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7話

【変貌】



    言ってみれば、それは最悪の状況だった。
 ゲーテとソニアは敵の手の中にあり、嘗ては俺を守護していた心強い結界は、今では教団の味方をしている。あれは強力だが、万全の状態の俺でならなんとか打ち崩せた代物だ。だが、今の俺に聖人ケルニールを打ち破る力は残っていない。
 すぐに気付いた。手詰まりだと。
 俺は言い成りになるしかなかった。司祭に渡された黒い種を口に放り込む。ざらざらとした感触が粘膜を削る。噛み砕こうと歯を立てても、クルミより硬い其れは犬歯を埋め込む隙さえ見せない。結局、割りと大きめなそれを丸のみするしかなかった。


    ゴクッ


 喉壁を押し広げ、それはゆっくりと俺の身体の中に入り込んでくる。やがて、すとん、と身体の底に落ちた。種が胃酸に曝されている場面を想像する。冷や汗が頬を伝う。心臓締め付けられる。だが、何時まで経っても痛みも違和感もない。それどころか、胃の中でごろごろとしていた種の存在がすっと消えた。
 俺は思わずほっとしてしまった。そのまま消化されたようだ。なんだ、何も起こらないじゃないか。身構えて損した。そう思った。
 ……すぐに、後悔する事になる。

 ズチュッ

   !!? おぐぇッ」
 生々しい音と共に激しく込み上げてくる吐き気。そのまま口から吐き出されたのは、ドス黒い血。激しくきりきりと腹が痛み始める。
「どうやら同化が始まったようじゃな」
 爺が言う。同化。どういう意味だ。そう問いたかったが、この世のものとは思えぬ激痛に俺はみっともなく悶え、膝を付くだけだった。
 なんだ、この痛み。まるで、胃壁を突き破って何かが身体に根を張っていくようだ。痛みが腹から広がっていく。抗おうと腹を掻き毟っても治まる様子のない、全身を這う蟻走感と吐き気。今度吐き出されたのは先ほどよりも数段ドス黒い血。自分のものとは到底思えなかった。


 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い   ッ!


 身体がひとりでに仰け反る。俺の意思を無視して、全身の筋肉が好き勝手に動き出す。まるで何かが身体に乗り移って、動きを確かめているかの様に。その時から、もう俺の身体は得体の知れないモノに支配されていた。

 やがて、痛みは首を這い上り、額を貫いた。

 そして俺の意識は触手に雁字搦めにされ、深い闇へと引きずり込まれ、沈んでいくのだった   



―――――



 不思議な感覚だった。

 目は開けていないのに、光の中に自分がぷかりと浮かんでいる気がする。

 酷く眠たい。だけど、これほどまでに気持ちが安らいだ事など、今まであっただろうか。

 不思議で、得体の知れない感覚だけど、少しの間だけ此処に居てもいいな、と思った。

 母親。もしかしたら、これがそうなのかもしれない。母親の腕の中に抱かれている、というのは。

 そんな事をぼんやり思う。

    涙が、出てきてしまった。

 そんな時に、声を聞く。


   なんで、泣いてるの?』


 腫れ物に触るような、そんな少女の声。俺は何故なのか考えてみる。

「……納得、出来ないんや」

 そう一言。続けて、言葉が思いつく。

「俺は……なんで、皆に憎まれるんや……? 俺、何か悪い事した……?」

 教団が俺を虐待した事。
 同僚が俺を排他しようとした事。
 ドリスが俺に答えてくれない事。
 ゲーテが俺を信用しない事。


    母親が、俺を捨てたという事。


「なんで……俺だけ?」

 他の子供達は攫われて教団に居る。だけど、俺は違った。

 ……売られて来たのだ。実の母親から。実の家族から。

 その事実を知ったのは、最初に教団の施設に忍び込んだ時。其処には、俺が教団に売られてきた経緯が事細かく記された資料があった。
 俺はそれが信じられなくて、大陸各地の資料と照らし合わせる為に彼方此方の施設に忍び込んだ。だけど、どれもこれも最初の資料を裏付ける内容しか書かれていなかった。
 そして俺は最後の望みを掛けて、教団本部に忍び込むに至ったのだ。
 しかし、各地の施設を回っていた所為で俺の動向は完全に奴等に伝わり、こうして本部に罠を仕掛けられる羽目となってしまった。


