SideX
僕と科白の息が、お互いの顔にかかり合う。
三つの瞳で出来た三角形が小さくなっていく。
唇と唇が触れるかどうかの瞬間だった―――
「お、チューすんのか? おっぱじめるのか? こんな楽屋で? あっ?」
「おわっ!」
「ひぃっ!」
突如聞こえてきたのは、ドスの利いた柄の悪い声。
その主は扉の隙間から、顔だけをニュッと覗かせる悠希だった。
「ゆゆ、悠希さん……何で、の、覗いて……?」
声をかける科白の声はバイブレーションのように震えている。
必死に困惑しつつも、僅かな平静を保とうとしているようだった。
悠希は扉と壁の間にギッチリと顔の横を挟み、歯をむき出し、ドヤ顔で答える。
「何って、そりゃ……見守りというか、ギャラリー的な? お客様だよっ!」
「いやアンタ従業員だろ」
そういうキャラじゃないのに、思わず言ってしまった。
某雪山ホテルのホラー映画か。普通に怖いわ。
しかし残念なことに、悠希の渾身のおふざけを歓迎する者は、この楽屋にはいない。
かく言う科白も、悠希の言っている言葉の意味すら分からないようで、ポカンとした顔をしている。
「ちっ……反応いまいちだな、まぁいいけど」
悠希は不服そうに扉を開けて、当然のように室内へと入ってくる。野暮なんぞ知ったことか、とでも言いたげな態度だ。
あとそのネタ、知っているからこそスルーしていることに気付いて欲しい。
「で、痴話喧嘩は終わったのかい?」
困惑する僕らをよそに、悠希は聞き捨てならないことを尋ねてくる。
「ち、痴話って……」
科白は慌てて僕の両手から離れて、その四肢をバタつかせる。
青い肌でも紅潮するのかと思いきや、その肌は青から明るい水色へとその色を変えていく。照れる科白を初めて見るせいか、その独特な肌の変化は新鮮だった。
「いやいや……仕事しか出来ずに、家のことを疎かにするダメ職人、それに嫌気が差して叱咤する家政夫。誰がどうみたって痴話喧嘩じゃねぇ?」
「ゆ、悠希さん! 私達、まだそういう関係じゃ……」
「ほーう? "まだ"か」
「え、あっ! 違っ! その……」
悠希の挑発じみた発言の連打で、科白はすっかりパニックになっていた。
科白は両手と瞳を上下左右に振り回し、空中を泳いでいる。いや、溺れていると言った方が正しいだろうか。
科白の奇行を横目で見ていると、逆に僕の方が少しずつ冷静になってくる。
おかしい。
悠希のこの態度の急変の仕方、どう考えたっておかしい。
悠希の言動には、多少の不機嫌さは残っているものの、決して心から嫌悪をしているといった雰囲気は感じ取れない。
むしろ一度退室する前とは打って変わって、親しみやすく振る舞っている。
外に出た短時間で、悠希に何があったのだろうか?
まるで、さっきまでのギスギスした空気が、嘘みたいだった。
……嘘?
「……まさか」
丁度、悠希が開けた扉の後ろから、こそこそとバツが悪そうに部屋の中に入って来る人物がいた。
深月だった。
「おい……」
「……すみません。もう少し待ちましょうって、悠希さんにもそう言ったのですが……ご覧の有様で」
深月は、本当に顔向けできないというように謝罪をしてくる。
土下座でもしそうな勢いの深月に、僕は猜疑心をたっぷり込めて質問する。
「一体、これはどういうことだ?」
「まぁ……つまり、ですね。"さっきまでの私たち"は、お芝居だったんです」
申し訳なさそうに深月はそう言うと、また深々と頭を下げてくる。
僕は一瞬考えた後、科白の方を勢いよく向き直る。
しかし、科白は何も知らないというように、素早く首を横に振っている。
「祈里ちゃんは何も関係ありませんよ。あくまで"私と悠希さん"の芝居です。祈里ちゃんに関連する情報にも、一切の偽りはありませんので、安心してください」
僕の口からものすごい量のため息がでる。
やられた。文句を言う代わりに、僕は過去最高のしかめっ面を披露する。
さっき部屋を出る前に、深月が科白の手を握った時だ。
あの時点で、既に深月は科白に鍵を渡していたのだ。
あの激励じみたやりとりは、この展開を予想してのことだったのか。
くそ、普通ここまでするか?
