読切小説
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魔女と男







 なにこれ。

 今まで誰も踏み込ませなかった領域まで入り込んだ人間。
 黒い外套を羽織った男は、たった一人で森の中を呑気に歩いていた。
 その姿を見つけた途端、私は排除するどころか身体の痛みすら忘れて、梢の上で固まってしまっていた。

「たらららららららら〜

 無乳 貧乳 微乳 美乳
 余乳 巨乳 魔乳 覇乳
 八組ぃ〜の乳を選ぶとしたら
 君ならどれが好きぃ〜

 巨乳!

 巨乳好きは自分に素直
 思った事は隠せない でも
 理想と現実だ〜いぶ違うから 夢から覚めなさい〜」

 ええと、その。
 本当に何?

 小鳥たちの囀りでもなく、木々のざわめきでもなく、なんとも表現し難い言葉が森の中に流れていた。

 その、余り認めたくはないのだが。
 どうやら歌っているらしい。

 歌と言えば心を慰める癒しであるはずなのに、人間が口にしている歌といったら――

「おっぱいチョイスのセンスで
 その後の人生は 大きく左右されます
 まるで 左右のおっぱいのように」

 なんてひどい歌詞だ。
 女性の乳房について明け透けに口にして、恥じ入りもしないなど。
 こんな、破廉恥な歌を。
 ……破廉恥な歌なんて。

 私はつい、自らの胸元に視線を落としてしまっていた。
 今まで乳房の大きさなど気にも留めた事もなかったが、ふと気になった。

 私の胸は、人間が挙げた評価の中ではどの位置に値するのだろう。

「貧乳!」

 突然声を張った人間にどきりとした。

「貧乳好きぃ〜は中途半端 好みとしてぇ〜は中途半端」

 思わず胸を隠した私に気づいた様子もなく、人間は続きを歌っている。
 歌詞と台詞が交互に入り混じる奇妙な歌なので、偶然重なっただけだろう。
 
 どうかしている。

 私はため息をつきながら矢筒から矢を一本取り出す。
 ここに来る途中で樫から分けてもらった枝。
 弓に番えて、弦を引く。
 腕はずくずくと痛むが、弓を引けない程ではない。

 どうやって私に――森に気づかれる事なくここまで入り込んだのか。
 生け捕りにして、森の外に捨てる際にでも聞き出してみよう。
 人間にこの場所まで侵入を許してしまった事には変わりないのだから。

 あれと話すのか。
 ……嫌だなぁ。

【ド ノト カレ アト アルル スタグ ホオヴ】

 憂鬱な気分でオドを振り絞り、鏃に牡鹿の蹄をあしらえる。
 背負った荷物越しに当てれば、命に別状もないだろう。
 一撃で気絶させて、後は簀巻きにでもしてしまおう。
 何をするか判らないし。

 無警戒な人間を背後から狙い撃つなら、森の力を借りるまでも無い。
 油断し切ったその背に狙いをつけて、私は片目を閉じた。

「無乳好きは卑屈過ぎます 自分に自信がない証拠です」

 私は一呼吸息を止め、引き絞った矢を放った。

「おっぱいは決して――」

 黒い外套がはためき、不意を打たれた人間は破廉恥な歌を遮られてそのままばたりと――

「怖くな〜い」

「……え?」

 私は耳を疑った。
 目を見開いて人間の様子を確認する。

「勇気を持て下さい〜」

 矢が当たる直前まで呑気に歌っていて――いや、今も歌っているのだけれど。
 とにかく、何の警戒もなくただ歩いていただけだ。

「ラ〜ラララ〜ラララ〜ラララ〜ラ」

 私はその背中に確かに矢を射掛けたのに、今も立ったまま歌い続けている。

 ……矢をかわした?
 いや、かわしたなら込めた魔力は人間とは別のものを打っていたはずだ。
 魔力が弾けるその痕跡もなく、矢が止められた。
 どうやって?

 私は混乱していた。
 目にした事実が信じられずにいたが、振り返った人間が手にしている物を確認して、理解せざるを得なかった。

 人間を地面に打ち伏せるはずだった樫の矢が、その手に握られていた。

 例え魔力を込めようと矢は矢だ。
 勢いが止まれば地面に落ちる。
 でも、けれど。

 矢を素手で掴んで止めるだなんて。

 私はそれを理解しても尚信じられずに、何度も瞬きをした。
 人間はもう歌っていない。
 掴んで止められた矢はすでに樫の枝葉以外の何物でもなく、込めた魔力も当たらなければ雲散霧消するだけ。

 人間は手にした枝葉をまじまじと見入っていたかと思うと、不意に顔を上げた。
 黒い、柘榴石のような瞳だった。

 ……?

 人間の首は添え木でも当てて固まったように固定されている。
 じっと、こちらを見つめている。
 目が合っているような気がするのは、偶然なのだろうか。

 ま――まさか。

 普段より近づいているものの、それでも三〇〇歩は距離を置いている。
 しかもここは見通しの悪い森の中。
 木々が張り巡らせた枝葉に身を隠す私を、人間が見つけられるはずがない。

 それでも人間はぴたりと私に視線を合わせたまま、硬直したように動かない。
 その不自然な様子は、こちらを見つけて窺っているように思える。
 じっと、柘榴石に似た瞳が私の視線を捉えて離れない。

 もし、万が一にでも私を見ているのだとしたら。
 あの人間は一体何を考えているのだろう。

 お互いに次の動向を窺う余り、膠着状態に陥ってしまったような。
 私の緊張を嗅ぎ取った森が息を潜め、この場の空気が細く張り詰めていくのが判った。

 先に視線を外したのは人間の方だった。
 樫の枝葉を手にしたまま、再び歩き出す。
 私が潜む枝葉の奥まで届く声で、歌いだした。

「セ オセア ダイ イ メト ア ベアール」

 ……これって。

「ア グレアト ビグ ベアル ア ワイ ウプ セレ」 

 エルフ語?

「ヘ ロオケド アト メ イ ロオケド アト ヒム」

 間違いない。

「ヘ シゼド ウプ メ イ シゼド ウプ ヒム」

 聞き間違えるはずがない。
 私が最も慣れ親しんだ言葉で、人間は歌っていた。

 私は人間が口にした歌詞を頭の中で反芻する。

『ある日熊と出くわした
 かなりでかい熊に 道の途中で
 熊は僕を見て 僕も熊を見た
 熊は僕を見定めて 僕も熊を見定めた』

 私が歌詞を追っている間も、人間は歌を続けている。

「ヘ サイス ト メ “ウフイ ドンート ヨウ ルン?”」

『熊は言った “逃げなくて大丈夫?”』

 完璧な発音のエルフ語が森の中に響く。

「“カウセ イ カン セエ ヨウ ハヴェ ノ ボウ”」

『“だって君は弓を持っていないみたいだから”』

 耳を疑うほど流暢なエルフ語の歌は、絶句するほど音痴だった。

「イ サイ ト ヒム “サトース ア ゴオド イデア”」

『僕は熊に言った “そりゃいい考えだ”』

 それでも人間は気にも留めずに歌い続ける。

「“ノウ レトース ゲト ゴイング ゲト メ オウト オフ ヘレ!”」

『“それじゃ早速逃げるとしよう!”』

 調子外れで、音程はちぐはぐで、けれど朗々とした声でエルフ語の歌が続く。
 こちらに背中を向けて歩き出した人間を見失わないよう、私は距離を保ったまま隠れて追った。

 破廉恥な歌を歌っていた人間。
 矢を手で受け止める人間。
 柘榴石のような黒い瞳の人間。
 完璧なエルフ語を喋れて、致命的に歌が下手な人間。

 人間は他のエルフ語を知らないのか、繰り返し繰り返し同じ歌を歌い続ける。
 歌詞は、森を手ぶらで歩いていた人間が熊から遁走する内容だった。
 その下手な歌に耳を澄ましながら、熊から逃れる為に枝を掴もうと跳び上がる歌詞のくだりを想像して、私の頬が緩んだ。

 歌が余りにも下手過ぎるから、歌詞の中で逃げる人間も追う熊にしても、滑稽な姿でしか思い浮かべられなかった。 

 折角歌詞はまともだというのに、歌い方で台無しだ。
 そう言えば、初めに人間の言葉で歌っていた時も、その歌詞の破廉恥さにばかり意識が向いていたが、決して上手くはなか

った気がする。
 何もかもがちぐはぐな人間だった。

 行動にしてもそうだ。
 森の外周から私の生活圏にまで足を踏み込んでいながら、それ以上奥地へと向かう様子はない。
 歌いながらのんびりと歩き、辺りを見回しては時折足を止める。
 何を見ているのかと覗くと、森に咲く花や草木、小さな虫などをじっと見つめている。
 そしてまた唐突に歩き出す。

 まるで気ままに散策でもしているようだ。
 
 これが例え呑気な散策であろうと、さらに奥へと進むようなら私は直ちに二射、三射と射掛けていた。
 私もただの間の抜けた人間だとは思っていない。
 風を切って迫る矢を素手で掴むなど余りに非常識だ。
 そんな人間がただの人間であるはずがない。
 油断しているつもりはないが、それでも力づくで取り押さえようという気は起きなかった。

 それは多分、人間が細心の注意を払って歩いているからだろう。
 草木を刈り取る事もなく、いたずらに傷つけようとしない。
 森の中に踏み込んでくる今までの人間とは、明らかに毛色が違っていた。

 何より聞くに堪えないこの歌が、私を引き寄せてやまない。
 懐かしいエルフ語が、私の内側に巣食っていた怒りや恐怖を和らげていた。



 人間は歩き続けるうちに、とうとう私が夜を過ごす寝床にまで辿り着いてしまった。

 少し開けて陽光が直接大地を照らし、下生えの草花が地面を色鮮やかに埋めている。
 地中に蓄えられた豊かな水が湧き出した、泉の畔。
 風変わりな人間が、この場所がそうだと気がついたかどうかまでは判らないが、興味は引いたようだ。

