連載小説
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その1
 
 ―誰しも逆鱗というやつは持っているものです。
 
 例えばそれは触れられたくない過去のトラウマであったり、好きな異性への侮辱であったりと様々でしょう。しかし、それを聞いた相手の冷静さを奪うと言う面では同じです。例えどれだけ冷徹な相手であっても、きっとそれは変わりません。
 
 「…いっつぅ…」
 
 既に『あの』騒動かた数時間が立っているというのに未だにこれ見よがしに顔を顰めて、真っ赤に腫れ上がった部下にそっと視線を送ります。それに気づいた部下がさらに顔を歪ませて、頬を慰めるように撫でました。ジパングの血を引いているその部下は彫りの深い男らしい顔立ちをしてますが、必死に自分を慰めようとするような姿は決して見栄えの良いものではありません。しかし、彼のその傷を追った責任の半分くらいはあるであろう私にはそう言って切り捨てる訳にはいかないのです。
 
 ―まぁ、かと言って、それを適当に慰めてやる義理なんてないんですが。
 
 「…それは嫌味ですかウィルソンくん」
 
 そんな気持ちを込めて嫌味たっぷりに部下――ウィルソンをジト目を送りました。しかし、当のウィルソンはそれをどこ吹く風とばかりに受け流していました。私の視線をこんな風に受け流せるのは『彼』以外では、このウィルソンくらいなものでしょう。何だかんだで『彼』を通じて付き合いの長い同期には私が本気で怒っているわけではないと分かっているのかもしれません。
 
 「いや、純然たる俺の今の気持ちですよ中隊長殿」
 「…代理です」
 
 そんなウィルソンの嫌味たっぷりな返事に私は短く訂正を加えました。そう。私はただの代理です。今、こうして中隊を率いて、街近くの森をパトロールしているのも代理の仕事に過ぎません。本来であればこの地位に収まっている人間がいなくなってしまったから、その代わりをしているに過ぎないのです。
 
 「…何時まで、んな寝ぼけた事言ってんですか。もう正式に辞令は出たんでしょう?」
 「受領はしてませんよ」
 
 とは言え、それが時間の問題であることに私も気づいていました。世間的にはもう『彼』は帰ってこない人間なのです。決して死に別れて二度と会えない相手と言う訳ではありませんが、それでも彼が再びこの地に足を踏み入れるのは無い。それが多くの人の――『彼』がデュラハンと共に何処かへと消え去った事を知る者にとっての――共通理解でした。
 
 ―だからこそ…私に『彼』の後釜が回ってきた訳で…。
 
 今までは念の為に代理として、中隊長であった彼の業務を引き継いでいました。しかし、小隊を率いる立場の人間が、代理とは言え、突出した権力を持ち続ける事は組織として歪みを生み出します。特に指揮系統の歪みはそれが顕著で、時として組織を殺す猛毒になりかねません。それを防ぐ意味でもこの街の権力者は私を早々に彼の後釜に着けたいようです。
 
 ―だけど…私はそれを認めたくはなくて…。
 
 自分でも子どもっぽい感情であるとは理解しています。しかし、それでも『彼』の居場所を奪ってしまうようなことをすれば本当に『彼』が帰ってこなくなるような気がしてならないのでした。例えずっと『彼』の居場所を開け続けたとしても、『彼』は帰ってこないと私だって理解しているのです。しかし、それでも尚、私の心は納得しないままでした。
 
 「やれやれ…本当に中隊長殿はあの人がお好きなようで」
 「代理です。…ちなみにホモ扱いしたら分かってますよね?」
 「はいはい。この目であの騒動見てますからね。んなの心で幾ら思っても口にゃ出しませんよ」
 
 ―…そもそもあの騒動は私ではなく、相手が悪いのですよ。
 
 つい数時間前に、『彼』と私の関係を揶揄した言葉が発端の大規模な殴り合い。それは止めに入ったウィルソンの尊い犠牲――殴り合いの最中に突っ込んできて私ともう一人から殴られた――によって何とか収集をつけることが出来ました。とは言え、私はアレに関して何の反省も必要であるとは思ってはいません。この場に『彼』がいない事を良い事に陰口を叩く輩など粛清されて当然でしょう。それが街の治安を護る警備隊の一員であれば尚更です。
 
 ―そうですね…後で彼らの評価に細工でもしておきますか。
 
 権力の私的利用は批難されるべきですが、あんな連中が権力を握るよりはよっぽどマシです。殴り合いをするほど怒りに我を忘れている訳ではないとは言え、怒りそのものを忘れている訳ではありません。寧ろ冷静になった思考があの連中をどうやって地獄へたたき落としてやろうかとそんな思考を張り巡らせているのです。それは取るに足らない思考ですが、パトロール中の暇つぶしには丁度良いものでした。
 
 「それより代理殿、そろそろパトロール終えません?」
 「却下です」
 
 軽い口調で聞いてきたそれはウィルソンの本心であるのでしょう。冗談めかしていながらも、そこには彼の実感が篭っていました。勿論、警備隊に属するウィルソンが一時間や二時間程度のパトロールで疲れるはずがありません。時として軍隊の代わりにこの街を護る立場にある私たちは常日頃からそれなりに訓練を積んでいるのですから。
 
 ―ですが、それとは別に気疲れと言うのがあって…。
 
 「つっても…こんな深い森の中をどうやってパトロールしろってんですか」
 
 ―彼の言葉は正直、尤もであると思います。
 
 鬱蒼と茂った葉が日光を遮り、薄暗い闇を広げるほどの深い森。周りを見るまでもなく、そんな光景が延々と続いているのです。流石に磁場が歪んで方向感覚が狂う…なんてオマケはありませんが、普通の人間が易々と足を踏み入れては命を落としかねない規模はあるのでした。そんな森を中隊規模の二人組だと言っても、隅から隅までパトロールなんて出来るはずがありません。焼け石に水を注ぐようなものでしょう。
 
 ―しかし…。
 
 「今は戦時下突入前ですからね。こういう森には兵を伏せやすい訳ですから、ちゃんと見まわっておかないと」
 「理屈としては分かるんですがねぇ…」
 
 はぁと一つ溜め息を吐きながら、そっとウィルソンは肩を落としました。大袈裟過ぎるリアクションに見えますが、彼にとっては本心からの反応だったのでしょう。これがまだ進展の見える仕事であれば、彼だってこんな文句は言いません。しかし、無駄だけれど誰かがやらなければいけないような仕事を押し付けられているのですから文句の一つも言いたくはなるでしょう。
 
 ―まぁ、それを受け止めやるほど私は良い上司ではありませんが。
 
 同情も出来ますし、共感もしますが、そのような愚痴にずっと付き合ってやるほど私は出来た人間ではありません。『彼』であれば部下のそんな愚痴にも飽きずにずっと付き合っていたでしょうが、根本的に個人主義な私にはそれは不可能です。だらだらと続く不平不満を打ち切るように私はそれを唇に載せました。
 
 「恨むなら教団を恨みなさい」
 
 何時もであればこんな無駄なシフトを組まれる事は滅多にありません。ですが、最近は教団の圧力が日に日に増して、戦争へと何時、突入してもおかしくない雰囲気になってきているのです。この街に住む豪商たちが鉄や食料の値段を釣り上げて何とか防ごうとしていますが、莫大な資金力を持つ教団の足を完全に止められるほどの額になれば市場が崩壊してしまうでしょう。結果として教団の足を遅らせる程度の値段に収まった鉄や食料が、今、この近くの反魔物領に集まっていると聞きます。恐らく開戦間近――そんな状態で私たちの街のすぐ近くにあるこの森を放置する訳にはいきません。『彼ら』がこの森には住んでいるとは言え、この街は微かな異変をも見逃せないような危うい状態なのでした。
 
 「つっても…この森には魔物娘やエルフもいるんですし、下手に兵を伏せられないと思うんですがねぇ」
 
 ―ウィルソンの口から出た『彼ら』――エルフの名前に私はそっと頷きました。
 
 エルフ――それは人々が交通の要所であるここに街を作る前にこの森に住んでいた種族の名前です。人間とは比べものにならない高い魔力と美しい容姿を誇るこの種族は、突き出た耳が特徴と言えるでしょう。しかし、それが故に彼らは総じてプライドが高く、人間や魔物娘を自分たち以下の下等生物として見ているのです。特に最近はほぼ魔物娘の一カテゴリーと化したドワーフとは犬猿の仲であり、街ではたまに『彼女ら』が言い争いをしている姿が見られるのでした。
 
 ―まぁ…そんな彼らは今は森の奥に引き篭っているのですが。
 
 その高い能力の所為か、少ない人口しか持たないエルフたちは人との交流を絶つように森の奥深くに集落を構えています。その周辺では魔力が渦巻き、決して人間に近づくことは出来ないと言われていました。そんな彼らと不可侵条約を結んでいる私たちならばともかく、ずけずけと踏み込んでくるであろう教団の私兵には容赦なく弓を向けるでしょう。その他にもアルラウネやホーネットと言った魔物娘が徘徊するこの森を教団の私兵が足を踏み入れれば、即人間の匂いに惹かれた彼女らに包囲されてしまうのがオチです。
 
 「…とは言え、私たちが何もしない訳にもいかないでしょう。崖っぷちなのは私たちなんですから」
 
 状況的に私たちに利する行為をしてくれる事はあっても、エルフは基本的には人間全てを嫌っています。自分たちの集落にさえ近づかなければ、と意図的にスルーする可能性もあるのです。無論、決して彼らと協力関係にはない私たちにはそれを咎めることは出来ません。ならば、と野生の魔物娘をあてにしようにも教団の精鋭相手では、彼女たちも厳しいでしょう。結果としてどちらもアテにしすぎると危険な以上、私たち自らが足を運んでパトロールをするしかないのが現状でした。
 
 「やれやれ…本当、教団様様ですね」
 「主神諸共滅んでくれれば良いんですがね」
 「おや、中隊長殿は随分と過激な発言が好みなようで。まぁ、同意しますが」
 「代理です」
 
 揶揄するようなウィルソンの言葉に短く返しながら、私はそっと肩を落としました。ウィルソンにはあんな風に言いましたが、私とて終わりの見えない仕事に気疲れを感じてはいるのです。出来るならとっとと終わらせたい。しかし、終わらせるには時間の経過を待つしか無い。さりとて、だらだらとしながら時間の経過を待つには周辺の状況が許してはくれない。そんなジレンマの中、私は硬い木の根を踏み越えました。
 
 「まぁ、滅んで欲しいと言えば、エルフも同じなんですがね。アイツら、この前、警告もなしに弓を射ってきやがって…。死ぬかと思いましたよ。まぁ…ギリギリまで近づいた俺も悪いんですが」
 
 ―そんな風に言うウィルソンは決して珍しい訳ではありません。
 
 終わりの見えないパトロール中についつい条約で決められた不可侵条約ギリギリまで足を進めてしまう隊員というのは結構いるのです。それをエルフは全て警告なしに弓を射ち、撃退しているのでした。勿論、エルフの弓の腕ならば人間に当てる事も可能でしょうから、わざと外した弓そのものが警告のつもりなのかもしれません。しかし、まるで言葉を交わすのも穢らわしいというようなエルフの態度に、隊員たちの殆どは悪感情を持っているのでした。
 
 ―しかし、私は決してそうは思えなくて…。
 
 エルフの所業は確かに多くの人間にとって感情を逆撫でするものでしょう。いえ、私だって実際、その現場にいれば腹立ちを隠すことが出来ないと思います。しかし、それでも、私には彼らのその態度が必死に虚勢を張っているようにしか思えないのです。既に人口比率は逆転し、技術面でも人間側が優っている物も多いのですから。人間がその気になれば、エルフを滅ぼす事はきっとそう難しいことではありません。少なくとも…私の住む街がその全兵力を解放すれば、この森の集落は跡形もなく消え去ってしまうでしょう。勿論、そんな事をしてもメリットなど一つもないのでしませんが、一世代前ならともかく、魔物娘の技術を得た人間とエルフではそれほどの力の差があるのです。
 
 ―それが聡明な彼らに分かっていないはずがありません。
 
 しかし、それでも彼らは自らの内側に篭り続けているのです。まるで自分の弱い身体を護るように、ぎゅっと狭い世界の中で生き続けているのでした。そんな印象がどうにも強いからでしょうか。私にはエルフの強気過ぎるその態度が必死に子犬が虚勢を張っているようにしか思えないのでした。
 
 ―まぁ…きっとあの時、見たあの人の背中にも――
 
 「中隊長!!」
 「代理です。で、何ですか?」
 
 焦ったウィルソンの声に意識が過去から現在へと引き戻され、私は彼が指さした前方に意識を向けました。そこには相変わらず鬱蒼と茂る緑の世界が広がっています。ただ、そこが一つだけ違うのはその緑から美しい白い肌がそっと伸びている事でしょう。細身の身体を描く美しいラインは『それ』がヒト――無論、広義の意味での――である事を教えてくれます。それを認識した瞬間、私は『それ』の元へと駆けより、俯せになったその身体をそっと抱き起こしました。
 
 「ウィルソン。連絡を」
 「了解です」
 
 短く言った私の言葉にウィルソンはてきぱきと動いて、他の隊と連絡を取ってくれました。風に声を載せる魔術と色とりどりの信号弾で外に待機しているであろう隊員に情報を同時に伝えています。どちらもあまり高度なものではありませんが、同時に二つの魔術を苦もなく使ってみせる辺りウィルソンもまた優秀だと言えるでしょう。
 
 ―まぁ…それはさておき。
 
 素早く他の隊と連絡を取り合うウィルソンを傍目で見ながら、私はそっと倒れていた身体を確認しました。ざっと見える範囲の白い肌には外傷が見当たりません。大きな葉っぱを模したような緑の衣服にも血の色は一切、着いていませんでした。ならば、転んで頭でも打ったのかとサラサラな緑色の髪を撫でますが、たんこぶのような物は見当たりません。医者ではないので素人判断ですが、とりあえず目立った外傷はない…と言っても良いでしょう。
 
 「…ウィルソン。対象に目立った外傷はありません。とりあえず今すぐに命の危険はないと判断します。しかし、あくまでも素人判断な上に場所が場所ですので、対象の輸送を優先すると各隊に連絡を」
 「はい。隊長」
 
 ―…とりあえず…これで一安心…ですね。
 
 ここは二時間掛けて踏み込んだだけあって森の中でもかなりの奥地です。もし、今の私たちの装備で血が止まらないほどの傷があれば、どれだけ全速力で戻ったとしても対象の命は助からなかったでしょう。さりとて、私たちの街よりも遙かに近いだろうエルフの集落の方へ向かおうにも、私たちは近づいただけでも殺されかねません。
 
 ―…流石に目の前で死なれると後味が悪いですからね。
 
 特に思い入れは持っていないとは言え、目の前で誰かが死んで喜ぶような高尚な趣味はしていません。良く誤解されることはありますが、私とてそれほど屈折した趣味を持ってる訳ではないのです。執着するような相手が『彼』だけと言うだけで誰かが死んで喜んだりするほど下衆ではありません。
 
 ―それにしても…。
 
 再び倒れ付したに目を向けると艶のある若草色が目に入りました。何処か芽吹いたばかりの新緑を彷彿とさせるその色は葉っぱを通り抜けた微かな光の下でもキラキラと輝いています。きっとかなり慎重に手入れをされているのでしょう。艶のあるその輝きはそっと手で梳きくなるようなものでした。そんな美しい髪をショートボブの髪型に切りそろえている姿は間違いなく美人と言ってもいい顔立ちをしています。
 普段から森の中で暮らしているからでしょうか。日焼けのしていない白い肌はすっきりと透き通るようで染み一つありません。まるで誰にも踏み荒らされたことのない新雪のような肌が微かに身動ぎするだけで否が応にも目を惹かれてしまいます。ピンと突き出たエルフ独特の耳も可愛らしく、寝息と共に微かに動いていました。
 身体全体のラインは細く、下手に抱きしめれば折れてしまいそうです。何処か儚いその印象を真っ白な肌が引き立て、庇護欲をそそられるようでした。抱きしめたくなるが、抱きしめたら壊れてしまいそう。そんな矛盾した印象が強いエルフでした。
 
 ―しかし、私が気になるのはその美しさではなくて…。
 
 エルフなのですから、美しいのはある種、当たり前です。それに大きな興味を惹かれるほどではありません。それに私はエルフと同等かそれ以上に美しい魔物娘との共存を選んだ街に暮らしているのです。美しいとは思いますが、今更、そんな姿に心奪われるようなことはありません。
 しかし、それでも私はその美しさが心の中に引っかかっていました。どうして…と聞かれてもこうだと答えることは出来ません。ですが、一度見たら誰もが忘れられないようなその美貌にどうしても既視感めいたものを感じてしまうのです。
 
 ―…まさか…ね。
 
 それを軽く頭を振って振り払いながら、私はそっと腕を自分の首へと回し、抱き上げました。俗に言う『お姫様抱っこ』という奴ですが、そこにはロマンも何もありません。『お姫様』は未だ意識を失ったままで、私もまた『王子様』なんて顔じゃないからでしょう。そう自虐気味に思いながら、最も人を運びやすい姿勢で私はウィルソンへと振り向きました。
 
 「どうです?」
 「一応、返事がありましたよ。とりあえず一旦、俺たちは負傷者の警護に離脱って事で了承を得られました」
 
 何処かうきうきとウィルソンが答えるのは、この退屈な任務から逃げられると思っているからでしょう。先に対象を見つけた時の目敏さやその後の対応の速さから垣間見えた有能さはそこにはありません。命の危険がないと分かって気が緩んでいるのかもしれませんが、それでも何となく面白くないのは否定できませんでした。
 
 ―…面白くない?この私が?
 
