カモミールが香るように

「ねぇ。あんたは、カミサマって奴を恨んだこと……ある?」
「へ? どうしたの? 唐突に」

 彼女が放った不意の問いかけに、僕は変な声を出してしまう。

「いや、だから、カミサマを恨んだ事があるのか無いのかって訊いてんのよ」
「う〜ん、そうだなぁ……無い、かな」

 僕の返答に、彼女は少し意外そうな声で「へぇ」と呟いた。
 そんな反応を確かめつつ、僕は言葉を続ける。

「厳密に言えば、『誰かや何かを恨んでいる暇が無かった』って感じかなぁ。良い事も悪い事も、嬉しい事も辛い事も、色々あったから」
「ふ〜ん……そうなんだ」
「うん。ところで、力加減はどう?」
「あ、すごく良い感じよ。問題ないわ」

 彼女の返答に、今度は僕が「なら良かった」と呟いた。

 会話はそこで途切れ、沈黙の時間が訪れる。
 お互いに何も言わない、だけど不安や気まずさとは無縁の時間。
 これは、僕と彼女の間に時々やって来る、穏やかなひと時のかたち。

 今僕は、彼女の家で、彼女の肩を揉みほぐしている。

 耳に届くのは、パチパチと火の粉がはぜる音。
 肌に感じるのは、その火元……暖炉からやって来る、優しいぬくもり。
 そして目に映るのは、どこまでもぼんやりとした意味を成さない何かと、彼女が放っている暖かな橙色のオーラ。

「……いきなり変なこと訊いて、悪かったわね」

 会話が途切れて十分ほどが経った頃、彼女はポツリとそう言った。

「うん、大丈夫だよ。気にしないで」
「……ありがと。前々から、ちょっと訊いてみたかったんだ。ごめん」

 少し元気を失った、彼女らしくないしょんぼり気味のトーン。
 だから僕は、わざと明るめの声を出してこう言った。

「大丈夫、大丈夫。心の中であれこれ思って悩むくらいなら、バーンと遠慮せずに訊ねてよ。僕に答えられることなら、何でも包み隠さずに伝えるから。ね?」
「……うん。ありがと」

 そして再び、沈黙がやって来る。
 僕は、彼女と共に過ごすこんな時間が、とてもとても大好きだ。


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 僕の左目は、生まれた時から何の仕事もしていなかった。
 残る右目も、そんな相棒の後を追うかのように、十二歳で仕事を辞めた。

 どんな名医にかかろうと、どんな祈りを捧げようと、僕の目はただただボヤけた、何が何だかわからない世界を映し出すモノになってしまった。

「諦めちゃいかん。希望を捨てちゃいかん。父さんが絶対に何とかしてやる」
 父のそんな言葉が、とても心強かった。

「あなたを一人になんて、孤独になんて、絶対にさせないわ。母さんはあなたの味方よ」
 母のそんな言葉が、とても嬉しかった。

 でも……やっぱり自分の事は、自分自身が一番良く理解出来た。

 あぁ、これは大変な事になってしまったなぁ、と。
 あぁ、父さんと母さんを悲しませてしまったなぁ、と。
 あぁ、これで新しい何かを見る事も、知る事も、出来なくなってしまったんだなぁ、と。

 両親や友達の前では、明るく気丈に振舞っていた。
 けど、毎晩ベッドの中では、声を殺して泣いていた。

 起きて笑い、横になって涙する。それが、僕の日常になっていった。


 そんな僕に、運命の出会いが訪れる。

 あれは、十四歳の春。
 僕たち家族が暮らす山間の村に、風変わりな一人のお医者さんがやって来た。

 母の説明によれば、その人は東方の国から旅を続けて来た、髭もじゃの男性だという。
 しかも、カンポーやシンキューという見た事も聞いた事も無いような不思議な治療術を駆使し、多くの人々を痛みや苦しみから救い出して来た凄い人らしい。

 その人は村長さんの家に居候をしつつ、村の集会場を即席の診療所に変えて診察を始めた。
 そして……その見事な腕前は、あっという間に大評判になった。

 長年、腰痛に苦しめられていたおじいさんは、孫と元気に散歩が出来るようになった。
 肺の病気に悩んでいたおばさんは、朗々と賛美歌を歌えるようになった。
 酷い頭痛に襲われていた酒屋の看板娘は、素敵な笑顔を取り戻した。

 さらに、そのお医者さんの凄さは、そうした治療の腕前だけではなかった。
 それ程の素晴らしい腕を振るいながら、ごくごく僅かの治療代しか要求しなかったのだ。

 「申し訳ありませんが、これで……」と野菜や果物を差し出す人に対しても、「おぉ、これは美味しそうだ。喜んで頂戴いたします」と笑顔で受け取り、それを代金にしたという。

 医者の鏡とも言うべき、最高の技術と人柄。
 だからこそ僕の両親は、最後の望みを託してその人に賭けた……。


「うん……なるほど」
「ど、どうでしょうか、先生。この子の目は、見えるようになりますか?」

 一通りの診察を終え、ふぅと息をついた先生に母が問いかける。
 椅子に座っている僕の両肩に置かれた父の手が、カタカタと小さく震えている。

「結論から申しますと、息子さんの目が見えるようになる可能性は、ゼロに近いかと思います」
「そんな……」

 ゆっくりと、しかしハッキリと明確に発せられた先生の言葉に、父が絶望に満ちた声を漏らす。
 母が、涙声で言った。

「先生、本当に、本当にどうにかならないのでしょうか!? この子はこれから先もずっと、ぼんやりと閉ざされた世界の中で生きて行かなければいけないのですか!? 先生、先生……っ!」

 そして診察室に、母の嗚咽の声が響いた。
 僕の肩に置かれた父の手は、まだカタカタと震え続けている。

「一つ、訊いても、良いかな?」

 不意に、先生が優しい声でそう言った。
 それが自分に対する問いかけであると気付いた僕は、少し慌てながら返事をした。

「あ、は、はい。何でしょうか?」
「うん。君は、これから先、どんな大人になりたいのかな?」

 それは、全く予想外の言葉だった。
 僕の未来? 僕の希望? 大人になった僕自身の姿?