 俺は納得いかなかった。

 信じていたのに。

 未だ見ぬ家族だけは、俺の事を何処かで想ってくれているって。

 納得、出来た訳なかった。



 やがて、声は俺に同情するように囁きかえす。

『かわいそう。誰も、貴方を愛してくれないの』

 突き詰めればそうだ。また、泣きたくなった。

 するとその時、頬に柔らかい何かが触れた。

『じゃあ、私が愛してあげる。……誰よりも、深く』

「え?」

 突飛な台詞を聞いた後、唇に何かが触れた気がした。

『だから……一緒に居ていい?』

 俺は頷いた。

 彼女はくすり、と笑った。





   じゃあ、私達の邪魔をする人達を始末しなきゃ、ね』





――――――――――





    先程まで苦しみよがっていた男が、唐突に立ちあがる。
 教皇と幹部達は、今まで浮かべていた笑みを消した。
「……誰も俺を愛してくれない。誰も俺の事を考えてはくれない……」
 彼は、傷だらけの身体を引き摺りながら呟く。
「そうか……そう、やよな。こんな化け物、誰かが愛してくれる筈ない……」
「どうやら、同化は、終えた様じゃな」
 教皇が神妙な面持ちで言う。
「どうじゃ、ヴァーチャー。魔に犯された身体は」
 ヴァーチャーは答えないまま、ゆっくりと結界に近付く。腕を力無く持ち上げる。
 指先が触れる   瞬間、強い火花が散る。
「無駄じゃ。例え魔を宿そうと、聖人の力が容易く破れるか。それも、消耗しきった今の御主にッ」
「……」
「……? なんじゃと」
<密告者の王よ。咎人のうち喰らう指にて構わん。血の滴らん肉で舌の渇きをいやせ>
 その詠唱が教皇の耳に届いた瞬間、ヴァーチャーの、だらりと床に向けていた腕から異形が放たれる。
 その異形は勢いよくヴァーチャーの傍の地面を食い貫いた。
「きょ、教皇様っ」
「慌てるな。例えヴァーチャーでも、聖人の盾は破れ……」
 そう落ち着かせようと試みた瞬間だった。
   ぐあぁぁッ」
 ヴァーチャーの放った異形が結界の中に現れ、勢いよく幹部の一人を飲み込んだのだ。
 其れに端を斬ったかのように、次々と異形が結界の内側に現れ、邪神教幹部達を丸飲みしていく。
 その光景は余りにも邪悪だった。
「ひ、ひぃぃっ」
 しわがれた顔が青くくすむ。あっという間の出来事だった。もう、教皇の傍には教徒はいない。老人の目には、異形が結界の下を潜り抜けたのだと考え付く余裕すらも失っていた。
 結界がふいと消える。身の危険にすくむ老体を、生への執着が動かしたのだ。転げ落ちる様に、地面から突きだす異形から逃げる。
 だがその時、恐怖がその足を掴む。転げ伏せる教皇。皺に流れ込む汗。留まりなく噴き出すそれは、共に寿命が漏れ出す錯覚を憶える。
 そして   倒れ伏す老人の目の前に、赤いブーツが置かれる。血肉を踏み締めただろうそれは、微かに覗く下地から、元々は皮のブーツであると主張した。
 見上げられない。恐怖からか、疲労からか、教皇はそのブーツから上に目線を這わせる事が出来なかった。
 ヴァーチャーは、そんな枯れ果てた老人を見降ろして笑う。それは被虐的に光った。
「た、助け……慈悲を……ッ!」
 老人が声を震わせる。
 だが、老人の目に映った、ヴァーチャーの影は歪に   そう、背中から四枚の花弁を開いたかの様な形に変貌した。其処から更に数本の細い影が蛇のように広がる。
 非力な老人は沈黙した。
 後悔の念も何も窺わせない瞳を剥き出し、首を地面に転がしたのだった。





