連載小説
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エピローグ


 鬱蒼と緑が茂る山を登る間に流れてきた汗を拭って彼女はぼやいた。

「あかん、暑いわ。せめて道連れに旦那はんも連れて来ればよかったなぁ」

 とはいえ、商売を休むわけにもいかない。結局こうなってしまうのは避けられなかったろうがつい飛び出る愚痴は止まらない。
 丁寧に整地されていた山道を逸れてからもう随分と歩いた。そろそろ小休止でも取ろうかと思った所で、川の音が聞こえてきた。

「となると、目的地は近いなぁ」

 彼女はもうしばらく歩くことに決め、行商人時代以来しばらく眠っていた行李を背負い直した。
 普段はあまり表に出さない丸い獣耳をそばだて、音の方向を見失わないようにする。
 そろそろ音の源があるはずのところにまで来たが、川はどこにも流れていなかった。

「あー、結界か。そっちに行くゆーてしらせとけばよかったなぁ」

 そんなことを言っていると、突然近くに気配が現れた。
 一瞬身構えるが、気配の主は彼女がよく見知ったものであり、彼女をこの山に招いた者でもあった。

「女将、お久しぶりです」
「おお盛一郎。久しぶりやね」

 現れたのは、戦火で孤児となり、彼女の旦那の元へと預けられた養子となった盛一郎だった。

「ええ。こちらに来るのならば日時を先に言っておいてくれれば近くの町まで迎えに行ったのに。隠れ家は結界で覆われているので来る際には連絡をくださいと文にも書いておいたではないですか」
「たまには歩かな体がなまってまうんでな。それに……まあ君らが驚く顔を拝みたいやん?」
「またそのようなことを……刑部狸に良い思い出が無い方なのでそのような茶目っ気は収めてください」
「かまへんかまへん。そこん所は任せとき」

「ですが」と言い募る盛一郎を制して彼女は先を案内させる。両親がそうだったらしいが本人も頑な人間で、復讐のみに囚われる生き方から脱するまで大変だったことが記憶に新しい。
 商家を継ぐように旦那と一緒に説得してきたが、どうも数字と向き合うよりも現物をどうこうする方に適正があったようで、荷物の護衛や使いに走ることに情熱を燃やしていた。
 そのような案配なので本人には家を継ぐ気はなさそうで、女将達としてはそれも良しと考えていた。
 それでももし自分達の娘が生まれたら、その娘がいい具合に悪どく婿にするのだろうと思っていたのだが、

(まさか、あの朴念仁が使いに出した先で嫁を見つけるとは思わなんだわ)

 それだけの情報でも十分驚きだというのに、気難しいカラステングを言伝の飛脚にするという追撃まで付けてきた。
 更に話を聞けば周囲のご当地神のような扱いを受けている稲荷が見初めたという話で、これはその稲荷の慧眼に感心してしまう。
 とはいえ、いつか生まれるだろう娘の婿候補を取って行かれて何も言わないというのは刑部狸としてありえない。どこの女狐がやってくれたのかとカラステングに渡されていた文を読み込んで位置を確認した彼女は三度驚いた。
 その山は、彼女も知っている山だったのだ。

「なあ、盛一郎」
「はい、どうしました?」
「この山の隠れ家におるっちゅう君が妻にした稲荷やけど、もしかして穂積、とかいう名前だったりせん?」

 山道を先導していた息子はその言葉に立ち止まって首を傾げた。

「紹介する時に初めて名前を教えようと思って文では名は伏せていたのですが、下の町で聞いてきたので?」

 女将が盛一郎の問いに答える前に、新たな気配が近づいてきた。

「盛一郎様。妖怪の気配がしましたが、どなたか訪ねて参りましたか?」

 そう言って現れたのは、金髪金瞳に狐の耳を備えた一人の稲荷だった。
 山道だというのに汚れ一つ付けず紅梅の着物を揺らす稲荷は、女将の姿を視界にとめると眉をひそめ、三本の尾を立てた。

「あなたは――っ」
「ああ、やっぱりなぁ」
「女将? 穂積殿?」

 女将のことを威嚇し初めた穂積は、当惑した様子の盛一郎の言葉を受けて「まさか」と呟いた。

「盛一郎様がおっしゃっていた養母様とは……」

 稲荷――穂積は女将が誠一郎にとっての何者なのかを理解したらしい。
 たいそう驚いている狐を見て、黙ってここに来てよかったと狸は心の底から思った。

「いやはや、文をもらった時にまさかと思ったけども、穂積サンがうちの息子のお嫁さんとはなあ……」
「それはこちらも同じです。まさか盛一郎様の養母があなただとは……」

