連載小説
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SideX
 僕と科白の息が、お互いの顔にかかり合う。
 三つの瞳で出来た三角形が小さくなっていく。
 唇と唇が触れるかどうかの瞬間だった―――

「お、チューすんのか? おっぱじめるのか? こんな楽屋で? あっ?」

「おわっ!」
「ひぃっ!」

 突如聞こえてきたのは、ドスの利いた柄の悪い声。
 その主は扉の隙間から、顔だけをニュッと覗かせる悠希だった。

「ゆゆ、悠希さん……何で、の、覗いて……?」
 
 声をかける科白の声はバイブレーションのように震えている。
 必死に困惑しつつも、僅かな平静を保とうとしているようだった。 
 
 悠希は扉と壁の間にギッチリと顔の横を挟み、歯をむき出し、ドヤ顔で答える。

「何って、そりゃ……見守りというか、ギャラリー的な? お客様だよっ!」
「いやアンタ従業員だろ」
 
 そういうキャラじゃないのに、思わず言ってしまった。
 某雪山ホテルのホラー映画か。普通に怖いわ。
 しかし残念なことに、悠希の渾身のおふざけを歓迎する者は、この楽屋にはいない。
 かく言う科白も、悠希の言っている言葉の意味すら分からないようで、ポカンとした顔をしている。

「ちっ……反応いまいちだな、まぁいいけど」

 悠希は不服そうに扉を開けて、当然のように室内へと入ってくる。野暮なんぞ知ったことか、とでも言いたげな態度だ。
 あとそのネタ、知っているからこそスルーしていることに気付いて欲しい。

「で、痴話喧嘩は終わったのかい?」

 困惑する僕らをよそに、悠希は聞き捨てならないことを尋ねてくる。  

「ち、痴話って……」

 科白は慌てて僕の両手から離れて、その四肢をバタつかせる。
 青い肌でも紅潮するのかと思いきや、その肌は青から明るい水色へとその色を変えていく。照れる科白を初めて見るせいか、その独特な肌の変化は新鮮だった。

「いやいや……仕事しか出来ずに、家のことを疎かにするダメ職人、それに嫌気が差して叱咤する家政夫。誰がどうみたって痴話喧嘩じゃねぇ?」

「ゆ、悠希さん! 私達、まだそういう関係じゃ……」
「ほーう? "まだ"か」
「え、あっ! 違っ! その……」

 悠希の挑発じみた発言の連打で、科白はすっかりパニックになっていた。
 科白は両手と瞳を上下左右に振り回し、空中を泳いでいる。いや、溺れていると言った方が正しいだろうか。
 科白の奇行を横目で見ていると、逆に僕の方が少しずつ冷静になってくる。

 おかしい。
 悠希のこの態度の急変の仕方、どう考えたっておかしい。
 悠希の言動には、多少の不機嫌さは残っているものの、決して心から嫌悪をしているといった雰囲気は感じ取れない。
 むしろ一度退室する前とは打って変わって、親しみやすく振る舞っている。
 外に出た短時間で、悠希に何があったのだろうか?
 
 まるで、さっきまでのギスギスした空気が、嘘みたいだった。

 ……嘘?

「……まさか」

 丁度、悠希が開けた扉の後ろから、こそこそとバツが悪そうに部屋の中に入って来る人物がいた。
 深月だった。

「おい……」
「……すみません。もう少し待ちましょうって、悠希さんにもそう言ったのですが……ご覧の有様で」
 
 深月は、本当に顔向けできないというように謝罪をしてくる。
 土下座でもしそうな勢いの深月に、僕は猜疑心をたっぷり込めて質問する。

「一体、これはどういうことだ?」
「まぁ……つまり、ですね。"さっきまでの私たち"は、お芝居だったんです」

 申し訳なさそうに深月はそう言うと、また深々と頭を下げてくる。
 僕は一瞬考えた後、科白の方を勢いよく向き直る。
 しかし、科白は何も知らないというように、素早く首を横に振っている。
 
「祈里ちゃんは何も関係ありませんよ。あくまで"私と悠希さん"の芝居です。祈里ちゃんに関連する情報にも、一切の偽りはありませんので、安心してください」

 僕の口からものすごい量のため息がでる。
 やられた。文句を言う代わりに、僕は過去最高のしかめっ面を披露する。

 さっき部屋を出る前に、深月が科白の手を握った時だ。
 あの時点で、既に深月は科白に鍵を渡していたのだ。
 あの激励じみたやりとりは、この展開を予想してのことだったのか。

 くそ、普通ここまでするか?