 それでは、まるで私がこのエルフに執着しているようではないですか。悪気がないはずのウィルソンの様子――彼はエルフ嫌いを自認していますが、誰かが傷ついて喜ぶほど下衆ではありません――に反発を覚えるのですから。しかし、私が今まで執着してきたのは『彼』だけであったはずです。両親も、『友人』も、何もかもが私にとっては有象無象であったはずではありませんか。
 
 「……中隊長?」
 「…代理ですってば。とりあえずこのまま放ってはおけません。私が運ぶのでウィルソン君はその護衛を」
 
 ―とは言え、襲ってくる相手など殆どいませんが。
 
 既に魔物娘と結婚しているウィルソンはそもそも魔物娘の対象にはなりませんし、私も魔物娘の体臭を吹きつける香水を使っています。凶暴さの代名詞で語られるホーネットでも、今の私たちには近寄っては来ません。他に警戒すべきは野生生物ですが、基本的に野生生物は臆病です。冬眠明けの熊でもないかぎり積極的に襲ってくることはまずないでしょう。
 
 ―しかし、用心に越したことはありません。
 
 基本的に臆病な野生生物とは言え、人間に慣れた動物などは襲ってくる可能性があるのです。またそれ以上のイレギュラーな事態としては教団の私兵との遭遇戦も考えられるでしょう。どちらも可能性は殆どゼロに近いとは言え、決してあり得ないとは言い切れません。だからこそ、パトロールは二人一組で行い、いざと言う時の為にフォローし合えるようにしてあるのですから。
 
 「えー…中隊長殿が運ぶんですか?」
 「?」
 
 不満そうなウィルソンの様子に思わず首を傾げてしまいます。何処か不満気なその言葉遣いは決して上司に力仕事をさせたくないという殊勝な心がけから来ているものではないでしょう。顔を見ればまず間違いなく「美味しい所を持って行きやがって」と思っているような表情が見られるのですから。しかし、そこまでして妬まれる理由が私には分かりません。だって、彼はエルフ嫌いを公認していたではありませんか。それに何よりこのエルフは――。
 
 「役得独り占めとかどう考えてもパワハラだと思いまーす」
 「…あのねぇ」
 
 役得と言われて軽く頭痛を覚えた額を押さえたくなりました。私がその役得を喜んでいないと言う点に目を瞑れば、確かに彼の言っている事も一理あるでしょう。それに、エルフ嫌いであり、既に嫁を持っていたとしてもウィルソンが助平であることに変わりはないのです。そう言ってくるのはある程度、予想はついていました。ただ…それを瞬時に思いつかなかったのは勿論、大きな理由があって――
 
 「…これ、男ですよ」
 「え?」
 「だから、このエルフは男なんですってば」
 
 抱き抱えた腕からそっと零れ落ちる滑らかな髪は下手な女性よりもよっぽど美しいものであります。全体的な線は細く、どう見ても女性にしか見えません。微かに上下する胸は胸板とは決して呼べず、貧乳と言われても納得するものでしょう。しかし、一度、エルフの男と女を見た者にとってはそれは見間違えるものではありません。その美しさの中に微かに漂うオスらしさに気づいた私は、それが『男』であるとすぐに気付けたのです。
 
 「…いや、流石にそれは嘘でしょう?だって…それだけの美人ですよ?」
 「来月の飲み代全部を賭けてもいいですよ。まぁ、確かめる為には股間を触るしかありませんし、そんな事したら二重の意味で貴方が殺されるでしょうが」
 「…大人しくしておきます」
 
 ジパングからやって来たという美しくも嫉妬深い妻の姿を思い出したのでしょうか。さっとその顔を青ざめて、ウィルソンはその背筋をブルリと震わせました。その脳裏には今までに行われた様々な意味での責めが映っているのかも知れません。そんな彼の様子を傍目に見ながら、私はエルフの足を抱きかかえた腕をそっとずらしました。若草色のショートパンツからそっと漏れる足はそれだけで艶かしく擦れて、私の肌に余韻めいたものを残していくのです。
 
 ―…しかし、本当、男とは思えないくらい軽いですね。
 
 こうやって抱いていてもまるで身体が疲れません。一応、警備隊として現場で動く以上、それなりに身体を鍛えていますが、それでも人一人を抱きかかえていれば腕の乳酸がたまってもおかしくはないでしょう。しかし、彼の身体は食事をちゃんと摂っているか不安になるくらいに軽く、こうして無駄話をする余裕すらもあるのでした。
 
 「とは言え、ここから一直線に帰っても結構な時間がかかりますし、交代する方が時間の短縮になりますね」
 「つまり…それは…」
 「貴方の言う『役得』を独り占めするはずないじゃないですかー。やだなー」
 
 そっと笑顔を――勿論、大多数の人にわざとらしいと言われるそれを――浮かべながら、私はそっと歩き出しました。その後ろから意気消沈した様子のウィルソンが着いてきますが、わざわざ振り返ってやるつもりはありません。ウィルソンの無駄話に付き合って、時間を少し無駄にしてしまったのです。何事もないとは思いますが、倒れていた彼を早くちゃんとした診察の出来る医者の所へ連れていかなければいけないのですから。
 
 ―あ、そうそう。その前に…。
 
 「あ、来月の飲み代はウィルソン君。貴方持ちでお願いしますよ?」
 「は、はぁ!?賭けは無効じゃないんですか!?」
 
 振り向かずにそのまま言った私の言葉にウィルソンが驚いた声をあげました。勿論、賭け金を載せなかった相手から賭け金を奪うほど私は外道ではありません。鬼畜だとか色々、陰で言われているのは知っていますが、そこまで酷いつもりはないのです。だから、これは賭け金ではなく――。
 
 「早い話『美人を抱きたい』って言った貴方の言葉を貴女の妻の前でポロッと漏らさないように心の潤滑油が欲しいのですよ」
 「…それってつまり口止め料って事じゃねーですか…。つーか、それ絶対、誤解させる気満々の言葉ですよね!?」
 「両方共の意味でそうとも言うかも知れませんね」
 
 より落ち込んだウィルソンの様子が背中から伝わってきます。振り向いてその顔を見てやりたい気もしましたが、今は彼の事よりも名も知らぬエルフの事の方を優先しなければいけません。さっき人の事を役得だなんだと言ってくれた仕返しも済みましたし、今は無駄話より先に足を動かすべきでしょう。
 
 「鬼っ!悪魔っ!!貴方からは血の匂いがするわ!!!」
 「最高の褒め言葉ですよ」
 
 負け惜しみほど聞いていて心がすく言葉はありません。何せそれは相手の敗北宣言も同様なのですから。そんな事を思いながら、私は元来た道を遡って行きます。その胸に厄介事の塊とも言えるエルフを抱きながらの道は、何故か来た時よりもさらに短いような気がするのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「空腹だな」
 
 連れ込んだ彼を診察して一番にそう言ったこの街一番の名医と名高い男性――エイハムはやるせなさそうに溜め息を吐きました。淡いベージュ色の壁紙がそれを吸収し、霧散させます。決して広いとは言えないこの病室で、エルフの細い身体を診察していたこのエイハムはかなりの博識であることは私も知る所でした。狭いコミュニティであるが故に仲間意識の強いエルフが、どうして空腹で外に倒れていたのかが分かっているのでしょう。その切れ長の瞳には同情の色が強く浮かんでいました。
 
 「…そもそも私は薬剤師であって医者じゃないんだがね」
 「この街一番の名医と言われる方が何をおっしゃっているんですか」
 
 その溜め息を誤魔化すように愚痴る彼にそう返しながら、私はそっと真っ白なベッドに横たわるエルフの顔を見つめました。穏やかな寝顔の裏で一体、どんな夢を見ているのかは私には分かりません。しかし、安心したその顔はエルフが下等と見下す人間の社会の中では浮かべられないものでしょう。きっと…エルフの集落での生活を夢見ている。そう思うだけで私の胸に微かな痛みが走るのです。
 
 「それで…これからどうすれば?」
 
 その痛みを誤魔化すように言った私にエイハムはそっと立ち上がりました。そのまま疲労と眠気を身体から弾き出すようにぐるぐると腕を回して、大きく伸びをします。魔物娘が深く入り込んだこの街では滅多に刀傷沙汰や病気などが起こりません。彼が寝るベッドの傍に備え付けられた窓からは真っ赤な光が差し込んでくる夕刻になっているとしても、それほど疲労している訳ではないでしょう。ならば、これはきっと答えに窮するが故の時間稼ぎと思っても良いかも知れません。
 
 「…症状自体は簡単だ。目が覚めた後に暖かいスープでも飲ませてやれば良い。それはこっちで用意しよう」
 「…ありがとうございます」
 
 わざわざ「症状は」と区切ったエイハムの気持ちが私には良く理解出来ました。確かにそれでエルフの体調はかなり上向く事でしょう。それからちゃんと栄養補給さえすればもう二度と空腹で倒れる事はなくなるはずです。だけど…その過程に問題が多くあって――。
 
 「…しかし、ここは彼が嫌うであろう魔物娘と人間が暮らす社会だ。そのストレスは多大なものとなるだろう」
 「…そう…ですね」
 
 当たり前だが、この街は決して彼にとって住みやすい場所ではありません。この男性が言う通り、ここは彼が見下す者だけが住んでいるのですから。その上、価値観の決定に強い影響を与える社会背景が大きく違う以上、価値観の一致はかなり難しいでしょう。この二つだけでも彼のこれからの心労を察するには十分過ぎます。
 
 「とは言え…このまま外に放逐するのも…」
 「…後味が悪い…ですよね」
 
 これから教団との戦争状態に突入するかも知れないという時期に外に放り出すだなんて危険にも程があります。魔物娘が保護してくれれば良いが、それを期待するのにはあまりにも無責任でしょう。かと言って、下手に人間社会に放り出せば、良くも悪くも純粋培養な彼が騙されるのではないかという不安が強いのです。彼はエルフだけあって女性と見間違わんばかりの美人なのですから。その手の趣味の人間からすれば垂涎モノでしょう。
 
 「うむ。と言うことで…せめて彼の生活が安定するまでは誰か信頼できる相手に預けたいと思っているのだが…」
 
 そう言いながらチラリとエイハムが私を見ました。何処か期待するようなその視線は私にそっと肩を落とします。色々、悪評が付きまとう私をこの男性が信頼しているとは到底、思えません。ならば、きっとその視線の意味は「信頼できる相手を紹介してくれ」と言う事なのでしょう。しかし、私には『彼』以外に友人は一人もおらず、交友関係と言えるようなものを持っていないのです。
 
 「残念ですが、私の交友関係を期待してもらっても困りますよ。それにエルフの面倒を看ようなんて奇特な人間は下心丸出しな奴か、よっぽど自分に酔った自己満足野郎でしょう。どっちにも彼を預けたくはありませんよ」
 
 何せエルフはその美貌とは裏腹に人間を敵視していると言っても過言ではないくらいなのですから。しかも、彼はこれからその敵視している人間社会の中で暮らしていかなければいけないかもしれないのです。その強いストレスから生まれるであろう刺が面倒を看ようとしている相手に向けられるのは自明の理でしょう。それら全てを受け止める覚悟があるならまだしも、突如として他人から押し付けられた面倒事にそこまでの覚悟を求める事自体が無理難題です。結果として彼を引き取る事を二つ返事で了承する馬鹿は私が上げた二種類のタイプくらいしか思いつきません。
 
 「なら、選択は一つしかないんじゃないか」
 
 ―そのままエイハムはそっと安心させるような笑みを浮かべて…。
 
 何か言いたそうなその様子に首を傾げますが、特に思いつきません。これら二つ以外の何か別の選択肢があるようなエイハムの言葉に思考を張り巡らせますが、私に期待されるであろう事と言えばそれくらいです。
 
 「やれやれ…お前は頭は良いが自分に対する評価が若干、歪んでいるのがたまに傷だな」
 「…放っておいて下さい」
 
 心の中を見透かしたようなエイハムの言葉に私は思わず刺のある言葉で帰してしまいました。しかし、それもある種、仕方のないことではあるのです。何せエイハムの言ったその言葉はかつて『彼』にも言われたものであるのですから。私の事を『鈍感』と称した『彼』を彷彿とさせる言葉を『彼』以外の誰かに言われて面白いはずがありません。
 
 「はっきりと言おうか。私は彼を君に預けたいと思っている」
 「は?」
 
 そんな風に拗ねるような感情を抱いた瞬間にエイハムからそう言われたのですから、私が呆然とするのも無理はない話でしょう。何せそれは私が最初からあり得ないと除外していた事なのです。
 
 「…冗談でしょう?」
 「人一人の一生を左右する選択で冗談を言うほど私は酔狂な男ではない」
 
 私の返事に苦笑めいた笑みを浮かべながら、エイハムはそっと肩を落としました。どうやら私の反応は彼にとって予想通り過ぎるものであったようです。私も他人に良くやる事ですが、こうしてそれが自分に向けられればやっぱり良い気分にはなりません。しかし、それ以上に不可解な気持ちが私の中に渦巻いているのです。
 
 「…どうして私なんですか?」
 「お前が発見者である事が少なからず彼の心の壁を取り除く事を期待して…だ。それにお前は面倒見も悪くない。悪評を聞いても飄々としているお前ならば彼の刺も受け止めてやれるだろう?」
 