 狸はうんうん、と頷いていつの間にかすぐ傍を流れている川に目をやった。

「それはそうと、昔はもう少し……そう、ちょうどここら辺りまでは要塞みたいになっとったよな。そんな跡影も形もなくなっとってなんや迷いそうになってもうたわ」
「この山で戦があったのはもう遠い過去の話になりますからね。戦の備えなどとうに取り払ってしまいましたよ」

 昔を懐かしむように穂積は言って、「それよりも! あなたが盛一郎様の養母というのならば申しておきたいことがございます」と強めの語調で続けた。

「使いの際に片道分しか路銀を持たせないとは何事ですか」
「あー、それなぁ」

 女将は追及の手を緩める気がなさそうな鋭い視線を浴びながら唸る。

「元々はな、復讐っちゅう破滅一直線で一銭の得にもならん人生の目標を捨てたはええけど、それからはやれ護衛だやれ仕入れだと言うて、あちらこちらに使いに出だした盛一郎を家に繋ごうとしてかけた圧力やったんけど、これがまたこの子強情でなあ……店はあたしの娘が継ぐだろうから商才の無い自分は別の方法で恩を返せる方法を探す言うて圧力なんかどこ吹く風だったわ」
「では盛一郎様の意志を確認したのならもうよかったではありませんか。もし怪我でもされたらどうされるのですか!」
「そこら辺は確かにまあ心配やったけど、旦那はんが盛一郎には盛一郎の生き方があるかもしれない。あたしが出した条件は条件として、彼が道を決めるまで見守ろうって言うんでなぁ。
 まあ確かにあの子の自由な意思を奪うわけにもいかんし、かと言って家に入れるのを完全に諦めたくもなかったりでちぃと複雑やったんよ……まあ中途半端やったんは認めるけども」

 でも、と女将は口端を吊り上げた。

「あたしが出したこの条件のおかげで盛一郎はこの山越えの道をわざわざ選んで穂積サンと出会ったんやで? ここは感謝しとくべきちゃう?」
「そういう……っ、もんだい、では、ないです、が……!
 たしかに、盛一郎様と出会えたのはあなたのおかげでもあります。そこは感謝しております」

 何やらもの凄い葛藤をしながらも、律儀に頭を下げる穂積を見て、女将は力を抜いた笑みを浮かべる。

(話はじめに自分にも得があったとはいえ、とか付け加えればええのに……)

 この女狐は基本的には賢いはずなのに、攻めに回るとどこか抜ける部分があったが、その癖はどうやら抜けていないようだった。

(戦の時も、うまいこと立ち回れば人間に恐れられる存在に祀り上げられることもなかったろうになぁ)

 損をしやすい性格なのだろう。
 戦が終わった頃にこの辺りの行商にやってきた当時の女将には、人間と彼女の関わりを少しでも繋げる手伝いしかできなかった。
 そんなか細い繋がりで満足そうな彼女を憐れに思ったものだが、今は幸せそうでけっこうなことだ。

「穂積殿、以前にも言ったように、俺はそういった教育方針や圧力をよしと思っていた……それに、女将も言っていたが、穂積殿と出会えたのもそのおかげだ。だからあまり責めないでやってくれないか」
「分かっております。分かっておりますが……言わずにはおれなかったのです」
「ああ、ありがとう」

 全て承知していると言わんばかりの盛一郎の言葉に、穂積は目を潤ませてはしおらしく頭を下げた。
 その頭を撫でられて尻尾を振る狐を見るにつけ、黙ってここに来て本当に良かったと狸はしみじみと思う。
 穂積はこほん、と咳払いすると、改まって口を開く。

「あなたが盛一郎様の養母だとは、姓が違っていてまったく気が付きませんでした」
「この子は生家の姓を残したがったからなあ。
 しかしこの子に聞いたけども、刑部狸に良い思い出が無いっちゅうやん? ひどいことをする者もいるもんやね」
「あなた……」

