 
 「まぁ、あまりこの場に居座って馬に蹴られるのも嫌だ。私はそろそろ退散するとしよう。二人とも幸せに…な」
 「とりあえず貴方はその緩みきった脳みそを治す薬を探すべきですよ、割と本気で」
 
 最後の最後まで人様をからかってくれるエイハムに私は捨て台詞のようにそういう事しか出来ませんでした。それに後ろを振り返ったエイハムは受け流すように手をぱたぱたと振って去って行きます。まるで気にしていないその様子に悔しさを感じるのは仕方のない事でしょう。廊下の向こう側へと消えて行く彼を見据えながら、私は最後に一つ溜息を吐いたのです。
 
 ― まぁ…とりあえず…。
 
 ラウルの帰る場所は確保できたのです。これできっと最悪の結果にはならないでしょう。そう自分を納得させながら、私はそっと後ろの彼の様子を伺いました。そこにはまだ怯えの色が残ってはいますが、ひとつの目標を達成したことに清々しさを感じているエルフの表情があるのです。それに微かな羨望を感じながら、私はそっと口を開きました。
 
 「…とりあえずもう大丈夫ですし、離れてくれませんか?」
 「わわっ!…え、えと…すまん」
 
 私の言葉にようやく自分の体勢を思い出したのでしょう。驚きの声をあげながらラウルは弾かれたように離れました。同時に消える重さや束縛感を確認しながら、私はそっと振り返ります。再びラウルを真正面から見据えた私には真っ赤になった彼の顔が目に入りました。やはりまだニンゲンと触れ合うというのは彼にとってハードルが高いものなのでしょう。私としても同性と喜んで触れ合う趣味はないので、出来れば私で慣れようとしないことを祈ります。本気で。
 
 「…それじゃあ…まぁ…帰りますか」
 「…っ!あぁ!」
 
 私の言葉にラウルはそっと嬉しそうな色を浮かべて大きく頷きました。まるで主人に構ってもらった大型犬のような表情に私は微かな笑みを浮かべながら、そっと入り口へと歩き出します。その背をラウルがゆっくりと着いてくるのを感じながら、私は二人の住居に歩を進めていったのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「ここがあの男のハウスね!!」
 「…いや、まぁ、そうなんですが」
 
 玄関をくぐって開口一番に言われたラウルの言葉に私は思わず固まって振り返ってしまいました。ここまで外を歩いてきましたが、彼は特に何の問題も起こさずに着いてきてくれたのです。時折、周りの視線に私の袖を引っ張って不安を伝えてきましたが、それでも暴れる事はありませんでした。それについさっきまで安堵していたのですが…やはり彼には敷居が高すぎたのでしょうか。いきなり訳の分からない事を言い出した彼に私は思わず振り返って、心配してしまうのです。
 
 「…すまん。なんか言わなければいけないような気がして…」
 「…いや、謝らなくても良いんですが…大丈夫です?」
 「あー…うん。大丈夫…だ。お前が前を歩いてくれたし…袖も貸してくれたからな」
 
 殊勝な彼の言葉を信じるならば、とりあえずは安心しても良いでしょう。ここで私に遠慮する必要性がラウルにはありませんし、ここは信じても構わないはずです。とは言え…魔物娘が彼のトラウマになっているのは事実ですし、やはり外出は気をつけておかなければいけないかも知れません。流石に今までと同じ轍を踏むとは思いませんが、やはり彼一人での外出は出来るだけ避けるべきでしょう。
 
 「…まぁ、まだ流石に一人で外出はしない方が良いかも知れませんね。私と一緒であればいざトラブルが起こっても対応しやすいですし」
 「そう…だな。すまないが…頼む」
 「まぁ、この程度、今までと比べれば苦労でもなんでもないですよ」
 
 肩を落とすラウルに居心地悪く言いながら、私は再び前へと向き直りました。淡いクリーム色の壁紙が広がる廊下は簡素ながらしっかりとした作りをしています。木の床も年季が入っているとは言え、頑丈であるのが一目でわかりました。天井はそれなりに高く、私が手を上に伸ばしてようやく着くくらいです。幅も天井に合わせるように大きく、人二人が横に並んで歩くことが出来るほどのスペースを確保されていました。
 
 「…しかし、まぁ、思ったより豪邸だな」
 「まぁ、一般的な基準よりも家が大きいのは否定しませんよ」
 
 唖然とするラウルを先導するように私は歩き出しました。流石に先が見えないほど廊下が続いている訳ではありませんが、それでも扉までは結構な距離があるのです。下手をすれば数世帯が一緒に暮らせる家の中を私はのんびりを歩いて行きました。その後ろから借りてきた猫のようにゆっくりとラウルが着いてくるのが分かります。
 
 「私はまだまだ人間社会のことを知っているとは言い難いが…お前の歳でこんな大きな家を構えられるものなのか?」
 「まぁ、普通は無理でしょうね。というか、私もこれは正規の手段で手に入れた訳じゃありませんし」
 「…は?」
 
 問いかけられたラウルの言葉に正直に答えれば、彼から問い返させてしまいました。まだ人間社会勉強中の彼にとってはやっぱりまだ敷居が高かったのかも知れません。非正規の手段と言った後にラウルの視線が鋭く、それでいて不安がるようなものに変わったのを感じました。それを背中に受けながら、私は扉へと手を掛け、リビングの中へと入っていくのです。
 
 「…何か曰くつきじゃないだろうな、おい」
 「いえ、ただ、金を持ってる豪商と賭けをして勝っただけですよ」
 
 ― ただ、その時の勝負に酷いイカサマを仕掛けただけで。
 
 まぁ、とは言え、相手はこの辺りの海運シェアの20%を占める豪商です。魔物娘の影響でほぼ確実な航海が日々約束される今となっては、一般家庭から大きくかけ離れたレベルの邸宅など損害の内に入るとは言い難いでしょう。
 
 「それなら良いんだが…」
 
 そうは言いつつも警戒するようにラウルは左右を見渡しながらリビングの中へと入ってきました。基本的な色調は廊下とまるで変わりがありません。そこそこ数世帯が暮らせるほどの家だけあってそこは広々とした空間になっており、置かれているテーブルも六人は並べるものでした。そこから見えるキッチンも広々としており、一度に三人までなら料理が出来そうなスペースが確保されています。
 
 「…意外だな」
 「何がです?」
 「いや…一人暮らしってもっと汚いイメージがあったんだが…」
 「まぁ、否定はしませんよ」
 
 そんなリビングとキッチンを見渡しながら、ぽつりと呟やかれたストレートな言葉に私は肩を落としました。確かにこの屋敷はそれなりに大きく、部屋数も結構な量があります。しかし、家族住みであればメリットになるそれが一人暮らしにとっては無用の長物に他ならないのでした。それなりに綺麗好きではあるので、よく使う部分はマメに掃除してはいますが、寝室以外の個室は割と酷い事になっているでしょう。
 
 「一応、ここは普段使う部分ですからね。それなりに綺麗にしているだけですよ。まぁ、見ての通り…物がないですからね。一人でも掃除するのはそんなに難しくありません」
 
 私の言葉通りそこには最初から備え付けられていた物以外は殆どありませんでした。私は他者以上に物に執着を示すタイプではないのです。高価な調度品を買い漁る必要などはなく、テーブル以外には食器を収める棚がぽつんと置かれているだけでした。それ以外には目立ったものはなく、広々とした空間を何処か人間味の感じられないものにしているのです。
 
 「…待て。普段使う部分って事は…」
 「まぁ、勿論、普段使ってない部分はお察しって事ですね」
 「…それどう見てもこの家を使いこなせていない気が…」
 
 明け透けに言うラウルの言葉は正論でしょう。しかし、私も別に虚栄心でこの家を豪商からもぎ取った訳ではありません。一応、それなりに目算とメリットがあっての事です。それは私にとって部屋を使いこなせない事や掃除の手間が大きな事を差し引いても無視出来ない事であって…。
 
 「ここ立地が凄く良いんですよ。辺りは高級住宅街でこの街でもトップクラスの治安を誇る場所ですしね。ここでそう易々と事件など起こりません」
 「ふむ…つまり普段から人の恨みを買っているニンゲンとしては治安を気にするくらいで丁度良い…と」
 「察しが良くて助かりますよ」
 「私もお前に恨みを抱いている側だからな。一目で分かる」
 
 少しずつ言い返してくるようになったラウルの様子に私は彼から見えないようにそっと笑みを浮かべました。それもまたラウルが私に慣れ始めてくれた証拠でしょう。少なくとも…今日会った時のような遠慮するような雰囲気は少しずつ薄れ始めているように感じます。スタートダッシュに躓いたとは言え、少しずつ挽回出来始めている手応えを感じて嬉しい半面、そんな生意気なことを言われれば言い返さなければいけないのが私の性分で――
 
 「おや、それは怖い。なら、貴方を追い出さなきゃいけませんね」
 「うぐ…」
 「圧倒的に立場が弱いのに恨みだなんだと言い出すからですよ、まったく」
 
 切り返しの一つも考えないまま自分から墓穴を掘る彼に私はその笑みを深くしながらリビングを通り抜けました。そのままキッチンへと入り、シンクの横に置かれたケトルに水を入れます。そして、キッチンの端にある台の上にそのケトルを置いて、そっとルーンを撫でれば――。
 
 「う、うわっ」
 「ん?」
 
 ぼっと言う着火音と共に魔力の炎がケトルを温め始めました。その瞬間、聞こえてきた驚きの声に私は振り返ったのです。そこには後ろへと逃げるように後退りした姿勢のまま固まったラウルの姿がありました。
 
 「…ま、魔術も使ってないのに水が出て、火が点いた…だと…!?まさか…ルーンを…?」
 「その通りですよ。…と言うか貴方の家にも備え付けてあったはずですが…」
 
 魔物娘の参入と同時に急速に魔術的分野で発展を遂げたこの街はルーンを一般家庭にも普及させる事に成功しました。今では殆どの世帯で上下水道と魔力灯が整備されています。大きな区画整備事業を伴ったそれは魔物娘がもたらす利潤の殆どをつぎ込んで、近年、ようやく完成が見えてきたと聞きました。次には後回しになっていた街のかがり火を全て魔力灯へと変える事業があり、毎年続けられる公共事業で景気減退を防ぐつもりのようです。
 
 ― まぁ、それはさておき。
 
 「い、いや…つ、使い方がまったく分からなかったから…ルーンがあるのは知ってたんだが…私はルーンの意味を読み取れるような専門家ではなくて…」
 「…あぁ、なるほど」
 
 ラウルの言葉に私は二つの意味で納得しました。確かに何の説明もないまま――と言うか彼がコミュニケーションを取るつもりがまるでなかったのですが――では私だって分かりません。私とて使い方をしっているだけでこれらルーンがどのように影響しあって、この結果を生み出しているのかは知らないのですから。
 
 ― それと同時に彼の不可解な行動も。
 
 この一ヶ月、彼は数日に一回、街へと顔を出して騒動を起こすというサイクルを続けていました。それが何故なのかずっと疑問でしたが、キッチンの使い方が分からなかっただけなのでしょう。その為、どれだけ食料を買い漁ったとしても、数日毎には必ず外に出るしかなく、その度に騒ぎを起こしてしまっていたのです。
 
 「まぁ、これから追々、覚えていけばいいですよ。この街で暮らすには必須ですから」
 「あ、あぁ。…にしても、ニンゲンの技術は…面白いな」
 
 感嘆するようなその言葉は素直に受け取るべきでしょう。考えても見ればエルフはわざわざルーンなど使わなくても一人一人が大きな魔力を持っているのです。このように一般化させたルーンを社会の中に組み込むなんて必要性を感じなかったのでしょう。
 
 「まぁ、私たちはエルフと比べれば魔力も少ないですし、魔術の教養を持つ者も少ないですからね。だからこそ、生まれた技術であると私も思いますよ」
 
 ― そして…それこそが人間の強みであるとも。
 
 人間はエルフやドワーフに比べれば貧弱というレベルではありません。一般人レベルではまず勝てないでしょう。しかし、だからこそ、その技術を向上させる事で今、こうして世界中にうじゃうじゃと広がる事が出来ているのです。他の種族のように環境に適応するバイタリティを持たず、環境を人間に合わせる必要があったからこそこうして大きな街や交易路などが開拓されたのです。それは他の種族には決して無い特徴と言えるでしょう。
 
 ― …まぁ、だからこそ、人間は醜いとも言い換えられるんですが。
 
 個人単位での人間の殆どは弱いが故に、矮小で取るに足らない愚民です。それはエルフに指摘されるまでもなく、私とて分かっている事でした。エルフほど理性的でない人間は社会を作る中で信じられないような犯罪を起こしますし、誰かを蹴落として上へ昇りつめようとする人間も少なくはありません。かくいう私もその一つであるが故に…人間とは『弱さ』の『強み』と『弱み』を内包する矛盾した種族であると思えるのです。
 
 「確かにそう…だな。ニンゲンが故に生まれる技術…か。…そんなもの想像もしたことがなかった」
 「ラウル?」
 
 まるで自分の過去を思い返すようなその視線に私は思わず問い返しました。それに彼の瞳がふっと現在へと戻り、振り払うように頭を振ります。そのまま彼は逡巡を瞳に浮かばせながら、そっと私を見据えました。
 
 「あの…誤解しないで聞いて欲しいんだが…私は…ニンゲンとはもっと下等な種族だと思っていた。それこそ…エルフでは決して作れないような技術を開発するなんて里では誰も教えてくれなかったんだ。治安や立地条件なんて概念もそうだ。そんなの…私の生きてきた中では…いや、きっとエルフの皆は誰も考えなかったと思う」
 
 ポツリと独白するようなラウルの言葉を私は何も言わないまま聞いていました。勿論、今の時点では彼の言おうとしている事が何かまるで分からないという大きな理由もあるのです。しかし、それ以上に不器用ながらも必死で何かを伝えようとするこの直情型の青年の邪魔をしたくはなかったのでした。
 
 「だからと言ってエルフがニンゲンに劣っているなんて私には思えない。贔屓目かもしれないがエルフにだって優れている部分は沢山あるんだ。ただ…少しちょっと閉鎖的であるのを自覚していないだけで…」
 
 少しずつトーンダウンしていくのはその閉鎖的でありながらも優しかったであろう社会を思い出しているからでしょうか。そっと俯く彼の表情から何となくそんな気がするのです。
 
 「私がこんな事を言えた義理ではないのは分かってる。だけど…エルフ達は皆、知らないだけなんだ。だから…その…エルフを嫌わないでやってほしい」
 「…それって告白ですか?」
 「はぁっ!?」
 
 その過去を思い出すような表情を晴らしたい。そう願う私の口から出たのは揶揄するような言葉でした。それは勇気を出してこっちへと歩み寄ってくれたエルフに対して失礼な行為であるかもしれません。しかし、そうは思えども、既に戻れない過去への憧憬を瞳に浮かばせる彼の姿はとても痛々しいのです。見ていられないほどの諦観すら感じさせるそれは正直、見ていて愉快なものでは決して有りません。
 
 「だって、エルフそのものである貴方にそんな事を言われたら…ねぇ?」
 「ば、ばばばば馬鹿な事を!?と言うか、私たちは同性だぞ!!そ、そんな…同性同士だなんて…け、穢らわしい!!」
 「いやー私もそう思うんですが、ラウルにそこまで求愛されたらねー。いやーどうしましょう。これはとても悩みます」
 「人の話を聞けえええええっ!!」
 
 私の冗談に林檎のように顔を真っ赤にしながら、叫ぶようにラウルは返します。そこにはもうさっきまでの憧憬や諦観と言った感情はありません。ただ、溢れんばかりの羞恥を浮かばせる一人の中性的なエルフの姿があるだけです。それに安堵を抱きながら、私は話を本筋に戻そうと口を開きました。
 
 「まぁ、私にとってのエルフは今のところ、貴方一人です。エルフを嫌うのも嫌わないのも貴方次第って事ですよ」
 「う…そ、それは…そうかもしれないが…」
 「エルフの代表者としてこれからも頑張ってくださいね☆」
 
 とてもイイ笑顔で言い放った私の言葉に何故かラウルは肩を落としました。それが私の牽制であるときっと彼も気づいているのでしょう。言外に「エルフの代表として嫌われないようにしろよ」と念押ししているそれは正直、今更であるとも思うのですが、長い間、自暴自棄と混乱の最中にあった彼にとってはきっとそうではないのかもしれません。今更ながら、その肩に大きな責任が乗っかっているのを自覚しているように見えるのですから。
 
 「…ま、私はきっと大丈夫ですよ。貴方の事を嫌うと言うのはきっとありませんよ」
 「…どうしてそう言い切れるんだ?」
 
 ― その重さに押し潰されそうになっている彼をフォローしようと口に出たその言葉は殆ど無意識でありました。
 
 勿論、それは私にしては珍しくまったく根拠のない言葉です。未来のことを保証できるほど私は自分のことを信じてはいません。正直、明日にでも何かしらトラブルが起こればまったく正反対の感情を抱いている可能性は否定できないのですから。自分自身でさえ自分のことを信じていないのに他人に説明など出来るはずがありません。
 
 ― けれど…ラウルの瞳には何処か期待の色が浮かんでいて…。
 
 彼にとって見ればこの街で後腐れなく頼ることが出来るのは私一人なのです。そんな私に嫌われているというのはラウルの精神衛生上もとても宜しくないでしょう。そう考えれば彼のこの期待の色も分からなくはありません。そう思う私は彼をどうしても裏切る事が出来ず、適当な理由を探そうと必死で頭の中をひっくり返しているのでした。
 
 ― 私と貴方は似ているから?いや、それは流石に失礼でしょう。勘なんて論外ですし…うぐぐ。どうすれば…!?
 