――――――――――





 奴が躊躇なく教皇の首を殺ぎ落とした時、俺は我に返った。
 目の前に蠢いていた怪物は、幻であった事を示すように霧に消えた。が、其処にあったのは確かに黒衣の男達の無残な体だった。
 邪教徒の集会場に残されたのは、俺と、ソニアと   豹変した嘗ての友の姿。
 眩しく月が照らしだすその姿。ヴァーチャーの背中の肉は花弁のように四方に裂け、露わになった背骨から黒い塊が漏れ出している。それは、只地面に垂れ落ちる事はなく、引力に逆らうかのように、中に伸びていく。
 その異形は、さながら、花の中心から伸びる雄蕊と雌蕊のようだった。
「ヴァ、ヴァーチャー……!?」
 その姿はどうした、と口に出そうとも、声が出ない。
 原因は見え透いている。教皇たちが飲ませた、あの種子の様なものだろう。しかし、何がどうなってヴァーチャーがあのような姿になったのか。この結果に至る過程に問い掛けたい気持ちで一杯だった。
 ヴァーチャーは俺達の方を向いて、目を丸くする。
「……どうした、そんな顔して」
 此方の台詞だ。自分の姿が変貌してしまっているというのに、どうしてそんなに平然としていられるのだ。
 そんな俺の問い掛けにピンと来たようで、ヴァーチャーは背中から生える触手をそっと撫でながら語る。
「ああ、此奴か。まぁ、いいじゃないか。面白くて、さ」
「面白いって……」
 緊張感もなく、にししと笑うヴァーチャー。此奴がその姿に納得しているというのなら、これ以上突き詰めまい。ソニアの顔を窺い、彼女が頷いたのを見て、俺は笑みを零した。
 ヴァーチャーは背中の肉を触手と共に仕舞い込むと、代わりに刀を抜く。まずはソニアを縛る鎖を断ち切り、後に俺を自由にした。
「……先にソニアか」
 ぽつりと文句を言うと、途端にソニアが冷たい瞳でこう言った。
「当たり前です。みすみすと敵の言う事を聞いた愚かなマスターが、私より先にお父様が助ける訳がありません」
「あ、あれは貴様を助けようと……!」
「それ以前に陳腐な罠に捕まった間抜けなマスターに口答えする権利はありません」
「貴様に主人の権利をどうこうする権限があるのかっ」
「それでは今後、一切朝食と昼食と夕食の提供を停止させて頂きます。ソニアの権限は其処から準じるものですので」
「うぐっ、それは……」
 それは勘弁してもらいたい。ソニアの作る食事は俺の健やかなる精神を育む中で重要な役割を担っているのだ。
 そんなやり取りを興味深げに眺めていたヴァーチャーは、嬉しそうに笑う。
「ははっ、お前達、ホント仲がいいな。作者冥利に尽きるよ」
「ヴァーチャー、貴様の目は節穴か? 今の会話の何処に親密性が窺い知れるのだっ」
「須らく、窺い知れたけど?」
 自信たっぷり、反論は受け付けないと言った表情。この男には勝てない。何時もの事だが。
「ソニア、もしかして、ゲーテも何かされたのか?」
「はい。妖精の肉、というものを食べさせられました」
 ヴァーチャーは顎に指を置く。
「う〜ん。妖精の肉といえば、あのちっさいの?」
 そうではない。俺が答える。
「いや、両手に乗せる程の肉の塊だった」
「身体に変化は?」
「食べさせられた時は、猛烈な吐き気がしたが……今は何ともない。寧ろ、力が湧いてくる気がする」
 ヴァーチャーに説明した通り、さっきまでは体中を不快感が支配していたが、今では魔力が満ち溢れている。それどころか、死の恐怖が何処かに遠ざかった気分さえした。
 ヴァーチャーは俺の額に手を触れ、目を瞑る。暫く何かを探る様に集中した後、手を遠ざけた。
「……何かが寄生している気配はないな。恐らく、呪いの様なものだ」
「どういった類の呪いだ」
「心配すんな。不老と、ちょっとばかし魔に近付く為の呪いだ。人間離れした魔力と寿命が宿る筈」
 成程。一応、教団もそれなりに効果の期待出来る物を調達していたようだ。
「ていうか、人魚の肉だったんだろうな。それも、かなり名のある人魚。それがどういう訳か、妖精の肉とされて裏市場に流れていたものを教団が買い付けたんだろう」
