連載小説
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その1
 
 ―ノブリス・オブリージュという言葉がある。
 
 高貴な生まれの者にはそれだけの責任と義務が伴う。それを意味する言葉を護っている者が今の世界にどれだけいるだろうか。古くから争うしか能がなかった人間にはこの義務のことを考えているものは殆どいないだろう。また居たとしても、人間の寿命は哀れなほど短い。100年すら生きられぬ小さな命では変化は免れないだろう。最初はどれだけ高貴な魂を持っていたとしてもそれが歪み、淀まないとは言い切れないのだ。
 
 ―それは魔物にしても同様だ。
 
 ある日を境にサキュバスの本能を剥き出しにし始めたあのメス犬どもに義務という言葉が残っているとは到底、思えない。かつてはその責任と義務を全うしていた魔物もいるだろうが、今では殆どの魔物が日々を楽しく生き、浅ましく快楽を貪るだけの生き物である。そんな連中に責任や義務と言う言葉を求めるほうが愚かだろう。
 
 ―だからこそ、私達…ヴァンパイアは特別なのだ。
 
 永遠に変わることのない『真の貴族』。ノブリス・オブリージュという言葉を遵守し、貫くことが出来る唯一の種族。それこそがヴァンパイアであり、それこそが私たちの高貴さの証明でもある。他の種族にはない絶対で強固なアイデンティティ。ヴァンパイアを『真の貴族』足らしめる一つのピースだ。
 
 ―だから…人間なぞに関わる必要はない。
 
 『貴族』とは孤高であり、人々の尊敬を集める対象でなければならない。賎民どもに気を配るのは必要ではあるが、領地に降りて、同じ目線で会話をするなど持っての他である。人を率いるものとは自他共に特別であるということを示し続けなければならないのだ。その特別性が薄れた時、『貴族』は『貴族』ではなくなる。そしてそれこそが反乱を招く第一の理由となってしまうのだ。
 
 ―そうだ。だから、人間なんぞ…人間なんぞに……。
 
 「おいすーwwwwwwwww」
 
 そこまで考えた瞬間、私の耳に脳天気な声が届いた。思考へと没入していた意識がその声にふっと現実へと返り、自分が物思いに耽っていた事に思い至らせる。特製の安楽椅子に身を委ね、自室で本を読んでいたつもりではあるが、いつの間にかその内容から意識が飛んでいたらしい。多分、疲れが溜まっているのだろう。そう結論付けた私はそっと溜息を吐いた。
 
 ―…また『アイツ』か。
 
 『疲れ』の原因でもある人間の声に私はそっと目頭を抑えた。だが、そこには別に頭痛などは存在しない。ヴァンパイアは強靭な肉体を持ち、その程度では痛みなど感じないのだ。しかし、それでも疲労だけは別である。ほぼ毎日、私の静かな生活をぶち壊しに来る『アイツ』にはほとほと疲れていて……――
 
 「ファニーちゃーんwwwwwwいないのーwwwwwww」
 「…誰がファニーだ」
 
 そう小さく返した声は勿論、相手には伝わってはいないだろう。私はこの距離でも人間の脳天気な声――まぁ、多少、声を張り上げてはいるが――がはっきりと聞こえるが、本人同様に鈍感な奴の耳にはきっと届いてはいまい。そんな人間の能力の低さを鼻で笑いながら、私は再び溜息を吐いた。
 
 ―それはつまり…奴を追い返すには私から降りていかなければいけないという事だ。
 
 毎日、私の静かで高貴な生活をぶち壊しにしてくれる『アイツ』とて完全に常識がない訳ではないらしい。勝手に屋敷に上がり込んだ事は一度もなかった。だが、それは居留守が使えるという意味では決して無い。私が返事をしなければそれこそ一日でも二日でもエントランスで奴は平気で待ち続けるのだ。長い寿命を持つ魔物であればまだしも、短い時間しか生きられず、いき急ぐ傾向のある人間がそうやって時間を無駄にするのは流石に哀れである。
 
 ―結局…私に選択肢はないに等しい。
 
 その結論に再び溜息を吐いた私はそっと椅子から立ち上がった。瞬間、壁一面に並び立つ本棚が私の視界に入る。深夜の暗い世界の中、魔力の光りでぼんやりと浮かび上がる本棚の群れは私の心をほんの少し落ち着かせてくれた。そのまま私は部屋に敷いた真っ赤なカーペットの上をそっと闇色のハイヒールで歩いて行くのである。
 
 ―そのまま部屋を出た先にも赤いカーペットが敷かれていて…。
 
 薄ぼんやりとした魔力の光りが照らす廊下は端が見えないほど長く、また三人が横に並んでも尚、余裕があるほど大きい。窓一つない廊下の上に血のように赤い絨毯が流れている姿はまるで屋敷の動脈のようにも見える。実際、三階建ての大きな屋敷はこの辺りの平均的な建造物からすれば化物同然だろう。小さな一戸建てが殆どの中に百人単位で人が住める建物があるのだから。
 
 ―まぁ、もっとも、そこに住んでいるのは私一人な訳だが。
 
 両親から譲り受けたこの屋敷には元々、それなりの数の魔物が住んでいた。しかし、それも魔王の代変わりによって殆どが淫魔へと変貌してしまったのである。一人また一人と屋敷から魔物がいなくなり、ほんの2、30年前にはついに私一人になってしまったのである。とは言え、別に私一人でも魔術を持ってすれば、屋敷を清潔な状態に保つなど容易な事だ。魔物を雇っていたのも、得た利潤を下々の者へと還元する責任を果たしていただけに過ぎないのだから。
 
 ―それに…私は静かな方が好きだ。
 
 今は日暮れ前であるとは言え、ざわついてる屋敷と言うのはどうにも性分には合わない。私は貴族らしく静かで高貴に行きたいのだから。それを邪魔する面々がいなくなった事で清々しているくらいだ。音の消えた深夜では肌をピリつかせるような沈黙を感じるが、それこそが夜に舞うヴァンパイアに相応しいとも思う。
 
 「ファニーちゃーんwwwwwファニーちゃんはwwwwいませんかwwwwww」
 
 ―…その為にもまずはあのバカをどうにかしないとな。
 
 そう心の中で呟いた私の視界にエントランスへの入り口と大きな螺旋階段が見えた。未だ脳天気に私の名前を呼ぶ『アイツ』の声もすぐそこまでに近くなっている。相変わらずエントランスから先へは招かれなければ上がるつもりはないらしい。変な所で律儀な男に私はもう一つ溜息を吐いてからその身をエントランスへと表した。
 
 「私にはファンネリアという両親から賜った高貴な名前があると何時も言っているだろう」
 「うはwwwwwおkwwwww」
 
 不機嫌さに満ちた私の言葉に応えたのはキラキラと輝く金色の髪の持ち主だ。何処か太陽を彷彿とさせるその輝きは何処かの王侯貴族を彷彿とさせるものである。だが、それは夜に生きるヴァンパイアの私には少し眩しい。夜の闇を照らす月のような髪を持つ私とは似て異なるからだ。
 
 ―まぁ、それを差し引いても男の顔の造形は悪くない。
 
 意志の強そうな目元やすっと通った鼻筋は男が人間にしては平均以上の美形である事を感じさせる。唇から覗く歯も白く輝いており、男の爽やかそうな印象に拍車を掛けていると言っても良いだろう。ちゃんと服装を整えれば、王侯貴族の一員である信じるものもきっといるはずだ。
 
 ―…ただ、その印象はコイツに相対すれば霧散する。
 
 一度、コイツが口を開けば、キリッとした目元や口元を緩ませるのだ。まるでご主人様を見つけた大型犬のようなだらしのない姿に爽やかさという言葉は一切、感じられない。満面の笑みを浮かべる顔は子どもっぽい印象が強く、王侯貴族などとは口が裂けても言えないだろう。少なくともこうして対峙する私にとってはコイツは身体がでかくなっただけの子どもである。
 
 「それでwwwwファニーちゃんwwww今日のご飯はどうしたの?wwww」
 「…はぁ…」
 
 ついさっき注意したにも関わらず、勝手な愛称で呼ぶ男に私はこれ見よがしに溜息を吐いてやった。だが、それでもこのバカは怯む事はない。私の眼下でニコニコとした笑みを浮かべながら、私の答えを待っている。気まずさという言葉を何処かへと置いてきたんじゃないかとさえ思う男の姿に私は再び溜息を吐いた。
 
 ―まぁ…別に今日に始まった事ではないのだが。
 
 コイツが肝心な所で人の話を聞かないのは何時も…というか毎日の事だ。さっきの名前の件だって私は毎日、訂正しているのだから。それでも尚、省みる気配のない男に諦めれば良いのかもしれないが、それは何となく負けた気がして腹が立つ。結果として私は毎日、無駄であると分かっている事を繰り返し、勝手に疲れてしまっているのだった。
 
 「…前にも言ったが、別に私たちは必ずしも食事を必要とする訳ではない」
 
 人間などとは及びもつかないほどの能力を持つヴァンパイアは人間のように日々の糧を必要とする訳ではなかった。勿論、生きていくために必要なものはあるが、それは別に毎日、補給しなければいけないものでもない。悠久の時の中で生きる我々にとっては食事もまた戯れの一つに過ぎないのである。故についつい食事するのを忘れて…い、いや、後回しにしてしまって……――
 
 「つまりwwwww今日もご飯wwww食べてないんだねwwwwwww」
 「…端的に言うとそういう事だ」
 
 嬉しそうな男の言葉に私はそっと肩を落とした。余韻も何もないストレートな言葉は下手な勘ぐりが要らない分、楽なのかもしれない。だが、日々、このやりとりを繰り返している私にとっては次にコイツが何を言い出すのか分かっているのだ。そして、それを出来れば遠慮したい私にとって、それはあまり嬉しくはない未来予想である。
 
 「ご飯を食べないとwwwww大きくなれないよwwwwwww」
 「うるさい。これは種族柄だ」
 
 私の身体は100年を生きるヴァンパイアとしてはあまりにも小柄であった。人間に換算すれば10歳前後の少女程度の身長しかないだろう。180cm大の大きな身長を持つ男から比べれば二回りも三回りも小さい身体は並び立つと兄妹にしか見えないだろう。成長が人間に比べて緩やかなヴァンパイアであるという事を加味しても、発育が遅れ気味であるというのは認めざるを得ないのかもしれない。
 
 ―こ、これから幾らでもおっきくなるもん…。
 
 ママだって本格的に身長が伸び始めたのは200歳を超えた辺りからだって言ってくれた。それにママもお姉ちゃんもボンキュッバーンな美女なんだもん。遺伝子的には私も必ずそうなれるはず。ただ、ちょっとスタートダッシュが遅いだけでこれから幾らでも挽回してくれる…と思う。うん。きっとそのはず。
 
 「でもwwwwwおっぱいはそんなにおっきいのにwwwwwwww」
 「っ〜〜〜〜!!!!!」
 
 ―下品な男の言葉に私の腕は思わず隠すように胸を抱いた。
 
 確かに私の胸は小柄な少女とも言える身長とは裏腹に大きく育ってしまっていた。流石にママ…いや、お母様やお姉様ほど大きくはないが、サイズだけで言えば優っている。少女らしい身体とは裏腹に勝手に育っていくその豊かなセックスアピール部分は私にとってコンプレックスに近い。どうして身長が伸びず、そんな所だけ成長するのか、と落ち込んだ回数は数知れないくらいなのだから。
 
 「い、いやらしい目で見るな!!」
 「うはwwwwwおkwwwwwwww」
 
 ぐっと親指を立てて私に応える男から逃げるように私は数歩後ろへと下がった。それをこのバカは追いかけはしない。そもそもさっきの発言だって私の事を単純に慮ってくれているのだろう。このバカは救いようのないバカではあるが、嫌がらせにそんな事をするような奴ではないと毎日の付き合いからも分かっている。いやらしい目とは言ったが、コイツの視線はずっと妹を見る兄のようなものから変わってはいない。さっきのセリフだって別にセクハラではなく、単純に思った言葉を口にしたのだろう。
 
 ―…それがまた無性に腹が立つんだがな。
 
 こうして毎日、私の静かな生活をぶち壊しにしているというのに、コイツには悪びれる様子もまるでない。それどころかそれが正しい事であると信じきっているのだ。まったく自分の行動を疑っておらず、悪びれもしないその姿に何度、溜息を吐いたか分からない。
 
 ―そう。それが原因だ。他にはまったく関係のない事だ。
 
 そう自分に言い聞かせるように胸中で呟きながら私はそっと足を前へと踏み出す。再びエントランスから顔を出した私にさっきと変わらない位置から男が優しげな視線を送った。時折、胸の奥に小さな疼きを走らせるそれから逃げるように私の視線がそっと明後日の方向へと彷徨う。
 
 「で、本題はなんなんだ?特に用事もないんだったらとっとと帰れ。私は忙しいんだ」
 
 ―勿論、忙しいなんて事はない。
 
 悠久の時を生きるヴァンパイアにとって時間とは殆ど意味をなさないものだ。人間のように生き急ぐ必要性がない私たちには時間とは夜と昼とが入れ替わる程度の認識しかない。残した仕事は明日すれば良いし、明日がダメならば明後日に行えば良い。そう考えられる私達にとって「忙しい」という言葉ほど無意味なものはないだろう。
 
 ―でも…コイツに暇と思われるのも癪だ。
 
 頭の中までお花畑で出来ているようなこのバカに暇だなどと思われた日には鬱陶しいほどに付き纏ってくるかもしれない。少なくとも毎日、こうしてやってくる事への大義名分として受け取るのは確実だ。
 
 ―それだけは絶対に避けたい…と言う訳ではないんだが……。
 
 私がどれだけ止めてもコイツは私の所へと毎日、日暮れ前のこの時間に足を運ぶのだ。それに大義名分が多少、付随した所で結果としては変わらないだろう。だが、それでも妙に面白くないのである。結果として変わらないのは分かっていても、コイツには『忙しい時間の合間を縫ってわざわざ会いに出てきてくれている』と思って欲しいのだ。
 
 「今日もwwwwwwファニーちゃんとご飯食べに来たwwwwwww」
 
 そんな事を考える私の視界で男は斜めがけにした革製のカバンから大きな包みを取り出した。樹の皮をなめして作られたそれを男は大事そうに開けていく。その中から姿を表したのは芳醇な小麦の香りを放つ白パンであった。恐らくついさきほど焼きあげられたばかりなのだろう。私の鼻にまで届くバターと小麦の良い匂いに思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまった。
 
 「俺様特製のwwwwwハイパーストロングホワイトブレッドwwwwwww美味しそうでしょ?wwwww」
 「それつまりはただの白パンって事じゃないか」
 
 仰々しい名前こそつけているが結局のところただの白パンである。が、青年と言える歳になってもまだ子どもらしい面を残すこの男にとっては違うのだろう。ハイパーだのストロングだの形容詞をつけて、必死に他とは違う所をアピールしている。五歳の子どもとそう変わらない精神年齢を露呈する男に私は再び溜息を吐いた。
 
 ―ただ…まぁ…美味しそうなのは認めざるを得ない…かな。
 
 「相変わらず料理の腕だけは確かのようだな」
 
 私の鼻孔を擽る芳醇な匂い中々出せるものではないだろう。ましてこの男は定住する地を持たない冒険者である。パンを焼く専用の釜戸すら持たないコイツがどうしてこれほどのものを作れるか疑問なほどだ。だが、それは別に今の始まった事ではない。今までだって流れ者の冒険者であると到底、思えないような料理をこの男は私へと差し出してきたのだ。
 
 「うはwwwwwwファニーちゃんに褒wめwらwれwたwwwファニーちゃんwwwwツンデレ可愛いwwwww」
 「褒めてないし、ましてや私はツンデレなる訳の分からないものでもない」
 
 ただ、私は事実を認めただけだ。貴族の義務に従って認めるべき所を認めただけである。断じてツンデレ――このバカ曰くついついツンツンしちゃう女の子の事らしい――などではない。そもそも普段からコイツに刺のある態度を取るのはこのバカが私の領域にズカズカと入り込んでくる事の方が大きいのだ。それさえなければもうちょっと私だって素直に……――
 
 「ツンデレはwwwwwツンデレだって認めないものだよwwwwwwww」
 「それじゃあツンデレではないと証明するのが不可能になると思うんだがな」
 「細けぇ事はwwwwww良いんだよwwwwww」
 「勝手に人の事をツンデレだと決めつけておいて細かいはずがあるか」
 
 カバンの中にパンをしまうう男の言葉に私はそっと肩を落とした。こういったタイプとマトモに付き合ってはいけないと分かってはいても、子どものようにその場その場でのみ生きてるような男の言葉はどうしても疲れ、ペースが狂わされてしまう。話題があっちこっちへと飛んでしまうのは何時ものことだ。話題が尽きないというのは幸せな事かもしれないが、こういった話題ばかりだとどうしても疲れてしまう。
 
 ―だから…そろそろ本題に戻さないとな。
 
 「それで…毎日聞いているが、どうして私と一緒に食事をしたがるんだお前は」
 「可愛い子と一緒にwwww御飯食べたくない男なんてwwwwwwいませんwwwwwww」
 
 ―…またか。
 
 キリッと顔を引き締めて、自慢気に言う男の顔には嘘は見えない。きっと本心で言っているのだろう。だが、それは必ずしもそれが全てであることを示してはいない。だって、『可愛い子』とやらと食事をしたいのであればそこらの森にでも足を踏み入れれば良いだけだ。魔物の巣であると言っても過言ではないそこには沢山『可愛い子』がいる事だろう。そしてその連中は人間のオスが大好きで、お礼に性欲処理までしてくれるのだ。私のような『可愛げのない女』に構うくらいならば、その方がいくらか建設的だろう。
 
 「…それがお前の本心なんだな?」
 「俺様wwwwwこれまでに嘘吐いた事ないのがwwwww誇りだよwwwwwww」
 「本当に…私の事を可愛いと思っているんだな?」
 「ファニーちゃんが可愛くないなんてwwwwwそんなの普通じゃwwww考えられないwwwwww」
 
 ―…嘘はない…な。
 
 受け答えこそふざけているとしか思えないが、ニコニコとした人好きのする笑みを浮かべる男の表情には一点の曇はない。これで嘘を述べているのであれば、コイツはよっぽどの詐欺師だ。普段の様子から察するにそれだけはまずあり得ないだろうから、信用しても良い…と思う。だけど、それとは別にどうしても信じきれない私もいて……――
 
 「本当に本当だな?闘いの神にだって誓えるんだな?」
 「勿論wwwwwご所望ならwwwwww森中に聞こえるくらいにwwwwファニーちゃんがどれだけ可愛いかwwww叫んでもwwww良いよwwwwww」
 「そ、それは止めろ」
 
 思わず頬が赤くなり、火照ってしまう。熱を持ったそれを隠すようにして私はそっと後ろを振り返った。その私の背中に男の不安そうな視線が突き刺さるのを感じる。だが、それを解消するためにもう一度、奴の方へと向き直ってやる訳にはいかない。そんな事をすれば何度となく可愛いと言われて頬が火照ったのを気付かれてしまう。
 
 ―よ、よし。落ち着くんだ私よ。
 
 普段言われ慣れていないとは言え、この程度で取り乱すのは貴族の恥である。いや、そうでなくとも毎日、こうして真偽の程を確認し、可愛いという言葉を聞いているのだ。いい加減、少しくらいは慣れても良いはずであろう。
 しかし、どれだけ胸中で呟いてもトクントクンと甘く胸を震わせる鼓動はなくならない。寧ろ『可愛い』という言葉とバカの無邪気な表情が脳裏に浮かぶ度に疼きが強くなっている気さえする。
 
 「ファニーwwwwちゃーんwwwwwこれってば放置プレイ?wwwwwwwwでも、俺様wwwwww我慢弱い男だからwwwww困っちゃうwwwwwww」
 「バカ…そんなんじゃない。良いからとっととあがって来い。お茶くらいは淹れてやる」
 
 相変わらずつかみ所のない男の言葉に少しだけ冷静さを取り戻せたらしい。それを確認した私は振り返りながら、そう言った。放置プレイの何たるかは知らないが、このバカが言うような言葉である。きっと淫猥なものなのだろう。しかし、そうやってからかわれるのは別の一度や二度ではない。今更、その程度で冷静さをかき乱される事なんてありえない。…まぁ、少し声が震えてしまったが、それくらいはご愛嬌と言う奴だ。
 
 「うはwwwwwwwおkwwwwwww」
 
 ―その声と共にガチャリガチャリという音がする。
 
 その音は白銀に輝くプレートアーマーの隙間を埋める金属製の輪が擦れ合って奏でているのだろう。頭の中身はバカとしか言い様がないが、身なりはれっきとした冒険者である。ところどころに意匠が掘りこまれ、耐衝撃のルーンが刻まれた姿は威風堂々としていて見る人が見れば、勇者にも見えるかもしれない。螺旋階段を一歩一歩踏みしめるように歩く姿を見下ろしながら、私は呆然とそんな事を思った。
 
 ―…さらに背中の剣もその印象を加速させる。
 
 その鎧姿の後ろには不釣り合いなほど大きな剣が布でくくりつけられるように背負われていた。剣の幅だけでも30cmはあり、刀身の長さは150cmは優に超えているだろう。刀身に沿うように縦に並んだ四つの紅玉はそれが何らかの魔術によって生み出されていると主張しているようだ。そして白銀色に輝く刀身は紛れもない鉱物で出来ている。その重量はもう勇者でもなんでもない一般人が背負えるものではないだろう。だが、目の前のバカはその重みすら忘れてしまったようにしっかりとした足取りをしている。一歩一歩確かめるように歩いてはいるものの、何百キロにもなる大きな武具をみにつけているとは思えないほど安定していた。やはりかなりしっかりした体格をしているから大丈夫なのだろうか…?――
 
 「……デカイな」
 「何?wwwww俺様の肉の剣が大きいって?wwwwwwww」
 「なっ!!!」
 
 その素直な感想が出たのを勘違いしたのだろう。ニコニコと笑ってる男の顔にそっと朱が差した。照れるくらいであれば最初から言わなければ良いと思うのだが、この男にそんな理屈は通用しないらしい。笑顔を崩さないまま視線を背け、赤くなった頬をガントレットの指先で掻いている。
 
 ―その顔を見る私の顔もきっと赤くて…。
 
 だ、だって、想像しちゃったんだもん。大きくて…逞しい彼のモノを。ビキビキと血管が通って、硬いオチンポの感触を。も、勿論、実物を見たことがないし想像に過ぎないんだけど…だからこそ、その妄想が余りにも甘美に思えて……そして…それが欲し……――
 
 ―そ、そんな訳あるか!!!!!
 