 しかし、どれだけ頭の中をひっくり返しても無根拠な言葉を裏づけする言葉なんて早々出てくるものではありません。結局、言葉に詰まった私はその場を濁す選択肢しか選べませんでした。
 
 「いや…マゾである貴方であれば私の言うことも従順に聞いてくれそうですし」
 「まだその穢らわしいレッテルを人に貼るのかっ!!」
 
 段々、ツッコミの精度が上昇しているようにも感じる彼に私は申し訳なさと安堵を感じます。そこには強い羞恥の色が浮かんでいましたが、やはり何処か失望の色が否めません。やはり先に感じた期待の感情は気の所為ではなかったのでしょう。私の不用意な発言で期待させ、失望させてしまったのですから…私とて申し訳なさを感じるのでした。
 
 「まぁまぁ。それに…何だかんだ言って私たちは今、それなりに上手くやれているじゃないですか。アレだけ仲違いしていたのに、ですよ?」
 「それは…そうかもしれないが…」
 「楽観過ぎるのは問題ですけどね。でも、悲観しなきゃいけないほど今の私たちの関係は悪くない。少なくとも私はそう思っていますが…どうでしょう?」
 「ま、まぁ…そう…かもな」
 
 私の言葉に俯くようにしながらラウルはそう答えました。元々、彼は肯定の言葉を欲しがっていただけにそれが詭弁であると言う事に気づいてはいないのでしょう。騙しやすい…もとい、ちょろい…もとい、純真なラウルの反応に私は胸をなで下ろすのと同時に彼の将来が少し心配になってしまうのでした。
 
 「それよりも、ずっと立ったままじゃ辛いでしょう?座ったらどうです?ここはもう貴方の家なんですから」
 「…そうやって油断を誘って、気を抜いたらまた虐めるつもりなんだろう?」
 「当然ですよ。家主としての当然の権利です」
 
 諦めたようなラウルに返した言葉は私の本心です。別にそこまで追い詰めてやるつもりはありませんが、調子に乗ったラウルに『躾』をするのを躊躇うほど私は優しい人間ではありません。とは言え、テーブルに座った程度で文句を言うほど壊滅的に人格崩壊しているつもりはないのです。それよりも彼が立ったままの方が妙に落ち着きません。
 
 ― だからこその言葉にラウルは肩を落としながら反応し…。
 
 リビングの入口につっ立っていた彼はゆっくりとテーブルへと歩き出し、そのままおずおずと遠慮しがちに椅子に座りました。まだ何処かぎこちないその様子からは緊張が見て取れます。やはり人見知りの気があるラウルにいきなり知らない家で寛げと言うのはハードルが高かったのでしょう。
 
 ― まぁ、それならばそれでやりようはいくらでもあります。
 
 「…それで…お前は座らないのか?」
 「私はここでコーヒーを淹れているんでもう少しお待ちを」
 「コーヒー…?」
 
 私の言葉をリピートするようにラウルは問いかけました。そっと首を傾げるその姿には疑問の色が強く浮かんでいます。恐らくコーヒーと言う飲み物は彼にとってはまるで未知のものであるのでしょう。海路を経由してこの街に入ってくるコーヒー豆をエルフが知りはずがありませんし、ラウルがこの街に過ごしてきた一ヶ月は他人を拒絶していた期間でもあるのです。そう考えれば知らなくても当然なのかもしれません。
 
 「まぁ、早い話が眠気覚ましも兼ねる飲み物ですよ。…ちょっと中毒性がありますが」
 「おい。何か凄い不審な言葉が聞こえたぞ!!」
 「やだなー気のせいじゃないですか?」
 
 ― まぁ、コーヒーの中毒性と言っても対したものではありませんし。
 
 彼の反応が面白いのでわざわざ中毒性と言いましたが、それはかなり大袈裟な表現です。確かに慢性的にコーヒーを飲んでいる人間はカフェインを摂取しなければ頭痛などの症状を引き起こす事もありますが、一度や二度ではそんな症状は出ません。一度飲んだらまたすぐに次が欲しくなるというような強いものでは決してないのです。口に合わないのであれば止めれば良いですし、口に合ったのであれば常飲してもさほど害はありません。
 
 「まぁ、私が勧めると言う時点でお察しって感じですよね」
 「自分で言うな。…まぁ、わざわざそんな遠回しな言い方をするって事は安全なんだろうが…」
 「ソウデス。安全デスヨ」
 「…うん。ニンゲンが言うとまったく信用出来ないな」
 「やれやれ…酷い話です」
 「お前がな」
 
 そんな軽いやり取りを繰り返した瞬間、ケトルから空気が擦れる音がしました。中に入れた水が沸騰した合図でもあるそれに私は再びルーンに触れるのです。それだけでそっと消えた炎を確認してから、私は軽口を食器棚からコーヒー豆を取り出しました。既に私の手によって焙煎し、ミルで挽いてあるそれは薄茶色のフィルターの中に一杯ずつに小分けされています。
 
 ― まずはこれを開けて…っと。
 
 のりづけしてある部分をそっと外し、ドリッパーへ。三角錐の物体を受け入れるような形になっている部分にフィルターをセットし、ケトル内で温まったお湯を注ぐ。それだけでコーヒーを淹れるには十分です。しかし、何事も単純な作業こそ奥が深いもの。美味しく淹れるのには幾つか手間を掛けないといけません。
 
 ― まず重要なのはコーヒーの表面をならす事です。
 
 出来るだけ味にムラが出来ないように表面は水平に。またケトルからお湯を注ぐ時はまず中心から始め、渦の逆を進むように周囲へと広がらせていくのがコツです。蒸らしというこの作業は出来るだけじっくりとやるのが良いのですが、時間をかけ過ぎると豆のえぐさまで抽出されるのが考えものです。
 
 「わぁ…」
 「おや、気に入りました?」
 「…べ、別にそう言う訳じゃないが…」
 
 ― やれやれ…あんなに感嘆するような声をあげておいて素直じゃない人ですね。
 
 蒸らしが進み、少しずつコーヒーの香りがするのが分かったのでしょう。それほど手間を掛けていないとは言え、自分の作ったものでそんな風に反応して貰えるのは自分でも意外なほど嬉しいものでした。流石にティーンズの子どものようにはしゃぎ回るほどではありませんが、思わず頬が緩みそうになるのを感じます。しかし、それをラウルの目の前で見せる訳にはいかず、私は頬に力を入れながら、二つのコーヒーを仕上げに掛かるのでした。
 
 ― さて…ここからが正念場ですね。
 
 三角錐型のフィルターで蒸らしが良い感じになったのを確認してから私はまたケトルを持ち上げました。そのまま傾ける角度に細心の注意を払いながら、外側から内側へと渦を描き始めます。しかし、保温のルーンが刻まれたケトルの中で適度に保たれているお湯はさっきよりも勢いが弱っていました。意識するのは湯を注ぐよりも『湯を垂らす』と言う事。それが出来ればコーヒーはもう完成したも同然です。
 
 「よしっと…」
 
 良い感じに二杯分を抽出できたのを確認した私はそのままサーバーからコーヒーカップへと淹れたてを注ぎました。そして、盆の上に載せて、テーブルへと運んでいきます。そんな私の姿をキラキラと子どもっぽい視線で見ながらも、ラウルは大人しく座ったまま待っていました。穏やかであるが故に変化の少ないエルフの社会の中で生きてきたからでしょうか。何処かお預けを喰らっている大型犬を彷彿とさせるラウルのそんな姿に思わず笑みが零れそうになってしまうのです。
 
 ― やれやれ…これが私より年上かもしれないとは到底、思えませんね。
 
 外見年齢だけ見れば彼はまだティーンズも半ばと言った程度でしょう。しかし、エルフは人間とは比べものにならないほど長寿であるのです。外見年齢がそのまま実年齢とは一致しません。私よりも遙かに年下に見えるラウルが100歳を超えてもおかしくないのがエルフと言う種の長寿さを如実に表していると言えるでしょう。
 
 「そんなに涎垂らさなくてもコーヒーは逃げませんよ」
 「だ、誰が涎を垂らしているって証拠だよ!!ニンゲンじゃないんだからそんな卑しい真似などするものか!!」
 
 と言いつつも、口元を拭うのはやっぱり気にしているからなのでしょう。そんな可愛らしい姿を見るとどうしてもまた苛めたくなってしまいます。とは言え、自分の淹れたコーヒーを喜んでもらうことがとても珍しかったからでしょうか。自分でも意外なほど上機嫌になっている私はその衝動を抑えこみました。
 
 「さぁ、熱いから気を付けてくださいね」
 「あぁ」
 
 そう言って彼の前に白亜のカップをひとつ置いた後、私もまた座りました。ラウルの対面に当たるそこは彼の表情の変化をリアルタイムで見ることが出来ます。それに微かな満足を感じながら、私はカップを唇へと近づけて、ゆっくりと口の中へと流し込んで行きました。まだ熱いドロドロとした液体は何処かすっきりとした苦さを私に与え、豊かなコーヒー豆の香りを広げてくれます。流石に挽きたてには及びませんが、それでも淹れ方さえ気をつければそれなりの匂いと味は出せるのでした。
 
 「ほら、見ての通り毒はありませんよ?」
 「…別に口で言うほど疑ってる訳じゃない」
 「でも、安心したでしょう?」
 「…お前は卑怯だな本当に」
 
 遠回しな肯定の言葉を返しながら、ラウルもまたそっと口をカップへと近づけました。私と同じ男性とは思えない艶やかな唇がカップの縁へと触れる姿は何処か扇情的なものさえ感じさせます。きっとラウルの持つ危うい中性的な魅力がそれを引き立てているのでしょう。そう思う私の目の前で漆黒色の液体が彼の口の中へと吸い込まれていき――
 
 「に、苦っ!!!!!」
 
 叫ぶように言いながら、ラウルはその唇をカップから離しました。流石に口に含んだコーヒーを吹き出したり、カップから零すような真似はしませんが、それでも大きく揺れた身体がその衝撃を伝えてくれます。ある種、私の思い通りのリアクションをした彼に私は微笑みながら、自分のカップを再び傾けるのでした。
 
 「な、何だこれ!?毒!?」
 「それだったら私が飲みませんよ。ただ、そのままストレートで飲むのは初心者には余りオススメ出来ないだけで」
 「なんでそれを先に言わない!?」
 「聞かれなかったですから」
 「ホント、イイ性格してるなニンゲン!!!」
 
 素敵な褒め言葉をくれた彼に応えようと私は椅子から立ち上がりました。そのまま朝届いたばかりの牛乳とシロップを手に取り、テーブルへと戻ってくるのです。どちらも魔物娘から取れる物で作られてはいますが、味は間違いなく一級と言えるものでした。性欲が増強される事に目を瞑ればこれを使うだけで粗悪なコーヒーもそれなりの物へと進化するほどなのですから。
 
 ― まぁ、それをラウルに言うつもりはありませんが。
 
 魔物――いえ、インキュバス化した影響で未だ魔物を恐れている彼の前でそれが魔物娘由来の物であるとは流石に口には出来ません。子どもの好き嫌いではないのですから、そんな簡単に治せるものでも弄れるものでもありません。その程度の分別は私にもついているのです。
 
 「まぁ、今度はこの牛乳とシロップを入れてみてください。勿論、量は自己責任で」
 「…自己責任ってあたりが凄く怖いんだが…と言うかそもそもこれを淹れるとどうなるんだ?」
 「…チッ」
 「なんでそこで舌打ちをするんだ!?」
 
 ― …いや、ホント、弄ってて面白い人ですね。
 
 打てば響く楽器のようにリアクションを返してくれる事に私は内心、とても喜んでいました。こんな掛け合いをしたのは一体、何時ぶりでしょうか。『彼』がいなくなってからは久しくなかった気がします。ウィルソンは虎視眈々とこっちを弄る機会を狙っていますし、エイハムは何を言っても受け流される相手なのですから。少なくともこうして交流した相手は私の人生の中で『彼』以外にはありません。
 
 「…ニンゲン?」
 「…あぁ、いえ、すみませんね。普通に片方だけでも両方入れても味がマイルドになりますよ。多めに入れれば甘くもなりますし」
 
 一瞬、意識が過去に引き戻されるのを感じましたが、それはラウルの言葉で中断されました。それに微かな感謝を感じるのは思い返せば返すだけ辛くなるだけと自覚しているからでしょう。『彼』はもう帰ってこないなんて私にだって分かりきっている話なのです。それなのに『彼』との思い出を掘り返した所で傷口を抉る結果にしかなりません。
 
 「……」
 「?」
 
 そんな私の顔を何処か不機嫌そうにラウルは見つめていました。それに首を傾げますが、特に気に障った事をしたつもりはありません。いや、プライド高いエルフが弄られるのを気に障らない訳がありませんが、それはもう今更な話と言えるでしょう。別に今回よりももっと酷い事をしていたり、言っていたりするのです。それに比べれば幾分、優しい私の言葉でここまで不機嫌になるとはあまり思えません。
 
 ― …まさか優しくされたから不満って訳でもないでしょうし。
 
 段々、私の中でラウルのマゾ疑惑が真実味を帯びてきているとは言え、流石にそこまで倒錯した趣味の持ち主だとは思えません。実際、比較的柔らかい言い回しをするだけでこの純朴な青年は喜んでいるのですから。その姿を何度も見て、感じているだけに罵られないだけで不満を浮かばせるとはどうしても考えられないのです。
 
 「…どうかしました?」
 「…別になんでもない」
 
 結局、答えの出せない私はそう言いましたが、ぷいっと拗ねたように顔を背けられてしまいました。何処か子どもっぽいその仕草は甘えているが故のものなのでしょう。最初からは考えられないほど進んでいる二人の関係に喜びつつも、理由の分からない彼の態度に私は首を傾げるしかありませんでした。
 