「……考えた事も無かったです」

 僕は、正直にそう答えた。
 いや、そう答えるほか無かった。

 二年前に右目が役目を終えて、僕の日常は一変してしまった。
 何をするのにも両親や周りの人達の手を借りて、「ありがとう」と「ごめんなさい」が口癖になるような日々を送って……。
 自分自身に関する最低限の事を何とかこなせるようにはなったけれど、それでも一日一日を怪我無く過ごすだけで精一杯だったのだから。

「うん。なるほどね」

 けれど何故だか、先生はそんな僕の返答に満足気な声で応えた。

「皆さんに、私から一つ提案があるのですが……聞いてくださいますか?」

 そして続けて、両親も含めた僕達全員に対してこう言った。
 それは正に、その後の僕の人生を決定付けるような言葉だった。


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「はい、お茶。熱いから、気をつけなさいよね」
「うん、ありがとう。いただきます」

 彼女への施術を終えた僕は、勧められるまま椅子に座り、淹れたてのお茶をご馳走になっていた。

「あ、美味しい」
「ふふ〜ん、当然よ? 私が飲ませるお茶なんだから、不味い訳がないわ」
「うん。美食家だもんね、ソフィーは」

 僕の言葉に、彼女……ソフィーは「まぁね」と自慢げなトーンで応えた。
 うん。柔らかい香りとほのかな甘みがあって、本当に美味しいなぁ、このお茶は。

「で、さっきの話の続きを聞かせなさいよ」
「え?」
「え、じゃない。あんたの身の上話の続きよ。何て言われたのよ?」
「あぁ、うん」

 そうして僕は口を開きかけ……て、また閉じた。
 先に、気になっていた事を訊いてみよう。

「でも、今日はどうしたの? 今まで、『あんたの身の上話になんて、興味ないわ!』って言ってたよね? と言うよりも、むしろ避けてた感じだったよね?」

 ソフィーと出会って、そろそろ十ヶ月になる。
 だけど、これまで彼女が僕の生い立ちや身の上話に興味を持ったり、何か質問をしたりするような事は無かった。
 それが何故だか、今日に限っては様子がおかしい。
 最初の「カミサマを恨んだ事があるか」云々の段階で、どうしたんだろうと思ってはいたけれど……。

「う、うっさいわね! な、何となくよ、何となく! ただただ、何となくよ!」
「……ふ〜ん」
「なっ、何よその反応は! 気に入らないわね!」

 今日までの付き合いの中で、彼女の性格や癖は大体把握出来ている。
 だから僕は、少々イジワルな気持ちも込めて、こう訊いてみた。

「もしかして、僕に遠慮して『訊きたくても訊けなかった』って感じなのかな?」
「なっ……!?」

 あ、突いちゃったかな、図星。
 僕の目に映る彼女のオーラが、カ〜っと朱色に染まっていく。
 そしてそのシルエットが右の拳を大きく振りかぶ……ありゃ、これはマズい。

「うるさい、このバカっ!」

   ゴンっ!!

「い、痛ぇっ!!」
「ちょ、調子に乗ってんじゃないわよ、この大馬鹿! 超馬鹿! そり立つ馬鹿!」
「ゴメン、ゴメン! だ、だからそんなボカスカ叩かないでってば! 痛い痛い!」
「なっ、何で私があんたなんかに遠慮したり、傷つくかなって心配したり、申し訳ないかなって案じたりしなきゃいけないのよ!? ほッ、本当に揺らぎなく馬鹿じゃないのっ!?」

 動揺やら、気恥ずかしさやら、怒りやらと共に飛んでくるゲンコツと平手の雨に打たれながら、僕は必死になって彼女をなだめた。
 う〜ん、確かに調子に乗りすぎたかなぁ。ちょっと反省だなぁ。あぁ、痛い。本当に痛い。
 ……でもソフィーさん、最後の方は本音がダダ漏れになってましたよ?

「でっ! ほらっ! そんな救いようがなく馬鹿な事を言ってないで、さっきの話の続き! 聞かせなさいよ!」

 ゼーゼーと荒い息を吐きながら、彼女がその後の話を催促する。
 僕は、「イテテ……」と痛む頭を自分の手で撫でながら、応えた。

「うん、え〜っと……先生は、『僕のシンキューの弟子にならないか?』って誘ってくれたんだよ」
「弟子?」
「そう、弟子。先生が生まれた東方の国では、盲目のシンキュー師の人が数多くいるらしいんだ」

 僕の言葉に、彼女は感心した様子で「へぇ」と呟いた。
 僕はそんな反応を確認しつつ、お茶を一口飲んで話を続けた。

「中には、【神の手】と形容されるほど素晴らしい技術を持った人もいるんだって。実は、先生にシンキューの道を説いてくれたお師匠様も、盲目の使い手だったそうなんだけどね」
「そうなんだ。凄い人間って、案外たくさんいるもんなのね」
「うん、世界って広いよねぇ……。で、先生は『僕と一緒に色々な国を歩いて、色々な人に触れて、色々な事を知って、一人前の鍼灸師にならないか?』って言ってくれたんだ」

 そこで僕は言葉を切り、再びお茶を一口飲んだ。少しぬるくなってしまったけれど、やっぱり美味しいお茶だ。

「でもさぁ……その、大変だったんじゃないの? あんたが世界を歩くのって」

 ソフィーが、少しおどおどした調子で言った。

「うん、大変だった……と言うべきか、そもそもそれ以前に出発の日を迎えるまでが大変だったなぁ」

 そして僕は、手の中のカップをくるりと回してまぶたを閉じた。
 あの頃の出来事は、今でもはっきりと思い出す事が出来る……。


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 僕は先生の提案を受け止め、シンキュー師を目指す旅に出たいと言った。
 両親はそんな僕に驚き、あまりにも危険すぎる、無謀すぎる、考え直せと何度も止めた。

 今になって思えば、両親の心配はもっともだ。
 もしも立場が逆転して、自分自身が父であったとしたら……叫ぶ我が子を柱に括りつけてでも、絶対に反対した事だろう。

 だけど、僕の決意は固かった。

 先生のもとで、様々な勉強を積み重ねて行きたい。
 未知の大地を踏みしめ、新たな出会いに感謝し、自分自身を高めて行きたい。
 あの十二歳の日に、完全に失ってしまったと涙したものを、この手で取り戻したい。

 僕は、何度も何度もそう主張した。
 両親は、何度も何度も絶対反対だと繰り返した。

 そうして三ヶ月が経過し、先生が新たな旅へと出発するその前夜……ついに両親は、僕の希望を聞き入れてくれた。


 出発のとき。

「どうか、この子を頼みます。数え切れないほどのご迷惑とご心配をおかけすると思いますが、どうか、どうか、この子をお願いいたします……」

 母は、そう言った。
 先生に深々と頭を下げ、涙を必死に堪えている気配を感じた。

「旅に出る以上は、目が見える見えないは関係ありません。先生、もしもこいつが弱音を吐くようでしたら、礼節を欠くようでしたら、構いません。こいつを殴り飛ばして、森や街道に捨ててやってください」

