読切小説
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輝ける白き月の下で
 自分の腕一本で身を立てている人間なら誰でも、スランプに陥る可能性は持っている。そこから這い上がれるか否かは、自分の力だけでなく回りにいる人間の質も重要となる。
 その点、怪奇小説家のギルマンは他の同業者と比べて非常に恵まれていたと言って良いだろう。

 夏の終わりも近づいた月。彼は書き下ろし長編小説一本の仕事を受けていた。
 それ自体はこれといって特別なことも無いことなのだが、その直後から彼はそれまでの作家人生で最大の不調に陥ってしまった。
 長いこと仕事に手を付けられず一向に進まない筆と真っ白い原稿用紙の前で頭を抱えていたギルマンは、とある日に担当編集者からの訪問を受けた。
 その編集者は、ギルマンに書き下ろしの長編をやらないか、と持ちかけてきた張本人である。今の不調についても文句を言うでもなく催促もせず、出来る限り取材に協力してくれる、とても出来た人だった。
 そんな人だから、ギルマンの方もできるだけ彼の好意に報いたいと考えている。それ故にいっそう書けない焦りが加速してしまうのだが、焦れば焦る程消耗するだけで作業が進まないわけで。
 申し訳ない思いで一杯になりながら来訪者を居間へと迎え入れ、まず原稿の進み具合について詫びる。気にするな、と豪快に笑ってみせた編集者が次に発した言葉は、意外なものだった。

「ギルマンさん。一つ、提案があるんです。
 実は私の親戚で、地方の旅館を経営してる者が居るんですがね。どうも不景気で、もうめっきり客が少なくなってしまっているんですよ」
「ほほう。どこも大変なんですなあ」
「海沿いの街なんですが、もともと大して観光資源の豊富な場所じゃありませんからね。今みたいにシーズン外してしまうと、もう空き部屋ばっかりなんですよ」
「その旅館が、どうしました?」
「ギルマンさん。都会では書けないって言うなら、ここはいっそ転地療法してみたらいかがです。
 私も一度行ったことがあるんですけどね。ちょっと保守的ですけれど、なかなか良い所ですよ」

 彼の提案をまとめると、こうである。
 編集者の親戚、旅館経営者は遠のく客足と埋まらない部屋に苦悶していた。
 そんな折、親戚の男(つまり今訪れた編集者だ)が出版社でとある幻想小説家を担当していると聞いた。
 その作家が不調に苦しんでいると聞き、経営者は閃いた。都会で不作に悩んでいる作家先生を、この何も無い田舎に呼んでみようと。
 どうせ部屋は余ってるんだから、料金はタダ同然でいい。文化人を世話してやれば、何かの拍子で名前が売れるかも知れないし、そこで書いてもらった小説が売れれば、熱狂的なファンが巡礼にやってきて金を落とすかもしれない。
 件の作家は若い読者が多く付いているとも聞くし、ダメで元々、ここは一つ話しをしてみようと思ったと、そういうことらしい。

「しかしいいんですか。タダ同然で、なんて」
「気にしないで下さい。さっきも言いましたが、どうせ空いている部屋なんです。先方としては、あの街を小説のメインに取り上げて欲しいんでしょうが……強制するつもりはありません。何を書くかは勿論、ギルマンさんに任せますよ。
 取材も兼ねて、一つ旅立ってみてはどうです」

 彼としても、自宅に篭りきりの毎日に少なからず閉塞感を覚えていたところである。馴染みの編集者の親切な申し出を、断る理由など無かった。



 そういうわけで数日後。ギルマンは件の、海岸沿いの村に降り立った。
 元住んでいた街から、たっぷり3日ほど掛けて辿り着いた僻地。なるほど編集者が保守的と言っていた通り、街路に魔物の姿は見られない。
 見た所、行き交う人々の平均年齢も高めだ。客が来ないというのも頷ける。
 如何にも寂れた漁村といった風景だが、ギルマンはそこそこ気に入った。都市よりも静かで、執筆に集中できそうな感じが作家としては大いに好ましかったのだ。