「最初から全部、僕はアンタらの掌の上ってわけかい?」
僕は濡れた目をゴシゴシと擦りながら、定番の質問をする。
「ええ。或森さんが来店した瞬間から、この防音室で祈里ちゃんと二人になる状況を狙っていました。退職を促したのは、お二人を追い込むための奥の手でした」
深月の発言に続けて、横から悠希が言葉を繋ぐ。
「正直ほとんどアドリブで、最後は一か八かの賭けだったんだけどな。だがどうにかして、お前らに一度、腹割って話をさせたかったんでな」
「ちょっと待ってくれ。それじゃ僕がその、科白に……手を出すのも、予想して、いた、のか?」
段々とまた冷静さが欠けてきたのか、慌てて僕は質問をしてしまう。
最後の方は少し、尻切れトンボになってしまった。
自分の行いを正当化しようとしているみたいで、気が引けたからだ。
「いいえ、それは想定外でした。椅子に拘束したことや、ここを覗いてしまったのも、それゆえに万が一のことを考えました。本当に……あくまで演技の一環として、ですよ?」
視線を逸らし、頬に手を添えて深月はそう答える。
せめてもう少し、自信のありそうな声で言ってくれ。
僕は怒る気にもなれずに、がっくりと膝を落とす。
まあ元はと言えば、科白に悪い感情を押しつけていた僕が悪いわけで、深月に一方的に怒るのもおかしい話ではあるのだが。
ただ、なんというかもう、恥ずかしいとか、腹が立つとか。
もう、そういうことの一切を通り越してしまっている。
僕はそのままその場に座り込み、膝を抱えてうずくまる。
無になりたい。
涅槃があったら入りたい。
「まぁまぁ、そう気を落とすなよ! 男の涙ってのも悪くないぜ?」
後ろから悠希が、そう言って僕の背中を叩く。
明るく茶化すようなフォローに、僕はやんわりと綻ぶ、わけがなかった。
悠希のその曇りのないニヤついたゲス顔が、僕の頭上で弧を描く。うざい。
「つうか、あんた。演技とはいえ、あそこまで人を痛めつけられるもんなのかよ? どうかしてるわ……」
殴りたい気持ちの代わりに、せめてもの反撃で僕は悪態をつく。
「ソンナコトナイヨー。お前みたいなクズ男のことなんて、本気で嫌いな訳ないじゃないカー。アタシの可愛いいのっちに手を出す奴は只じゃおかない、だなんて全然思ってないヨー」
悠希は目どころか、顔も言動すらも、何一つとして笑っていない。むしろ敵意がメガ盛過ぎて溢れ返っている。つうかクズ男って僕のことかよ。演技しろよ。
「あの……私、悠希さんのものになったわけでは……」
「いやぁ、演技大変だったぜ! 気絶だけで済んで良かった、良かった」
隣でおずおずと、訂正しようとする科白を完全無視し、悠希がさらっと恐ろしい本音を呟く。
僕、この鳥嫌いだ。
「そうだ」
僕はふと科白の方を向き、足を組み直して正座になる。
そういえばまだ科白に言っておかなければいけないことが、僕にはある。
「えっと……どうか、しました?」
僕の急な行動に、科白は困惑している。
僕は科白を他所にそのまま、地面に両手をつき。
その勢いで、よく頭を下げる。
室内に広がる鈍い音と共に、僕の頭がビニール床に衝突する。
「あ、或森さんっ!?」
「さっきは、すいませんでした。乱暴してしまって……どうかしていた」
人生初の、土下座という奴だった。
冷房で冷えた床の感触を味わうようにして、僕は額を床に押し付ける。
たとえ全てが深月たちの思惑の内だったとしても、それが結果的に良かったとしてもだ。科白を怖がらせてしまったことは、僕の過失に他ならない。
だから、けじめはつけておきたかった。
「あ、頭を上げてください! 全然っ!怪我とかしてないですし、大丈夫ですから!気にしないで、本当に」
だがそんな僕の思いは、慌てふためく科白によって、あっさりと許されてしまう。
しかしそうやって簡単に許されてしまうと、どうにも気持ちを消化しきれない。
心が凭れてしまうそうだ。せめて一発くらい、殴ってくれてもいいのに。
サイクロプスのパワーなら、たぶん相当の威力だとは思うが、覚悟の上だ。
「だけどさ……せめて何か」
「いいんです! むしろ……あ、いえ、えと……」
科白は何かを言いかけて、不意にどもる。
その顔はまたしても赤く、いや水色に染まり恥ずかしそうに口元を押さえている。
僕は若干いぶかしく思いつつも、科白の次の言葉を待つ。
正座のままで見上げているせいか、彼女の飼い犬にでもなった気分だ。
でも今までないがしろにしてきた分、これからは科白の声はちゃんと聴かなければいけない。
「むしろ……何?」
正座を崩さないで、僕は更に聞き返す。
「いえ、あの……笑わないで、欲しいんですけど」
科白は言いよどみながらも、その小さな口を開く。
僕は耳に集中力を集めて、心を構える。
「……さっき気づいたんですけど、私、多少、乱暴にされる方がその、好きみたいで……」
「うわあ」
「ひ、引かないで下さいよぉ……」
そう言われたところで無理がある。
いきなり性癖暴露大会をされたら、誰だってそうなる。
笑うどころか、ものすごい勢いで僕の口がへの字になってしまう。
お互い、まだまだ知らないことは多いだろうけど、その情報は今いらなかった。
僕は真剣に聴いてしまったことを悔やんでしまう。
まぁでも、人前で土下座をする僕も、科白のことを言えないか。
「祈里ちゃん……Mっぽいとは思っていたけども、そこまでだったなんて」
「あれ? アタシもしかしてあの時、止めない方が良かったのか?」
「皆さん、ひどい……」
次々に出てくる深月達の辛辣な発言に、科白も多少涙目になっている。
本当に科白ってやつは、ズレている。
「でも本当に……仲直りできて良かった。かなりの荒療治でしたから、心配していたんです」
深月は笑いながらも、どこか安堵したようにそう告げる。
僕は立ち上がりながら、深月に脳裏に浮かんだ疑問をぶつけてみる。
「……深月さん、アンタさっき芝居って言ってたけど、本当は、アンタにはこの結末、見えていたんじゃないのか?」
結局のところ、深月の思う通りの展開に進んでしまったわけだが、実際のところはどうなのだろうか。
一体深月には、僕らのことがどこまで見えていたんだ?