 「ふ、ふん!どうせお前みたいなバカのモノなんて皮被りのショートソードに決まっている!!!!」
 「オウフwwwwwww」
 
 頭の中に浮かんだ言葉を認めたくなくて、ついつい可愛げのない言葉を放った私の下でバカはそっと心臓の辺りに手を置いた。どうやら先の私のセリフが胸に突き刺さったのだと表現したいらしい。心なしは笑顔にも曇りが入り、何時ものような鬱陶しいほどの笑顔ではなくなっていた。
 
 ―ま、まぁ…さ、流石にちょっと言いすぎた…かな。
 
 生殖器が男のプライドのシンボルである事くらいは私だって知っている。勿論、それは創作物の知識でしかないが、現実にこうして笑顔を曇らせる男がいる以上、それは完全にフィクションとは言えないのだろう。少なくとも私の言葉が必要以上に男を傷つけたのは確実である。
 
 ―だけど…素直に謝るのは難しくて……。
 
 別にツンデレなどという訳ではない。断じて無いが…私は貴族だ。自らの過ちを素直に賎民に認める事は難しい。それは貴族の特殊性を薄れさせるのだから。さりとて、過ちを認めずにいるのは唾棄すべき行為である。その両者に挟まれた私は数瞬、頭を痛める。どれだけ迂遠で遠回しな言い回しを使ってコイツに謝罪するかを悩む私に一つのアイデアが舞い降りた。
 
 「ま、まぁ、その……に、人間なんてそんなものだ。お前が気に病む必要など無いぞ」
 「じゃあwwwwヴァンパイアは違うの?wwwwwww」
 「うっ…!」
 
 ―そっと顔を上げた男の期待する顔に私は思わず言葉を詰まらせた。
 
 そもそも人間とヴァンパイアでそこまで生殖器に違いがあるとは聞いたことがない。そもそもそんな分野の研究をするような変態が居れば、同族に血祭りにされてしまっている事だろう。となると残るは私の経験論ではあるが、これはそもそも皆無である。それは森の奥の屋敷に一人で住んでる事が何より如実に語っているだろう。
 
 ―で、でも…ここで知らないなんて言えるはずが…。
 
 きっとこのバカはその程度で私の事をバカにしない。だけど、それでは先の言葉が無効になってしまうのだ。ヴァンパイアと人間という種族的違いを挙げて迂遠に励ました私のアイデアが無駄になってしまうのである。別に人間が落ち込んだ所でどうという訳ではないが、私の所為で傷つかれるのは流石にちょっと良心が疼く。その疼きに耐えかねた私が観念したように唇を開き…――
 
 「そ、そうだぞ!父様のモノなんてそれはもうお前の背中に背負ってる奴くらい大きかったんだからな!!」
 「なんwwwwだとwwwwwww」
 
 ―ま、まぁ、実際はそんな記憶など殆どない訳だが。
 
 魔王の代変わり以前から生きている私が父の裸を見た経験と言うのは殆ど皆無だ。少なくとも生殖器の形や大きさをはっきりと覚えているほどの年齢ではない。故に私のその言葉はあくまで勢いから出たものでしかなかった。しかし、それでも男の後押しになったのだろう。驚愕の色に固まる男には先程までの落ち込んだ色は見えない。
 
 ―よ、良かった…んだけど…でも…。
 
 そもそもなんでこんな会話をしなければいけなくなったのか。人生は訳のわからない事ばかりであるとは知ってはいたが、これはあまりにも理不尽な展開ではなかろうか。何が悲しくて嫁入り前の女が父親の生殖器について語らなければいけなのか。そう思うと妙に腹が立ってしまう。その苛立ちを紛らわせようと口を開いた私はキッと男の姿を睨めつけた。
 
 「い、良いから早く上がってこい。パンが冷めるだろう」
 「うはwwwww思ったよりwwww楽しみにしてくれているようで何よりwwwwww」
 
 ―こ、このポジティブ男め…!!
 
 少しは私の言葉に堪えてくれればこの腹ただしさもなくなってくれるというのに、この男は常にプラスの方向にしか解釈しないのだ。そんな奴を相手に怒りを燃え上がらせてもきっと無駄だろう。そんな風に馬鹿らしくなった私は本日、十何度目かの溜息を吐いてしまった。
 
 「西京の俺様wwww今ここにwwwwwww到着wwwwww」
 「最強…ねぇ」
 
 私だって貴族の端くれとして自衛手段を教わっている。その経験から見て…男の実力は中の上程度だった。確かに体格はがっちりしているし、立ち振る舞いにも隙がない。口調こそバカそのものではあるが、それなりに実力のある冒険者であることは確かだろう。だが、それはあくまで「それなり」だ。身体能力では人間に及びもつかないヴァンパイアでは一蹴される程度だろう。まして時に最上級の魔物とさえ渡り合う人間の突然変異種――確か『勇者』と呼ばれているんだったか――とは勝負にもならない。
 
 「そんなものは背中の剣を抜いてから言うんだな」
 「オウフwwwwwwwww」
 
 私の言葉にバカは再び胸を抑えた。しかし、そこには先程のように笑顔を曇らせるものはない。恐らく自分としてもある程度、自覚しているのだろう。それでも『最強』などという大層な言葉を名乗る子どもっぽさには呆れるが…何か譲れないものでもあるのかもしれない。
 
 ―わざわざ『ハリボテ』の剣を背負っているのもきっと何か原因があるのだろうな。
 
 明らかに人間の腕では扱えない馬鹿でかい剣。それはこの男の体格では背中から引きぬくことさえ無理だろう。そんなものをこれ見よがしに背負っている事自体はそもそもおかしいのだ。重量が増える事から生まれるデメリットと見掛け倒しが出来るというメリットを比べても明らかに前者のほうが大きい。少なくとも身の丈にあった武器を使った方がよっぽど戦いやすいだろう。
 
 ―まぁ…『勇者』と自分を同一視しているのかもしれないが…。
 
 子どもっぽさをなくさない…と言うか捨てきれていないこのバカを見るかぎりそれは十分、有り得そうな気がした。だが…何となく…本当に何となくではあるが、それだけじゃない気がする。それは時折、この男が見せる寂しげな表情が原因なのかもしれない。
 
 ―…まったく…少しは自分の事を話してくれれば良いのに。
 
 人の家にはズカズカと入り込んでくる癖にコイツは自分の心には一切、私を立ち入れさせないのだ。実際、こうして毎日会いに来て一緒に食事をしていると言うのに、私はコイツの事を殆ど何も知らない。何処で生まれたのか、どうしてこんなにも料理が上手なのに冒険者をしているのか、家族や仲間はいるのか、もし、結婚するならちゃんと挨拶した方がいいのか。その辺りの事を私は何も知らされていないのだ。
 
 ―その辺りがイマイチ私がコイツを信用しきれない部分なんだろうな。
 
 私が知るコイツはあくまで一面的なものではないのか。もっと別のコイツがいるのではないのか。それは…もしかしたらとても恐ろしいものではないのか。どうしてもそんな思考が消えてはくれない。臆病とも言えるそれに私は自嘲を胸中で浮かべたが、だからと言ってなくなってくれる訳じゃなかった。
 
 ―勿論、それを無くす唯一の方法は私からコイツに踏み込んでいく事なのだろう。
 
 だけど、コイツの事を知りたがっているなんて思われたくはない。知りたくないと言えば嘘になるが…それはあくまで自主的にこのバカから差し出された形が良いのである。私は『仕方なく』耳に入れてしまうという形が理想なのだ。その理想をどうしても捨て切れない私は結局、自分から踏み込むことが出来ず当たり障りのない言葉を選んでしまう。
 
 「ほら、とっとと行くぞ」
 「うはwwwwwおkwwwwwwそれじゃあwwwファニーちゃんの自室にwwwwwのりこめー^^wwwwww」
 
 そう言って歩き出した私の横を妙にテンションを上げた男が並び立つ。だが、140cmあるかないかの私と180cmを超える男が並ぶなんて普通では考えられないだろう。身長の違いは歩幅の違いであり、歩幅の違いは移動速度の違いでもあるのだから。一歩ごとにズレていく歯車は私たちの差を開ける一方のはずだ。だが、現実にはそうではなく、男は私の小さな歩幅に合わせてそっと歩いてくれる。
 
 ―まったく…横に立たれると私の小ささが際立つだろうが。
 
 そう思うものの横にコイツがいるというのはそれほど悪い気分じゃなかった。確かに肩の向こうに微かに髪が見える身長差は自分の小ささを自覚させられるようで嫌ではあるが、何となく胸が暖かくなるのだから。ジンと広がる甘い熱を確かめるように一歩一歩踏みしめる私の歩幅はそれをもっと長く味わいたいと言わんばかりに自然と短く小さなものになってしまう。勿論、このバカも一丁前にそれに合わせてくれて、ほんの少しの間だけ沈黙の帳が降りた。
 
 「そう言えばwwww比較できるって事はwwwwwwファニーちゃんはwwwww人間のサイズを見たことがあるの?wwwww」
 「お前……」
 
 その悪くない気分をデリカシーの欠片もない男の言葉が吹き飛ばした。あまりにも酷過ぎるその言葉に思わず私のこめかみに力が入るのが分かる。それを爆発させるのは簡単だ。だが、そうやって癇癪を起こすのは品性の欠片もない。もうちょっと穏やかに…そうエレガントにコイツを諭してやるのが貴族としての勤めであろう。
 
 「老婆心で言ってやるがな。もうちょっとお前はデリカシーという奴を覚えるべきだぞ」
 「うはwwwwww老婆心とかwwwwwファニーちゃんは何時でも可愛いwwwww女の子だよwwwwwww」
 「そ、そうか…あ、ありがとう」
 
 貴族であり、ヴァンパイアではあっても私は女なのだろう。ストレートな男の言葉に思わず頬が赤くなってしまう。出来れば可愛いよりは綺麗と呼ばれたいが、それは私の容姿的な特徴を帰り見る限り高望みだ。鏡に映る自分の姿を見て私自身でさえ「綺麗だ」とは思えない時点で、それを他者に望むべきでは…――
 
 「って違う!!老婆心って言うのはお前の事を思ってと言う意味で…」
 「つまり俺様wwwwファニーちゃんに意識してもらえてるって事?wwwwwww」
 「そ、そそそそそそそんな訳あるか!!!」
 
 確かにこのバカは賎民の中では見所のある奴だと思う。隠し事は多いが、その笑顔には嘘はない。頭の中が少しばかり残念なだけでとても良い奴なのだろう。だが、それとこれとは話がまったく別である。私は賎民共を区別なく統べる義務を持つ貴族だ。そして夜の闇に生きるヴァンパイアである。人間を特別扱いするはずがないし、またしたかったとしてもするべきではない。確かにコイツは顔も悪くなくて、料理の腕もそこそこで、性格も嫌いじゃなくて、笑顔に時々ドキッとしちゃって、話題がなくなるとついそっちに視線が飛んじゃって、傍にいない時にもついつい頭の中に出てくるけれど、まったくこれっぽっちも、欠片だって意識していないのだ。
 
 「自意識過剰もほどほどにするんだな!!誰がお前のような人間なんぞを意識するものか!!」
 「うはwwwwおkwwwww」
 
 私の答えはある程度予想通りだったのだろう。鋼鉄製の肩当の向こうに見えるその顔には特に曇りはなかった。それが私には無意味に腹立たしい。少しくらいは落ち込んでくれれば良いのに、どうしてそんな平常心なのか。そう思う私の心は男の笑顔とは対照的に曇りばかりで晴れ渡っている部分を探すほうが難しいくらいだった。
 
 「でもwwwww俺様に惚れるとwwwww火傷するぜwwwww」
 「な、ななななな何を馬鹿な事を!!!世界が何巡したところでそんな結果にはならん!!!」
 
 確かにこのバカはバカなりに見るべきところは沢山ある。だが、意識してもいないのに惚れるだなどとあり得ない。いや、仮に意識していたとしてもコイツとの共同生活など疲れるだけだ。普段が普段この調子なのだから。そのお陰で退屈はしないかもしれないが、代償が余りにも大きすぎる。ま、まぁ、コイツが床に頭を擦りつけ、「一緒に暮らしてください」と言うのであれば考えないでもないが…――
 
 ―そこまで考えた私の脳裏にお姉様の姿が浮かんだ。
 
 私よりも遥かに身長が高く、キリッとした鋭い視線のお姉様はつい数十年会わなかっただけでその印象がガラリと変わっていた。ベタベタと自分の男へと擦り寄り、まるで子どものように甘えていたのである。私の来訪にも気付かず、男の胸に顔を預けるお姉様の顔にはかつてあった鋭さは何処にもなかった。蕩けきったその顔には自分が愛されているという充足と、男を愛しているという幸福に満ち溢れ、蕩けきっていたのである。
 
 ―…そんなお姉様は私の誇りだった。
 
 私よりも遥かに強く、賢く、そして美しかったお姉様。ヴァンパイアらしいヴァンパイアを体現するその姿に私は強い憧れを抱いていたのだ。だが、そのお姉様も魔物とさして変わらない姿になってしまっていたのである。ほんの数年前のその事件は私の心に深い傷を残していた。あの日、退屈に負けてお姉様に会いに行こうとしなければ、その傷はなかっただろう。そんな風に後悔した日々はもう数えきれない。
 
 「ファニーちゃんwwwwファニーちゃんwwwww」
 
 ―…それに引き換え…コイツは本当、脳天気だな。
 
 唐突に黙りこみ、物思いに耽っていた私を心配したのだろうか。横から脳天気そのものと言った声でバカが話しかけてくる。私の内面とは比べるまでもない明るいその声に呆れたような言葉を浮かばせながらも、それほど悪い気分ではなかった。そんな自分に苦笑を向けながら、私はそっと視線をバカの顔へと向ける。
 
 「んべーwwwwwwwwwwww」
 「……」
 
 そこにあったのは破顔した男の顔だった。…いや、破顔したという表現はおかしいかもしれない。なにせその顔は頬と目元を両側から引っ張ったものなのだから。人の顔というよりは潰れたカエルという表現がしっくり来るその姿に私はどうリアクションして良いのかまったく分からず、その場に足を止めて立ち尽くした。
 
 「……何をやってるんだ?」
 「アレ!?wwwwwww不評wwwwwww村のナウでヤングな女の子たちにはwwwwwバカ受けだったのにwwwwww」
 「それはあまりにもヤング過ぎるんだと思うぞ」
 
 こんな形ではあるが、私は既に百年を生きるヴァンパイアだ。全ての娯楽の髄を尽くしたなどとは言わないが、コイツの言うナウでヤングな女の子――それこそ多分、五歳児くらいの――よりは娯楽を知っている。その私にモノが転がるだけで笑う五歳児の子どものような反応を期待されても正直、困るだけだ。
 
 「そんなwww俺様のwwww完璧な計画がwwwwwww」
 「どの辺りが完璧だったのか具体的に聞きたいくらいだぞ。と言うかどうしていきなり笑わせようだなんて思ったんだ?」
 「だってwwwwwファニーちゃんが暗い顔してるからwwwwww」
 「……」
 
 ―…何時だってコイツはそうだ。
 
 私が落ち込んでいる様を見せればすぐさま構ってくれる。その方法が正しいとはあまり言えないが、私の事を思ってくれているのは確かだろう。それが…それがちょっとばかり嬉しい。沈黙で閉ざされた世界が騒がしくなるのを許容出来る程度には有難いのだ。
 
 ―でも…それを人間に言われて…素直に受け止められるはずがない。
 
 別に自分の非を認めたくない訳ではない。でも…それを受け止める度に、コイツを認める度に、コイツに心を許す度に私はドンドンと『理想の貴族』から離れて行ってしまうのだ。コイツを…このとてつもないバカが心の中に広がっていってしまっているのである。賎民を特別扱いしてはいけないのに、人間など数字で見る対象でしかあってはならないのに、私はどんどんとそれを揺るがせてしまっているのだ。
 
 ―でも…私はお姉様のようになる訳にはいかない…。
 
 『理想の貴族』。それは忙しい両親に変わって私を慈しみ、教育してくれたお姉様の理想であり、両親の姿だった。しかし、お姉様はその理想像から完全にかけ離れてしまっている。少なくとも男の胸に身体を預け、甘く愛を囁いていた姿にはその理想がまったく見えなかった。だから…私はお姉様ですら揺るがせてしまったそれを引継ぎ、永遠に誇示し続けなければならない。それがお世話になったお姉様への私の出来る唯一の恩返しなのだから。
 
 「ファニーちゃんにはwwwww笑顔が似合うよwwwwwほら、スマイルwwwwスマイルwwwwww」
 「…大きなお世話だ」
 
 破顔された自分の顔から手を離し、輝くような笑みを浮かべる男に私は冷たくそう言い放った。そう。コイツの全ては大きなお世話なのである。私はそれを望んでいないのに、ドンドンと私の心の中へと入ってくるのだから。私の事なんてなんとも思ってないのに、土足で人の心を踏み入れる男を「大きなお世話」と言わずしてなんと言う。それ以外の表現などあろうはずがない。
 
 「うはwwwwwファニーちゃんにwww褒められたwwwwww」
 「褒めてない!!」
 
 けれども、そうやって言い聞かせるような言葉も脳天気なバカに中断させられる。相変わらず語彙力の貧弱であり、こっちの意図が正確に伝わってくれない男に私は溜息を吐いた。今は出来るだけ易しい言葉を使うようにはしているが、それでもこうした齟齬が出てくるのである。嫌味が通じないのは初期の頃から既に体感していたとは言え、言い回し一つすらマトモに伝わってくれない事実に私の口から溜息が漏れでた。
 
 「でもwwwww俺様wwwwファニーちゃんの笑った顔がwwwww好きだよwwwwww」
 「ふぇ…?」
 
 ―…え?好き…?
 