 旅館に到着すると、もう夕方。話を持ってきたという編集者の親戚らしき老人と、その妻らしき老夫婦が玄関先まで出迎えてくれた。

「ようこそ、いらっしゃいませ。何も無いところですが、ゆっくりして行って下さいね」
「長旅で、お疲れでしょう。すぐにお部屋へ案内いたします」
「ありがとうございます。これからしばらく、お世話になります」

 客商売の鑑というべき人当たりの良さを発揮する夫婦に導かれ、ギルマンは上機嫌で自室へ向かった。
 その日の夕食。自室に運んでもらった、近くの海で獲れたという魚介類をふんだんに使った料理を楽しんだギルマンは、食事の片付けをしている女将に話しかけた。

「いやあ、美味しかったです。ご馳走様です」
「ありがとうございます。お食事は、毎回お部屋にお持ちすればよろしいのですね?」
「ええ、お願いします。お風呂は何時ぐらいまで使えますか?」
「日が変わるまでは、開けておりますよ」
「そうですか。じゃあ、腹ごなしも兼ねてちょっと散歩にでも行ってきましょうかね」
「どうぞどうぞ。……ああ、それと一応」

 今までニコニコと応対してくれていた女将が、急に表情を消し声を潜めた。

「今日は構いませんが、もうすぐ満月の日です」
「満月? ……それが、何か?」
「いえ、大したことではないのですが。……この村にはとある言い伝えがございまして。
 満月の夜、男が海に近づくと……引きずり込まれて、帰ってこない、と」

 余りにもありきたりな、作り物めいた伝承を笑い飛ばそうとしたギルマンは、しかし表情を固めたままの女将に気圧される。
 一体その言い伝えというのは、信用が置けるのか。問い返そうとした彼の機先を制する様に、彼女は顔を崩した。

「まあ、まあ、単なる迷信ですよ。実際、私もずっとここで働いておりますが、男の人が失踪したなんて話はほとんど聞いたことがありませんから。でも、お出かけの時にはくれぐれも気をつけて下さいね。
 ……では、私はこれで。何か御用がありましたら、遠慮なくお呼び下さい」

 ほとんど、ってことは、今までに消えてしまった男も居るのか。そう尋ねる暇も与えず、女将は膳を抱えて下がってしまった。

 更にまた数日後。相変わらず原稿の進みは良くないが、ギルマンはこの街をそれなりに気に入ってきていた。
 捕れたての魚を使った料理は、都会で食った魚っぽい物は一体何だったのか、あれは紛い物か何かだったのかと思えるほどに美味だし、住人たちもよそ者たる彼を、それなりに丁重に扱ってくれている。ただ、到着した日に女将が漏らした満月の夜の話だけは、誰に聞いても今ひとつ要領を得ない。それだけが気がかりだった。
 そして今宵こそは、月の満ちる日。人に聞いても分からないなら、自分で何が起こっているのか確かめる他あるまいと決心したギルマンは、女将に夕食後、少し外出することを告げた。

「ギルマンさん。今日は……分かって、いらっしゃるんですよね?」
「ええ。ここには、ネタ探しも兼ねてきていますから……差支え無ければ、ですが」
「いえ、そういう事なら御引止めは致しません。くれぐれも、お気をつけて」