僕と科白が心をこじらせながら、必死に言葉を伝え合って築いたものが、他人のレールの上のものだったとしたら―――それは少し、嫌だ。
深月は少し考える素振りをするが、やがてゆっくりと首を振る。
「いえ……さっきも申しましたが、私の想定外のこともありました。だから、確実に上手くいくとは思っていませんでしたよ」
「本当に?確信は、なかったのか?」
「ありません。確かに人と魔物は惹かれ合います。でも、それが貴方たちの関係の答えにはならないでしょう?」
「まぁ……確かにそうだけど」
「この結末は、他ならない貴方たちだからこそ、導けた答えです」
説き伏せる深月の目には、静かに燃ゆるものがあった。
僕がたとえ何を言おうが、彼女の内側の炎は何一つ揺るがないだろう。
多少強引な印象は受けるものの、僕は納得をする。
確かに、今日会ったばかりの深月が何をしたわけではない。
科白を追ってここまで来たのは、僕の意志だ。
この真夜中、防音の効いた静かな部屋で科白と話さなければ。
今夜、科白の演奏を聞かなければ。
今日、科白を尾行しなければ。
専門学生の頃、僕が科白の事務所の応募を見つけなければ。
世話係の彼が、科白に会わなければ。
小さい頃、科白が装丁した本を見つけなければ。
僕は装丁家を目指さなかった。
この場にいなかった。
様々な要因がなければ、この今はあり得ないのは確かだ。
『魔物はお嫌いですか? それとも、人間だったらお好きですか?』
入店時に、深月が僕に言った言葉を思い出す。
結局のところ、深月がどこまで分かっていたかなんて、関係のない話だったのだ。
ここは、僕らのレールの上だ。
「そうですよ。それに簡単に結末が分かってしまったら、ハッピーエンドにならないでしょう?」
こちらの思考を読んだかのように深月は、そう告げる。
その顔には、ほのかに妖しさを含んだ笑みが浮かぶ。
先ほど楽屋に入った時は、異様に低い姿勢だったはずなのに、いつの間にか深月は余裕のある表情を取り戻していた。
全く、どこまでが予想済みなんだか。
そのつかみどころのない魔性さと蠱惑さ。
心の疲れた魔物を扱ってきたというのも、あながち嘘ではないのかももしれない。
たぶん僕では、敵いそうにないな。
「うぅ……あの、或森さん」
「ん?」
未だにさっきの発言を引きづっているのか、涙ぐみながら呼びかけてくる科白に、僕は振り返って応じる。
「結局、うやむやな感じになってしまいましたけど。或森さんはその、これまで通りにうちでお仕事を続けてもらえるってことで、いいんでしょうか?」
「あ? 何言ってるんだ、良い訳ないだろ」
「え……」
しまった。いつもの癖で、ついやってしまった。
強めな言い方になってしまったことに焦る。
みるみるうちに科白の目から光が無くなっていく。今にも泣き出しそうなほど、顔に暗い影が差しているようだ。
僕は慌てて、勘違いするなと訂正する。
「そうじゃなくて……これからは、アンタも家事を手伝うんだよ。せめて、ゴミ出しの日くらいは覚えてくれ」
「あ、そう言うことでしたか……ビックリしましたぁ」
科白はほっと安心したかのように、綻んだ表情を見せる。
これからは少し、この口の悪さを治した方がいいな。
「まぁそういうことだから。その……"僕の夢"のために、頑張ってくれ」
「はい。次から或森さんにも、私の装丁家の仕事を手伝ってもらいます。"二人の"夢を叶えましょうね」
急に元気になった科白が、楽しそうにそう告げる。
照れ隠しで誤魔化した台詞も、見事に科白に訂正されてしまう。
ひねくれ者には、その表裏のない視線は眩しすぎる。
「そうですよ。"二人の”ですよ。ふふ」
「…っせぇ」
隣では深月が楽しそうにそう呟き、微笑んでいる。
僕は軽く舌打ちをすると、後頭部をボリボリと掻く。
何だかんだ言って、この人が楽しんでいることが一番腹が立つな。
結局、美味しい思いしてるのはこの深月のような気がする。
「あ、あとですね」
「……んだよ。まだ何かあるのか?」
科白がさらに尋ねてくるが、恥ずかしさを紛らわしたくて、ぶっきらぼうに返事をする。
というか、また乱暴な言い方になってしまった。
ダメだなこれは。もうかなりの悪癖になっている。
「その、もう一つお願いなんですけど……」
さっきまであんなに喜んでいたばかりだというのに、また科白はモジモジと小さくなっている。
科白って、こんな表情の忙しいやつだっただろうか。
「これからもその、時々この店で、ベースを弾いても……いいでしょうか?実は、"私の夢"だったんです。ミュージシャン」
科白はひどく遠慮気味にそう尋ねるが、僕にはそれを拒む理由など一切ない。
「ああ、もちろん。夢は、大事だからな」
快く受け入れ、僕がゆっくりと頷く。
すると科白の大きな一つ目に、この上ないほどの光が灯る。
この大きな目に見られると、何だかこそばゆい。
「……ところで、なんで七月になって急に、ライブに出ようと思ったんだ?」
科白の熱のこもった視線から逃れるために、僕はわざと話を逸らす。
リハビリのためとはいえ、随分前から悠希に誘われていたのに、なぜこのタイミングで参加したのだろうか。
こういうのは、何かしらきっかけがあるものだが。
「うぇ? ……あ、えと」
「おいおい、そんなもん決まってるだろう!」
狼狽する科白の返答を待っていると、がばりと悠希が科白の肩から覆いかぶさり、横から話に加わってくる。
「ゆ、悠希さん! ま、待って……」
「いーや、言わせてもらうぜ。全部、クズ男のためだってな!」
自分で聞いておきながら、思っていた以上の惚気た理由に、僕はつい苦笑してしまう。
悠希は続けざまに、少し強めの口調で話を続ける。