 唐突に告げられた告白にも近い言葉に反応できたのは最後の部分だけだった。そしてその『好き』の部分だけがまるで反響のように耳の中で何度も響いていく。何度となくリフレインするその言葉に私の顔がどんどんと赤く染まり、心臓の鼓動が早くなっていった。コイツが好きと言ったのは私そのものではなく、私の笑顔でしかないと気づいた頃には私の顔は火照りを自覚出来るほどで、心臓は鼓膜を震わせるほどうるさくなってしまってたのである。
 
 「だからwwwww俺様はwwwwww大きなお世話を続けるよwwwww」
 「う……」
 
 そんな私に宣言された言葉を私は否定する事が出来なかった。勿論、頭ではそれを否定しなければいけないと分かっている。また平穏な日々を取り戻すには無駄であったとしてもそういう一歩ずつが必須なのだと頭では告げていた。しかし、私の身体はそれを拒絶するように動かない。勘違いした自分が恥ずかしくて固まった心を体現するように指先ひとつ自由に動かせなかったのだ。
 
 「お前は本当にバカだな…」
 
 それから数十秒ほど経って少しずつ冷静さを取り戻した私は負け惜しみのようにそう言った。いや、それは負け惜しみであったのだろう。だって、結局、私はこのバカに何一つ言い返す事が出来なかったのだから。この男からすれば、きっと完全勝利に他ならないだろう。
 
 「なんでだろうwwww良くwww言われるwwwwwww」
 「あぁ、そうだ。お前はバカだからな。バカはバカだって言われないとバカだからバカだって事が分からないんだ」
 「うはwwwwwwバカがゲシュなんとかしちゃうwwww助けてwwwwww」
 「ふん。ゲシュタルト崩壊でも何でも起こせば良い。私は知らん」
 
 助けを求めるような男のセリフに冷たく告げながら私は再び足を進め始めた。その隣をガチャガチャと音を鳴らしてバカが並び立つ。どれだけ先に動いてアドバンテージを取ろうとしてもあっさりと追いつかれるのはやっぱり少し悔しい。でも、今は私を追いかけてくれる事の方が嬉しくて、あまり気にはならなかった。
 
 「ファニーちゃんのwwwwwお部屋みっけwwwww」
 
 そんな事を考えている内に私の部屋へと着いたらしい。毎日、人の屋敷へとズカズカと上がりこんでいる男は既にその構造を完璧に頭に入れているようだ。他の扉と殆ど変わらない入り口を正確に指で指している。日光に弱いヴァンパイアの為に窓もない廊下を歩いていたにも関わらず、私の部屋を正確に指差すその指に私は呆れにも似た関心を抱いた。
 
 「まったく…お前はそういう物覚えだけは良いな」
 「俺様wwwww女の子の事は忘れない主義だからwwwww」
 「それはそれでどうなんだと思わない訳でもないがな」
 
 別に私だって忘れられたい訳ではない。そういう訳ではないが…やっぱり他と十把一絡げにされるのは面白くない。私は賎民に特別扱いするべきではないが、私は特別扱いされなければいけないのだ。それは別に私がコイツの事をどうこう思っているとかではなく、それが貴族として当然な事で……――
 
 「ファニーちゃんwwww嫉妬してる?wwwww」
 「だ、誰が嫉妬してるって証拠だよ!!!」
 
 私が思っているのは貴族として当然のことである。別に女としての私情が挟まれている訳ではこれっぽっちもない。だが、このバカの節穴にはそれがまったく逆に映るようだ。何処かニヤついた笑顔にもその自信が浮かんでいるような気がする。それが妙に悔しくて嫌味の一つでも言ってやろうと唇を動かした瞬間、それよりも先に男が口を開いた。
 
 「うはwwww俺様モテすぎwwwww修正されないでwwwwww」
 「お、お前の勝手なイメージを押し付けるな!!」
 
 そう言い返した後、私はそっと溜息を漏らした。どうせこのバカに何を言った所で無意味である。そんな事は分かっていても、諦める事は出来なかった。弄られやすい性分の自分に私はそっと肩を落としながら、自室のドアノブをそっと回し、ゆっくりと扉を開いていく。
 
 ―そこには天蓋付きのベッドと衣装棚が幾つか並ぶ簡素な空間で…。
 
 隣にある私の書斎とは違い、ガランとしたスペースの中心に小さなテーブルがポツンと置かれていた。庭に置かれるような白亜のテーブルの脇には二つの椅子が並んでいる。かつてはお姉様が座っていたその小さな椅子には沢山の思い出が詰まっていた。しかし、今、そこにあるのはお姉様の姿よりも私の後ろに立つバカのイメージが強い。人の想像にまで勝手に踏み込んでくる男に私は思わず笑みを浮かべながら、自室へと足を進めた。
 
 「お邪魔wwwwしますwwwww」
 「あぁ。適当に座れ。今、お茶を入れるから」
 「適当に座ったらwwww怒るくせにwwwwww」
 「社交辞令という奴を知らんからだ馬鹿者」
 
 ―そもそもいきなり人のベッドに座る奴があるか。
 
 適当に座れと言われたら普通は二つある椅子のどっちかへと座るだろう。だが、このバカはそれを額面通りに受け取ったのか、いきなり私のベッドへと腰を下ろしたのだ。私が何時も身体を預け、眠りにつくその場所に悠々と腰を下ろす姿を私は今でも忘れた事がない。なにせスプリングの利いたベッドの上で楽しそうに腰を跳ねさせていたのだから。
 
 ―…まぁ、コイツの事で私が忘れている事は少ないがな。
 
 魔術を紡ぎ、部屋の隅にちょこんと置いてあるティーポッドを温めながらそんな事を思い浮かべた。別にそれはコイツが特別だからなどという事では断じて無い。ただ、奇行ばかりのこのバカは良くも悪くも目立つのだ。この男が始めてこの屋敷に足を踏み入れた時から今までその奇行に振り回されてきた私はその一つ一つを心の中で思い描くことが出来る。
 
 ―例えば…そう。食堂に文句を言った事もあったな。
 
 このバカが何を勘違いしたのか私へと料理を持ってきた最初の日。その奇行に驚いた私は勿論、それを断ろうとした。だが、結局、今日のように押し切られてしまったのである。それ自体は別に今も続いている事なので珍しくはない。ただ、驚いたのは最初に案内した食堂が広すぎて話が出来ないと拗ねた事で……――
 
 ―これじゃあ食事が楽しくないよ…だったか。
 
 長い長いテーブルに家族がぽつんと離れて座る事に慣れていた私には男の言葉は衝撃的だった。私の家族仲は決して悪くはなかったが、食事の時には朗らかに会話…などという雰囲気ではなかったのである。その原因をこのバカは空間の大きさだと言い切り、こじんまりとしたテーブルを要求した。だが、私はそれが置いてある場所は屋敷の中では自分の寝室くらいしか思いつかず、こうして男を自分の部屋へと招き入れる事になったのである。未婚の女が男を寝室に招き入れるという行為がふしだらであるという自覚はあるが、わざわざコイツの為にテーブルを移動させるのも億劫だ。結果として今も尚、それが伝統のように続き、こうして私の寝室で食事を摂るのが続いている。
 
 ―それに…まぁ…悔しいかな奴の言っている事は事実だった。
 
 小さなテーブルで顔を近づけて食べる食事は悪いものではない。私からも男からも話題が飛び出し、そこそこ良い感じの雰囲気になるのだ。勿論、通常の会話の鉛直線上である為、このバカには肝心な所で話が通じないし、空気が読めない。だが、そうやって下らない話をしながら食事をするという事が私にとっては新鮮そのものであった。今はその新鮮味は大分、薄れたものの、もう私は元の淡々とした食事は考えられなくなっている。
 
 「こっちはwwww準備出来たよーwwwwww」
 「ん…そうか」
 
 そんな事を考えている内に男が包みからパンを出していたらしい。寝室には焼きたての良い匂いがそっと広がった。それを少し胸を膨らませて吸い込みながら、私はそっとティーポッドの蓋を開く。そこに茶葉を一つまみ投げ入れ、味が馴染むようにクルクルとティーポッドを回した。時計回りに数回、それを行った後、私は木の盆にティーポッドとティーカップ、そして白い布巾を載せて、テーブルへと戻る。
 
 「ファニーちゃんの紅茶wwwwキタコレwwwwww」
 「こらこら、まだ頃合いじゃないぞ」
 
 最高級の茶葉を使い、限りなく沸騰に近い温度にした紅茶はそのままでもそれなりに美味しい。だが、蒸らす事でさらに芳醇な味わいが出てくるのだ。嬉しそうに頬を綻ばせてくれるのは悪くない気分だが、出来ればコイツには最高の味を味わってもらいたい。いや、最善を尽くす事が貴族の義務だと考えれば、そうでなければいけないのだ。
 
 ―とりあえずは布巾をかぶせて…っと。
 
 艶のある陶磁のティーポッドの上に白い布巾をかぶせて蒸らしながら、私は椅子へと据わった。既に私の対面に座っているバカはそれにニコニコとした笑みを浮かべて、私の方へと白パンを差し出してくる。食欲を誘うその匂いに反射的に受け取った私の前で男は両手を胸の前で合わせた。
 
 「それじゃあwwww頂きますwwwwww」
 「いた…だきます」
 
 ―その挨拶はこのバカから教わった数少ないものの一つだった。
 
 東のジパングという国で行われている食事の前の挨拶。それは書物を中心に知識を蓄える私には馴染みのないものだった。しかし、冒険者であるこの男はそんな国にも足を運んだ事があるのか、私にもそれを教えてくれたのである。食事の感謝を神に捧げるよりも糧とそれに関わった人々に捧げるその挨拶は…まぁ、悪くない。
 
 「今日のwwww白パンの出来はwwwww過去30年で最高ですwwwwww」
 「それ毎日言ってないか?」
 
 小麦色に焼けた表面をそっと千切りながら私はそう返した。勿論、それは行儀が悪いと非難されるべきものではあるが、このバカの前で自分を取り繕う必要はあまりない。そもそもこの男もまったく同じ事をしているのだ。その前で一人だけお上品に食べた所で虚しいだけである。
 
 「俺様はwwww常にwwww進化する存在wwwwだからwwwww」
 「お前は進化よりも先に精神的に成長すべきだと思うぞ」
 
 落ち着きのないラージマウスでも、五歳児でもないのだからもうちょっと落ち着いてくれれば、と思ったことは一度や二度ではない。だが、この男が私のその希望を叶えてくれた事は一度足りともない。何時だって鬱陶しいほどの気安さで私へと踏み込んでくるのだから。
 
 「成長フラグは置いてきたwwwwこれからの戦いにはwww着いてこれそうにはないwwwww」
 「今からでも遅くないからちゃんと迎えに行ってやれ」
 「でもwwwww一緒に帰ってwwww噂されたら恥ずかしいしwwwwww」
 「元々は一つだったんだから、誰も噂しないだろう」
 「うはwwwww一つとかwwwwwwファニーちゃんエロスwwww」
 「…お前は性欲まみれのティーンズか」

 どんな些細な言葉でさえ性欲と結びつけるティーンズそのものな男の言葉に私は溜息を吐いた。そのまま私は布巾を取り払い、白亜のティーカップへと紅茶を注ぐ。ルビーのような鮮やかな赤色が白い陶器の中を満たし、揺れる姿は何処か芸術的だ。一流の貴族は紅茶の味だけではなく、ティーカップと調和する姿までも楽しむというが、その気持ちが私には少しだけ分かる。
 
 「ほら、熱いから気をつけて飲むんだぞ」
 「うはwwww俺様wwww猫舌wwwwwファニーちゃんがフーフーしてwwwww」
 「誰がやるか。自分でかってにやって火傷でも何でもするが良い」
 
 そう言い放ち、ティーカップを男の方へと突き出す私の頬も少しだけ赤くなっていた。流石にそんなバカップルめいた事をするのは恥ずかしすぎる。べ、別にやってやっても良いのだが、もうちょっと手順を踏んで欲しいというかなんというか…――
 
 ―い、いや、手順を踏んだとしてもダメだろう!!!
 
 何が辛くてヴァンパイアが人間にそのような事をしなければいけないのか。どう考えても普通は逆だろう。人間が私たちに奉仕しなければいけない立場なのだ。だから、私がコイツの分を覚ますよりもコイツが私の分を覚ます方が正しくて……――
 
 ―その瞬間、私の脳裏に丹念に覚まそうとするこの男の姿が浮かび上がって…。
 
 何だかんだ言って誠実なこの男は私が頼めばやってくれるだろう。それも私が火傷しないように丹念に。そしてコイツの息が何度も吹きかかり、生温くなってしまった紅茶を私は足を組みながら優雅に嚥下するのだ。男の唾液が多少は混ざり込んだであろう甘い液体を私は悪くないと言いながら……――
 
 ―ち、違う違う違う違う違う!!!!そうじゃない!!!
 
 ふと明後日の方向へと飛びそうになった思考を私は強引に自分の元へと戻した。私の頭に浮かび上がった妄想は確かに甘美ではあるが、それだけに危うい。い、いや、そもそも甘美でもなんでもないのだ。た、ただ、ちょっとコイツがずっと傍に居てくれる妄想は癖になってしまいそうだっただけである。好奇心からちょっとばかりそれを現実にしてみたかっただけだ。それ以外の意味はまったくなく、私がそれを望んでいる事などは断じてあり得ない。
 
 ―そ、そもそも…今は食事の時間だ。そっちに集中すべきだろう!!
 
 そう自分の思考の方向性を元へと戻そうとしながら、私は千切ったパンをそっと口へと運んだ。考え事をしていた所為でいくらか冷めてしまったものの、それはまだ芳醇な味わいを含んでおり、美味しい。舌の上で転がす度にバターと焼いた小麦の甘さが広がる上にほかほかのパンの匂いまで沸き上がってくる。多少、冷めたとは言え、これだけ美味しいパンを作れる男は本当に何者なのか。興味が尽きない。
 
 「どう?wwwww美味しい?wwwwww」
 「まぁ…悪くはないな」
 「うはwwwwwwwおkwwwwwww」
 
 私の可愛げのない言葉にガッツポーズを取りながら、男は豪快にパンを齧っていく。上品さの欠片もない豪快な食べ方にパンくずが男の頬へと飛び散った。それを気にせず、頬いっぱいにパンを溜め込み、もぐもぐと咀嚼する姿は本当に図体だけが大きくなった子どもとしか表現しようがない。そんな男に私は肩を落としながら、そっと頬に着いたパンくずを取ってやった。
 
 「ほら、またこんなに零してる。もっと落ち着いて食べろ」
 「んぐwwんぐwww」
 
 叱るような私の言葉に口いっぱいに食べ物を溜め込んだバカは応えられない。どれだけ行儀が悪い食べ方をしていると言っても、口にモノを含んだ状態で話すほど品がない訳ではないのだろう。変な所で律儀な男の姿に、もうちょっとその律儀さの範囲を広げて欲しいとは思うが、それはきっと無理な相談なのだろう。
 
 「俺様の辞書にwwww落ち着くという言葉はないwwwwww」
 「自信満々に断言するな。赤字で書き込んでやるぞ」
 「俺様に自分の存在を刻み込むとかwwwwwファニーちゃんテラエロスwwwww」
 「…はぁ」
 
 相変わらず性的な方面にのみ知識が成熟している男に私は再び溜息を吐いた。冒険者という男が九割を占める稼業をしているので当然と言えば当然なのかもしれないが、その話題を聞かされる側としては溜まったものではない。別に上品な会話をしたい訳ではないが、食事の時くらいは下品さとは無縁で居たいのである。
 
 「ファニーちゃんどうしたのwwwwww疲れてる?wwwww」
 「まぁ、疲れてると言えば疲れてるぞ」
 
 ―主にお前の相手でな。
 
 そう言わなかったのはどうしてなのかは自分でも分からない。変な所で気が回るコイツが変な風に誤解するのを防ぎたかったのか、それとも単純に気まぐれなのか。ただ、どちらであったとしてもそれを口にしなかったのは事実であり、そして、それが目の前の男に心配させる理由にもなって……――
 
 「また夜遅くまでwwwww夜更かししてたんでしょうwwwwwメッだよwwwwww」
 
 ―冗談めいたその言葉には心配する色が浮かんでいた。
 
 勿論、この男が私が夜に生きるヴァンパイアという種族である事は知っている。その生態もまた冒険者であるこのバカの中に入っているだろう。だが、コイツはこうして私を心配するのを止めない。私がヴァンパイアであり、夜を主な活動時間にしていると知っても心配するのは少しばかり鬱陶しくはある。
 
 ―きっと誰かのことを私に重ねているのだろうが…。
 
 私の向こうを見るような遠い視線。それが今、私へと向けられていた。今までも幾度か感じたそれはきっと私を誰かを重ねあわせている証なのだろう。その相手が恋人なのか、或いは妹なのかは分からないが、私自身を見ないそれは不愉快だ。心をざわつかせ、ムカムカとさせるそれに私の頬も拗ねるように膨れていく。
 
 「夜更かしと言うか…そもそもそういう種族なのだがな」
 「でもwwwwwwもう夜明けだよwwwwwww」
 「むぅ…」
 
 時計を見るまでもない。常日頃から規則正しい時間で寝起きしている私の体内時計がもう夜明けである事を告げていた。多くのヴァンパイアが黄昏時が終わるのと同時に起床し、夜明け前に寝るのを基本としている事を考えれば多少は夜更かししていると言えるかもしれない。だが、私だって別に夜更かししたくてしている訳ではないのだ。私には貴族として行わなければいけない義務があるし、責任もある。それを果たせずして一日を終わらせるのはあまり気分の良いものではない。
 
 ―それに……。
 
 「お前の方こそ夜更かししているだろうが」
 「うはwwwwwwwファニーちゃん鋭いwwwwww」
 
 この時間にパンを持ってこようとすれば最低、数時間前に起床しなければいけない。何故ならば、パンを焼くのに釜戸の温度をあげなければいけないし、魔術が使えないものにとっては火付けも大変な作業だ。寝る前に多少、その準備を行なっていたとしても、温度の調整は完全に手仕事である。パンを作る上でどうしても避けられないその作業に大きく時間を取られてしまうだろう。
 
 「でもwwwww俺様は良いのwwwwwなんたって俺様wwwwww人の笑顔を護るのが仕事だからwwwwwww」
 「…笑顔を護る…ねぇ」
 
 だが、私はコイツに笑わせられた事よりも苦労を掛けられた事の方が多い気がする。流石に苦笑のような笑みは浮かべていないが、溜息の回数が跳ね上がったのは事実だ。正直、人の笑顔をぶち壊す方が向いているんじゃないだろうか。
 
 ―…いや、それもないな。
 
 真剣にバカをやれるこの男は人々の中心になる素質を持っているだろう。私のように一段上から見下ろすのではなく、人と同じ場所に立ち、その特別になれる素質を。私にはそれが鬱陶しく…そして少しだけ眩しいものに見える。そんな男はきっと人の笑顔を作る方が向いているのだろう。ただ…私がそれに合わないだけで…――
 