 「それより…これからどうするんだ?」
 「そうですね…」
 
 微妙な表情を見せながらも言われた通りにミルクを少量ずつ入れて味見をするラウルに私は思考を探りました。別にこのままのんびりとして夕飯まで進んでも構わないのですが、今まで最低限の維持しかされてこなかったこの家の掃除も必要でしょう。何より彼のベッドや衣服、ショーケースなどを買わなければいけません。
 
 「とりあえず家の場所も把握できた事ですし、もう一度、街へと出ましょうか。ベッドや衣服なんかも買わなければいけませんから」
 「あぁ…そういえば元々、一人暮らしだから色々足りていないのか…。…いや、だけど…家具はやっぱり値段が高いのだろう?あまりニンゲンに金を使わせる訳には…」
 「まぁ、貴方が床で寝たいというのであれば私は構いませんけどね」
 「だから、そんな趣味なんて無いと言っているだろうニンゲン!!」
 
 相変わらず良い反応を返してくれる彼に私はそっと肩を落としました。確かにベッドや衣服、ショーケースなどを揃えれば結構な額が私の懐から吹き飛んでしまうでしょう。それはただでさえ貯蓄が半減した私には痛すぎる出費です。しかし、家具や衣服などは生活必需品であり、これまでと同じではありません。これから先のことを考えればケチる事すらしたくないのが正直な所です。
 
 「実際、今更、遠慮されても困ります。そもそも私は既に貴方が起こした騒動の慰謝料なんかこれまでの貯蓄の半分を吹き飛ばされているんですよ?既に迷惑度で言えば頂点を超えてるんですから、もう少しくらい甘えなさい」
 「しかし…」
 
 それでもラウルは納得できないように食い下がりました。やはり元々、根は真面目で優しい青年なのでしょう。過度に迷惑は掛けたくはないという心情がそこには表れていました。とは言っても、彼が代わりに差し出せるものなんて一つ足りとてありません。唯一、彼が持っている美しさも私がそれに興味を持たない以上、木偶同然です。
 
 「安心なさい。タダとは言いません。いずれ別の形で返して貰いますから」
 「うっ…ま、また無茶を言い出したりはしないだろうな…?」
 「それはこれからの貴方の心掛け次第ですよ」
 
 思いっきり顔を歪めたラウルにそう言いながら、私はブラックコーヒーを再び唇へと運びました。それを見た彼もまた足元を確かめる子どものようにおずおずとコーヒーを飲みます。しかし、今度はそれを吹き出す事はありません。味と香りを楽しむようにほっとした表情を見せてくれるのでした。
 
 「まぁ、今すぐ貴方がその身体を差し出してくれるというのであればそれでも構いませんが」
 「っ!げ…げほっ…げほげほっ!!」」
 「おや、大丈夫ですか?」
 「だっ!だだだだだ、大丈夫な訳あるか!!!」
 
 私の言葉に急にむせ返った彼はそれでも顔を真っ赤にしながら私を睨めつけました。きっと強い視線で睨むようなそれは下手な人間であれば怯みかねないものでしょう。しかし、ついさっきまでむせていた彼の目尻には微かな水の粒が浮かんでいるのです。涙とも言い切れないそれが彼の迫力を数段引き下げ、寧ろ可愛らしいものに変えてしまっているのでした。
 
 「こ、このっ!!ひ、人の弱味に漬け込んで身体を要求するなんて…な、なんて不埒な奴だ!!」
 「おや?私は当然の権利だと思っていましたが」
 「と、当然?ふ、ふざけるな!!確かに掃除や洗濯をする事は私から言い出したが、そ、そんな性欲処理までするつもりは…」
 
 ― ふっ…取りましたよ。
 
 欲していた言葉が彼から繰り出されるのを感じて、私は内心、笑みを浮かべました。わざわざ遠回しな言い回しをしたのも全てはラウルからこの発言を引き出す為です。それが成功したのを感じた私はまだやかましく吠えている彼が落ち着くのを待って、そっと反撃の言葉を口にするのでした。
 
 「…ぜー…はー…」
 「…で、性欲処理って何のことです?私が要求したのはあくまで『貴方が身体を使ってこの家を掃除する事』であるんですが」
 「うぐっ…」
 
 その言葉にこれまでのやり取り全てが罠であることに気づいたのでしょう。ラウルはあからさまにバツの悪そうな顔をしながら言葉を詰まらせました。きっとその脳裏ではこの状況をどうやって打開しようかと必死で考えているのでしょう。しかし、一度、捕まえたネタを私が易々と手放すはずがありません。彼が言い訳を口にするよりも先に言葉を畳み掛けるのです。
 
 「おや…、まさかエルフ様ともあろう者が身体を差し出すって言うだけで不埒な事を考えてたんですか?」
 「そ、そんな訳あるか!」
 「じゃあ、一体、どんな風に考えたのか私に教えて下さいますか?」
 「そ、それは…」
 
 ― しかし、どれだけ説明しようともさっき口にした『性欲処理』と言う言葉を誤魔化す事は出来ません。
 
 明後日の方向に視線を彷徨わせながら何とかラウルは言葉を口にしようとしますが、それは全て意味のない音の羅列に過ぎませんでした。「あ〜」や「う〜…」と言う言葉しか出ない口をそのまま一分ほど動かし続けていましたが、彼は諦めたようにそっと肩を落とします。
 
 「…お前は酷い奴だ」
 「最高の褒め言葉ですよ」
 
 敗北宣言とも言えるそれに私は満足感を感じながら、再度コーヒーカップを口へと運びます。少し冷めた漆黒の液体をそのまま全て嚥下し、白亜の底を露にしました。それを私はテーブルの上へと戻し、落ち込んだ顔をするラウルに向かって再び口を開くのです。
 
 「まぁ、ちゃんとこの家を維持してくれればそれで十二分に働いている事になりますよ。実際、広すぎて掃除の手が行き届かないので、ハウスキーパーでも雇おうと考えていた所ですしね」
 
 ― それは別に慰めでもなく本当のことでした。
 
 耐用年数は長いとは言え、家も消耗品です。使わない部屋がどんどんと劣化していくこの家を私は持て余し始めてさえいたのでした。とは言え、折角、苦労して手に入れたこの家を手放すのは惜しく、家政婦の一人でも雇うのを視野に入れていたのです。それはラウルと言う厄介事の出現で水泡に帰してしまいましたが、彼がこの家を維持してくれるのであれば私にとってとても助かるのは変わりません。
 
 「…お前は優しいんだか酷いのかわからん奴だな本当に」
 「…ただの飴と鞭ですよ」
 
 ― クスリと笑みを浮かべるラウルの表情は私にとっては少し眩しすぎるものです。
 
 人を疑うことを知らないような純朴な笑みはスれた私とはあまりにも対照的過ぎるのです。真正面からそれを見るのは妙に気恥ずかしく、私は視線を明後日の方向へと彷徨わせてしまいました。ただ、彼を弄りたかっただけなのに、一体、どうして立場が逆転しているのか。その答えを見つけ出せないまま、私は話を打ち切るようにそっと立ち上がったのでした。
 
 「それよりあんまりのんびりはしていられませんよ。もう昼過ぎですしね」
 「あぁ…そうだな」
 
 この街の商店は夜に生活の比重を置く魔物娘に合わせてかなり早い時間に閉まってしまうのです。陽が落ちる前に店を閉めるのが珍しくないこの街では昼過ぎは決して油断出来るような時刻ではありません。少なくともベッドやショーケースなどの一生物になりかねない買い物をするには心許ないと言えるでしょう。
 
 「まぁ、最悪、同じベッドで寝るって手もありますが」
 「だ、だだだだだ、誰がニンゲンなどと同衾などするものか!!」
 「…まぁ、そうでしょうね」
 
 最近、忘れがちではありますが、ラウルはプライド高いエルフなのです。人間の見方そのものは見直してはくれましたが、やっぱりまだ『穢らわしい』と言う印象を拭えるほどではないのでしょう。それに私とて見目麗しいとは言え、同性と同衾する趣味はありません。出来れば睡眠は…なんていうか救われてなきゃいけないのです。…一人で…静かで…。
 
 「…ニンゲン?」
 「…いえ、すみません。まぁ、それが嫌なら早めに行動あるのみですよ」
 
 そう言葉を打ち切って、私はカップをキッチンのシンクへと運びました。その私の後ろからラウルも同じようにカップを運んできてくれます。それは私と同じように白亜の底が透けるほど飲まれていました。最初こそ苦味に忌避する様子すら見せていましたが、そこそこ気に入ってくれたのでしょう。そう思うとコーヒー派としてはそれなりに嬉しく思うのです。
 
 「それじゃあ行きましょうか」
 「あぁ」
 
 二つのカップをシンクへと置いた私がそう言うとラウルが玄関へと歩き出します。その背を追いかけながら、私はコレから先必要になるであろう必需品のリストを頭の中に描き出していくのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「…し、死ぬ…」
 「お、大袈裟ですよ」
 
 そうは言いつつも、私もまた彼と同じように疲労困憊なのは否定出来ませんでした。何とか誤魔化そうとしていますが、腕が微かに震えているのは一目で分かってしまうでしょう。しかし、そうしなければ私の両手に持つ荷物を運べないのもまた事実でした。
 
 ― そんな私たちの両手には溢れ返るような荷物があって…。
 
 私とて衣服が一着や二着分で着回せば良いと言うほどオシャレに無頓着な人間ではないのです。エルフに自分を飾り立てる『オシャレ』という概念があるのかは知りませんが、誰もが美人だと言うであろうエルフは見栄えがしやすいのは私も理解していました。目の保養にもなりますし、似合う服の十着程度であれば買ってやろう、そう思っていたのがつい数時間前の事で――
 
 ― しかし、私の身体には百着近い数の衣服がのしかかっているのです。
 
 両手だけでは持ち切れない衣服は背中に背負ったリュックの中にも入っていました。それらは全て最初に覗いた洋服店の店主から頂いたものです。ラウルを見て「ティン」と来たらしいその店主はアレよアレよと言う間に彼を着せ替え人形にしてしまったのでした。独特のオネエ言葉で擦り寄ってくる店主――女装をした大柄な男性でした――をラウルは当初、身体を固まらせる程、怖がっていましたが、最後の方は自分でも嬉々として衣服を選んでいたのです。
 
 ― …そこまでは良かったのです、そこまでは…。
 
 その着せ替えショーの度に意見を求められるのは辟易しましたが、彼が喜んでくれるのであればそれで良かったのです。ベッドやショーケースを選ぶ時間はなくなりましたが、私の休日は明日までですし、別に明日また外出しても構いません。そう思っていたのが覆されたのは、店主がラウルの着た衣服を全て私たちに押し付けようとした辺りからでした。
 
 ― 勿論…それらはその道のベテランが選んだだけあってとても彼に似合っていましたが…。
 
 しかし、全てとなるととても持ち帰れるものではありません。そもそも代金だって支払いきれるような量ではなかったのです。しかし、元来がデザイナーであるらしいその店主はラウルから「天啓にも近いアイデアを受け取った」と私たちにその衣服を押し付けようとしてきたのでした。結局、押しの強い店主から山のような衣服を受け取ったのがつい1時間前。それから街中の視線を浴びながら我が家の白亜の壁が見えてきたのが丁度、今なのです。
 
 「…うぅ…も、もうやだ…」
 「…もう少しですから我慢して下さい…」
 
 そう何度も弱音を吐くラウルの背中には私から比べればかなり少ない量が乗っかっています。しかし、元来それほど肉体労働が得意ではないエルフにとってはそれは重労働も良い所なのでしょう。彼より多少鍛えている私とて重量を緩和する風の魔術を使っていなければ、ここまで辿りつけなかったくらいなのですから。
 
 「…あのニンゲンには今度、絶対、文句言ってやる…」
 「まぁ…受け取った私たちが悪いとも言えるんです…がね…」
 
 所詮、衣服だと甘く見たのが運の尽きでした。下手な荷物よりもよっぽどかさばり、そして重いそれらは着実に私たちの体力を奪っていました。それでも、まだ弱音を吐く体力こそ残っているとも言えますが、弱音を吐かなければ心が折れそうなのが正しいと言えるでしょう。きっと弱音を吐く体力すらなくなった時こそ、私たちが潰れてしまう時なのです。
 
 ― まぁ…とは言え…。
 
 一歩一歩を踏みしめるように進む私たちの前には白亜の壁が広がっていました。ほんの数時間だけ離れただけで妙に懐かしく感じるその壁は夕日の色が差し込んで赤く染まっています。まるで私たちの惨状そのものなその壁を超え、小山のような荷物を庭に置いて鍵を開ければ……。
 
 「…う…おぉぉぉぉ!!!」
 「死ぬかと思った…本気で帰れないかと思った…」
 
 雄叫びに近い声をあげながら、ガッツポーズを取る私と崩れ落ちるように座り込むラウル。まるで対照的な二人ですが、我が家への到着を喜んでいるのは同じです。流石に両手を打ち合って、喜びを分かち合うような真似はしませんが、お互いを見る目に讃え合う響きがあるのはきっと私の気のせいではないでしょう。
 
 「もう今日は絶対外に出ないぞ!!出ないからな!!」
 「同感です。テコでも出ませんとも」
 
 そう共通認識を分かち合いながら、背中の荷物をどさりとその場に置きました。それだけで人が二人が並べる廊下の大半が専有されてしまいます。こんな大きなものを自分が運んできたと考えるだけで自分を讚えたくなりました。そんな自画自賛を胸に抱きながらよろよろとリビングへと進んだ私たちはそのまま示し合わせたように椅子へと座り、テーブルへと身体を預けます。
 
 「…しかし…結構、働いた所為か腹が空いたな…」
 「そうですね…私もですよ」
 
 思い返せば昼からエイハムの所に顔を出していたので昼食も摂っていないままなのです。そんな状態であれだけの重労働をしたのですから、身体がカロリーを強く求めていました。微かな痛みすら訴えるそれに応えるように私は現在の食料の備蓄を思い出そうとして――
 
 「あ」
 「…あまり聞きたくない気がしますが、どうした?」
 「…食料を買い忘れてました」
 「んなっ!?」
 
 不覚にも…あまりにも不覚過ぎるそれに私はぞっと身体に重荷がのしかかるのを感じました。ただでさえ疲弊した身体が気疲れによって、さらに重くなるのは不快を通り越して気持ち悪さにすら到達しています。ゴリゴリと心理的余裕を削るその気持ち悪さを感じながら、私は一つ溜息を吐きました。
 
 「な、なんで忘れてたんだ!?」
 「とは言われましても…ね…」
 
 食料はあくまで生鮮品です。長い間持ち歩けばそれだけ劣化していく事になるのですから、後半に持っていくのは当然の流れでしょう。そして、その前に挟まれてしまった山のような衣服が食料買出しを完全に霞ませてしまったのです。
 
 ― しかし、覚えていても買い出しは不可能だったでしょうし…。
 
 私たちの両手だけでは収まり切らない衣服が背中にものしかかっていたのです。通行の邪魔になるほどの量は私たちの受け止められるリソースを全て使い切っていたと言い切っても良いでしょう。そんな状態でさらに買い出しなど覚えていても不可能に決まっています。
 
 「そもそも覚えていても買い出しは無理だったでしょう?」
 「う…そ、そうかもしれないが…」
 
 未だ玄関とリビングとを繋ぐ廊下に放置されている衣服の山を思い返したのでしょう。ラウルは小さく呻きながら、同意を返しました。彼とてどうにもならなかったであろうことは分かっているはずです。それでもこうして反論をするのは、やっぱりそれだけラウルにも余裕が無い証なのでしょう。
 