 父は、そう言った。
 僕の頭を強く鷲づかみにし、流れる涙を拭おうともしていない気配を感じた。

「息子さんは、確かに私が責任を持ってお預かりします。心技体、全てを揃えた一人前の鍼灸師として育て上げる事を、ここにお誓い申し上げます」

 先生は、両親に対してそう言った。
 そして、僕の方へと向き直る気配と共に、こう告げた。

「今日からの長い旅は、君にとって様々な意味を持つものになるだろう。だからこそ、一分一秒たりとも、無為に過ごしてはいけないよ。一つの歩み、一つの学び、一つの出会いを、大切にしなければいけないよ。わかったね?」

 患者にかけるものとは違う、低く静かな威厳に満ちた声。
 それは、患者の痛みや苦しみを理解し、幸せな明日や健康と向き合う、責任ある医師の声だった。

 だから僕は、震える膝に渇を入れ、精一杯胸を張り、大きな声で応えた。
 ここで迷ってしまっては、悔いを残してしまっては、僕は何も出来ない人間になってしまう。

「はい! 頑張ります! よろしくお願いします!」

 それが、僕の旅立ちの記憶。
 己が歩むべき道と出会い、その第一歩を踏み出した日の記憶……。


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「そこからは大変でもあり、面白くもあり、切なくもあり……だったなぁ。暑い国や寒い国、商人の国や軍隊の国、色々な所にも行ったなぁ」

 そう言って僕は、まぶたを閉じたまま天井を見上げるように顎を上げた。

「病気や怪我が治って喜ぶ人もいれば、最後の望みを絶たれて泣き叫ぶ人もいた。先生の医術や僕の目を真摯に、平等に評価してくれる人もいれば、心無い誹謗中傷や罵詈雑言をぶつけて来る人もいた。本当に、世界の広さというものを感じたよ」

 ソフィーが、僕を見つめている気配がする。
 彼女は、何も言わない。でも、その視線が次の言葉を求めている。

「そんな旅の中で、先生は惜しみなく僕にシンキューの術を授けてくれたんだ。僕の場合、教えてもらった事をメモやノートにまとめられないからね。とにかく全部、ここに入れなきゃ駄目だった」

 そう言って僕は、右手の人差し指で自分のこめかみをトントンと突いた。
 するとソフィーが、ぼそりと呟いた。

「……馬鹿なのにね」
「うっ、さっきの意地悪の仕返しだね……でもまぁ、事実その通りだから反論できないなぁ」

 そして僕達は、クスクスと笑い合った。

「とにかく、そうして何か新しい事を覚えたら、実際に患者さんと向き合って施術を行うんだけど……これがまた失敗続きでねぇ。一体、何人の患者さんを絶叫させた事やら」
「……ヤブ・シンキュー師だったのね」
「いや、それ以前の問題だったような気がするよ、本当。今思い返しても、ちょっと冷や汗が出て来ちゃうから」

 そこまで話して、僕はカップの中に残っていたお茶をぐいと一息に飲み干した。

「おかわり、いる?」
「あ、お願いします」

 ソフィーの言葉に、僕は笑顔で応えてカップを差し出した。
 熱いお茶が注ぎ直される気配と感触を確かめながら、僕は言葉を続けた。

「そういえば、人間以外にも施術をしたなぁ」
「……そうなんだ」
「うん。足を痛めたワーラビットとか、むち打ちになったつぼまじんとか、お乳の出が悪くなったホルスタウロスとか」

 と、そこでソフィーから放たれる気配がサっと変わった。

「ふ〜ん……お乳の出が悪くなった、ホルスタウロス、ねぇ?」
「え? どうしたの?」
「いやぁ〜? 別にぃ〜? ただちょっと、デカい乳を揉んだり鍼を刺したりしてニヤニヤしてる、気持ちの悪いあんたの顔が想像出来ただけよ」
「……ヤキモチですか?」

   ゴキぃっ!!

「……次は、左右の連打で行くわよ」
「ふぁい。ごひぇんなしゃい」

 殴られた。殴られましたよ、グーで。拳で。
 痛い。超、痛い。クラクラする。

「で? 結局その旅はどれくらい続いたの?」
「こねぇんひゃん」
「はぁ? ハッキリ喋んなさいよ!」
「んぐっ……五年半。頬っぺたが痛くて、喋りにくかったんだよ」

 僕の文句を、ソフィーは「あんたが悪いのよ」という一言で切り捨てた。
 すると会話はそこで途切れ、今日何度目かの沈黙の時間が訪れた。
 けれど、うぅ……殴られた勢いで口の端が切れたのかな。熱いお茶が沁みる。
 今回の沈黙は、あまり芳醇な時間じゃないなぁ。

「……今、何か余計なこと考えてんでしょ?」
「ひょ、そんな事はないよ?」
「……何よ、『ひょ』って」

 そしてソフィーは、やれやれと言わんばんりの調子で大きなため息をつき、肩をすくめた。

「そんな勢いで肩をすくめなくてもなぁ」
「あんたが許されざる馬鹿なのが悪いのよ……あぁ、そういえばそれよ、それ」

 ソフィーの言葉に、僕は首をかしげて「何が?」という意思を示す。

「あんた、時々そうやって私の仕草を言い当てるわよね。あと、何かオーラがどうのこうの言って、こっちの調子が悪い所も察知しちゃうでしょ? あれって、どういう事なの?」

 僕を殴り飛ばした瞬間の赤いオーラが消え去り、今は落ち着いた黄色のオーラになっているソフィーが言った。

「あれ? この話はしてなかったかな? うん……じゃあ、その辺の説明もしようか」

 そこで僕は、お茶を少しだけ飲んだ。
 うん。やっぱり、口の端に沁みるなぁ。


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 旅に出て、そろそろ三年という頃。
 僕の目に、一つの大きな変化が生まれた。

「なるほど、それはいつ頃からだい?」

 夜、宿屋の部屋で僕の説明を黙って聞いていた先生が、興味深げな声で言った。

「三ヶ月ほど前から……でしょうか。きちんと意識を集中して患者さんと向き合うと、ぼんやりとですが、その人のオーラやシルエットのようなものが見えるんです。あと、患部が変色して見える事もあります」
「ふむ。それは、実に意味のある発見だよ」
「そうでしょうか……? 正直、自分としても半信半疑な感覚なのですが」