 「でもwwwwファニーちゃんのそれはwwwwお仕事じゃないでしょwwwww」
 「っ!!!」
 
 唐突に告げられたその言葉に私の顔が強張った。明らかに緊張が走った身体がゆっくりと男のほうへと視線を向ける。何処かぎこちないその動きに私自身が一番、困惑していた。どうして言葉一つでこんなにも私の身体が動きづらくなってしまうのか。人間なんぞには及びもつかないほど優秀な頭脳でもその謎は解けず、私は何時もと変わらない男の表情をじっと見続けた。
 
 「勿論wwww俺様wwwwファニーちゃんがwwwwどれだけ頑張ってるのか知ってるよwwww治水工事の計画書とかwwww新しい開拓地の設定とかwwww他にもwwww読めない書類一杯だもんwwwww」
 「それは…当然だ。だって私は…貴族なんだから…」
 
 そう。賎民によって支えられている貴族の生活はそれを様々な利益で返してやらねばならない。それは生活するのに手一杯な賎民では難しい知識によって対外交渉をしたり、治水工事や開拓地を決めるなどだ。その労働力を何処からどれだけ集めるか、期間はどれくらいなのかまでを計画するのは支配者である貴族にしか出来ない。だからこそ、それは私がやらなきゃいけない仕事で…――
 
 「違うよwwwwwファニーちゃんはもうwwww貴族じゃないwwwww少なくともwwww村の人たちはそうは思ってないwwwwww」
 「っ!!!」
 「今はもうwwwww人間の人が領主だってwwwww皆思ってるwwwwww」
 
 ―残酷にも程があるその言葉に私の呼吸さえも一瞬、止まった。
 
 つい数十年ほど前までこの辺りは私の領地であった。少なくとも賎民はそう認識していたし、高貴な私の姿に怯えながらも確実に利潤を引き出す計画にも従ってくれていたのである。代わりに人間の血液こそ要求していたが、別にそれだって死んでしまうほど抜いていた訳ではない。翌日は多少、貧血を起こすかもしれないが、それだけだ。少なくともお伽話で語られるような非道な真似は両親の代から一度だってしたことはなかったのである。
 
 ―だけど…あの病で全てが変わってしまった。
 
 数十年前に突如として流行った流行病。感染力も強く、致死率もそれなりだったその病で私の領民たちが数多く死んでしまった。私もその特効薬である薬草を何とか取り寄せようとしたものの、辺境に位置するこの地域には殆ど流通してこなかったのである。結局、私は何の手も講じられずに一人、また一人と賎民が死んでいくのを見ているしかなかったのだ。
 
 ―だが…それは人々の私に対する恐れを爆発させるのには十分過ぎるものだった。
 
 元々、私は人々に畏怖を振りまくように振舞っていたという経歴もあったのも無関係ではなかったのだろう。ある日、人々は一斉に噂しだしたのだ。この流行病はあの恐ろしい領主が原因であると。勿論、そんな事はない。この地域に病が入り込んだのも馬鹿な行商人の所為である。そもそも、貴重な労働力である賎民を苦しめた所で私にメリットも何も無いのだから。だが、少しの真実というものは多くの愚かさに押し流されるものだ。外の世界でも同じ病が流行っているなどと想像もしない愚かな者たちは今までの鬱屈した感情を一気に爆発させたのである。
 
 ―…その先頭に立ったのは教団から派遣されてきた牧師であった。
 
 今から思えば、全てはその男の扇動だったのかもしれない。だが、例えそうであったとしても過去は変わらないだろう。薬の調達にばかり気を割いていた私は反乱の気配にまったく気付かず、この屋敷への放火を許したという過去は。私がそれに気づいた頃には殺気ばしった人間どもに囲まれていて、口汚く罵られていた。
 
 ―そして手に持った武器で屋敷を打ち壊そうとし始めて…。
 
 両親やお姉様との思い出の詰まった私の屋敷。今まで最大限に利益を還元するように働きかけてきたというのに、その恩も忘れて私へと反逆した愚かな者たち。それに私はどれだけ絶望したか分からない。だが…目の前の現実は力を奪うようなそれに膝を屈する事すら許してはくれなかった。直接、私の命を奪おうと屋敷の扉を強引に破ろうとした若者が出始めたのである。放火した屋敷の中へと押し入ろうとするなんて正気の沙汰ではないが…かと言ってその男たちも私の領民であったのは確かだ。その生命を無駄に散らしてやるべきではないと魔力で施錠していた扉を開け、なだれ込んでくる若者たちに私は私自身を殺した幻覚を見せたのである。
 
 ―それからは…本当に酷い有様だった。
 
 幻覚で見せている私の死体を面白おかしく弄ぼうとする人間たち。そこにはもう私への畏敬も何もなかった。ただ非現実めいた状況に酔い、興奮するケダモノのような姿だけがあったのである。そんな者たちに屋敷が火事で崩れ落ちる幻覚を見せている間、私の心は凍ったように何も感じなかった。少なくとも…屋敷が崩れ落ち、『悪逆な化物』が死んだ事に歓声をあげる者たちが去るまでは。
 
 ―そして、最後の一人の姿が森の向こうへと消えた瞬間、私の胸に差し込んだ絶望が蠢きだしたのだ。
 
 これまで私がやってきた事は一体、なんだったのか。そんな自問が絶えず湧き上がり、裏切られたという感情が胸を何度となく叩く。何もする気力が沸かず、ずっとベッドの上で蹲って涙を流し続けた日々を私は忘れない。そして…そんな無為な日々をようやく暇であると感じる余裕が出てきた時、無性に誰かに甘えたくなった私はお姉様の所へと足を向けて…変わり果てたその姿を見てしまったのだ。
 
 ―それから…私を支えてくれたのは貴族であるというアイデンティティのみであった。
 
 今までそうあるべきだと生きてきた私には他の生き方など知らなかったのだ。他に縋れるようなものなど何もなかったのである。だからこそ、私はそれに固持し、より強固なものへとしていった。今も尚、治水工事の計画書を作っているのもその所為である。私の代わりと教団から派遣されてきた領主は税をギリギリまで吸い上げるだけで殆ど還元らしい還元をしない。自らの私腹を肥やす分以外は教団へと送るだけだ。そんな男に耐えかねて再び私を領主として求めてくれるのではないか。そんな希望をどうしても捨てられず…私は今も貴族で在り続けようとしているのだ。
 
 「だからwwwwファニーちゃんはもうwwwwそんなに頑張らなくても良いんだよwwwww」
 「うるさい…!私には…私には他に何も無いんだ!!」
 「そんな事ないwwwwファニーちゃんは一杯www素敵なモノを持ってるからwwwww」
 「ふざけるな!!!」
 
 気安いを通り越して侮辱であるとも言える男の言葉に私は思いっきりテーブルを叩いて立ち上がった。魔術でしっかりと強化されたテーブルが思いっきり揺れて軋む。お姉様との思い出のたっぷり詰まった家具の悲鳴のようなそれにさえ私の心は冷静にはならない。まるで自分を誤魔化そうとしているようにその心一杯に怒りを滾らせていた。
 
 「お前に…お前に私の何が分かるって言うんだ!!!」
 「…分かるよ。俺は…そうして潰れた子を知ってるから」
 「っ…!」
 
 ―その瞬間、男は私の向こうを見るような遠い目をした。
 
 また私に誰かを重ねるそれに私の心は一瞬だけ怯んだ。一体、誰を見ているのかはやっぱり分からない。だけど、その目にはとても寂しくて、悲しいモノが宿っている。それに気圧された私は一瞬だけ怒りを忘れたのだ。だが、それも所詮は一瞬の出来事でしかない。完全に冷静さを失った私の心をすぐさま怒りが支配し、キッと男を睨めつけた。
 
 「不愉快だ!もう二度と顔を見せるな!!」
 「ファニーちゃんwwwお願いwwww話を聞いてwwwww」
 「うるさい!うるさい!<<うるさいうるさいうるさいうるさい>>!!!」
 
 その言葉をキーワードにして男を屋敷の外へと転移させる。同時に私はこの屋敷唯一の入り口である正面玄関に魔力を飛ばし、何重にも施錠した。その扉を男は何度となく叩き、何かを叫んでいるのが聞こえるがそれも魔術で遮断してやる。一瞬で肌に差すほど静かになった部屋で私は一人呼吸を荒上げていた。
 
 「はぁ…はぁ…」
 
 興奮と怒りで熱くなった身体を冷めないとするような呼吸を私は何度も繰り返した。だが、それでも感情は一向に冷めない。それどころか呼吸をすればするほど様々な感情が湧き上がり、胸の中で荒れ狂っていた。自分でも名前を付けられない激情の波は私の小さな身体では収まりきらず、涙となって排出されていく。
 
 「くそ…!くそくそくそくそくそ!」
 
 自分でも良く分からない感情と涙。どうして自分が泣いているのかさえ分からなくなった私は現実から逃げるようにベッドへと飛び込んだ。どんな日であっても私を優しく受け止めてくれる柔らかなそこを私は涙で濡らしながら、ゆっくりと眠りへと堕ちていったのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―私が最初にアイツと出会ったのはほんの数ヶ月前だった。
 
 その日のことを私は今も鮮明に覚えている。だって、私が領主の座から失脚して数十年。一度たりとも深い森の奥にそびえ立つこの屋敷の扉を叩いたものはいなかったのだから。しかも、時刻は森の中の殆どの生き物も眠る――勿論、ここには魔物は除かれる――時間だったのである。普通であれば不躾にも程がある時間。だが、私の領民たちは私が夜に生きる種族であると知っていたのだ。その時間こそ私の最も活気のある時間であると分かっているはずなのである。
 
 ―だから、私は嬉々として数十年間閉じっぱなしだった扉を開いた。
 
 基本的に屋敷に引き篭っている私だって現在の領主の悪辣っぷりは知っている。今はまだ私が残した遺産のお陰で生活レベルは落ちていないが、どんなものでも経年劣化するものだ。それを防ぐメンテナンスすら行おうとせず、ただ税を徴収するだけの領主にきっと愛想が尽きて私を求めてくれたのだろう。そう思った私の期待は…ほんの数秒後に裏切られる事になる。
 
 ―…最初のセリフは「貴女が連続吸血事件の犯人ですか」…だったな。
 
 急いで身なりを整えてエントランスへと足を運んだ私に告げられたのは予想を裏切るにも程がある言葉だった。私の助力を乞う愚かな賎民どもの姿は何処にもなく、バカらしいほど大きな剣を背中に背負った男の姿だけがあり、さらにはそのセリフも私を疑うものであったのだから。久々に私を貴族と呼ぶ人間たちの賞賛と畏怖の声が聞けると思っていた私はその言葉に膝から崩れ落ちたのだ。
 
 ―…あの時の事は今でも恥ずかしい。
 
 本来であれば貴族として畏敬を集めなければいけないこの身が目の前の光景に肩透かしを覚えて崩れ落ちたのだから。両親やお姉様――勿論、私の記憶に強い方の――に見られれば強く叱咤されていたであろうその醜態を私はなんとか取り繕うとした。けれど、それは時既に時間切れであったらしい。突如として崩れ落ちた私を心配して、あのバカは螺旋階段を数段飛びで駆け上がって、私の身体を抱き起こしてくれたのだ。
 
 ―そして…アイツは私を心配してくれた。
 
 私を畏怖していた賎民たちのようにではなく、一人の女の子に対するように心配し、体調を気遣ってくれていたのだ。初めて味わうそれに妙にドキドキしてしまったのを覚えている。そして、訳の分からない胸の鼓動にドギマギした私は自分を見失い、大人しくアイツの言う事に従ってしまったのだった。今でも人生でも最大規模の不覚として私の胸に刻み込まれているそれは今でも時折、ベッドの上で転がりたくなるくらいに恥ずかしく、そして私の胸を暖かくさせてくれる。
 
 ―ヴァンパイアを心配するそのバカは村に雇われた冒険者で…。
 
 この屋敷の周りを囲む森の向こうにポツンとある小さな村。そこでは最近、家畜の血が大量に抜かれ死亡する事件が多発しているらしい。その犯人がかつて自分たちが殺した領主――つまり私――であり、復讐されているのではないかと人々は震え上がっていたそうだ。だが、ヴァンパイアが好むのは血そのものではない。精という一種の魔力が混じった血である。その精がまったくないであろう家畜を襲っても空腹は誤魔化せず、不味いだけだ。そう説明する私をアイツはあっさりと信じてくれて……――
 
 ―…そしてその瞬間、私のお腹が鳴ってしまったのだ。
 
 領民たちに裏切られてから、私は血を一滴も吸ってはいなかった。私が生きている事を彼らが知ればきっと恐れるだろうし、私だって自分から賎民の顔を見るのは嫌だったのである。結果として私は数十年間、血の一滴も飲まずに生活し、空腹にも程があったのだ。そんな私の目の前にとても健康そうで――血がサラサラしてて美味しそうな人間の男が現れたのである。ご馳走にも近いその姿に今まで抑え込んでいた空腹が蘇っても仕方ないだろう。
 
 ―そのまま…押し倒して首筋に歯を突き立てようとする私の口にあのバカはよりにもよって自分の食料を突っ込んだのだ。
 
 勿論、そんなもので私が満足するはずがない。今まで飢えに飢えていたヴァンパイアの渇きは極上の血液でしか賄えないのだ。しかし、それでも少しばかりは空腹が紛れてくれたらしい。少しだけ冷静さを取り戻した私は自分の恥知らずな行動を自覚し、顔を真赤にしてアイツの前から飛び退いたのだ。
 
 ―そんな私をあのバカは快く許してくれて…。
 
 下手をすれば食われていたかもしれないにも関わらず、アイツはそれをまったく気にする様子がなかった。それどころか空腹故に襲いかかった私に心配し、残った食料を分け与えてくれたのである。既に屋敷内の食料を全て食べ尽くしていた私はそれにおずおずと手を伸ばし、一つ残らず完食してしまったのだ。
 
 ―それからだ。アイツのお節介が始まったのは。
 
 私が欠食童児とでも勘違いしたのだろうか。あのバカは毎日、夜明け前の時間に私を訪ねてくるようになった。その土産は毎日、違っていたもののどれも美味しかったのである。その美味しさと自分の隣に誰かいるという久しく忘れていた感覚に私はズルズルとアイツに踏み込まれ続けていったのだ。
 
 ―それは…きっと悪い気分じゃなかった。
 
 疲れているだの何だの言っても、私はアイツの事が結構、気に入っていたのだろう。アイツのバカな話に肩を落とし、溜息を吐きながらもそんな関係が悪く無いと思っていたのだ。だからこそ…今、こうして一人で過ごしている時間が妙に寂しくて…――
 
 「…ん……」
 
 ―そっと瞳を開いた私に薄紅色の天蓋が目に入った。
 
 どうやらまた転寝してしまったらしい。そんな自分に苦笑を向けつつ、私は溜息を吐いた。深く長いその溜息はアイツを前にした時のような軽いものではなく、強い実感が伴ったものである。まるで心の淀んだものを吐き出そうとするような大きな大きなそれにまた私の目尻が潤んでしまうのを感じた。
 
 ―アイツを追い出してからもうどれくらい経ったんだろうな…。
 
 何処か他人ごとのように思う私の心とは裏腹にじんわりと浮かんだ涙がそのままベッドの方へと流れていった。もう数えきれないほどの涙を受け止めてくれたベッドに感謝の気持ちも湧き上がらない。ただ身体を押しつぶすような気だるさと形のない疲労感が私を支配していた。
 
 ―…仕事もしなきゃいけないのに…。
 
 きっと永遠に形にならない事業であろうとも完全に可能性がない訳ではないのだ。来るかもしれない時の事を考えれば計画書は完成させておかなければいけない。そうは分かっているものの私の身体は動いてくれなかった。そんな自分に自嘲が湧き上がるがそれすらも底なし沼のような疲労感に飲み込まれて消えていく。
 
 ―…アイツ…どうしてるかな…。
 
 ふとそんな事を思った私の胸に微かな痛みが走った。意外と強情なあのバカはもしかしたら今も尚、外で私を待っているのかも知れない。もしくは毎日、この屋敷の扉を開いているかもしれない。だが、私はそれを知る事を拒むように外界からの情報を遮断し続けた。領民の裏切られた時と同じく…私は自分の殻へと閉じこもり続けているのである。
 
 ―…もう時間の感覚も…殆ど無い…。
 
 寝ているのか起きているのかさえ曖昧な今の私には今が朝なのか、それとも夜なのかさえまったく分からない。元々、日光に弱いヴァンパイアの為に窓が一つも取り付けられていないのがその印象を加速させている。唯一、外界の様子を知る音も完全に遮断してしまっている今、私が外の様子を知る事はない。
 
 ―でも…それで良い。
 
 このまま何もせず、何も感じず、朽ちてしまいたい。そんな欲求すら私の胸の中には芽生えていた。どうせ何をしたって私が認められる事はないのである。アイツにだって…あの男にだってそれは否定されてしまった。唯一…私の味方であってくれると思っていたのに……――
 
 「あぁ…そうか……」
 
 私は…私はアイツに特別扱いされたかったのだ。私と接する唯一の人間が私を特別扱いすれば、私の『貴族』としてのプライドは意地される。だけど、現実はそうではなかった。あの男は私を特別扱いはしてくれていたけれど、それは私の望んだものとは遠かったのである。そのすれ違いが私にとっては耐えられない裏切りに思えたのだろう。だからこそ…アレほど強く私は拒絶した。
 
 ―そして…拒絶した今も心の何処かでアイツが謝ってくれると信じている。
 
 だけど、アイツは決して間違ったことは言っていない。私にとって認めがたいものではあるが、間違っていたのは寧ろ私の方だろう。それにも関わらず、私はアイツから歩み寄ってくれているのを期待していた。領民に裏切られた時とまったく成長していない自分の心の動きに私は笑みにもならない表情を浮かべながら、そっとベッドから起き上がる。
 
 ―そのままぼんやりとした目で辺りを見渡せば、テーブルの上にある白パンが目に入って…。
 
 芳醇な味わいを漂わせていたパンにはもうその面影はなく、死体のように硬くなっていた。その表面にはうっすらと青カビが生え、既に数日間放置されているのを感じさせる。本来であれば二人でそれなりに楽しく食べていたであろうパンの哀れにもほどがある姿に私の手はそっと伸びた。
 
 「…ん…」
 
 カビの浮かんだ部分を指で毟り取りながら残った部分を口へとそっと運ぶ。乾燥し、変色したパンはパサパサしてまったく美味しくない。ほんの数日前に食べたものと同じとは思えないほどだ。しかし、それは紛れも無い現実である。私がアイツを拒絶したのも、悪くない食事の時間が消え去ったのも、全て私の所為だと言うのは…決して変わらない。
 
 「……っく…ひっく……」
 
 ―自分は一体、何をやっているのだろう。いや、そもそも…何をしたいのだろう…?
 
 それさえも見失った私の瞳からまたポロポロと涙が溢れる。それを拭わないまま私は硬くなったパンを口へと運んだ。まるでそれが罰だと言うように私の腕は止まらない。幾筋もの涙を流しながら、操り人形のように無味乾燥に動き続ける。そんな私の腕がようやく止まったのは食べかけのパンの殆どを胃の中へと納め終わった後だった。
 
 ―でも…こんなんじゃ足りない…っ!!
 
 パサパサしたパンは多少は私の空腹感を紛らわせてくれた。だが、それでも私の渇きが収まる訳ではない。アイツがいなくなってから加速度的に大きくなっていく吸血への欲求はもう代替品では抑えられないのだろう。ハァハァと荒い息を吐く私の歯が疼き、誰かに…いや、あの男に突き立てたくて仕方なくなってしまうのだ。
 
 ―欲しい…!アイツの血が飲みたい…!そうじゃないと…満たされない…!!
 