「7月初めにな。いつかクズ男とちゃんと話ができるように、少しでも人前に立って訓練をしておきたいって、いのっちが自分でそう言ってきたんだよ」
「わぁー!言わないでって言ったのに……」
本日何度目かの涙目の科白。何だか段々癖になるぞ、この顔。
気になる女子にちょっかい出したい男子の心境だ。
「まぁあれだ。いのっちがそう思うようになったのは、クズ男がずっとめげずに家政夫をこなしてきたからだ。それが、その結果だよ」
その後、悠希は一瞬言い淀む。
だが、結局、観念したように続きの言葉を語る。
「だから……クズ男の努力があったから、アタシ達だけじゃ、いのっちは事務所から出ることが出来なかったってことで……その点だけは、その、感謝している」
言いながら悠希は、少しだけ僕を見据えて、またすぐに視線を他所へとやってしまう。
不意に昇ってきた涙腺の緩みに、僕も視線を外して、必死に抵抗する。
あんなにも、家政夫業が嫌いで、憎らしい仕事だったのに。
こうして誰かに真っ直ぐ、褒められて、認められると不思議とくすぐったく、心が安らいてしまう。
相手はこんなやかましい鳥なのに、ちょっと褒められただけで、こんなにも満たされてしまう。
頑張って、良かったと思ってしまう。
自分の単純な心に、ほとほと呆れるばかりだ。
「悠希さん……」
科白が物珍しそうに見ていると、悠希が煩わしそうに、右の翼をバタつかせる。
「なんだよ、いいじゃねぇか。別に……普通に礼を言っただけだ」
「いえ……私はただ、悠希さんが或森さんを認めてくれたみたいで、嬉しくて……」
「おいやめろよ。こっちまで恥ずかしくなってくるだろうが!」
そう言うと照れ隠しなのか、悠希が大きく声を張り上げて告げる。
「あとな、この際だし、全部言わせてもらうぞ。せっかくアタシが手塩にかけて、いのっちを心配してきたんだぜ? なのに何だよ! こんなクズ男と満更じゃ無い感じになりやがって! 美味しいところどりかよ! 全く、熱いね羨ましいねぇ! アタシもそんな風に、男女で仲良くよろしくしてぇなぁ!」
突然、悠希は爆発したかのようにマシンガントークを始める。
途中から明らかに、自分は色恋方面で上手くいっていないのに、リア充死ね、と言う裏の声が丸聞こえだった。
その脇で、深月がクスクスと楽しそうに笑いながら口を開く。
「そうねぇ、悠希さん今日も、雄二さんに……」
「うっせぇ! あの野郎、ライブ終わった途端に帰りやがって! 何が『明日、仕事早いから……』だ、舐めてんのか! これだから、会社勤めってのは嫌いなんだ! 会社潰れろ! 無職になれ! 私が養ってやるよ! バカ野郎!」
悠希はバタバタと暴れてはわめき散らし、翼をはためかせながら叫びまくる。
そこら中に彼女の羽根が飛び散り、もはや止めるのは至難の業だろう。無論止める気も起きないが。
暴走する悠希を尻目に、深月がこちらに向き直る。
「あの子は、放っておくとして……お二人さん、もう深夜ですがどうでしょう? お酒なら、まだ少しお付き合いできますが……?」
おもむろに深月がそう言った途端、隣で科白が僕の袖をクイッと引っ張る。
科白は上目使いに僕を見つめている。何かを言いたげだが、科白はなかなか口を開かない。
僕はあえて何も聞かなかった。
科白が言いたいことなど、考えなくとも分かっていた。
「いや、今日は遅いし、"僕ら"はもう帰るよ」
僕はそう告げると科白の方を見やる。どうやら彼女の望み通りの返答だったようだ。
別に酒に興味がない訳ではない。
さっきは大して味わわずに飲み干してしまったが、深月のカクテルの実力は相当なものだった。酒には詳しくない僕にも、それを明白に理解できるほどに、あのチャイナブルーは素晴らしいものだった。
あれをちゃんと飲まないでバーから帰るのは、勿体ない気がした。
だが、それはまた今度の機会。
いつか、科白のベースを聞きに行く時にでも、とっておこう。
「そうですか。ではまた次のご来店を、お待ちしています」
「ああ、今度はちゃんとした客としてな」
どうやら深月の方も、その答えを予想していたようだった。
話し終えた深月は、恭しく朗らかに会釈をする。
まぁ、何だ。
色々あったけど、この店も、結構嫌いじゃない。
「何だ帰るのかよ! さては、いのっちの事務所でしっぽりする気だろ! クズ男のくせに、アタシのいのっちをお持ち帰りかよ! 生意気だぞコラ!」
「だ、だから私、悠希さんの……」
訂正しよう。約一名を除いて、だ。
羽根を飛び散らかしたままの悠希が、その勢いのまま僕の方に突っ掛かってきた。
ここまで言われると、流石に僕も堪忍袋の尾が切れるぞ。
「うるさいなぁ、しっぽりとか酔っぱらいオヤジか! 羽根が飛び散って鬱陶しいんだよ! むしるぞ!」
「上等だオラァ! さっきみたいに手加減しねぇからな!」
「あ、或森さん! ほら、帰りましょう?」
悠希と殴り合いの喧嘩になる前に、科白が楽屋の出口へ向かって僕の背中を押す。
その力はやはりサイクロプスだ。非力な僕には抵抗のしようもなく、身体が扉へと押し込まれていく。ちなみに悠希の方は、深月が押さえ込んでいるようだった。
楽屋にある時計を見てみると、もうすでに深夜が終わりかけていた。
このままのんびりしていると家路につく頃には、夜が明けてしまうかもしれない。
僕と科白は、逃げるようにして楽屋から退出する。
「待てコラ! アタシのいのっちを……むぐ」
僕の背後なので見えないが、暴言を吐く悠希の口を、深月が無理矢理塞いだようだった。
部屋を出る直前、最後に軽く挨拶をしようと、ちらりと深月たちの方を振り向く。
何故か、深月たちは床に横になっていた。
深月が悠希を押し倒すような姿勢で、二人の四肢が妙に艶めかしく、交差をして、絡み合っている。
……挨拶は、今度でいいかな?