 「…だが…どうする?もう閉まっている店も結構あるぞ?」
 「そうですね…」
 
 今日はラウルがこの家にやってきた初日です。出来れば盛大に手料理を振舞ってやろうと思っていました。しかし、今からではそれも不可能でしょう。食料の買い出しを行っている間に日は落ちて、夕食がさらに後へとズレこむのが目に見えていました。既に昼食を抜いている私がそれを我慢できるかと言えば結構、微妙な所でしょう。
 
 ― とは言え…わざわざ外へ食事を摂りにいくのも…ねぇ。
 
 閉店時間が早いこの街でも食事処は結構、遅くまで開いている事が多いのです。私も料理する時間がない時に顔を出す店がこの辺りにも2、3はありました。そこに行けば食事に食いっぱぐれないでしょう。
 しかし、ここで問題になるのはラウルがエルフと言う点です。私が傍に居た所為か、ラウルが爆発することはありませんでしたが、それでも道行く魔物娘たちに大きな警戒心を抱いていたのは私も見ているのでした。そんな彼が魔物娘も多く働いているであろう夜の店へと出かけて、素直に食事を楽しめるとは思えません。
 
 ― まぁ…そうですね。折角ですし…。
 
 「仕方ないですね。お金を出すのでラウルが適当に買ってきて下さい」
 「は、はぁ!?」
 
 私の言葉にラウルは信じられないように返しました。それも当然でしょう。何せ私たちはさっき今日は外へは出ないと共通認識を持った仲なのですから。しかし、そんなもの非常事態――食料が足りないという未曽有の大危機です――にはタダの紙切れにもなりません。世の中と言うのはかくも無情なものなのです。
 
 「ふ、ふざけるな!私だって疲れてるんだぞ!!」
 「そんな事言い出したら私は貴方の二倍近い量を運んだじゃないですか」
 
 彼の持っていた量もかなりのものでしたが、私の運んだ分はそれを遙かに上回るものであったのです。魔術による補助があるからと私が多く運ぶなど言わなければ良かったと後悔するほどの量は私にも確実に疲労をもたらしていました。無論、彼とてそれは同じでしょうが、魔術の制御をずっと続けてきた私も負けないほど疲れているのは事実なのです。
 
 「それに貴方は居候で私は家主ですよ?貴方に拒否権などあると思っているんですか?」
 「ぬぐぐ…き、汚いな流石ニンゲンきたない」
 「汚いは…褒め言葉ですよ」
 
 ぐったりとテーブルに突っ伏したままの敗北宣言に私はそう返しましたが、同じように突っ伏しているのでまったく様にはなりません。それを自覚しながら私はゆっくりと震えそうな足に力を込めてテーブルから立ち上がるのです。
 
 「まぁ…貴方一人で外に出すなんてやっぱりまだ不安ですしね。簡単な物しか出来ませんが、適当に作りますよ」
 「…じゃあ、なんでわざわざ私を外に出そうとしたんだ…」
 「貴方を虐めるのは心の潤い兼ライフワークですから」
 「今日から共同生活始まったっていうのに本当に遠慮がないな、ニンゲン…」
 
 そう疲れ果てた声を漏らしながら、ラウルはテーブルから起き上がる気配を見せません。やっぱりかなり疲れているのでしょう。運搬用の魔術構成は教えましたが、初めて使う魔術の制御をしながら身体を動かすのはエルフとて辛かったようです。何度か彼の魔術が途切れるのも感じましたし、その小さな身体に大きな疲労がのしかかっているのは私も分かっていました。
 
 ― しかし…こうして見ると本当、中性的ですね。
 
 テーブルに突っ伏すその肩は私と同じ男性とは思えないほど細いものでした。顔から零れ落ちるような新緑色の髪は一本一本が透けるように細く、みっともないはずの姿を何処かつややかなものに変えていました。出会った頃よりもさらに小振りになったような気がするその顔もその印象をさらに引き立てています。最初は確実に男性であると言い切る事が出来ましたが、今は正直、その自信がありません。
 
 ― まぁ、今更、ここで女性でしたーなんてオチはないでしょうけれど。
 
 彼は何度か「同性」という言葉を口にしているのです。どちらかと言えば、狐に近い表情をしている私はお世辞にも女顔とは言えませんし、彼が私を女性と見間違う事は決してありません。つまり彼が「同性」だと言っている以上、彼もまた男性であると言うことは意図的に性別を隠そうとしていない限りはないでしょう。
 しかし、意図的に性別を隠そうとする理由が彼にはありません。少なくとも性別を隠して男性と共同生活するよりも、ちゃんとした女性と一緒に暮らしたほうがラウルとしても身の危険が少ないはずなのですから。今日、こうしてマトモにコミュニケーションを取るようになった私の事をそこまで信用しているという事もありえないですし、性別を誤魔化そうとするメリットよりもデメリットの方が遙かに大きいのでした。
 
 「…どうした?」
 「あ、いえ、なんでも」
 
 そんな事を考えながらも不躾に彼へと視線を落とす私に気づいたのでしょう。ラウルは不思議そうにそう言いました。しかし、私の内心を正直に吐露すれば、ラウルとて激昂するでしょう。一部の例外を除けば、女性に見間違われる事ほど男のプライドを傷つける事はないのです。ましてや私はこれから彼が共同生活を営もうとする相手。そんな相手から言われれば、鈍感な彼とて身の危険を感じるに違いありません。
 
 「それより私も疲れていますからホント、簡単な物で構わないですよね?」
 「あぁ…何が出ても食べられたら文句は言わんぞ」
 「…流石にそこまで期待されないのは傷つきますね。まぁ、期待されても困るのですが」
 
 そう言いながら、私はキッチンへと足を踏み入れました。そのまま手を洗い、シンク台の下から大きめの深鍋を取り出して、水を入れるのです。八分目ほど水が溜まった後、それをルーンの上へと持ち運び、着火しました。強い炎に煽られて、ゆっくりと温度をあげていく鍋を見ながら、私は戸棚から乾燥パスタを取り出します。
 
 ― まぁ…量は少し多めでも構わないですよね。
 
 ラウルがどれくらい食べるのか私は知りませんが、私は今、お腹が空いているのです。正直、一人前では到底、足りません。彼が残した場合も私が処理出来ますし、ここは三人分くらい一気に茹でるのが良いかも知れない。そう考えて私は小分けにしてある乾燥パスタの束を3つ掴みました。
 
 ― それを脇へと置いて…と。
 
 かなりの水量であるだけに鍋はそう早く沸騰までは進みません。その間にソースの準備をしようと私は再びシンク台の下からボウルを取り出し、その中へと戸棚から取り出した卵、ハードタイプのチーズ、荒く挽いた黒胡椒などを入れて混ぜていきます。卵のダマが目立たない程度に消えれば、今度はフライパンを取り出し、そこにオリーブオイルをさっと回しかけました。
 
 ― そのまま着火…と。
 
 深鍋の横に並べられたフライパンに熱が通るのを確認してから、弱火に切り替え、自家製の薄切りパンチェッタをさっと投入。色が変わり始めたら香り付けに白ワインを少量、振りかけ、水分を飛ばします。その間に深鍋の方が沸騰しているのを確認した私は塩を二摘み入れてから、パスタを深鍋へと入れました。ぐつぐつと沸騰する鍋の中でゆらりと揺れるパスタがくっつかないように注意しながら、私は時折、棒で鍋をかき回します。
 
 ― その間に今度は白ワインの水分が飛んでいるので…。
 
 フライパンに茹で汁をお玉一杯程加えます。そのままソースがトロっとする程度で火を止めて、こっちは放置。後の仕上げまで放っておきます。その間に茹で上がるパスタはアルデンテで止め、フライパンの方へと投入しました。そのまま先にパンチェッタを絡め、馴染んで来たらようやくボウルに入れた卵ソースの出番です。
 
 ― 後はこれを適当に絡め合わせて…と。
 
 火を止めてからそれなりに時間がたっているフライパンで絡み合う二つのソースの融和は時間との勝負です。熱すぎても冷めすぎてもいけない二つのソースは手早く絡み合わさなければいけません。三人分のパスタをその下を潜らせるように馴染ませながら、私は再び着火し、弱火にします。
 
 「…なんていうか…」
 「ん?なんです?」
 
 卵が半熟のジェル状になるまで弱火で温めれば完成です。そのカルボナーラを二つの皿に手早く分けながら、いつの間にかこっちを見ていたラウルにそう返しました。その間も卵は予熱でどんどんと硬くなっていくのです。それを防ぐためにも熱々のフライパンから早めに脱出させなければいけません。
 
 「…思ったより手際が良くて驚いた」
 「貴方、私を本当になんだと思ってるんですか…」
 
 そう言いながら自分の方を味見をすればまぁ、悪くはない味だと思います。トロっとしたソースの中に卵の旨味と濃縮されたパンチェッタの脂と塩味が踊りました。その後に広がるオリーブオイルとぶどうの微かな香りが後押しをし、最後に粗挽き黒胡椒が味を引き締めるのです。欲を言えばもうちょっと塩味が欲しいかもしれませんが、今の時点でもそれなりに完成していると思って良いでしょう。
 
 ― まぁ、詳しい味付けは本人にやってもらうとして。
 
 半熟で止められた卵ソースに黄金色のパスタが絡む姿は一人暮らしの男性としては非の打ち所のない出来であると言えるでしょう。それに微かな満足を抱きながら、私は二つの皿を手に持って、テーブルへと足を進めました。
 
 「いや…なんていうか簡単なものだって言うから…卵焼いて出されるだけかと…」
 「…その方が良いんでしたらそっちにしますけど?」
 「い、いや、そういう訳じゃないぞ決して!!」
 
 私の言葉に焦ったように返す彼に小さく笑いながら、私はそっと彼の前に皿を置きました。そのまま自分の方にも皿を置きつつ、フォークやコップなどを戸棚へ取りに行くのです。ついでに出しっぱなしの牛乳も途中で掴んだ私はそのままテーブルの準備を整え、自分の席へと戻るのでした。
 
 「まぁ、手間が掛かっているかいないかで言えば間違い無く掛かってない料理ですしね」
 「そういうものか…?」
 「だって、やったのはパスタ茹でてソース作っただけですから。しかも、素人がですよ。手順だってオリジナリティに溢れるものでもありませんし、知ってれば誰だって出来る料理です」
 
 私の言葉にそっとラウルの眉が跳ね上がりました。細く美しいその眉の動きは特に気に留めていなかった私にも分かるほど劇的です。しかし、どうして彼がそんなに苛立ちを露にするのか私には分かりません。ただ、自分の料理を手間がかかっていなと説明しただけなのですから。
 
 「…なんでお前はそんなに自分に厳しいんだ?」
 「え?」
 
 別にその言葉が私の耳に届いていない訳ではありませんでした。はっきりしっかりと私に届いたその言葉に聞き返したのは、その意味が良く分からなかったからで…。
 
 ― 私が自分に厳しい?
 
 今までそんな事考えたこともありませんでした。寧ろ私は自分に甘い人間であると言えるでしょう。ついつい激昂してラウルの傷を抉ったのも記憶に新しい事実です。今日一日だけでも自分の衝動に従って、彼を弄り倒したのですから。そんな私が厳しいなんて悪い冗談にしか聞こえません。
 
 「…いや、すまん。何でもない」
 「…そうですか」
 
 彼がどうしてその言葉に至ったのか気にはなりましたが、そこで言葉を打ち切ったということはラウルに説明するつもりはないということなのでしょう。ならば、それに深く踏み込んでやるのも可哀想です。これまでも何度か振りかざしてきた家主権限を使えば言わせるのも楽ですが、ラウルとの関係を悪化させてまで知りたい情報でもありません。
 
 「それより…手伝わなくてすまない」
 「いえ、構いませんよ。貴方はまだこの家の配置も知らないでしょうし」
 
 それはさっきまで私一人で食事の準備をしていたことを言っているのでしょう。しかし、彼はこの家の何処に何があるかも知らないのです。私よりも遙かに体力がないであろうラウルの体調も省みれば、一々、怒るほどの事ではありません。流石に当然のようにふんぞり返られれば、殴りたくもなりますがこうして謝ってくれるのであれば水に流しても構わないと思えるのでした。
 
 「まぁ、洗い物は手伝って貰いますよ。これからは貴方の仕事になるんですから」
 「あぁ、分かってる。食べた分はちゃんと働くさ」
 
 そう言って、ラウルは牛乳を注いだコップをこちらへと手渡してくれました。それを私は受け取りながら、フォークを手に取るのです。そのまま彼が自分の分を淹れるのを見ながら、私は待ちました。
 
 「ん。待たせてすまん」
 「いえ、今、来た所ですから」
 「…なんだそれは」
 
 私の冗談に軽く笑いながら、ラウルもまたその手にフォークを持ちました。それを確認してから私はそっと口を開くのです。
 
 「頂きます」
 「いただき…ます」
 
 ジパングかぶれのウィルソンから教わった食事の挨拶をしながら、私は自作のカルボナーラにフォークを突き立てました。そのままくるくると回して絡んだ黄金色のパスタを口に運べばさっきと遜色ない味と匂いが広がります。それに軽い安堵を感じながら、私はラウルの顔をそっと伺いました。
 
 「ん…」
 
 きっとパスタなんて始めて食べるのでしょう。私の見様見真似で必死に食べようとする彼の姿は何処か滑稽で、だからこそ可愛らしいものでした。食べ方が分からないのであれば、私に聞けばいいのにとも思いましたが、このプライド高いエルフにとって人間に教えを乞うのはそれなりに屈辱なのでしょう。その気持ちがまだ分からないでもないが故に、弄ってやりたくもありましたが、流石に食事時にラウルで遊ぶほど私も悪趣味ではないのでした。
 
 「あ…美味しい…」
 
 そう考えて再びカルボナーラにフォークを突き立てようとした私にラウルの自然な声が届きました。自分でも意図していないであろうその言葉はだからこそ彼の本心であると訴えるようなものです。久しく聞いたことのないその言葉は私の心に突き刺さり、麻薬のような歓喜を広げていくのでした。
 
 「塩味が足りないなら塩を入れても構いませんよ。量が足りないなら今日の朝買った白パンも残っていますし」
 「いや…このままでも十分だ。ありがとう」
 
 ― そっと微笑む彼の顔を見てから私は自分で何を言ったのかようやく気づきました。
 
 特に何もしていないのに自分から手を差し伸べるなんて、私らしくないにもほどがあります。普段であれば弄りに弄り倒した後、ようやく飴一個をくれてやるような比率なのですから。何の打算もなく、単純に好意だけで優しい言葉をかけるなんて普段の私には考えられない事でした。
 
 ― …私らしくない…か。そう思うのも何時ぶりでしたかね…。
 
 『彼』がこの街に残っていた頃はまだそう思う事もそれなりにありました。『彼』だけが私にとって打算も何もなく付き合える相手であったのですから。そんな『彼』がいなくなってから私はどんどんと私らしい私に近づき続けていたのです。しかし、それが今、一瞬とは言え崩れていました。それが私にとって不思議で…。
 
 「…ニンゲン?」
 「…いえ、すみませんね」
 
 不審げなラウルの言葉に現実に引き戻された私はそう謝りながら、二口目を口へと運びました。それを咀嚼する私の顔に彼の視線が向けられるのを感じます。何か伺うような、考えるようなその視線に首を傾げましたが、その理由もまた私には分からないままでした。
 
 「…なぁ、ニンゲン」
 「なんです?」
 「…食事の時にこういうのを聞いて良いのか分からないが…お前の親はどうしているんだ?」
 
 ― それは彼にとってとても勇気の要る質問だったのでしょう。
 
 彼はその親から追放されたも同然の身の上なのですから。親にとって聞く事がどれだけラウルの心の傷を抉るのかは察するに余りあります。しかし、痛みに揺れる瞳ではありながらも私を見据えていました。その真意までは私には分かりませんが、それなりに覚悟があって踏み込んでいるのでしょう。ならば、私もまた嘘偽りなく真正面から応えるべきでしょう。
 