 何だかんだと付き合いの長いエイハムの言葉に私はそっと溜め息を吐きました。確かにエイハムの言葉には一理あります。エルフがそこまで殊勝な性格をしているとは思えませんが、『命の恩人』と言うのはやはり特別なものでしょう。最初からは無理でもある程度、打ち解けられるかもしれない。そう期待してもおかしくない立ち位置であるのは確かです。
 また、代理であるとは言え、管理職である私は面倒見が悪くてはやってはいけません。どれもこれも部下は有象無象にしか思えないとは言え、それなりに面倒は見ているつもりです。部下の数は100人単位なので濃度そのものは決して濃いものではありませんが、それら全ての顔と名前が一致している自信はあるのでした。
 そして『彼』以外の殆どが有象無象にしか思えない私にとって悪評は耳障りの良い言葉にしか聞こえません。何せそれは負け犬の遠吠えのようなものなのですから。私に負け、燻っているような連中が何を言おうと心地良いだけなのです。
 
 ―これだけ見れば確かに彼の保護者としては最適かもしれませんが…。
 
 しかし、私は自分でも自覚する程度に精神的鈍感さを持つのです。『彼』以外の他人には執着せず、親でさえどうでも良いと思っている私が、特定の誰かの面倒を見られるはずがありません。そんな私よりも彼のあげた条件の殆どを満たしているウィルソンの方がよっぽど適任でしょう。
 
 「それだったらもう一人の発見者でも構わないのでは?」
 「彼は既婚者だろう?しかも、新婚の。そんな家庭に火種を持ち込む気か?」
 「…ご尤もなご意見ですね」
 
 何度か会った事のあるウィルソンの奥方はラミア種もかくやと言わんばかりの嫉妬深い女性でした。何せ男である私が酔いつぶれた彼を運んだだけで、じと目をくれるほどなのですから。そんな家庭に女性と見間違うほどの美貌を誇る彼を放り込んだら、どうなるか。それこそ大惨事になってしまうでしょう。
 
 ―まぁ…私としてはそれでも構わないんですが…。
 
 自分に回ってくる面倒事を回避する為にはウィルソンを幾ら盾に使おうが心は痛みません。その程度には私の感性はぶっ飛んでいるのです。しかし、その反面、そんな修羅場に放り込まれるであろう彼のことを考えるとどうしても是とは言えません。ウィルソンは別にどうなっても構いませんが、慣れない人間社会で身を寄せる家の中もギスギスしていては幾ら何でも可哀想です。
 
 ―ですが…それはきっと私の保護下でも同じで…。
 
 「…そんなに特別な関わりを誰かと作るのが怖いか?」
 「っ!」
 
 そこまで考えた瞬間、投げかけられたエイハムの言葉に思わず肩が跳ねてしまいました。それはきっとエイハムの言葉が図星だったからでしょう。そう分析できる程度の冷静さは私も持っていました。しかし、それ以上に私の心の中で強い同様が渦巻き、私を困惑へと導いて行きます。
 
 「まぁ、考えておいてくれ。その間に私はスープの準備をしておこう」
 
 言いたいことだけ言ってエイハムはそのまま病室の扉へと歩き出しました。その背に何かしら言ってやろうと思いましたが、その言葉がどうにも思いつきません。何か言ってやりたい言葉があるはずなのに、それが肯定なのか否定なのかすら今の私には分からないのです。まるで困惑の波に飲まれて溺れるように私の思考は落ちていっていました。
 
 ―それからバタンと扉が閉まる音がして…。
 
 そこでようやく困惑から解放された私は溜め息を一つ吐きました。エイハムによってもたらされた言葉一つでここまで混乱を覚える自分がどうにも未熟に思えるのです。年齢はもう30を超えたと言うのに、やっぱりまだまだ精進が足りないのでしょうか。少なくとも顔や身体に動揺が出るようではこれ以上の出世は望めないでしょう。
 
 「やれやれ…」
 
 思わず一つ呟いて私はベッドで眠る彼の顔に目を向けました。そこには苦悩とは無縁の穏やかな寝顔が浮かんでいます。人がこれだけ悩んでいるというのに元凶である彼がこんなに穏やかな顔をしている。それが妙に不公平な気がして、無理矢理、起こしてやろうとも思いましたが、彼のこれからを思えばそれも出来ません。こんな風に穏やかに眠れるのはもう今日限りかもしれないのですから。
 
 ―…今日限り…か。
 
 もし、私が彼を引き取る事を了承しなければ、私とこのエルフの青年との関係も今日限りでしょう。私は管理職にあるだけあって、一々、どうでも良い相手に会いに行く暇はないのです。仕事中は元より、休暇も自分の知識を向上させたり、工作――勿論、様々な意味での――をしたりなど予定がびっしりと詰まっているのですから。今でさえ四苦八苦してタイムスケジュールを練っているのに、これ以上、誰かに会いに行く予定など組み込めません。
 
 ―だから…彼のことが気になるのであれば傍に置いたほうが良いのでしょう。
 
 最近は戦争直前という事もあってかなり忙しいですが、警備隊の仕事は基本的に定時にはあがる事が出来ます。二つの管理職を兼任する私にはそれなりの仕事量も多いですが、その気になれば定時前に終わらせる事は簡単でしょう。その後、家に帰れば、彼が居る。そんな生活であれば彼の様子を調べさせたり、暇を見て彼に会いに行く必要はありません。
 
 ―…気になる?私が?
 
 そこまで考えて私は自分の思考の異常さにようやく気づきました。今までそんな風に気になったのは『彼』の事くらいです。しかも、それは『彼』が私へしつこく踏み込んできたからで、決して私から能動的に『彼』へと歩み寄ったのではありません。つまり『彼』以外に必要最低限の興味を惹かれなかった私は、今まで能動的に誰かへ興味を持ったことなどないはずなのです。しかし、今、こうして目の前で眠っているエルフに向ける感情は有象無象に向けるそれとも、『彼』に向けるものとも色が違って…。
 
 「…らしくないですね、ホント」
 
 自分に対する自嘲を込めてそっと呟きながら、私は背中を木組みの椅子へと預けました。ギシリと鳴った椅子の悲鳴は大通りから聞こえてくる喧騒に飲み込まれ、すぐに消えてしまいます。夕刻になったこの街は大都市故に生まれる雑多な活気とはまた違うものを孕んでいました。誰も彼もが多幸感を抱き、幸せだからこそ生まれる穏やかさにも似た騒がしさがこの街に満ち溢れているのです。
 
 「ん…う…」
 
 その騒がしさに眠りを妨げられたのでしょうか。ベッドの上に眠る彼は細い眉をそっと歪めて、小さな寝言を言いました。その姿は…やっぱり私の思い出の中のエルフととても良く似ています。エルフの集落に近づいたことはないので、もしかしたらエルフは皆、似たような姿をしているのも否定できませんが……その可能性はほぼ無いと思って構わないでしょう。
 
 ―…命の恩人は特別…か。ホント、その通りですね。
 
 未だに心の中に微かに残っている後ろ姿と顔立ち。それと似通っているだけだというのにこんなにもこのエルフの事が気になってしまう。勿論、私の思い出の中のエルフと今、私の目の前で眠っているエルフが同一人物である可能性はゼロに等しいでしょう。そもそも私もはっきりとあの時のエルフの顔立ちを覚えている訳ではありません。同じエルフと言うだけで強く補正されている可能性もあるのです。しかし、そう理解していても、彼の中に思い出のエルフを見てしまうのでした。
 
 「なら…選択肢は殆ど無いに等しいじゃないですか」
 
 ポツリとそう呟いた自分の中で少しずつ思考が形になっていきます。彼が私の命の恩人でなくとも、その中に面影を見てしまう以上、これからもきっと気になってしまうでしょう。それは私にとって仕事の効率を下げかねないほどの強烈なデメリットです。彼を傍に置けばそれが解消されるならば、そうするべきでしょう。勿論、それには彼が人間社会に慣れるまで面倒を見なければいけないというデメリットが発生しますが、それは案外、どうにかなるかもしれません。
 
 ―…まったく…楽観主義は『彼』の専売特許だったはずなんですがね。
 
 しかし、「もし」なんて事を考え続けていれば前へ進めはしません。そして、停滞は何にも勝る怠惰でしょう。決してそれを否定するつもりはありませんが、立ち止まり続けるくらいであれば私は前へと進みます。そうやって打算もないまま勇気を持って踏み出した一歩が案外、状況を打開する一手になる。それを『彼』から学んだ私はそれに倣ってみようと結論付けるのでした。
 
 「ん…あ…」
 
 そうやって結論を出した瞬間、彼が呻き声をあげながらゆっくりと目を開いていきます。まるで私が結論を出すのを待っていたかのようなそれに微かに面白さを感じながら、私は彼へそっと問いかけました。
 
 「おはようございます。気分はどうですか?」
 「あ…?…あぁ…」
 
 まだ朦朧としているのでしょう。半開きになった胡乱な瞳で天井を見ながら、彼は短く返しました。勿論、それだけでは彼が何を言いたいのかまったく分かりません。しかし、倒れてからの記憶が一切、無いであろう彼に急かしても混乱させるだけです。ここは大人しく彼が落ち着くのを待とう。そう思った私の目の前で私の顔を見る彼の視界がはっきりとしたものへと変わり、がばりと勢いづけてその身体が跳ね上がりました。
 
 「に、にににににニンゲン!?」
 「えぇ。そうですよ」
 
 混乱する彼を追い詰めないように努めて朗らかに微笑みながら、私はそっと目の前のエルフに返しました。しかし、私の混じりっ気無し100%善意の笑みを見た彼がベッドの上で後ずさっていきます。それが敵視する人間を見た事に対するものか、それとも「胡散臭い」と散々な言われような私の笑顔を見たからなのかはわかりませんが、とりあえず警戒されているのは確かでしょう。
 
 「安心して下さい。貴方に危害を加えるつもりはありませんよ。私は森の中で倒れていた貴方を保護したもので…」
 「にっニンゲンなんて信用出来るか!」
 
 ―予想通り過ぎるその反応に思わず溜め息を吐きそうになりました。
 
 何だかんだと言っても私は彼が思い出の中のあのエルフではないかと期待していたのでしょう。しかし、彼の敵意を剥き出しにしたその様子にそれだけはないとすぐに理解させて貰ったのです。その事に失望を禁じえないまま、私は胸の中でそっと溜め息を吐いて彼へと口を開きました。
 
 「もし、私に悪意があればわざわざ街にまで連れてきて治療して貰いませんよ」
 「ま…街…!?じゃあ、ここはニンゲンの…」
 「えぇ。それと『魔物娘』も住んでいますよ」
 「っ!!」
 
 嫌味ったらしく『魔物娘』にアクセントを置いたのは悪戯したかっただけではありません。勿論、そんな気持ちがあったのは否定しませんが、情報過多に陥って貰った方がこっちとしてもアドバンテージが取りやすいのです。決して彼に優しくない手法ですが、どの道、その情報は彼にとって必須なものですし、一度に困惑を全て吐き出して貰った方がこっちとしても楽なのですから。
 
 「ま、魔物と一緒に住んでいるだって…!?そんなのだからニンゲンはふしだらなんだ!!」
 「おや、魔物が淫らな存在という程度の知識は持っているようですね」
 「っ!ば、馬鹿にしているのか!?」
 「えぇ、勿論。森の奥に引き篭って、すぐ傍にあるこの街の存在も知らない程度の高尚な森エルフ様を下等な『人間』であるこの私が馬鹿にしている訳です」
 「こ…のぉ!!」
 
 激昂して立ち上がろうとした彼の身体がそのままベッドにぺたりと崩れ落ちました。元々、空腹で倒れるほどに彼は疲弊しているのです。それを怒りで幾ら誤魔化そうとも普段と同じようには動けないでしょう。元々、エルフはそれほど身体能力に優れている訳ではない上に、空腹で能力が落ちているとなれば普段からそれなりに身体を鍛えている私の敵ではありません。だからこそ、私は安心して椅子に座ったまま彼が崩れ落ちる様を見ていた訳です。
 
 「あ、あれ…?」
 「意識を失うほど空腹なのに一気に立ち上がろうとしたから身体がついていってないんですね。お可哀想に。…で、さっき、貴方は何をしようとしていたんですか?」
 「う…」
 
 殆ど動けない状態のままそう問い返されて、彼は明らかに言葉に詰まりました。その様子を見て多少は胸がすく気がしたが、ここで止まるようであれば私の悪評は広まってはいません。返事に窮する彼をもっと追い詰めてやろうと私は再び口を開きました。
 
 「まさか、仮にも『命の恩人』である私に危害を加えようとしたのではないでしょうね?それならば…温厚な私にも考えがありますが」
 「うぅ…」
 
 『命の恩人』と言う部分にアクセントを置きながらの私の言葉に彼は微かな呻き声をあげました。きっとその中ではプライドと保身が渦巻き、どちらを選択するか迷っているのでしょう。その心の動きが手に取るように分かる私はそのまま彼が答えを出すのを待っていてやるほど優しくはありません。
 
 「さぁ、どうしたのです?まさか『人間』とは比べものにならないほど頭の良い『エルフ様』がご自分の行動理由を説明できないなんて事はないでしょう?『人間』なら五歳の子どもでも出来る事ですよ?」
 
 ―まぁ、五歳の子どもだからこそ出来る事でもあるのですが。
 
 大人になれば様々なしがらみが増え、単純にこうだと言い切る事は出来ません。私だって自分の行動理由全てを説明しろと言われれば言葉に詰まってしまうでしょう。それが出来るのはしがらみの少ない子どもくらいなものです。しかし、そうと分かっていても、私は彼にフォローをするつもりはありません。何せこれは彼を追い詰める為のとても意地悪な質問なのですから。
 
 「う…ぐ…ぬぐぐ…」
 「おやおや、『エルフ様』は存外、高尚な言語を嗜まれるようで。ですが、ふしだらな『人間』である私には呻き声にしか聞こえないので、申し訳ありませんが共通語でお願いできますか?」
 「わ、私は…私…は…」
 
 ―そう言ってから彼はそっと顔を伏せました。
 
 きっとその胸の内ではメキメキとプライドが音を立てて崩れそうになっているのでしょう。その形の良い目尻からは涙が浮かびそうになっているのが見て取れるほどなのですから。元々、彼は理由があって集落を追い出された身。それから空腹になるほど森の中を彷徨っていたくらいなのです。その心身は既にボロボロでしょう。
 
 ―…ま、虐めるのはこのくらいにしておいてあげるべきですかね。
 
 「…どうです?馬鹿にされる気分は?」
 「う…」
 「とても気分が悪いでしょう?信頼出来ないだとかふしだらとか下等だとか単細胞だとか狐顔だとか言われた私もそうだったんですよ?」
 「い、いや…そこまで酷い事は言ってないと…」
 「何か?」
 「い、いや…なんでもない」
 
 きっと一を言い返せば十を言い返されてしまうと理解したからでしょう。何か言いたそうな表情のまま彼はそっと黙りこみました。さっきの調教…もとい教育が効果があった事に内心、微笑みを浮かべてしまいます。しかし、その意地の悪い表情を表に出す訳にはいきません。何せここからはたたき落とした自分自身の評価を上向きにしなければいけないのですから。
 
 「その上で…先に謝っておきましょうか。馬鹿にして申し訳ありません」
 「…え?」
 
 ベッドの縁に触れるくらいまで深々と頭を下げた私に信じられないような彼の言葉が届きました。まさかこのタイミングで謝られるとは思ってもいなかったのでしょう。呆然としたような言葉がそれを教えてくれます。それに私の『普段は悪ぶってる不良がついつい優しいところを見せるとドキッとしちゃう。悔しい。でも、惚れちゃうビクンビクン』作戦が成功しつつあるのを感じて、下げた顔が彼から見えないのを良い事にそっと意地の悪いと評判の笑みを浮かべました。
 