 その欲求のまま私は足を前へと踏み出す。しかし、数日間、ベッドの上で横たわり続けた身体は上手くは動いてはくれない。本来、足を置いていたはずの場所から大きくズレ、白亜の椅子を蹴っ飛ばしてしまう。軽い木で組まれたその椅子はガタガタと床とぶつかりながら部屋の端へ――この部屋、唯一の姿見へとぶつかった。
 
 「あ……」
 
 ―思わず椅子の行方を視線で追いかけた私に姿見に映った醜悪な少女の姿が目に入る。
 
 10歳前後の小さい女の子が牙を剥き出しにして、荒い息を吐いている。釣り上がった赤い瞳は胡乱だが、ギラギラという欲望の輝きだけを放っていた。ここ数日、整えられたことのない髪からは幾分、輝きが失せているようにも見える。特に壊滅的なのは頬周辺で幾筋もの涙の跡がべったりと残っていた。
 
 ―それは…格好が格好だけに余計に悲惨に見えて…。
 
 夕暮れから夜へと変わる黄昏時の美しさを描いたようなドレスにはウロコ状の装飾が施されている。内側に纏う純白のブラウスを締め付けるように閉じる部分には純金の鎖が輝いていた。夜の闇をそのまま切り取ったような艶のない黒手袋も上品さと高級感を伝えている。実際、これらの品々は領民に舐められない為にそれなりにお金を掛けた一品だ。流石にこのまま夜会に出るのは無理だが、普通に出歩く分には上等な部類であろう。
 
 ―だが、それを纏う側の表情がこうも悲惨では…その上品さが欠片も伝わらない。
 
 血のように真っ赤な唇は半開きになり、本来の知的なイメージが欠片も感じられない。釣り上がった赤い瞳も本来は意思の輝きを灯し、強気さを振りまいていたはずだ。肩甲骨くらいにまで伸ばした髪をサイドテールにした髪は私の可愛らしさを掻き立てるものであっただろう。ふっくらとした童顔とその肌も少しばかりやつれて、肌も荒れているように思えた。かつての気品も可愛らしさもまるでない姿は上品な服装と合わせて余計、惨めに見える。
 
 ―勿論、それでも人間の小娘よりも小奇麗には見えるが…。
 
 しかし、魔物の一員と見た場合、今の私は明らかに下の下としか表現しようがないだろう。こんな…こんな姿ではアイツにも会えない。幾らあのバカと言えるほどにお人好しの男でもこれだけみすぼらしい格好にはきっと失望するはずだ。アイツが私にカリスマと呼ばれるようなものを求めていないとは言え、男を性的な意味で捕食する為に美貌を磨く魔物と比べても遜色ない美貌が私にあったのは事実である。それがなくなってしまった今…きっと愛想を尽かされて……――
 
 「…はは…そんなもの…とっくに尽かされてるじゃないか…」
 
 あのバカはバカなりに私を慮ってくれていたのだろう。純粋な心配から漏れ出たその言葉の向こうでアイツは気遣うような笑顔を続けていたのだから。それを子どもじみた癇癪で拒絶したのは私に他ならない。いや、愛想を尽かされていると認めるのが怖くて、今も尚、拒絶し続けているのは私以外にはないのだ。
 
 「…本当…救いようのない大馬鹿だな私は」
 
 思わずそんな自嘲の言葉が浮かんだ。そんな私と向かい合う鏡の向こうでは自嘲の笑みを浮かべた少女がいる。年不相応に疲れた笑みを見せるそれに私の心に重いものがズシリとのしかかっているのを自覚した。そのまま見ていると心が押し潰されそうな鏡から私はそっと目を離し、再びベッドの方へと歩き出す。
 
 ―…寝よう。
 
 眠ってさえしまえば、止まらない自己嫌悪からも逃げられる。自分がとても矮小な存在に感じる無力感もまた無意味なものになるだろう。それは忌避すべき逃避の考えであることは私も分かっている。何も解決しない、解決しようとしない後ろ向きの思考であることなど百も承知なのだ。だが、それでも重苦しいそれらから逃げる思考は止まらない。
 
 ―ドンッ!!
 
 「……?」
 
 後ろを振り返り、ベッドへと足を進めた瞬間、私の耳に決して小さくない衝撃音が響いた。まるで何かがぶつかっているような音に私はそっと肩を落とす。野生の猪がこの屋敷に興味をもったのか、それともあのバカがなんとか扉を開けようとしているのか。どちらにせよ、今の私には煩わしいものでしかない。
 
 ―とっとと遮音魔術を…。
 
 「…あれ?」
 
 そこまで考えた瞬間、私は既にそれを使っていることに気づいた。外界の様子を遮断する為に私はそれを維持し続けているはずである。念の為、術式を再構成してみたが、そこにはなんの綻びはない。発動時には幾らか気が動転していたとは言え、私がそんな初歩的な魔術を間違えるはずもないだろう。少なくともこのままの術式のままであれば、私が魔力を注ぎ続ける限り、ずっと維持されるはずだ。
 
 ―じゃあ…さっきの音は…――
 
 私が唱えたのはあくまで屋敷の壁に作用する遮音魔術だ。だが、それは今、発動しているのにも関わらず、効果が発揮されていない状態になっている。勿論、長い間、放置されていた間に壁に仕込んだ魔術を広げる触媒が劣化していたという可能性はない訳ではない。だが、それ以上に可能性が高いのは……――
 
 ―誰かが…この屋敷に侵入した…!?
 
 そう。私が唱えたのはあくまで屋敷外からの音を防ぐ魔術である。屋敷の中から中へと響く音には対象外だ。無論、ヴァンパイアが住むだけあってこの屋敷にはかなり強固な防護魔術が掛かっているが、それだって万能ではない。この屋敷唯一の正面玄関にはそれなりに目を配っているが、屋敷全域の中には防護魔術が弱まった場所もあるだろう。そこを根気よく攻撃し続ければ、屋敷の硬い壁だって突破できるかもしれない。
 
 ―…やれやれ…厄介だな。
 
 相手が誰かは分からない。だが、この屋敷にとって――ひいては私にとってそれが招かれざる客であることに間違いはないだろう。そんな相手とこれから対峙しなければいけない。そう考えただけでも気が重く、身体が疲労を訴える。しかし、相手の正体も悪意の有無も分からない状態で安眠できるほど私は神経が図太い訳ではない。気が重くはあるが、ここは自分から相手の方へと出向くべきだろう。
 
 ―さて…確かさっきの音はエントランスの方だったな。
 
 この屋敷の正面玄関である場所へと向かおうと私はそっと足を動かし始めた。自分でも気力の感じられないノロノロとした歩みのまま自室の扉を開いた瞬間、連続した衝撃音が響いているのに気づく。一体、何をしてくれているのかは知らないが、明らかに破壊を伴う音である以上、歓迎すべきものではないのは確かだ。
 
 ―……おのれ…おのれおのれおのれ…!!
 
 賎民に『退治』された後の私は本当に大人しい生活を続けてきた。不本意ではあったものの、かつて領民であったものたちと接触する事はなく、使い魔を通じて噂話を集めるのが精々だったのである。ここ数十年間の間に私が直接、人と関わったのはあのバカ一人だけだ。そんな私の大事な思い出が沢山詰まった屋敷の中で謎の来訪者は挑発するように暴れている。その現実に私の怒りがメラメラと燃え上がり始めた。
 
 ―私が…私が何をしたって言うんだ…!!
 
 何もしていない。いや、させても貰えなかった数十年間。しかし、その日々がまるで嘘であるかのように無遠慮な破壊の音は続く。理不尽にもほどがあるその音に怒りが身体中へと駆け巡り、歪んだ活気となった。今まで引きずるようだった足取りは自然と強くなり、かつかつとヒールを鳴らすように先へと進む。それは音が大きくなる度にどんどんと早く、大きくなり、最終的に私はヒールのまま走っていた。
 
 ―見えた…!
 
 超人的な脚力で進む私の目に程なくエントランスへの入り口が見えた。そのまま私は滑りこむように曲がり、エントランスへと身を乗り出す。白亜の手すりから階下の様子を見ようとした私の視界には壁の残骸と思われるものが広がる悲惨な光景が入ってくるのだ。
 
 ―こんな…酷い…。
 
 かつて使用人が何十人も行き来し、栄華を極めていた一族の玄関。しかし、そこはまさに廃屋と言っても過言ではない状態になってしまっていた。床も天井も穴だらけで太陽の光――時間の感覚はなかったが今は昼なのだろう――が差し込んでいる。特に酷いのは柱で二階から上を支えている柱が一本残らず叩き折られていた。石灰に似た色の瓦礫が横たわる姿は貴族という形すらなしていない今の私の象徴のようで強く心を痛ませる。
 
 ―誰が…一体、誰がこんな事を…!?
 
 その犯人を探す私の目に2mを越す『物体』が目に入った。…いや、それはもしかしたら『生物』なのかもしれない。人形を模したように二足歩行をするその巨体はびっしりと艶のない緑色の鱗で覆われ、アンバランスなほどに肥大化した腕の先には鋭い爪が光っているのだから。四肢を強調するように巨大化させているのを除けば、それは長身な男であると言えたのかもしれない。だが、その表情はとても硬質的で生物には思えない。まるで人形が暴れているような姿に見えるのだ。
 
 ―だが…今はそんなものは重要じゃない…!
 
 まずはこの無法を止めさせるのが先だ。そう考えた私は手すりを乗り越え、螺旋階段の中央を落ちて行く。ストンという音と共に着地した私は目の前で大きく腕を振り上げる無法者へと口を開いた。
 
 「止めろ!それ以上の狼藉は許さんぞ!!」
 「おやおや、ようやく出てきてくれましたか」
 「っ!?」
 
 自信に満ち溢れたその言葉は人形のような化物の後ろから聞こえた。その瞬間、化物の腕はピタリと止まり、静止する。まるで主人がしゃべっている間は動くなと命令されているような姿に私は強い違和感を覚えた。だが、その違和感はまるで霧がかったように中々、形にはなってくれない。その違和感の正体は気になったものの、今は目の前の状況のほうが最優先だ。そう考えた私はそれを探るのを諦め、化物の後ろからゆっくりと身体を表す痩身の男へと目を向ける。
 
 「こんにちは領主様。いえ…元領主様でしたっけね」
 「随分と不躾な挨拶だな。アポなしの来訪と言い、随分と低い教育ばかり受けてきたようだ」
 
 私のその言葉とは裏腹に男の全身からは知的なオーラが溢れていた。ふちなしメガネを掛けた顔には自信が満ち溢れ、ストレートに垂れ流している茶色の髪には枝毛一つない。皺一つ刻まれてはいない白衣を着こなす姿も様になっていて、全身から『学者』であるとアピールしているようだ。
 
 ―その表情もまた学者らしいもので…。
 
 エリート意識と選民思想に満ちた特権的思考。それが伺わせる侮蔑的な表情に私はヘドが出るような気持ち悪さを覚えた。それはもしかしたら同族嫌悪と呼ばれるものなのかもしれない。私だって似たようなものは持ち、人々に接してきたのだから。少なくともこの地方の領主であった頃にはそうである。
 
 ―…こんな表情を浮かべていたのであれば反乱を起こされても仕方なかったのかもしれんな。
 
 そんな事を漠然と思う私の前で男はそっとその細い身体を折り曲げ、私へとそっと頭を下げた。だが、何処か緩慢なその動作には慇懃無礼さしか感じない。まったく敬うつもりもない相手の形だけの敬意に私が頬がひくつくのを感じた。
 
 「魔物に礼を払えと教育するような不道徳な両親ではなかったので。お許し下さい」
 「ほぅ。それはまた随分と了見の狭い親だったようだな。『道徳的』なお前に相応しい立派な両親だ。それで、何の用だ?」
 
 ―『道徳的』にアクセントを置いた私の嫌味に学者はその頬を引きつらせた。
 
 ここで適当に怒らせて会話のアドバンテージを取るつもりだったのだろう。だが、この程度、貴族の世界では日常茶飯事である。人間にそのような言葉遣いをされるのは確かにムカつくが、その程度で我を忘れてしまっていては貴族など務まらないだろう。相手の嫌味に対して、どう切り返して会話のアドバンテージを取るかを日常にしていた私にとって学者の挑発はあまりにもレベルが低い。ついでに言えば逆にこうして挑発を切り返された経験があまりないのだろう。本人のエリート意識も相まって沸点が低いのもマイナスに働いている。
 
 「き、今日は試験運転として貴女のお命を頂戴したく…」
 「お前如きが…か?」
 「いいえ、私の作品であるこのゴーレムが」
 
 ―そう言って学者は誇らしげに脇の化物に手を当てた。
 
 未だに腕を振り上げたままで固まっているその化物はゴーレムらしい。それも魔物ではなく、純粋に人の魔力を糧に作られたタイプの。そっとその顔を見上げれば、申し訳程度に目と鼻が刻み込まれているのが分かる。一昔前ではそのような形のゴーレムが中心ではあったが、妙に味気なく感じてしまう。それもまた魔物の本能に影響された思考なのかもしれない。
 
 ―…何を馬鹿な事を。
 
 私は誇り高いヴァンパイアだ。他の有象無象ならばいざ知らず、ヴァンパイアが魔物の本能になど敗北するはずがない。そんな馬鹿な事を考えるよりも先にこの学者風の男に一言でも嫌味を言ってやったほうが建設的だ。
 
 「そうか。なら、お前にも分かりやすいように訂正してやろう。お前如きの作品が私の命を奪うなどと本気で言ってやるのか?」
 
 再び紡がれたその嫌味に学者の顔にわかりやすいほどの怒りが滾った。内心、馬鹿にしている相手から明らかに低能扱いされたのだ。その怒りはエリート意識の強そうなこの男に抑えられるものではない。その証拠に歯を剥き出しにする男はゆっくりと腕を挙げ、口を開いた。
 
 「なら、その力を見せてやるさ!!!いけ!!」
 
 その言葉と同時にゴーレムの腕が私へと振り下ろされる。その速度は土塊で出来ているとは思えないほどに速い。恐らくかなり戦闘用にカスタマイズされているのだろう。並の人間では当たっただけで即死してもおかしくはない。それだけの速度がそのゴーレムにはあった。
 
 ―だが、ヴァンパイアにとっては蝿が止まっているようにしか見えんな。
 
 そっとステップを踏むように身体を翻せば、私の脇をゴーレムの腕が通りすぎる。ズガンッという大きな音と共に床に小さなクレーターを作る威力は流石としか言いようがない。だが、どんな威力であっても当たらなければどうしようもない。どれだけ威力があろうとも私はその一撃を避けきる自信があった。
 
 「次は…こっちから行くぞ!」
 
 その言葉と共に私はそっと右手のグローブを脱ぎ捨て、真っ白な手を露出させる。その先に魔力を集めるだけで爪が鋭利な形へと伸びていった。相手が人間でないのであれば殺す事を躊躇する必要はない。最初から全力で叩き潰してやる。その意識を込めて閃いた爪の奇跡は無防備に伸ばされたゴーレムの腕を両断…――
 
 「何…!?」
 
 そこまで考えた瞬間、私の爪は鱗によって弾かれる。それは私にとって予想外にもほどがある事だった。私の爪は鋼鉄すらも易々と切り裂く切れ味を誇っているのだ。無論、ここ何十年以上、戦闘らしい戦闘をしておらず、勘が錆び付いている事も否定出来ないが、それだって傷ひとつつけられないのはおかしい。どれだけ魔力で強化していても土塊に負ける道理などは……――
 
 ―まさか…!?
 
 「ふふふ…気付かれたようですね」
 
 先の違和感の正体に気づいた私の耳にそんな声が届く。学者は先の怒りを爆発させたような表情を潜めていた。その代わりに浮かんでいるのは勝ち誇ったような自信である。私の顔が驚愕に歪んだ事である程度、溜飲を下げたのだろう。元々の自信過剰とも言える表情を浮かばせる男は自慢をするようにその両手を広げた。
 
 「そうです。そのゴーレムの表面にあるのは勇者によってドラゴンから剥ぎ取られた鱗なのですよ」
 「っ…!」
 
 ―中身に負ける道理がないのであれば…その外にしか考えられない。
 
 当然と言えば当然の結論。逆に言えば、てっとり早く防御力を手に入れるのであればそれが最も近道だろう。だが、それは少なくとも私の所蔵する書物の上では語られた事のない方法だった。それも当然だろう。ドラゴン一体を倒すのに必要な戦力はかなりの数に登る。ドラゴンとは勇者のように飛び抜けた人間でさえ、敗北する事が少なくない強力な魔物なのだから。その鱗を手に入れる為に一軍に匹敵する戦力を無駄にする事を考えれば、実行に移せる案ではない。
 
 「それだけじゃありませんよ。その爪もドラゴンのものですし、魔力を定着させる触媒にもドラゴンの瞳を使っています」
 「随分とリサイクル精神に溢れているようだな。まるで物乞いのようだ」
 「えぇ。魔物と言えど、その肉体の優位性は認めなければいけませんから」
 
 私の嫌味に学者が勝ち誇ったような表情を崩す事はなかった。恐らくそれは私の表情が原因なのだろう。明らかに今の私は焦りを浮かべ、追い詰められた表情をしている。今の自分に放てる最高の一撃はその鱗に弾かれてしまったのだ。傷一つない忌々しい鱗は今の私に打つ手がない事の証左である。焦らないはずがない。
 
 ―せめて…体調が万全でさえあれば…。
 
 ここ数十年、マトモに血を吸っていない私は空腹続きで万全ではない。魔力も全盛期に比べれば塵芥に等しいほどだ。身体能力もかなり衰え、先の一撃に以前の鋭さはない。それらを全て解決出来ればあの忌々しい鱗を引き裂く事は可能だろう。
 
 ―しかし…そんな方法なんて…!
 
 確かにあのゴーレムは遅い。今の私でも悠々と逃げられる程度の速度しかないのだから。だが、外は昼間だ。日光に浴びれば身体能力が大幅に低下する私では外に出てもすぐに追いつかれるだけだろう。唯一、血液を得る手段もダメ。となるとこの屋敷に誰か通ってくれるのを期待するしかない訳だが……――
 
 「くっ!!」
 
 そこまで考えた私に向かって再び愚直な一撃が振り下ろされた。床を抉る一撃から逃げるようにステップを踏みながら、私は後ろへと下がった。だが、それも何時までも続けていられる訳ではない。この化物が暴れれば暴れるほど屋敷に傷がつくのだ。日光に弱い私にとってそれは死活問題である。天井全てが崩れれば私の敗北は必至なだけに夜まで逃げ続けるという消極的な手段も取れない。
 
 「ふはははは!滑稽ですね!あのヴァンパイアが逃げまわるしか出来ないなんて!!」
 「こ…のぉ…!!」
 
 そんな私を挑発するように学者が笑った。しかし、現実に私がそうするしか方法がないのは事実だ。腹が立つもののそれに反論する余裕はない。かつての自分からは考えられないほどに追い詰められている状況が私から着実に余裕と冷静さを失わせているのだ。しかし、それでも身体は動く。逆転の方法など見つからないというのに、私の身体は足掻き続けているのである。まるで…人間のように。
 
 「ちょこまかと…!お前はもう捨てられた廃品なんだ!だから、おとなしく私の研究の礎になれ!!」
 「そうだろうな…!だけど…私は…!!」
 
 確かに私は領民たちから捨てられたのかも知れない。あの馬鹿のお陰でそれを冷静に認める事が出来た。私はもう要らないものなのかもしれない。それもまた実感として私の胸にあった。しかし、それでも諦める気にはなれない。立ち止まる気にはなれない。それはきっと…私の胸にあの男の姿が……――
 
 「二度も裏切られてまだ死ぬ気にはなれないのか!?」
 「えっ…!?」
 
 ―その言葉に私の胸に浮かんだ男の像が砕けた。
 
 学者の言う『裏切り』は勿論、領民に私が殺されかかった事だろう。だが、二度目は?一体、私は何処で、誰に裏切られたのか?いや…それは考えるまでもない。私が『裏切られる』ほどに親密であった人間などあの馬鹿くらいしかいないのだから。
 
 ―アイツが…私を裏切った…?
 