一体どういう状況なのか、よく分からず科白の顔を見ると、少し恥ずかしそうに、一つだけの視線を逸らしている。
え、なに?仲がいいとは思っていたけど、そういうアレなのか?
いや、でもさっき雄二がどうのこうのって……。
……うん、やめておこう。
最後の一瞬で、今日一番の凄いものを見てしまった感じがするが、たぶん気のせいだ。
今日はもう疲れた。もうあまり考えたくないので、全力でスルーすることにしよう。
良し。
僕は、何も、見ていない。
さあ、早く帰ろう。
思考を強制シャットダウンし、楽屋から扉の向こうへと出ると、見覚えのある廊下が現れる。その奥の扉からは淡い明かりが、柔らかく洩れ出していた。
僕らはその扉をゆっくりと開ける。
扉の先へ向かうと、僕の視界に再び、バーの月のステージが現れる。
と思いきや、目の辺りにぶわりと柔らかい何かが当たる。
「わっ、なんだこれ……」
僕は思わず、それを手で払う。
それは円形の、真っ白な布だった。
ヒラヒラとはしているが、触った感じだと割と頑丈そうではある。
何だこれは?入店時には、こんなものは無かったはず。
布の大きさは直径三メートルはあるだろうか。
天井から吊るす形で、何枚もぶら下がっている。全部で六枚ほどの丸い布が、店内を埋め尽くすようにして浮いている。
すると隣で、科白が申し訳なさげに呟く。
「或森さんが楽屋で寝ている間に、私が取りつけたんです。微調整はまだですけど、来週のライブのセットで使う装置なんです」
「ああ? なるほど……?」
一応話を合わせてはいるが、これが何なのかは依然さっぱり分からない。
装置っていったって、コレただの白い布じゃないか?
僕は何か仕掛けがないか、布をのれんのように持ちあげてみる。
しかし、当然ながら何も成果を得られるわけもなく、僕は天井から外れないように、ゆっくりと布を下ろす。
その時だった。
白い布に異変が起きる。
つるされた六枚の布の全てが、突如としてぼんやりと光が灯り始めたのだ。
「これは……?」
「電源が、入った……?」
科白と僕は同じように驚いた様子で、辺りを見回している。
彼女にとってもこれは予想外の展開のようだ。
六枚の白布が明かりに包まれる。そして次第に、その中心に何かが映りこむ。
「月だ……」
そこにはステージのものと同じ、厳かな月の映像が映し出されていた。
この布はどうやら、スクリーンの役割を果たしているらしい。
汚れの無い真白い布のキャンバスは、月の輪郭や模様、色など、ステージに映る月と全く同じ姿を再現していた。
店内全体に七つの月が浮かび上がっている。
そのそれぞれの月光は異なる色を放っている。
赤、黄、橙、緑、藍、紫。
そして、青。
虹を連想させる七色の優しい穏かな月光が、僕らの頭上で揺らめいている。
そして、ステージの月と同じように、布に映った月達もグラディエーションを始める。
「……これは、科白が思いついたのか?」
「え、は、はい。もうすぐ八月ですし、単純計算でも電力消費が七倍以上なので、公開回数は少なめですが……」
七つの色は入れ替わるようにして、月の群れの間を廻っていく。
巡回する色によって、店内の隅にまで虹の光が満たされている。
しかし決して、七つの月が同じ色になることは無い。
全ての月が、己だけの色を常にそこに宿している。
次々と変化を繰り返すその彩鮮やかな光景に、僕は完全に見入っていた。
「この演出に、タイトルとか、あるのか?」
「ええと、そうですね……」
科白は顎に手を当てて、むぅと悩む仕草をする。
「……ななつき。七月(ななつき)の装丁です」
「七月……か。次のライブが、楽しみだな」
そういうと、僕はすっと手を科白の方に指し出す。
最初は驚いた科白も、やがてゆっくりと僕の手を握り返す。
その青い手に、もうあの煩わしさは感じない。
むしろ、この上ない暖かさを抱いていた。
科白によって七月の装丁を施されたバーの中を、僕らは歩調を合わせながら進んでいく。一歩を踏み出すたびに白い布がやんわりと、僅かにそよぐ。
深月のいた木目調のバーカウンターの前を通過する。
その近くの壁には、小さなカレンダーが貼られている。
七月分のカレンダーが途中まで破られた形跡があり、すでに外れかけていた。
もうすぐ、新しい月が始まる。
―――――
閉店後……
「……なんだかんだあったけど、上手くいったな」
「だから言ったでしょう? あの子達は無理に手出ししなくていいって」
「いや、だってよ。あのクズ男に深月さんの酒なんて飲ませたら、絶対何かやらかすって思うだろ?」
「彼の毒舌は、いわば気持ちの裏返しですよ」
「ふぅん……」
「彼は祈里ちゃんが魔物だと知ってなお、あのゴミだらけの事務所で働き続けていました。決して、生半可な気持ちでは出来ませんよ。彼にはそれだけの想いがあったということです。そう信頼して、お酒をお出ししたんです」
「へぇ、一回会っただけでよくそこまで分かるもんだな。で、そこを"サテュロスの酒"で一発だったわけか」
「いつも思いますが、買いかぶりすぎなんですよ。私は大層なことはしていません」
「何言ってんだよ、店に来る連中は皆言ってるぜ。『人と魔を繋ぐカクテル』だってな」