 そんな会話を続ける二人に、盛一郎が伺うように声をかける。

「お二人は知り合い……ということでよろしいのか?」
「ん? ああそうか、知らんかったんやな」

 女将が穂積と自分の関係を盛一郎に話してやろうとすると、山の上のからもう一つ人影が下りてきた。
 木々の間から姿を見せたのは頭に露草色の傘布を被った少女だ。
 少女は遠間から手を振りながら言う。

「あるじ様、ホヅミおねえ様、お茶の用意ができてございまする――あ、オカミ様!」
「ん? 誰や君……って、あ?!」

 女将は少女の容姿と妖力の気配にその正体を察して思わず盛一郎を見た。

「盛一郎、まず先にあの娘が誰なのか言うてみ?」

 確認するように言うと、盛一郎は手を振って近寄ってくるとうと女将を交互に見た後に少し言いづらそうに「あー……」と感嘆詞を置き、

「あの文を出した後に付喪神化した、俺の仕込み傘です。
 その、二人目の嫁ということになります」
「やっぱりそうかぁ」

 近寄って来た少女に挨拶すると、少女も快活に挨拶を返してきた。
 とうという名前をもらったらしい少女は「オカミ様見てください」と言ってその場で一周回ってみせた。

「あるじ様に使われるこの身を作っていただいたこと、かんしゃしてございます」

 そう言って丁寧に頭を下げる姿からは、まだ子供のような外見とは違う、不思議な色気が滲み出ていた。

「いや、ええって。あたしも君の注文する時楽しかったしな。
 ところで、盛一郎がどうしても一緒に持ち運べるようにして欲しいっちゅうてねだってきたあの脇差はどうしてもうたん? 流石にもう折れてもうたかな」
「いいえオカミ様。あるじ様の刃はとうがしっかりと収めてございまする」

 誇らしげにそう言うと、とうは背を向け、着物をまくり上げた。
 晒された白い尻からは盛一郎が養子に来た時に唯一持っていた無骨な脇差の柄が覗いている。

「とう、そこはみだりに見せるものではありません」
「オカミ様にはとうがしっかりとあるじ様のお役に立てていると伝えねばならないのです」

 ここは譲れぬとばかりに着物をはためかせるとうを宥め、穂積が慌てて着物を抑えた。
 女将は思わずため息が漏れていることに気付く。
 たしかに、あの仕込み傘は長年使われて付喪神化する兆候を見せてはいたが、こうまで早く化生するとは思ってもみなかった。狐に主を取られて焦りでもしたのだろうか。

(しっかし女っ気のなかった盛一郎が二人も嫁をとるとはなぁ)

 カラステングが持ってきた文には随分と妖力が染み込んでいて、これ、繋がったまま書いた代物ではないかと思ったものだ。昔見た際には一本だった稲荷の尻尾が三本に増えているのを見るに、その予想は間違っていなかったのかもしれない。
 男子3日会わざればなんとやら
 そんな言葉を思い出しながら、狸は久しぶりに全てを忘れてひたすら旦那と愛し合うのも悪くないかもしれないと考えた。

「女将。お茶の用意があるらしいので、続きは家でどうでしょう?」
「うん、せやな」

 行李を持とうとする盛一郎の厚意を辞退しつつ、女将は穂積が住む家へと案内された。

   ●

 昔訪れた時よりも穂積の家はこじんまりとしていた。
 以前が何十人も住まうような家だったため、一人で暮らすには大きすぎたのだろう。
 家の中には新しい男物の着物や子供用の着物があり、穂積の技術が昔と比べて上がっているのが見て取れた。
 最近住まう者が増えたためにまた少し家を大きくしようか考えているという話をしながら穂積ととうが出してきたお茶をすすり、女将はいろいろと訊きたそうな盛一郎に話を聞かせてやった。

「何を隠そう、あたしこそが穂積サンに作った織物を売ってみまへんか? と声をかけた張本人や」

 盛一郎は「やはりそうか」と頷いた。

「穂積殿が作った織物を神器扱いして売っていたというのは女将なのですね」
「なんやねん。知っとんのかい」
「穂積殿が刑部狸を苦手になったのはそのせいだと、以前に聞きました」

 女将は穂積を見る。

「そうなん?」
「それはそうです。実際にはなんのご利益もないものをこれは凄いものだと言って売られていたのですよ。気持ちの良いはずがありませんし、以後、どうしても商を生業とする方を警戒の目を向けてしまうようになってしまいました」
「それはすまんかったな」