 調子外れの歌声が止み、人間は足を止めてじっと泉を見つめていた。

 何かする気だろうか。

 私は木陰に身を潜めて、動きを止めた人間をじっと観察した。
 人間は背負っていた荷物をどさりと地面に降ろし、外套を脱いで丁寧に畳むとその上に置いた。

 ふと嫌な予感が頭を掠めた。
 人間はざわつく私の胸の内など気がついた様子もなく、躊躇いもなく身につけた衣服を脱ぎ出した。

 ここで水浴びをするつもりなのか。

 それ自体は珍しい事ではない。
 私も良く泉の水で身体を清める。
 人間は体臭もそうだが鉄の匂いを強く纏わりつかせているので、そういった事とは無縁だと思っていた。

 私が良く浴びる水に、人間が――しかも男が!――身体を浸す。
 想像した瞬間、何やら名状しがたい感情に襲われた。

 人間はその間もてきぱきと脱いだ衣服を丁寧に畳んで、肌を晒す。
 躊躇いというものが感じられないその行動は、樹上にいる私の事に気がついていないようでもあり、記憶に残る黒い瞳の為

そうとも言い切れない。

 今ここで仕留めてしまった方がいい?
 いや、けれどこれが誘いだとしたら?
 私の位置を探る為の罠では?
 この人間は、どこか得体が知れない。

 疑心暗鬼に陥ってどうすべきか決めあぐねている内に、人間はすでに上半身の諸肌を晒していた。

 エルフとは似ても似つかない身体つきだった。
 エルフの男性の裸体をじっくり見た事などないのだが、肌を露出した事で筋肉や肉付きの違いが露骨に浮き上がって見える


 褐色に焼けた肌に、幾つかの傷があるのも見つけた。
 骨太でがっしりとした体躯は、エルフにはない無骨さと逞しさを持っていた。
 思わずまじまじと凝視してしまい、私は自分がしている真似に気づいて恥じ入った。

 人間の裸体に興味を引かれるなんて。
 はしたない。
 下劣だ。
 集落から離れたとはいえ、私は高潔な森エルフだというのに。

 居心地の悪さを感じたものの、この場から離れる訳にも行かない。 
 幾ら今の所害意を感じられないからと言って、人間を森の奥で野放しにする理由にはならなかった。
 この、なんとも留まり辛い空気に耐えねばならなかった。

 人間の男は、そんな私をせせら笑うように腰帯に手を伸ばした。

 し、下も脱ぐつもり!?

 私は思わず叫んでしまいそうになり、慌てて口を塞いだ。
 狼狽の余り肘がトネリコの枝にこつんと当たり、わずかに葉擦れ音がざわめいた。

「……」

 気づかれただろうか。
 男は動きを止めていたが、再び腰帯を解きだした。

 気づかれていないようだが、だからといって安心など出来るはずがない。
 私は息を殺して戦慄した。

 水浴びをするなら、今のままの格好ですればいいのに。
 手ですくって身体を濡らすとか、何かを濡らして拭くとか。
 それなら何とか――我慢は出来ないかもしれないけど。
 それでもどちらかを選ぶしかないとなれば、前者の方がいい。

 だって、その。
 下まで脱いだら……見えてしまう。
 見えたら、その、ええと。
 こ、困るっ。

 顔が熱い。
 自分の想像で頭が火照る。
 血が昇り巡って、耳の先まで熱くなっているのが判る。
 私はこれ以上はとてもではないが見ていられなくなって、視線を地面に下げた。

 どぎまぎと俯く私の耳に、ぱさっと衣服が落ちる音が届いた。

 脱いだ、脱いだ、本当に脱いでる。
 どうしよう。

 胸の鼓動は、今や慌しいこま鼠の狂騒のようだ。
 口の中がからからに乾いているのは、緊張の為か。
 唾を飲もうとして、この状況で喉を鳴らすなど破廉恥極まりないのではないかと思い至り、留まった。

 もう視線を上げる事も出来ずに、私は肩を縮めて羞恥心に耐えていた。

 さくさくと草を踏む音が聞こえる。
 泉に向かっているのか。
 離れてはいても、意識を尖らせて集中しているので聞き取れる。
 私はあの男を見張る必要があるから意識を向けているのであって、決して好奇心だなんて。

 段々何を考えているのかも良く判らなくなってきた。

「こんにちは」

 私が石になったように固まっていると、太い声が聞こえた。

 間違いない。
 あの男の声だ。
 散々下手な歌を聴かされてていたので間違えるはずがなかった。

 けれど。
 こんにちはって、なに?

「俺の名前はMBという」

 あの男は誰に話しかけてるの?

「こちらは丸腰だ。そちらへの敵意はない。出来れば話がしたいのだが」

 丸腰?
 敵意はない? 
 話?

 唐突に理解した。

 身につけていた物を全て脱ぎ去ったのは、水浴びをする為ではなかった。
 武器を持たない事を、身をもって知らせる為。
 こちらの所在を承知の上で、あの男は警告なしに射掛けた事に悪態一つつかず、無防備な背中を見せていた。

 掛けられた言葉に答えるべきなのか、見過ごすべきなのか。

 男はそれっきり口を開こうとしない。
 今はもう気のせいだなどと思い過ごせない程、明確に視線が向けられているのが判る。
 催促どころか促す事もなく、ただじっと私の反応を待っている。
 脳裏にあの柘榴石のような黒い瞳が浮かび上がった。

 人間への怒りと、不信感と、恐怖。
 それらを呑み込むにはそれなりの時間を要した。

「……シーリス」

 結局決め手となったのは、エルフとしての誇り。
 相手が名乗っているというのに名乗り返さないなど、恥ずべき行為だ。

 私が名乗ってから、一拍の沈黙を挟んで再び男が口を開く。

「すまない。良く聞こえなかったのでもう一度頼む。聞き逃さないよう近くに行ってもいいか?」

 近くに?
 それって――

 答えるよりも早く、さくさくと草を踏む足音が私に近づいてくる。

「ま、ま、待って! 来ないで! 判ったから、もう一度言うから!」

 私は混乱の極みに達して叫びながら、足音の方角から顔を背けて目を手で覆った。

 さく、と足音が止まった。

「今度は良く聞こえた」

 低くはっきりとした男の声は、危うく樹の上から転げ落ちそうになっていた私の元まで、腹立たしいほど明瞭に届いた。

「名前は?」

「シ、シーリス」

「良く聞こえ」

「シーリス!」

「……良く聞こえた、と言おうとしたのだが」

「ぐっ」

「シーリスか。よろしく」

「よ、よろしく」

「……」

「……」

 さくさくさく。

「ど、どうして近寄ってくるの!?」

「離れているから。どうして木の上から降りないんだ?」

「あ、あなたが近づいてくるから」

「それは嘘だ」

 さくさくさく。

「嘘じゃな――来ないで。く、来るな!」

「逃げなければ近寄らない」

「ほ、本当に?」

「本当に」

「……」

「……」

 さくさくさく。

「嘘じゃない!」

「シーリスも嘘をついている。俺が近づかなくても木の上にいた。初めから降りるつもりはなかったんじゃないのか?」

「それは――」

「害意はない。敵対もしない。見ての通り丸腰だ」

「み、見れないのよ!」

「それは距離があるからだな」

「そういう意味じゃなくて」

 さくさくさく。

「丸腰を相手に何故怖がる? 怯える理由などないはずだが」

「だ――誰が。あなたを怖がってなど」

「怖がっていないのなら姿を見せてもいいはずだ」

「どうしてっ」

「俺がシーリスを見たいから」

「私はあなたを見たくない!」

「……」

「……」

 さくさくさく。

「逃げるな」

「逃げてないの!」

 近寄ってくる足音から逃れながら、木から木へと飛び移る。
 草を踏む足音は、どこに逃れようと正確に私のいる木へと向かってきた。
 私は堪らずに悲鳴を上げる。

「こ、こんなの卑怯よ!」

「心外だ。友好的である事を行動をもって示しているというのに。
 卑怯というなら、姿を隠し背後から弓を射る事はそうではないのか」

 一瞬、言葉に詰まった。
 冷たい刃を喉にあてがわれたような気分だった。

「それは、あなたたちが森を侵すから」

「森を侵す者は、どんな手段で倒しても構わない?」

「……命までは取ってない」

「命を取らなければ何をしても構わない?」

「……」

「責めてはいない。死ぬべきだという意見なら、それで構わない。何故シーリスがそう思うのか理由が知りたい」

「……」

「俺の意見を述べるなら、シーリスと森を侵す人間は、どちらも同じだ」

「!」

 私が、あの人間たちと同じだなんて!

 かっと頭に血が昇り、恥じらいが怒りに変わった。

「……もう一度、言ってみなさい」

 もう逃げなかった。
 木から飛び降り男の前に立った。
 私の心を捉えてやまないどろどろとした熱い感情をそのまま視線に込めて、静かに問いかけた。

「シーリスも、あの村の人間たちも同じだ」

「よくも……」

 くらくらと眩暈がする。
 ちかちかと光が瞬く。
 怒りで目の前に火花が散っていた。

「よくも言ったな!」

 私は我を忘れて飛び掛った。
 男は避けなかった。
 肩から体当たりをして、もつれ合ったまま地面を転がった。
 
 ごろごろと転がった後、馬乗りになって素早く地面に押さえつけた。
 男は抵抗もなく、仰向けになったままただ黒い瞳で見つめてくるだけだった。

「切り倒す! 焼く! 殺す!
 あなたたちは森の悲鳴を聞いた事があるの? 動く事もままならずに、ただ殺されるのを待つだけだった者たちの苦しみが

判る!?」

「判らない」

「当たり前よ! 判るはずがない! 判っていればあんなに惨い真似が出来るはずがない!
 あなたたちは森を殺戮して集落を築き上げた! その集落を一日養う為だけに、一体どれほどの木々や同胞が喪われていく

か!」

 私は馬乗りに掴みかかり、血を吐くような思いで叫んだ。
 人間に判らなくとも私には判る。
 森の生命力とも言えるマナが、人間たちが姿を見せてから日を追う毎に喪われていく。
 何より、森の悲鳴と絶叫は今も生々しく刻み付けられている。

 やめてやめてやめて――
 とらないでとらないでとらないで――
 たすけてたすけてたすけて――

 生きる為の殺生なら理解出来る。
 エルフと言えどもその輪から逃れられない。
 私とて誰かの命を奪って自らの命を繋いでいる。
 けれども人間は、命への敬意も払わず、余りにも殺し過ぎる。

 この男が責めないと言うのなら――例え責めたとしても、意見を変える必要などない。

「人間こそ、死を貪る悪魔じゃない!」

 怒りは最高潮に達していた。
 無防備な首に手を伸ばす。

 人間は脆弱だ。
 幾ら体力で優れていようと、魔力においてはエルフと比べるべくもない。
 殺そうと思えばいつでも殺せる。
 飛ぶ矢を掴む程の手錬れであろうと、手で直接身体に魔力を打ち込んでしまえばいい。