「成程」
「取り敢えず、心配ない。寧ろ、ラッキーだったかもな」
 ラッキーと言われても、余りお得感などない。自分から求めた訳でもない命と力だ。有難さも何も感じなかった。
「……これで、邪神教も終わりですね、お父様」
 ふと、ソニアが状況を見渡して言う。教団の教皇と上級幹部はヴァーチャーの手によって没した。後は地位の低い幹部や、各地に点在する支部の幹部達が残っているが、それでも元の力を取り戻すのに足る人材はいまい。
「そうだな」
 俺が答えた。ヴァーチャーは目を細め、惨状を見渡す。
「……ヴァーチャー。手が震えているぞ」
 そう指摘されて、奴も初めて気付いた様だ。大袈裟な程驚きの表情を見せる。
「本当だ。はは、久し振りに“殺し”やったからかな」
 声が上ずる。きっとヴァーチャーは外の世界で平穏に暮らしていたのだろう。それなのに、俺の危機を伝える為だけにその世界から戻って来てくれた。
 なんて、温かい奴なのだろう。何故、此奴はこんなに善良でいられるのだろう。俺は感謝の気持ちを彼に目一杯向けた。
「そ、それで、ゲーテ。もうこうなったからには教団を抜けて、パンピーになるしかないと思うけど?」
 そう問い掛けられる。もう俺のしがらみは消えた。教団と言う揺り籠も、此奴への妬みも、何もかも。
 俺もそろそろ、時計の針を進めなければならない頃らしい。   俺は何度も頷いた。
「ああ、そうなるだろうな。だが、パンピーとはなんだ」
「イッパンピーポーという言葉を略した、最高にナウい言葉だ」
「お父様、嘘を教えないでください。マスターは馬鹿なので、本気にしてしまいます」
「……おい、ソニア。俺以外の人間へのレスポンスでも、俺を批判するのを怠らんとは、随分下らん事に熱心ではないかっ……!」
「勿論です。誰と話していてもソニアの口は自然にマスターへの悪意に向いています」
「おい、ヴァーチャー……ッ! 外に出たら此奴を改良しろっ。絶対だ!」
 ソニアの口撃にはもうこりごりだ。ヴァーチャーと一緒に外に出たら俺を崇拝する性格にしてやる。
 俺達に先行して集会場の出口に向かうヴァーチャーは、肩を竦める。
「はいはい。メンドイからやる気はないけど、取り敢えず判った」
「本音が出ているぞ、貴様っ! 言ったからにはやれっ。絶対やれ!」
「ははっ、取り敢えず此処から出たら、山の方に村があるから其処で   げふぁっ!?」
 人をからかって面白がっていたヴァーチャーが、唐突に嘔吐した。
 地面にベチャリと、黒い塊が叩きつけられる。
 俺達は足を止めた。ヴァーチャーの背中が、うぞうぞと隆起し始める。まるで、中でさっきの触手が暴れているかのように。
「あ、がぁ、あぁっ……あ、うぅ……ああぁぁぁッ!!?」
 膝を着くヴァーチャーはすぐに苦しみ始めた。俺達が駆け寄った頃には、その背中の皮膚が黒く変色していくのが見えた。
「ヴァーチャー、おい、どうしたのだっ」
 声をかけても苦しむだけ。皮膚の変色は止まらない。
 やがてヴァーチャーの顔全体まで黒く染まった頃、奴の身体に赤い紋章が走った。一気に激しく苦しみ出すヴァーチャーの前に、俺達に成す術はなかった。
「うぐぅぅっ、ぎぐぅぅっ……や、約束……チガッ……ギィィィッ!!
    一瞬持ち上げられたヴァーチャーの顔。苦しみ悶えた表情。目が肌と同じく黒く染まり、ダークブラウンの瞳は渦巻く血の色に変わる。
「気をつけて下さい、マスターッ。お父様の魔力が、別のものに置き換わっています」
「ちっ、ヴァーチャーは何を飲まされたのだ……あのクソジジィ共め!」
   うぐあぁぁぁっ」
 何かに抗うように、理性の叫びと本能の叫びを交互に繰り返すヴァーチャー。
 俺が教団から食べさせられたのは(ヴァーチャーの推測に依れば)人魚の肉だ。ヴァーチャーの場合、何かの種の様だった。
 ふと、ヴァーチャーが先程、俺の中の何かを探り当てて放った言葉を思い出す。