 長年生きているくせに妙に純な狐に素直に頭を下げ、繕うように言う。

「穂積サンが作ったものは本当に物がよかったんでなあ、これ使って夫だまくらかしたろと思ってまったんやな。結果的には誰も損するようにはしてなかったはずなんやけど」
「あの時にお詫びもいただきました。神器扱いも、あなたが旦那様と縁組されてから撤回されておりましたし、過ぎたことですね……でも苦手ではあります」
「あの頃は旦那はんも悪どかったからなぁ、ちぃとがんばり過ぎたか」
「穂積殿からその時の話を聞いた時、圧政を行っていた代官を騙そうとしたと聞いたのだが……その代官とは旦那さんか?」
「せやね。今では人の良いオトンになっとってそんな面影はないやろ?
 財産の一切合切を失った時の旦那はんの顔は憑き物が落ちたみたいでな。人間、血走った目で搾取しまくるよりも大人しぃく搾精されとる方がええってもんやな」

 歯を見せて笑うと、女将は手を合わせて拝むように盛一郎に詫びた。

「教えてなかったのは堪忍してな。もうずっと昔のことなんで、旦那はんに悪い印象持たれたくもなかったんや」
「それは別にいいですよ。しかし、人は変わるものですね」
「盛一郎も相当変わったように見えるで」

 女将がそう言ってとうと穂積に視線をやると、顔を赤くして照れている辺り、まだ盛一郎は可愛らしい。

「せや、変わると言えば穂積サンだって随分変わってるわな」
「そうなのですか?」
「おねえ様のむかしのことでございますか?!」

 盛一郎ととうが興味津々で身を乗り出した。

「お待ちください。そんな過去の話は別にいいではございませんか」
「せやなー、穂積サンがあたしのことをお義母様と呼ぶんやったらその辺り黙っといてもええんやけど……どや?」

 穂積が低い唸り声を上げて黙り込んだ。
 義母呼びが確定してしまうと力関係が定まってしまうような感じがするし、過去のこともある。色々と葛藤しているのだろう。
(かわええなあ)
 しかし即答できないのなら、この場で息子と娘のような存在相手につい滑ってしまう口を止める一手にはならない。
 狸は盛一郎から献上品のように差し出されたお茶菓子を受け取って話を始めた。

「昔この辺りで大きな戦が起きて穂積サンは逃げてきた人間を匿っておったんやけどな。そん時ちぃとやり過ぎてもうて匿っていた人間たちからも恐れられてしまったんやな。
 戦が終わった後は人間達はそれぞれ麓に焼け残った村の跡に散っていって、穂積サンは一人でこの家に残ったんやけど、そん時にあたしがこの山に行商がてらよったんよ」

 話が進むのを見て、穂積は「もう好きなようにしてください」と大人しくなる。
 では遠慮なく、と女将は続けた。

「そん頃な。今より大きかった家に住んでいた穂積サンは一人になってそれはもう寂しそうにしててな。行商でやって来たあたしに人里のことやら訊いてきたんや。人里に興味があるのならここで一人で暮らすよりも実際に人里にでも下りて行けばいいいのにと言ってやったんやけど、山に踏み入った人間相手にやりすぎたことを悔いておってな。自分が人の里に居ればきっと皆が気後れしてしまうかもしれないし、かといって戦火の後でこの山から離れすぎるわけにもいかないっちゅうて人の営みだけでもたまに見に行くことができればそれでいいと言うてたんやな」

 そういえば、と女将は穂積の純金のように綺麗な髪に目をやる。

「あたしが旦那はんを更生させてから織物の件の詫びも兼ねて送った、あたしらの種族の中でも匠と祝言挙げた好きモンが作った狸式人化けの簪はどうしたん? 市場で穂積サンが作った織物が出てるの見たことあるし、ちょくちょく化けては人里に行ってたんやろ?」

 言うと、話を聞いていた三人が反応した。
 盛一郎はむせ出して湯呑みを置き、とうは目を伏せ、穂積が居心地悪そうに足をすり合わせる。

「……申し訳ございません。あの簪ですが、壊れてしまいました」
「あの簪が壊れたんか?」

 なんでまた、と女将は思う。
 形あるものは皆壊れてしまうものだが、それにしても、あの簪は妖力を隠蔽して知覚能力を抑え込み人により近い化け方をさせるために妖力的にも物理的にも丈夫に作られた品だ。そうそう壊れるものではない。
 女将がそう思っていると、とうが頭を下げた。