「やはり同じだ」

 命運を私が握っているというのに、男は意見を曲げようとしなかった。

「まだ言うの!?」

 私を怒り狂わせるこの男の口を塞ぐには、どうすればいいのか。

 ああ。
 そんなの簡単。

 拳を握り締めて振り上げた。

【ストレングス オフ ベアール!】

 口ごと頭を無くしてしまえばいい。
 エルフの私と人間が同じだなどというその考え事、無くなってしまえ。

「人間は愉しみの為に殺す。憎しみの為に殺す。怒りの為に殺す。そういう面がある。それに関しては俺も同意見だ」

 男は私の意見に同意した。

 命乞い?
 けれどだめ。
 だってあなたはこんなにも私を怒らせてしまったのだから――

 男は同意しながら、私に問いかける。

「そういった人間と今のシーリスは、どこか違うのか?」

 怯えるでもなく、命乞いするでもなく、真っ黒な瞳がじっと私を見つめた。

「ちが――」

 違うと、叫ぶはずだった。
 叫んで拳を振り振り下ろすつもりだった。
 だからこうして、男を組み敷いて拳を振り上げている。
 同じだと言われて我を見失い、飛びかかった。

 男の黒い瞳の中に、恐ろしい怪物がいた。
 怒りに歪んだ形相を浮かべ、ねじくれた鋭い凶爪を振り上げて、無抵抗な者を殺戮しようとしている。
 流血を望む怪物が、瞳の中から私を見つめ返していた。

 冬に降る雨に打たれたように、私は凍えた。
 泉に映る私の姿そのままの怪物もまた、怒りを恐怖に変えて怯えていた。
 
 あの震えがやってくる。
 拳が震えて仕方ない。
 もう殴りつけようだなんて考えていない。
 血など求めない。
 暴力など振るいたくない。
 それなのに、指が固まってしまって解けない。
 強張った身体は、ただ震え続けていた。

「うっ」

 嗚咽が洩れた。
 筋肉が強張り、内臓が痙攣を起こしている。
 ぐるぐると中身をかき混ぜられているような感覚。

 苦しい。
 吐きそう。

 私は胸からこみ上げてくるものに耐えた。
 この衝動を吐き出したら最後、私はみっともなく泣き出してしまう。
 必死で堪えた。

 私が自ら怪物に成り果ててしまっては、何の為に集落を出たのか判らなくなってしまう。

「シーリス」

 ぶるぶると震えるばかりの私を、男が呼んだ。

「怪我をしている」

 視線は私の手に向けられていた。
 羆の爪を伴っていた拳には、先刻の侵入者を打った際の傷が残ったままだ。
 余りにも強く握り締めていたからか、傷口から少し血が滲んでいた。

「……こんなの、かすり傷」

「だが怪我は怪我だ。怪我をすれば痛い」

「……」

「打たれた者は当然痛いが、打った者も痛い時がある」

「……」

 この男は、私が踏み止まらなければ死んでいた事に気がついているのだろうか。
 すでに魔力は潰えていたが、素手で殴ったって充分痛いのに。

「痛そうにしている者を見るのは嫌だな」

 なのに、自分の事には関心がないのか私の手の心配をしている。
 
 私はなんと言っていいのか判らず、けれど振り上げていた拳は誰も傷つける事なく降ろす事が出来た。
 身体の強張りが解れると、全身からどっと汗が噴き出してきた。
 視線を合わせることも出来ず、力なくうなだれた。

「大丈夫か?」

「……いい。言わないで。そう。私も同じね」

 結局、私は捌け口を求めていた。
 苦しみに耐え切れず、いつしか森に押し寄せる人間にぶつけていた。
 戒める為に力を振るっていたはずが、血を求めていた。
 殺そうとまでした相手から気遣われてしまっては、ますます惨めになってしまう。

「シーリス」

 こうして名前を呼ばれるのは、いつ以来になるのだろう。
 愛する者とは似ても似つかない声で、親しみも感じられなかったけれど、かつて平穏に過ごしていた頃の記憶が少し思い出

せた。

「……でも、この森にこれ以上立ち入られる訳には行かないの。
 あなたは今まで見た人間とは随分違っているみたいだけれど、それでも例外は認められない」

 傲慢な言葉だと判っている。
 けれど、それを許してしまっては。
 きっと、大切なものを永遠に失ってしまう。
 それだけは嫌なの。

「何か事情が?」

「……うん」

「そうか。なら事情を聞かせて欲しい。何か手助けが出来るかもしれない」

 え?

 私は顔を上げて男の顔を覗き込んでいた。
 男は相変わらず何を考えているのか判らない無表情で、今殺そうとしたばかりの私に助力を申し出てきていた。

「俺はまだここに来て日が浅く、複雑な事情は良く判らない。
 村で人づてに聞いた話だけを信じるのは不公平だ。シーリスの言い分も聞くべきだろう。そうすればどちらを信ずるべきか

、自分で考える事が出来る」

「……」

 男が口にした言葉は素っ気無いほど簡単で、単純で、弓を交えて争うなどよりもはるかに賢明な方法だった。
 私は言葉を失って、ただまじまじと男の顔を覗き込んでいた。

「気がする」

 私がじっと凝視したりしていたからか、男はそんな言葉をぽつりと付け加えた。

「……あなたは、私の言葉を信じるの?」

 あなたとは違う、エルフなのに。

「信ずるに足ると判断すれば」

 男はこくりと頷いて、平然と答えた。

「書物で得る知識よりも世界は複雑で、思っている以上にいい加減だ。顔を見て言葉を交わさなければ、信じるなどとても出

来ない」

「……私を見たいって言ったのは」

「こうして顔を合わせて話せば、言葉に血が通う」

 そう。
 この男の言う通り、この距離で向かい合わなければ私は自らの心に巣食った怪物から逃げ続けたかもしれない。
 誰かに名前を呼ばれる喜びを忘れたまま、そのまま思い出せなくなってしまったかもしれない。

「シーリスはエルフで、人間は人間だ。それは変わらない。だがお互い血の通った、心を持つ生き物だ。
 こうして触れ合えば、息遣いや体温を感じる事も出来る」

 そう言われて、私は初めて意識した。
 組み敷いた身体から伝わってくる私以外の鼓動。
 力強く打たれるその音色は、命の息吹そのものだ。
 しなやかな筋肉の固さと共に、熱い体温すらも――

「……」

 そう。
 思い出した。

「どうした?」

 私の下で首を傾げている彼が、衣服一枚身につけていない事に。

「きゃあっ!」

 私は悲鳴を挙げて飛びのいた。

「傷が痛むのか?」

 彼は何食わぬ顔で起き上がった。
 視界の端に何かがちらついて、私は地面から樹の上に飛び移った。

「ふ、ふ、服を着て! 今すぐ! お願いだから!」

 私は飛び移った樹の背後に隠れて叫んだ。

 なんて間の抜けた話。
 初めからこう言えば良かっただけなのに。
 今になってようやく出てくるなんて。

 今まで組み敷いていた身体の熱さにどぎまぎしていると、

「判った」

 さくさくと足音が遠のいた。

 先ほど視界の端に映ったものは、ひょっとして――

 私は何度も頭を振って、衣服を身につける衣擦れの音を聞きながら、まんじりともしない時間を待った。



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「遺跡がない?」

 泉の畔に腰を下ろして、俺はシーリスに訊ねていた。

 何やら事情があるとの事だったが、まずは何故この森に足踏み入れたのか、人間たちが森に固執する理由と共に彼女の傷を

手当てしながら話した。

「うん。古代の遺跡なんてない。森を隅々まで知る私が言っているのだから、間違いない」

 シーリスは目を丸くしながらも頷いた。

 森で暮らす彼女が知らないのだから、それが真実なのだろう。
 この森に足を踏み入れた前提条件が否定されてしまったがひとまず脇に置いて、俺を包帯を結びつけた。

「これでいい。余り無理はしないように」

 手の甲の皮が剥けて血が滲んでいた傷は、白い包帯に隠れて今はもう見えなくなっている。
 薬をたっぷりと塗っていたから、これで少し安心だ。

「……あ、ありがとう」

「どう致しまして」

 シーリスは物珍しいのか包帯を巻きつけた手を何度も擦り、俺を探るように見つめてくる。 

「でも、どうしてそんな話になっているの?」

「俺に訊かれても困る」

「……私はもっと困る」

「それもそうだな」

 だがホーラッドから聞いた話ではそういう事になっていた。
 村の者たちもそれを信じて集まってきていた。
 話の出所がどこから来たのかは、昨日あの村に立ち寄っただけの俺には判らなかった。

「財宝なんて、この森のどこを探しても出てこないのに……」

「だが人間が森を侵すようになったのは、昨日今日という訳ではないのだろう? 今までおかしいと思わなかったのか?」

「……」

「話し合おうとは思わなかった?」

「……うん」

「そうか」

「ごめん。その……あなたにも手荒な真似をしてしまって」

「気にしていない」

 しゅんと肩を縮めて耳まで傾けてしまったシーリスに、俺は首を振って見せた。

 シーリスの人間に対して抱く憤りは、先ほど目にしたばかりだ。
 そういった感情に追い詰められてしまうと、力づくで押さえ込まれるでもしなければ、話し合いなど到底出来ない状況に陥

ってしまう。
 自ら踏み止まるだけの冷静さを取り戻した彼女は、それだけでも充分賢明だった。

 シーリスの言う森の悲鳴も苦痛も理解は出来ないが、理解出来ない事は存在しない事とは違う。
 俺も森の犠牲を甘受した事に変わりはないので、彼女を責めるつもりはなかった。
 こちらはこうして無傷で済んだのだから、恨みなど無かった。

「……」

 だが俯くシーリスが責めている。
 自分自身を責めて、恥じている。
 それは誰かに責められるよりも苦しい事だ。

 シーリスからは傭兵団を一喝した凛々しさも、飛び掛ってきた鬼気迫るものも感じられない。
 落ち込んでしまった少女そのものだった。

 俺は話題を変える事にした。

「遺跡も財宝もない事は理解した。ならシーリスは何を守っている?」

 村で聞いた話の半分は誤りであったとしても、半分は事実だ。
 エルフの番人が森を守っている。
 彼女自身も言っていた。
 これ以上立ち入らせるわけには行かないと。

「森の景色が変わったが、それは何故?」

 あの毒々しい景色に足を踏み込んだ事を話すのは、少し悩んだ。
 悩んだが、魔女殿だけを除いてこちらの手札は全て晒す事にした。
 一応、不吉な雰囲気に引き返したという事にしておいた。
 俺にもそれくらいの知恵はある。