 「二人共、存命で元気ですよ。父親はここからそう遠くない商会で会計士をやってます」
 「…なら、一緒に暮らそうとは思わないのか?この家はそれだけの大きさがあるだろう?」
 
 確かにこの家であれば両親との同居だって可能でしょう。いえ、普通であればそれを目的に購入したと思ってもおかしくはないのです。もしかしたら自分を住まわせる為に両親を追い出した…なんてストーリーが彼の中では展開されているのかもしれません。しかし、自立出来るようになってすぐ両親の元から離れた私にとって両親という存在は他人も同然でした。
 
 「思いませんよ。私にとって両親は私を生み出した存在以上ではありませんし」
 「…嫌いなのか?」
 「嫌い…と言うのはちょっと違いますね。私にもどう口にして良いのか分かりませんが…」
 
 そう前置きしてから私はそっと頭の中を整理しました。今まで意図的に思考の外へと追いやられていたそれを誰かに説明するのは気恥ずかしさを超えて不快でもあります。しかし、ラウルがなけなしの勇気を絞って踏み込んできてくれたのですから無碍にも出来ません。そう思いながら整理した言葉を私はそっと唇に載せ始めました。
 
 「信じられないかも知れませんが…両親ともに私とは違い、誠実で優しい人間なんですよ」
 「…嘘だろう?」
 「まぁ、そう思いますよね。私だってそうですから」
 
 ― 言いながら、思い出すのは『善人』であった両親の事。
 
 真面目が故に商会の会計士を任された父と、父を支えている事を自慢にさえしている母。二人は仲睦まじく、それだけ切り取れば理想の夫婦に見えるかもしれません。しかし、そこに私という異物が混ざった時、それは何処かぎくしゃくしたものになってしまうのです。
 
 「それなりに躾もされましたし、長男ですから愛情も注がれたと思いますよ。でも…生来の気質がまったく合わなかったんです。それでも大喧嘩したりするほどではありませんでしたが、仲良しこよしという雰囲気ではなかったのは確かですね」
 「……」
 「だから、私は自立出来るようになってから…つまり寮が完備されている警備隊に入れるようになってから、両親の元から飛び出しましたよ。それから連絡一つよこしてはいません。きっとここに住んでいる事も知らないんじゃないですかね?」
 
 出来るだけ彼が思い悩まないように軽く言い放って見ましたが、ラウルの表情は晴れません。やはり聞いたことを後悔しているのでしょう。私としてはもう十年以上前の話であり、当時もまったく気に病んでいなかったのでそんな顔をされると逆に困ってしまいます。しかし、それをラウルに幾ら言った所で彼の表情は晴れないでしょう。
 
 「まぁ…別にだからと言って自分が不幸だと思ったことはありませんけどね。お陰様で私は『彼』に出会えたんですから」
 「…『彼』?」
 
 ならば、親元から離れて良かった事を述べようと紡いだ言葉にラウルは強い興味を示しました。さっきまでの辛そうな表情を薄れさせ、意外そうに私の顔を見る彼に微かな安堵を抱きます。しかし、これはあくまで一時的なものに過ぎません。本当に彼の後悔を取り除くためにはここから話を広げなければいけないでしょう。
 
 「えぇ。今も私が所属している警備隊の研修中に一緒の班になったんですけどね。いやぁ、最初から『彼』はとても馴れ馴れしかったものです」
 
 ― 思い返すのは『彼』と最初に出会った研修時代の事。
 
 他人に興味を示さないどころか拒絶していた私に『彼』は何度も猛烈なアタックを仕掛けてきました。顔を見れば話しかけ、興味のない話を延々と繰り返すのです。基本的に他人なんてどうでも良いと思っていた私は鬱陶しくなり、何度も追い返そうとしましたが、『彼』がめげる事はなく纏わりつかれるように傍に近寄って来られたのでした。
 
 「けれど…まぁ、その馴れ馴れしさのお陰で私と『彼』は友人になれたんですけれどね」
 
 『彼』を突き放そうとするのが馬鹿らしくなり、傍に来られても適当に流せるようになった頃から私たちの関係は少しずつ変化していきました。少しずつ…私のパーソナルスペースは『彼』に侵され、『彼』が傍に居る事が不快ではなくなってきたのです。その内、私からも適当に話をするようになり、共に街へと出かけるようになった頃には『彼』は私にとって唯一の『友人』になっていたのでした。
 
 「…意外だな」
 「まぁ…私も友人なんて出来ると思っていませんでしたよ」
 
 ある種、失礼な言葉ではありますが、私はそれを笑って流す事が出来ました。両親でさえどうでも良いと思っていた私に『友人』とはっきり言えるような相手が出来るなんて私だって思っていなかったのです。『彼』と出会う前の私が「友人が出来た」なんて聞いたとしても、悪い冗談にしか思えなかったでしょう。
 
 「…そうじゃない。意外だと言ったのは…お前の顔がとても嬉しそうだったからだ。…本当に良い友人なんだな」
 「…えぇ。私などには勿体無いくらいの友人でしたとも」
 
 『彼』は両親と同じく私とはまったく方向性の違う相手でした。しかし、決して潔癖という訳ではなく、私の嫌味や冗談などを受け止めてくれる器量すらあったのです。私を受け入れるほどの懐の大きな男性。それが私の唯一の友人である『彼』なのです。
 
 「でした?」
 「『彼』は今、行方不明なんですよ。まぁ、この街で確認された最後の夜では魔物娘と一緒だったと言う証言がありますし、きっと無事だとは思いますが」
 
 ― とは言え、例え生きていたとしてももう二度と会えるかどうかさえ定かではありませんが…。
 
 『彼』は常々、グレースと言う名のデュラハンの事を気に掛けていました。ずっと昔に約束した幼馴染の少女の事を。私は何度もそれを止めさせようとはしましたが、『彼』は頑なに私の見知らぬ少女のことを想い続けていたのです。それが成就したのか――あの祭りの日に『彼』と共に一緒に居たというデュラハンが件の『グレース』であったのかは私には分かりません。しかし、彼が殆ど何も言わずに消えたという事がその証左であるようにも思えるのです。
 
 ― だとしたら…私に出来る事は『彼』の幸せを祈る事くらいでしょう。
 
 『彼』がこの街に戻ってきてくれるのを望んでいないといえば嘘になってしまいます。しかし、かと言って、長年、想い続けた相手との逢瀬を邪魔したいとはどうしても思えないのでした。友人として寂しいのと同時に、友人だからこそ私は『彼』の幸せを祈るしか出来ないのです。
 
 「…だから…か」
 「何がです?」
 「いや…なんでもない」
 
 ぽつりと呟かれたラウルの言葉に私は聞き返しました。得心のいったようなその言葉に一体、何を納得したのかどうしても気になってしまうのです。
 しかし、ラウルの返答は私の問いを誤魔化そうとするものでした。どうして誤魔化そうとするのかは分かりませんが、私に言えるようなものではないのは確実でしょう。ならば、一々、気にしても仕方が無いと私は思考を打ち切り、少し冷めてしまったカルボナーラに再びフォークを潜らせるのでした。
 
 「まぁ、私の話はこれで終わりですよ。それより早く食べればどうです?カルボナーラは冷めると食べられたものではありませんし」
 「あぁ…そう…だな」
 
 ― それからは無言の時間が少し続いて…。
 
 お互いに距離を測り合うようなそれは私にとっても馴染みの深いものでした。ラウルとも最初はこうしてお互いに無言であったのですから当然でしょう。しかし、彼がさっきの話題を口にするまでは和やかな雰囲気であったのです。その落差の所為か、今の私には妙に寂しいように感じてしまうのでした。
 
 「ご馳走様でした」
 
 そう食事の終了を宣言しながら私は自分の分の食器を手に取り、シンクへと運んでいきます。彼の脇を通り過ぎる際、傍目で彼の方を見れば、彼は少し俯いたままゆっくりと口を動かしていました。その胸中が一体、どうなっているかは私には勿論、分かりません。しかし、彼が落ち込んでいるのだけはその暗い背中を見ればすぐに感じ取る事が出来るのです。
 
 ― …まったく。面倒くさい人ですね…。
 
 そこまで落ち込むのであれば踏み込まなければ良いのに、と思わない訳でもありません。しかし、この青年は少しばかり感情が走り過ぎる傾向にあるだけで決して考えなしな訳ではないのは私にも分かっていました。きっとそう理解しても踏み込まなければいけないような理由があったのでしょう。そう考えればどうしても彼を責める気にはならず、私は食器に水を浸しながらゆっくりと口を開くのでした。
 
 「どうでも良いですが…そんなに落ち込んでいると弄ってもらいたいんだと判断しますよ?」
 「んなっ!?そ、そんな訳ないだろうが!!」
 
 お互いに背中を向けながらの会話にラウルが食いついたのを感じた私は内心、笑みを浮かべました。こうしてからかってやれば、少しは気が紛れるでしょう。
 
 「そんな全身から構ってオーラ出しておいて否定されても…ね。それに私が弄るくらいしか構い方を知らないのは貴方だって理解している事でしょう?」
 「ぬぐぐぐぐぐ…」
 「ほらほら、悔しかったらちゃんと立証できる反論をしてみてはどうですか?」
 
 ― …まぁ、出来るはずがないんですが。
 
 そもそも私が言っているのはあくまで主観的な見方に基づいたものでしかありません。何らかの数値や物証として、「構ってオーラ」が出ているなんて証明出来るはずがないのです。それでいて、相手に明確な立証を求めるのですから性質が悪いと言わざるを得ないでしょう。しかし、今の頭に血が昇ったラウルにはそこまでは思い至りません。悔しそうに歯噛みする様子だけが背中から伝わってきました。
 
 「まったく、そこまで貴方がマゾだったなんて…これからの接し方も考えないといけませんね」
 「だ、だから、その穢らわしいレッテルを人に貼ろうとするんじゃない!!」
 「しかし、今までの貴方の行動を考えれば…ねぇ?」
 「それはお前の誤解と曲解に依るものだろうが!!」
 
 ― それは、まぁ、否定出来ませんが。
 
 しかし、それこそ一部でしかありません。ラウルを茶化すためにその行動を曲解したのは少なからずありますが、決してその全てではないのです。正直、彼がわざわざ弄ってもらいたいがゆえに反抗しているのだとしか思えないような事も少なくはありませんでした。最初こそ私の冗談にしか過ぎなかったマゾというレッテルは意外と本当の事に思え始めてきているのです。
 
 「いや、しかし、貴方が進んで目に見えるレベルの落とし穴に突っ込んでいるのは事実ですよ?」
 「そ、それはその…」
 「まさか聡明なエルフ様がニンゲンにだって分かるレベルの落とし穴に引っ掛かるなんて事ありませんし、わざとに決まってますよね?」
 
 ― それは一種の究極の二択であると言えるでしょう。
 
 否定をすればエルフの格を下げる事になりかねず、肯定をすれば自分がマゾだと認めるも同然なのですから。どちらにとってもラウルにとっては選びがたい選択なのです。だからこそ、恐らく次にラウルは否定も肯定もしない選択肢を取るのでしょう。
 
 ― ならば、そこからも詰めていってやりますとも。
 
 今まではそれを敗北宣言と受け取って、話を打ち切っていました。しかし、今回は少しばかり話が違うのです。早めにラウルを解放すれば、この直情的な青年はまた落ち込みかねません。まだ彼の心の中にあるであろうモヤが晴れたという確信はありませんし、もうちょっと引っ張るべきでしょう。
 
 「…本当にお前は酷くて…優しい奴だな」
 「…は?」
 
 ― そう思っていた私の計画はラウルの言葉によって微塵に帰してしまいました。
 
 今まで酷いと言われた事は少なからずありました。いえ、正直、今回も「卑怯」や「酷い」と言われると思っていたのです。故に前半部分は私にとって予想通りでありました。しかし、私の予想を完全に粉微塵にしてくれたのはそれ以降の後半部分――つまり私を優しいと評した部分の事で…。
 
 「…ついに被虐趣味が高まりすぎて頭のネジがぶっ飛んだんですか?エイハムの所に戻ります?もっとも彼でも頭の病気を治すにはかなりの時間がかかりそうですが…」
 「お前はもうちょっと言い方と言うのを考えろ!!」
 
 呆れたように言いながらそっと振り返ればラウルもまたこちらを振り返っていました。お互いに首を回しての会話ほど不毛なものはありません。私はシンクからそっと移動し、再びテーブルへ――私を優しいと評したお花畑な青年の前に座りなおしたのです。
 
 「そうじゃなくてだな…。…色々、酷い事は言っているが…なんだかんだいってお前なりに私を構って…つまり励まそうとしてくれているのだろう?」
 「む…」
 
 ― …それは確かに否定出来ない言葉でした。
 
 彼を弄るという行為で誤魔化そうとはしていましたが、ラウルを励まそうとしていたのもまた本心です。とは言え、それは別に優しいからなどではありません。これから否が応にも顔を付き合わせないといけない相手がこれみよがしに落ち込んでいるのが鬱陶しかっただけに過ぎません。
 
 ― しかし、それをはっきりと口にするのは妙に癪で…。
 
 何せそのままそれを口に出せば、まるでメドゥーサが言うような言葉になってしまうのです。俗に言う「ツンデレ」のような台詞を誤解されても困りますし、そもそも男性が言うには不適格にも程があるでしょう。故に私は本心そのものを口にするのではなく、煙に巻く方向性を選ぶのでした。
 
 「自意識過剰じゃないですか?それともそんなに私が良い奴に見えます?もし、そうでしたら今すぐにでもメガネを購入するのを薦めますよ」
 「…またそうやって自分を貶める…」
 
 どう聞いたとしても、貶められているのは彼の方でしょう。しかし、ラウルはそれに対する怒りも見せず、何処か呆れているような表情を見せました。ふぅと一つ溜息を吐いて、肩を落としながらラウルは明後日の方向へと視線を彷徨わせます。まるで今の私とは目も合わせたくないと言うようなその態度に私は首を傾げる事しか出来ません。
 
 「…まぁ、お前が褒められるのが苦手だって分かっただけでも収穫にしておこうか」
 「んな…!?」
 
 ぽつりと呟かれたラウルの言葉は私にとって心外にも程があるものでした。当たり前ですが私だって褒められた事は少なからずあるのです。それは嫌味混じりの物も多かったですが、今更、それを気にするような細い神経をしていません。寧ろ嫌味混じりで褒められた事を誇りのように思ってきたのですから。そんな私が褒められるのが苦手だなんてあり得ません。
 
 「何を根拠にそんな馬鹿な事を…」
 「根拠はない。ないが…お前が今、そうして否定しようとしているのがある意味、一番の証拠だと私は思うぞ。別に褒められるのが苦手と思われてもお前にデメリットはあるまい?それに今までであれば軽く流していただろうしな」
 
 勝ち誇ったような笑みを浮かべながらのラウルの言葉は穴だらけにも程があります。少なくとも私にとって決して納得できるものではありません。あくまで彼が口にしているのはさっきの私と同じく主観の話なのですから。幾らでも理由付けできるそれは曲解以外の何者にも思えませんでした。
 
 「それこそ曲解だと私は思うんですがね」
 「まぁ、それでも私は構わんよ。私がそう思ってこれからはお前を褒めるようにするだけだからな」
 「むぐ…」
 
 ― そう言われると私に何の反撃の手段はありません。
 
 ここでムキになって否定しようとするとラウルの言葉を肯定する事になってしまうのです。そうなれば彼は我が意を得たりとばかりに私を褒め殺ししようとしてくるでしょう。否定も肯定も出来ない状況の中で私は一つ溜息を吐きました。
 