「もうしわけございませぬ。すべてはとうがおしりが苦手なホヅミおねえ様にもっとなれていただこうと思いいたずらをした結果でございます」
「ん? それってどういうことや? もちっと詳しゅう教えてくれへん?」

 いまいち要領を得ないとうの話について説明を求めると、穂積が覚悟を決めた表情で口を開こうとした。

「穂積殿――」

 それを盛一郎が止めようとするが、穂積は首を振り、

「せっかく頂いた貴重な簪を損なってしまったのです。元の持ち主が詳細を聞きたいというのでしたらお教えして差し上げなくては」
(ええ、そこまで真剣にならんでも……)
 内心ではそう思いつつも、女将は真面目な顔を意識して話を聞く姿勢を整える。
 穂積は説明を始めた。

「私は、お恥ずかしながらお尻を使ってのまぐわいが得意ではないと申しますか……いつも不覚をとっていましたので、盛一郎様にご満足していただくためにはやはりこちらの具合も整えなければと思いまして、とうにお願いして盛一郎様が出かけている間に修練しようと思ったのです。
 修練に当たっては、妖怪の身であるから感じすぎてしまうと思いまして、あの簪で人化を行い知覚も鈍らせた状態で行えばきっとゆっくりと慣らすことができるだろうと画策していたのです。
 それでとうに手伝ってもらい、少しずつ慣らそうとしておりました所……盛一郎様が戻って参りまして、その……修練中の姿を見られてしまいました」

 はあ、と息をつく穂積の後を引き継いで、盛一郎が話す。

「最初戻った時は人の姿の穂積殿をとうが正体が分からずに襲っているのではないかと思い、とうを止めようとしたのだが、そうしたら穂積殿がこれはお願いしていることなのだと言ってな」
「盛一郎様を必要以上に締め付けることがないようにと秘密で慣らしていることを白状いたしましたら、盛一郎様は気にしなくてよいとおっしゃいまして」

 穂積の目が少し蕩けた。

「おねえ様になら食いちぎられてもほんもうだとか、しゅうれんをつむならばあるじ様も付き合うとか……とうは少しく、りんきをもよおしました」
「それで、とうが尻の脇差でそれまでいじっていた尻に脇差しを挿してな」
「いきなりでしたし、それまでに傘の舌で少しほぐしていただいていたので、妖刀になっている刃を受けて正体を失いかけてしまいました」
「妖刀……魔界産の鉱物で作られたわけでもないのに変質したんか。
 体内にあるからなんかな」

 尻に脇差があるせいか、前傾気味に座っているとうを見て女将は唸る。

「そのような状態で、気が付けば簪がひび割れる音が聞こえてきまして、盛一郎様が達した瞬間に隠していたはずの尻尾や耳が飛び出て、髪も金色に戻り、簪が壊れてしまいました」

 女将が盛一郎を無表情で見ると、盛一郎は「色香が……」とかなんとか言って言い訳を始めた。まあ妖怪の誘惑に抗えという方が酷だろう。
「――その時、尻尾が一本増えていることに気付いたのだ」

 長い言い訳の最後に付け加えると、盛一郎は茶を一気に煽った。

「極楽を垣間見たあの時、妖力の制御が利かなくなっておりましたので、恐らくは漏れ出る妖力が簪が隠しておける限界を超えてしまったのではないかと思います」
「もうしわけございませぬオカミ様。全てはとうが至らなかったゆえのこと。この身がつぐなわせていただきますのでなにとぞごようしゃくださいまし!」

 土下座までしそうな勢いの付喪神を見て、狸は破裂するように笑った。

「っぷ、はははははっ!
 あー、そりゃあかんわな。うん。唾に妖刀に魔羅の重ね技とくれば狐の化けの皮も剥がれるってもんやわ」

 目尻に浮かぶ涙を拭い、三人それぞれの視線を受けながら女将は言う。

「あの簪に抑えられる妖力に限界があることが分かった。それであたしは満足や。うん、面白い話も聞けたしな。
 懐いていても男を巡る戦いには全力な君の在り方に免じて簪の件は水に流してあげましょ。
 せや、穂積サン代わりの簪要る? 使うんならまた持ってきたってもええんやけど」