「……」

 シーリスは黙ったまま視線を逸らした。
 俺は急かさずに言葉を待った。
 彼女との会話は時間がかかるのだと理解している。
 焦らず慌てず、ゆっくりと答えてくれるのを待った。

「……森の奥には、魔物がいるの」

 やがて、シーリスはぽつりと呟いた。

「魔物?」

「……」

 訊ね返すと、彼女は俯いたまま小さく頷いた。

「とても強い魔力を持ったサキュバスで……私は森の力を借りて封じている」

 なるほど。
 魔女殿はそれに気がついたから、遺跡探索を中止にしたのか。
 それをどうやって知り得たのか俺には想像する事も出来ないが、結論は決まっている。
 魔女殿は凄いのだ。
 素直に誇らしく思えた。

 それはともかく、魔物について訊ねよう。

「それほど危険なのか?」

「……封印が解ければ、間違いなく人を襲う。森もただでは済まない。
 これ以上マナが失われてしまうと、封印すらままならなくなってしまう」

 前髪に覆われた彼女の表情を見る事は出来ないが、魔物について語る声にはとても辛そうな響きが伴っていた。

 俺は記憶を辿る。
 あの毒々しい景色は、封じられているサキュバスの魔力がもたらしたものなのか。
 シーリスは森からサキュバスを出さない為に森を守り、皮肉にも人間は魔力の源である森を削り取っている。
 番人は番人でも、彼女は結果的に人間を守る番人だ。
 その彼女が人間を傷つけ、人間はそうと気づかずありもしない財宝に目が眩んでいる。
 悲しい誤解だと思った。

「……森は変わってしまった。生き物の姿は減り、木々も衰えてしまった。
 憎かった。人間がやってくる以前はこうじゃなかったのにって。
 私が力を尽くせば、昔の姿を取り戻せると思っていたのに……」

 視線を伏せたシーリスに、俺は提案する。

「ひとまず村の者たちと話してみるのは?」

「えっ」

「意見の食い違いがあるのなら、それを説明するのが」

「待って!」

 言葉が遮られると共に、俺の手首が掴まれた。
 か細い指だったが、どこにこれほどの力があるのか不思議な程強く握り締められた。

「危険なの! 森に封じているサキュバスはとても危険で、人間が束になって掛かってもきっと敵わない。
 下手に刺激するような真似はしないで欲しいのっ。森のマナさえ保てば封印が解ける事はないから。
 お願いだから、私たちの森を荒らさず静かに過ごさせて!」

 シーリスは悲鳴のような声を上げて俺に訴えてきた。
 俺は彼女の瞳をじっと見つめ返す。
 澄んだ青い瞳を揺らがせているのは、恐怖なのだろうか。

 ふと浮かんだ疑問を口にする。
 
「シーリスは、そのサキュバスを倒そうとは思わなかったのか?」

 森を変えてしまったのがサキュバスの影響なら、その大本を取り除こうとは思わなかったのだろうか。
 戦士としての技量が備わっているし、魔術も操れる。
 森に立ち入る人間たちを軒並み撃退してきたのだ。
 実力の伴った彼女が、何故サキュバスそのものに挑もうとはしなかったのか。

 怒り、悲しみ、苦しみ、戸惑い。
 青い美しい瞳に、様々な感情がない交ぜになっていた。

「……わ、私は」

 隣に座る俺に敵意にも似た感情をぶつけながらも、シーリスはその矛先を向けまいと移ろわせている。
 これにも事情があるのだろう。
 しばらく待ってみたが、彼女は言葉に窮したまま視線を逸らした。

 俺には言えない、何か別の事情があるのだろうか。
 苦しいのならこれ以上問い詰めまい。
 彼女が見極め、一人では――例え人間を加えても太刀打ち出来ないと判断したのだろう。
 なら俺は出来る範囲で最善を尽くそう。

「判った。封じられているサキュバスには手を出さない」

「……う、うん」

 俺の言葉に少し驚いたようで目を丸くしながら、シーリスは頷いた。
 安堵したように彼女の手から力が抜ける。

「それに心配は要らない。見返りもなく危険しかなければ誰も近寄らない。
 遺跡の財宝がただの噂で絵物語と知れば、森に足を踏み入れる者もなくなるだろう。
 あの村は遺跡の財宝目当てに出来た村で、なら定住者は殆どいないはず。必要がなければ人は自然と離れる」

 シーリスは不安と不信が入り混じった瞳を彷徨わせ、その色を拭えないまま俺を見上げてきた。

「本当に、人間たちは私の言葉を信じるの……?」

「判らない」

 財宝が存在しないと聞かせて素直に信じてくれるかどうか。
 それは実際に話してみないと判らない。
 人間は様々だ。
 シーリスが言う様な者もいれば、そうでない者もいる。

「だが初めから信じられるはずがないと決め付けていては、何も信じられない」

 諦めるのはいつでも出来る。
 なら最後の最後でいい。
 誰に指を指されて笑われようとも、自分自身が出来ると信じなければ決意は生まれなかった。

 シーリスの手が俺の袖を掴むと、ぎゅっと握り締められた。

「あなたは……どうして私の言葉を、信じてくれるの?」

 どうしてか。
 理由は簡単だ。

「必死に訴えている者の言葉は、判るつもりだ」

 追い詰められた者は必死になる。
 必死に助けを求める。
 どういう方法で助けを求めるのかは人それぞれだろうが、助けて欲しいと願う気持ちは同じだ。
 俺を組み敷き憎悪していた時も、サキュバスの危険性を説明している時も、今袖を握り締める手からも。
 彼女は助けて欲しいと言っているように思えた。

 俺は、助けてのただ一言が言えずに随分回り道をした口だ。
 孤独と絶望に打ちひしがれていた頃、差し出されたあの手。
 俺に差し出された手の平は小さくて、眩くて、今でも強く憧れている。
 魔女殿に助けてもらってから、俺も誰かの助けになりたいと思った。

 なんとなく、シーリスは昔の俺と似ている気がした。
 それが理由だ。

「俺は、どうやらお節介なようだな」

 さすがに出会ったばかりのシーリスに、そういった内面まで吐露するのは気恥ずかしかった。
 自分自身の過ちを冷静に見つめていられるほど、達観はしていない。
 お節介という判断でそう間違いはないはずだ。

「……っ」

 呆然と俺を見つめていたシーリスは、声を上げず頬を緩めた。
 とても照れ臭かった。



xxx  xxx



 ――忍び寄る――

「畜生! 誰だちょろくて大金持ちになるチャンスだなんて言いやがったのは!」
「お頭っすよ!」
「ぼろ儲けどころかぼろ雑巾で丸損っすね」

 ――枝を伝い――

「ほんっと役に立たねぇ子分だなお前ら! 有り金叩いて買い込んだ装備一式丸ごとパーだ! まだ払いが残ってんだぞ!?


「今後の為にもとか、まとめ買いで矢がおまけについてお得だって言ってたのも、お頭っすよ!」
「ローン生活の盗賊なんて笑い話にしかならねっすね」

 ――地面を這いずり――

「これを機会に日の目が見られる稼業に転職しようかって矢先に、踏んだり蹴ったりだ! この世に神はいねぇのか!?」
「だーかーらーやめときましょうって言ったじゃないっすか! どうしてお頭は仕事を納めのハードル上げるっすか!」
「そりゃあ神ってぐらいっすから、あの世にいるんじゃないっすか?」

 ――静かにそっと――

「いつまで経っても娑婆っ気の足りねぇ奴らだ! そんなだから俺の気苦労が耐えねぇ! お陰で下の毛まで白くなっちまっ

たどうしてくれる!」
「それは歳のせいっす!」
「お頭ぁ〜、やっぱり辺鄙な村で難癖つけて小金を巻き上げてる方が良かったんじゃねぇですかい?」

 ――忍び寄る――

「馬鹿野郎、男なら志を大きく持て! いつまでもケチな盗賊のまま燻ってられるか! 最近はどこも王国騎士団の目が厳し

いんだ!」
「気がついたらお頭も立派な賞金首になってたっすからね!」
「軽犯罪を長年こつこつと積み重ねて今や金貨二〇〇枚っす。継続は力なりっす。塵山っす」

 ――お腹が空いているの――

「どこを見回しても緑緑緑……ああああっうんざりだ!」
「言われなくても見りゃ判るっすよ!」
「ハイ・ホー ハイ・ホー おっか〜ねが好っき〜♪」

 ――幾ら食べても足りないの――

「……おい、お前ら」
「はい?」
「ほう!」

 ――だから――

「ところで俺たちゃ今どの辺にいるんだ?」
「えっ」
「えっ」

 ――食べさせて――

「まさか迷ったのか!?」
「自信満々で進んでたのはお頭じゃねっすか!」
「さぁ盛り上がって参りました!」

 ――あなたたちを――

「どうして、こんなに、木が生えてんだ! ぶち折るぞこのウッド!」
「八つ当たりで木を蹴ったりしても体力使うだけっすよ!」
「森だからじゃねっすか?」

 ――食べても食べても食べても食べても――

「ぐわっ、なんだ!? なんか落ちてきた! 前が見えねぇ!」
「どうせなんか木の実とか虫とか――」
「って言うよりこいつは――」

 ――足りない足りない足りない足りない――

「なんだ? なんかものっそいぬるぬるするぞおい!」
「おおおおおお頭、そそそそそそそそれ」
「ひっひっふー! ひっひっふー!」

 ――もっともっともっともっと――

「ぬぇい! 一体なんだってんだお化けー!?」
「しかも沢山湧いて出たっすよ!?」
「ひっひっふー! ひっひっ……ふぅ。落ち着けばどうという事はない」

 ――食べたい食べたい食べて食べて――

「よしお前ら死ぬ気でかかれ! その間に俺が逃げる!」
「ずるいっすよお頭! ここは俺に任せてお前ら逃げろって言うとこっす!」
「目を閉じれば懐かしい思い出が甦ってくるぜ……ふふっ。短ぇ人生だったなぁ」

 ――ここから外へ――

「きゃー!」
「いやぁー!?」
「癖になるぅ〜!」

 ――頂きます――



xxx  xxx



 森の中、俺たちは真っ直ぐに人間の村へと向かっていた。
 シーリスが先に立ち案内をしてくれているので、こちらも何の心配もなく進める。
 彼女が歩いた後を正確に追いながら、新緑色の髪が揺れる様子を見つめていた。