 ― …ついさっき私がその二択を迫っていた側だったはずなんですけどね。
 
 いつの間にか逆転されているということに目の前の青年の聡明さを垣間見た気分です。今までの印象では決してそうは思えませんでしたが、やはりエルフが聡明だというのは嘘偽りやプロパガンダではなかったのでしょう。出来ればそれはもっと違う形で知りたかったですが…。
 
 「…とりあえずさっさと食べて下さい。食器が片付かないですから」
 「おや?片付けは私の仕事じゃなかったのか?ニンゲンよ」
 「むむむ…」
 
 ― どうやら私は思ったより混乱しているみたいです。
 
 ついさっき彼に言った台詞さえ失念している自分自身を自覚した私は再び深く息を吐き出しました。肺の中身を入れ替えるようにゆっくりと吐き出すようなそれが終わった後、今度はゆっくりと吸い込み始めるのです。肺の中一杯に新鮮な空気が満ちるのを感じる私を見ながら、ラウルは再び口を開きました。
 
 「ふふ…思ったよりお前は可愛いな」
 「…同性に…いや異性にだって言われても嬉しくない台詞上位にランクインすると思いますよそれ。後、馬鹿な事言ってないでとっとと食べて下さい。一応、作った側としては冷めるのは悲しいんですからね」
 「はいはい。分かってる」
 
 私の言葉を軽く受け流しながら、ラウルはようやくフォークを動かすのを再開しました。それを視界の端で捉える私に向かって、時折、ラウルが微笑みを向けてくるのです。何処か勝ち誇ったものさえ感じるそれに復讐を誓いながら、私はテーブルに肘を突いたまま時間を過ごしました。
 
 「ご馳走様…だったっけか」
 「えぇ。合ってますよ。お粗末さまです」
 
 そう言いながら立ち上がり、私と同じようにシンクへ食器を運ぶ彼の後ろ姿を私は座ったまま見つめました。細い肩やモデルのような歪みのない背筋は下手な女性よりもよっぽど美しいものです。それなりに武芸をかじってはいますが、私だってあんなに美しい立ち姿が出来る自信はありません。それにある種、不公平なものを感じながら、私は口を開きました。
 
 「水の出し方は分かりますか?」
 「あぁ、うん。何度か見てたから分かるはず…だ。うん。よし。大丈夫」
 
 元々、人間よりも遙かに魔術に適正を持っているからでしょうか。早くも器具を使いこなす彼に私は安堵しながら、私はカチャカチャと食器を擦れ合わせる音をさせるラウルの後ろ姿を見つめました。
 
 ― …まるで新婚生活みたいですね。
 
 後ろ姿だけならば女性にしか見えないラウルがキッチンに立っている状況は新婚ほやほやの夫婦のようでした。とは言え、私と彼が同性であることに疑いようはありませんし、新婚以上に問題やわだかまりが残っているのです。それらを解消する事が出来るかどうかは分かりませんが、とりあえずこれから次第なのは間違いないでしょう。
 
 ― やれやれ…本当に面倒ですね。
 
 自分が抱え込んだ厄介事の大きさを今更ながらに自覚した私は溜息を吐きたくなりました。しかし、それでもラウルを追い出すような気分にならないのは不思議です。寧ろそれよりも遙かに穏やかで優しい気持ちになるのはどうしてなのか。私にすらその答えは出せないままでした。
 
 「ん。終わったぞ」
 「お疲れ様です」
 
 そんな考え事をしている間に洗い物は全て終わったみたいです。キッチンの中から出てくる彼を見ながら私は軽く労いました。それにラウルは軽く頷きながら、再び席に戻ります。洗い物は自分の役割だったと言っていた事は嘘偽りなどではなかったのでしょう。手際の良いラウルの動きはこのテーブルからでも十二分に分かったのでした。
 
 「とりあえず今は水気を落として後でタオルか何かで拭くからな。その後は…まだ食器の位置も分からないし…」
 「えぇ。後で教えますよ」
 「頼む」
 
 そう言ってラウルはふぅと一息吐きました。やはり慣れない家での生活は彼にも大きなストレスを与えているのでしょう。しかし、今日はラウルがこの家にやってきた初日なのです。予定の半分もこなせなかった分、まだ休ませてあげる訳にはまいりません。
 
 「さて…それじゃあ落ち着いた所で決めるものは決めておきましょうか」
 「ん。そうだな」
 「とりあえず…差し迫って必要なのは今日の貴方の寝床ですね」
 
 まず始めに買う予定だったベッドは結局、買えないままであったのです。まずはそれを決めなければどうにもなりません。他にも教えたりしなければいけないことがありますが、これを決めなければ休めもしないのですから。
 
 「一応、応接室の方にソファがあるといえばありますけれど…」
 「この家にソファなんてあったのか…。お前のことだからテーブル一つで十分だとか思ってそうだったが…」
 「最初から備え付けてあったんですよ。ついでですしサービスで貰いました。と、それはともかくですね。ベッドの代わりになるものはありますが、毛布が足りないんです」
 
 基本的に物にも執着を見せない私はこの家にも殆ど物を持ち込みませんでした。あるのは最低限の物だけであり、勿論、自分が使う以外の毛布はその中には含まれていません。そして季節が冬に入り込もうとしている今、毛布無しで眠るのは少しばかり身体に悪すぎるでしょう。
 
 「まぁ、最悪、エイハムの所に毛布を借りに行けば良いだけの話なんですが…」
 「…お互い外には出たくないしな…」
 「それにこの時間はもう診療所を閉じていますしね。イチャイチャしてる最中に邪魔なんぞした日にはどれくらい根に持たれるか分かったものじゃありません」
 
 エイハムの根っこは善人寄りであるとは言え、その思考そのものは私に酷似しています。私にそのような相手が居たことはありませんが、肩透かしを食らった苛立ちを邪魔者に向けるのは確実でしょう。ある意味、私よりも性質が悪い彼の機嫌をそんな下らない事で損ねるのは全力で遠慮したい事であるのです。
 
 「と言う訳で、同じベッドで「却下だ」ですよねぇ…」
 
 言葉の途中で遮るほどの拒絶に私は肩を落としました。とは言え、私とてこの提案が受け入れられるとは思っていません。どれだけ見目麗しくても同性と寝床を共にする趣味は私にはないのですから。
 
 「まぁ、それならあの無駄にある衣類の山を活用するしかありませんね。アレを二重三重と身体に被せれば防寒具の代わりにはなるでしょうし」
 
 毛布そのものとは比べ物にはなりませんが、それでも秋口の寒さ程度であれば遮る事も可能でしょう。その代わり身体に掛かる重さは毛布よりも遙かに高いでしょうが、それを味わうのは私ではありません。それは居候であるラウルの運命なのです。
 
 「…どうしてそういう建設的な意見をお前は先に言わないんだ…」
 「貴方の反応が面白いからですよ」
 
 ぐったりと肩を落としながらも反論を口にしないのは、私の案に賛成しているからでしょう。あくまでとりあえずではありますが、寝床の件はこれで解決したと思っても問題はありません。最優先で片付けなければいけない問題が片付いたのを感じて、私はそっと胸を撫で下ろしました。
 
 ― では、次は…と。
 
 「…それと関連する事案ではありますが、あの山ほどある衣類もどうするか決めなければいけませんね」
 「あー…」
 
 玄関からこのリビングまでを塞ぐような衣類の山はどう言い繕っても邪魔でしかありません。まだ彼の部屋も決まっていませんし、決まった所で掃除しなければ使えるようにはならないでしょう。その為、とりあえず仮にではあるものの、何処か通行の邪魔にならない所へ運ばなければいけないのです。
 
 「まぁ、寝床の関係もありますし、応接室で構いませんか?」
 「私としては何処でも置いておけるのであれば有り難い話だが…良いのか?」
 「まぁ、応接室に案内するような相手がこの家にやってくるとは到底、思えないですしね」
 
 一応、私は警備隊の中で中隊長代理という中間管理職に就いています。しかし、それはあくまで中間管理職というだけで、わざわざ家に招かなければいけないほど政治的なものが強い立場ではありません。出世欲はそれなりにありますが、応接室を大事にしなければいけないほどの立場にまで登りつめたいとはあまり思えないのです。
 
 「じゃあ…お言葉に甘えるか」
 「えぇ。その代わり貴方一人で運んでくださいね?」
 「え」
 「え」
 
 ピタリと硬直したラウルの言葉を私はそのまま聞き返しました。しかし、それは当然でしょう。だって、私は街中をかなりの荷物を持って歩いてきたのです。それは私自身のメリットを追求したのではなく、ただ、ラウルの手伝いをしただけに過ぎません。玄関と応接室の往復まで手伝ってやる義理はないのです。
 
 「なにそれこわい…あ、あれだけの量を私一人で運べと…?」
 「そもそもアレ、全部、貴方の服でしょうに。私が運ぶ義理なんてありませんよ」
 
 途中からノリノリで試着していたラウルに私はそう返しました。エルフが幾ら非力とは言え、運搬用の魔術まで教えたのです。次の日のことさえ考えなければ、あの量を運搬するのは決して無理無茶ではありません。明日は筋肉痛になるかもしれませんが、そんな事、私は知ったことじゃないのです。
 
 「うぅ…もっとちゃんと断れば良かった…」
 「まぁ、後の祭りって奴ですね」
 
 肩を落とすラウルを見ながら、私の頭の中はこれからの予定を組み立てていました。まだ色々と教えなければいけない事がありますが、とりあえず相談しなければいけない事はほぼ終わりでしょう。とは言え、これで安心…という訳にもいかないのです。コレから先にはまだ山ほど彼には教えないといけない事があるのですから。
 
 ― まぁ…なにはともあれ。
 
 「…とりあえずコーヒー飲みます?」
 「…貰おう」
 
 肩を落とすラウルを慰めるように言った私の言葉は微かなタイムラグの後に彼に受け入れられました。彼も意外とコーヒーを気に入ってくれたのかも知れない。そう思うと妙に嬉しくて、私の頬が綻んでしまいそうになるのを感じます。
 
 「それじゃあ少し待っていてくださいね」
 
 そう前置きしてから立ち上がった私は、今にもテーブルに突っ伏しそうな彼とはまったく違う軽い足取りでキッチンの方へと向かったのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「…ふぅ…っはぁぁ…」
 
 熱湯というほど熱くもなく、微温湯というほど冷めてもいない。そんなお湯の中に身体を沈めた私は身体の奥底から沸き上がる衝動に従って、そんな息を吐きました。それを湧き上がる湯気と桃色のタイルが響かせ、風呂の中へと反響させるのです。
 
 ― いやぁ…やっぱりこれは中々のものですね。
 
 この街でも珍しい横広な浴槽とシャワーという形式に私は何度思ったか分からない言葉を胸中に浮かばせました。正直、その効果を味わうまではこんな大きな浴槽など不必要だとさえ思っていたのです。しかし、実際にこうして浴槽の中でのびのびと足を広げて、身体の芯まで温まる経験をしてみるとそれ抜きでは生きてはいけません。
 
 ― ラウルもこの感じを気に入ってくれれば良いんですが。
 
 今もひぃこら言いながら必死で応接室まで衣類を運んでいるであろう彼を思って、私は微かな笑みを浮かべました。ある種、勝ち誇ったようなそれは決して彼が苦しんでいるであろう時間にこうしてリラックスしている優越感だけではありません。きっとラウルもこれを気に入ってくれるという確信があるからこその笑みでした。
 
 ― それにしても…今日は本当に色々ありました…ね。
 
 浴槽の淵に腕を敷き、その上に後頭部を預けるようにしながら私は今日の事を思い返しました。エイハムの診療所へと出向いてから、私の家へと到着し、今度は買い物へ外出。それから始めての料理を食べて、細々とした事を相談し、教えて――。
 
 ― …色々ありすぎて一日じゃなかったようにも感じますね。
 
 これだけイベントが盛り沢山だった日は私の人生の中でも殆どなかったと言っても良いでしょう。それだけに私の身体は疲労の色を濃くしていました。しかし、その疲労が浴槽に貼られたお湯の中に取り込まれ、消えて行くのです。妙に癖になるその感覚に再び深い息を吐きながら、私はそっと目を閉じました。
 
 ― その脳裏に浮かぶのは今日一日の反省点です。
 
 あれが失敗した、これが失敗した、ここはこうしておけば良かった。そんな下らないifが私の脳裏に溢れ、通り過ぎていくのです。勿論、その全てを省みる事なんて出来ません。一日に浮かんだ反省点の全てを治せるようならば、私は今頃、完璧な人間になっているでしょう。しかし、それでもしないよりはよっぽどマシだと私は毎日、風呂の時間にこうして反省を繰り返しているのでした。
 
 ― 別に…完璧な人間になりたいと思ってる訳でもないんですけどね。
 
 しかし、私は一般的な人間よりも遙かに問題点の多い性格をしているのです。それを今更、矯正したいとは思っていませんが、もっと角が立たないようなやりようはあったはずだと思うことは少なからずあるのでした。そしてその轍を二度と踏まないように、と私は反省を欠かすことが出来ないようになっていたのです。
 
 「ふぅ…」
 
 一通り今日の反省を終えた私は暖かなお湯に見を委ねながら一つ溜息を吐きました。眠気を誘う絶妙な暖かさは気を抜けば、そのまま眠ってしまいそうです。今日は小さな丘くらいはありそうな量の衣類を運んでいましたし、身体に疲労が溜まっていました。このまま目を瞑っていてはマズイ。そう考えた私は再び瞳を開き、薄くもやがかかった浴室を視界に入れました。
 
 ― まぁ、あんまり長風呂し過ぎるとラウルが可哀想ですしね。
 
 基本的にゆっくりと風呂に入りたい私は既に何十分とこうしてリラックスしているのです。私が入浴する少し前から重い身体を引きずるようにして運び始めた彼がもう終わっているかは分かりませんが、終わっていてもおかしくはない時間でした。その場合、ラウルは私がこうして入浴している間、汗を掻いた身体で手持ち無沙汰になっているでしょう。流石にそれは少しばかり可哀想に思えて、私は浴槽からゆっくりと立ち上がりました。
 
 「んん〜っ」
 
 そのまま大きく伸びをして身体の中に溜まった乳酸と眠気を絞り出した後、私は浴室から出ました。淡い象牙色の壁紙に染まった脱衣所が私を迎えてくれます。既に敷いてあるバスマットの上に足を置きながら、私はバスタオルで身体を拭き始めました。全体の水気をしっかり拭き取り、髪も念入りに乾かした後、私は用意してあった新しい下着を穿いて脱衣所から出ていくのです。
 
 「上がりましたよ」
 「んあ…」
 
 リビングに繋がる扉から出た私の言葉に答えたのはテーブルに突っ伏したラウルの間抜けな声でした。もう動く気配もない辺り、きっと運び終えた後に体力が尽きたのでしょう。ぐったりとしたその姿に私は笑みを浮かべながら、水分を求める身体に従ってキッチンへと入っていくのでした。
 
 ― さーて…冷たい水は…っと。
 
 水の精霊であるウンディーネの加護を存分に無駄遣いするこの街の水道施設は冷たい水から温水まで選択することが出来るのです。流石に全ての家庭で、とは言いませんが、上流階級の家であれば切り替え装置も完備されているのでした。その恩恵を一銭の身銭も切らずに手に入れた私はうきうきをキッチンへと踏み入れたのです。
 
 「んなああああああっ!?」
 「は?」
 
 そんな私の歩みを止めたのは世にも奇妙な叫び声でした。男とも女とも取れるその声に振り向けば、ついさっきまでテーブルに突っ伏していたラウルが上体を持ち上げて、私の方を指さして居たのです。何処か唖然とした表情で口を開閉する様は、まるで魔王にでも出会ったような顔でした。しかし、指をさされる私にはその理由は分からず、彼の言葉を待つしか出来ません。
 