 穂積は首を横に振った。

「いえ、もうそれは必要ございません。盛一郎様に身を隠すことなく人の中に生きていこうと言われ、道もつけてもらいましたから」
 昔と比べて柔らかくなった。狐の笑みに狸はそう思った。

(神は神でももう荒御魂ではなく和御魂やね)

 三人揃って幸せそうで何よりだ。
 女将は茶を飲み干した。

「さて、息子に嫁二人の顔も見れた。そろそろ行くわ」
「もっとゆっくりして行かれてはいかがですか? 夕餉も用意いたしますよ?」
「遠慮しとくわ。元はといえば言伝のカラステングに盛一郎が持たせた文にあった、新しく作るっちゅう街道の道筋を実地で見に来るのが目的やったしな。ここに来るのはついでや。
 まあ、あたしが産む子の旦那にしてやろうと思っとった女っ気なしの養子が、この短い間にまさか旧知の狐と愛用の道具を嫁にして侍らせてたのは流石に驚きやったけどなぁ。
 今度またゆっくりさせてもらうわ。あんたら見てたら旦那はんと早く子作りせなと思っていてもたってもいられんくなってきたわ」
「そうですか、残念です」

 穂積が、おそらくは本心で残念がっている。
 この狐のことだ。養子を隠れ家に引き込んで嫁にしたことを気にしているに違いないと思い、あえて話に混ぜ込んでみたらその通りの反応だ。そんなことだから長年旦那もなく半引きこもり生活をする羽目になるのだ。

(老婆心で気にするなと言ってやってもええけど、きっと無駄やな――って誰が老婆やねん!)

 ともあれ、彼女の気がかりを解くことは今はできまい。これで縁が繋がった以上、今後そんなことを思ったことを後悔するほどのお付き合いをしていけばいい。
 そんなことを思っていると、とうが手を挙げた。

「オカミ様! あるじ様にお子をとつがせようとお思いでしたらぜひあずけてくださいませ! 愛し方も、愛され方も全部教えてさしあげますゆえ!」
「それもええなぁ」
「そうですね。そのような娘でしたらこちらも覚悟が決まってますしね」
「いや、これ以上は体が保たない、勘弁してくれ」

 穂積ととうが優しい笑みを盛一郎に向けた
 この子も大変そうやなと思いつつ女将は立ち上がった。

「今度は皆で家に来いや。特に穂積サンにはいろんな国の装飾を見せて織物の腕をもっと上げてもらいたいしな」
「ええ、あなたの旦那様にもご挨拶をしなければなりませんし、近い内に伺います」
「よろしゅうな。
 ああ、せや。祝いの品を持って来てたんやった」

 女将は行李から小さな包みを取り出した。中にはいくつかの種が入っており、

「ちぃと珍しい、大陸産魔界植物の種や。夜の生活が捗るで」

 にひひと笑むと、それはそれは妖艶な表情で狐は受け取った。

   ●

 盛一郎達は物見遊山ついでに下の町の経済状態も確認したいという女将について下の町に下りることにした。
 付き添いなどいいと女将は言ったが、こちらも穂積の正体をいつ町の人々に話すのかタイミングを決めあぐねており、この女将の訪問は降って湧いたきっかけだった。

「簪も壊れた以上、化けるにしてもこれまでと同じにはいかない。敏い妖怪には穂積殿が只人ではないと露見するだろうから隠し切ることもできまい。ならばもう話に行った方がいい」
「これまで私が作っていた織物を買ってくれていた店に挨拶に行く必要もありますしね」

 そう言いながら山を下りる穂積の尻尾の一本が盛一郎の右腕に絡んでくる。これからありのままの姿で人里に下りることに緊張しているのだろう。尻尾の動きが固かった。
 盛一郎の頭に傘布を載せて本人は左腕に抱きついてご満悦なとうをちらちら見ているののは羨ましいのだろうか。
 今更山道で転ぶ心配もない。穂積も尻尾といわず全身でもたれかかってくればいいのにと思うのだが、女将が居るせいか、一定の距離からなかなか近寄ってこなかった。
 女将は穂積のなんとも言えない気持ちを察しているのか、先程から忍び笑いが止まらない。
 そんな狸が忍び笑いを噛み殺しつつ口を開く。