「木の上を跳ばないのか?」

 黙ったまま歩くのも味気なかったので、この時間を利用して会話を楽しむ事にした。

「……あなたが見失ってしまわない?」

 シーリスはちらりと振り返り、逆に訊ね返してきた。
 全力で移動されると見失ってしまう。
 気を使ってもらっているのだろう。

「そうだな。ありがとう」

「……ええと」

 答えに困ったように呟いて、視線を戻した。
 彼女は会話が苦手のようだった。

「会話が苦手なのか?」

 なので訊ねてみた。
 複雑な事情を問い詰める訳でもないのだから、俺の方は遠慮するつもりはなかった。

「そ、そういう訳じゃない…かな?」

「どっちだ」

「……その、人間と会話なんて…初めてだから」

「そうか」

 緊張しているのか、彼女はどこかぎくしゃくとしたままだ。
 歩いていてちらちらと頻繁に背後を振り返るのは、俺が迷わず着いて来ているか、その確認だけではないのだろう。

「あなたは……」

 シーリスは再度ちらりと肩越しに振り返って俺を見た。

「エルフに慣れているの?」

「いいや。見るのも会うのも話をするのもシーリスが初めてだ。何故だ?」

「……だ、だって。エルフ語を使っていたし」

「ああ。教えて貰っただけで、エルフの知己がいる訳ではない。どこかおかしな点があったか?」

「ううん……上手なエルフ語だったよ」

「そうか。シーリスにそう言って貰えると自信がつくな」

「……」

「何故黙る」

「な、何故って…その……なんだか。そういう事を言われると、落ち着かない」

「褒めたつもりはないが」

「……」

「……」

「……どうして急に黙るの?」

「シーリスが黙ったから」

「それって、嘘?」

「嘘だ。怒ったのではないかと思った」

「……嘘つき」

「怒ったのか?」

「さあ……? どうかな」

「前言を撤回をする。俺はシーリスを褒めた」

「……もう遅いよ」

「それは残念だ。今後に期待しよう」

 会話は弾むと言うほどは弾まなかったが、案外続いた。
 シーリスは俺から一定の距離感を保ったまま、それを不用意に詰めない限りは会話に乗ってくる。
 独特の間と呼吸を持った会話も楽しかった。

「……あなた、おかしな人ね」

 シーリスは手を後ろに組んで、ゆらゆらと髪を揺らしている。
 髪と一緒に弓と矢筒が小さく上下している所を見ると、笑っているのだろうか。

「良く言われる」

 彼女が笑う顔を想像しながら、俺は距離を保って歩いた。

「誰から?」

「おおよそ、誰からも」

「それ、判る気がする」

「心外だと言い返せないのが悲しいな」

「……本当に悲しんでる?」

「心外だ」

「それは本当なのね」

 少しずつ、シーリスの身体から力みが抜けているような。
 気がした。

 彼女に対して抱く印象は、何やらちぐはぐだ。
 情け容赦なく傭兵団を打ち払ったかと思えば、まるで人間を避けるような行動を取る。
 歌っていた俺を木の上から探る様子は、慎重さを通り越して臆病だと感じられるほどだ。

 怒りに駆られて飛び掛ってきたかと思えば、事情を告白する際は弱々しく打ちひしがれるように。
 後ついでに言えば、男性に対して免疫もない様子だ。

「シーリスは処女なのか?」

 確認する為に訊ねた。

「……」

「……」

 空気が凍った。
 気がした。

 シーリスが足を踏み出したその姿のまま固まってしまったので、俺も足を止めた。
 距離を保ったまま、じっと様子を窺ってみる。

「……」

 シーリスが再び歩き出す。
 俺の質問に答えはないまま、するすると足音も立てずに進む。
 心なしか早足になっていた。

「気分を害したか?」

 俺も気持ち歩みを速めて緑の背を追った。

「……」

 シーリスは答えない。
 答える代わりに歩幅が大きくなった。

「気分を害したなら謝る。すまなかった」

 シーリスは首をすくめ、肩を怒らせ、握った拳を前後にぶんぶんと振りながら進む。
 それを俺は小走りで追った。

 その態度から男性経験はない、と判断した。
 男性経験があるとなしでは、それはあった方が俺としては有り難い。
 好みの問題ではなく、慣れの問題だ。

 好色に何の気兼ねもなく人間の男性を狙う魔物の方が、はっきり言って組みし易いのだ。
 スゥのように食欲と快楽に忠実か、リコも処女ではあったが性に対して並々ならぬ好奇心を持っていた。
 身を任せるか、促すかの違いだ。
 餌や囮として押し倒されて来た俺にとって、真っ当なセックスへの流れという経験が圧倒的になかった。

 シーリスは自身の性格なのかエルフとは皆そういうものなのか、性に対して禁欲的に見受けられる。
 裸を見せてたじろがれると、こちらも戸惑ってしまう。
 話題を振るだけで貝のように口を噤んでしまうのだから、相当だ。

 こんな事なら魔女殿の言う通り、街や村で人間の女性相手にそういった知識を得て置いた方が良かったのかもしれない。
 今となっては後の祭りだが。

 魔女殿から渡され、肌身離さず身につけている封じの護符を剥がせば、彼女のまた違う反応が見れるのかも知れない。
 だがそれは、何というか。
 こちらの体質を利用して誘導するのは、卑怯な気がする。
 それはひとえに、俺がレイプされるのには慣れているのだが、レイプするのは慣れていないからだろう。
 
 だが待て。
 
 小走りからランニングになりながら、そこで少しは考えを留める。

 ひょっとしたらシーリスの反応が特別なのではなく、普通なのかもしれない。
 厳密に言えばエルフは魔物ではないのだし。
 俺がおかしいのは数々の証言が出揃っているので、異議を唱えられない。
 という事は俺は変態なのだろうか。
 理解はしても承服し難いとはこういう事を言うのだろう。
 難しい問題だ。

 話が逸れた。

 とりあえず見失っては困るので、シーリスを宥めよう。
 彼女は今にも地面を蹴って、木々の間を跳び交って行ってしまいそうだった。

「シーリス。もうおかしな事は言わない。だから少し歩調を落としてくれ」

「……」

「嘘ではない。何か埋め合わせが必要なら要望に応えよう」

「……」

「ビスケットなどはどうだろう。ぱさぱさしていて口の中が渇く」

「……」

「ベーコンはどうだろうか。塩と胡椒が利き過ぎていて、胃にもたれる」

「……」

「エールが少量。とても温い。後は」

 ミードは魔女殿が根こそぎ持って行ったので手持ちにない。
 さてどうしたものか。

「……」

 首をひねっていると、唐突に、シーリスが足を止めた。
 俺も立ち止まって、振り返った彼女を見た。 

「ふ、ふふっ。くふふ。あなた、本当に可笑しな人」

 彼女は笑っていた。

「もう怒っていないのか?」

「初めは、少し……かなり。けれど、ふふっ。もう怒ってないよ。
 あなたが余りにも必死で、でもどこか的外れで、怒っているのが馬鹿馬鹿しくなって。なんだか可笑しくなってきたの。ふ

ふふふ」

 腹を押さえて木に寄りかかり、肩を揺らして笑い続けている。
 堪えていたがとうとう堪え切れなくなったというような笑い方だ。

 想像に任せて曖昧だったシーリスの笑顔を記憶に留める。
 落ち込む姿もそうだったが、やはり今の彼女も少女にしか見えない。
 危険なサキュバスを封じて、傷つき、誰からも理解を得られずに孤独に森を守るエルフ、には見えなかった。

 けれど、彼女は笑っている方が落ち込んでいる姿よりもずっといい。
 気がした。



 森の切れ目から、村を仕切る丸太の外縁がちらつき始めた。
 この頃になるとシーリスの身体に再び緊張が戻り、口数はぐっと減った。
 俺たちは一度足を止めて、説得の段取りを決める事にした。

「その、説得するのはいいんだが、具体的にはどうするんだ?」

 緊張のせいかシーリスの口調が硬かった。
 俺は顎を撫でて考えてから、応える。

「何も?」

「……えっ」

「遺跡があるというのはただの噂で、財宝など隠されていない。その事実を話して聞かせるだけだ。
 森に一番詳しいシーリスの言葉なのだから、これ以上の信憑性は無い」

 疚しい事が無いのだから堂々としていればいい。
 魔女殿もそう言っていた。
 
「け、けれどそれではっ」

「無抵抗の者を煮たり焼いたりはしないだろう。シーリスは踏み止まった。ならば村の人間も踏み止まると信じよう」

「……」

「大丈夫。上手くいくと信じよう」

 信じなければ何も始まらない。
 全てはそこからだ。

 シーリスは森と村とを交互に見比べた後、大きく長い深呼吸をした。

「……判った。私も信じよう」

 顔を上げたシーリスの顔から少女っぽさが抜けており、そこには森を孤独に守り続けた戦士の顔つきがあった。

「私の言葉を信じたあなたを、信じてみる」

 凛々しく引き締められたその表情を記憶に留め、俺は頷いた。



 というやり取りを交わして、俺たちは村に向かった。

「……何か言い訳はある?」

 隣に立つシーリスがそっと囁いた。

 俺は顎を撫でながら周囲をぐるりと見回した。

 剣やメイスがぎらぎらと鈍く輝き、ご大層な事にスピアで槍衾まで組んでいる。
 高楼や建物の窓からはクロスボウの照準が俺たちに向けられている。
 俺たちは手に手に武器を構えた殺気立った男たちに、物の見事に包囲されてしまっていた。

「すまなかった」

 堂々と村に入ったまでは良かったが、村の広場に出た所で堂々と閉じ込められてこの有様だった。

「それ、言い訳じゃない。謝られると怒るに怒れないじゃない」

 唇を尖らせたシーリスに、肘で脇腹を小突かれてしまった。

「そうか。そうだな」

 言い訳も時には必要だな。
 俺は新たに得た知識を蓄えながら、改めて男たちの様子を眺めた。

「とりあえず話が通じそうな相手に伝えるだけ伝えてみよう。まだ諦めるには少し早い」

「のこのこ村の中までやってくるとは俺たちも舐められたもんだ!」
「森の中じゃどうか判んねぇが、取り囲んじまえばこっちのもんだぜ!」
「見ろよ本物のエルフだ! うっひょおたまんねぇなぁ!」