   何かが“寄生”している気配はないな。恐らく、呪いの様なものだ』

    寄生?
 まさか、あの種は寄生する植物のものだったのか?
 ヴァーチャーは自分の中のそれを知っていて、俺にその可能性を探したのではないか。
 とすれば、教団が目的とした人間の魔物化が、ヴァーチャーの場合成功してしまって、今に至るのではないか。いずれにせよ、見た目からして魔物に変貌してしまいつつあるヴァーチャーを、俺はどうするべきだろうか。
 助ける? どうやって。人間が魔物になるのでさえイレギュラーだというのに、どうして魔物から人間に戻す方法が思い付こうか。
 その時、咄嗟に思い付いた、奴を救う方法   

 人の心が残る内に、殺す。

 きっと、それしかなかった。
「マスター」
 俺の考えを読んだのではないだろうが、ソニアが何かを訴え掛ける様な目で俺を見詰める。
 きっと、それしかヴァーチャーを救う方法はない。判っていた……筈だった。
 だが、俺には出来なかった。
 何故だろうか。ヴァーチャーと違って人殺しを苦とはしなかった俺が、今になって“殺し”を躊躇している。
 俺達を助けに来てくれたヴァーチャーを……最愛の友を殺してしまうのが、怖い。
 殺してしまえば、俺はきっと、友を失う以上の何かを失ってしまう気がして。
「ううぅ……ゲー、テ」
 俺が手にダガーを持って尻ごみしていると、ヴァーチャーが俺の名を呼び、叫んだ。

   殺セッ……、ゲーテッ……!!

「!?」
 息を荒げて、苦しみを目で訴えてくるヴァーチャー。
 判っている。人間として、平穏に暮らしていきたい。それが貴様のささやかで、誇り高き夢だった。だから、自分がおぞましい化け物になってしまうなんざ、プライドが許さない筈だ。
「人間である内に殺してくれ」誰もが受け取れたメッセージだ。

「ゲーテ……早、ク」

 だが、俺は……出来なかった。
 ダガーが途端に重くなる。

 その一瞬、ヴァーチャーは   絶望に打ちひしがれた様な表情をした。

「マスター!」
 ソニアが俺に強く促す、その瞬間   

   

 静まった。
 顔を抑えて、あれ程までに悶絶していたヴァーチャーが、不意に苦しむのを止めて静止した。
 何が起こったのかは分からない。けれどその時、俺にはある予感がしていた。
    決して良くない予感が。


「……んく。んくくくく、くっくっく……!」
 身体を震わせ、不気味な笑い。こんな趣味の悪い笑い方、冗談でもする奴ではない。
 俺は奴から遠ざかる。身の危険……そう、背筋を竜が舐めたかのように、ぞぞっとしたのだ。
   ソニア、離れろ」
 未だヴァーチャーの傍に居るソニアを呼び付ける。
 その瞬間、ヴァーチャーの姿が急に大きくなった。
    いや、変貌したヴァーチャーが俺に飛び掛かって来たのだ。
「!」
 俺は咄嗟にダガーを構え直し、奴の腹を貫いた。
 刃に垂れる黒い体液。これは血と分類されるべきなのだろうか。いや、そんな事はどうでもいい。
 俺は片手で奴の腹を抉りつつ、残った手に刃を持つ。そして、一気に首を掻き切った。
 ……黒い雨が僅かに振りしきる。腹の刃を抜く。ヴァーチャーの身体がゆっくりと、倒れていく。

 俺は、最愛の友をこの手で殺したのだ。その実感が胸を貫く。

   マスター!!」
 物思いに耽ろうと、意識を緩めた瞬間のソニアの声。俺は、その声でヴァーチャーが未だに生きている事に気付く。
 首を掻き切った筈だ。何故生きている。見ると、ヴァーチャーの首の傷がたちまち塞がって行くのが見えた。
「ヒィヤハハァッ!!」
 ヴァーチャーは高揚した声を挙げながら俺の顔を恐るべき力で掴みあげると、一気に地面に叩き付けた。
 ドゴォォン   
「ッ   !!」
 身体が深く沈み込む感覚。後頭部に痛みが広がるが、すぐに麻痺する。目の前が暗く、そして赤くなる。
 やがて、俺は意識を失うのだった。