「織物の腕も上がっとるようだし、どうや? その店に代わってあたしが改めて織物買おうか?」
「いえ、あそこには先々々々代からお世話になっておりますから、そう簡単に変えられませんよ」
「じゃあせめてこういう服が欲しいと注文があったら作ってくれるようにしてもらえんかな? 穂積サンの腕なら人気間違いなしやで」
「そこは今後要相談です、女将」

 盛一郎が尻尾を撫でながら言うと、女将は口を尖らせた。

「む、ここで価値の吊り上げにかかるとは、商才発揮してくるやん」
「こんな遊びみたいなことでそんなことを言わんでください」

 今度家に行った時に相談、という話にまとまった辺りで一行は町に着いた。盛一郎が山を登る前に訪れた町だ。
 そんなに時間は経ってはいないはずだが、多くの人が行き交う人里の姿に少しばかり懐かしさを覚える。

「さて、あたしはささっと町を見てくるから、あんたら飯まだやろ? そこらで食っとき」

 女将はそう言うとさっさと雑踏の中にまぎれていく。
 人混み自然と溶け込んでしまった女将を見て、流石に慣れてると思っていると、自分達に多くの視線が向いていることに気付いた。
 いつの間にか、周りには人が集まり始めていた。
 穂積のことを知っているのか、それとも女二人をくっつけている盛一郎が珍しいのか分からないが、人が集まるにつれ、人垣自体に惹かれて人がまた集まってくるのを見るにつけ、これは厄介そうだと盛一郎は唸る。
 女将はこの事態を素早く予想して自由に動ける内に姿を消したのだろう。
 とにかく場所を変えようと思い、盛一郎は二人に声をかけた。

「女将が言ったとおり、ここは少し早いが夕餉にしようか」
「そうですね。あまり大通りで止まっているのも悪いですし」
「行きましょうあるじ様」

 二人の了解を得て咄嗟に潜り込んだのは、山越えをする前に寄った飯処だった。
 時間もちょうどこのくらいの時間だったかと思いつつ、盛一郎はのれんをくぐる。
 飯時を微妙にはずしているためか、店にはあまり客が居ない。
 その少ない客も旅人なのか、穂積の姿を見ても必要以上に気にはされてはいないようだ。
 それでもちらちらと視線が向くのは穂積やとうの容姿ゆえだろう。

「あるじ様、こちらはたしか山に登る前によったお店でございますね」

 とうは店を覚えているようで、穂積に店内を案内し始めた。
 穂積はというと、食事は自分で作ってしまうせいで飯処を訪れるのは初めてらしく、物珍しそうにあちらこちらを見ている。
 適当に三人分の飯を頼むと、そう時間を置かずに山を登る直前の盛一郎に忠告してくれた初老の男が食べ物を運んできた。

「あ? なんだいあんた。また寄ってくれたのかい」

 盛一郎のことを覚えていたのか話かけてきた彼は、一通り案内をされ終えた穂積が席にやってくるのを見て目に見えて緊張し始めた。

「あの、あんた……いや、あなた様は、もしかしてあの、山の上に座します穂積様ではごぜえませんか?」
「えーと、そうですねぇ……」
 
 穂積が伺うような視線を向けてくる。
 食事の間くらいは黙っていようかと思ったが、今日下りてきたのは穂積の正体を明かして彼女と人との繋がりを結び直すことにある。
 ゆっくりと飯を食うのも町を歩くのも、また今度にすれば良い。時間はたっぷりとあるのだ。
 そう思い、盛一郎は頷いた。
 穂積は微笑み、

「ええ、私はこの山で暮らしている稲荷の穂積ですよ。此度は私とこの娘と私の旦那様の紹介を兼ねまして山を下りてまいりました」
「おお、やはり! いやあ、金の髪に金の目のべっぴんさんだと聞いていたんだけど、尻尾の数が違うんで別人かなとも思ってたんですが、やあ、しかし、旦那? あんたがかい? ってかもう一人の娘っ子は一体どこのこだい?」
「せっかちで気になることは確かめずにはいられないのは血ですかね」

 穂積はそう言うと、店の中に飾られている古びた屋号の旗を見た。

「私が織ったものですね、懐かしい。この屋号を見た時は驚きましたよ。本当に飯処を営んでいたのですね」
「ええ、曾々々爺さんが戦火で店を失ってから新しく作り直した店でさぁ。
 神様を畏れっちまった負い目からずっと屋号は表には出してなかったんですが、ああ、これで先祖も報われまさぁ」
「気にすることなどありませんでしたのに。
 ……これまでも山から化けて下りてきていたのですが、気付かずにいて申し訳ございません。これからは是非屋号を表に出してくださいましね」