 僕は自分自身の感覚に確信を持つ事が出来ず、モジモジしながらそう答えた。
 実はこうして先生に告げる事にも、かなりの勇気が必要だったのだ。

「いいや、君はもっと己の目と術に自信を持つべきだ。鍼灸師がおっかなビックリの状態では、患者さんに要らぬ心配や負担をかけてしまうよ? そこは、君の直すべき悪癖だね」
「……はい。申し訳ありません」

 僕の言葉に、先生が深くうなずいた気配を感じた。

「話を戻そう。患者さんのオーラやシルエットが見える。あるいは、患部のオーラが変色して見える……それは、素晴らしい事だね」

 僕は曖昧な返答を控え、先生の次の言葉を緊張しながら待った。

「実は、私の師がまさにそうだったんだ。彼は生まれつき盲目の人物でありながら、患者さんのオーラを診て心身の状況を察し、その色合いや強さ、大きさから何も言われずともピタリと問題点を探り当てていたんだよ」
「先生の、お師匠様が……ですか」

 椅子に座っていた先生が、静かに足を組みかえる気配がする。

「もちろんそれだけではなく、打診、触診、脈診の腕も超一流ではあったけれど……もしかすると君は、私の師に並ぶ鍼灸師になれるかも知れないよ?」
「そっ、そんな、僕なんてまだ一人じゃ何も出来ない程度の人間です!」
「いや、志や目標を高く持つ事は大切だよ。目指す壁が大きくとも、それを乗り越える意思がある限り、人は高く飛べるものだからね」

 そこで先生は、言葉を切った。
 外を吹く風が、部屋の窓をガタリと揺らす。

「師は、私によく言っていたよ。『鍼灸師として、患者さんに真心をもって接すること。相手を自分の親兄弟、子供だと思って尽くすこと。それが私にとっての【見るという行為】だ』とね」
「見るという、行為……」
「そう、【見るという行為】だよ。君に、私の師のこの言葉を授けるよ。さぁ、今日はもう遅い。そろそろ休もうか」

 そして僕達は、それぞれの床についた。
 だけど僕は、なかなか眠りにつく事が出来なかった。
 先生と先生のお師匠様の言葉が、グルグルと頭の中を駆け巡っていた。

 僕はまだ、自分の力や可能性をきちんと信じる事が出来ない。
 けど、もしかしたら、自分には何かしらの前向きな力があるのかもしれない。
 それは、かすかに感じ、見え始めたオーラの事なのかもしれない。
 それは、先生から伝えてもらった【見るという行為】の意味や形なのかもしれない。

 自分自身に対する、大きな期待と不安。
 やっぱり今日は、なかなか寝付けなくなりそうだ……。


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「あの……ところで、さ」
「うん? どうしたの?」

 ソフィーが緊張気味の声で、何かを言いたそうにしている。

「その、きょ、今日はこれからどうするの? 帰っちゃうの?」
「あぁ、う〜ん……そうだなぁ。もう夜も遅いよね」
「そ、そうね。もうそこそこの時間よね。外なんて、真っ暗よね」
「うん。なら……迷惑じゃなかったら、泊めてもらってもいいかな? 明日は安息日で、仕事も休みだし」

 僕の言葉に、彼女のオーラがぱっと華やいだ色になる。

「しょ、しょうがないわねぇ、ま、まったくもぅ。未婚の女の家にこう何回も泊まる男なんて、あの、その、ちょ、ちょっと非常識よね。うん」
「あ〜、それもそうだよねぇ。じゃあ、今日はそろそろお暇しようかな」

 僕がそう言って椅子から腰を上げかけると、彼女は心底慌てたような様子で何やらドタバタと音を立て始めた。

「あ、え、いやいやいや。そういう意味で言ったんじゃなくて、あの、あれ? どういう意味なのよ? ん? いや、だから、とにかく違うのよ!」
「違うの?」
「そう、違うの。あんたは別に、気にしなくていいの。だから、座ってなさい」

 彼女の両腕が僕の両肩をグイと掴み、そのまま強引に再着席させる。
 その予想外の力に、僕は思わず「うぉっと」と声を漏らしてしまう。

「え〜っと、これからどうしようかしら。あ、まずは夕飯の準備よね。あと、お風呂も入れなきゃよね。その他は……あぁ、あんたの寝床の準備だ。うん、色々動いていかなきゃ」

 彼女のオーラの色が、何だか楽しげにコロコロと変わっていく。

 先生と共に旅をしていた頃よりも、僕の目は様々なオーラやシルエットを捉えられるようになっていた。
 とはいえ、まだまだそれは完璧な領域にはない。
 相手がこちらを信用していなければ何も見えないし、自分自身の体調が悪くてもいけない。
 以前はよく見えていた人が、今日になったら何も見えなくなっていた……という事もある。
 そうした色々な事が起こる度、僕は自分自身の力不足と修行不足を恥じ、もっともっと研鑽と修練を積まなければと思うのだった。

「ねぇ、あんたって嫌いなキノコとかある?」
「いいや、キノコは大好きだよ。大丈夫」

 そんな物思いにふけっていた僕へ、ソフィーが台所から声をかけて来る。

「僕にも何か手伝える事とか、あるかな?」
「あぁ、別にいいわよ。あんたはそこで大人しく座ってなさいな」

 彼女の言葉に、僕は素直に「は〜い」と答えた。
 ごそごそ動いて、せっかくの好意に泥を塗るような真似をしても悪い。

 僕はカップの中に少しだけ残っていた二杯目のお茶を飲み干し、再び過去の記憶と向き合った。


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「あれ……間違って脇道に入っちゃったのかな。これはマズいぞ」

 十ヶ月前の、ある日の夕方。
 往診に出かけた隣村からの帰り道。

 あれやこれやと考え事をしながら歩いていた僕は、何やら知らない気配と地面の踏み心地に気付いて足を止めた。

 先生との五年半に及ぶ旅を終え、生まれ育った山間の村へと戻って来て早二年。
 両親に甘えてしまわないよう一人暮らしの家を借り、村の内外からやって来る患者さんと向き合う、忙しいけれど充実した日々。

 そして今日は、隣村の村長さんがギックリ腰になったという知らせを受けて、施術道具が入った鞄と歩行を助ける杖を持って出かけたのだけれど……。

「ん〜。油断してたなぁ。昔は何度も通った道だから、体が覚えてると思ったんだけどなぁ」

 馬車を出しましょうか……と言う村長さんのご家族に、僕は「いいえ、大丈夫です」と答えた。
 村と村を結ぶ道は、何の障害も無い一本道だ。
 強いて言えば、途中、林業を営む人達が使う山への細い脇道が出ている程度なのだが……。