 「あ…え…?いや…その…」
 「許してくださいなどと都合の良い事は言いません。ですが、悪意を向けられれば悪意で応えたくなるのが生き物としての常でしょう。エルフほど達観していない『人間』にとって、それからは逃れることはとても難しいのです」
 「う…」
 
 言外に『最初にそっちが馬鹿にしたからな?』と念を押しているのに気づいたのでしょう。彼はさっきとはまた違う呻き声をあげながら、ベッドの上で身動ぎしました。何処か居心地悪そうなそれに下で浮かべた笑みを強くしながら、私は最期の仕上げとばかりに口を開きます。
 
 「ですが、エルフと言う高等な種族である貴方であればきっと許していただけると…」
 「…分かった!分かったから!!!」
 
 彼のその言葉に弾かれたように私は一気に顔を上げました。無論、そこにはさっきまで浮かんでいた意地悪い笑みはありません。純粋に彼の言葉を喜ぶ表情のみが浮かんでいるはずです。
 
 「おぉ、では、私を許していただけるんですね!?」
 「そこまで言われて許さないって選択肢は殆どないも同然だろう…。というか、最初からそのつもりだっただろうに。汚いな流石ニンゲンきたない」
 
 何処か諦めたように言いながら、そっと彼は頭を振りました。その敗北宣言とも言える仕草と言葉に私は内心、ほくそ笑みながら口を開こうとします。しかし、いざそこから言葉を出そうとした瞬間、彼がそっと目を明後日の方向に向けながら口を開いたのが見えました。それを見た私は彼の言葉を待つように唇を閉じます。
 しかし、彼の口からは中々、肝心の言葉が出てきません。天井の角や閉じられたカーテンへと視線を彷徨わせながら、口を何度か開閉します。その胸中の中でプライドと意地が喧嘩をしているのを理解する私は、彼の姿を見ながらずっと言葉を待ち続けていたのでした。
 
 「…………まぁ…私も悪かった。色々あって混乱していてな。許せ」
 
 お前は何処の王族だと言いたくなるような言葉でも、彼にとってはきっとそれなりに悩んでの言葉なのでしょう。それは五分という普通ではありえない時間の逡巡からも良く分かります。彼はエルフだけあってとてもプライド高い種族なのですから、こうして謝っただけでも御の字と言えるでしょう。
 
 ―しかし…まぁ…随分とチョロいですね。
 
 そうなるように仕向けたとは言え、もうちょっと二転三転するものと思っていただけに少し拍子抜けしてしまいます。とは言え、それそのものは悪いことではありません。騙しやすければ騙しやすいほど、ある種、私にとっては御しやすい訳です。彼が私以外の人間に騙されないように気を配る必要がありますが、案外、彼と打ち解ける――あくまで私から見ての事ですが――のはそう遠くない未来なのかもしれません。
 
 ―まぁ、それはさておき。
 
 彼の騙されやすさを心の中に懸念事項として止めておきながら、私はそっと思考を他へと飛ばします。まずはファーストコンタクトの混乱も落ち着いたみたいですし、具体的な話しをするのは今しかありません。彼に言うべき内容を頭の中でそっと整理しながら、私は肩を落とす彼に口を開きました。
 
 「さっきも少し言いましたが貴方の不調の原因は空腹です。とは言え、いきなり固形物を食べるのは危険ですから、今、とりあえずスープを用意してもらっていますよ」
 「スープ…に、ニンゲンの料理…」
 「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ」
 
 肩を震わせて思いっきり身構える彼を安心させるように言っても、彼はその態度を崩しませんでした。一体、彼の中ではどんなイメージが創り上げられているのか神ならぬ身の私では分かりませんが、エルフの中で人間がどれだけ見下され、汚らしいと言われているかがその態度から透けて見えるようです。別に分かりきっていた事なので、今更、それに腹を立てたりはしませんが、何処か不愉快なのは否定出来ません。
 
 「安心して下さい。私たちにも衛生意識って奴はちゃんとありますから。それにここの主人は腕の良い医者でもあるので、今の貴方の身体を害するような料理は出ませんよ」
 
 それを胸の奥に隠しながらの一言でようやく彼は少し納得したようです。力を入れていた肩を和らげ、ほっと一つ安堵の溜め息を吐きました。もしかしたら彼の頭の中では原始社会のような人間の生活が浮かんでいるのかもしれません。交通の要所に存在するこの街のほぼ隣と言っても過言ではない森に住んでいるというのに、この人間への理解の無さにこっちの方が思わず溜め息を吐きたくなります。
 
 ―まぁ…森の中に引篭もっていれば仕方のないこと…なんですがね。
 
 不可侵条約を結んだエルフが人間社会の情報を得られないのは当然と言えば当然です。そんな社会の中で生きてきた彼にとって人間とはエルフ達が言うような『下賤』で『下等』かつ『淫ら』で『穢らわしい』生き物なのでしょう。実物とはまったく違うその像を彼が作ったのは決して彼そのものも罪ではありません。しかし、そうした社会を是としたまま停滞しているエルフには罪が無いとは言い切れないでしょう。
 
 ―良くも悪くも時代はもう進み始めているのです。
 
 魔王の代変わりからこっち、世界は激動の時代を迎えました。新しい姿を手に入れた魔物娘相手に人間は一致団結する事無くお互いの利権や権益の拡大を図っているのです。何処の国も小競り合いが頻発し、戦乱と言う言葉が相応しいと言えるでしょう。それは決してこの街も無関係ではありません。そんな時代の流れを拒絶するかのように森の中に引き篭っているままでは本当にエルフは滅びかねません。
 
 ―勿論…エルフの境遇には同情しますが…。
 
 基本的に私はエルフに同情的です。彼の刺のある態度も不愉快になれども、心底怒りを露にするほどではありません。それでも、自ら滅びへと向かうような停滞を続ける彼らを擁護する言葉を私は持ってはいないのです。動乱の時代だからこそ、なりふり構わず、生き残りを目指さなければいけません。それなのに、エルフは耳も目も閉じたままなのですから、擁護など出来るはずがないのです。
 
 ―まぁ、だからといって私に出来ることは何も無いんですが。
 
 人間を見下すエルフにとって、人間の忠告を聞き入れるというのは耐え難い苦痛でしょう。個人単位では今、こうして彼が行ってはくれましたが、一つの集落丸ごととなるとやはりどうしても難しいと言わざるを得ません。その上、エルフは現在の領主と不可侵条約を結んでいるのです。そんな中、幾ら彼らのためを思って声を荒あげたとしても決して届かないでしょう。
 
 ―『彼』なら、それでも何とかするかも知れませんが。
 
 無駄だという言葉を制止とも思わない『彼』ならば、真に彼らの事を思って矢を射られても、剣を向けられても忠告を続けようとしたかもしれません。しかし、『彼』は既にここにはおらず、代わりにいるのは打算でしか物事を考えられない一人の男だけ。そんな男が『彼』の代わりに無駄な事をするはずがなく、私は今まで彼らの集落へは決して近づかなかったのです。
 
 ―…だからこそ、このエルフには色々な物を見て欲しい。
 
 多分、それはエゴなのでしょう。エルフの未来が真っ暗なのを知りながら、行動しない事に対する償いのようなものです。それを彼に押し付けているのですから、私の行動はエゴと批判されるべきでしょう。しかし、集落を追い出されたという彼の不幸を不幸のままで終わらせたくはない。せめて彼にとって大事な物を得られる経験にしてあげたいと思うのもまた本心でした。
 
 「…何か?」
 「いえ、何でも」
 
 そんな私の視線に気づいたのでしょう。その端整な眉をそっと釣り上げながら、彼はそう尋ねました。どうやらまだまだ彼との間に信頼関係は築けてはいないようです。ならば、ここで押し付けがましく「色々な物を見て欲しい」などと言っても無駄でしょう。逆に誤魔化してしまった方が良いと判断し、私は次の言葉を放ちました。
 
 「それより今の間に私に聞いておきたい事はありませんか?」
 「聞いておきたい事…?」
 「えぇ。今なら私の年齢からスリーサイズまで赤裸々に」
 「要らん」
 
 冗談を不機嫌そうな言葉に一刀両断された私はこれ見よがしに肩を落としました。しかし、この程度で落胆などはしていられません。最初の失望を乗り越えた今、これくらいは想定の範囲内なのです。彼を引き取る事を視野に入れる私にとって、この程度で凹んでいる余裕はありません。
 
 「では、改めて聞くが…ここはニンゲンの街なんだな…?」
 「えぇ。より正確には魔物娘も住んでいますが。位置としては貴方の倒れていた森から南東方向にすぐの街ですよ。後で地図をお出ししましょうか?」
 「…いや、良い。…長が近くにニンゲンの街が出来たと言っていたから嘘ではないんだろう。とりあえず…そう離れていないと言うことだけ分かれば十分だ」
 
 そこまで言い切って彼はそっと溜め息を吐きました。苦渋の色が浮かぶその顔は人間に助けられた事を今更、恥じてでもいるのでしょうか。それよりも先に命が助かった方を喜んでくれれば、こっちとしても有り難いのですが、彼の顔からはまったくそんな感情は見えません。かなりの上から目線であったとは言え、私に謝った事から、プライドの為ならば命を投げ捨てても構わないといかいう救いようのない馬鹿だとは思えませんが――。
 
 「…どうして私を助けたんだ…?」
 「…は?」
 
 そんな考えを浮かばせる私の前で理解の出来無い言葉が通りすぎて行きました。思わず聞き返したそれに彼はベッドの上のシーツをぎゅっと握りしめます。純白のシーツに走った隆起は彼の心の中に広がる迷いという名の波紋を教えてくれるようでした。
 
 「…だから…どうしてあのまま死なせてくれなかったんだと聞いているんだ…!!」
 
 ―…訂正。どうやらこのエルフは救いようのない馬鹿ではなく、救う価値もない馬鹿だったようです。
 
 彼の口から出たその言葉に思わずぶん殴ってやろうかという衝動が湧き上がりました。助けた人間の前でそれを言うのかと小一時間説教してやりたい気分です。悪態などに対する鈍感さには自信がありましたが、多分、私はまだまだ修行が足りなかったのでしょう。真っ赤になるほど握りしめた拳を彼に向かって突き出さなかったのは、微かに理性という名の抑止が間に合ったからです。
 
 「んなもの知りませんよ。目の前で行き倒れてたんですから、助けたって構わないでしょう?それに文句があるなら、行き倒れる前に首でも吊ってとっとと自殺でも何でもすりゃ良いんですよ」
 「なっ…!!」
 
 その代わり、口から出る言葉に普段からさらに刺をサービスしておきました。それに彼が心外そうな顔をしますが、これくらいは寛大な心で許すべきだと心底思います。何せ私はまだ彼に言ってやらなければいけない言葉が山ほどあるのですから。
 
 「自分で首括る勇気も無い癖に、助けた相手に八つ当たりですか?随分と貴方は人生が楽しそうな心理構造をされておられるようだ。貴方みたいに責任を外に押し付けて生きていければ随分と楽でしょうね」
 「な…なななな!?」
 「おや?図星過ぎて言い返す言葉もありませんか?そうですよね。だって、貴方からすれば私は『死にたがってた悲劇の主人公を助けた悪役』なんですもの。まさか反撃されるとは思ってもいなかったでしょう?頭を下げてすみませんでしたと言うと期待していました?それとも父性に溢れた笑みで慰めてもらえるとでも思いました?残念でした。答えはどちらでもありません」
 「ぐっ…」
 「あ、でも、私はとっても優しいので、死にたいなら手伝ってあげますよ。ロープくらいなら購入してきてあげます。怖いなら私が天井にロープを括りつけてあげてもかまいませんよ。序でに出血大サービスで椅子を蹴飛ばすのもやってあげましょう。そうすれば貴方はなにもしないで首つり自殺が出来ますよ。良かったですね。ほら、喜べよ。笑えっての」
 
 そこまで矢継ぎ早に言い放って、少しだけ冷静になった私の視界にぽたりと透明な雫が零れ落ちるのが見えます。ついに決壊した彼の様子に思わず溜め息が漏れました。泣く位ならば最初から喧嘩を売るんじゃないと言ってやりたいですが、流石にそこまで追い詰めてやるのは外道と噂の私とて心が痛みます。
 何せ、彼は閉じられた社会の外を知らないまま育ったのにも関わらず、そこから放り出された異端者と言えるのですから。何処へも拠り所を持たない彼が八つ当たりの一つでもしたくなってもおかしくはないでしょう。
 
 ―それでも…先の発言は許せませんが。
 
 世の中には生きたくても生きることの出来無い人というのは沢山いるのです。この街は今の領主の代になってから大分、治安が良くなりましたが、それでも犯罪行為を撲滅出来ている訳ではありません。私たちの手では防ぎきれなかった犯罪で取り返しの付かないものを失った人というのもまた数多く居るのです。その事を全て胸の奥に刻み込んでいる私としては、命を助けることが出来た彼から言われた言葉を許容出来るはずがありません。
 
 ―…まぁ、しかし…それを差し引いても大人気なかったですね。
 
 彼の心境は理解出来ているつもりでした。しかし、それはやっぱりつもりであったのでしょう。私の中の数少ない逆鱗に触れられたとは言え、先の言葉はあまりにも酷いものです。心身共にかなり弱っているとは言え、プライド高いエルフを泣かせる程なのですから、どれだけ彼の心を抉ったのか想像もつきません。
 
 「…すみません。大人気なかったですね」
 
 そう言って頭を下げましたが、彼からの反応はありませんでした。泣きじゃくるような声をあげて、彼は肩を震わせているのは伝わってきました。何処か子どもっぽい中性的な彼の声でそんな風に泣かれるとどうしても良心の呵責を感じてしまいます。ギリギリと胸の奥を締め付けるような感覚に耐えながら、私はそのまま頭を下げ続けていました。
 
 「わ、私だって…私…だって…」
 「……」
 「私だって…どうすれば良いのか分からないんだ…!仕方ないだろう…!?」
 
 ―「知るか馬鹿」と突き放してやりたい気持ちは私の中にもありました。
 
 私は別に彼と友人でもなんでもないのです。八つ当たりされた上に本人から「仕方ない」と言われて納得できるほど心が広くはありません。しかし、つい冷静さを忘れた先の一件から彼への後ろ暗さを抱く私はそれを口にする事は出来ませんでした。
 
 「お前に…お前に分かるのか…!?居場所を追い出されて、頼る所もなくなった私の気持ちが…お前に分かるのか…っ!?」
 「分かりません」
 「だったらっ!!」
 「だったら…大人しく八つ当たりされてろって事ですか?」
 「う…」
 
 頭を下げたままの姿勢ではありますが、彼が気まずそうな顔をするのが何となく分かりました。それは詰まった言葉だけではなく、身動ぎするようなその様子からも伝わってくるのです。それに微かな満足感を覚えましたが、余り出過ぎた真似をすべきではありません。反論すべき点は反論しなければいけませんが、余り追い詰めすぎるのは胸が痛むのですから。
 
 「ぐ…この…っ!こ…の…ニンゲンの…ニンゲンの癖に…!!」
 「……」
 
 悔しそうなその言葉を負け惜しみを思うほどの余裕は私にはありませんでした。普段であれば有象無象の涙声など、胸がすくような気持ちになるというのに今は胸の中に走る痛みで一杯です。やっぱり私の中でエルフというのは色々な意味で特別なのでしょう。そう自覚するのと同時に、下げたままの私の頭に柔らかいものが投げつけられました。
 
 「出て行け…!もう二度と顔を見せるな!!!」
 「…失礼します」
 
 このまま一緒にいても彼の苦痛になるだけだろう。そう判断した私は彼の言葉を受けて、そっと立ち上がります。そのままさっきのエイハムと同じく扉へと歩き出し、振り返らないまま病室から出ました。瞬間、どっと肩に疲れがのしかかるように感じ、思わず溜め息が出てしまいます。
 