 考えても見れば…この襲撃そのものが変だ。コイツは既に私がここに住んでいる事を知っていた節がある。たまたまゴーレムの稼働実験中にこの森へと入り、最深部近くにあるこの屋敷を発見する確率がどれだけある事か。勿論、運命の気まぐれでそんな事も起こりうるかもしれない。だが、そんな事よりも学者の襲撃を手引きした人間が居ると考えればよっぽど辻褄が合って…そして、私がここに今も住んでいる事を知っている人間なんて一人しかいなくて……!!――
 
 「がっ……!!!」
 
 瞬間、私の身体に衝撃が通り抜け、小さな身体が屋敷の外へとはじき飛ばされてしまう。そのままろくに整備されていない石畳の上を転がるようにして私は二度三度と跳ねた。その上から遮るものがない日光が降り注ぎ、私の力を奪っていく。
 
 ―ま…ずい…!
 
 一瞬、頭の中に過ぎった裏切りのイメージ。それに足を止めた私をゴーレムの一撃が捉えたのだろう。反射的に紡いだ魔術で幾分か衝撃は和らげたものの、痛みまでは誤魔化せない。特に今の私の身体は日光を浴びているのだ。通常のヴァンパイアでさえ、日光の元では人間の少女程度にまで身体能力が低下する。主食である血を拒み続けていた今の私では直撃を受けた部分を緊張させて、痛みの分散を妨げる事すら出来ない。
 
 ―くっそ…こん…な……!
 
 久しく味わったことのない激痛の感覚に意識が朦朧するのを感じる。だが、ここでのんびりと寝ている訳にはいかない。痛みにかすれる視界の向こうで緑色の化物がのっそりとこっちへと歩いてくるのが見えるのだ。恐らく私にトドメを刺そうとしているのだろう。その横にいる学者が勝ち誇ったように両手を広げる姿からもそれが容易に感じられる。
 
 ―動…け…動いてくれ…私の身体…!!
 
 その未来を変える為に私は四肢に力を篭めようとする。だが、痛みと日光で力を奪われた身体はまるで言うことを聞いてはくれない。伝わってくるのは痛みだけで触覚すら失われていた。まるで自分の身体ではなくなってしまったようなそれに私は諦めずに何度も命令を飛ばすが、その反応はあまり芳しいとは言えない。
 
 ―ここで死んだら…アイツが…!!
 
 私は一瞬、あの馬鹿を疑ってしまった。私の拒絶に腹を立てたあの男が私を売ったのではないかと思ってしまったのである。そして、その疑念が私の足を止める原因になったのだ。だけど、その可能性はゼロに等しい。少なくとも私が接してきたあの男にそのような陰湿な真似をするような要素は欠片も見えなかったのだ。私はアイツの事を何も知らないが、それでもそんな事をする奴ではないと断言出来る。だから……――
 
 ―だから…私は…私はアイツに謝りたい…!
 
 拒絶してしまった事を。疑ってしまった事を。その他色々な事をアイツに謝って…感謝の気持ちを伝えたい。それが出来るまでは死ねない。死にたくない。
 
 ―なのに…どうして…!?
 
 「さて…覚悟してくださいね」
 
 冷酷なその言葉は私のすぐ上から聞こえた。私の想いも虚しく、くの字の折れ曲がったまま動かなかった身体をあの学者が勝ち誇ったように見下ろしているのだろう。だが、今の私にはそちらに目を向ける余裕すらない。意識は身体の内側で這いずりまわる痛みに集中し、思考も殆どがそれに割かれていた。だが、痛みによって感覚が鈍っている反面、ある部分では研ぎ澄まされているのだろう。緑色の化物がゆっくりと腕を振り上げ、私の命を刈り取ろうとしていた。
 
 ―助けて…助けて……オウル……!!!
 
 もう数秒も掛からない内に私へと振り下ろされるであろう死神の鎌。それを感じた私はあの馬鹿を――その名前を初めて呼び、助けを求めた。勿論、そんな事をしても現実は変わらない。そんな物語のようなご都合主義など起こるはずがない。そんな事は私にだって分かっている。だけど…だけど…私は……――
 
 ―そして緑の塊が私の頭を押しつぶして………
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「うはwwwwwwおkwwwwwww」
 
 ―え……?
 
 唐突に聞こえてきた聞き覚えのある声に私の歪んだ視界はゆっくりと声の主の方へと向けられる。私の前でかばうように立ちはだかるその男は白銀の鎧を身に纏い、金色の髪をしていた。まるで伝説で語られる勇者のような姿に私の目は惹きつけられたように動かない。じっとその大きな背中を…頼り甲斐のある広い背中を呆然と見つめていた。
 
 「…どういうつもりだ?」
 「こんな可愛い女の子をwwww殺そうとするなんてwwwwそんなの普通じゃwwww考えられないwwwww」
 「…ソイツは魔物なんだぞ?」
 「そんなのwwww百も承知だよwwwww」
 
 私をすんでの所で護ってくれたその男は相変わらず鬱陶しいほど喜色に溢れた声音をしている。だが、それはまったく嫌ではない。寧ろ代わり映えのないその声音に私は強い安堵を抱いていた。こんな馬鹿みたいな話し方をするような奴なんて全世界を探したってきっと一人しかいない。少なくとも…私は一人しか知らないのだから。
 
 「オ…ウル…」
 「ファニーちゃんwwwwやっほ^^wwwあ、初めて名前読んでくれたねwwwwデレ期?wwwww」
 
 まるで奇跡のようなタイミングで私を護ってくれた男――オウルは何時もの調子でそう応えた。そこには人間の命だって容易く刈り取るであろう緑色の化物に対峙している緊張はまるでない。まるで街中でたまたま出会ったような何時もどおりの自然体だった。その余裕とも見える姿は頼もしいと表現出来るかもしれない。実際…私は今、泣きそうなほど嬉しい。このタイミングでオウルが助けに来てくれたのが心を震わせるほど有難いのだ。
 
 ―だけど…オウルじゃこの化物には勝てない…!
 
 オウルは人間の中じゃそれなりに悪くない実力を持っている。だが、それはあくまで「悪くない」程度に過ぎないのだ。全盛期には程遠いとは言え、ヴァンパイアの爪で傷ひとつ着けられないドラゴンの鱗を突破できるとは思えない。その立ち振る舞いから彼が自身をかなり鍛えているのは分かるが、ゴーレムに敵うほどではないだろう。
 
 「逃げ…ろ…。お前の敵う相手じゃ…ない…」
 「そうですよ。わざわざそんなゴミを庇って命を無駄に散らす必要などありません」
 
 オウルがゴーレムに敵わない。その点に置いて私も学者も同意見だった。その事そのものは腹立たしいが、きっとそのお陰でゴーレムの腕を止める命令をしてくれたのだろう。この学者がどのような人生を送っているかは知らないが、少なくとも無益な人間の殺生を好むほど歪んでいる訳ではないらしい。
 
 ―なら…まだオウルが生き残る道は…ある…!
 
 試験運用という言葉から察するに、恐らくあのゴーレムは秘密という言葉では済まされないほどの機密事項だろう。それを他の領地への侵攻へと使うのか魔物に対して使うのかは分からないが、それを見られても尚、あの学者はオウルごと私を殺そうとはしなかった。ならば、この場から彼がいなくなりさえすれば、その生命だけは助かるのである。今の私ではオウルを護ってやる事は出来ないし…それがきっと最善の道だ。そう判断した私は痛みに震える唇をゆっくりと開こうとして…――
 
 「大事な人を見捨てて逃げるなんて人生で一度っきりで十分だよ」
 
 ―その強い覚悟を伴った言葉に私の言葉は堰き止められてしまった。
 
 私は本当にコイツの事を何も知らない。そう思い知らされる覚悟の言葉に私は思わず息を飲んでしまったのだ。強い実感を伴ったそれは苦い過去から生まれたものなのだろう。だけど、私はそれを何も知らない。プライドが邪魔して踏み込まないままであったのだ。もしかしたら…ちゃんとオウルに踏み込んでいれば、その理由もわかったのかも知れない。そう思うと貴族であるという事を理由にしていた自分が酷くちっぽけなものに思えてしまうのだ。
 
 「それにwwww俺様はwwwwその子と戦ってみたい理由もあるしwwww戦わなきゃいけない理由もあるんだよねwwwww」
 「ほぅ。それはどうしてですか?」
 「だってwwwwこの辺りの村でwww起こってる連続吸血事件の犯人ってwwww君と『それ』でしょwwww」
 「っ!!」
 
 断言するオウルの言葉に学者の肩が一瞬だが跳ねた。その表情まではまだ痛みの所為で見えないが、きっと狼狽を浮かべているのだろう。さっき私に挑発されてあっさりと載ったように、この学者風の男は頭は良いが理論先行しがちなタイプだ。自分の予想外の出来事に弱い学者がそのような反応を見せるということはほぼ図星という事なのだろう。
 
 「それだけの規模のwwゴーレムに魔力を注ぎ込むのはwwwwちょっと辛いものねwwww家畜の血に魔力を載せてwwww循環させたほうがwwwエコwwwww」
 
 ―なんで…そんな事を…?
 
 勿論、ゴーレムの作り方は今も完全に死んだ技術ではない。今も現役で戦力として扱われる場所もあると聞く。だが、ここまで踏み込んだ事情を一介の冒険者が知っているとは中々、思えない。冒険者として生きていく上ではまったく必要のない知識だからだ。それなのにゴーレムに関してそこまでの見識があるということはオウルはかなりの高等教育を受けてきた――それこそ貴族にも近い地位にいたのかもしれない。
 
 「…それだけを理由に私を犯人扱いするんですか?」
 「勿論wwww目撃証言もあるよwww巨人のような化物がwwwww家畜を殺したっていうwwww証言とも一致するwww村の皆はwwwそれがファニーちゃんだとwww思ってたんだけどwww」
 「それこそ魔物ではないですか?」
 「かもねwwwwでも、この地方を治める領主がwwwwこの一件に緘口令をwww敷いてるんだよねwwwwそれこそwwww何かを隠そうとしているようにwwww」
 「……」
 「それはwwww自分の弟であるwwww君の研究をwwwww庇っているからじゃwwwwないのかなwwwww」
 
 ―コイツ…領主の弟だったのか…?
 
 少しずつ焦点が合い始めた視界のほとんどは私の前に立つオウルによって遮られている現在、学者の顔は見えない。だが、思い返せば、あの男は何度か演技がかった振る舞いをしていた。最初の慇懃無礼な態度などはその典型だろう。それらは貴族風と言えなくはないのかもしれない。またあっさりと私の挑発に乗った辺りも甘やかされて育った下の子らしさと捉えられる。勿論、それはあくまで推測でしか無いが、言われてみればと思えるのは事実だった。
 
 「そしてwww今、君がここに居るのもwwww家畜の血ではwwww魔力の循環がwww上手くいかなかったからなんじゃないかなwwwwだからこそwwwwヴァンパイアであるwwwwファニーちゃんの血を目当てにwwwwしてるんでしょうwwww」
 「…最近の冒険者とやらは随分と調べ物が得意なようですね。でも、それなら分かるでしょう?そこの吸血鬼さえ殺せば、私のゴーレムは完する。そうなれば、もう家畜の血は必要ない。貴方の役目は終わったのです。それなのに貴方は私の邪魔をするというのですか?」
 
 ―その言葉は自白も同然だ。
 
 別にバレても良いと思ったのか、それとも観念したのか。その表情を捉えられない私には分からなかった。だが、その自信満々で悪いとも思ってない声音から察するに前者の可能性が高い。そして、それはきっとこの場で口封じが出来ると確信しているからこその自信だ。実際、あのゴーレムとオウルの間にはそう思ってもおかしくないほどの差が存在する。
 
 「そっちはwww戦ってみたい理由の方だからwwwww言ったでしょwwww俺様wwwww戦わなきゃいけない理由もあるんだwwww」
 
 ―そう言ってオウルはそっと背中の大剣へと手を伸ばした。
 
 私にだって一度だって引き抜かれた事のないハリボテの剣。本人が見かけ倒しとも称したその柄を彼は右手で掴んだ。オウルのがっちりとした腕がリングメイルの内側で膨れ上がり、強く力が込められているのが分かる。だが、それでも鉄塊に近いその剣は背中にくくりつけられた布から抜け出せない。相変わらず、微動だにしないまま彼の背中に背負われている。
 
 「俺様wwwww竜相手にもう二度とwwww逃げたくないんだwwwwww例えwwwwそれが紛いものだとしてもwwww」
 「紛い物ですって…?」
 
 そんな状態にも関わらず、オウルの口からは挑発するような言葉が出てきた。確かに私も噂話や図鑑でしか知らないが、ドラゴンとは地上の王者とも称される強大な魔物である。一時的ではあるが、魔王の魔力にも抗え、全盛期の姿を取り戻す事も出来ると言われるその力はきっとヴァンパイアにも及ぶものであるだろう。少なくとも全盛期の半分の力も出ない今の私が対峙すれば瞬殺されていたのは確実だ。それから考えれば確かにこのゴーレムは紛い物と言えるかもしれない。
 
        ドラゴンスレイヤー
 「このゴーレム…竜殺し は現時点でさえ、竜すら超える最高の兵器だ!!紛い物などでは決して無い!!」
 
 だが、それはこの学者には分からないらしい。必死になって声を張り上げ、それを否定していた。今まで自分が打ち込んできた研究成果が紛い物扱いされるのはどんな知識人でも耐えられないだろう。だが、それだけでは奴の声が恐怖で震えていた理由までは説明できない。
 
 ―もしかしたら…この男もまた…。
 
 ドラゴンに強いトラウマを抱いたまま成長してきたのかもしれない。だからこそ、ドラゴンの素材を使ったゴーレムを創り上げ、それを支配する事でそれを払拭しようとしたのではないだろうか。勿論、それは私の推測…もっと言えば妄想でしか無い。だが、そんな事を思えるほどに学者の声は恐怖に震えていたのだ。
 
 「俺様wwwwwドラゴンと会ったしたことがあるからwwww分かるよwwwwwそのゴーレムにはwwwww心臓を鷲掴みにされるようなwwww恐怖はまったく感じないwwwwwただのwwww鱗と爪を備えたwwww木偶だよwwww」
 「そこまで言うのであれば…覚悟は出来ているんでしょうね…!!」
 「うはwwwwおkwwwwww」
 
 怒りと憎しみ。それに満ち溢れた声を向けられてもオウルはまったく怯む様子はなかった。それどころか真正面からそれを受け止め、余裕すら見せている。一体、その自信が何処から来るのか分からないが、それが妙に頼もしい。きっとコイツなら何とかしてくれる。そんな無意味な信頼感さえ今の私にはあった。
 
 「なら…その身ごとたたきつぶしてやる…!殺せ!!」
 
 ―その言葉と共にゴーレムの拳が再び振り上げられる。
 
 大振りな攻撃。本来であれば容易に躱せるどころかオウルすら護ってやれるそれを前にしても私の身体はまだ動かない。だが、私の心は先程のように死の恐怖を感じることはなかった。寧ろ私の胸には安堵感すらあったのである。それはきっと…私の前に立つ男の背中がとても…とても頼もしい所為で……――
 
 「<<バースト・ワン>><<イグニッション>>」
 「ふぇ…」
 
 唐突に告げられたその言葉と共に私の視界が一瞬で切り替わる。石畳へと横たわり、対峙する二人を見上げていた姿勢からそっとエントランスの螺旋階段へと寄りかかられる姿勢へ。一瞬で行われた姿勢と視界の変化に脳が異常を訴え、吐き気を催す。だが、それ以上に何が起こったのかさえ分からない事に強い混乱を覚えていた。
 
 ―なん…なんだ今のは…?
 
 確かに私はかなり弱っていた。あのままであれば殺されていただけだろう。だが、それでもヴァンパイアの目までもが死んだ訳ではない。多少、歪みは残ってはいたが、状況を正確に把握できていたはずだ。そのヴァンパイアの目でさえ、一体、今、何が起こったのかがまるで分からない。まるで過程だけが消し去られ、結果だけが残ったような感覚に私は半ば呆然としていたのだ。
 
 ―そんな私の顔を覗き込むようにオウルが見てくれていて…。
 
 何時も通りの優しい笑顔。あの日の拒絶がまるで嘘のようにも感じさせてくれるその表情に私の胸はドキリと高鳴った。久しぶりに見るその顔は思ったより近くて、吐息が掛かりそうなほどだったのも無関係ではないのだろう。思わず今の自分のみすぼらしさが恥ずかしくて逃げたくなってしまうほどの近さに私の頬が赤くなっていく。だが、そんな私を知ってか知らずか、この鈍感男の顔にはまるで狼狽が浮かばない。それが妙に悔しくて赤くなった頬が拗ねるように膨らむのを感じた瞬間、私の頭をゴツゴツとした硬い感触が触った。
 
 「少しだけwwww待っててねwwwwすぐwwww終わらせるwwwwからwwwww」
 「……うん」
 
 お兄さんぶったその言葉に私は素直にそう返す事が出来た。それはきっと彼の手がとても優しかったからなのだろう。硬質なガントレット越しでもはっきりと分かるその優しさに私は拒絶出来るほどの棘を奪われてしまったのだ。本来であれば私の方が年上なのにと拗ねる事も出来ず、オウルの手に従うようにそっと俯いた私の頭からそっと硬質な感覚が離れていく。何処か物足りないそれに思わず顔をあげた瞬間、彼は私に向かってぐっと親指を立てた。
 
 「じゃあwww行ってくるねwwww」
 
 ―その言葉と同時にオウルの身体が消えた。
 
 いや、あくまでそれは早すぎて消えたように見えただけなのだろう。実際、こうして離れて見ると彼の姿がはっきりと見えるのだから。だが、その挙動全てを捉えられているとは言い難い。螺旋階段へと座り込む私から日光が照らす庭先までは十数メートルの距離があるのに、オウルが瞬間移動をしているようにしか思えないのだ。
 
 ―だが…なんとなく種は分かった。
 
 別にオウルは瞬間移動をしている訳ではない。ただ、一足で飛ぶように移動しているに過ぎないのだ。軽いものがバネに弾かれるようにして前進しているだけである。
 だが…それがどれだけ異質でおかしい事であるかは簡単に想像が付くだろう。彼の身体は決して軽くはない。いや、それどころか鉄塊に近い剣や鎧を身に纏う彼の総重量は200sに届いてもおかしくはないだろう。本来であれば、その重量は彼の足を地面へと縫い付ける重石として左右するはずだ。だが、一足で軽やかに加速するオウルの姿にはそんな様子が欠片もない。まるでその重さをそのまま推進力へと変えているように軽やかで素早い動きを実現している。
 
 ―それはきっと…肉体を強化しているからで…。
 
 大剣に嵌めこまれた四つの紅玉の内、一つが黄金色に輝いている辺り、きっとそれらが魔術を増幅している媒介なのだろう。そこからオウルの身体へと魔力が注ぎ込まれ、その肉体を限界一杯まで強化している。いや、それどころか身体の内側に収まりきらなかった魔力が彼の身体から溢れ、キラキラとした燐光へと姿を変えていた。動く度にキラキラとした光を残すその姿はまるでお伽話に出てくる英雄や王子様のようで…――
 
 「綺麗…」
 
 私がそう呟いた瞬間、オウルの大剣が閃いた。片手で持っているのにも関わらず、軽々と振り回される大剣の一撃にゴーレムの腕が斬り飛ばされる。そこでようやく学者が状況に気づいたのだろう。私とオウルがいきなり目の前から消えて狼狽していた学者の顔に呆然とした表情が浮かんだ。当然だろう。奴は私が弱りきっていた事など知らないのだ。魔物の中でも最上位に位置するヴァンパイアを完封したと思っているあの男にとって、それは信じられない光景に違いない。
 
 「は…ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
 
 そんな学者に構わず、オウルは再び剣を振るう。瞬間、私の耳に轟ッと言う音が届いた。どうやら先の一撃は音速を超えていたらしい。音を置き去りにし、ボロボロになった屋敷にまで衝撃波を走らせる一撃を再び叩きこまれてゴーレムが無事でいられる可能性など最初から皆無だ。残ったもう一つの腕をあっさりと斬り飛ばされ、学者の言う『最強の兵器』はその攻撃手段の殆どを失う。
 