「最初から全部、僕はアンタらの掌の上ってわけかい?」

 僕は濡れた目をゴシゴシと擦りながら、定番の質問をする。

「ええ。或森さんが来店した瞬間から、この防音室で祈里ちゃんと二人になる状況を狙っていました。退職を促したのは、お二人を追い込むための奥の手でした」

 深月の発言に続けて、横から悠希が言葉を繋ぐ。

「正直ほとんどアドリブで、最後は一か八かの賭けだったんだけどな。だがどうにかして、お前らに一度、腹割って話をさせたかったんでな」
「ちょっと待ってくれ。それじゃ僕がその、科白に……手を出すのも、予想して、いた、のか?」

 段々とまた冷静さが欠けてきたのか、慌てて僕は質問をしてしまう。
 最後の方は少し、尻切れトンボになってしまった。
 自分の行いを正当化しようとしているみたいで、気が引けたからだ。

「いいえ、それは想定外でした。椅子に拘束したことや、ここを覗いてしまったのも、それゆえに万が一のことを考えました。本当に……あくまで演技の一環として、ですよ?」

 視線を逸らし、頬に手を添えて深月はそう答える。
 せめてもう少し、自信のありそうな声で言ってくれ。
 僕は怒る気にもなれずに、がっくりと膝を落とす。
 まあ元はと言えば、科白に悪い感情を押しつけていた僕が悪いわけで、深月に一方的に怒るのもおかしい話ではあるのだが。

 ただ、なんというかもう、恥ずかしいとか、腹が立つとか。
 もう、そういうことの一切を通り越してしまっている。

 僕はそのままその場に座り込み、膝を抱えてうずくまる。
 無になりたい。
 涅槃があったら入りたい。 

「まぁまぁ、そう気を落とすなよ! 男の涙ってのも悪くないぜ?」
 
 後ろから悠希が、そう言って僕の背中を叩く。
 明るく茶化すようなフォローに、僕はやんわりと綻ぶ、わけがなかった。
 悠希のその曇りのないニヤついたゲス顔が、僕の頭上で弧を描く。うざい。
 
「つうか、あんた。演技とはいえ、あそこまで人を痛めつけられるもんなのかよ? どうかしてるわ……」

 殴りたい気持ちの代わりに、せめてもの反撃で僕は悪態をつく。  
 
「ソンナコトナイヨー。お前みたいなクズ男のことなんて、本気で嫌いな訳ないじゃないカー。アタシの可愛いいのっちに手を出す奴は只じゃおかない、だなんて全然思ってないヨー」
 
 悠希は目どころか、顔も言動すらも、何一つとして笑っていない。むしろ敵意がメガ盛過ぎて溢れ返っている。つうかクズ男って僕のことかよ。演技しろよ。

「あの……私、悠希さんのものになったわけでは……」
「いやぁ、演技大変だったぜ! 気絶だけで済んで良かった、良かった」

 隣でおずおずと、訂正しようとする科白を完全無視し、悠希がさらっと恐ろしい本音を呟く。
 僕、この鳥嫌いだ。

「そうだ」
 
 僕はふと科白の方を向き、足を組み直して正座になる。
 そういえばまだ科白に言っておかなければいけないことが、僕にはある。

「えっと……どうか、しました?」
 
 僕の急な行動に、科白は困惑している。
 僕は科白を他所にそのまま、地面に両手をつき。
 その勢いで、よく頭を下げる。

 室内に広がる鈍い音と共に、僕の頭がビニール床に衝突する。
 
「あ、或森さんっ!?」
「さっきは、すいませんでした。乱暴してしまって……どうかしていた」

 人生初の、土下座という奴だった。
 冷房で冷えた床の感触を味わうようにして、僕は額を床に押し付ける。
 たとえ全てが深月たちの思惑の内だったとしても、それが結果的に良かったとしてもだ。科白を怖がらせてしまったことは、僕の過失に他ならない。