 「なっななななな、なんで裸なんだ!!」
 「…いや、下着は穿いてますよ?」
 
 流石に全裸で出てきたような言い分は私としても看過出来ません。私とて露出狂の気はないのです。同居人がいるいないに関わらず、全裸で歩きまわったりなどはしません。
 
 「さして変わりはないだろうが!!」
 「いや、大違いだと思いますが…」
 
 その辺の感性はどうやらエルフと人間とでは――或いは私とラウルとでは――大きく異なるみたいです。まぁ、この辺りは文化の違いもあり得ますから、あまりごちゃごちゃ言うものではありません。人間からすれば水着という下着にも近い衣服もありますし、露出度の高いものを好んで着るものも少なくないのです。その辺りの感性は潔癖とも言えるエルフの社会ではきっと育たなかったものでしょう。
 
 ― まぁ、譲るつもりはないのですが。
 
 ここは私の家なのです。流石に常に全裸になるような裸族ではありませんが、風呂上りの火照った身体を冷ますまでの時間くらいは下着姿でいたいのが人情でしょう。それを同性の居候に遠慮して我慢するなどナンセンスにも程があります。ラウルにも最低限の人権は認めていますが、それは私の権利が侵害されない範囲での話なのですから。
 
 「そ、そんな…細身で引き締まった身体をみ、魅せつけて…!!」
 「…え?あの…」
 「力強そうな二の腕とかしっかりと筋肉の着いた後ろ姿とか…もう…もう…!!こ、このニンゲンめ!!」
 「…やっぱり服を着てきます」
 
 ― そう私が考えを翻したのも無理はない話でしょう。
 
 支離滅裂な彼の言葉が一体、何が言いたかったのは私には分かりません。しかし、背筋を虫が這い回るようなゾクリとした危機感を感じたのです。命の危険というほど鋭いものではないにせよ、明らかに身の危険が迫っていました。人間を淫猥呼ばわりする彼が同性愛趣味を持っているとはあまり思えませんが、何処か潤んだ様子を見せる瞳はその印象を撤回するほどの威力を持っていたのです。
 
 「い、いや…そ、それは…そのそれで…」
 「え?」
 「い、いや!!い、良いからとっとと服を着て来い!!」
 「…はい。そうしますよ。貴方もその間に風呂に入っておけばどうです?」
 「…そうする」
 
 理不尽とも言えるラウルの言葉に私は肩を落としながら、そう返しました。それに同意を示すラウルを傍目に見ながら私は自室へと向かっていくのです。玄関とリビングを繋ぐ扉を開き、山のような衣服が撤去された廊下を抜けて、玄関側から二階へ。そして上がりきった先の右手側にあるのが私の書斎兼寝室でした。
 
 「さって…パジャマはっと…」
 
 本棚と机、衣装棚とベッドを除けば殆どモノがない部屋の中で自分の衣類を探すのは簡単です。常日頃から整理している私は衣装棚の一番下から青と白のストライプに染まったパジャマを取り出し、それを着込みました。秋口の寒さに冷えた衣類がまだ熱を持つ身体と触れ合い、なんとも言えない感覚を私にもたらします。そして、自分の中の熱を奪われるのを感じながら、辺りを見回した私は机の上に処理途中の書類があるのを見つけました。
 
 ― …あぁ、そう言えば休日中に処理するつもりなんでしたっけ。
 
 久しぶりに取れた二連休。しかし、その間も管理職を兼任している私の元には仕事が舞い込んでくるのです。その一部をこうして家へと持ち込み、朝から処理し続けていたのでした。しかし、途中で休日なのに仕事をしているのと変わりがない時間の過ごし方に嫌気がさした私は気晴らしにエイハムの所へと向かったのです。
 
 ― これも今のうちに処理しておきますか。
 
 彼がどれくらいの間、風呂に入っているかは分かりませんが、少なくとも十数分は手隙の時間が出来るでしょう。その間に少しでも仕事を進めておけば、明日のスケジュールが少し楽になるのです。明日は明日で大型の家具をいくつも買い込まなければいけないので、暇な内に処理するのが好ましいでしょう。
 
 「よしっと」
 
 そう考えた私は机の上に置きっぱなしになっていた書類の束と筆記具を掴み、下へと降りて行きました。そのまま扉を開ければそこには誰もいないリビングが広がっています。耳を澄ませば浴室の方から水の音が聞こえてきました。私の提案通りラウルは風呂へと入ったのでしょう。
 
 ― それじゃあ…。
 
 書類の束をテーブルの上に広げながら、私は再び目を通し始めました。そこに書かれているのはコレから先に起こりうるであろう教団との戦争に関する様々な懸案です。魔物娘という強大な戦力を加えても、まだ勝てるかどうか分からない相手との戦争に関して上層部もそれなりに緊張しているのでしょう。日頃から各所連携に関する書類や組織再編成が行われているのです。私の今、目を通している書類もその中の一部であり、私の下に所属する部下を何人か入れ替えようとするものでした。
 
 ― まぁ…それだけの相手ですしね。
 
 緊張しているのは上層部だけではありません。私よりもさらに下にいる部下たちもそれなりに気負っているのです。中には小隊全員で意見書を纏めて、私に提出するものもいました。そこまで顕著でなくとも空き時間に訓練を繰り返す隊員の姿が目立つようになってきたのです。皆、この街を護ろうと必死になって働いている。だからこそ、私もまた気を抜いて書類を処理する訳にはいかないのです。
 
 「……」
 
 ― それからは書類と格闘する時間が始まりました。
 
 上層部から回ってくる書類以外に常日頃から処理しなければいけない仕事があるのです。それら一つ一つをじっくり読み上げ、処理していく作業は精神的にも疲れるものでした。それを抑えながら処理済みの書類が半分を過ぎた頃にはいつの間にか時計が一時間後を指していたのです。
 
 ― おや…もうこんな時間ですか。
 
 ラウルが風呂から上がってくるまでのつもりであったのに、何時の間にか結構な時間が経ってしまったみたいです。折角温まってリラックスした身体にも疲労が溜まっているのを自覚しました。それを椅子の上で大きく伸びをしながら追い出しつつ、私は再び脱衣所の方へと視線を向けたのです。
 
 ― …遅いですね。
 
 既に水音が消えてから結構な時間が経っています。となると今は浴槽に浸かっている時間なのでしょう。エルフの入浴文化がどうなっているのかは分かりませんし、ラウルの嗜好も分かりませんが、少し長すぎるような気がしないでもないのです。
 
 ― まさか…。
 
 風呂の使い方を教えた時にラウルは「お湯で水浴びをする」と言う奇妙な言い回しを使っていました。そこから察するにエルフの入浴とは基本的に水で行うものなのでしょう。その是非はさておき、彼が長い間、お湯に浸かった事がないのだとすればのぼせる事すら知らないのかも知れないのです。
 
 「……」
 
 そこまで考えて急激に不安になった私は椅子から立ち上がり、脱衣所のドアをノックしてみました。しかし、中から返事はありません。ゆっくりと扉を開いても、脱衣所にはラウルの姿はありませんでした。それに軽い安堵を抱きながら、私は脱衣所を歩き、今度は浴室のドアをノックするのです。
 
 ― …返事がない…。
 
 急速に高まる嫌な予感を抑えるように深呼吸をしました。ここで焦って踏み込んだらそれこそ大騒ぎになりかねないのです。ここは落ち着いてもう一度、確認しよう。そう思った私は再びノックをしながら、口を開くのです。
 
 「ラウル?」
 
 しかし、それでもまだ彼が居る筈の浴室からは返事がありません。こうなるともう確定でしょう。もう落ち着いてなどいられないとばかりに私は浴室の扉を開きました。開かれた視界をそのまま浴槽の方へと向ければ縁にもたれかかるようにぐったりとするラウルの姿が目に入るのです。
 
 ― っ…!やっぱり…!
 
 艶かしい肌を真っ赤に染め上げたラウルの意識は完全に失われていました。そんなに温度を高くしたつもりはありませんが、のぼせる事を知らない彼にとって自覚した時は既に後の祭りであったのでしょう。書類だけではなく、もう少し彼のことに気を配ってやれば良かったと後悔を抱きながら、私はラウルの身体を浴槽から引き上げました。
 
 ― とりあえず…のぼせた時の対処法は…。
 
 楽な姿勢にしてやる事と頭と足を冷やす事。後は水分補給をさせてやる事です。しかし、ここではその全てをさせてはやれません。そう判断した私は濡れたままの彼を背負って、脱衣所を出ました。同じ男性とは思えないほど軽い彼の身体に最初に拾った時の状況を思い出しながらも、熱い彼の身体が余談を許しません。腰の辺りに押し付けられる柔らかい感触を意図的に無視しながら、そのまま彼の寝室予定地であった応接室を目指しました。
 
 ― …ここに寝かせて…と。
 
 山と積まれる衣類を背景にして、ポツンと置かれたソファに彼を横たわらせながら、私は次にすべき事を脳裏に思い浮かべます。とりあえず濡れたままでは湯冷めをして風邪を引いてしまいますし、彼が意識を失っている間でも拭きとってやらなければいけません。後は頭と足を冷やすための濡れタオルと、ラウルが意識を取り戻した時用に水を用意してやるべきでしょう。
 
 ― …まったく、世話のかかる人ですね。
 
 そう胸中で呟きながら私は手早くリビングに戻りました。そのまま必要な物を取ってきてすぐさま応接室へと戻るのです。その間、勿論、ラウルの意識が戻る事はありません。それを確認した私は手に持つバスタオルでそっと彼の身体を拭いていくのです。
 
 ― …しかし、まぁ…下手をすれば変な気分になりかねない身体をしていますね、ホント。
 
 何処か他人事のように思うのはそうしなければおかしくなってしまいそうだったからです。何せ全裸になったラウルの身体は本当に中性的で、気を抜けば女性にも見えてしまいそうなのですから。特に肩や背筋に掛けてのラインなどは下手な女性よりも美しく、力強く抱けば壊れてしまいそうなのです。微かに上下する胸は凹凸が少ないですが、微かに膨らみのようなものが確認できるのがまた扇情的でした。
 
 ― 全体的に細身と言われる私よりも尚、細いですからね。
 
 腕も足もモデル体型という言葉に相応しく、すらりとした美しいものなのです。腰つきもまた何処か丸みを帯びており、女性的に見えてしまうのでした。そんな彼が肌を上気させ、無防備にその肢体を晒しているのですから健全な趣味を持つが故に健全な性欲を持つ男子としては目に毒ですらあるのです。
 
 ― かと言って襲ったりはしませんけれど。
 
 その全身を拭いてやらなければいけない都合上、私はラウルの股間の逸物も見ているのです。ユニセックスな雰囲気を持つ彼にある種、相応しいその小さな性器はラウルが間違いなく男性であることを私に教えてくれました。それだけでもう私の中の雄はテンションダダ下がりになり、襲う気も失せるのです。
 
 ― まぁ…例えラウルが女性であったとしても、流石にのぼせた相手を襲うほど鬼畜じゃありません。
 
 そう結論づけながら彼の全身を吹き終わった私は今度は冷水に浸した濡れタオルと足と頭へ載せるのです。その間、胸の中がドキドキしたりしましたが、それは彼が危険な状態だからこそでラウルの裸に興奮しているなんて事は決してありません。決してそんな事はありえないのです。そう言い聞かせながら私は彼が湯冷めを起こさないように、適当な衣服を見繕って彼の身体へと被せたのでした。
 
 「…ま、とりあえずこれで安心って所ですかね」
 
 そこまで処置してようやく一息つけた私は溜息を漏らしました。のぼせは下手をすれば死に繋がりかねないとは言え、処置さえ間違わなければ大丈夫です。一応、本職である――本人は認めはしないでしょうが――エイハムに聞いた処置を一つ残らず行っていますし、きっとそう遠くない内に目を覚ますでしょう。
 
 ― …それまでどうするかっていうのが問題なんですが…。
 
 優しく膝枕、なんてキャラじゃない以上、ここにこのまま居ても時間の無駄でしかありません。彼が目を覚ますまではリビングで書類と格闘を続けるのが良いでしょう。しかし、ラウルがのぼせた原因の一つは私自身にもあるからでしょうか。どうにもその場を離れ難く感じるのです。
 
 「……」
 「ん…っ…」
 
 その場に縫いつけられたように動けない私の耳に何処か艶っぽいラウルの声が届きました。それに私が視線を彼へと戻せば、ゆっくりとラウルが目を開けるのです。それに微かな安堵を感じながら、私はラウルの元へと近づきました。
 
 「気分はどうです?」
 「う…あ…はわぁど…ぉ?」
 「…そうですよ」
 
 なんでそんな舌足らずなんですかと突っ込みたい気持ちを抑えながら、私はそう返しました。それにラウルが安心したようにそっと微笑を浮かべたのです。元々、ユニセックスに近い彼が親に庇護され、安心しきっている子どものような笑顔を浮かべる姿は妙に似合うものでした。
 
 ― …っていうか、今、私、始めて名前呼ばれてません?
 
 今まで『ニンゲン』だとか『お前』と言う呼ばれ方をし続けていたのです。思い返しても自己紹介から今まで名前を呼ばれた記憶が一切、ありません。しかし、こうして私の名前を呼んでくれたという事は覚えていてくれたのでしょう。
 
 「身体…重い。気分…悪い。熱い…死ぬ…」
 「そのまま横になってればすぐ治りますよ」
 「…ん。そうする」
 
 ― …やけに素直ですね。
 
 私の名前を素直に呼んだことと言い、私の言葉にすぐに従おうとする事と言い、よっぽど意識が混濁しているのでしょう。意識を失うほどのぼせたのですから当然といえば当然なのかもしれません。そう思う一方でやけに弱々しいラウルの姿に庇護欲をそそられるのも事実でした。
 
 「…なぁ、ハワード…」
 「なんです?」
 「…聞いて欲しい事があるんだ…」
 「…それが弱気になっているが故にじゃなければ、構いませんよ」
 
 ― まぁ、後で誤解していた事を弄り倒してやるのも面白いといえば面白いでしょうが。
 
 一体、彼が何を言うつもりなのかは分かりませんが、わざわざ前置きするというのはよっぽど重要な事なのでしょう。そして、こんなタイミングで重要な事を言い出そうとするなんて弱気になっているとしか思えません。さっき一瞬、口にのぼらせたように本当に死ぬと思っているのかも知れないのです。それを後々、穿り返してやるのも面白いですが、今は身体の回復に努めて欲しいのが本音でした。
 
 「いや…夕食の時から…ずっと考えてたんだ…」
 「それなら構いませんが…」
 「…ありがとう」
 
 ― そう微笑む姿はとても儚いものでした。
 
 元々、幻想的な美しさを持つエルフが何処か弱気な笑みを浮かべたのです。その印象は私だけが受けるものではないでしょう。きっと万人が手を差し伸べたくなるような笑顔なのです。一瞬、それに胸が締め付けられるような痛みを感じましたが、ラウルはただのぼせているだけに過ぎません。当たり前ですが、命の危険になどまったくさらされてはおらず、手を差し伸べるどころか放っておいても回復するのです。
 
 「私は…な。生まれ育った集落の…酋長の子どもだったんだ…」
 
 ― そうしてぽつりぽつりと始まる独白は何処か痛々しいものでした。
 
 『酋長の子ども』。その言葉の背負った重みはエルフではない私には分かりません。それが分かるのは同じ立場のエルフくらいなものでしょう。しかし、それでもたった数語の言葉にラウルが苦しんできたのが私にも分かるのでした。
 
 「父は自分にも厳しかったが、それと同等に他人にも厳しい男だった…。自分の期待する結果を出さない者には何の言葉を寄越さない…。それは…共有社会を維持するには必要なことだったんだろう。分配する権限を持つ酋長は不満を抑えられるほど絶対的な存在でなければならない。そうでなければ…共有社会なんて水の泡のように消えて行ってしまうだろうから…」
 