 「馬鹿な…馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な!!ドラゴンの鱗なんだぞ!!鋼鉄すら弾く最強の鎧をどうして人間如きが…!!まさか…お前…!?」
 「残念だけどwwww俺様wwwww勇者なんかじゃないよwwww」
 
 驚きと困惑。そして微かな希望を込めて問いかける学者の言葉をオウルは真っ向から否定した。それはきっと嘘ではないだろう。通常時の彼は確かに人並みよりも優れた身体能力を持っているが、それは決して勇者に及ぶものではない。平常時はあくまで『鍛えあげられた人間』レベルの実力でしか無い彼が神族から与えられる特別な加護によって化物じみた能力を発揮する勇者とはかけ離れているだろう。そんな事は見るからに博識そうな学者が知っていない訳がない。それでも尚、そう問いかけたという事は…――
 
 ―そう信じたいのだろうな。
 
 奴にとってすれば目の前で両腕を失い、与えられた攻撃命令のままに動こうとする無様なゴーレムは最強の兵器であったのだ。それが勇者でもなんでもないただの人間に打ち負けるなど悪夢でしかない。今まで打ち込んできたものとは一体、何だったのか。そんな徒労感さえ胸中にはあるだろう。それから目を背ける為に奴はオウルを特別な存在であると、勇者であると思いたかったのだ。
 
 「勿論、英雄でもヒーローでもない。俺はただの…一般的冒険者で…仲間を見捨ててドラゴンから逃げた負け犬だ」
 「そん……な……」
 
 自虐にも近いオウルの言葉に学者の膝が崩れ落ちた。ガクリと脱力する男に彼は少しだけ申し訳なさそうな視線を送る。オウルとて自分の言葉が学者にとって死刑宣告にも近いものであったという自覚はあるのだろう。だが、それでも謝らない。後暗さはあるだろうが、それを口にはせずはっきりと背筋を伸ばして立っている。ある種、高潔さとも言えるその態度に私の胸はキュンと疼き、顎の下でぐるぐると何かが暴れるのを感じた。
 
 「<<バースト・ツー>><<イグニッション>>」
 
 そんな私たちの目の前でオウルはゆっくりと大剣を担ぎながらそう呟いた。先のキーワードをもじったような言葉。それと同時に2つ目の紅玉が黄金色に輝き、白銀の刀身を魔力で包み込んだ。まるで太陽をその身に宿したような輝きに私は魅せられていく。眩しいはずなのに目を背けられない。そんな光景を呆然と見つめる私の前で自動制御に従って動く木偶へと足を進める。それを迎撃しようとゴーレムが動くが、その迎撃手段は既に失われていた。自然、棒立ちになったままのゴーレムに向かってオウルは背負い投げの要領で大剣を叩きつける。
 
 ―瞬間、そこには光と音が溢れた。
 
 まるで太陽が間近に降りてきたような光と幾つもの魔術が炸裂したような爆発音。それに意識が揺さぶられ、白く染まった視界の中で目眩を感じてしまう。自分が今、何処を向いているのかさえ分からなくなった私の身体からクラクラとする感覚が抜け始めた頃には、少しずつ視界も回復していった。
 
 ―そんな私の目に見えたのは何時もと変わらない庭先であった。
 
 まるで最初からそんなものなどなかったようにゴーレムは消滅していた。それを塵芥にしたであろうオウルの一撃は庭先には一切の被害を出さなかったらしい。石畳は荒れ果ててはいるが、クレーター一つない。ともすれば最初から襲撃事件がなかったようにも思えるが、穴だらけとなったエントランスホールや呆然と座り込む学者が現実へと引き戻す。
 
 「さてwwwwwこれでwwwww君の戦闘能力はwwww殆ど奪った形になるんだけどwwwww」
 「っ!!」
 「次は君がwwwww相手になってくれるのかな?wwwwww俺様としてはwwwww犯人としてwww村に突き出しても良いんだけどwwwwww」
 「う…ぁ…」
 
 ―勿論、そんな事になったらどうされるのか。知った上での言葉なのだろう。
 
 家畜とはそこに住む人々の財産も同様だ。下手をすれば黄金などよりも遥かに価値のある家畜から死ぬほど血を吸い出されて村の住民が怒っていないはずがない。少なくともリンチされるのは確実だ。またオウルと戦うという選択肢も無いに等しい。最強の兵器とまで言い放ったゴーレムが手も足も出ずに破れた今、学者に勝てる手段などないのだから。
 
 「まさかwwwwここまでやってwww自分は殺されないなんてwwww思ってないよねwwwどっちでもwwwww君の死は確実だからwwww好きなのを選んで良いよwww」
 「う……う……うわああああああああああ」
 
 追い詰めるようなオウルの言葉に弾かれたように学者が立ち上がり、背を向けて逃げ出した。貧相な身体つきをしているだけあってその速度は決して速いとは言い難い。今のオウルであれば軽く飛ぶだけで追いつけるだろう。だが、彼はそれをしない。敢えて逃がすようにその背を見送っていた。
 
 ―その背中が見えなくなった後はゆっくりと大剣を背中へと収め……。
 
 元通りに剣を収めてもまだ彼の身体には魔力が残っているのだろう。キラキラとした燐光がオウルの身体から散っていた。私の信頼通りに勝利を勝ち取り、悠々と歩いてくる姿は何処か神秘的にさえ見える。それをぼぅっと浮かされたように見つめる私の前にオウルが立ち、私へとVサインを突き出した。
 
 「勝利の合言葉wwwwwうはwwwwwおkwwwwww」
 「あぁ、うん。そうだな。所詮、お前だったな」
 「うはwwwww折角、勝ったのにwww釣れない言葉wwwww」
 
 ―…いや、寧ろそれは私のセリフだと思うぞ。
 
 折角、コイツの格好良い所を見れてドキドキしていたのにその余韻を見事にぶち壊しにされたのだ。勿論、私を助けてくれた事には感謝しているが、それとこれとは話が別である。もうちょっと空気と言うか雰囲気を大事にして欲しいと切に思う。
 
 ―まぁ…それは私も同じか。
 
 ここで変に強がってしまう私にも非がないとは言い切れない。少なくとも感謝の言葉くらいは素直に伝えるべきだろう。賎民である人間にそのような事を言うのは何か悔しいが、かと言って礼すら言えないようなクズにはなりたくない。そう心の中で覚悟を決めたw私はそっとオウルを見上げながら、ゆっくりと口を開いた。
 
 「…まぁ…その…えっと……あ、ありがとう…な。お陰で……助かった」
 「うはwwwwデレ期ktkrwwwwwここからwwww俺様のモテ王伝説がwwww始まるwwwww」
 「いや、それだけはないから安心しろ」
 
 確かに私はコイツに感謝しているし、有難いとも思っている。護ってもらえた事に少なからずドキドキしたのも事実だ。しかし、だからと言って惚れているかどうかは別問題である。ヴァンパイアが人間を好きになるはずなど――お姉様のような一部の例外を除けば――ないのだから。百歩譲って私がコイツに惚れていたとしても、オウルが私以外の誰かに好かれるとはまったく思えない。確かにコイツは馬鹿っぽい事を除けば、優しいし、気遣いも出来るし、頼り甲斐もある。馬鹿っぽい所だって相手によればチャームポイントに映るかもしれないが……――
 
 ―…あれ?もしかして…意外とあり得る…のか?
 
 そもそもコイツは集団の中心に据えられてもおかしくはないタイプの人間だ。人を引っ張っていく強引さも併せ持つオウルはリーダーとしての素質もあるかもしれない。その上、先に挙げたような要素も持ち合わせていると思えば…かなりの優良物件であるという言い方も出来るだろう。そんなオウルがモテない可能性のほうがもしかしたら少ないのかも知れない。
 
 ―ま…不味い…コイツがモテないという事をかなり大前提として考えていた……。
 
 そして、こんな馬鹿とマトモに接してやるのは私くらいなものだろうと悠々と構えていたのである。だが、その前提が今、大きく揺らいでいるのを感じた私は内心、頭を抱えた。まったく関係はないが!これっぽっちも関係はないのであるが!!その胸中に私以外の女がオウルの隣に立つ姿が浮かびあがり、妙にムカムカしてしまう。名前を名付けるのを意図的に避けたその感情から私は目をそむけるために私は再び口を開いた。
 
 「それより…思ったより強かったんだな、お前」
 「言ったでしょwwww俺様wwww西京だってwwwww」
 
 自信過剰とも言えるその言葉。だが、それは以前とはまったく違った響きを持って私に届いていた。勿論、先の状態でも最強と呼ぶには少しばかり実力が足りない。世の中には魔王を始め規格外の化物がうじゃうじゃしているのだ。それらに間違いなく勝てると言い切れるほどではない。だが、それでも全盛期の私といい勝負が出来るほどの動きだった。
 
 ―しかも…それは底が見えない。
 
 一体、どんな魔術を使っていたのかは私は知らない。だが、そのキーワードに数字が入り込んでいる事から察するにアレが全力ではないのだろう。大剣に埋め込まれている紅玉の数から察するに恐らくまだ二段階の強化がされていたはずだ。最大強化されたオウルが一体、どれだけの実力を発揮するのか。それはヴァンパイアである私には分からない。
 
 ―でも…それはきっと……。
 
 私を打ち倒すに足る力だろう。それは全盛期であろうとなかろうと関係ない。勿論、簡単に負けてやるつもりはないが、あの太陽のような激しい輝きを放つ一撃はヴァンパイアの肉体でもかなりの深手を受けてしまうだろう。先の速度を完全に追いきれていなかった私ではその一撃を避けきる事は難しい。いずれは追い詰められ、膝を屈する事になるはずだ。
 
 ―…そう思うはずなのにどうしてだろうな。
 
 矮小な人間に負けるであろう未来。それを考えるのは私にとってとてつもない苦痛であるはずだ。だが、今の私には意外なほどに悔しさが無かった。それどころかその想像を容易く受け入れ、胸を暖かくしている。まるでオウルが強ければ強いほど頼り甲斐を感じるとというようなその反応に私はそっと肩を落とした。
                                  ドラゴンスレイヤー
 「まぁ、さっきの弟君の言葉を借りるならwwwwアレが俺様のwwww竜を倒す方法かなwwwww」
 「ドラゴンスレイヤー…か…」
 
 確かに先のオウルは竜を倒しうる存在であったかもしれない。だが、そんなものがあれば仲間を見捨てたりなどはしなかっただろう。先のコイツが言っていた言葉が嘘でない限り、その力は竜を乗り越える為に手に入れたものだと言うのは間違いない。だが、そこまでの経緯の間に何があったのかは私はまったく知らないままなのだ。それを何時か話してくれると待ち続けるのも悪くない。悪くはないが…そうして踏み込まなかったからこそ、私は何も彼のことを知らなくて……――
 
 ―だ、だから…今日こそは…!
 
 幸いにして雰囲気的にも悪くない。文字通り絶体絶命のピンチに陥った女とそれを颯爽と助けたヒーロー。その会話の流れも力に関する方向へと流れていっている。このままその力をどうして手に入れたのかと聞けば、きっとオウルは答えてくれるだろう。そうだ。怯える必要も気構える必要もまったくない。ただ、何時も通りの自然体であれば良いだけだ。
 
 ―「どうしてその力を手に入れたんだ?」「どうしてその力を手に入れたんだ?」「どうしてその力を手に入れたんだ?」…よ、よし。完璧だな。
 
 何度も胸中で言葉を紡いだ私はゆっくりと息を吸い込んだ。自分を活気づけるようなそれに心の躊躇いが少しだけ薄らぐ。完全になくなった訳ではないが、足踏みしようとする意識よりも前へと進もうとする思考の方が上回った。心の中の天秤が緩やかではあるものの少しずつ前身へと傾くのを感じながら、私はそっと唇を開こうとして……――
 
 ―その瞬間、オウルの身体に走る震えに気づいた。
 
 「ただねwwwwwこれにはwwwwwちょっとしたデメリットがあってwwww」
 「だ、大丈夫か!?」
 
 まるで風邪を引いたような細かい震えを全身に走らせるその姿は異常としか思えない。唐突に始まったオウルの異常に私は階段から立ち上がって彼の身体にそっと手を当てた。しかし、それでもその震えは止まらない。まるで全身が悲鳴を上げているような姿に私の心は困惑と焦りを膨れ上がらせる。
 
 「剣の宝玉にwwww溜め込んだ魔力でwwwww一気に肉体を強化するからwwwww反動で筋肉がががががwwwww」
 「ば、馬鹿が!!!」
 
 その震えは全身が筋肉痛になっているが故なのだろう。考えても見れば勇者でも何でもない身でアレだけの動きをしたのだ。魔力で強化していると言っても、元の強靭さを上げている訳ではない。走る度に筋肉が千切れ、剣を薙ぐ度に内出血していたのだろう。意識を失ってもおかしくない痛みが戦闘が終わり、興奮が一通り治まってきた今、一気にオウルへと襲いかかっているのだ。
 
 ―くそ…!何で気付かなかった…!!
 
 これは予想して然るべき状況であったはずだ。オウルは勇者でも何でもなく、ただ、が自分を鍛え上げた一般人であることなど分かりきっていたはずである。それなのに私はまるで物語のような状況にでも酔い、ヒロイズムにでも浸っていたのかまったくその代償に思い至らなかった。そんな情けない自分を心の中で幾度と無く罵りながら、私は動けなくなっているのだろうオウルの身体を抱き上げる。
 
 「ごめんwwwwねwwwww」
 「うるさい!謝るな!!」
 
 ―謝るべきは私の方なのに…!!
 
 オウルを拒絶した事も、その代償に思い至らなかった事も全ては私の不徳の致すところだ。普通であれば私の方が彼に謝らなければいけないだろう。だが、それなのに俗にいうお姫様抱っこの形で抱き上げられたオウルは申し訳なさそうに謝るのだ。本来であれば私の方が謝らなければいけないのにもかかわらず、先に謝られた自分自身が途方もなく矮小な存在に思えてしまう。
 
 ―でも…今はそんな事よりも…!
 
 この馬鹿の治療の方が先だ。そう結論付けた私は足に魔力を篭めて一気に駆ける。螺旋階段を飛び上がり、この屋敷で唯一、ベッドのある自室へ。勿論、私だって空腹と痛みでまだ全快とは言えないが、それでも全身を痙攣させるオウルよりはまだマシなはずだ。実際、感覚の鈍い身体から搾り出すようにして力を引き出す感覚は先の戦闘とは違って何処か心地良い。自分のために搾り出すのか、他人のために搾り出すのかだけでこれだけ違うものなのか。そんな言葉が胸中に浮かんできた私はそれを振り払いながら、思考を紡いでいく。
 
 ―とりあえず…この屋敷の中で使えそうなベッドがある場所は……。
 
 使用人や来賓用の部屋こそはあるが、その殆どが手入れをされていない。屋敷全体に掛けた保護の魔術のお陰で埃に塗れていたり劣化してはいないとは思うが、確認すらしていない故に自信がなかった。流石に命の恩人とも言える相手を適当な部屋へと放り込む訳にもいかないし…ここは私の自室に向かうべきだろう。
 
 ―くそ…!こんなに部屋が多いなんて…!!
 
 今までこの屋敷の大きさは殆ど気にしたことがなかった。独りきりでこの屋敷に残った後も、生活域そのものが変わった訳ではないので特に気にはしていなかったのである。しかし、今の私にはこの屋敷の無駄な長大さが恨めしい。早くコイツを楽な姿勢にしてやりたいのに、どうして廊下が終わる気配がないのか。そんな苛立ちを抱いた瞬間、私の視界に見覚えのある扉が入った。
 
 ―悪いが…今は邪魔だ!!
 
 そのまま扉を蹴破るようにして部屋へと駆け込む。勿論、そこは私がエントランスへと降りていった時と同じ酷い惨状だ。それをオウルに見られてしまうのは恥ずかしいが、四の五の言っている余裕はない。蹴っ飛ばされた椅子を迂回するようにして彼の身体をそっとベッドの上に横たわらせた。その微かな衝撃でさえ、オウルが頬を引きつらせるのを見た私の胸にまた微かな痛みが走る。
 
 「少し不快かもしれないが…我慢しろ」
 「ファニーちゃんのお布団にお邪魔してるのに不快とかwwwwそんなの普通じゃwwww考えられないwwww」
 
 ―…そう言ってくれるのは嬉しいが…。
 
 しかし、涙が染み込んだベッドほど不快なものはそうあるまい。コイツの身体はまだ鎧に覆われていてベッドに触れ合ってはいないから気にはなっていないだけだろう。だが、何時までもそうしている訳にはいかない。このまま鎧姿でいてはオウルが苦しいだろうし、回復魔術を掛けるのにも直接、患部が見えていた方が良いのだから。
 
 「じゃあ、脱がすぞ」
 「いやんwwwwwファニーちゃんってばwwww大胆wwwww」
 「ば、馬鹿!!そういう意味じゃない!!」
 
 私の言葉を別の意味に勘違いしたのだろう。オウルはポッと頬を赤くしながら、明後日の方向へと視線を向けた。きっと身体が動いていればクネクネと気味の悪い動きでもしていただろう。だが、今の彼にはそんな冗談すら出来ない。それを再び認識した私は一刻の猶予もないと鎧に手を掛け、その結合部を鋭利な爪で引き裂いていく。
 
 「お、俺様のwwww装備がwwwww全滅だとwwwww三分もwww経たずにかwwwww」
 「後で賠償でも何でもしてやるから今は我慢しろ」
 
 これでも一応、元貴族であるのだ。散財は好きではないが、それなりの武具も屋敷の中には置いてある。後でその中から適当に選ばせ、持って行かせれば良い。それよりも今はコイツの状態を確認するのが先だ。そう心の中で判断した私はそっとオウルの鎧を脱がせ……――
 
 「お、お前…」
 「バレwwwwちゃったwwwww」
 
 肌着から露出したのは紫色に変色した腕であった。元々は血色の良いものだったのだろう。筋肉の着き方一つ見てもそれがとても健康的な肌をしていたのだと分かる。しかし、今の両腕にはその印象がまったくなかった。筋肉に血を行き渡らせる血管が幾つも破れており、見るも無残な状態になっている。
 
 ―それなのに…コイツはどうして笑えるんだ…?
 
 先ほどの戦闘は文字通り肉体を酷使したものであったのだ。この惨状が腕だけに収まっているとは到底、思えない。きっと全身が同じような状態だろう。その痛みはきっと想像を絶するものであるはずだ。なのに、オウルは何時もと変わらない笑顔を浮かべ続けている。まるで必死に心配させまいとするその痛ましい笑顔にぎゅっと胸が締め付けられるのを感じるのだ。
 
 ―それに…汗と血の匂い……ぃ♪
 
 限界一杯まで肉体を酷使していたからだろう。肌着は汗でびっしょりで彼の身体に張り付いていた。独特の男臭さが混じった汗の匂いがふわりと部屋の中へと広がって、私の鼻孔を擽る。その上、肌の近くににじみ出る美味しそうな血の香りが私の食欲を刺激するのだ。その肌に犬歯を突き立てたくなる欲求が私の中で燃え上がり、思考を炙っていく。
 しかし、今は私の浅ましい欲求を満足させている場合などではない。何よりまずオウルの苦痛を少しでも和らげてやるほうが先決だ。そう自分に言い聞かせながら、私は魔術を紡いでいった。
 
 「<<ヒール>>」
 
 短いキーワードと共に魔術へと流し込まれた魔力が緑色の淡い光となった。そっと彼の全身を包み込む優しい光にその表情が和らいだのが見える。回復魔術など久しく使っていなかったが、どうやら成功してくれたらしい。まだ内出血全てが止まった訳ではないが、とりあえず応急処置は出来たと言っても良いだろう。
 
 ―…良かった…本当に…良かった…。
 
 回復魔術へと魔力を流し込みながら、私は安堵の溜息を漏らした。だが、それはすぐさま「はぁはぁ」と短い吐息へと変わっていく。長らく目を背けられ続けていた食欲が目の前の極上の獲物に牙を剥き始めているのだ。その首筋に歯を突き立て、その健康的な血を思う存分、貪ってやりたくて仕方ないのである。
 勿論、理性ある生物としてそのような浅ましい真似はしたくない。回復魔術が発動したとは言え、彼の身体から苦痛が完全に消えた訳ではないのだ。まずはその療養から始めていくべきだろう。そんな事は私にだって分かっている。だが、それでも十年単位で抑えられ続けてきた食欲と言うのは先のゴーレムなどよりもよっぽど手強くて…――
 
 ―欲しい…欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい…!!
 