 だから、けじめはつけておきたかった。

「あ、頭を上げてください! 全然っ!怪我とかしてないですし、大丈夫ですから!気にしないで、本当に」
 
 だがそんな僕の思いは、慌てふためく科白によって、あっさりと許されてしまう。
 しかしそうやって簡単に許されてしまうと、どうにも気持ちを消化しきれない。
 心が凭れてしまうそうだ。せめて一発くらい、殴ってくれてもいいのに。
 サイクロプスのパワーなら、たぶん相当の威力だとは思うが、覚悟の上だ。

「だけどさ……せめて何か」
「いいんです! むしろ……あ、いえ、えと……」

 科白は何かを言いかけて、不意にどもる。
 その顔はまたしても赤く、いや水色に染まり恥ずかしそうに口元を押さえている。
 僕は若干いぶかしく思いつつも、科白の次の言葉を待つ。
 正座のままで見上げているせいか、彼女の飼い犬にでもなった気分だ。
 でも今までないがしろにしてきた分、これからは科白の声はちゃんと聴かなければいけない。
 
「むしろ……何?」

 正座を崩さないで、僕は更に聞き返す。
 
「いえ、あの……笑わないで、欲しいんですけど」

 科白は言いよどみながらも、その小さな口を開く。
 僕は耳に集中力を集めて、心を構える。

「……さっき気づいたんですけど、私、多少、乱暴にされる方がその、好きみたいで……」
「うわあ」
「ひ、引かないで下さいよぉ……」

 そう言われたところで無理がある。
 いきなり性癖暴露大会をされたら、誰だってそうなる。
 笑うどころか、ものすごい勢いで僕の口がへの字になってしまう。
 お互い、まだまだ知らないことは多いだろうけど、その情報は今いらなかった。
 僕は真剣に聴いてしまったことを悔やんでしまう。
 まぁでも、人前で土下座をする僕も、科白のことを言えないか。

「祈里ちゃん……Mっぽいとは思っていたけども、そこまでだったなんて」
「あれ? アタシもしかしてあの時、止めない方が良かったのか?」
「皆さん、ひどい……」
 
 次々に出てくる深月達の辛辣な発言に、科白も多少涙目になっている。
 本当に科白ってやつは、ズレている。
 
「でも本当に……仲直りできて良かった。かなりの荒療治でしたから、心配していたんです」
 
 深月は笑いながらも、どこか安堵したようにそう告げる。
 僕は立ち上がりながら、深月に脳裏に浮かんだ疑問をぶつけてみる。

「……深月さん、アンタさっき芝居って言ってたけど、本当は、アンタにはこの結末、見えていたんじゃないのか?」
 
 結局のところ、深月の思う通りの展開に進んでしまったわけだが、実際のところはどうなのだろうか。

 一体深月には、僕らのことがどこまで見えていたんだ?
 僕と科白が心をこじらせながら、必死に言葉を伝え合って築いたものが、他人のレールの上のものだったとしたら―――それは少し、嫌だ。

 深月は少し考える素振りをするが、やがてゆっくりと首を振る。

「いえ……さっきも申しましたが、私の想定外のこともありました。だから、確実に上手くいくとは思っていませんでしたよ」
「本当に?確信は、なかったのか?」
「ありません。確かに人と魔物は惹かれ合います。でも、それが貴方たちの関係の答えにはならないでしょう?」
「まぁ……確かにそうだけど」
「この結末は、他ならない貴方たちだからこそ、導けた答えです」