「余計な事を考えてたら、見事にそっちに入っちゃったのか」

 自分自身の間抜け具合に、思わずため息をついてしまう。
 ……とは言え、ここでうつむいていてもどうにもならない。
 脇道をどの程度進み、時折魔物が出るという山へどれほど近づいてしまったのか。
 僕は心を落ち着けて意識を集中し、自分が置かれている状況を察知しようとした。

 足元は、短い草が生えた緩やかな上り坂。
 ……という事は、完全に山の中に入ってしまったという訳ではなさそうだ。

 聞こえて来るのは、夕方の終わり頃によく鳴いている鳥の声。
 ……という事は、そろそろ夜がやって来て、魔物に出くわす危険性が高くなるということだ。

 そして、周囲には背の高い木々があり、動くものの気配は……

「ねぇ、ちょっと」
「ひっ!?」

 突然真後ろから声をかけられて、僕は垂直に飛び上がった。
 確かに、一瞬何かが動いたような気配を感じた。だけど、まさかそれが自分の真後ろにまで迫っているとは、全く予知出来なかった。
 自慢ではないけれど、十二歳からこっち、周囲三百六十度に対する察知能力には自信があったのに……。

 だから僕は、半分パニックになりながら振り返った。
 すると、その声の主もまた、慌てた調子でこう言った。

「あっ、馬鹿っ! こっちを見るな!」
「えっ……!?」

 そして、向かい合った僕と相手の間に、沈黙が訪れた。

「………………」
「………………」

 五秒、十秒、十五秒……。
 杖と鞄をもつ僕の手が、じっとりと汗ばんだ。
 目の前の相手も、なにやら緊張した気配を振りまきながら固まっている。

「あの、さ……」

 先に口を開いたのは、向こうの方だった。
 そこで始めて、声の主が女性である事に気がついた。
 年のころなら、十七、八。少し高めの、若々しくて可愛い声だった。

「あんた……私を見ても、大丈夫なわけ?」
「は……?」

 この人は、一体何を言っているのだろう。
 何だかずいぶんと驚いているような様子だけど、『私を見ても、大丈夫なわけ?』とはどういう意味なのだろう。

「『は?』じゃないわよ。だから、何であんたは平気なのよ?」
「あ、えっと……すいません。仰っている意味が、よくわからないのですが」
「何よあんた、馬鹿にしてんのっ!?」

 突然の怒鳴り声に、僕はビクリと体を震わせた。
 え〜っと……今の会話の中に、相手の女性を怒らせるような部分があったかな?

「こんな妙な時間に、こんな半端な場所で何をしてるのかと思って声をかけてあげたのに。人間風情に馬鹿にされるなんて、私も落ちぶれたものねっ!」
「人間風情って……あ」

 そこで、一つの可能性と危険性に思い至る。
 人間は人間に向って『人間風情』なんて言わない。
 しかし、魔物は人間に向って『人間風情』と言うだろう。
 という事は、今、自分の真正面で怒りの声を上げているこの女性は……。

「……魔物さん、ですか?」
「あんた……とことん私をおちょくる気ね。いいわよ、相手になってあげるわよ。どこの勇者気取りだか知らないけど、このメドゥーサであるソフィー様が八つ裂きにしてあげるわっ!!」

 その言葉で、一気に合点がいった。
 ガラス細工の最後の欠片が、カチリと音を立ててハマったような気分だ。

「なるほど、メドゥーサさんでしたか」
「問答無用よ、この七つの海に響き渡る馬鹿人間っ!」
「申し訳ありません。僕の目は、子供の頃に役目を終えてしまったもので」
「あらそう、あんた目が見え……はぁっ!?」

 そうして再び、僕達二人の間に沈黙がやって来る。

「………………」
「………………」

 僕は、色んな意味で「あぁ、運が良かったなぁ」と思っていた。
 一つは、この目のために、メドゥーサの有名な【石化の瞳】から逃れられたということ。
 そしてもう一つは、メドゥーサが話の通じない魔物ではなく、高い知性を誇るラミア類であるということ。
 これならば、交渉次第で無事に帰れるかもしれない。

「え〜……大変失礼しました。僕は、この先の村でシンキュー師として働いている者です。ご覧の通り目が見えないもので、あなたがメドゥーサさんだと理解出来なかったんです。ごめんなさい」

 僕はそう言って背筋を伸ばし、相手の方向へきちんと頭を下げた。

「あ、これはどうもご丁寧に……」

 すると、相手のメドゥーサさんも先ほどまでとは打って変わった静かな声で応えてくれた。
 が、すぐに何やらプリプリと怒り始めた。

「って、違うでしょ! 何よそれ! ちょっと反則なんじゃないのっ!?」
「反則とは?」
「目が見えないから石化しないって、ちょっとズルいんじゃないっ!?」
「いや、そんな事を言われましても……」

 僕の脳裏に、昔母が読んでくれたメドゥーサ退治の冒険物語が浮かぶ。
 確かあの物語の勇者も、メドゥーサと目を合わさないよう、その姿をピカピカに磨き抜いた盾に映して戦っていたような……。
 もちろん、そんな話を今ここでするべきではないだろうけど。

「いいや、気に入らないわっ! っていうか、あんた一体何者なのよ! シンキュー師なんて、見た事も聞いた事も無いわよ! 何か適当な嘘ついてんじゃないでしょうねっ!!」
「いや、嘘じゃないですよ。僕は、本当にシンキュー師です」
「だったら、その証拠とか見せなさいよ! ほらっ、早くっ!!」

 その言葉に、僕は思わず「え〜……?」と呟いて後ずさりをした。
 何だか、話の流れが滅茶苦茶だ。いや、それ以前にメドゥーサという種族はこんなにもツンツンした性格の魔物だったのだろうか。子供の頃読んだ図鑑には、【ラミアの上位種で誇り高い魔物】と書いてあったような気がするんだけど……。

「う〜ん、わかりました。では、肩の力を抜いて、三回深呼吸をしてください」
「深呼吸ぅ? 何よそれ……わかったわよ」

 何やらぶつぶつと文句を並べながらも、メドゥーサさんはきちんと深呼吸をしてくれた。
 案外、ノリの良い魔物さんなのかもしれない。

(いや、そんな事を考えてる場合じゃないな。ちゃんとオーラを見ないと、素直に体を触らせてくれるような雰囲気じゃないし)

 僕は軽く首を振って雑念を追い払い、正面のメドゥーサさんに集中した。
 彼女が、しっかりとこちらを信用してくれたか否かは、わからない。
 とはいえ、今はこの状況下で最善を尽くすしかない。