 できれば海にはあまり近寄りませんよう、と忠告する彼女を少し訝しみながら、ギルマンは旅館を出た。

 しかし真っ白い月の下、アテも無くうろついてみても何が見つかるわけでもない。女将の言い方からすると、何か異変が起きるなら海だろうと当たりを付けて、海岸へと向かう。
 この村は、海に面しているといっても砂浜は少ない。海と陸との境は大半が切り立った崖によって区切られ、長年打ち寄せる波によって浸食された岩壁が柱状節理を形成している。
 海面に対してほぼ垂直に伸びた高い海蝕崖に立ったギルマンは、暗い海を見下ろしながら下に落ちてしまわないよう注意を払って歩む。近くの民家や商店は、夜ということもあり皆門扉を閉ざしているが、それらのほとんどが雨戸、鎧戸まで閉めきってしまっているのが何処か不気味だった。
 恐らく、この高い断崖には飛び降り自殺の志願者も少なからずやってくるのだろう。何人もの人間が身を投げる崖があれば、怪談の一つも生まれようと殊更に彼は思い込もうとしてみた。
 と、その時。
 一瞬の内に周りの空気が変質したような、鮮烈な感覚が彼を襲った。
 異常を感じた一瞬後に、海の方から声らしき何かが聞こえてくる。湿った潮風を揺らすその声は嫋々として雅で、芸術家の端くれたるギルマンに大きな衝撃を与えた。
 文章を打って飯を食っている彼の知っているどんな褒め言葉も陳腐に感じられる、今までに聞いたどんな歌もどんな交響楽も遥かに凌駕する、余りにも純粋で完璧で、何よりも強い情感に満ちた歌声。生きている人間にこんな声が出せるなどとは、到底彼には信じられなかった。
 一分程、息をすることも忘れる程その歌に聞き入っていた彼は、もっと近くでこの歌を聞きたいと思った。文筆家として、今まさに海の方から聞こえてきている、此岸のものとは思えぬ圧倒的な流麗さを表現しうる言葉を持たないことを情けなく思うも、そんな暗い感情すら天上の旋律に洗い流されていく。
 ほとんど無意識的に、ギルマンは岸の上から海へと降りていった。崖に面して人工的に作られた段を一段降りるごとに、鼓膜を揺らす甘美な響きはより実感と鮮やかさを増し、一切の価値観も主張も、押し付けがましい哲学も持たない絶対的な声が彼の魂を恍惚で満たしていく。海鳴りも風の音も、木々のざわめく音も無い静か過ぎる夜の中で、彼には自分の足音がひどい雑音のように聞こえた。
 浜の浅瀬へと降り立つと、歌声はより一層はっきりと聞こえるようになった。海から聞こえてきていると思っていたそれは意外と近くから響いてきているらしく、海と言うよりも断崖の下近辺にまだ見ぬ歌姫は居るらしかった。
 潮の引いた波打ち際を靴やズボンの裾が海水で濡れるのにも構わず、歌に誘われるままギルマンは歩む。一歩足を踏み出すごとにどんどんその艶やかさ、生々しさを増していた声は今や、遠く彼から離れているのにもかかわらず間近で歌われているかのような迫力を持っていた。
 歌といっても、今聞こえてきているのは複雑な歌詞や拍子、伴奏などを有するものではない。スキャットと呼べば聞こえは良いが、それよりももっと原始的で直截な、溢れ出る感情をそのまま声帯にぶつけているかのような物だ。
 言葉には決してできない、いや言葉にしたら意味を失ってしまうような、衝動と感情の叫び。荒削りなはずのそれが、知らずと聴く者を落涙させるほどに清らかなのは、やはり歌い手の資質に依るものなのだろうか。
 できるだけ余計な水音を立てないように、歌の邪魔にならないように浅瀬を歩くギルマンはいよいよ妙なる音の源が近くなってきているのを悟った。
 誰が歌っているのかとか、何故夜中にこんな所で歌っているのかとか、歌い手に会ってどうするのかといった事柄は彼の脳から全く抜け落ちてしまっていた。
 自分がなぜここに居るのか、どうして歩んでいるのかということすら忘れ、至純なる歌声という客体とそれを聞いているギルマンという主体の区別すら曖昧なまま、ただ純粋な音楽を経験しながら彼は岸沿いに進み崖にポッカリと空いた洞穴に近づいていった。
 その穴は周囲の岩柱と同じく波に削られてできたものらしく、大人が両腕を広げたくらいの幅とその4倍くらいの高さを持っていた。外から見る分には判然としないが、奥行きもそれなりにあるらしい。海水に浸食された岩盤が海面の上へ隆起してできたと思しきその穴蔵こそ、声の源とみて間違いない。
 海蝕洞窟に一歩足を踏み入れた瞬間、ギルマンは今まで彼の聞いていた歌があくまで漏れ聞いたものに過ぎなかったことを知った。
 天然の洞穴が、まるでコンサートホールのような音響効果を発揮し、中央部から響く歌声を内部で反響させていたのだ。
 意図してこの場所を選んだのだろうか、歌姫の声は洞窟の壁で何度も反射し音波同士干渉し合い、外から聞くのよりも何倍も濃密なものとなっていた。
 嫋やかなる歌声を何十にも重ねて作った音の帳の中心。入り口から、ぎりぎり月の光が届くくらいの距離、水面からつきだした滑らかな岩に腰掛けて歌っている女が居る。軽く目を閉じ、白い喉を反らせて胸に手を当て、嘆き恋い叫んでいる。
 歌詞など無くとも、その清冽な感情は聞き手たる彼に伝わった。
 孤高のディーヴァが訴えるのは激しい孤独。広過ぎる世界で一人佇む、耐え難き苦痛。聞き手のいない講堂で一人歌う物悲しさ。体を暖めあう相手無しに過ごす夜の長さ。
 歌を叫んでいるのか、叫びながら歌っているのか。一人の女の、全存在を賭けての絶唱は、自然と小説家の膝を折らせた。
 ギルマンは、自分が文学の道を選んだことに安堵していた。もし自分が音楽家で、この歌を聞いてしまったならば、きっと一生劣等感と敗北感に苛まれ続けることになるだろうから、と。
 膝立ちになってズボンの下半分を海水に浸し、どれほどの時間が経っただろうか。歌が止み、女がこちらを振り向いて破顔一笑。どんな緊張した大人でも警戒を解いてしまいそうな、清明さそのものといった表情の女がギルマンに語りかける。