「……私の酒は『二人の想いを後押しするだけ』です。お互いの気持ちそのものがなければ、何の意味もない代物ですよ」
「そうかい。でも、効果は絶大だってことは分かるさ。一口で十分なくらいにはな!」
「そうなんですよね……まさかいきなり、一気に全部飲んでしまうとは……しかも、あんなに心をこじらせているとは、想定外でした」
「はは! あんなに飲んだらそりゃ、感情や性欲が抑えられる訳がないもんなっ! まぁいいじゃねぇか、結果オーライだったし」
「貴方、結構簡単に言いますけどね……もしあれで傷害事件にでもなっていたら、この店も無くなってしまうところでしたよ? 彼の前では軽めに言いましたが、実際はかなり危なかったんですからね?」
「わーってるよ! アタシだってぶっつけ本番で頑張っただろうが! 酒飲んだクズ男を電撃使わないで、かつ大怪我させず、でも気絶はさせるって難易度高すぎだろ!」
「ああ、今思い出しただけでヒヤヒヤします……この店が無くなったら、きっと雄二さんも悲しむでしょうね。あの人が、唯一安心してお酒を飲める場所なのに」
「わ、悪かったってば! 謝るよ! だからそれはもう言わないでくれよ」
「あらそうですか、ふふ、やっぱり悠希さんは可愛いですね。最後の大暴れもアレ、早く二人きりにさせたい演技でしょう?」
「うっせぇ、すぐアタシで遊びやがって。さっきも、結局無理やり……」
「ふふ、ごめんなさいね。でも、言うほど抵抗してませんでしたよね?」
「ちっ……」
「ふふ……」
「……」
「……」
「……仮に。仮にさ」
「はい」
「雄二がいつか、その、オーナーのことを知ったとして……それでアタシがアイツに、選ばれなくてもさ。アイツが納得していれば、それでいいのかなって。アイツにはできるだけ幸せな道を選んでほしいから。迷惑は、かけたくはない」
「悠希さん……」
「少なくとも今は、そう思っている。それで、いいんだよな?」
「それは……」
「……いや、悪い。恋敵への嫌がらせをしたかっただけだよ、気にしないでくれ」
「そう、そうね」
「さてそろそろ、閉店作業を終わらせねぇとな。全くアイツらのせいでとんだ残業だよ」
「じゃあ、片付けが終わったら……もう一杯、やりましょうか?」
「おっ、いいねぇ。梅雨ももう明けるし、八月になったらもっと忙しくなるから、景気づけにな」
「ええ。来月は、もっと良いことがあるといいですね」
三つの瞳で出来た三角形が小さくなっていく。
唇と唇が触れるかどうかの瞬間だった―――
「お、チューすんのか? おっぱじめるのか? こんな楽屋で? あっ?」
「おわっ!」
「ひぃっ!」
突如聞こえてきたのは、ドスの利いた柄の悪い声。
その主は扉の隙間から、顔だけをニュッと覗かせる悠希だった。
「ゆゆ、悠希さん……何で、の、覗いて……?」
声をかける科白の声はバイブレーションのように震えている。
必死に困惑しつつも、僅かな平静を保とうとしているようだった。
悠希は扉と壁の間にギッチリと顔の横を挟み、歯をむき出し、ドヤ顔で答える。
「何って、そりゃ……見守りというか、ギャラリー的な? お客様だよっ!」
「いやアンタ従業員だろ」
そういうキャラじゃないのに、思わず言ってしまった。
某雪山ホテルのホラー映画か。普通に怖いわ。
しかし残念なことに、悠希の渾身のおふざけを歓迎する者は、この楽屋にはいない。
かく言う科白も、悠希の言っている言葉の意味すら分からないようで、ポカンとした顔をしている。
「ちっ……反応いまいちだな、まぁいいけど」
悠希は不服そうに扉を開けて、当然のように室内へと入ってくる。野暮なんぞ知ったことか、とでも言いたげな態度だ。
あとそのネタ、知っているからこそスルーしていることに気付いて欲しい。
「で、痴話喧嘩は終わったのかい?」
困惑する僕らをよそに、悠希は聞き捨てならないことを尋ねてくる。
「ち、痴話って……」
科白は慌てて僕の両手から離れて、その四肢をバタつかせる。
青い肌でも紅潮するのかと思いきや、その肌は青から明るい水色へとその色を変えていく。照れる科白を初めて見るせいか、その独特な肌の変化は新鮮だった。
「いやいや……仕事しか出来ずに、家のことを疎かにするダメ職人、それに嫌気が差して叱咤する家政夫。誰がどうみたって痴話喧嘩じゃねぇ?」
「ゆ、悠希さん! 私達、まだそういう関係じゃ……」
「ほーう? "まだ"か」
「え、あっ! 違っ! その……」
悠希の挑発じみた発言の連打で、科白はすっかりパニックになっていた。
科白は両手と瞳を上下左右に振り回し、空中を泳いでいる。いや、溺れていると言った方が正しいだろうか。
科白の奇行を横目で見ていると、逆に僕の方が少しずつ冷静になってくる。
おかしい。
悠希のこの態度の急変の仕方、どう考えたっておかしい。
悠希の言動には、多少の不機嫌さは残っているものの、決して心から嫌悪をしているといった雰囲気は感じ取れない。
むしろ一度退室する前とは打って変わって、親しみやすく振る舞っている。
外に出た短時間で、悠希に何があったのだろうか?
まるで、さっきまでのギスギスした空気が、嘘みたいだった。
……嘘?