 説き伏せる深月の目には、静かに燃ゆるものがあった。
 僕がたとえ何を言おうが、彼女の内側の炎は何一つ揺るがないだろう。

 多少強引な印象は受けるものの、僕は納得をする。

 確かに、今日会ったばかりの深月が何をしたわけではない。
 科白を追ってここまで来たのは、僕の意志だ。

 この真夜中、防音の効いた静かな部屋で科白と話さなければ。
 今夜、科白の演奏を聞かなければ。
 今日、科白を尾行しなければ。
 専門学生の頃、僕が科白の事務所の応募を見つけなければ。
 世話係の彼が、科白に会わなければ。
 小さい頃、科白が装丁した本を見つけなければ。
 
 僕は装丁家を目指さなかった。
 この場にいなかった。
 様々な要因がなければ、この今はあり得ないのは確かだ。

『魔物はお嫌いですか? それとも、人間だったらお好きですか?』

 入店時に、深月が僕に言った言葉を思い出す。
 結局のところ、深月がどこまで分かっていたかなんて、関係のない話だったのだ。
 ここは、僕らのレールの上だ。

「そうですよ。それに簡単に結末が分かってしまったら、ハッピーエンドにならないでしょう?」 

 こちらの思考を読んだかのように深月は、そう告げる。
 その顔には、ほのかに妖しさを含んだ笑みが浮かぶ。
 先ほど楽屋に入った時は、異様に低い姿勢だったはずなのに、いつの間にか深月は余裕のある表情を取り戻していた。

 全く、どこまでが予想済みなんだか。
 そのつかみどころのない魔性さと蠱惑さ。
 心の疲れた魔物を扱ってきたというのも、あながち嘘ではないのかももしれない。
 たぶん僕では、敵いそうにないな。

「うぅ……あの、或森さん」
「ん?」

 未だにさっきの発言を引きづっているのか、涙ぐみながら呼びかけてくる科白に、僕は振り返って応じる。 

「結局、うやむやな感じになってしまいましたけど。或森さんはその、これまで通りにうちでお仕事を続けてもらえるってことで、いいんでしょうか?」
「あ? 何言ってるんだ、良い訳ないだろ」
「え……」

 しまった。いつもの癖で、ついやってしまった。
 強めな言い方になってしまったことに焦る。
 みるみるうちに科白の目から光が無くなっていく。今にも泣き出しそうなほど、顔に暗い影が差しているようだ。
 僕は慌てて、勘違いするなと訂正する。

「そうじゃなくて……これからは、アンタも家事を手伝うんだよ。せめて、ゴミ出しの日くらいは覚えてくれ」
「あ、そう言うことでしたか……ビックリしましたぁ」

 科白はほっと安心したかのように、綻んだ表情を見せる。
 これからは少し、この口の悪さを治した方がいいな。

「まぁそういうことだから。その……"僕の夢"のために、頑張ってくれ」
「はい。次から或森さんにも、私の装丁家の仕事を手伝ってもらいます。"二人の"夢を叶えましょうね」

 急に元気になった科白が、楽しそうにそう告げる。
 照れ隠しで誤魔化した台詞も、見事に科白に訂正されてしまう。
 ひねくれ者には、その表裏のない視線は眩しすぎる。

「そうですよ。"二人の”ですよ。ふふ」
「…っせぇ」

 隣では深月が楽しそうにそう呟き、微笑んでいる。
 僕は軽く舌打ちをすると、後頭部をボリボリと掻く。
 何だかんだ言って、この人が楽しんでいることが一番腹が立つな。
 結局、美味しい思いしてるのはこの深月のような気がする。

「あ、あとですね」
「……んだよ。まだ何かあるのか?」
 
 科白がさらに尋ねてくるが、恥ずかしさを紛らわしたくて、ぶっきらぼうに返事をする。
 というか、また乱暴な言い方になってしまった。
 ダメだなこれは。もうかなりの悪癖になっている。 