 ― それは尤もな意見と言えるでしょう。
 
 誰もが誰かの生活に直結する共有生活は異議を簡単に受け入れてしまっては成り立ちません。しかし、他人の意見を封殺するだけでは不満が膨張するだけでしょう。だからこそ、酋長は最初から異議申し立てが出来ないほど絶対的な立場に…言うなれば『神』にも近い立場でならなければいけないのです。
 
 「だから…私は今まで父の期待に応えようとしてきたんだ…。それは途中までは上手くいっていた…。父も…表立っては褒めてくれなかったけれど…喜んでくれていたのを知っている。…だけど…期待に応え続けた私のハードルは…何時の間にか超えづらいほど高くなっていったんだ…」
 「それは…」
 
 ― 私は父親になった事がないので分かりません。
 
 しかし、それは決してラウルの父親を責められない事でしょう。どれだけ絶対的な存在であろうとしても、所詮、ヒトはヒトなのです。神にどれだけ近づこうとしても神そのものには決してなりません。間違いだって犯すことはありますし、他人を見誤る事もあるでしょう。それが累乗的に重なった上に、期待に応えてくれる自分の子という贔屓目も相まってハードルがあがっても…誰が責められるでしょうか。
 
 「私は…それでも飛び越えようとして…体調を崩したんだ…。それでも私は頑なに応えようとした…。けれど…それが原因で私はあの日…失敗して魔物に捕まった」
 
 そう言った瞬間、ラウルの身体が震えました。魔物娘に捕まる。それはこの街に住む人間にとっては決して非日常な出来事ではありません。寧ろ一日街を歩きまわれば、一度は何処かで見られるようなものなのです。しかし、閉ざされている上に潔癖とも言えるエルフからすればその時の経験は悪夢も同然であったのでしょう。
 そんな彼を何とかしてやりたいと言う衝動が胸の内から湧き上がりましたが、何をしてやればいいのか分かりません。結局、私に出来るのはラウルの独白を聞く事だけなのです。
 
 「それから助けだされた後…誰も褒めてはくれなかった。…誰も叱ってはくれなかった。そんな私に残されたのは…失敗して追い出されたという結果だけ。…だから…私は…欲しかったんだ。私を褒めてくれる人が…叱ってくれる人が…」
 「…それが私だったと?」
 「あぁ…」
 
 ― それは買いかぶりも良い所でしょう。
 
 確かに私はファーストコンタクト時にラウルを辛い言葉を投げかけた事がありました。しかし、それは別に彼のことを思ってではなく、言い返したかったからだけに過ぎません。それを叱ったとは決して言わないでしょう。
 
 ― けれど、彼はそれに依存している。
 
 私の性格が最悪に近いと分かっていても、私の家へと来たがるほどラウルは依存しているのです。まるで刷り込みに近いそれに私は溜息を吐きたくなりました。正直、彼の依存は重いにもほどがあります。私はそれを背負ってやれるほど器量のある男性でも、背負って我慢してやるほど優しくはないのですから。
 
 ― ですが…。
 
 それでも彼を追い出すつもりにはなれません。彼の抱いている信頼はいきなり自分の知らない世界へと放置出されたが故の刷り込みであると理解しても、ラウルに冷たくする気にはなれないのです。ラウルが抱いているであろう幻想を打ち壊す方が彼のためになると理解していても…私は口を動かす事が出来ませんでした。震える唇はきゅっと真一文字に閉じられていたままなのです。
 
 ― …私が…震えている?
 
 それは私にとって信じられない事でした。今まで恐怖を感じたのは『彼』の小隊が盗賊に囲まれて壊滅し、『彼』の生死すら分からなかった時くらいです。自分でも理解出来ない恐ろしさに軽いパニックを起こしていたそれは私にとって黒歴史も同然でした。今は流石にそれほど強い恐怖を抱いている訳ではありませんが、ラウルが私の元から離れるのを想像するだけで空恐ろしい気分になるのです。
 
 「…はわーど…?」
 「…いえ、なんでもありませんよ。まぁ…そこまで想ってくれるのであれば光栄であると思っておきますよ」
 「うん…そうしろ…。エルフである私が許す…」
 「…あぁ、尊大なのは変わらないんですね」
 
 上から目線の不器用な言葉に私は笑みを浮かべました。それもまた彼らしいといえば彼らしいのかもしれません。今日一日で私に弄られまくった所為か、少しばかりプライドを凹ませていますが、元々のラウルはこんなキャラだったのですから。
 
 ― それに…尊大な態度を取られれば取られるだけこっちとしても燃えますし。
 
 そんな態度を取る者を心の底まで屈服させ、跪かせるのを考えただけで背筋にゾクゾクとしたものが走るのです。自分でも倒錯的な趣味であると自覚していますが、だからといって止められません。彼の心の奥底まで辱めて、自分の物に――。
 
 ― …いや、何を考えてるんですか、私は。
 
 ラウルは中性的な魅力を持っていますが、同性で間違いないのはついさっき確認したばかりです。それを自分の物になんて頭のネジがぶっ飛んだとしか思えません。私に同性愛趣味なんてありませんし、彼だってそれはきっと多分、大体は同じでしょう。
 
 ― まぁ、きっと言葉の綾だと思いますけど。
 
 「なぁ…ハワード」
 「なんです?」
 
 そう考えを打ち切った私の耳に未だに弱々しいラウルの声が届きました。さっきよりは大分、力強さを取り戻したとは言え、普段のトーンとはかなりかけ離れていました。きっとまだ意識は混濁し続けているのでしょう。それが分かるが故に私もまた普段よりも声調を落として優しく返したのでした。
 
 「頭を…撫でてくれないか…?」
 「…貴方は私に何を期待してるんですか…」
 
 ― 確かに優しくするつもりではありますが…それは流石にハードルが高くないでしょうか?
 
 普通の人間であれば「その程度か」と頭を容易く撫でてやれるのかもしれません。しかし、私は自他共に認めるひねくれ者なのです。そう易々と「頭ナデリナデリしてあげますねー」なんてキャラじゃありません。と言うか、そもそも、男性の頭を撫でたいと思うような倒錯した趣味も持っていないのです。
 
 「別に良いだろ…倒れた時くらい優しくしろぉ…」
 「…いや、今でも十二分に優しくしてると思ってるんですけどね」
 「全然足りない…優しくしてくれないと拗ねるからな…拗ねてお前のベッドに潜り込んでやる…」
 「ほんっと、面倒ですね貴方」
 
 甘えるように唇を尖らせるラウルに私は溜息を一つ吐きました。しかし、これはきっと父親から得られなかった様々な愛情を求めているだけに過ぎないのでしょう。何の間違いか、私に父性を見出した彼は代替行為を求めているだけなのです。何処かぎくしゃくした家庭で育った私にはその気持ちが少しは分かるだけに無碍にも出来ません。
 
 「まぁ…今回っきりですよ」
 「うん…」
 
 そう前置きして私は濡れタオルの乗っていない額を避けて彼の頭をそっと撫でました。それにラウルは目を細めて幸せそうな表情を見せてくれるのです。それが妙に嬉しくて、私の顔もまた綻んでしまいました。
 
 「お前の手は温かいな…」
 「そうですか?私は寧ろ逆だと思っていますが…」
 
 寧ろ低体温症に悩まされている私としてはもっと温かくなってほしいくらいなのです。今は未だそれほどではありませんが冬場の痺れは筆舌にし難い不快感を伴っているのですから。
 
 「うん…とても安心する…」
 「まぁ…それは何よりですよ」
 
 ― …まったく…たまにこういうストレートな事を言うんですから性質が悪いですね…。
 
 さっきもそうでしたが、ラウルは油断した時にぽそりとストレートに感情を表してくるのです。ある種、無防備なその感情表現に理論型の私は完全に対処出来ません。どうにも気後れや気恥ずかしさが先立って、上手く切り返す方法が見つからないのでした。
 
 「……」
 「……」
 
 ― そのまま穏やかな時間が流れて…。
 
 まだ回復していないラウルも、私も何も言わないままでした。ただ、私の頭がゆっくりと動くだけのとても静かな空間。そこに響くのはお互いの呼吸音と鼓動音のみでした。
 そんな静かで穏やかな時間を過ごしたのは何年ぶりだったかすら私には思い出せません。いえ、そもそも誰かと一緒に共有する時間がこうして穏やかだった経験があったかすら分からないほどでした。
 
 ― まぁ…悪くはないですね。
 
 この時間が幻想であるということを私だって自覚していました。きっとラウルが冷静になれば、忘れろと叫び出すに違いないでしょう。そうなればこの穏やかな時間は粉々に砕けて灰塵に帰してしまうのです。しかし、それを理解しているが故に、私にとってこの時間はとても貴重で何者にも代えがたいものに感じられるのでした。
 
 「…あれ…?」
 
 ― そんな空間に響いたラウルの微かな声。
 
 それはさっきとは違い、大分、はっきりとしたものでした。処置が適切であったが故に早くも回復しているのでしょう。それに安堵する反面、回復した彼が今の状態を良しとするはずがないのです。終わりが始まった事を理解する私はそっと彼の頭から手を外し、自分の耳へと持っていくのでした。
 
 「なっなななななななななっ!!!!」
 「……」
 「なんで裸なんだあああああっ!!!」
 
 両手で耳を塞いでも尚貫通してくるほどの大声をあげてガバリとラウルは上体を跳ね起こしました。瞬間、彼の身体にかけた衣服が外れ、額の濡れタオルもべちゃりと彼の腹部へと滑り落ちていきます。ラウルの細い身体を強調するように水が流れ落ちる姿は何処か扇情的ではありました。しかし、それ以上に彼の五月蝿さが目障りであったのです。それは悪くなかった時間を見事にぶっ壊してくれた事についての八つ当たりだと何処かで理解していました。
 
 「近所迷惑ですよ。もうちょっと音を下げて下さい」
 
 しかし、理解したからと言ってそれを抑えられるほど大人であれば私は今、ここにはいません。少しばかりその言葉に刺を含ませて、ラウルにそう言い放ちました。その言葉に彼は言葉を詰まらせましたが、それでもその顔に浮かんだ不満を消しはしません。顔を真っ赤にしながら、ズレ落ちた衣服を掴んで胸元を隠し、私をきっと睨みつけるのです。
 
 「…み、見たな?」
 「そもそも見ないと介抱出来る訳がないじゃないですか」
 「ぬぐっ…そ、それはそうだけれど…」
 「寧ろ風呂場で倒れた貴方を助けた私は命の恩人ですよ?それなのに感謝の言葉一つも無いんですか?」
 
 ― それはとても意地悪な台詞でしょう。
 
 例え同性とは言え、この潔癖なエルフが裸を見られるのを良かったと思うはずがないのです。本音を言えば私に怒声の一つでも投げかけたいのが本音でしょう。しかし、倒れたのは間違いなくラウル自身の責任であり、私に非はまったくないのは彼にだって分かっているはずです。だからこそ、彼は私に強く出る事が出来ないのでしょう。
 そこまで分かっているが故に投げかけた感謝の要求は彼にとっては受け入れ難い、しかし、受け入れなければいけないものなのです。その屈辱と恥辱に塗れ、そっと視線を下へと落とす様を私は喜んで見つめながら、彼の返事を待ち続けました。
 
 「そ、そもそも…そもそもだな!!なんでずっと浸かっていると倒れるって教えてくれなかったんだ!?」
 「私に言われましても…聡明なエルフ様がのぼせる事すら知らないなんて下等な人間の私が思い至るはずないじゃないですか」
 「うぐぐぐぐぐ…じ、じゃあ…私の裸を見たんだから相殺って事に…」
 「私が同性愛趣味があると思うのは貴方の勝手ですが…私だって一応、プライドっていうのがあるんですよ。あんまりそう言われると…分かりますよね?」
 
 ― その言外に強権をちらつかせる言葉にラウルはまた言葉を詰まらせました。
 
 どう足掻こうとラウルの立場は弱いものなのです。家主権限を振りかざされれば彼に出来る事なんて何もありません。ただ、審判の時を待つ哀れな子羊になるだけなのです。それが分かっているだけにラウルはこれ以上の話をするのは避けるでしょう。
 
 「だ、だって…だって、こんなの…私が一方的に見られ損じゃないか!!」
 「んなもん私の知った事じゃありませんよ。私だって好きで見た訳じゃありませんし」
 
 しかし、そんな私の想定とは裏腹にラウルはさらに踏み込んでくるのです。どうやら裸を見られたのはよっぽど彼にとって決定的であったのでしょう。人間基準で言えば同性に裸を見られた程度でそこまで言わなくても…と思わないでもないですが、潔癖で有名なエルフにとってはまた違うのかも知れません。
 
 「いいや!不公平だ!!お前も裸になれ!!」
 「無茶振りにもほどがありますよそれ!?」
 
 まさかそんな風に話を持って行かれるとは思わなかった私は思わず声を荒上げてしまいました。キャラではないとは言え、それは仕方ない事です。誰だっていきなり裸を見た云々から自分も裸になる方向に矛先が向けば、声を荒上げたくなるでしょう。
 
 「これ以上、我侭言うなら本気で追い出しますよ」
 「うぐぐぐぐ…」
 
 伝家の宝刀とも言うべき家主権限の発動にラウルは再び言葉を詰まらせました。それに見ても、私は素直に安心できません。裸を見られたというパニックで今の彼は何を言い出すのかまったく予想がつかないのです。ある種、エイハムなどよりもよっぽど怖い相手と戦っているような気がして、私はそっと肩を落としました。
 
 「まぁ…あんまりジロジロと見られるのは貴方も心外でしょうし出ていきますよ」
 「む…ぐぐぐ」
 
 ― これ以上、何か言われてまたキャラを崩すのは御免ですし。
 
 そう心の中で呟いた私はそのまま応接室の扉の方へと足を進めました。その後ろからラウルが悔しそうな、それ以上に恥ずかしそうな声をあげますが、私としては知った事ではありません。冷静になったラウルであればある程度、先も読めますし、今ほど怖くはないのです。ならば、落ち着くまで戦略的撤退を選択するのがベターでしょう。
 
 「…ありがとう」
 「…いえいえ、どういたしまして」
 
 そんな私が扉に手を掛ける寸前、羽音のような微かなものではあったものの感謝の言葉が届きました。ある種の敗北宣言に私は心の中を喜悦で満たしながら、そう返すのです。そのまま応接室から出た後、中でのたうち回るような音を聞こえてきました。きっと今頃、中では羞恥と悔しさにラウルが荒れ狂っているのでしょう。その様を想像するだけで私の顔は歪な笑みを浮かべるのでした。
 
 ― 流石に覗きはしませんが。
 
 今の彼の姿を見てやりたいという欲求がないと言えば嘘になってしまうでしょう。しかし、その時、私の目に入るのはラウルの着替えシーンでもあるのです。さっきは大義名分こそあるので特に何も感じませんでしたが、自分から進んで同性の着替えシーンを覗くとかもう変態なんてレベルではありません。流石にそこまで堕ちるつもりはない私には覗くという行為は選択出来ないものでした。
 
 ― まぁ、後で幾らでもからかってやれますしね。
 
 今回のネタはそれだけの価値がある。そう心の中で呟いて私は軽い足取りでリビングへと戻りました。そのまま書類と格闘する作業に戻りながらも、明日の予定を立てていきます。勿論、それを平行して彼をどう弄るかを考える私は久しぶりに『楽しい』と言う感情を実感していて…。
 
 ― そうして私たちの共同生活初日は過ぎていったのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
12/06/17 21:25更新 / デュラハンの婿
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マダ男ダヨ(謎)

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