「気がする」

 俺が思っていた以上に、村に残った傭兵たちの柄は悪かった。

 殺気立ってはいるものの、まだ襲い掛かってこない。
 野次のような罵声が飛び交い、好奇の視線がシーリスに集中している。
 何かを待っているのか知らないが、全く話の余地が無い訳ではないようだ。
 今は、まだ。

「……この中から話が通じそうな相手を見つけるのは難しそうね」

 視線が集まり居心地が悪いのか、シーリスは苦い表情で半身になっている。
 群集を下手に刺激しない為か、ぼそぼそと俺に聞こえるだけの小声で話していた。

「困った事に」

「はぁ」

 落胆のため息を聞きながら、俺は少しは理性が残っていそうな者がいないか居並ぶ顔を眺め、

「旦那ぁー! エルフを捕まえたんですかぁー!?」

 聞き覚えのある声が人垣の向こうから聞こえてきた。
 小太りの中年男が、宿の二階の窓から身を乗り出して俺に呼びかけていた。

「ホーラッドか。お前から買った万能薬、中々良く効いた」

 俺は手を振って応えながら、どことなく胡散臭い行商人に返した。
 シーリスの手当てに用いたのは、彼から買い取った最強の回復薬だ。
 魔女殿が遊び半分意地悪半分で金貨一枚まで値切りに値切った後、何やら魔術を掛けていたが。

「へっ? へぇ! そいつぁどうもー!」

 ホーラッドは不思議そうな顔をした後、手を振り返してきた。
 シーリスは俺たちのやり取りに視線を向けて、訊ねてくる。

「……知り合い?」

「少し。一応言っておくが、旦那と呼んでいるが俺の嫁という訳ではない」

 何故旦那と呼ぶのだろう。
 そう言えばソッパも俺の事を旦那と呼んでいた。
 呼び易いのだろうか。

「いや、それは見れば判るから……」

「それは良かった。話が通じそうな相手が見つかった」

 シーリスは何やら考え込んでいる様子のホーラッドを眺めて、少し複雑そうな顔を浮かべた。

「……ちょっと胡散臭く見えるけど」

「人は見かけによらない」

「ヒャハァ! たまんねぇ!」
「俺の股間がランスだぜー!」
「んん〜レロレロレロレロレロ」

「場合もある」

「……程度によるじゃなくて?」

「その可能性は否定出来ない」

 それはともかく、集まった群集は未だに叫ぶばかりで襲ってくる様子が無いので、俺は人垣越しにホーラッドに経緯を説明

する事にした。

「――という事で、森に目当ての遺跡も財宝もない。あるのは危険だけだ。
 ホーラッド、残念だろうがそういう事だ」

 罵声と野次に溢れていた村の広場は、いつの間にか静まり返っていた。
 声が良く通るので聞き易くなったな、と思いながら付け加える。

「遺跡の財宝を信じて敗れた者も、この中にはいるだろう。だが双方の誤解が生んだ無益な争いだ。
 これ以上無駄な争いが続けば、取り返しのつかない事になる。俺と彼女はそれを止めたい。
 シーリスもまた実力行使に出た事を悔いている。だからこうして自ら村に赴いた。意味のない争いはここで止めにしないか

?」

 落とし所はここだ。
 双方が意地を張り続ければ結局どちらかが死ぬまで争い合うしかない。
 しかも下手をすれば危険なサキュバスが解き放たれるというおまけ付き。
 ここで止まらなければもう後は無い。

「……?」

 俺の言葉に、広場は静まり返ったままだ。
 傭兵たちは互いに顔を見合わせて、何やら小声でやり取りをしている。
 損と得を天秤にかけて量っているのだろうか。

「……様子が変。ねえ、何か言ってるみたいだけど」

 シーリスに目配せされて、俺は視線をホーラッドの居る宿屋に向けた。
 距離はあったが、樹上に身を隠すシーリスとは比べるべくも無い。
 表情まで見て取ることが出来た。

「首を振っているな」

 下を――群集を指差して、しきりに首と手を振っていた。

「……何を言ってるか、聞こえる?」

「聞こえないので唇を読む」

 ホーラッドは静まり返っているというのに声を出さずに、口を何やら大きく開け閉めしていた。
 俺は口の形から言葉を読み取っていく。

「ち・が・う・し・よ・お・き・ん・く・び」

「どういう意味?」

「ふむ」

 俺は記憶を振り返りながら考えをまとめてみた。

 ホーラッドは俺たちが賞金首だと知っていた。
 そちらの筋の者が多く集まってきている、とも言っていた。
 一攫千金を夢見て、自分の首を買う為に。

 そういった札付きたちが、事実を知ったらどうするだろうか。

 どっと沸き立つように広場に笑い声が満ちた。
 笑う、嗤う、哂う。
 武器を手にしたまま爆笑が始まった。

「シーリス」

「……何?」

「村を囲む壁を飛び越そうと思えば、出来るか?」

 シーリスは隣で警戒を強めながら、ちらっと一瞬だけ視線を動かした。

「精霊の力を借りれば、なんとか。でも二人は……」

「判った。先に抜けてくれ」

「……あなたは?」

「まあ、なんとかなるだろう」

 わざわざ取り囲んでいながら襲い掛かって来なかった事に納得がいった。
 ここに居る者たちはおそらく森に踏み込んだりはしていない。
 噂を聞きつけて訪れたものの、番人であるシーリスの苛烈さに二の足を踏んでいた者たちだ。
 もしくは財宝を手にした者からおこぼれを狙っていたか、あわよくば横取りしようと考えていたかもしれない。
 危険を侵して森に入るよりも、そちらの方が合理的ではある。

 勤勉な探検家やならず者をまとめられる目立った傭兵はシーリスに敗れ、斯くして村は無法者の巣窟になってしまっていた


 悲しい事だ。

「それでのこのこ謝りに来たってかぁ!」
「なるほど、そりゃまた殊勝な心掛けだがこっちも随分やられちまったしなぁ!?」
「是非とも謝ってもらおうじゃねぇかえぇ!?」

「……正気? 七〇人はいるのに?」

「少し脅かして、その後俺も逃げる」

「……」

「命のやり取りは苦手だ」

「そら謝れぇ! 謝るといったら勿論あれだよなぁ!?」
「イエース! 土ッ・下ッ・座ッ!」
「土ッ・下ッ・座ッ! 土ッ・下ッ・座ッ!」

 誰が言い出したのか、野次と罵声が収斂されるようにまとまっていく。
 ホーラッドは両手の平を見せて、残念そうに首を振った。
 これ以上こちらと会話をするような真似をすれば、彼にまで矛先が向きかねない。
 賢明で有効な判断だ。

「土ッ・下ッ・座ッ! あっそれ!」
「土ッ・下ッ・座ッ! あっすら!」
「土ッ・下ッ・座ッ! もっ一つ!」

 げらげらと笑いながら、傭兵――首に賞金が掛かったお尋ね者たちは、武器を振り上げ鎧を叩きながら唱和した。
 下品な笑い声に混じって、ぎしりと歯噛みする音が聞こえた。
 シーリスの指が血の気を失うほどきつく固められている。
 それでも怒りの声一つ上げないのは、怒りで声すら失っているのか、それとも怒りと自責の板挟みになっているのか。

「ここに居る者に謝る必要はなさそうだ」

 俺は呟き、そっと手に巻かれた包帯を撫でた。
 余り強く握り締めて傷が開いたりしては大変だ。
 
「俺が気を引く。その間に」

「……」

「ついでに高楼を幾つか潰してくれれば、助かる」

 様々な感情が入り乱れ、それを噴き出すまいと押し込めるする複雑な表情だった。

 そろそろ群集が痺れを切らしかねない。
 俺はシーリスの表情を記憶に留めて、一歩前に出た。

 背負っていた荷物を下ろし、外套を外し、その場で膝を折る。

「この通りだ」

 俺はその場で土下座をした。
 群集たちは歓声と野次を上げた。

「ほんとにやりやがった!」
「エルフなんぞに付き合って土下座してるぜあいつ!」
「なんだぁー、そんなにエルフ穴は具合が良かったのかぁー!?」

 群集が爆発したようにげらげらと笑う。

「……ごめん、もう我慢出来ない」

 押し殺した声音の後に、

【アルル スタグ ホオヴ】

 短い鳥の囀りにも似たエルフ語が続いた。

「どうぞ」

 俺は土下座したまま視線だけを動かして、一歩前に出たシーリスを見た。
 彼女は群集の歓声と口汚い野次に後押しされるように地面に膝を付き、
 
【ア ウヒアルウィンド!】

 鷹に似た鋭い声と共に、矢筒の矢を投げた。

 弓を用いず手矢で投げられた四本の矢が、群衆の視線の中きりきりと派手に舞った。

 注目がそちらに移った間に、俺はその場から蛙のように跳ねた。
 距離は二〇歩。
 目測で測り終えている。
 正面でぽかんと上を見上げていた男に飛びついた。

 特別に何をするという訳でもなく、肩を掴んでそのまま押し倒す。

「ぎゃっ」

 男が背後に倒れる拍子に、手にした剣が背後の誰かに刺さった。
 その男が倒れて身体がぶつかり、武器が別の誰かに当たる。
 池に石を投げ込んだ後、波紋が広がっていくようにばたばたと密集していた群衆が倒れて、罵声と悲鳴と怒声が上がった。

 俺は身体を沈み込ませて――ついでに飛びついた男の頭に頭突きを一つ入れて――今度は背後へ跳んだ。
 距離は二〇歩。
 測った通り元の位置に戻り、駒倒しに折り重なって倒れてもがく群集を眺めた。
 奇襲としては、まあ上出来だろう。

「逃がすな! エルフは生け捕りにすりゃいい値段になる!」
「高飛車なエルフのXXXにぶち込んでやれ!」
「朝までXXでアンアンヒンヒン言わせてやるぜ!」
「XXXでエルフのXXXをXXだぁー!」

 悲鳴と罵声に混じって、口々に勝手な事を叫んでいる。
 彼らの狙いはシーリスに絞られている様だが、彼女ももう行動を起こしている。
 初めに投じた四本の手矢は、村内部に建てられた高楼の射手たちを正確に打ち砕いていた。
 手にしていたクロスボウごと。