「こんばんは。月が、綺麗な夜ですね」

 そう言った彼女の、月光のように透き通る肌と海のように蒼い髪が暗闇に煌き、ギルマンは目を奪われてしまった。歌による忘我の状態から未だ回復しきっていなかったせいで思考が緩慢で、女に話しかけられたのだ、ということにすらすぐには気付けなかったのだ。

「あ、ああ……! すまない。邪魔して、しまっただろうか」
「いえいえ、いいんですよ。誰か歌を聴いてもらえる程、嬉しいことはありません」

 こうして言葉を交わして初めて、ギルマンは歌っていた女の下半身が人間のそれではなく、魚のような鱗に覆われたものとなっていることを知った。
 マーメイド、という魔物娘の種族を、彼は知っていた。もともと主神教徒のような人間至上主義者でもなく、また人魚は魔物娘の中でも特に温和な性格をしていると聞いていたため、ギルマンは恐れを感じることも無かった。
 何も言わずただニコニコしている歌姫に対して、口を突いて出た言葉は。

「その、不躾なようだが……もっと君の歌を、聴かせてくれないだろうか」
「はい。私でよければ」

 再び岩屋に満ちた妖艶な歌声に、彼はひたすら耽溺していった。

 歌を聴き続けて、しばらく。日付が変わるまで、もう間も無くとなった時。そろそろ帰らなければ宿の人に余計な心配を掛けてしまう、と思ったギルマンは、しかしなかなかその場を離れ難く思っていた。
 後ろ髪を引かれる思いを押し殺し、歌い終えて一息付いている人魚に問いかける。

「君は……いつもここで、歌っているのか?」
「いつも、というわけではないですね。満月の時とか、気分の乗った時ですけれども」

 再びこの歌を聞くのに、一月も待たなければならないのか。そう思ってちょっと失望しかけたギルマンの表情を見て、マーメイドがニッカリ笑う。先ほどまで絶対の孤独を歌っていたとは思えぬほど、少女らしい無邪気さに満ちた微笑だった。

「でも、貴方が来てくれるというのなら、毎晩でも歌いましょう。……ずっと待っていたんです。私の歌を聴いてくれる人を」
「来る、来るともさ。毎日来るよ、約束する。
 私の名前はギルマン、小説家だ。君は……?」
「アスミ。マーメイドのアスミです。……今後とも宜しく、ね?」

 まるで水晶の鈴を鳴らしたような、どこまでも澄んだ声を聞き、彼はこの村を訪れて良かったと強く感じ始めていた。

 翌日以降。ギルマンは夜な夜な海岸へ出かけて行っては、長いことアスミの歌声を聞いて過ごすようになった。
 毎晩夕食後にふらふらと外へ出て行って夜中まで帰らず、必然的に昼前まで寝て過ごす彼の行状を流石に女将は不審がっていたが、なんでもない、小説のネタ出しのためだ、とごまかした。
 この言い訳も、あながち嘘というわけではない。月の光が海の中で砕ける清かな音のような、今までに聞いたこともない人魚の歌声は表現者としての彼のインスピレーションを大いに刺激した。長らく苦しんでいた新作幻想怪奇小説の執筆に、ようやく本格的に取り掛かれるようになったのだ。
 夜ごとの逢瀬、歌と歌の合間に、ギルマンはアスミと自分の生業について語ることがあった。