 「どうだった?」
 「…悪趣味ですよ」
 
 そんな私の右から唐突に投げかけられた言葉に私はさほど驚きはしませんでした。ある種、私と同じかそれ以上に悪趣味なこの男がこんな面白そうなネタを放っておくはずがないのです。きっと最低限の仕事を済ませた後は扉の前で盗み聞きでもしていたに違い有りません。
 
 「お前にだけはその言葉を言われたくないな」
 「まぁ、ご尤もで」
 
 平然と返されたそれに私は本心から同意しました。閉鎖された社会の中で生きてきたのに、そこから爪弾きにされた彼を詰って私は満足感を得ていたのですから。救いようのない下衆とはきっと私のようなタイプを言うのでしょう。そう自覚する反面、それについての自嘲や自責と言うものはまったく感じません。良心の呵責こそ感じますが、自分を責めるほどの大きな後悔は胸の中の何処を探してもないのでした。
 
 「しかし、盗み聞きしてたのであれば分かるでしょう。私に彼を預けるのはほぼ無理ですよ」
 
 そう言いながら私は病室前に置かれた長椅子にどっと身体を預けました。そこにはついさっきまであった彼を引き取るつもりというのはほぼ霧散しています。一を言われれば十を返さなければ気が済まない私には今のナイーヴな彼の相手は無理でしょう。なまじ口が達者なだけに彼の傷を抉りかねません。ついさっきまで楽観的にどうにかなるかも、と思ってはいましたが、やはりそれは思い上がりであったのでしょう。
 
 ―まぁ、私が心の中で挙げた自己満足だけで彼と接しようとした馬鹿が私だった訳で。
 
 そう思うとあまりの馬鹿馬鹿しさに笑い声をあげたくなってしまいます。しかし、評判が良い分、私よりも性質が悪いこの男性の前で早々、弱みを見せる訳にはいきません。それを心の奥底に閉じ込めながらも、我慢出来なかった私は溜め息を吐きました。
 
 「そうか?私としては何れは通らなければいけない道だったと思うが」
 「かもしれませんがね。相手が悪すぎますよ。せめて貴方のような愚痴を真正面から受け止めてやれるような大人でないと」
 
 エイハムはこの大きな街一番と言われるだけあってとても腕の立つ人物です。本業は薬剤師にも関わらず、近接分野である医学だけでなく、心理学まで収めているのですから。相談役としても引く手数多のこの男性であれば、きっと彼の愚痴を受け止めて傷を癒してやれたでしょう。
 
 「お前は随分、私の事を評価してくれてるがな。…私とて甥っ子の心の傷を癒してやれない程度の力しかない」
 
 ―エイハムがそう自嘲めいた表情を浮かべるのを最近は良く見る気がします。
 
 その脳裏に浮かんでいるのは勿論、彼の甥っ子たるマークでしょう。優秀なこの男性の遺伝子を立派に引いているマークはある事件をキッカケにこの街の暗部へとその身を投げ出していました。その事をエイハムは強く悔やんでいるのでしょう。今も尚、陰謀と欲望渦巻く暗部の中に身を置き、何時、死へと転落してもおかしくない甥っ子を心配するその表情に私は一つ肩を落とします。
 
 ―やれやれ…あの情報屋君も随分と罪作りな事です。
 
 自分がその情報屋を通じて様々な情報を引き出しているのを棚にあげながら、私は心の中でそう呟きました。昼の顔と夜の顔を器用に使い分けるマークは最近、この診療所に帰ってきていないと聞きます。それでいて授業や実習には一度も欠席していないのですから、一体、どんな生活をしているのか。夜遅くまでバーで情報屋をやっている彼の生活を知っている私としては、何時、寝ているのか気になるくらいです。
 
 ―まぁ、それはさておき。
 
 「マークの一件は仕方ありませんよ。アレは本人が何とかするべき事ですから」
 「それでも…それなりに面倒を見てきた子だからな。やっぱり不安ではある」
 
 そう肩を落とすエイハムの姿は最近では見飽きたものでした。私と同等かそれ以上に厄介な人物とは言え、何かに愛着を持たない訳ではありません。私のように誰かに愛着を持たないような性格でもない彼は、年の離れた甥っ子と妻であるレッドスライムをとても大事にしていました。そんな甥っ子がもしかしたら明日死んでもおかしくはない場所に身を置いているのですからその心中がどれほどの苦悩に溢れていることか。私とて『彼』が行方不明になってからずっと煩悶し続けているだけにエイハムの気持ちが良く分かります。
 
 ―とは言え、何時までも彼の甥っ子の事を引っ張ってはいられません。
 
 「それより…やっぱり彼は貴方が引き取ってくれませんか?その方がきっと彼も幸せだと思うのですが」
 「残念だが、私はマークの事で手一杯だ。これ以上の厄介事を引き受けるつもりはない」
 
 提案した私の言葉をばっさりと切り捨てた彼の気持ちは良く分かります。今すぐこの街の暗部から甥っ子を引き上げたいと考えているこのエイハムにとってはエルフに構っている余裕などないでしょう。本業を行う合間を塗って、最大限に伝手を使い、マークを引き上げようとしているのですから。そんな人物が彼を引き取る余裕がないと思ったからこそ、私は最初からそれを度外視していた訳です。
 
 「…となると本当に彼をどうするか…ですね」
 「私は君が引き取れば良いと思うんだが」
 「…盗み聞きしていたのであれば分かるでしょう?。もう私にはその資格はありませんよ」
 
 長椅子に座った身体をそっと後ろへと倒し、私は背中を柔らかいクッションに委ねます。そのまま空を仰ぐように天井を見れば、微かに光る魔力灯が目に入りました。最新技術の結晶である魔力灯はこうした診療所や病院などに最優先で配備されています。これからの教団との戦争を行う上で、この診療所にも負傷者が山ほど連れ込まれるでしょうから当然でしょう。下手をすれば一日中、フルスピードで回転させなければいけない医療施設に一定の灯りを供給できる魔力灯はとても相性が良いのです。
 
 「そうか?私はあぁやって彼から感情を吐き出させるのも必要なことだと思うが。だからこそ、お前は最初にわざと挑発したのだろう?」
 「まぁ…それはそうなんですが」
 
 山積みになった問題から逃避するように浮かべた思考はエイハムの言葉に打ち切られました。確かにエイハムの言う通り私はそれも狙いに含めてあのエルフを挑発していました。それはあくまで私の能動的な働きであったからこそ、私にも制御し易いものであったのです。しかし、私は彼と決別したあの話題は衝動的に起こったが故にコントロールの出来ないものでした。そんな未熟で彼を傷つけることに微かとは言え満足感すら抱いた私が、あの傷ついたエルフの傍にいてはいけないでしょう。
 
 「自分が思い通りにならなかったからと言って、すぐに自分を見限り、自嘲的になるのはお前の悪い癖だ」
 「…そういう貴方は人を勝手に解釈する悪い癖が出ていますよ」
 「これは失礼」
 
 勝手に人を分析するエイハムの言葉に嫌味ったらしく返しながら私はそっと肩を落としました。幾ら彼にそうやって嫌味を言った所で気分は晴れません。間違ったことを言ったつもりは一切、ありませんし、それほど後悔もしていないはずですが、それでも胸の中がもやもやとし続けているのです。
 
 「まぁ、私とて人の人生を左右するほどの重大な決断を急かすような無粋な真似はしない。だが、私は彼と君は修復不可能な関係になったとは思ってはいないぞ。お互いに落ち着いたらもう一度、話してみるのを勧めるがな」
 「善処しますよ」
 
 断りの言葉に近いそれにエイハムがあからさまに肩を落とすのが見えました。きっとエイハムにも私がそのつもりはもうない事を知っているのでしょう。それでも何も言わないのはこの男性の優しさか、それとも無責任さか。薄い付き合いをそれなりに続けてきた私にはどちらも正解のように思えて、どちたも間違いのように思えるのです。
 
 「エイハムさーん」
 「おっと、愛しの我が妻がお呼びだ」
 「はいはい。惚気は良いからとっとと行って彼にスープを渡してきて下さい」
 
 だらしなく頬をにやけさせるエイハムにそう言い放ちながら、私はしっしと犬を追い払うように手を振りました。そんな失礼な態度を見ながらもエイハムは何も言いません。きっと私の態度よりも愛する妻が呼んでいる事の方がよっぽど重要なのでしょう。
 
 ―やれやれ…随分と腑抜けたものですね。
 
 そこには出会った頃のような刺を押し隠した危うさはありません。何処にでもいるような新婚夫婦の片割れっぽさがあるだけです。それを内心、見下す反面、羨ましいと思ってしまうのもまた事実でした。出会った頃は『彼』よりも私に近かったこの男性が極一般的な幸せを手に入れているのです。それを「私も…」と期待する気持ちがあるのは否定できません。
 
 ―まぁ…無理でしょうけれどね。
 
 『一般的』からの逸脱っぷりではエイハムよりもさらに私が上をいっています。まだ何処か人間臭かったこの男性が結婚出来ても、私はきっとそんな相手を見つけられないとそんな確信が私の中にありました。出来たとしてもきっとのし上がる為の政略結婚か何かでしょう。少なくとも今の彼のような幸せそうな表情を浮かべるのは無理そうです。
 
 「まぁ、とりあえずあんまり自暴自棄にならない事だ。お前に良い所は沢山あるんだから」
 「大きなお世話ですよ」
 
 最後に振り向きながら言ったエイハムの言葉を私は手を振りながら返しました。実際、そんな下手な慰めを受けて喜ぶような単純な精神構造はしていません。誰よりも一番、『私』に近い私が自分の壊れっぷりを自覚しているのですから。『彼』と言う唯一、執着していた相手すら失った今、それが加速しているような気さえするのです。元より外道だの鬼だの言われてきた私に良い所などあろうはずがありません。
 
 「ふぅ…」
 
 彼の姿が廊下の向こうへと消えたのを確認してから私は溜め息を吐きました。とりあえず彼が目を覚ましたのを確認したことですし、一旦、詰め所へ戻らなければいけないでしょう。一応、管理職である私がこうして仕事から抜けだしたのはあくまで彼の話を聞いて、報告書を作るためです。殆どマトモな話は出来なかったとは言え、処理しなければいけない書類も溜まっている事ですし、面倒でも一度、仕事場に戻らなければいけません。
 
 ―まぁ…それは一種の逃避行動でもあるのですが。
 
 しかし、やらなければいけないのは確かだと自分に言い訳をしながら、私は長椅子からそっと立ち上がりました。そのまま大きく背伸びをすれば、ゴキゴキと背骨に鈍い音が響きます。やはり私もいい加減、年なのでしょう。こうして伸びをするだけで鈍い音が響くように鳴ったのを聞いてしみじみと思います。
 
 「さて…それじゃあお仕事、頑張りましょうか」
 
 そう自分に言い聞かせながら私の足はそっと前へと歩き出します。エイハムとは逆方向へと進むその足は結局、止まる事はなく、エルフのいる診療所をそのまま後にしたのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―それから数日後、私はエイハムの診療所へと足を進めていました。
 
 目的はあのエルフの住居へと案内することです。しかし、それは勿論、私の家などではありません。私のコネで急遽、用意させた街の中心部に近い空き家です。マーケットにも近く、治安も比較的優れているそこであれば、私と一緒であるよりも暮らしやすいでしょう。
 
 ―いや…それは言い訳ですね。
 
 結局のところ、私が彼の心を受け止めてやれなかった事に全てが起因しているのです。住居を用意したのも、こうして自分に言い訳しているのも、私のした悪行――彼を突き放したという罪を誤魔化す為なのでしょう。そんな自分に思わず、自嘲の溜め息が漏れそうになってしまうのです。
 
 ―まぁ…あんまりうじうじとはしてられないですが。
 
 これから私はエルフを用意した住居へと案内するという一大仕事があるのです。うじうじした顔で彼の前に立てば、あのエルフもまた不快になるでしょう。今更、彼に好かれたいと思っている訳ではありませんが、わざわざ不興を買いたいと思うほど嫌っている訳でもないのです。
 
 ―もっとしっかりしないといけませんね。
 
 そう自分を鼓舞しながら、私は目前へと見える診療所の扉へと手を掛けました。そのままノックもせずにきぃっと扉を引けば、長椅子が並ぶ小さな部屋が見えるのです。俗に待合室と呼ばれるそこには病室と同じく暖かな色使いをされていました。柔らかい乳白色に包まれたそこには殆ど人はおらず、椅子の上にはぽつんと一人の少女が座っているだけです。
 
 ―いや…アレは…。
 
 オレンジがかった赤色をツインテールに纏めるその髪はある種族――ドワーフの特徴です。それほど背もたれが大きくない椅子からちょこんと飛び出る身体も彼女がドワーフであると教えてくれているような気がしました。
 
 ―なんでドワーフがこんな所に…?
 
 ドワーフはその幼女と呼ぶに相応しい背丈と同等に頑丈である事で有名です。下手な病気も傷も寄せ付けない彼女らが診療所に座っていること自体、とても珍しい事でしょう。普通の人間では再起不能になるような大怪我か、不治と宣告されかねないような病を患っているのかもしれません。
 
 ―まぁ、あまりジロジロ見るものではありませんね。
 
 怪我か病かは分かりませんが、彼女にとってそれがかなり重大なものであるのは確実です。あまり無遠慮にジロジロと見るのは人間に友好的なドワーフと言えど、いい気はしないでしょう。これからあのエルフを迎える前に下手な騒ぎを起こす訳にはいきませんし、ここは何もなかったように通り過ぎるのが正解です。
 
 ―そのまま私は待合室を抜けて、病室へと渡り…。
 
 既にエイハムから彼が生活している病室の場所は聞いていました。勝手知ったるなんとやらでこの診療所の構造を頭に入れている私は迷いなく、その病室にたどり着くことが出来るのです。警備隊の制服――勿論、使いやすいように少し改造した――で無遠慮に診療所の中へと踏み入った私は、少し古びた木製の扉の前に立ちました。
 
 「ふぅぅ…すぅぅ…」
 
 そのまま胸を膨らませて深呼吸をし、肺の空気を入れ替えます。少しクリアになった気がする思考が私の背をそっと押し、コンコンと小さなノックをさせるのでした。
 
 ―しかし、その返事は返って来ません。
 
 彼が部屋に引きこもって、まったく出てこようとしないのはエイハムから既に聞いている事でした。そして、それは私にとって予想の範疇なのです。何せあっという間に社会的弱者になった今の彼にとってはこうした形でしか『下劣な人間』に反抗する事が出来ないのですから。護ってもらうしかない側に立たされてしまったエルフのプライドを保つ唯一と考えれば、可愛らしいものであると言えるかもしれません。
 
 ―まぁ、一度、ノックしましたしね。
 
 いないのであれば先に部屋に入って待っていればいいですし、いるのであれば嫌味の一つでも言ってやれば良い。そう思って私の手は病室のドアノブにそっと掛かりました。そのままくるりと右へと回転させ、扉を開いていくのです。瞬間、私の視界の中に待合室と同じ暖かな色使いと、そしてベッドの上で不機嫌そうに横たわる彼の姿が入るのでした。
 
 「…私はもう二度と顔を見せるなと言ったつもりだったが?」
 「私はそれに了承したつもりはありませんよ」
 「…だったら、もう一度、言ってやる。私の前に二度と顔を見せるな」
 
 数日前の一件で完全に私を敵であると認識したのでしょう。その端正な顔に怒りと敵意を溢れさせながら、エルフは睨みつけてきました。しかし、その程度で怯むような柔な精神をしているようでは警備隊は務まりません。私は彼の敵意に満ちた視線を飄々と受け流しながら、口を開くのです。
 