 多分、命には別状がない気がする。

【アルル スタグ ホオヴ】

 彼女の跳躍は惚れ惚れするほど躍動的で、素早かった。
 地面を蹴って群集の頭上を簡単に跳び越して、まるで本当に空を飛んでいるように浮かんでいる。
 木々の間を飛び交った時同様、壁を、高楼を、建物を足場にして群集を翻弄している。

【ア ウヒアルウィンド!】

 三本同時に弓から放たれた矢は、魔力の輝きと共に障害物を迂回し、すり抜け、風を巻いて建物の窓辺から身を乗り出して

いた射手を打ち伏せた。
 俺はというと一歩下がって、外套と荷物を背負っていた。

 広場に悲鳴と怒号がこだまし、小さな村は瞬く間に蜂の巣を突ついたような騒ぎになっていた。

「畜生、あいつだ! あいつをやれ!」
「あいつの首一つで金貨二〇〇〇だぞ!」
「それ早い者勝ちだ!」

 俺の元にも、群集がわっと殺到してくる。 
 地面にこぼれたミードの雫に群がる蟻のようだった。
 
 それほど自分の首を買いたいのか金が欲しいのか知らないが、彼らが俺の首をとってもあまり意味がない気がする。
 賞金を掛けているのはれっきとした王国の人間な訳で、お尋ね者がお尋ね者の首を持っていけばどうなるか。
 首がもう一つ並ぶだけで、王国が丸儲け。
 絶対そうなると思うのだが。

 俺はひらひらと身をかわしながら、

「いてぇっ!」
「てめぇ!」
「何しやがる!」

 ならず者たちの同士討ちを誘った。

 数はまとまっているが統制も何も無い。
 ある程度のまとまりは出来ているのかもしれないが、全体で見ればただの寄せ集め。
 賞金欲しさの利害の一致があるだけで、王国の騎士団は元より盗賊団よりもまとまりが無い。

「どけ! 邪魔だ!」
「なんだとこの野郎!」
「うるせぇ死ね!」
「お前が死ね!」

 集団戦も何もあったものではない。
 利己主義者の集団ともなればこんなものなのだろう。
 同士討ちをきっかけに混乱が広がり、どんどん混迷が波及していく。

 こちらはそういった弱みにつけこんで、向かって来る者だけを捌く。
 固まってフレイルだの槍だの振り回しているから、殆どは勝手に自滅していた。
 なんともお粗末な話だ。

「金貨二〇〇〇枚ぃ〜!」

 鬨の声なのかただの物欲なのか。
 突進してきた男の槍の穂先をひょいとかわして「ぎゃ!」後ろにいた誰かに刺さったようだ。
 俺は突き出された槍を掴んで、狙いを外して呆気に取られていた男の腹を石突で突いた。

 鳩尾を正確に突いたので、男は悲鳴も上げずにもんどりうって倒れる。
 俺は拝借した槍を垂直に立てて振り上げる。
 とりあえず目の前にいた三人程を叩き伏せた。

 ここまで乱戦になったら、槍はこうやって扱った方が実用的だ。
 村のおばさんが箒を振り上げて野良犬を追い立てるのと、そう変わらない。
 届く範囲のならず者を槍の重量に任せて叩き伏せ、それより遠い者たちには穂先を上げて牽制する。
 距離を保ちながら、現状を把握する。

 シーリスは高楼に陣取って、

【ベ プロウド オフ オネース ストレングス オフ ベアール!】

 魔力矢で射手を排除している。
 建物の壁の裏に隠れたのを、問答無用で木製の壁ごと粉砕していた。
 頭に血が昇っているようだが、まあ直撃でないなら死なないと思う。
 多分。

 初めに俺が奇襲を仕掛けた者たちはもう起き上がってきているが、誰が悪い悪くないで一部乱闘が起きている。
 鬱憤が溜まっていたのか、当初の狙いもそっちのけで大喧嘩になっていた。
 
 俺はふとあの胡散臭い行商人の顔を思い出して、ホーラッドがいた宿の窓枠を見上げた。

「隙ありぃ!」

 フレイルを振り回しながら迫ってくる大男の股間を、石突でねじり突いた。
 槍で叩き伏せてある程度周囲を掃除しておいたので、突きも入れ易くなっている。
 真正面から声を張り上げて奇襲するというのは、どうなのだろう。
 股間を押さえてうずくまった大男を頭頂を小突いて気絶させながら、誰もいない窓辺から混迷する広場へ視線を移す。

 その先、喧騒と群集の向こうに別の一団の姿があった。
 おそらくこの村に流れて商売していた者たちなのだろう。
 荷馬車にありったけの家財やら何やら大荷物を乗せて、一目散に裏口を目指していた。

 その馬車の一つに、胡散臭い男が乗り込んでいるのが見えた。
 彼もこちらに気がついたのか、胡散臭い愛想笑いを浮かべて手を振ってきた。

「ま・た・ご・ひ・い・き・に」

 彼の口が刻んだ言葉を読み取り、俺たちも堂々と正門をくぐるのではなく、堂々と裏門から入れば良かったのかも知れない

と、今更ながらに思った。
 過ぎたるは及ばざるが如しとは良く言ったものだ、と先人の知恵に感心しながら、俺は手にした槍を振ってホーラッドに応

えておいた。

 さて。
 そろそろだろうか。

【ド ノト カレ アト アルル スタグ ホオヴ】

 高楼を飛び交う新緑の美しい歌鳥が詠う。

【クレエピング ミネ!】

 猛禽の獰猛さも兼ね備えた歌鳥は、高楼から羽が舞い散るような無数の矢を放った。

 数える間もなく殆ど垂直に落ちてきた矢は、地面に当たる直前で軌道を変える。
 毒蛇の群れが散らばるように這い進み、ならず者たちを打ちのめした。

 ご丁寧に射手を一人残らず潰して、最後に大盤振る舞いだ。
 ここまでされると、のこのことこの場に連れ込んでしまった身としては申し訳なく思う。

 魔力矢を届けられ、うずくまって呻いている者たちを槍が届く範囲で一突きしておく。
 色々と面倒なので石突を使って昏倒させておいた。

「MB――」

 ?

 作業を片付けて顔を上げる。
 シーリスはすでに高楼から離れていた。
 先を尖らせた丸太の上に危なげなく立ち、地上の俺を見ていた。

 強い風が吹いているのか、新緑色の長髪がそよぐ様子はこの上なく青空に映えた。

「――」

 目が合ったのは一秒だったかそれにも満たなかったのか。
 彼女が何かを言ったような気がしたが、そよぐ髪に遮られて唇の動きは読めなかった。
 シーリスはそのまま風に誘われるように、無骨な柵の向こう側へと吸い込まれるように消えていった。

 名前で呼ばれたことが少し嬉しくて「ぎゃう!」石突で突く作業に少し力が入ってしまった。

 それが、この馬鹿げた乱痴気騒ぎの顛末だ。

 そしてここからが俺の仕事。

「エルフの助力があったとはいえ、中々の手並みだ」

 野太い声と共に踏み出したのは、雑多な武装とは明らかに異なる一団を率いた男。
 彼が暗い眼差しで剣を抜くと、一〇数人程度だが完全武装の槍兵を前面に立てて俺の前方塞ぐ。
 鎧には交差した槍と髑髏の横顔という不吉なシンボルが刻まれていた。

「貴様、戦場帰りか?」

「いいや」

 戦場に出た事は無い。
 ただ、俺には剣術――というか武器の扱いから体術、戦術まで教えてくれた先生がいた。

「死ぬ程扱かれただけ」

「ふん」

 軽口と受け取ったのか男は鼻先で笑い、片刃の長大な太刀を水平に構えた。
 彼らが放つ気迫に当てられたのか、騒ぎ立てていたならず者たちもいつしか遠巻きに距離を置き、俺の後方をぐるりと囲ん

でいる。

 ならず者の乱痴気騒ぎには加わらずに静観を決め込んで、シーリスの姿が消えたところで俺の首を取る。
 あらかじめ狙いを絞っていたのだろう。
 合理的な判断だ。

 男とその率いる傭兵たちは、いかにも手練れといった印象だ。
 俺は立てていた槍を手放した。

「命乞いか?」

「いいや」

 ずいとすり足で間合いを詰めてくる太刀の男に答え、俺は背負っていた荷物ごと外套を落とす。
 愛用している二本のククリ刀を抜いた。

 白と赤の骨を削り出した反り返った刀身を見て、男はさらにずりっと間合いを詰めた。
 俺は半歩下がって向こうの間合いをずらした。

「首を貰うぞ」

 男の物言いは簡潔で無駄口を利かない。
 どろりと濁った瞳に凄みが増すのが判った。
 俺は手の平に馴染んだククリ刀をくるりと回して見せた。

「少し恐くする」

 男は片眉をびくりと跳ね上げ、腰が沈んだ。
 俺は二本のククリ刀の刃先を自らの両肩にずぶりと押し込んだ。



xxx  xxx



 私は人間たちの村から離れ、真っ直ぐに森へと向かった。

「我らを育む賢き者たちよ、難儀を強いて申し訳ございません。その豊かな枝葉を、今一度私にお分けくださいませんか?」

 ああいいとも緑の子よ――
 さあお受け取りなさい――
 この老いぼれを役立てておくれ――

 畏まって控える私の足元に、矢に適した枝葉がぽとぽとと落ちてくる。

「トネリコの貴婦人、樫の老翁、重ね重ね感謝いたします!」

 私は礼を失するぎりぎりの範囲で、譲ってもらった矢を急いで集めて矢筒の中へと納めた。

 あの男。
 私を森から連れ出して。
 まんまと人間たちに取り囲まれて。
 それなのに馬鹿正直に事情を説明して。
 笑われても嘲られてもけろっと澄ましたままで。
 頭まで下げて。

 あの男、あの男、あの男!

 誇りの一つ、矜持の一つも持っていないの?

 私は掻き集めた矢を乱雑に矢筒の中に放り込んだ。
 矢で詰まった矢筒のずしりとした重量に、私は安堵を覚えると同時に自らを叱咤する。

 違う。
 違う。
 違う違う違う!

 あの男は私を信じて、下げなくてもいい頭まで下げた!
 あんなに屈辱的な格好を大勢の前で、堂々と下げて見せた!

 私は男を信じると言ったけれど、やはりどこかで信じていなかったのだと思う。
 あの胡散臭い男が窓から喚いた言葉にどきりとさせられた。

 エルフを捕まえたのか?