「あぁ……」

 そして僕は、安堵と驚きが入り混じった声を無意識に発していた。
 見えたのは、彼女の興味と警戒心が合わさった、不思議な紅色のオーラ。
 女性らしい曲線を描く上半身のシルエットと、太くて長い蛇のような下半身。
 さらに特徴的なのは、頭から何本も生え出て各自バラバラにうにょうにょと動き、こちらの様子を窺っている蛇たち……。

「なるほど、メドゥーサさんですね」
「……ちょっと。こっちを待たせておいて、まだそんな戯けた事を言う訳?」

 怒りを表す鮮やかな赤に変わりかけたオーラに驚きながら、僕はぶんぶんと首を振った。

「いえいえ、明確にわかった事が二つあります」
「何よ」
「はい。まず、あなたは首筋から肩にかけてのコリに悩まされていますね。あと、少し胃が疲れ気味のようです。ここ二日以内に、まとまった量のお肉を食べましたね。違いますか?」
「………………」

 よどみなく並べた僕の見立てに、メドゥーサさんは黙り込んでしまった。
 うん、もう一押しなのかも知れない。

「もしよろしければ、今ここでシンキューの施術を行いますが……どうなさいますか?」

 僕のその言葉に、メドゥーサさんはボソリと言った。

「あんたが何かしたら、治るの?」
「たちどころに完治、とまでは行かないかも知れませんが、症状を軽減、改善は出来ると思います」
「……本当でしょうね」
「はい。一応これでも、シンキュー師としてお代を頂戴して生活してますから」

 極度の緊張と集中を強いられたせいだろうか。
 僕は彼女のオーラを見る事を止め、ズキズキと痛むこめかみを軽く揉みながら、そう答えた。

「じゃあ今から、私の家に来なさい。そこでやってもらうわ」
「はい……って、え!?」
「何よ。まさかこの私に、こんな道端で何かしようと思ってたのっ!?」
「あ〜、いや〜……はい。では、わかりました。お供します」

 今ここで異論、反論を述べたなら、かなりの確率で良くない事が起こりそうな気がする。
 だから僕は、無駄に抵抗せずその提案に乗る事にした。
 ただ、一つお願いしなければいけない事があるのだけれど……

「あの、それと、すいません……お家に到着するまで、手を引いて行ってくださいませんか?」
「はぁっ!? な、何よそれ! ど、どうして私が、あんたの、その、て、手を引いてあげなきゃいけないのよ!」

 あぁ、やっぱり案の定の反応だ。

「初めて歩く場所、初めて向う家ですので……」

 僕がそこまで言うと、彼女は「あ」と小さく声を出した。

「な、何だ、そういう事なのね。いきなり変な事を言い出すから、ビックリしたじゃないのよ」
「はい、ごめんなさい」
「じゃ、じゃあ、ほら、手。出しなさいよ。引いていって、あげるか、ら……」

 威勢の良かった声が、後半に向うにつれてどんどん小さくなっていく。
 僕は、「恥ずかしいんですか?」という問いかけをゴクリと飲み込んで、そっと右手を差し出した。

「……あたたかい人間の手に触れるなんて、初めてだわ」
「え?」
「なっ、何でもないわよ! ほら行くわよ、超絶馬鹿人間っ!」

 そうして僕達は、ゆっくりと歩き出した……。


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「何一人でニヤけた顔してんのよ。気持ち悪いわね」

 ソフィー特製:キノコと鶏肉のクリームソース炒めをご馳走になった後、僕達は再びお茶を飲みながら向かい合っていた。
 ちなみに、お茶はさっきまでとはまた違う種類のものだ。

「いや、ソフィーと初めて会った時の事をね。ちょっと、思い出してたんだ」
「……どうしてそれが、ニヤニヤ笑いにつながるのよ」

 不満げな彼女の声に、僕は思わず笑ってしまう。

「だって、ソフィーの家に着いてからが大変だったでしょ? 僕が体に触ろうとしたらギャーギャー騒ぐわ怒るわで」
「う、うっさいわね! シンキューの事を何も知らなかったんだから、しょうがないでしょ!」

 そう、本当にあの時は大変だった。
 肩に手を置けば「キャア!」と言い、首筋を触れば「ハァン」と喘ぎ、腰と背中を押せば「ムキュウ!」と吼える。
 あぁ、何かこういう種類のおもちゃがあったような気がするなぁ……と、僕は数発のビンタを食らって鼻血を出しながら、しみじみと思ったものだ。

「でも、ソフィーが僕の腕を信じて、気に入ってくれて良かったよ。あの日、あの時の出来事があったからこそ、僕らは知り合えたんだろうしね」
「ふ、フンっ! 別にあんたの事を気に入った訳じゃなくて、シンキューって凄いんだなって感心しただけよ! 実際、肩こりも胸焼けも、一発で治っちゃったんだし!」

 恥ずかしいのか、悔しいのか。
 ソフィーは早口でそう言うと、ズズズ〜っと派手な音を立てながらお茶を飲んだ。


 とにかく、あの日あの場所で僕達は出会い、お互いが何者であるのかを理解し合った。
 初めての施術を終えた後、僕を村まで送り届けてくれたソフィーの言葉を、今もハッキリと覚えている。

「あ、あんたって、なかなか面白い人間よね。これからも、ちょくちょく遊んであげるわ」

 それはまるで、意地っ張りな少女のような一言。
 相手がメドゥーサという、めずらしくて強い力を持った魔物であるにもかかわらず、僕はそんな彼女の事を心底「可愛いなぁ」と思ってしまった。
 だから僕も、素直な気持ちでこう言った。

「はい。僕も、ソフィーさんとお話がしたいです。また遊んでください」
「う、うん。良いわよ。そこまで言うなら、し、仕方ないもんね。私の方から誘ってあげるから、ありがたく思いなさいよ!」
「ふふふ……はい。よろしくお願いします」

 「な、なに笑ってんのよ!」という彼女の声を聞きながら、僕はそのオーラを見た。
 彼女の全身から放たれているのは、まるで太陽のように輝く美しい光だった。


 そして……翌日から、僕は彼女の有言実行ぶりを実感する事になった。

 天気の悪い日や僕が忙しい日以外、ほぼ毎日のように彼女は遊びにやって来た。
 近隣の村へ往診に出かける時は、いつの間にか僕の横にいて往復の道をエスコートしてくれた。