「その、もう一つお願いなんですけど……」

 さっきまであんなに喜んでいたばかりだというのに、また科白はモジモジと小さくなっている。
 科白って、こんな表情の忙しいやつだっただろうか。

「これからもその、時々この店で、ベースを弾いても……いいでしょうか?実は、"私の夢"だったんです。ミュージシャン」

 科白はひどく遠慮気味にそう尋ねるが、僕にはそれを拒む理由など一切ない。

「ああ、もちろん。夢は、大事だからな」

 快く受け入れ、僕がゆっくりと頷く。
 すると科白の大きな一つ目に、この上ないほどの光が灯る。
 この大きな目に見られると、何だかこそばゆい。

「……ところで、なんで七月になって急に、ライブに出ようと思ったんだ?」
 
 科白の熱のこもった視線から逃れるために、僕はわざと話を逸らす。
 リハビリのためとはいえ、随分前から悠希に誘われていたのに、なぜこのタイミングで参加したのだろうか。
 こういうのは、何かしらきっかけがあるものだが。

「うぇ? ……あ、えと」
「おいおい、そんなもん決まってるだろう!」

 狼狽する科白の返答を待っていると、がばりと悠希が科白の肩から覆いかぶさり、横から話に加わってくる。

「ゆ、悠希さん! ま、待って……」
「いーや、言わせてもらうぜ。全部、クズ男のためだってな!」

 自分で聞いておきながら、思っていた以上の惚気た理由に、僕はつい苦笑してしまう。
 悠希は続けざまに、少し強めの口調で話を続ける。

「7月初めにな。いつかクズ男とちゃんと話ができるように、少しでも人前に立って訓練をしておきたいって、いのっちが自分でそう言ってきたんだよ」
「わぁー!言わないでって言ったのに……」

 本日何度目かの涙目の科白。何だか段々癖になるぞ、この顔。
 気になる女子にちょっかい出したい男子の心境だ。

「まぁあれだ。いのっちがそう思うようになったのは、クズ男がずっとめげずに家政夫をこなしてきたからだ。それが、その結果だよ」

 その後、悠希は一瞬言い淀む。
 だが、結局、観念したように続きの言葉を語る。

「だから……クズ男の努力があったから、アタシ達だけじゃ、いのっちは事務所から出ることが出来なかったってことで……その点だけは、その、感謝している」

 言いながら悠希は、少しだけ僕を見据えて、またすぐに視線を他所へとやってしまう。

 不意に昇ってきた涙腺の緩みに、僕も視線を外して、必死に抵抗する。
 あんなにも、家政夫業が嫌いで、憎らしい仕事だったのに。
 こうして誰かに真っ直ぐ、褒められて、認められると不思議とくすぐったく、心が安らいてしまう。
 相手はこんなやかましい鳥なのに、ちょっと褒められただけで、こんなにも満たされてしまう。
 頑張って、良かったと思ってしまう。
 自分の単純な心に、ほとほと呆れるばかりだ。

「悠希さん……」
 
 科白が物珍しそうに見ていると、悠希が煩わしそうに、右の翼をバタつかせる。

「なんだよ、いいじゃねぇか。別に……普通に礼を言っただけだ」
「いえ……私はただ、悠希さんが或森さんを認めてくれたみたいで、嬉しくて……」
「おいやめろよ。こっちまで恥ずかしくなってくるだろうが!」
  
 そう言うと照れ隠しなのか、悠希が大きく声を張り上げて告げる。

「あとな、この際だし、全部言わせてもらうぞ。せっかくアタシが手塩にかけて、いのっちを心配してきたんだぜ? なのに何だよ! こんなクズ男と満更じゃ無い感じになりやがって! 美味しいところどりかよ! 全く、熱いね羨ましいねぇ! アタシもそんな風に、男女で仲良くよろしくしてぇなぁ!」

 突然、悠希は爆発したかのようにマシンガントークを始める。
 途中から明らかに、自分は色恋方面で上手くいっていないのに、リア充死ね、と言う裏の声が丸聞こえだった。
 その脇で、深月がクスクスと楽しそうに笑いながら口を開く。

「そうねぇ、悠希さん今日も、雄二さんに……」
「うっせぇ! あの野郎、ライブ終わった途端に帰りやがって! 何が『明日、仕事早いから……』だ、舐めてんのか! これだから、会社勤めってのは嫌いなんだ! 会社潰れろ! 無職になれ! 私が養ってやるよ! バカ野郎!」