 あの男は私を油断させて、村に誘い込む役だったのではないか。
 そうでなくても、あれだけの人間に囲まれて脅されたら、私を彼らに引き渡すのではないか。
 鉄と汗と火と煤と――とにかく色々な臭いが混じった悪臭漂うあの集落の中で、私は自分の心配ばかりをしていた。

 けれど。
 あの男はどう?
 それに対してなんて言ったの?
 あの男は嫁ではないなんて。

 ああ、もう。
 なんて、もう!

 胸の中で暴れる何かを、上手く言葉に出来ない。
 胸が痛い。
 痛いのは皮膚の下にある臓腑ではなくて、心が。
 心が引き裂かれるように痛い。

 自分を助ける為に私を売ろうだなんて、思い浮かびもしないだなんて!
 それなのに私に謝らなくていいって。 
 私には先に逃げろなんて。
 そんなのは、ずるい!

 目を覆いたくなるほど醜いものを見た。
 腐臭すら漂ってきそうな大量の悪意を目にした。

 同時に、悲しくなるほど清いものを見た。
 それはとても清廉なもので、私はそんな美しいものといつの間にか肩を並べていた。

 二つの矛盾に私の心は激しく乱れたまま、唾棄すべきなのか信頼を寄せるべきなのか判らない。
 私は混乱していた。
 あれ以上あの場に留まったら、心が引き千切られるのではないかと不安で、彼の言う通りにした。

 あの時、地上で襲い掛かってくる人間たちを――そう、彼の同胞であるはずなのに!――やはりどこか飄々と気絶させてい

た。
 獣のように群がる群集をいなしながら、私よりも確実に血を流さず無力化しながら。
 片や自らの欲のまま肩を並べていたはずの者に斬りかかり、片や理不尽に襲い掛かってくるものを丁寧にあしらう。

 初めて目にした光景は、醜くて、美しくて、余りにも混沌としていた。

 ――MB――

 不思議な響きを伴うその名を、私は初めて口にした。
 彼はまるで目が三つも四つもあるのでは無いかと思える程正確に敵の意識を奪いながら、私を見上げた。

 ――ごめんなさい――

 黒く塗り潰された瞳を持つ彼に、私はただ詫びていた。
 何に対して詫びたのか判らない。
 ただ詫びなければいけない。
 私にはそう思えて仕方なく、混沌から弾き出されるようにその外側へと風の精霊に身体を運んでもらった。

 矢筒を結ぶ寄り合わせた弦を今一度固く結び直し、私は顔を上げた。

 彼は、今もあの場所に残って戦っている。
 私も戦える。
 戦わせて。
 私を爪弾きにしないで、一緒に戦わせて。

 一人にしないで。

 逸る気持ちもそのままに駆け出そうとして、

 緑の子よ、心に根を張りなさい――
 緑の子よ、信じてお上げなさい――

 貴婦人と老翁が私を諌めた。

「……はい」

 どうか、フリエンドを大切にしてお上げなさい――

 森が、諌められた私の背を押した。

「はい!」

 私は落ち着いた気持ちで駆け出す事が出来た。

 そう、彼はフリエンド。
 変わり者のフリエンド。
 私のフリエンド!

 それはまるで生まれて初めて耳にした言葉のように、心地良く響いた。

 疲れなど感じない。
 心の痛みが綺麗さっぱりと癒されたよう。
 身体が羽のように軽い。

 待っててね。
 今からあなたを助けに行くから!

 私は森の最端からあの目まぐるしい混沌へと今一度乗り込もうとして、

 ?

 地面を覆う黒い洪水に気がついた。

「何、どうしたの? あなたたち?」

 地面の草を覆うのは野鼠たち。
 それもまるで洪水のように地面を覆って、一目散に森の中へと逃げ込んでいく。
 彼らは皆人間の集落から逃げ出していた。

 こわいよこわいよこわいよ――
 こわいのがいるよこわいのがいる――
 にげろにげろみんなでにげよう――

「えっ」

 こわいの?
 何がそれほど、野鼠たちを怖がらせるの?
 これだけの数を、一度になんて。

 私は狂騒する野鼠たちに足を取られそうになりながらも、小さな同胞たちを踏み潰したりしないように流れに耐えた。
 身体を這い上がってきた野鼠に訪ねる。

「小さき同胞よ。あなたは一体何を見たの?」

 ああ緑の友達――
 とてもとても恐いものだよ――
 大きくてぎらぎらとした恐いものだよ――

 唐突に。

 OGYAAAAAAAAAAAAAAAA!

 それは傾きかけた陽光の下に轟いた。

 私は滝壺の中に投げ込まれ、全身をぐしゃぐしゃに打ち砕かれたような錯覚を覚えた。

 ほんのひと瞬きする間、世界中から音が消えた。
 全ての生き物が息を殺した。
 それは私が目指し、野鼠たちが逃げてきた集落の中から響いてきた。

 気を抜けば今にも膝から崩れ落ちてしまいそう。
 私が身体を支えていられたのは、足元の小さな同胞たちのお陰だった。

 きゃあきゃあきゃあ――
 こわいよこわいこわいよ――
 にげよにげよにげよう――

 我に返った野鼠たちは、森の中へと一気に駆け込んでいった。

 ぽかんと立ち呆けたまま見送った後、集落の硬く閉ざされた門が開く重い音が聞こえた。

 !

 開いた門から、人間たちが一斉に溢れ出した。
 私は素早く弓に矢を番えて、すぐ様子がおかしい事に気がついた。
 人間たちは我先に競うように走っていた。
 森にも、私にもまるで見向きもしないで、全く別の方向へと向かっている。

 ううん、逃げてる?
 何かから。
 何か……恐いものから。

 顔は恐怖に引きつりわき目も振らずに走る様子は、小さな野鼠とまるで同じだった。

 OGYAAAAAAAAAAAAAAAA!

 二度目のそれが轟いた。
 咄嗟に耳を塞いだものの、全身の骨が砕かれるような感覚は同じだ。
 まるで本当に何かがぶつかって来たような気がして、私の膝はとうとう折れた。
 その場に座り込んで、無性に震え続ける手の平を力なく握り丸めた。

 逃げ出してしまいたい。
 今すぐここから。
 あの泉の畔に逃げ返って、木陰に隠れて丸まってしまいたい。

 そんな衝動を堪えられたのは、私の手に巻かれた白い布切れのお陰だった。

 彼は私の手の傷に軟膏を塗り込み、白くて薄いこの布を巻きつけた。

『これでいい。余り無理はしないように』

 分厚い皮が固まった手は、無骨な見かけに反して驚くほど丁寧だった。

『痛そうにしている者を見るのは嫌だな』

 そう呟いて、この手をじっと見つめていた黒い瞳。

 私も同じ。
 痛がる者を見るのは嫌。
 だから極力見ないようにしてきた。
 憎んでいる相手でさえ嫌だというのに、近しい者が。
 大切な人が。
 苦しんでいる姿をただ見るだけなんて。
 もうあんな気持ちは二度と味わいたくない。

「はぁっ」

 私は一度胸の中の空気吐き出し、改めて大きく息を吸い込んだ。
 吸い込んだ空気を胸に溜めたまま、ゆっくりと少しずつ吐き出していく。
 目を閉じて、思い浮かべるのは彼の姿だ。

 殺気の群れにすっかり取り囲まれてしまっても、平然としていた彼。
 真っ直ぐに誰かを信じられる、あの強さ。
 あなたの勇気を、ほんの少し。
 分けて下さい。

 胸に詰まった空気を吐き切ると同時に、私は目を開けた。

 よし。

 ぴしゃりと膝を叩き、私は勢いをつけて立ち上がった。
 まだ膝は笑っていて、身体の震えが止まってしまった訳ではなかったけれど、よろめきながらも立ち上がる事が出来た。

 待ってて。
 すぐに行くから。

 私は風のように駆けるとはいかず、じりじりとにじるように静まり返った集落へと向かった。
 門の前まで来ても、あの身の毛もよだつものは聞こえてこなかった。

 弓の弦に矢を掛けて、いつでも射れる様、そっと開け放たれた門の中を覗き込んだ。

 中の様子は、一変していた。
 水を打ったような静けさに包まれ、動く者もなければ喋る者もいない。
 いや、地面にはちらほらと人間たちの姿が見受けられる。
 誰も彼もが地面に転がったまま、恐怖に強張った表情で気絶していた。

 一体何があったのだろう。

「……シーリスか?」

 恐る恐る門を潜ろうとした私の耳に、素っ気無いあの声が聞こえてきた。

「え、え――えぇと、無事、なの?」

 咄嗟に名前が出てこなかった。

 ああ、もう。
 折角声が聞けたのに、えぇと、だなんて。

 彼には何かみっともないところばかり見たり聞かれたりしている気がした。
 大抵の事に即答で答えてくる彼にしては珍しく、少し間があった。

「無事、というべきなのか」

 門扉の向こう側から聞こえてくる声に、私は不安感を募らせた。

「け、怪我をしたの?」

「まあ、ある意味皮一枚、ではある」

 皮一枚?
 皮一枚残ったという事なの?
 指が?
 手が、脚が?
 まさか――

「大変、すぐに診ないと!」

「待て。今俺の姿を見れば後悔する」

「馬鹿言わないでよ! もうこれ以上何かを喪うのは嫌なの!」

「せめて猶予をくれ」

「もう猶予がないの!?」

 ざりっと砂を踏む足音を耳にして、いても立ってもいられなくなった。
 私は門扉に回り込み、

「えむっ」

 回り込んで。

「――」

 ただただ絶句した。

「だから後悔すると言った」

 はいたしかにききました。

「少し猶予を貰えれば、すぐに調達出来たのだが」

 はいゆうよがないとおもいました。

「これで二度目だな」

 はいにどめになります。

「減りはしないから、気になるならじっくりと見てもいい」

 こんなにしっかりみたのはわたしはじめてですけどへらないんですか?

 頭の中がくるくると回っている。
 野鼠と栗鼠が仲良く輪舞曲を踊っている。
 彼は落ち着き払ったままふむと一つ頷いて、腰に手を当て訊ねてくる。

「……感想は?」

 彼は唯一の衣類である外套を腰に当てた腕に挟んだまま、何食わぬ顔で訊ねてきた。

「せめて隠すとかしてよ馬鹿ぁー!」

 私は無防備に晒された彼の鳩尾を拳で打ち抜いた。

 最速で?
 最速で。







09/10/29 15:00更新 / 紺菜

■作者メッセージ
三篇でまとめるつもりが一篇増えましたてへっ♪
とか言うかもしれません

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