 そうして僕達は色々な事を語り合い、教え合い、笑い合った。
 ずっとずっと長くお互いを知っていた幼馴染のように、余計な遠慮を無くしていった。

 ただ、彼女は常に注意深く、僕が一人きりである事をしっかりと確認したうえでやって来た。
 ある時、とても寂しそな声で、彼女はこう言った。

「この国の人間は、魔物に優しい。お互いにいがみ合う事の無い、素晴らしい関係だわ。でも、私はメドゥーサなのよ。私は、ただそこにいて、人間と目を合わせただけで害を与えてしまう、そんな魔物なの。だから、他の子達のように大っぴらには振舞えないし、振舞うべきでもないのよ」

 そんな彼女に、僕は何と声をかければ良いのかわからなかった。
 気の利いた事の一つもいえない自分自身が、本当に情けなかった。
 だけど、それでも、僕は勇気を振り絞ってこう言った。

「でも僕は、ソフィーと一緒にいると楽しいよ。だから、僕と一緒にいる時は、自然なソフィーでいて欲しいんだ。何の遠慮も、心配も、要らないよ」
「……馬鹿」

 ソフィーは、僕の額にこつんと拳を当てた。

「そんなセリフ、あんたにはちっとも似合わないわよ。格好つけるな、馬鹿」
「あぁ、やっぱり駄目だったかな? 僕の本心なんだけど、クサかった?」
「えぇ。超、クサかった。もう大変よ」

 そして僕達は、アハハと声を出して笑いあった。

 だけどその後に、ソフィーが小さな小さな、本当に小さな声で「ありがと」と言ってくれたような気がするのは、僕の聞き間違いだったのだろうか……?


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「先生……長い間、本当にありがとうございましたっ!!」

 五年半に及ぶ旅の終着点は、始まりの場所……僕が生まれ育った、この山間の村だった。
 かつてと同じく、三ヶ月間の診療所開設を終え、先生は次の目的地へと旅立つ事になった。

 千の言葉でも語りつくせない、感謝の涙。
 抑えようとしても溢れ出す、惜別の涙。
 明日から始まる新しい日々に対する、期待と不安の涙。

 常日頃は仕事をしていないくせに、こんな時だけせっせと涙を送り出す自分の目が、何だかとても恨めしかった。

 先生は、いつもどおりの優しい気配で言った。

「君はこの五年半で、本当に成長したね。私は、良い弟子に恵まれたよ」
「ありがとうございます……」

 涙を流し続ける僕の両肩にそっと手を置いて、先生が言葉を続ける。

「では君に、私から最後の言葉を贈るよ。【医は仁術なり】。これから先、いついかなる時も、この言葉を忘れないで欲しい」
「はい……医は仁術なり」

 復唱する僕に、先生は「そうだ」と言った。

「私が生まれ育った東方の国で長く使われ、今なお信じられている信念の言葉だ。命ある全てのものに、愛と慈しみの心を。己の欲にとらわれるのではなく、世のため人のための汗を。そして、人生最後の日まで学び、感謝する事を忘れぬ魂を。それを君には持ち続けて欲しいんだ」

 もう僕は、言葉で答える事が出来なかった。
 ただ力いっぱい、先生の声に頷くだけだった。

「これで、私から教える事は最後だ。そして、君に『ありがとう』と言わせてもらうよ。君と出会い、君と共に歩み、君に教える事によって、私自身も様々な事を知る事が出来た。あの日、この村で君と出会い、鍼灸の道へ呼んだのも、君と私の仁の道が生んだ必然だったのかも知れないね」

 そうして僕と先生は、別れの握手をした。
 ふと気がつけば、僕の両親もやって来ていた。

「先生には、本当に何とお礼を申し上げればよいのか……」
「本当に、本当に、ありがとうございました……」

 そう言って深々と礼をする両親とも、先生はしっかりと手を握り合った。

 先生が歩いて行った夕暮れ時の道と、僕達家族はいつまでも向き合っていた……。


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「……夢を見たよ」
「へぇ、どんな?」

 翌朝、食事を済ませた僕達は、安息日の緩やかな時間の中で向き合っていた。

「旅を終えて、先生と別れた日の夢」
「あぁ……え〜っと、【医は仁術なり】って話だったっけ? すっごく大きなテーマの」
「そう。まだまだ僕には、その仁術のかたちすら見えないよ」

 そう言って僕は、う〜んと大きく伸びをした。
 だけど、その言葉ほど焦ってはいないし、もちろん諦めてもいない。

 今の僕には、明確な生きる意味と目標がある。
 先生から授かったシンキューの道を通じて一人一人の患者さんと向き合い、より良い今を、より良い明日を、一緒に作り出して行きたい。

 成功する事もあるだろう。失敗する事もあるだろう。
 感謝される事もあるだろう。非難される事もあるだろう。
 僕は、その全ての出来事と、喜怒哀楽と、真摯に向き合って行きたい。
 それが、今の僕の生きる道であり、僕なりの【見るという行為】なのだ。


 あと……一つだけ希望があるとするならば……。


「ねぇ、ソフィー」
「ん? なに?」

 僕は彼女の名を呼び、五感全てを澄ませた。

 耳に届くのは、パチパチと火の粉がはぜる音。
 肌に感じるのは、その火元……暖炉からやって来る、優しいぬくもり。
 そして目に映るのは、どこまでもぼんやりとした意味を成さない何かと、頬杖をついている彼女が放つ、暖かな橙色のオーラ。

 昨日の夜、彼女の肩を揉みほぐしていた時と変わらない、穏やかな時間。

「この冬が終わって、春が来たら……一緒に暮らさないか?」
「え……」

 彼女のシルエットが、魔法にかけられたように動かなくなる。

「ば、馬鹿じゃないの……な、何言ってんのよ……」
「うん。僕は馬鹿だから、一人だと挫けたり、道を踏み外したりするかもしれない。だから、ソフィーにそばにいて欲しいんだ。好きな人に見守ってもらえれば、きっともっと頑張れるだろうから」

 そこで僕は言葉を切り、腰掛けていた椅子にきちんと座りなおした。
 そして、胸を張って告げた。

「僕と結婚して欲しい」
「あ……」

 ガタンと音を立てて彼女が立ち上がる気配がした次の瞬間……。

「ん、ソフィー……ちょっと、苦しいなぁ」
「グスっ……う、うるさぁい! ばかぁ!!」

 僕はソフィーに、全身で抱きしめられた。
 上半身は、彼女の腕と体に。下半身は、彼女の蛇の部分に。
 今、この状況を第三者が見たなら、『椅子に座っていた哀れな人間が、一瞬の隙を突かれてメドゥーサに絞め殺されている』ように思うだろう。

「いきなり、変なコト言うな、馬鹿……」
「いや、変なコトを言ったつもりは無いんだけど」
「だ、だいたい、もうちょっとムードとかタイミングとか、あるでしょ? 何でこんな、朝のまったりした時間の中で、しかも唐突に言うのよ!?」
「あぁ〜……確かに。それはそうだねぇ」