「この村には執筆のために来たんだが、君のお陰で本当に良い作品が書けそうだよ。ありがとう」
「そんな、私は何も。綺麗な文章が書けるとしたら、それはギルマンさんの中にもともと在ったものですよ」
「それでも、だよ。人の心を打つ文章が書けずに、私はずっと苦しんでいたんだ。それを解き放ってくれたのは、アスミだよ」
「……ギルマンさんって、見かけによらず結構情熱的な人だったんですね。こうやってお話ししているだけで、なんだかドキドキしてきます……」

 頬を染めて顔を背けた彼女の表情には、しかし嫌悪の色は無い。美しい歌姫が自分との会話を楽しんでくれている、という思いはますます彼を幸福にした。

「しかし、どうしてアスミはあんな夜中に歌っていたんだ? あんなに綺麗な声なんだから、もっといろんな人に聞かせても良かっただろうに」
「この辺りの人たちはみんな保守的ですから。私みたいな人間じゃない女の人は、あんまり好きじゃないんですよ」
「主神教ってやつかね。全く、勿体無い話だ。すぐ近くの海に、こんなに良い声のディーヴァが住んでるってのに」
「も、もう! やめて下さい、恥ずかしいです!」

 歌っている時の妖艶で凄艶な有様とは似ても似つかない、まるで少女のような照れ方に笑みを抑えられないギルマンだった。

 さて、海以外にこれといって名所も無い田舎のこと。昼まで寝ていてもなお時間を持て余すギルマンは畢竟、小説の執筆に注力せざるを得なくなる。
 夜の外出を旅館の女将は余り快く思っていないらしかったが、そもそも呼んだのが向こうである以上あまり強いことは言ってこない。
 若者に人気の小説家、という肩書きの与える印象から、老夫婦は一昔前にはよく文壇にいた、人並み以上に酒色に溺れる無頼漢のような輩を受け入れることも覚悟していたらしい。彼らは小説家が部屋に篭ってひたすら原稿用紙の升目を埋め続ける姿を、ちょっと意外そうな、しかし何処かほっとしたような目で見ていた。
 旨い料理と至上の歌声で英気を養い、自らの内から一筋の光を搾りださんと執筆に没頭し、疲れたら眠る。そんな生活を続けていると、毎日代わり映えのない村落の様子もあって月日がとても早く過ぎていく。
 二月程で、今までの自作品の総決算とも言える大長編を書き上げたギルマンは、ひとまず都会に戻ることを決めた。
 初冬の夜。この村に来たときはまだ夏の暑さも残っていたなあと、寒さ対策に外套を着込んで彼はいつもの洞穴へ赴いた。
 やはり自分を待っていてくれたアスミと少し言葉を交わし、二曲ほど歌ってもらった後。ギルマンは一旦都会に戻ることを切り出した。

「ここを……離れて、しまうんですか?」
「ああ。お陰で作品も書き上がったからね。原稿を編集者に渡さないといけない。
 渡してからも、製本までには色々やることがあるだろうし」

 そう聞いたアスミは、ギルマンに顔を見せないよう少し俯いた。
 自分が去ったら、またこの女の子は一人ぼっちになるのだろうか。これからだんだん寒くなる夜、一人で誰にも聴いてもらえない歌をうたうのだろうか。そう考えると彼の心も少なからず傷んだが、せっかく書き上げた小説を世に出さないわけにもいかない。
 どうしようか、と思案していると、目尻を拭いたアスミが顔を上げて言った。

「もう少し、じっくりやるつもりだったんですけれど……意外と早かったんですね。まあ、いいです」
「?」
「いえ、何でもないです……では、暫しのお別れということで、一つ私たちマーメイドに伝わる特別な歌を歌って差し上げましょう。
 今夜は、月も綺麗ですから。……ふふっ」