 悠希はバタバタと暴れてはわめき散らし、翼をはためかせながら叫びまくる。
 そこら中に彼女の羽根が飛び散り、もはや止めるのは至難の業だろう。無論止める気も起きないが。
 暴走する悠希を尻目に、深月がこちらに向き直る。

「あの子は、放っておくとして……お二人さん、もう深夜ですがどうでしょう? お酒なら、まだ少しお付き合いできますが……?」
 
 おもむろに深月がそう言った途端、隣で科白が僕の袖をクイッと引っ張る。
 科白は上目使いに僕を見つめている。何かを言いたげだが、科白はなかなか口を開かない。
 僕はあえて何も聞かなかった。
 科白が言いたいことなど、考えなくとも分かっていた。
 
「いや、今日は遅いし、"僕ら"はもう帰るよ」
 
 僕はそう告げると科白の方を見やる。どうやら彼女の望み通りの返答だったようだ。
 別に酒に興味がない訳ではない。
 さっきは大して味わわずに飲み干してしまったが、深月のカクテルの実力は相当なものだった。酒には詳しくない僕にも、それを明白に理解できるほどに、あのチャイナブルーは素晴らしいものだった。
 あれをちゃんと飲まないでバーから帰るのは、勿体ない気がした。

 だが、それはまた今度の機会。
 いつか、科白のベースを聞きに行く時にでも、とっておこう。
 
「そうですか。ではまた次のご来店を、お待ちしています」
「ああ、今度はちゃんとした客としてな」

 どうやら深月の方も、その答えを予想していたようだった。
 話し終えた深月は、恭しく朗らかに会釈をする。
 
 まぁ、何だ。
 色々あったけど、この店も、結構嫌いじゃない。

「何だ帰るのかよ! さては、いのっちの事務所でしっぽりする気だろ! クズ男のくせに、アタシのいのっちをお持ち帰りかよ! 生意気だぞコラ!」
「だ、だから私、悠希さんの……」

 訂正しよう。約一名を除いて、だ。
 羽根を飛び散らかしたままの悠希が、その勢いのまま僕の方に突っ掛かってきた。
 ここまで言われると、流石に僕も堪忍袋の尾が切れるぞ。

「うるさいなぁ、しっぽりとか酔っぱらいオヤジか! 羽根が飛び散って鬱陶しいんだよ! むしるぞ!」
「上等だオラァ! さっきみたいに手加減しねぇからな!」
「あ、或森さん! ほら、帰りましょう?」
 
 悠希と殴り合いの喧嘩になる前に、科白が楽屋の出口へ向かって僕の背中を押す。
 その力はやはりサイクロプスだ。非力な僕には抵抗のしようもなく、身体が扉へと押し込まれていく。ちなみに悠希の方は、深月が押さえ込んでいるようだった。
 
 楽屋にある時計を見てみると、もうすでに深夜が終わりかけていた。
 このままのんびりしていると家路につく頃には、夜が明けてしまうかもしれない。
 僕と科白は、逃げるようにして楽屋から退出する。

「待てコラ! アタシのいのっちを……むぐ」
 
 僕の背後なので見えないが、暴言を吐く悠希の口を、深月が無理矢理塞いだようだった。
 部屋を出る直前、最後に軽く挨拶をしようと、ちらりと深月たちの方を振り向く。

 何故か、深月たちは床に横になっていた。
 深月が悠希を押し倒すような姿勢で、二人の四肢が妙に艶めかしく、交差をして、絡み合っている。



 ……挨拶は、今度でいいかな?
 一体どういう状況なのか、よく分からず科白の顔を見ると、少し恥ずかしそうに、一つだけの視線を逸らしている。
 え、なに?仲がいいとは思っていたけど、そういうアレなのか?
 いや、でもさっき雄二がどうのこうのって……。



 ……うん、やめておこう。
 最後の一瞬で、今日一番の凄いものを見てしまった感じがするが、たぶん気のせいだ。
 今日はもう疲れた。もうあまり考えたくないので、全力でスルーすることにしよう。