 感極まった初老のおやじが涙ぐむのを見守りながら、盛一郎は彼の外見年齢と曾々々爺さんにあたる人々の年齢を概算しようと指折り初め――穂積の咳払いで計算式は吹き飛んだ。

「こちらの方が私を化けさせずに町に下りるように諭してくださった旦那様――盛一郎様です」
「はぁー……まさかお前さんが穂積様の旦那になるとはなあ」
「俺も数日前まで嫁さんができるとは思ってもみなかったよ」
「いや、しかしあんたのおかげでこうして穂積様はうちの店にやってきてくれたんだ。ありがとうよ」
「俺はきっかけになったにすぎないんだがな」

 そこまで言って、盛一郎ははたと思い出した。

「それより、山に登る前に言われた通り、山を見くびっていたら神様に喰われてしまった。
 ここは憐れんでこの飯を供える気はないか?」
「羨むわこの果報者め――それとそっちの子は一体誰なんだ? あんたの妹か?」

 話を振られたとうは、胸を張って答えた。

「とうはあるじ様のショユウブツでございまする!」

 おやじの視線がなにやら痛い。
 盛一郎は頭の傘布を外してとうの頭に被せてやる。
 傘布からは目が開き、おやじを見つめた。
 驚いて一歩引くおやじに盛一郎は言う。

「持っていた傘が付喪神になってな。それからは自然な流れで嫁になった」
「主思いのとっても良い娘なんですよ」

 穂積が付け足すと、おやじが盛一郎を凄いものを見る目で見始めた。

「あんた、見かけによらず、すごいお人だったんだなぁ……」
「神様二柱に食べられてしまったのだ。ここは盛大な憐れみを乞う」

 そんなことを言うと、穂積が「いいえ!」と割り込んできた。

「盛一郎様を食べるなど、とんでもございません! 私こそが好きなように食べられるべきなのです。私は盛一郎様の愛玩動物なのですから」

 おやじの口から感嘆の息が漏れた。なにやら拝められ始めたので盛一郎が訂正しようと口を開きかけると、穂積の言葉を聞いて彼女を尊敬の眼差しで見ていたとうが挙手し、

「あるじ様! とうはあるじ様の愛玩物を名乗ってもようございますか?」

 おやじが意味もなく何度も頷き、奥に引き返しては盛一郎にそっと酒を出してくる。

(代金をしっかり払おう)

 心にそう決めながら、盛一郎は身を寄せてくる二人に言った。

「好きに呼んでくれても構わないが、俺からしたら二人は愛妻だからな」

 二人は今にも襲ってくるのではないかというような淫らさと嬉しさが重なった上気した表情で黙って頷いた。

「喰ったのってお前さんじゃないのか……?」
「もうそれでもいい気がしてきた」

 盛一郎が応じると、おやじはようやく驚きから脱したのか、気持ちの良い笑みで言った。

「なんにせよ、ここらの住人を代表してあんたには礼を言わせてもらうよ。ありがとよ」
「ん、まあ、これから見回り衆や商売の関係で一騒ぎ町に起きるかもしれないが、その時はよろしく頼む」

 そう言うと、盛一郎は店の前に詰めかけていた町の、恐らくは穂積に縁を持つ者の末裔達にも頭を下げた。

 その日は日が傾くまで町で過ごし、顔と名前を広めることに費やすことになった。
 一通りの挨拶が終わり、合流した女将や見回り衆の者と今後について話している内に何故か神様二柱を娶った益荒男という称号が付いているとカラステングから教わってむず痒い思いをしたのもまた、幾年も後になってみると良い思い出であった。

16/08/29 02:54更新 / コン
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■作者メッセージ
結の吉の部分でございます。
プロローグのおやじとの会話を受けての結びなので起承転結の流れに加えなくてもいいもんね!
というおおらかな気持ちで宜しくお願い致します。

少し予想外の増量となりましたが【狐とからいも】は以上で完結でございます。
お付き合いいただいた方々、ありがとうございました!
評価感想していただけると作者はとても喜びますので何卒……!

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