 背筋を伸ばし、姿勢を正して息を吸い込むアスミ。特別な、と聞かされてギルマンの期待はどうしようもなく高まる。
 息を吸い込んで胸を膨らまし、喉の奥から搾り出すようにして声を発する。と、今まで聞かせてくれた事の無い音が辺りに広がった。
 鼓膜と共に魂を震わすその旋律は、今まで聞かせてもらったものと同じく素晴らしかったが、しかしその中に何とも表現しがたい、艶めかしく官能的な色がある事をギルマンはすぐに悟った。
 いや、官能的、などと呼べるものではない。醸造酒の芳香や美しい音楽をそう評することは少なくないが、しかしそれらが実際に男を性的に興奮させるわけではないからだ。
 だのに今、ギルマンの身体は異常なほどに熱くなっていた。首筋の毛が逆立ち、腰の奥から耐え難い衝動が溢れてくる。今までどんな情熱的な歌を聞かされても、こんなにはならなかったというのに。
 抑えがたい性衝動を扱いかねて歌姫の方を見やったギルマンは、遅まきながらにアスミの魅力的な身体に目を奪われた。
 深海の水のように澄んで、どこまでも清らかな白い肌。月光に照らされて青く輝く髪。暗い夜の底で、星より明るく煌く瞳。
 それら、清楚さの象徴とも呼ぶべき美しい肉体と、対照的に肉感的な、性欲を煽り立てるために作られたかのような大きな胸。
 神聖さと生々しさ、淫らさと気高さ、聖女の美貌と娼婦の魅力を兼ね備えたかのような佇まいに、自分はなんて畏れ多い存在と親しくしていたんだろうと、ギルマンは今さらながらに魔物娘の本性、その凄絶さを思い知る。
 歌を聞かされて、いつの間にかギルマンの陰茎は固く勃起していた。ズボンを押し上げる肉茎を隠すことすら忘れ、息を荒らげて彼はアスミの体に見入る。
 男の体を操る魔歌を歌い続ける彼女は男の反応に驚かない。その落ち着いた有様は、まるでギルマンがこうなることを予期していたかのようである。
 どころか、盛り上がった股間をちらりと一瞥したアスミは歌を止めないまま彼の方へ向き直り、手を魚の半身に寄せて、人間でいう生殖器のある辺りに触れた。
 ぬちゃっ……という粘った水音と共に、鱗の合間から肉色の唇が見える。魚類の身体に空いた、明らかに人間らしい女性器口は外気の冷たさを忘れさせるほどに卑猥。
 身体が冷えるのも恐れず、ズボンを脱ぎ捨ててギルマンはアスミに近づく。彼にだけ聞こえるような穏やかな声で歌い続けながら、歌姫は陰唇を人差指と中指で開き、挿入を誘う。鈴口から先走りをだらだら流しながら、興奮しきった男は美しき人魚を抱きすくめた。

「……ひゃっ……ギルマンさんのカラダ、あつぅい……!」

 耳元で囁くくらいにまで小さくなった歌は、喘ぎ声を交えて更にその淫らさを増す。前戯も無しに、ギルマンはその剛直を海水とは全く異なる粘液で潤った女陰に突き込んだ。
 脚に絡みつく魚の身体は海水と同じく冷え切っているのに、膣内はもう火傷しそうなくらいに熱い。かっかと火照る肉の筒に締め付けられ、堪らなくなったギルマンは男性器を奥まで挿入し切ったかと思うと、すぐに腰を打ち付け始めた。

「あっ、あ、ああっ、激し……! ギルマンさん、乱暴です……!」

 歌の代わりに嫋やかな喉から響き始めた喘ぎ声は、誘惑され切った男をまだまだ煽り立てる。咎めるような言葉とは裏腹に、人魚の顔は欲情に蕩けきっており早くも性感に溺れ始めていることが隠し切れていない。
 月明かりの照らす中、野外でのセックスは強い背徳感をもって若い男女を煽る。
 アスミのエロい声で脳を揺らされっぱなしのギルマンが一度腰を前後させるごとに、肌を紅く上気させたアスミはその白い喉を思い切り反らせて、恥ずかしげもなく喘ぐ。熱く濡れた吐息と、短い、男のピストンに合わせた叫び声が、至上の音楽となって彼の魂を解していった。