 良し。
 僕は、何も、見ていない。
 さあ、早く帰ろう。

 思考を強制シャットダウンし、楽屋から扉の向こうへと出ると、見覚えのある廊下が現れる。その奥の扉からは淡い明かりが、柔らかく洩れ出していた。

 僕らはその扉をゆっくりと開ける。
 扉の先へ向かうと、僕の視界に再び、バーの月のステージが現れる。
 と思いきや、目の辺りにぶわりと柔らかい何かが当たる。

「わっ、なんだこれ……」 

 僕は思わず、それを手で払う。
 それは円形の、真っ白な布だった。
 ヒラヒラとはしているが、触った感じだと割と頑丈そうではある。
 何だこれは?入店時には、こんなものは無かったはず。

 布の大きさは直径三メートルはあるだろうか。
 天井から吊るす形で、何枚もぶら下がっている。全部で六枚ほどの丸い布が、店内を埋め尽くすようにして浮いている。
 すると隣で、科白が申し訳なさげに呟く。
 
「或森さんが楽屋で寝ている間に、私が取りつけたんです。微調整はまだですけど、来週のライブのセットで使う装置なんです」
「ああ? なるほど……?」

 一応話を合わせてはいるが、これが何なのかは依然さっぱり分からない。
 装置っていったって、コレただの白い布じゃないか?
 
 僕は何か仕掛けがないか、布をのれんのように持ちあげてみる。
 しかし、当然ながら何も成果を得られるわけもなく、僕は天井から外れないように、ゆっくりと布を下ろす。  

 その時だった。
 白い布に異変が起きる。
 
 つるされた六枚の布の全てが、突如としてぼんやりと光が灯り始めたのだ。

「これは……?」
「電源が、入った……?」 

 科白と僕は同じように驚いた様子で、辺りを見回している。
 彼女にとってもこれは予想外の展開のようだ。
 
 六枚の白布が明かりに包まれる。そして次第に、その中心に何かが映りこむ。

「月だ……」

 そこにはステージのものと同じ、厳かな月の映像が映し出されていた。
 この布はどうやら、スクリーンの役割を果たしているらしい。
 汚れの無い真白い布のキャンバスは、月の輪郭や模様、色など、ステージに映る月と全く同じ姿を再現していた。

 店内全体に七つの月が浮かび上がっている。
 そのそれぞれの月光は異なる色を放っている。

 赤、黄、橙、緑、藍、紫。 
 そして、青。

 虹を連想させる七色の優しい穏かな月光が、僕らの頭上で揺らめいている。
 そして、ステージの月と同じように、布に映った月達もグラディエーションを始める。

「……これは、科白が思いついたのか?」
「え、は、はい。もうすぐ八月ですし、単純計算でも電力消費が七倍以上なので、公開回数は少なめですが……」

 七つの色は入れ替わるようにして、月の群れの間を廻っていく。
 巡回する色によって、店内の隅にまで虹の光が満たされている。
 しかし決して、七つの月が同じ色になることは無い。
 全ての月が、己だけの色を常にそこに宿している。
 次々と変化を繰り返すその彩鮮やかな光景に、僕は完全に見入っていた。

「この演出に、タイトルとか、あるのか?」
「ええと、そうですね……」

 科白は顎に手を当てて、むぅと悩む仕草をする。
  
「……ななつき。七月(ななつき)の装丁です」
「七月……か。次のライブが、楽しみだな」

 そういうと、僕はすっと手を科白の方に指し出す。
 最初は驚いた科白も、やがてゆっくりと僕の手を握り返す。
 その青い手に、もうあの煩わしさは感じない。
 むしろ、この上ない暖かさを抱いていた。
 
 科白によって七月の装丁を施されたバーの中を、僕らは歩調を合わせながら進んでいく。一歩を踏み出すたびに白い布がやんわりと、僅かにそよぐ。
 深月のいた木目調のバーカウンターの前を通過する。
 その近くの壁には、小さなカレンダーが貼られている。
 七月分のカレンダーが途中まで破られた形跡があり、すでに外れかけていた。