―――――



「……マスター」

 すぐに判った。ソニアの声が耳を撫でた事が。
 頭の中では鐘がやかましく鳴り続けている。ついさっきまでの記憶取り戻していくにつれ、焦燥感が募った。
   !」
 起き上る。急に動いたからか、頭の血が下がる。
「急に起き上がっては血が下がります」
「つっ……丁度今そうなっている所だ」
「予測が当たっていて良かったです」
「良くない……っ! ヴァーチャーは……?」
 周囲を見渡す。俺が奴に気絶させられた時よりも心なしか明るい。どうやら、夜が明けつつある時刻の様だ。
「……ヴァーチャーは何処へ?」
 ソニアがずっと目を覚ましていた前提で尋ねる。彼女が視線を向けた先は、集会場の出口だった。
「何故追わなかった……? 俺の事など放っておけばよかったのにっ。俺の事よりも、ヴァーチャーが……っ」
 其処で気付く。あれだけ激しく叩きつけられたというのに、全身に違和感がない。痛みも呆気なく治まる。
 今一度自分が倒れていた所を見ると、其処には折りたたまれたソニアの脚部があった。
「……頭部に衝撃があった場合、柔らかい素材で頭部を保護する必要があったのですが、身近に適切な素材がありませんでしたので」
 誰も説明など求めていないのに、勝手にそう言い訳するソニア。恐らく、傷もソニアが治してくれたのだろう。
「申し訳ありません。急時に置いては、お父様よりマスターを優先する設定になっていまして」
 そうにべも無く返す。
 ヴァーチャー自身がそう設定したのだろうか。それとも、照れ隠しなのか……
「ふん……まぁ、感謝はしておく」
「当然です」
 ……俺の感謝の気持ちを返せ。
「兎に角、追わなければ話にならんな……ん?」
 自力で立ち上がる。改めて周囲に目を向けると、何か地面に光るものがあった。
 駆け寄って拾い上げる。
    灰色の宝玉が嵌め込まれた、飾り気のない指輪。
「……ヴァーチャーが落としたものか」
「そのようです。微かにお父様の魔力の残滓が感じ取れますので」
「……ソニア、奴の魔力を追えるか」
「はい。しかし……」
 ソニアが言い淀む。
「しかし、なんだ」
「……適切な語句が思い浮かびません。兎に角、外に出ましょう」
 なんだ、どうしたというのだ。俺はソニアに手を引かれ、集会場から出る。


 そして、括目する事になる。



―――――



   な、なんだ、これは……!」
 言葉では説明できない。ソニアの考えが判った。
 扉を開くと、全身に息吹を掛けられる感触。たった一枚の扉を隔てた外は、俺の日常とは一気に様変わりしていた。
 空気が、臭いが、温度が、湿度が、色が、雨が、風が、音が。あらゆる気配が変貌し、空は赤く染まり、雲が渾沌と渦巻き、天が低く轟く叫び声をあげていたのだ。
「なんだ……何が起こった!?」
「……そんな」
 ソニアですら、少なからず驚いている様子。
 そう思っていると、ソニアが戦慄の一言を発する。
「マスター……大陸規模で、魔力の性質が変わっていっています」
   何だと」
「恐らく、何か大きな変化が……きっと、歴史に残る、何かが起きたのかもしれません」