「……まさか」
丁度、悠希が開けた扉の後ろから、こそこそとバツが悪そうに部屋の中に入って来る人物がいた。
深月だった。
「おい……」
「……すみません。もう少し待ちましょうって、悠希さんにもそう言ったのですが……ご覧の有様で」
深月は、本当に顔向けできないというように謝罪をしてくる。
土下座でもしそうな勢いの深月に、僕は猜疑心をたっぷり込めて質問する。
「一体、これはどういうことだ?」
「まぁ……つまり、ですね。"さっきまでの私たち"は、お芝居だったんです」
申し訳なさそうに深月はそう言うと、また深々と頭を下げてくる。
僕は一瞬考えた後、科白の方を勢いよく向き直る。
しかし、科白は何も知らないというように、素早く首を横に振っている。
「祈里ちゃんは何も関係ありませんよ。あくまで"私と悠希さん"の芝居です。祈里ちゃんに関連する情報にも、一切の偽りはありませんので、安心してください」
僕の口からものすごい量のため息がでる。
やられた。文句を言う代わりに、僕は過去最高のしかめっ面を披露する。
さっき部屋を出る前に、深月が科白の手を握った時だ。
あの時点で、既に深月は科白に鍵を渡していたのだ。
あの激励じみたやりとりは、この展開を予想してのことだったのか。
くそ、普通ここまでするか?
「最初から全部、僕はアンタらの掌の上ってわけかい?」
僕は濡れた目をゴシゴシと擦りながら、定番の質問をする。
「ええ。或森さんが来店した瞬間から、この防音室で祈里ちゃんと二人になる状況を狙っていました。退職を促したのは、お二人を追い込むための奥の手でした」
深月の発言に続けて、横から悠希が言葉を繋ぐ。
「正直ほとんどアドリブで、最後は一か八かの賭けだったんだけどな。だがどうにかして、お前らに一度、腹割って話をさせたかったんでな」
「ちょっと待ってくれ。それじゃ僕がその、科白に……手を出すのも、予想して、いた、のか?」
段々とまた冷静さが欠けてきたのか、慌てて僕は質問をしてしまう。
最後の方は少し、尻切れトンボになってしまった。
自分の行いを正当化しようとしているみたいで、気が引けたからだ。
「いいえ、それは想定外でした。椅子に拘束したことや、ここを覗いてしまったのも、それゆえに万が一のことを考えました。本当に……あくまで演技の一環として、ですよ?」
視線を逸らし、頬に手を添えて深月はそう答える。
せめてもう少し、自信のありそうな声で言ってくれ。
僕は怒る気にもなれずに、がっくりと膝を落とす。
まあ元はと言えば、科白に悪い感情を押しつけていた僕が悪いわけで、深月に一方的に怒るのもおかしい話ではあるのだが。
ただ、なんというかもう、恥ずかしいとか、腹が立つとか。
もう、そういうことの一切を通り越してしまっている。
僕はそのままその場に座り込み、膝を抱えてうずくまる。
無になりたい。
涅槃があったら入りたい。
「まぁまぁ、そう気を落とすなよ! 男の涙ってのも悪くないぜ?」
後ろから悠希が、そう言って僕の背中を叩く。
明るく茶化すようなフォローに、僕はやんわりと綻ぶ、わけがなかった。
悠希のその曇りのないニヤついたゲス顔が、僕の頭上で弧を描く。うざい。
「つうか、あんた。演技とはいえ、あそこまで人を痛めつけられるもんなのかよ? どうかしてるわ……」
殴りたい気持ちの代わりに、せめてもの反撃で僕は悪態をつく。
「ソンナコトナイヨー。お前みたいなクズ男のことなんて、本気で嫌いな訳ないじゃないカー。アタシの可愛いいのっちに手を出す奴は只じゃおかない、だなんて全然思ってないヨー」
悠希は目どころか、顔も言動すらも、何一つとして笑っていない。むしろ敵意がメガ盛過ぎて溢れ返っている。つうかクズ男って僕のことかよ。演技しろよ。
「あの……私、悠希さんのものになったわけでは……」
「いやぁ、演技大変だったぜ! 気絶だけで済んで良かった、良かった」
隣でおずおずと、訂正しようとする科白を完全無視し、悠希がさらっと恐ろしい本音を呟く。
僕、この鳥嫌いだ。
「そうだ」
僕はふと科白の方を向き、足を組み直して正座になる。
そういえばまだ科白に言っておかなければいけないことが、僕にはある。
「えっと……どうか、しました?」
僕の急な行動に、科白は困惑している。
僕は科白を他所にそのまま、地面に両手をつき。
その勢いで、よく頭を下げる。
室内に広がる鈍い音と共に、僕の頭がビニール床に衝突する。
「あ、或森さんっ!?」
「さっきは、すいませんでした。乱暴してしまって……どうかしていた」
人生初の、土下座という奴だった。
冷房で冷えた床の感触を味わうようにして、僕は額を床に押し付ける。
たとえ全てが深月たちの思惑の内だったとしても、それが結果的に良かったとしてもだ。科白を怖がらせてしまったことは、僕の過失に他ならない。
だから、けじめはつけておきたかった。
「あ、頭を上げてください! 全然っ!怪我とかしてないですし、大丈夫ですから!気にしないで、本当に」
だがそんな僕の思いは、慌てふためく科白によって、あっさりと許されてしまう。
しかしそうやって簡単に許されてしまうと、どうにも気持ちを消化しきれない。
心が凭れてしまうそうだ。せめて一発くらい、殴ってくれてもいいのに。
サイクロプスのパワーなら、たぶん相当の威力だとは思うが、覚悟の上だ。
「だけどさ……せめて何か」
「いいんです! むしろ……あ、いえ、えと……」