 「まぁ、これで最後になるんで勘弁してください」
 「…最…後?」
 
 私の言葉にエルフはそっと眉を顰めました。きっと私の言葉に強い警戒心を抱いているのでしょう。何処か驚きと敵意が入り混じった複雑な表情をしているのもきっとその所為です。
 
 「えぇ。貴方もずっとここで世話になり続けるのは辛いでしょう?なので、別の家に移ってもらおうと思いまして。あ、勿論、一人暮らしですよ」
 「…ふん。体の良い隔離って事じゃないか」
 「じゃあ、ずっとここで世話になります?」
 「……」
 
 ―私の切り返しにエルフはぎゅっと口を噤みました。
 
 彼にとって、この診療所は決して暮らしやすい環境ではありません。エルフが忌み嫌う人間や魔物娘が四六時中出入りしているのですから、当然でしょう。ある意味、一瞬足りとも気が抜けない日々が続いているのです。
 
 ―勿論、一人暮らしをした所で状況が改善される訳ではないですが。
 
 街中に人間や魔物娘が溢れており、エルフは自分一人だけという状況に何ら変わりはありません。寧ろ、食料の調達などにそんな中に飛び込んでいかなければならないというデメリットも存在しているのです。しかし、生きるために仕方がないと妥協させれば、このエルフが人間社会に溶け込んでいってくれるのではないか。そんな期待も私の中にはありました。
 
 「話を続けますね。貴方が自立出来るまでの間、月の初めの日にポストに生活費が投函されます。ポストは壁に備え付けてあり、内側でなければ取れない仕様になっているので生活費が盗まれる心配もありません」
 「……」
 「他に備え付けてある調理器具などもあるので料理や生活に困ることはないと思います。衣服と食料だけは用意されてはいないので貴方自身の手で買い求めて下さい。とりあえずは以上ですが…何か質問は?」
 「……」
 「…ないようですね。それでは、行きますか」
 
 ―始終無言のエルフに溜め息を吐きたくなるのを堪えたのは僅かに理性が勝ったからに他なりません。
 
 理解しているのかいないのかさえ表現してくれないエルフに呆れに近い感情を抱いてしまいます。確かに彼の意思を確認せず、勝手に移住を決めたのは少々、強引であったでしょう。それはこのエルフにまた拒絶されるのではないかと恐れ、会いに来なかった私の責任であることも自覚しています。
 
 ―…でも、少しくらい会話しようと思ってくれても良いんじゃないですかね…。
 
 そう思うのは私自身が良い気分ではないからだけではありません。お互いに意思疎通をしなければ、彼のこれからの生活にも支障をきたす可能性があるのです。これから先、一人で暮らしていかなければいけない関係上、今の間にしか気軽に質問できないのですから。私がいなくなった後、分からない事が出来てしまった…なんて事になっても私はもう助けてはやれません。
 
 ―…まぁ、その辺りは彼自身の責任としてもらいましょうか。
 
 私にも責があるとは言え、そこまで尻拭いしてやるほど私はお人好しではないのです。『彼』相手であればまだしも、拗ねた子どものような反抗を顕にするエルフにそこまでやってやる義理はありません。『命の恩人』としての最低限の責務と、そして『私』に出来る最大限のサポートは既に行なっているのですから。
 
 ―そんな事を考えながら、私は病室を出ました。
 
 その後ろを無言のままエルフが着いてくるのを感じます。ある種、従順で反抗的なエルフの手には荷物も何もありません。元から身のみ着のままで放り出された彼には私物と呼べるものは何一つとしてないのです。
 
 ―まぁ、その辺りは追々増えていくでしょう。
 
 貨幣経済の基本について彼が知っているのかどうかさえ、今の私には分かりません。しかし、聡明と賞賛されるエルフは決して馬鹿ではないのです。例え、基本を知らなかったとしても何れは順応していくでしょう。そう考えながら、待合室へと足を向けた瞬間、私は長イスに座るドワーフの事を思い出したのです。
 
 ―…流石に今の状態で魔物娘と接近させるのは危険…ですかね。
 
 特にドワーフはエルフが特に敵視し、見下している種族なのです。そんな二人を近づけたら一体、どんな化学反応が起こるか分かりません。余裕のない今の彼が癇癪を起こし、魔術を暴発させないとも限りません。ここは少し遠回りになりますが、緊急搬入用の裏口から出ていくのが良いでしょう。
 
 ―エイハムには今日、迎えに来ると話は通していますし、きっと大丈夫でしょう。
 
 そう胸中で呟きながら、私は待合室とは逆の方向へと足を進めます。そのまま大きな扉を手で推して開き、外へと出るのでした。辺りは裏路地そのものと言った雰囲気で人っ子一人いません。丁度、建物の陰になっていて、暗い雰囲気は何か危なげな雰囲気すら感じさせるのです。
 
 ―相変わらず診療所の搬入口って場所じゃないですよね…。
 
 しかし、区画の真ん中に診療所が存在する関係上、裏口はどうしても裏路地側になってしまうのです。お陰で後ろ暗い連中を担ぎ込みやすいメリットもありますが、普通の人間が使いづらいデメリットは無視出来ません。それなりに儲かっているのですからいい加減、引っ越せば良いのに、と何度も思いましたが、あのエイハムがここにずっと居を構えているのにはきっと何か事情でもあるのでしょう。
 
 ―まぁ…エイハムの事はさておき…と。
 
 「ここから十分くらいの距離ですし、そう遠くありませんよ」
 「……」
 
 どれだけ歩くのか不安だろうと言葉にした一言も彼の反応を引き出せません。それに溜め息を一つ漏らしながら、私はそっと歩き出しました。そのまま薄暗い路地を抜けて大通りへ入った瞬間、昼の光が私たちの目に飛び込んでくるのです。そしてさんさんと輝く太陽に負けないほどに活気づいた街並みが広がるのでした。
 
 ―相変わらずこっち側は賑やかですね。
 
 街のメインストリートには露店が数多く並び、道行く客に声を掛けていました。既に時刻は昼過ぎであるというのにそこには数多くの商品が並んでいます。瑞々しい乳白色の果物を並べる果物屋などまだ山のような数を残していました。しかし、それはそこにいる商人たちの計算が狂った訳ではありません。この街ではそれくらいの数が一日で容易に捌けてしまうのです。
 
 ―勿論、それだけの収入が見込まれる街の心臓部に人通りが少ないわけがありません。
 
 右を見ても左を見ても人や魔物娘が歩き、人混みと呼ぶに相応しい様相を呈しているのです。そんな中にまだ人にも魔物娘にも慣れていないエルフを放り込むのはまだ早いのかもしれません。一応、人通りの少ない路地を通って彼の住居へと至るルートもありますが、どの道、何時かは乗り越えて貰わなければいけないものなのです。少し荒治療ではありますが、ここは遠回りせず、最短ルートで案内すべきでしょう。
 
 「ほら、行きますよ」
 「う…」
 
 そう行って歩き出す私の背にエルフは小さな呻き声を届かせました。それに後ろを振り向けば、少しだけ青ざめた美しい顔が目に入るのです。元々、色白だった肌からさらに血色が消えて行く様は死へと近づいていっているようにも思えるのでした。
 しかし、ここで容赦などしてやる必要はありません。自分から無理だと主張するのであればまだ考えなくも無いですが、彼の口からは主張一つ出てこないのです。勿論、このエルフが人混みを怖がっているというのは分かりきった話ではありますが、それを私から言い出せば甘やかすことになりかねません。
 
 ―これからは一人で生きていかなきゃいけないんですから…ね。
 
 無論、私に出来るサポートはこれからも続けていくつもりですが、そこにはコミュニケーションが成り立たなければ不可能です。黙っていても分かって欲しいなんて子どものような言い訳はそこには通用しません。少なくとも今のような態度ではこれから先は誰も手を差し伸べはしないのです。それを分からせる為にも、ここは思いっきり突き放してやらなければなりません。
 
 ―そう心の中で呟きながら、私は人混みの中へとそっと歩き出しました。
 
 「まっ…!」
 
 その後ろでエルフがなにか言いたそうな声を出しますが、私はそれに振り返る事はありません。ゆっくりと見失わない程度の速度で人混みの中を歩いて行くのです。それに彼も覚悟を決めたのでしょう。路地から飛び出して私に必死に追いつこうとしているのが分かります。しかし、少数の集落で過ごしていたエルフにとって人混みの交わし方なんて分からないのでしょう。すぐに人へと押し流され、私から離されていくのが分かりました。
 
 ―やれやれ…本当に手の掛かるエルフですね…まぁ、その勇気だけは認めますけど。
 
 正直、私は彼が人混みに飛び込んでくるとは思っても見なかったのです。てっきりヘタレて立ち止まったままだと思っていたのでした。その予想を裏切り、人混みへと飛び込んだ勇気そのものは賞賛されるべきでしょう。
 
 ―なら…それに応えてやらないといけませんね。
 
 そう胸中で言葉を紡ぎながら、私は踵を返します。そのまま人混みをかわし、或いは身を委ねながらゆっくりと彼へと近づいていくのでした。そして、人と人との間から特徴的な新緑色が見えた瞬間、私はそっと手を伸ばすのです。
 
 「…ほら、捕まりなさい」
 「あ…」
 
 そのままおずおずと伸ばされた彼の手を有無を言わさず握りしめ、ぐいっと引っ張ります。瞬間、つんのめるように移動する彼を人混みはそっと避けてくれました。思いも寄らない動きに対応してくれた名も知れぬ一般市民に心の中で短く感謝の言葉を紡ぎながら、私は彼の手を握り締めるのです。
 
 「人混みに流されないコツは立ち止まらない事と少し強気になる事ですよ。相手がよそ見していない限り、大抵はこちらを避けてくれますから」
 「そ、そんなの教えてくれなかったじゃないか…!」
 
 人混みに流されるだけで心細かったのでしょう。その目尻に涙を浮かべる彼は、ついさっきまでの自分の対応を棚にあげてそんな事を言いました。ようやく反応を返してくれたエルフに少しだけ安堵しつつも、彼の言葉を素直に受け入れてやる訳にはいきません。
 
 「貴方がそれを分からない事すら分からない私に何を言っているんですか?」
 「うぐ…っ!」
 「子どもじゃないんですから教えて欲しい事は教えて欲しいって言って下さいよ」
 「ぬぐぐぐぐ…っ!」
 
 馬鹿にするような私の言葉にエルフが悔しそうな声を漏らしました。しかし、それでも彼は私の手を決して離そうとはしません。すべすべとした肌を見せつけるようにぎゅっと握り返したままなのです。
 
 「まぁ、同性と手を繋ぐなんて嫌だと思いますけどね。ほんの数分ですし、我慢して下さい」
 「むぅ…」
 
 そう言って逆方向へ――彼に貸し出された家へと歩き出す私の背に膨れたような声が届きました。しかし、今の私にはそれを振り返ってからかってやる余裕はありません。人混みを移動するのに不慣れたエルフの分まで先を予測し、誘導しなければいけないのです。この街で生まれ育った私にはそれはそれほど難しくはありませんが、後ろを振り向いたまま出来るほど容易くもないのでした。
 
 ―そのまま数分の時間が流れて…。
 
 お互いに無言のまま、私たちは人混みを歩いて行きます。その手に感じる熱い体温と人混みの熱で思わず、手汗を掻きそうになってしまうのでした。反射的にそれを抑えようとしますが、生理現象である以上、どうともし辛いのです。
 
 ―しかし…本当にこれ男性の手なんですかね?
 
 私の手に絡む指は細く、とても同性とは思えません。さらに言えば、肌も柔らかく、その弾力で包み込んでいるようにも感じるのです。エルフがその美貌で有名なのは私も知っていましたが、まさか男性でもこれほどまでに気を惹くとは思っても見なかったのでした。そんな彼と比べて、ゴツゴツしている上に手汗を浮かべる私は心の中でエルフに小さく詫びながら、人混みを抜け出し、大きめの路地へと入りました。
 
 ―瞬間、私たちの目にこじんまりとした一軒家が目に入るのです。
 
 赤塗にされたレンガでしっかりと組まれた家は古風ではあるものの、かなりしっかりした作りになっていました。外見とは裏腹に最新鋭の設備が整っており、ルーン一つで着火可能で上下水も完備されています。備え付けの家具もそれなりに高級品で、立地条件もメインストリートからすぐと最高と言っても過言ではないでしょう。今現在、入居出来る中ではこれ以上を望むのは難しいと断言出来るほどです。
 
 ―勿論、何のコネもないエルフがぽっと入れる家ではありません。
 
 この家が彼の安らぎの場所になるかもしれない。そう思って私のコネ――人の弱味とも言い換えられるかもしれませんが――を使って急遽、入居を決めさせたのです。別にそれに感謝して欲しい訳ではありませんが、安くない家賃を私が払う関係上、大事にして使って欲しいと思うのもまた事実でした。
 
 ―そんな事を考えながら、私はそっとエルフの手を離しました。
 
 「あっ…」
 
 ―…ん?
 
 その瞬間、彼が小さく声をあげました。何処か不満で残念そうなそれに私は内心、首を傾げます。しかし、特にその理由は分かりません。まさか同性とずっと手を繋いでいたかったなんて事はないですから、きっと私の気の所為なのでしょう。
 
 「さぁ、ここが今日から貴方の家ですよ」
 「私の…」
 
 そう思考を打ち切って振り返った私の言葉に彼はゆっくりと家を見上げました。彼の目にそれがどう映ったのかは分かりませんが、そう悪く思っていないのはその瞳の輝きから分かります。とりあえず第一印象が悪くない事に安堵しながら、私は口を開きました。
 
 「では、具体的な家具の使い方を説明しますから…」
 「い、要らん。案内は終わったんだから、さっさと鍵を寄越して出て行け!」
 「…分かりましたよ」
 
 私の言葉を遮る彼の顔は真っ赤に染まっていました。今更ながら、同性と手を繋いでいたのが気恥ずかしくなったのかも知れません。相変わらず学習しない彼の反応に私は内心、溜め息を吐きながら、胸ポケットから銀色の鍵を取り出すのです。
 
 「これがこの家の鍵ですよ」
 「ふんっ!」
 
 それを私から奪い取るように受け取りながら、エルフはズカズカと家の中へと入っていきました。どうやら、まだまだ打ち解けるには程遠いようです。それを象徴するように、バタンと乱暴に閉じられる扉に私は溜め息を吐きながら、踵を返したのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―人間にはどうやっても超えられない壁と言うのが存在します。
 
 例えば魔術無しで人間が空を飛ぶ事は出来ません。道具も無しでは小さな野生生物に勝つことすら難しく、群れない人間は――例外を除けば――非力です。一人一人の能力を群れる事で数倍に膨れ上がらせ、その勢力を広げていった人間は他の生物――例えばエルフなどに比べて一人一人のリソースは塵ほどでしかありません。
 
 ―だから…目の前に山積みになった書類を出されても処理なんて出来ない訳で…。
 
 「…これは何かの嫌がらせですか?」
 「いやだなぁ。中隊長殿に嫌がらせなんて恐ろしくて出来るはずがないじゃないですかー」
 「代理です」
 
 思わず尋ねた私の言葉に書類の向こう側で胡散臭い笑みを浮かべる部下に肩が落ちました。あまりにもわざとらしいその笑顔を見るだけで、部下――ウィルソンに悪意があることが分かります。きっと先月の口止め料に高い酒をバカスカ頼んだのを根に持っているのでしょう。その気になれば嫁の収入だけでも一生、遊んで暮らせるというのに尻の穴の小さな男です。
 