 そう   丁度この時、魔王が正式に代替わりを終えたのだ。


 ゴォ、ゴォ。恐らく巨大な魔力の変化に森羅万象が影響されているのだろう。
 なんという禍々しい光景だろうか。
 魔王が代替わりしたなど判る由もない俺達は、只このめまぐるしい変化に置いて行かれる気がしながら、施設の中でヴァーチャーを捜し歩く。
「……申し訳ありません。お父様を追うには   
「判っている。これだけ大きな魔力の変化だ。いくら貴様でも、追尾は無理だろう」
 俺の身でも判る。これ程大きな変化では、無理に魔力探知しても誤差が大きくなりすぎて役立たずになる。
 庭園に出る。元々は聖女様(教皇の孫娘)の為に作られた花園に足を踏み入れる。小雨の中に血生臭さが立ち込める。足元にゴロゴロと転がる肉塊。どうやら、あの状態のヴァーチャーに襲い掛かって返り討ちに遭った暗殺者のものだろう。
「……ヴァーチャー」
 死体を見る。どうやら最初の一撃は動きを止める程度のもので、一番新しい傷   獣の、的確に急所を狙った一撃によって死に至った様だ。どうやら、他の死体も全てそうらしい。
 此処に来る途中のヴァーチャーは誰も殺さなかっただろう。だが、此処から去る時は違った。
 ……それだけのこと。
「……ソニア、俺を責めないのか」
 俺は、ヴァーチャーの痕跡を辿りながら無意識にそう尋ねていた。ソニアは何時もと変わらぬ態度で返す。
「いつも責めているじゃありませんか。何かよくないものにでも目覚めましたか? マイマスター」
「違うっ」
 俺は躍起になって否定してから、胸の中にしこりを感じながら問う。
「……ヴァーチャーを、殺さなかった事を、だ」
「……」
 ソニアは、ふぅと息を吐く。
「……その件に関しては、ソニアに責める権限はありません」
「何故だ」
   ソニアにも出来ませんでした」
 そう言ってから、もう一度息を吐いた。
「マスターがやらないなら、代わりにソニアがやればよかった筈です。なのに、出来ませんでした。……ですから、ソニアも同罪です」
「……そうか」
「そうです。それより問題なのは、マスターが罪の意識を持つ事です」
 意外だった。ソニアが俺を気遣うなんて。俺はどちらかと言えば口汚く罵られるものかと思っていたのだが。
「あれは辛い役目でした。それを唐突に押し付けた、お父様が間違っていたのです」
「はは、彼奴も嫌われたものだな」
「マスターを苦しめていいのはソニアだけですのに」
「……俺の嫌われっぷりも負けていないがな」
 ほとほと、溜息が途切れない。
 数々の死体を眺めながら死の痕跡を手繰り寄せていく内に、ある疑問が浮かぶ。
「ソニア」
「なんですか」
「ヴァーチャーは……何故俺にトドメを刺さなかった」
 無残な死体。まるで理性が残っていたようには見えない。なのに、何故俺を殺さないでいたのか。まだ、其処までの理性が残っていたのか。俺は無性に気になった。
「判りません」
 ソニアはそう答えた。
「お父様はマスターを気絶させた後、早々に立ち去っていきました。……死んだと勘違いした、のではないでしょうか」
「それなら、貴様も標的にしていた筈だ」
 理性が壊れ、破壊衝動に身を任せていたならば、傍のソニアにも目を向けた筈だ。
「……殺す気はなかったと言う事ですか」
「そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん」
 いずれにせよ、今俺は生きている。生かされたのかどうかは関係ない。生きているのならば、やる事がある。
「ソニア」
「なんですか、さっきから」
 煩わしそうな顔をするソニアに、宣言する。
「今のままでは、俺はヴァーチャーに勝てん。だから、俺自身の力を磨くとともに、期を見て仲間を募ろうと思うのだ。幸い、俺には時間があるらしいし、な」
「……そうですか」
 ソニアは神妙に頷いた。
   俺はヴァーチャーを救う事に、生涯を賭ける」
 そう固く誓った日。


    その日から、来るべきその時は、覚悟されていたのだ。





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【メモ-人物】
“ゲーテ”-1

白無垢のゴーレムを連れた蒼碧の魔術師で、元邪神教幹部。五百年もの間ヴァーチャーを追いながら、自身の力を磨き続け、対峙の時を伺っていた。

見た目は垢抜けない眼鏡。偉そうな態度を崩さないのはプライドが高いからという訳ではなく、昔の喋り方が抜けないだけで厨二病患者ではない。

元々は教団に身を置く事で悪に加担しつつも保身を貫くどうしようもない眼鏡であったが、過去の一件から呪いを受け、望まぬまま不老長寿と高い魔力を得た。

ヴァーチャーに嫉妬し憎み続けていた自分への、また自分の臆病さとエゴで彼を苦しめる結果となった事への罪悪感に苛まれ続けており、ヴァーチャーを殺す事に決意を固くしている。
しかし、実は今のヴァーチャーでも十分やり直せるのではないかと考えている為、本当に葬るべきかどうかギリギリの所まで迷っている。

白無垢のゴーレムの言うとおり、中を開けば偉そうなだけのへたれ眼鏡である。

10/07/15 18:13 Vutur

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