「くうぅうっ! おちんちん、凄いですっ! 熱くて、硬くって……! 」

 既にマーメイドの喉は喘ぐためだけに使われており、歌は聞こえてはこない。それでもギルマンの心は魅了の檻から解放されず、むしろより激しく、より厳重に拘束されていくようだった。
 そうしているうちに、後先考えずガンガン腰を振り立てたのと、しばらく執筆に心血を注いでいたために射精もろくにしていなかったのとで早くも限界が近づいてきたギルマンは、反射的に陰茎を膣から抜こうとしたが、叶わなかった。アスミの下半身、魚のヒレが彼の右脚に絡みつき、がっちりとホールドしていたからである。

「ちょ、アスミ! このままじゃ、中に……!」
「やっ、い、いいんですよ? ギルマンさんの濃い精液、私に下さい……!」

 さすがにそれは、と彼も躊躇ったが、きゅうきゅう締まる具合の良いおまんこで搾られ、抜きたくとも尻尾で絡め取られと言った状況ではどうしようもない。嬌声に理性を削られ、快感に抵抗する心も潰えた彼は最早なす術無く、マーメイドの胎の一番奥に精を放ってしまった。

「……! ああ……ギルマンさんの精液、美味しい……! これ、素敵です……!」
「あ、ああ……あああ……!」

 岩の上で固く抱き合った二人は、射精が終わってもなかなか離れようとはしなかった。

 数十分後。たっぷり出してすっきりしたギルマンは、ようやく男性器を抜き、浅瀬に座り込んだ。

「はあ、はあ……! しかし、な、何だったんだ今の歌は……!」
「あれが私たちの、本来の歌ですよ。愛する男の人に振り向いてもらうための、恋歌です」

 そう告げる声すら、底知れぬ魅力でもって彼の心を誘い捉える。ゆっくりとアスミが両腕を広げ、大きな乳房がその動きに合わせて左右に広がると、もう視線を外せなくなった。

「さあギルマンさん。こっちへおいで下さい。
 私と一緒に、もっと楽しいことをしましょう。もっともっと、たくさんの歌を聴かせて差し上げます」

 ふらふらと立ち上がり、広げられた腕の中に飛び込んだ彼を人魚は優しく抱きとめた。その耳に唇を寄せ、甘く囁く。

「……いい子ですね。これからも、私と一緒にいてくれますよね?
 ふふ、そうですそうです。あなたはもう私から離れられない……私の歌なしじゃあ、いられなくなるんです。
 怖がらなくってもいいんですよ。ずっと大事にして、可愛がって差し上げますからね……」

 心蕩かすような声を聞きながら、ギルマンは自分の最後の作品となる小説をきっちり仕上げておいて良かった、と思っていた。



 翌朝。
 遂に朝まで戻らなかった作家を探しに、まず旅館の女将が、次いで村の自警団が捜索に乗り出したが、失踪した男が見つかることは無かった。
 連絡を受けてやってきた編集者はギルマンに村への逗留を勧めたことを強く悔やんだが、それでも旅館に残されていた原稿はしっかり回収し、彼の会社で出版することにした。
 旅の男と海からやって来た謎の歌姫との妖しくも悲しい逢瀬を描いたその耽美的な物語は、書き上げた直後に作者が消失した、というゴシップ性も相まって爆発的に売れた。書いている内容が背徳的・親魔的であるということで一部の宗教国家では発禁処分を受けたが、それすらも話題性と売上を増す結果にしかならなかった。
 多くの人々がその本を読み、作者失踪の真相についての噂を囁き合った。
 が、小説のラストシーン、女と男が結ばれぬ運命を儚んで海に身を沈めるシーンを作者本人が、より幸福な形でそのままトレースしたという事実を知るものは、勿論一人もいなかった。
11/12/01 00:22更新 / ナシ・アジフ

■作者メッセージ
「可愛すぎなんだけどマジ!
 誰マーメイドたんをシー・ビショップの下位互換って言った奴は!
 ぶっ説教してしてやるよ俺が!
 そういう魔物娘じゃねえからこれ!」というパッションのままに書きました。

舞台にした断崖や柱状節理は、私が一時期住んでいた福井県の東尋坊をモデルにしました。
が、あくまでモデルに摂っただけなので、本当に海蝕洞があるのかとか、ましてやマーメイドたんが本当にいるのか等聞かれましてもお答えできません。ご了承ください。

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