 ―まぁ…嫌がらせではないのは確かでしょうか。
 
 目算でざっと400枚は超えそうな紙の束。それだけの書類を嫌がらせの為だけに集めるはずがありません。もっと言えば、あくまで平隊員でしかないウィルソンにはそこまでの権限もないのです。嫌がらせのためにこの街中を駆けまわったとしても、これだけの書類を集める事なんて出来ません。
 
 ―それに…私にはそれらがいったい、どういう内容なのか予想がついていて…。
 
 「…で、今回も『アレ』ですか」
 「えぇ。『アレ』です」
 
 尋ねた言葉がそのまま返ってくるのは予想通りではありました。しかし、それは出来れば当たって欲しくない予想であったのです。元々、隊長職を兼任する私は人並み以上に忙しい生活を送っていました。しかし、ここ数週間で爆発的に増えた書類の山はそれまでとは比べものにならないものなのです。しかも…それらが大体、似通った理由からの書類なのですからいい加減、私にだって予想がつけられるのでした。
 
 「これが今回、『アイツ』が服飾店で破壊した物のリストと請求書。そして、苦情の書類です」
 
 ―『アイツ』と私たちの間で呼ばれるのは今のところ一人しかいません。
 
 『アイツ』――私たちがあの日、保護したエルフの青年は今のところ保護観察という形でこの街に暮らしていました。仮住まいを与えられ、一人で暮らす彼には毎月、それなりの生活費が私から送られているはずです。その額だけでも薄給な私には辛いのに、あのエルフは一週間に三回は何かしら騒ぎを起こしてくれるのでした。一応、彼の保護者となっている私は少なくないその損害賠償額を支払わなければならず、また警備隊員である事から苦情にも対応しなければいけません。
 
 ―あぁ…これでまた菓子折りでも持って頭を下げにいかないと…。
 
 謝罪に持っていく菓子折りも私にとっては決して安い買い物ではないのです。数十回と積み重なったそれは私の生活費を確実に圧迫していました。その散財っぷりは、ウィルソンが夕食の奢りを言い出すほどに凄まじいのです。この一ヶ月の間で十年勤めた貯金の半分が吹っ飛んだのを見て、私の顔色も悪かったのでしょう。最近はウィルソンを含め心配される事も少なくはありません。
 
 ―…まぁ、特に欲しいものがないというのは救いと言えば救いですがね…。
 
 無趣味――強いて言うならば誰かを陥れるのが趣味ですが――な私には特に何か欲しいものというのはないのです。日用品も必要最低限なものさえあれば事足りますし、身を崩すほどの嗜好品を好んではいません。いい気分になれる酒は嫌いではないですが、一週間に一度程度の割合で十分なのです。
 
 ―…それでも…やっぱり納得できない気持ちというのはあって…。
 
 「…今度は一体、どうしてですか?」
 「未だにエルフの服を着てる『アイツ』を店員が客引きしたら「無礼るな!!!」と魔術でどっかんだそうです」
 「何処の王様なんですか彼は…」
 
 思わず一つ溜め息を吐いた私には微かな頭痛と胃痛が襲いかかっていました。自分ではそれなりにタフなつもりではありましたが、ここ一ヶ月の間にもたらされる面倒事の山に身体が異常を訴えています。流石に私とて肉体、精神、金銭の三方向から責められれば不調を覚えるのでしょう。
 
 「まぁ、それでも死傷者が出てない辺り理性は効いてるんでしょうね。理性は」
 「なんの慰めにもなりませんけどね…」
 
 これが一度や二度であればまだ何とか出来なくもないのです。頭を下げて、手回しをすれば決して乱暴な手段に出なくても済むのですから。しかし、一週間に数度というハイペースで行われる騒動にいい加減、お目溢しをするのも限界です。これ以上、騒ぎを起こされれば器物破損の罪で彼を牢獄の中へと放り込まなければいけません。
 
 「…んじゃ、とっとと捕まえるなり放逐するなりすれば良いと思うんですけどね」
 「それは…」
 
 ―ウィルソンが言っているのは非の打ち所のない正論でしょう。
 
 彼は既にこの街にとって異物となっていました。荒れたエルフの名前は街中に広がり、人々の噂の格好の的です。これまでに少なからず被害を受けた人々から、「どうしてアイツを逮捕しないんだ!」と苦情が寄せられるのも数えきれないほどに登っていました。私の懐もゴリゴリと削られ、精神的にも肉体的にもそろそろ限界が近いです。街の平和の為にも、また自分自身の健康の為にも、彼を牢獄へ放り込んだほうがよっぽど正しい行いでしょう。
 
 ―ですが…私は…。
 
 あの日――まだ名前も知らないあのエルフと出会ってから、私は彼の処遇には大きく悩みました。引き取る事はきっと彼の為にもならない。けれど、見放す事も出来ない。だからこそ至った私の保護観察という形は、最大限の譲歩のつもりでした。私と会いたくはない彼の要望にもきっと添える形であるとその時はとても名案だと思ったのです。しかし、それ以降、彼は面倒を起こし続けていました。それはきっと…私の責任もあるのでしょう。だからこそ、まだ取り返しがつくと、何とかしてやりたいとそう思ってしまうのです。
 
 ―それは勿論、『下らない感傷』でしかないのですが…。
 
 そう自覚して尚、自分の選択が彼に与えた影響を考えると、その感傷を易々と捨てる事など出来ないのです。それがどれだけ周囲に悪影響や迷惑を与えていると知っていても、自分の出来る範囲で彼をフォローしてやりたいと思ってしまうのでした。勿論、フォローするだけの今の状態が殆ど彼を放置しているだけと言うのも自覚しているので彼の保護者探しも行っていますが、日々積み重なる苦情と書類の山に追われて中々、進行していないのが現実です。
 
 「既に被害届は数十件。アレはもう街の害虫ですよ。中隊長殿が保護したって何の意味もありませんし、感謝だってしていないじゃないですか」
 
 ―呆れたように言うウィルソンの気持ちも分かります。
 
 ウィルソンとて警備隊の一員です。街を歩けば、人々の噂を耳にするでしょう。彼が捕まえられない事に苛立ちを感じる市民の声をウィルソンもまた聞いているのです。それだけでなく、他の隊からの評判も最近はガタ落ちになっているのでした。全て私の我侭でウィルソンだけでなく部下全員に多大な迷惑をかけている。それに私とて心苦しさを感じないほど外道ではないのです。
 
 ―しかも…それだけやっても彼の態度には我慢の色が見えず…。
 
 捕まえられない事に増長しているとは思いません。ですが、腫れ物を触るような物になっていく街の態度に彼の沸点がどんどんと下がっているのを感じるのです。以前は未だ小競り合い程度なもので、それほど大規模な物損や怪我などはありませんでした。しかし、ここ最近は何時、重症者が出てもおかしくないほどの大規模なものへとなっているのです。
 
 「心苦しいのであれば中隊長殿の知らない所で俺が始末しても良いですよ」
 「ウィルソン!!」
 
 あっけらかんと恐ろしいことを言い出す彼の言葉に思わず私の語気が強いものへと変わりました。しかし、それを受け止めるウィルソンはまるで涼しい顔をしています。やはりここ最近の痩せた顔では迫力も何も無いのでしょう。毛ほども感じていないようなその顔に私は再び溜め息を吐きました。
 
 「…今度、また彼と話してみますから…」
 「そうやって話に行って門前払いされるのは既に十回近くあるって覚えてます?」
 
 ―何処か嫌味を載せたその言葉に私はぐぅの音も出ませんでした。
 
 勿論、今まで私は彼の事を放置し続けていたつもりはないのです。生活費の供給だけでなく、彼を説得しようと家へと行ったのは既に二桁にも登っていました。しかし、彼は私を決して家の中へと入れようとはせず、どれだけ言葉を投げかけても返事すらないのです。私も明確に拒絶する彼にどうやって接すれば良いのか分からず、すごすごと逃げ帰る事が続いていました。
 
 「…もういい加減、限界なんですよ、貴方もあのエルフも。だったら、せめてマシな選択肢を選びとるしかないでしょう?」
 「……」
 「俺は貴方の事が嫌いですけどね。それでもあのエルフとの二者択一なら気心の知れる貴方を選びますよ」
 
 ―その言葉は普段のウィルソンであれば意地でも投げかけないものでしたでしょう。
 
 しかし、ウィルソンにそう言わせるほどに私は、或いは状況は切羽詰まってきているのです。このまま彼が態度を改めなければ彼が投獄されるのはそう遠い未来ではありません。いえ、それ以前に不満を暴発させた住民が彼を袋叩きにすることだって考えられます。
 ―そして…ウィルソンも。
 
 この部下は大事なもののためならば何処までも冷酷になれる一面と、取捨選択する意思の強さを持っています。だからこそ、私はウィルソンを重用してきましたし、ウィルソンもまた私の傍に居続けてくれたのでした。そんな彼がここまで言うのであれば、本当に彼を殺す計画でも立てているのかもしれません。
 
 「…もう少しだけ…いえ、今回だけは見逃してもらえませんか?」
 
 そんな彼を思いとどまらせるには「もう少し」だなんて甘い言葉では不可能です。具体的な回数か期日が必要であると瞬時に考えた私はそう言葉を返しました。それにウィルソンは硬い表情のままじっと私の顔を見つめています。まるで私の中の決意を見抜こうとするようなその表情に私もまた見返しました。そのまま視線が数秒ほど交差した後、ウィルソンは溜め息を一つ吐いてそっと目を背けます。
 
 「…今回だけですよ。次はもうフォローしませんから」
 「…ありがとうございます」
 
 とりあえず今すぐは彼の危険がなくなった。それを感じた私は胸を撫で下ろしました。しかし、これはあくまでも選択するまでの猶予を与えてもらっただけに過ぎません。これから先に彼が態度を改めなければ、結果は同じです。それを胸の奥に留めながら、私は山の上から書類を一つ手に取りました。
 
 「…で、今度は街中でどっかんですか」
 「曲がり角でカップルとぶつかったのが気に食わなかったそうですよ」
 「…やれやれ」
 
 並び立つ書類の山に一つそう呟きながら私はそっと目を通していきます。軽く文字を追う瞳がめまぐるしく動き、私の頭の中に情報を叩きこんでくるのでした。それを取捨選択、或いは吟味しながら咀嚼し、それを血肉にしていきます。数秒の間で一ページ丸ごとを頭の中に叩き込んだ私はそのまま次のページに目を通そうとそっと紙をめくり――
 
 ―その瞬間、ズドンと言う大きな音と共に建物が揺れるほどの衝撃が駆けまわりました。
 
 一瞬、教団の襲撃かと身構えましたが、私の総括するこの詰め所は街の中央近くにあるのです。この街の中で最も護りの固い所に教団の尖兵がいきなり入り込んでくるとはあまり思えません。人間のオスの匂いに敏感な魔物娘が四方八方を囲んでいるのですから、ここまで普通に入り込んでくるだけでも至難の業なのです。勿論、決して不可能な訳ではありませんが、今にも教団との戦端が開かれるというタイミングでこれほど派手な内部工作をするメリットは殆どありません。領主暗殺くらいならその価値があるかもしれませんが、それだって注目を集めるような大きな音を立てたりする必要はないでしょう。
 
 ―…ならば…。
 
 ふと嫌な予感を感じてウィルソンに視線を向ければ、彼もまた私を同じように見つめていました。きっと同じ嫌な予感を胸に抱いているのでしょう。それを感じた私は書類を机の上に投げ捨て、椅子を蹴飛ばすように立ち上がります。そのまま部屋の隅にあるハンガーラックから上着を強引に剥ぎとり、立てかけてあった剣を腰に佩きました。その間も扉へと動きつづけた足は『彼』の執務室から飛び出し、詰め所の出口へと一目散へ走って行きます。
 
 「ウィルソン!方角は!?」
 「西の方かと!ここからだと路地を通ったほうが近道ですね!!」
 
 そんな私の後ろについて同じように走るウィルソンに投げかけた言葉の意味を彼はしっかりと理解してくれていました。答え合わせを目的とした問いに帰ってきた答えた私とまるで同じです。ならば、恐らく西の方角へと進めばさっきの爆発現場に着けるでしょう。そこにいるであろう人物を他の隊よりも早くに確保しなければいけない私たちはそのまま必死で足を動かして前へ前へと進ませていました。
 
 ―だけど…この方角なら…!
 
 ここよりもう少し先にある詰め所とほぼ等距離…いえ、もしかしたらこっちの方が遠いかも知れません。音で方角を判別することが出来ても、流石に距離までは分かりません。どちらが近いかは五分五分…であれば、ここは切る札を出し惜しみしている暇はないでしょう。
 
 「ウィルソンは現場封鎖の人員を。私は先行します」
 「お気をつけて」
 
 私の意図を正確に理解してくれるウィルソンに一つ頷きながら、私は術式を展開していきます。紡ぐのは勿論、風の精霊であるシルフに力を借りた魔術。物体の重さを大きく軽減し、運搬用に使われるそれが脳裏に描かれたのを感じた瞬間、私の身体は外へと飛び出していました。
 
 「<<エアリアル>>」
 
 そのまま簡易詠唱を使って展開した魔術を受けて、重力の鎖が私の身体から切り離されていきます。それを確認する時間も惜しい私は大きく大地を蹴って、そのまま宙へと翔び、いえ、飛びました。大きく飛び上がり、屋根すら軽々と超える私は周囲に目を凝らします。何処かに爆発したような箇所はないかと必死に探す私が三度、屋根を蹴った時にそれはようやく見つかりました。
 
 ―見つけた…!!
 