 もうすぐ、新しい月が始まる。


―――――
 

 閉店後……

「……なんだかんだあったけど、上手くいったな」
 
「だから言ったでしょう? あの子達は無理に手出ししなくていいって」

「いや、だってよ。あのクズ男に深月さんの酒なんて飲ませたら、絶対何かやらかすって思うだろ?」

「彼の毒舌は、いわば気持ちの裏返しですよ」

「ふぅん……」

「彼は祈里ちゃんが魔物だと知ってなお、あのゴミだらけの事務所で働き続けていました。決して、生半可な気持ちでは出来ませんよ。彼にはそれだけの想いがあったということです。そう信頼して、お酒をお出ししたんです」

「へぇ、一回会っただけでよくそこまで分かるもんだな。で、そこを"サテュロスの酒"で一発だったわけか」

「いつも思いますが、買いかぶりすぎなんですよ。私は大層なことはしていません」

「何言ってんだよ、店に来る連中は皆言ってるぜ。『人と魔を繋ぐカクテル』だってな」

「……私の酒は『二人の想いを後押しするだけ』です。お互いの気持ちそのものがなければ、何の意味もない代物ですよ」

「そうかい。でも、効果は絶大だってことは分かるさ。一口で十分なくらいにはな!」

「そうなんですよね……まさかいきなり、一気に全部飲んでしまうとは……しかも、あんなに心をこじらせているとは、想定外でした」

「はは! あんなに飲んだらそりゃ、感情や性欲が抑えられる訳がないもんなっ! まぁいいじゃねぇか、結果オーライだったし」

「貴方、結構簡単に言いますけどね……もしあれで傷害事件にでもなっていたら、この店も無くなってしまうところでしたよ? 彼の前では軽めに言いましたが、実際はかなり危なかったんですからね?」

「わーってるよ! アタシだってぶっつけ本番で頑張っただろうが! 酒飲んだクズ男を電撃使わないで、かつ大怪我させず、でも気絶はさせるって難易度高すぎだろ!」

「ああ、今思い出しただけでヒヤヒヤします……この店が無くなったら、きっと雄二さんも悲しむでしょうね。あの人が、唯一安心してお酒を飲める場所なのに」

「わ、悪かったってば! 謝るよ! だからそれはもう言わないでくれよ」

「あらそうですか、ふふ、やっぱり悠希さんは可愛いですね。最後の大暴れもアレ、早く二人きりにさせたい演技でしょう?」

「うっせぇ、すぐアタシで遊びやがって。さっきも、結局無理やり……」

「ふふ、ごめんなさいね。でも、言うほど抵抗してませんでしたよね?」

「ちっ……」

「ふふ……」

「……」

「……」

「……仮に。仮にさ」

「はい」

「雄二がいつか、その、オーナーのことを知ったとして……それでアタシがアイツに、選ばれなくてもさ。アイツが納得していれば、それでいいのかなって。アイツにはできるだけ幸せな道を選んでほしいから。迷惑は、かけたくはない」

「悠希さん……」

「少なくとも今は、そう思っている。それで、いいんだよな?」

「それは……」

「……いや、悪い。恋敵への嫌がらせをしたかっただけだよ、気にしないでくれ」

「そう、そうね」

「さてそろそろ、閉店作業を終わらせねぇとな。全くアイツらのせいでとんだ残業だよ」

「じゃあ、片付けが終わったら……もう一杯、やりましょうか?」

「おっ、いいねぇ。梅雨ももう明けるし、八月になったらもっと忙しくなるから、景気づけにな」

「ええ。来月は、もっと良いことがあるといいですね」

16/09/19 12:40更新 / とげまる
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■作者メッセージ
 というわけで読み切り『電気羊と泡沫の月』の続編でした。
 使いたいネタが次から次へと出てきてしまい、なかなか綺麗にまとめられず、予想以上の長さになってしまいました。
 ですが拙いながらも、どうにかここまで形にすることができました。
 ここまで読んで頂いた方々、評価やコメント等していただいた方。とても励みになりました。
 今作は本当に書くのが楽しかったです。こんなにも楽しみながら長い作品を完成させられたのは初めてでした。
 ありがとうございました。

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