 気を抜けばそれ一色に染まりきってしまいそうな思考を振り払おうと私は頭をブンブンと振った。突然、頭を左右へと振り始めた私にオウルが驚いたような視線を向けるが、今はそれを恥ずかしいと思う余裕もない。それよりもまずはどんな手段を使ってでも、この欲望を誤魔化すべきだ。そう判断した私は雑談に気を割こうと口を開いていく。
 
 「それで…どうしてお前はあのタイミングでここに来たんだ?」
 
 勿論、今更、コイツが私を裏切ったなどとは思ってはいない。だが、それを差し引いてもタイミングが良すぎたとも感じるのだ。今にも私が殺される瞬間での乱入なんて常識的に考えれば何らかの作為が働いた可能性のほうが遥かに高い。
 
 「俺様wwww勇者だからwwwww可愛い子のピンチに思いがけずwwww通り掛かるものなのだよwwwww」
 「冗談はよせ。今は痛々しいものにしか感じない」
 「うはwwwwファニーちゃん怖いwwwww」
 「…うるさい」
 
 怖いと言われて少しばかり傷ついたが、それでも私が質問を止める訳にはいかないのだ。このままコイツの下らない冗談に流されるのも悪くはないが、今も尚、苦痛に顔を若干歪めている男の冗談に付き合えるほど私は気楽な性分ではない。そうやって何時もどおりにオウルが振舞おうとすれば刷るほど痛々しいものさえ感じるのだ。それならば幾らか真面目な話をしていた方が気持ち的にも楽であるし、好奇心も満たされる。
 
 「まぁwwwそんなに大した種でもないんだけどねwww前々から犯人だとマークしてた相手がwwwwいきなり村にやってきたって聞いてwwwwしかも、ファニーちゃんの屋敷の場所を聞いたって辺りでwww凄い嫌な予感がしただけwwwタイミングは偶然だよwww」
 「そう…か」
 
 ―つまり…あの学者は前々から私を狙っていたということか。
 
 それはつまりあの男が私の生存を知っていたという事である。少なくとも確信に近い何かがあったのだろう。そうでなければ、わざわざ領主の弟がこんな辺境の森にまで足を踏み入れるハズがない。それが一体、どうしてなのかは分からないが…恐らく……――
 
 「多分www俺様の所為だと思うwwww俺様がwwwwファニーちゃんの屋敷に行ってからwww毎日wwww夜明け前に森へと入るからwwww噂になったんだと思うwwww」
 「そしてその噂を真に受けた村人が領主へと訴え…それがあの男の耳にも入った…という所だろうな」
 
 ―だからこそ、あの学者は『二度も裏切られて』と言ったのだ。
 
 奴は私がかつてこの地域の領主であった事を知っていた。そして私が村人たちに排除された存在であることもまた知っていたのであろう。そして今、私の生存を知った人々が、それに怯え、再び排除を訴えた事も。勿論、それらは推察でしかない。だが、『二度も裏切られて』という言葉は同じ対象に裏切られた相手にしか使わない事から考えても、オウルが私を裏切っていた…と考えるよりはよっぽど筋が通っているはずだ。
 
 「ごめんねwww俺様がwwwwファニーちゃんの生活を壊しちゃったwwww」
 「…気にするな。いい加減…歪みが出てきていた訳だからな」
 
 ―その言葉は案外、素直に出てきた。
 
 勿論、今までの生活に未練がない訳ではない。歪んでいると分かっていても、何十年と同じ生活を続けてきたのだ。それ以前の名実共に『貴族』としての生活まで含めれば、百年近く続けてきた生活をあっさりと捨てられるはずがないだろう。
 だが、オウルにそれが間違っているとはっきりと言われたからだろうか。今はそれを素直に受け止める事が出来る。今までの生活が歪んでいて、いい加減、前へと進む時期が来ているのであると…そう思うことが出来るのだ。
 
 「…お前の言う通りだ。何時までも昔の事ばかり固執している訳にはいかない。…私はもう『貴族』でも『領主』でもないのだ。それを認めて…新しい自分を始めないといけない」
 「ファニーちゃんwwwww」
 「…そう思えるキッカケを作ってくれたのは…他でもないお前だ。…ありがとう。…そして…すまなかった」
 
 流石に素直に感謝と謝罪の言葉を口にするのは恥ずかしい。白い肌に熱が灯り、真っ赤に染まるのが自覚出来るくらいだ。しっかりとオウルの方へと向けられていた視線も明後日の方向へと飛んでいき、落ち着きがない。心臓はさっきからうるさいくらいに高鳴って、鼓膜を震わせていた。感謝と謝罪をしているだけなのに、まるで告白でもしているような自分の姿に私は困惑と狼狽を覚える。
 
 「なんでwwwファニーちゃんがwww謝るの?wwww」
 「そ、それは……」
 
 そんな私の心の動きにまったく気づいていないのだろう。肝心な所で鈍感なオウルはそっと首を傾げて私に尋ねてきた。勿論、その理由を説明するのは簡単である。だが、自分の過ちを口に出して説明するというのはただ謝罪するよりも遥かに恥ずかしい。まるで自分の恥部を他者に晒しているような錯覚さえ感じるのだ。
 
 ―でも…こ、ここで怖気付く訳には…!
 
 ここで怖気付いてしまえば今までの私と同じである。折角、『新しい自分を始めないといけない』とまで宣言した相手にそんな醜態を晒す訳にはいかない。ここはどれだけ恥ずかしくてもちゃんと説明するべきだろう。そう何度も自分に言い聞かせながら、私は大きく深呼吸を繰り返し、彼の方へと向き直った。
 
 「…この前…お前を外へと追いだしただろう?アレは…あまりにも大人気ない行為だったと反省している」
 「そんなのwww気にしなくても良いのにwwwwアレはwww俺様が偉そうにww説教しようとしたのも悪いんだしwww」
 「そういう訳にはいかない。それに何より…お、お前は…一応、心配してくれていたのだろう?そんな相手を…外へと放り出して締め出すなんて……あまりにも子ども過ぎた」
 
 ―そうして自分の非を並べ立てる度に少しずつ心の中が軽くなっていく。
 
 それは今まで必死に固めていた虚勢が少しずつ剥がれていっている所為だろうか。一つ素直になる度に一人のヒトに戻っていくような感覚はそう悪い気分ではなかった。それはきっと…その相手がオウルであるというのも無関係ではないのだろう。プライドで凝り固められる前へと近づく私を見てくれているのが…このお節介な馬鹿だからこそ、私は悪い気がしないのだ。
 
 「んーwwwそれじゃあ…俺様のカバンの中www見てくれる?wwww」
 「…カバン?」
 
 一体、何が「それじゃあ」なのかは分からないが、本人の中では何かしらの繋がりがあるのだろう。一々、それを突っ込むのは野暮であると思考を打ち切った私は先程脱がした中に何時ものカバンがあったのを思い出した。手当をするのに頭がいっぱいで適当に放り投げられていた武具の中から見覚えのあるカバンを見つけた私はそちらへと足を進め、そっとそれを持ち上げる。
 
 「アレから俺様もwww自分のやったことがwwwあまりにもお節介だって気づいてwwwwお詫びの品を用意しておいたんだよwww」
 「…お詫びの品?」
 「うんwww気に入って貰えるかどうかは分からないけどwwww自信作だからwwww是非食べて欲しいなwww」
 
 ―…自信作…か。
 
 コイツの食べ物で美味しくなかったものは一度たりともなかった。その中で自信作というのがどれほどのものなのか。それほど食い意地が張っている訳ではないが、どうしても期待してしまう。何より、今の私は感じたことがないほどの食欲を抑えるのに必死なのだ。適当に口にモノを入れれば、食欲の勢いも多少は弱まってくれるかも知れない。
 
 ―まぁ、少なくとも悪くなる事はないだろう。
 
 そう判断した私はなめした革で作られたカバンを開いた。中には包み紙に包まれた何かの塊がある。インゴットサイズのそこからは香草の良い匂いが漂ってきていた。その香草の匂いに紛れて塩の香りも感じられる。おおよそこんな田舎では味わえないほどしっかりとした味付けをされた料理。それに思わず唾液が出てしまうのを感じながら、私は固まりを取り出し、そっと包み紙を開いた。
 
 「ふわぁ…♪」
 
 そこには程良く焼けた肉の塊があった。千切られた香草と塩をたっぷりとまぶされたその肉は一口大に切り揃えられ、赤い内側を晒している。ミディアムレアのその肉からは流石に湯気は立ち上ってはいない。しかし、冷めても尚、美味しそうな匂いをさせるその肉にオウルがどれだけの手間暇を掛けたかが分かるようだ。
 
 「この前wwwイノシシを捕まえてねwww臭み抜きしたお肉がwwwつい昨日に丁度仕上がったからwwwwお詫ついでにお裾分けしようと思ってwwww」
 「イノシシ…か」
 
 猪肉は臭みと硬ささえ除けば豚肉と殆ど変わらないと聞く。だが、これだけしっかりと味付けされているのであれば臭みは大丈夫だろう。後は硬さではあるが、こうして握るだけでふにふにと柔らかい弾力が跳ね返ってきている。一体、どんな加工をしたのかは分からないが、硬さについても問題はないだろう。寧ろこうして見ているだけで涎が出てくるほど美味しそうだ。
 
 「中に水筒があると思うけどwwwwそっちにはステーキソースが入ってるからwwwwそれ掛けて食べてねwww」
 「分かった」
 
 とは言え、流石に一人で全部食べきるほど食い意地が張っている訳ではない。折角、仲直りの品としてオウルが持ってきてくれたのだから、二人で食べるべきだ。勿論、回復魔術を掛けたとは言え、彼の身体は全快には程遠い。先ほどのように痛みに震えているわけではないが、起き上がる様子をまるで見せない辺り、きっとまだ身体の自由が効かないのだろう。
 
 ―まぁ、その方が動きやすくて有難い。
 
 ここは私の自室だ。何処に何が入っているかは完全に頭の中へと入っている。自然、食事の準備をするのは大抵、私の方であった。コイツが動いても動かなくてもやる事そのものは変わらないのである。寧ろ、素直にベッドの上に横たわってくれている辺り、動きやすくて楽かもしれない。
 
 ―勿論、普段が別に邪魔って訳ではないのだが…な。
 
 そんな風に胸中で言葉を紡ぎながら、私は戸棚をそっと開いた。そこには透明なワイングラスと共に白亜の皿が一組並べられている。純金にて今にも飛び立ちそうな鳥が描かれたその皿は一皿で金貨数十枚にもなる逸品だ。普段はインテリアの一種としてしか使っていないその皿とフォークを戸棚から取り出し、私はテーブルへとそれらを運ぶ。そしてテーブルの上で包み紙からお皿へとステーキを肉を移し、木筒に栓をした簡素な水筒を革製のカバンから取り出す。
 
 ―あれ?
 
 瞬間、私の鼻孔に嗅いだ事のない匂いが入ってくる。何処か香ばしいそれは私の頭を妙にクラクラとさせた。まるでアルコールにでも酔ってしまったように酩酊感が身体の中を這いまわり、思考が上手く出来なくなる。しかし、一体、それがどうしてなのか私には分からない。深酒したのであればともかく、アルコールを一滴足りとも口にしてはいないのだから。自分の変調に私は内心、首を傾げながら、フォークと共にベッドへと戻っていった。
 
 「あれ?wwwこっちで食べるの?wwww」
 「仲直りの品を独り占めするほど浅ましい訳があるか」
 「でもwwww俺様wwwwこの腕じゃ食べられないwwww」
 「そ、それくらい分かっている。し、仕方がないから私が食べさせてやるぞ」
 
 べ、別に私がそんな恥ずかしい真似をしたい訳じゃない。「あーんして♪」「あーん」「美味しい?」「うん!美味しいよ!!」みたいな脳内麻薬が回りすぎて馬鹿になってるようなカップルのような行為に憧れているなど断じてない。ただ、これは仲直りの品を独占すべきではないというヒトとして最低限の礼儀であり、それを満たすための緊急避難だ。それ以外の理由などこれっぽっちも存在してはいない。
 
 「うはwwwwファニーちゃんのあーんktkrwwwwww」
 「さ、騒ぐな馬鹿…」
 
 しかし、そうやって素直に喜んでくれると私としても悪い気分ではない。いや、寧ろ嬉しいくらいだ。恋人同士のような行為を喜んでくれるという事は彼もまた私を悪いように思っていない証でもあるのだから。少なくとも誰かの代替品ではなく、ちゃんと一人の女の子として見て貰えている。それが本当に喜ばしくて……――
 
 「嬉しい…」
 「ん?www何か言った?wwww」
 「っ!?な、なんでもない!」
 
 その感情をそのまま素直に出してしまった言葉はギリギリ、オウルへは届かなかったのだろう。それに安堵しながらも私は内心、困惑を隠せなかった。それも当然だろう。だって、私はこんな風に簡単に内心を吐露するようなタイプではなかったのだ。もっと意地を張った…面倒くさい女であったはずである。しかし、それが嘘のようにはっきりと感情を口に出来ている。それは変化を宣言した私にとっては嬉しい事ではあるが、急激とも言える変化について行けないのも事実だ。
 
 ―私…一体…何を…?
 
 しかし、その原因を探そうとする思考さえ上手く紡げない。まるでアルコールが身体中へと回っているように酩酊感が満ち溢れ、思考を阻害しているのだ。だが、それは決して嫌な気分ではない。ふわふわと身体と思考が軽い気分は寧ろ心地良いと呼ぶのが相応しいとさえ思えるくらいだ。しかし、そんな心地よさとは裏腹に初めて経験する感覚に戸惑う気持ちはなくなってはくれない。
 
 「ファニーちゃんどうしたのwwwww調子悪い?wwww」
 「だ、大丈夫だ。問題ない」
 
 そんな私に向かってオウルが心配そうな視線を向ける。それも無理ない事だろう。ついさっきまで私は動くのも難しいほどの状態であったのだから。そんな私が目の前でいきなり動かなくなれば、心配するのが当然だ。
 
 ―そうだな。まずは食事に集中しなければ…。
 
 自分の変調に気を取られるのも良いが、今は折角、仲直りの食事をしようとしている真っ最中なのだ。ここで変に躊躇してしまえば、心配させるだけではなく、仲直りそのものが上手くいかなくなってしまう可能性がある。出来ればそれだけは避けたい。折角、こうして仲直りの機会を得られたのだから、何時もと同じ関係に…ううん。それよりももっと親密で素晴らしい関係になりたいのだ。
 
 ―…親密で…素晴らしい…?
 
 いや、待て。ヴァンパイアと人間がそのような関係になるなんてあり得ない。人間はヴァンパイアとは違って、下賎で矮小な存在だ。でも、私はそんな彼に助けてもらって…そうだ。彼は命の恩人なんだ。その彼に報いない方が間違っている。いや、でも、ここまでする必要などないんじゃないか?回復魔術を掛けた時点でその義理は果たしているのではないだろうか。少なくとも人間を私のベッドに載せているだけで十分、報いていると言えるはずだ。いや、だけど……――
 
 「ファニーちゃん?wwwww」
 「あ、あぁ…すまないな」
 
 再び思考へと落ちていた私を気遣うようなオウルの言葉に私の意識は現実へと引き戻される。だが、その意識はどうにも鈍いとしか言いようのないものであった。何処か夢見心地に近い感覚は自分が何をしているのかさえ曖昧になっている。このままでは何かが拙い。そんな警告が私の脳裏をよぎるが具体的に何の危機であるのかまったく分からないのだ。
 
 ―ダメだ。頭を切り替えろ。今はそんな事をしてる場合じゃない。
 
 答えの出ない思考を私は今度こそ打ち切って、水筒へと手を伸ばした。そのまま木屑を固めて作られた栓を引き抜き、中のステーキソースを肉へと掛ける。何かをすりおろして混ぜ込んだのだろうか?ペースト状の『何か』が浮かんだ黒い液体が肉に彩りと匂いを加え、とても美味しそうに見せていた。今すぐに食べたい。そんなはしたない事さえ考えてしまう私の鼻にまたあのなんとも言えない匂いが飛び込んでくるのである。
 
 ―これ…まさか…このソースの…?
 
 さっきよりも遥かに強い匂いはきっとステーキソースから漂っているものだ。だが、どうしてその匂いに私がこれだけの反応を示すのかがまったく分からない。だって、ヴァンパイアとは人間には及びもつかないほどの生物なのだ。その身体能力や魔力の高さは高い次元にて完成している。人間には同類として見られる他の魔物だってヴァンパイアに敵う者は少ないだろう。そんなヴァンパイアが匂いだけでこれだけの変調をきたすなんて……――
 
 ―そういえば…昔、お母様に何か言われたような気が……。
 
 だが、それが一体、なんなのかさえ今の私には思い出せなかった。何か重大な事であるのは確かなのだが、まるで思考が霞がかったように胡乱なのである。もう少しで手が届きそうなのに、後一歩が足りない。そのもどかしい感覚が妙に煩わしくて、私は再びその思考を投げ捨てた。
 
 「それじゃあwwwお先にどうぞwwwww」
 「あ、あぁ。では、貰うぞ」
 
 ―そう言って私は肉にフォークを突き刺して口へと運んだ。
 
 そのまま思いっきり噛めば、中から肉汁がじゅわっと溢れ出してくる。それが黒いソース――確かジパングのショウユだったか――と絡み、香草の匂いと共に口の中で踊る。完全に臭みが抜けきり、癖のまったくない美味しい肉汁にショウユの塩加減が丁度、良い。その上、ショウユに混ざり込んだ『何か』が香ばしさを引き立てているのだ。冷めても十二分に美味しく、自然と噛み締めるようにして口が動いてしまう。
 
 ―美味しい…な。美味しいんだけど…。
 
 歯を噛み締め、肉汁を味わう度に私の中の警告がどんどんと大きくなっていくのだ。だが、胡乱な私の思考ではそれが一体、なんなのかは分からない。こんなに美味しいものをどうして忌避しようとしているのか不思議なくらいだ。
 
 ―そう…だ。美味しい物を…何で我慢しようとしていたんだろうな。
 
 そう。最高のご馳走は目の前にあるのだ。それをアレコレ理由をつけて逃げ続けていた自分はまるで道化のようではないか。それが本当は咽喉から手が出るほど欲しかったのに、誤魔化していたのだから。勿論、誤魔化すに足る色々な理由が私にはあった。だけど、そうやって自分を誤魔化す必要なんて何処にもない。
 
 ―だって…折角、変わると宣言したんだから…♪
 
 私はこれから変わるのだ。新しい自分になるのである。その為にはそのような誤魔化しなんて必要ない。『貴族』としてのプライドもなく、ただ、楽しい事と美味しい事だけを追求していけばいいのだ。今まで愚かしいと、浅ましいと見下してきたそれらを積極的に求めていくべきだろう。そう判断しながら、私は美味しい肉をそっと嚥下し、ペロリと真っ赤な唇を舐めた。
 
 ―だから…そう。手始めに…身近な所から変わっていこう。
 
12/01/12 20:00更新 / デュラハンの婿
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