 黒くえぐれた大地の中心で一人の青年が大きく肩を震わせていました。見覚えのある新緑色の衣服は彼が纏っていたものと同色です。まず間違いなく…今回の騒動も彼が原因なのでしょう。そう思うと胃痛と頭痛が激しくなり、急速に落下する身体が溜め息を吐きそうになるのです。
 
 ―しかし、今はそんな余裕はありません。
 
 彼が居るのはメインストリートほどではなくともそこそこ広い通りの中心です。そこで何があったのかはわかりませんが既に彼の周りには野次馬が集まり始めていました。まずはそれを解散させ、彼を拘束しなければいけません。その手順を頭に思い浮かべながら大地へと降り立った私はそっと彼の元へと歩み寄りました。
 
 「……ニンゲン」
 「久しぶりですね」
 
 そっと私を呼ぶ彼の瞳が揺れました。そこに浮かんでいるのは困惑と逡巡。まるで叱られる前の子どものような色がそこには浮かんでいます。世に傲慢と言われるエルフも、別に善悪の区別がつかない訳ではありません。寧ろ人間よりも遙かに自制的で、理性的なのです。そんな彼が理性を忘れて、これだけの騒ぎを起こしている事に悩んでいないはずはないでしょう。
 
 「…私を捕まえに来たのか?」
 「出来ればそうしたくはないんですけどね」
 
 そうしたくないからこそ、私は這々と走りまわって何とか各所の不満を抑えてる状態なのです。しかし、彼はそれを分かってはくれていないのでしょう。何処か自嘲の色を浮かべながら、乾いた笑いを漏らしました。
 
 「構わん。寧ろ、そうしてくれると有り難い」
 「…どういう事です?」
 「下手に自由よりも籠の中の方がよっぽど気楽だということだよ、ニンゲン」
 
 ―その仕草に私は微かな違和感を覚えました。
 
 今までの報告書を見る限り彼が自暴自棄になっているのは確実と言って良いでしょう。取り調べの態度もかなり投げやりで素直に答えるものの、反感を買う物であったと聞いています。それはエルフ故の自尊心と自暴自棄から来るものであろうとずっと思っていました。しかし…しかし、それだけではなく、もし、彼が自ら『籠の中』へと入ろうとしていたのであれば――
 
 「今日はやけに饒舌じゃないですか。今まで私と顔を合わせなかった癖に。どういう心境の変化です?」
 
 頭の中にそっと浮かぶそれを振り払うように私は彼に尋ねました。しかし、彼はそれに答えるつもりはないようです。何処か濁ったように見える瞳で私をじっと見据えていました。そこには困惑と逡巡という子どもらしい感情が浮かんでいるはずなのに、子どもらしい輝きが一切、見えないその瞳に私はぞっとするものすら感じます。
 
 「ニンゲン。私にはこの街が少々、広く、大味過ぎるのだ」
 「…‥」
 「ここは自由だ。それは認めよう。私たちの社会にあった厳格な掟はなにもない。しかし、だからこそ、それに縛られる者にとっては居心地が悪いのだよ」
 
 何処か諦観すら浮かばせて肩を落とす彼の瞳には相変わらず困惑と逡巡が浮かんでいます。その矛盾した二つのどちらを信じれば良いのか私には分かりませんでした。いえ、もしかしたら今の彼自身にすら自分がどんな感情を抱いているのかを理解出来ていないのかもしれません。たった一回会話しただけですが、この直情的な青年が自分を偽る事など出来そうもないのですから。その矛盾した行動全てが彼の本心から出たものであると考えた方が自然です。
 
 「それに隣人全てがニンゲンと魔物と来ている。こんな街でエルフが暮らせるはずがないだろう?」
 「……だから、牢獄の中へと送り込まれる為にこんな騒動を起こしていると?」
 「勿論、それだけじゃないがな」
 
 ―肯定とも言えるその言葉に私の中の何かがぷつんと切れてしまいました。
 
 なるほど、これがジパングの言葉で言う「堪忍袋の緒が切れた」と表現するの状態なのか、と何処か冷静な私がそう言いました。しかし、それ以上に身体の中でグツグツと煮えたぎって、我慢出来ません。行き場のないその怒りを表現するように握りしめた拳が小さく震えているのを自覚しました。これほどの怒りを感じたのは『彼』がいなくなったのを良い事に下らない揶揄をしていた連中を前にしていた時くらいです。
 
 ―それだけの怒りを感じるのがある種、不思議でありましたが。
 
 私は今、何に対して怒っているのかという説明が決して出来ないのです。他の有象無象よりもこの青年のことは大事ではありますが、唯一の友人である『彼』に及ぶものでは決して有りません。そんな青年の言葉にどうして『彼』の時と同じく激昂したのか、私にも理解出来ませんでした。確かなのは彼の理不尽とも言える告白に私の中で爆発しそうな怒りが渦巻いているという事だけです。
 
 「実際…周りの連中が不愉快なのは確かだ」
 
 そんな私の様子に気付かないまま、彼が周りを見渡せば、遠巻きに私たちを取り囲んでいる野次馬が目に入ります。彼の悪名はもう街中に知れ渡っているのでしょう。ひそひそと囁き合う声には噂の真偽を確信するものも多く含まれていました。無論、それは決して悪い事ではありません。寧ろ彼自身が引き起こした自業自得と言うものです。しかし、遠巻きに様子を伺う人々に青年は明らかな侮蔑を浮かべて、鼻を鳴らしました。
 
 「ふん…」
 
 傲慢極まるその態度に私の目に入る野次馬の何人かに怒りが浮かんだのが見えました。明らかに馬鹿にするような態度を取られたのですから当然でしょう。下手をすればここで乱闘になってもおかしくはない。そんな一触即発な空気が流れていました。それを押し留められる唯一の人間である私は一つ溜め息を吐きながら、彼へとそっと歩み寄って行きます。
 
 「にんg」
 「ふんっ!!」
 
 何かを言いかけた彼に構わず、振り抜いた渾身の右ストレートに軽い彼の身体が一気に後ろに吹っ飛んでいきます。一度、大地に叩きつけられ小さくバウンドしたその身体はふるふると震えながら立ち上がろうとしていました。喋ろうとした瞬間に殴られた所為でしょう。唇の端からは真っ赤な血が流れて、頬は早くも腫れ上がっていました。絶世とも言われかねない美形が台無しになっていますが、私にはそれはもうどうでも良い事であったのです。
 
 「私ね。貴方とこうして話していて一つだけ学習した事がありますよ。今までずっと私が言われてた事なんですが…ようやく頭ではなく心で理解できました」
 「な…なに…を」
 「偽悪者ってこんなに胸糞悪くなるものだったんですね。また一つ貴方のお陰で賢くなりましたよ。ありがとうございます。お礼にもう一発、ケリをプレゼントしてあげますよ」
 
 その言葉と同時に倒れ付した彼の脛を大きく蹴っ飛ばしてやりました。骨の髄まで響く位置への一撃に彼の口からは悲鳴のような声が溢れます。中性的な彼の声が苦悶に溢れるのは聞いていてとても心地が良いものでした。まして…相手が胸糞悪くなる男であれば尚更、格別です。
 
 「ははは。素敵な悲鳴ですね。さぁ、皆さんももっとこの悲鳴を聞きたくありませんか?今なら珍しいエルフを蹴り放題、殴り放題ですよ?勿論、お代は頂きませんとも!!」
 
 高らかに宣言した私の言葉に野次馬たちはそれぞれに顔を見合わせました。種族や男女、年齢など様々ではありますが、そこに浮かんでいるのは一様に困惑の色ばかりです。ここまで大々的にやられて、「じゃあ、私も」なんて言える者なんて殆どいません。寧ろ過激すぎるその光景に冷水をぶっかけられたように冷え込んでいました。
 
 ―そのまま人々は口々に囁き合いながら、消えていき…。
 
 その全てが私を非難するものであったのは不幸中の幸いであったでしょう。彼らの頭の中には『この爆発を引き起こしたエルフ』よりも『エルフを虐待する警備隊員』の方が上位に刷り込まれたはずです。後で山ほどやってくる苦情や減給を考えなければ、それなりに良い解決の方法だったと思うべきでしょう。
 
 「どう…してだ…?」
 「どうして?貴方が起こした騒動で私が被った迷惑を考えれば寧ろ良心的な返礼であると思いますよ?」
 「そうじゃない!どうして…私を助けたりしたんだ!?」
 
 脛を蹴られ、頬を殴られたダメージがまだ回復していないのでしょう。痛みに震える声ではあるものの、彼ははっきりとそう問い返してきました。荒々しいその声には何処か屈辱の色が溢れています。きっと誇り高いエルフ様の中には人間に情けをかけられたと恥辱の念で一杯なのでしょう。
 
 「結果的には、ですよ。私としても貴方があそこでリンチされようがどうでも良かった訳ですし」
 
 それに頭を軽く振りながら言った言葉は本心です。彼を助けようという気持ちがなかった訳ではありませんが、爆発しそうな怒りを発散するためにこの甘ったれたエルフを殴ってやりたかったのも事実ですし、彼がその後リンチによって死んでも私にとってはどうでも良い事でした。今回の一件で私はもう彼の事を見限ってしまったのです。それなりに特別であった彼は既に私の中で『有象無象』へとカテゴライズされてしまったのですから。
 
 「嘘を吐くな…!あそこまであからさまなパフォーマンスをしておいて、信じられるか…!!」
 「…別に信じる信じないは貴方の勝手ですから別にどうでも良いんですけどね」
 
 私にはもうこの青年と関わるつもりは一切、ありません。野次馬を散らして、リンチされかねなかった状況を解決したのは最後の情けのようなものです。これ以降はもう付き合ってられないと心の中で決着をつけながら、私はそっと周りを見渡しました。既に解散した野次馬はおらず、通りは比較的シンとしています。恐らくウィルソンが現場を封鎖してくれたのでしょう。そう確信したのは普通は決して行わない区画一つを丸々飲み込む封鎖だったからです。私とこのエルフの間で話があるだろうとウィルソンが気を効かせてくれたのでしょう。それに感謝する反面、話すことがなくなった私はその場から立ち去ろうとしました。
 
 「ま、待て…っ!」
 「…まだ何かあるんですか?」
 
 ―もうこっちとしてはうんざりなんですが。
 
 そう言いたくなるのを堪えたのは特に理由があった訳ではありません。強いて言えば振り返った特に彼が怖がるような表情を見せたからでしょうか。まるで見たくはなかったものを見た子どものような表情に思わず私の口が止まりました。自分でも良く理解出来ない衝動のまま止まった私に向かって彼が逡巡しながら口を開きます。
 
 「し、知らなかったんだ…」
 「…は?」
 
 唐突に彼の口から出た告白に私は思わず聞き返してしまいました。主語もないまま呟かれた独白のその全てを理解してやれるほど私は感受性の強い男ではありません。一応、書類と格闘しながらでも食べられる夕飯を思い浮かべつつ、片手間で考えてみますが、文脈からも彼が何を知らなかったのかまるで分かりませんでした。
 
 「私は…人間の社会が交換経済で出来ているなんて知らなくて…エルフの社会は…共有社会だったから…」
 
 ―あぁ、そう言えば…。
 
 私はエルフについて詳しく知っているわけではありませんが、アレだけの規模の集落です。一人一人が独自の消費活動をしていては間に合わないでしょう。集落一つを丸々共同体として消費財を共有しなければ幾ら森が豊かと言っても維持出来ないのかもしれません。今まで彼の口からまったく出なかったので意識の範疇にありませんでしたが、社会性の違いというのは私にとってとても盲点でありました。
 
 「…それで?」
 「だ、だから…最初は…盗もうと思ったんじゃないんだ。ただ…お金とやらが必要だったのを知らなかっただけで…」
 
 ―その言葉に私は彼の起こした最初の事件を記憶から引き出します。
 
 それは果物屋での万引き騒動が発端でした。店頭に並べた林檎を彼が食べたのを見た店主が彼を取り押さえようと襲いかかったのがある種、運の尽きと言えるでしょう。それに反撃しようと彼は魔術を使い、店を半壊にまで追い込んだのです。それなりにコネのある私が出稼ぎに来ているジャイアントアントに頼まなければ今でも彼の店は修理中であったでしょう。彼女らの協力の下、何とか最低限の慰謝料で済んだあの一件以来、彼は時折、こうして街中で騒ぎを起こすようになったのでした。
 
 「それで…掴みかかられそうになって…わ、私は思わず魔術を使って…」
 「それで?」
 「こ、壊すつもりなんてなかった!ほ、他の時だって…今回だってそうだ!た、ただ……わ、私は…怖くて…」
 
 ―それは彼にとっての最大限の勇気であったのかも知れません。
 
 プライド高いエルフが「怖い」とはっきり言ったのです。その言葉を口に出すだけでどれだけの葛藤があったのか察するに余りあるでしょう。それでもこうして口に出してくれるのはさっきの一件で私に少しは心を許してくれたのかもしれません。
 
 「それで?」
 「そ、それでって…」
 「それで、貴方はそれを私に言って、何を期待しているんですか?」
 
 ―冷たいほどに突き放す言葉に彼は絶句しました。
 
 その表情を見ても私はもう何とも思いません。心の底から彼に対する興味が失せたのでしょう。有象無象が絶句する様とは違い、愉悦こそ感じませんが、良心や胸が痛むことはありません。まるで駄作極まりない絵画を見ているかのように、無感動にそれを見ているだけでした。
 
 「だから、悪者になったなんて懺悔は教会でしてください。まぁ、尤もこの街にそんなものはありませんが」
 
 元々、商業的な力が強かったこの街は領主の代変わりによって魔物娘を本格的に受け入れ始めました。最低限のルールだけ定めて受け入れた彼女らは既に各方面に深く根ざしています。この街は既に魔物娘無しでは成り立たないが故に、魔物娘を忌避する教会もまた駆逐されていったのでした。
 
 「あぁ、もしかして優しくされたいとでも思いました?…残念ですね。それならもう今回の一件で愛想が尽きましたよ。売り切れです」
 「っ!!」
 
 私の言葉がきっと図星だったのでしょう。ビクンと震えた肩がそれが何より物語っていました。しかし、それでも彼は何処か期待するように私を見つめています。まるで捨てられた子犬が拾ってもらえるのを期待するようなその視線に私は胸糞悪いものすら感じるのでした。
 
 「まぁ、当然ですよね。今まで人を拒んでおいて、いざとなったら頼るだなんて反吐が出ますよ。しかも、悪者気取っておいて、今更、臆病アピールですか?そんなのが通るなんて思ってるお目出度い頭には拍手すらしたいくらいです」
 
 吐き捨てるように言いながら、私は再び前へと向き直りました。自然、視界から消えた彼をもう既に気にする感情はありません。今、この瞬間に彼が刺殺されたとしても私はきっと何も思わないでしょう。既に感傷を投げ捨てた私はそのまま歩き出し、封鎖の証である黄色いテープを乗り越えました。
 
 「…どうでした?」
 
 まるでその瞬間を待ち望んでいたかのようにウィルソンが近寄って来ました。何処か気遣うような表情を浮かべているのはそれだけ私を心配してくれていたのでしょう。それに微かな感謝を抱きながら、私は安心させるようにその唇を釣り上げました。
 
 「えぇ。もう大丈夫ですよ」
 「…その様を見て、大丈夫と思える奴の方が少ないですよ。まず間違いなく」
 
 私の会心の笑みを見ながら、ウィルソンはそっと肩を落としました。失礼なその部下の態度にまた集ってやろうかと思いましたが、今回の一件で彼にも様々な迷惑を掛けてしまっているのです。前回は彼から奢ってもらった訳ですし、次は私の奢りでも良いかも知れません。
 
 「まぁ、一応、解決こそしたようで何よりですよ」
 「心配掛けてすみませんね」
 「…え?」
 「え?」
 
 私の言葉に思わずウィルソンは聞き返しました。一体、何がおかしかったのでしょうか、と思い返してみますが、自分の返答はそれほどおかしいものには思えません。寧ろこの場ではそれなりに正解だったのではないでしょうか。
 
 「…中隊長殿が謝った所なんて俺、初めて見ましたよ」
 「代理です。…そうでしたっけ?」
 
 別に意固地になって謝るまいとしていたつもりはありません。実際、エルフの青年とのファーストコンタクトでは素直に謝っています。しかし、実際に思い返してみれば確かに謝った経験は殆ど無いような気がしてくるのでした。
 
 「まぁ、たまたまですよ。特に他意はありませんでしたし」
 「それなら良いんですけどねー。実際、最近の中隊長殿は変っすよ」
 「代理です。まぁ、変になる原因はさっき取り除いてきましたから大丈夫じゃないでしょうかね」
 
 今も尚、あのクレーターの中にいるであろう彼はもう私にとっては私生活を捨ててまで護るものではありませんでした。保護者と言う立場も明日にはなくなっているでしょう。所詮、書類一つであっさりと切れてしまう程度の仲だったのです。そう思えば、感傷を投げ捨てたのも必然だったのかも知れません。
 
 「それで…『アレ』はどうします?」
 
 そう言ってウィルソンが指差したのはきっとエルフの青年であったのでしょう。しかし、私はもうそれを振り返って確認するつもりはありません。もう彼は私にとって興味や庇護の対象ではなく、ただの犯罪者でしかないのです。一々、振り返って様子を確認するのは時間の無駄にしかならないでしょう。
 
 「好きになさい。この一件はウィルソン君に任せますから。では、私はデスクワーク系の仕事があるので、これで」
 「了解です」
 
 私の言葉にウィルソンが敬礼するのが傍目でそっと見えました。それを確認しながら、私はそっと歩いて行きます。背中に響くウィルソンの声を聞きながら、私は一度も振り返ること無くそのまま詰め所へと戻っていったのでした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12/06/17 21:24更新 / デュラハンの婿
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