 僕の首にしがみついたまま、ソフィーが苦情を並べ立てる。
 口を動かしている間に気持ちが高ぶってしまったのか、声も大きくなって来た。正直、ちょっと耳が痛い。

「良いお酒と美味しい食材を持って来て、それを二人で食べながら最後に指輪を出して……とか、そういう方が良かったかな?」
「当たり前よ、馬鹿。本当にあんたは、バケツ百杯分の大馬鹿人間よ!」
「でも、ソフィー……」

 大きな涙声で怒っているソフィー自身とは、正反対の反応を示している集団。
 それは、彼女の蛇の髪。
 ソフィーが僕を抱きしめた時から、彼ら彼女らは遠慮なく僕の頭や額や頬にキスの雨を降らせている。
 「私って、感情が顔じゃなくて髪に出るタイプだから」という、いつかのソフィーの言葉を思い出す。

「じゃあ、さっきのは無しで、また今度日を改めて言おうか?」
「ダメよ! 簡単に前言を取り消す男なんて、最低よ!」
「確かに。だったら、どうしようか?」
「……せ、責任、とってよ」

 触れ合っているソフィーの頬が、かっと熱くなる。
 それと同時に、蛇達の動きもキスから頬擦りに変わる。

「こ、この私に結婚して欲しいだなんて言った事と、こんなに私を驚かせた事の責任! ちゃんと取ってもらうんだからね!」
「……うん。どんな風に?」

 そう問いかけた僕の顔を、ソフィーが両手で力強く包み込む。

「メドゥーサは……って言うか、私は、寂しいのが嫌いだから、一人にしないでよね」
「ゆん、ひってゆ」

 彼女に両手を添えられているから、必然的に変な喋り方になってしまう。

「あと、浮気とかしたら、相手ごと殺しちゃうから。か、覚悟してなさいよね!」
「ゆん。れも、ひんりゃぬのにょきは……」
「何言ってんのか、わかんないわよ……」

 そこで彼女もこの状況に気付いたのか、添えていた手をパッと放してくれた。

「んぐ。浮気なんて、するつもりはないよ。でも、診察の時は女性の体を触る事になるけど……それは了承してくれるんだよね?」
「む……うぬぬぬ……」

 僕の言葉に、ソフィーは苦々しげな唸り声で応えた。
 そして十秒ほど黙り込んだ後、僕の両肩をバシバシ叩きながらこう言った。

「仕方が無いから、それは許してあげるわ」
「うん、ありがとう」
「ただし! 他の女の三倍、私にも触れること! この世で一番あんたに触って、好き勝手できるのは、他の誰でもない私なんだからっ!」

 自分で言っていて恥ずかしくなってしまったのだろうか。
 ソフィーは僕の頭を胸の中に掻き抱いた。
 すると、僕の顔全体が彼女の豊かな胸に包まれ、嬉しいやら苦しいやら……。

「責任、取りなさいよね。その……死ぬまで、私のこと、え〜っと……」

 僕は彼女の抱擁を静かに解き、きちんと瞼を開いて、言った。

「愛することを誓うよ。僕は、ずっと君と一緒にいたい」
「うっ……グス……ううぅ……うわぁ〜ん……っ!!」

 そしてソフィーは、子供のように泣き出した。
 僕はその涙の温度を感じながら、彼女の体をそっと抱きしめた。

「ずっと寂しかった……あんたと出会えて、嬉しかった……グスん……すぐ大好きになったのに、何も言い出せなくて……」
「うん」
「あ、あんたが悪いんだ、からね……私はこんなに好きだったのに……ひっく……鈍感……朴念仁……無神経……うぇ〜ん……!」
「うん。ごめんね、ソフィー。でもこれからは、ずっと一緒だから」

 彼女が泣き止み、落ち着くまで、僕はその体をしっかりと受け止めた。

 そうして数分の時間が流れ……たぶん泣き腫らした赤い目になっているであろうソフィーが、きっぱりと宣言した。

「私は、もう待つのはイヤ。春までなんて、待てないし待たない! あんたは、今日からここで、私と一緒に住むの!」
「えぇっ!? いや、それはちょっと、引越しの準備やら何やら、色々あるし……」
「ダメっ! 色んな事は私も手伝うから、とにかくあんたは今日からここに住むの! 愛する奥さんの命令が聞けないのっ!?」

 普通、奥さんは旦那に『命令』を発さないと思うけど……という言葉を飲み込んで、僕は苦笑いと共に頷いた。
 まぁ確かに、奥さんのわがままに応える事も、旦那の甲斐性なのかもしれないし。

(うん。でも、これは少し危険な兆候かもしれないなぁ。尻に敷かれる自分自身が見えるような気がするぞ)

「……また何か、余計な事を考えてんでしょ?」
「……いいや、そんな事は無いですよ?」

 鋭い指摘にたじろぎかけ、しかしきっちりと彼女にぐるぐる巻きにされたまま、僕は言葉を返した。

「じゃあ、今日からよろしくね、ソフィー。愛してるよ」
「えぇ、よろしくしてあげるし、愛してあげるわ。……本当に大好きよ、馬鹿」


 そして僕は、目を凝らす。

 見えたのは、惚れ惚れするほど美しい桜色の光。
 それは、僕が愛する、意地っ張りなメドゥーサの光。

 これまでも、今も、これからも。
 僕達の人生は、きっと素敵で悪くない。



╋╋╋ ━━━━━━━ ╋╋╋ ━━━━━━━ ╋╋╋



 もしもあなたが、体調不良に悩んでいるのなら、山間のあの村を目指すといい。

 そこには、若いけど腕の立つシンキューの先生と、

 気立ての良いメドゥーサの奥さんがいる。

 何泊かして、綺麗な田舎の空気と美味しいものを食べて、先生の治療を受けて来なよ。

 本当に、驚くほど元気になれるから。

「目がこうなってから、『さてどうしよう』と思う癖を自分自身につけたんだ。

 出来ないこと、不便なこと、不安なこと、辛いこと、
 その他にも色々あるけど、それを踏まえて『さてどうしよう』と。

 そう考えて努力すると、人生って案外上々になるもんだよ」

若き日の事故で視力を失った、今は亡き親類の言葉。

「なるほど」と思う部分もあり、
「強いな」と思う部分もあり、
「真似できないなぁ」と思う部分もあり……。

人間や人生って、本当に奥深いですよね……と思う、2010年の初頭です。

10/01/08 09:59 蓮華

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