科白は何かを言いかけて、不意にどもる。
その顔はまたしても赤く、いや水色に染まり恥ずかしそうに口元を押さえている。
僕は若干いぶかしく思いつつも、科白の次の言葉を待つ。
正座のままで見上げているせいか、彼女の飼い犬にでもなった気分だ。
でも今までないがしろにしてきた分、これからは科白の声はちゃんと聴かなければいけない。
「むしろ……何?」
正座を崩さないで、僕は更に聞き返す。
「いえ、あの……笑わないで、欲しいんですけど」
科白は言いよどみながらも、その小さな口を開く。
僕は耳に集中力を集めて、心を構える。
「……さっき気づいたんですけど、私、多少、乱暴にされる方がその、好きみたいで……」
「うわあ」
「ひ、引かないで下さいよぉ……」
そう言われたところで無理がある。
いきなり性癖暴露大会をされたら、誰だってそうなる。
笑うどころか、ものすごい勢いで僕の口がへの字になってしまう。
お互い、まだまだ知らないことは多いだろうけど、その情報は今いらなかった。
僕は真剣に聴いてしまったことを悔やんでしまう。
まぁでも、人前で土下座をする僕も、科白のことを言えないか。
「祈里ちゃん……Mっぽいとは思っていたけども、そこまでだったなんて」
「あれ? アタシもしかしてあの時、止めない方が良かったのか?」
「皆さん、ひどい……」
次々に出てくる深月達の辛辣な発言に、科白も多少涙目になっている。
本当に科白ってやつは、ズレている。
「でも本当に……仲直りできて良かった。かなりの荒療治でしたから、心配していたんです」
深月は笑いながらも、どこか安堵したようにそう告げる。
僕は立ち上がりながら、深月に脳裏に浮かんだ疑問をぶつけてみる。
「……深月さん、アンタさっき芝居って言ってたけど、本当は、アンタにはこの結末、見えていたんじゃないのか?」
結局のところ、深月の思う通りの展開に進んでしまったわけだが、実際のところはどうなのだろうか。
一体深月には、僕らのことがどこまで見えていたんだ?
僕と科白が心をこじらせながら、必死に言葉を伝え合って築いたものが、他人のレールの上のものだったとしたら―――それは少し、嫌だ。
深月は少し考える素振りをするが、やがてゆっくりと首を振る。
「いえ……さっきも申しましたが、私の想定外のこともありました。だから、確実に上手くいくとは思っていませんでしたよ」
「本当に?確信は、なかったのか?」
「ありません。確かに人と魔物は惹かれ合います。でも、それが貴方たちの関係の答えにはならないでしょう?」
「まぁ……確かにそうだけど」
「この結末は、他ならない貴方たちだからこそ、導けた答えです」
説き伏せる深月の目には、静かに燃ゆるものがあった。
僕がたとえ何を言おうが、彼女の内側の炎は何一つ揺るがないだろう。
多少強引な印象は受けるものの、僕は納得をする。
確かに、今日会ったばかりの深月が何をしたわけではない。
科白を追ってここまで来たのは、僕の意志だ。
この真夜中、防音の効いた静かな部屋で科白と話さなければ。
今夜、科白の演奏を聞かなければ。
今日、科白を尾行しなければ。
専門学生の頃、僕が科白の事務所の応募を見つけなければ。
世話係の彼が、科白に会わなければ。
小さい頃、科白が装丁した本を見つけなければ。
僕は装丁家を目指さなかった。
この場にいなかった。
様々な要因がなければ、この今はあり得ないのは確かだ。
『魔物はお嫌いですか? それとも、人間だったらお好きですか?』
入店時に、深月が僕に言った言葉を思い出す。
結局のところ、深月がどこまで分かっていたかなんて、関係のない話だったのだ。
ここは、僕らのレールの上だ。
「そうですよ。それに簡単に結末が分かってしまったら、ハッピーエンドにならないでしょう?」
こちらの思考を読んだかのように深月は、そう告げる。
その顔には、ほのかに妖しさを含んだ笑みが浮かぶ。
先ほど楽屋に入った時は、異様に低い姿勢だったはずなのに、いつの間にか深月は余裕のある表情を取り戻していた。
全く、どこまでが予想済みなんだか。
そのつかみどころのない魔性さと蠱惑さ。
心の疲れた魔物を扱ってきたというのも、あながち嘘ではないのかももしれない。
たぶん僕では、敵いそうにないな。
「うぅ……あの、或森さん」
「ん?」
未だにさっきの発言を引きづっているのか、涙ぐみながら呼びかけてくる科白に、僕は振り返って応じる。
「結局、うやむやな感じになってしまいましたけど。或森さんはその、これまで通りにうちでお仕事を続けてもらえるってことで、いいんでしょうか?」
「あ? 何言ってるんだ、良い訳ないだろ」
「え……」
しまった。いつもの癖で、ついやってしまった。
強めな言い方になってしまったことに焦る。
みるみるうちに科白の目から光が無くなっていく。今にも泣き出しそうなほど、顔に暗い影が差しているようだ。
僕は慌てて、勘違いするなと訂正する。
「そうじゃなくて……これからは、アンタも家事を手伝うんだよ。せめて、ゴミ出しの日くらいは覚えてくれ」
「あ、そう言うことでしたか……ビックリしましたぁ」
科白はほっと安心したかのように、綻んだ表情を見せる。
これからは少し、この口の悪さを治した方がいいな。
「まぁそういうことだから。その……"僕の夢"のために、頑張ってくれ」
「はい。次から或森さんにも、私の装丁家の仕事を手伝ってもらいます。"二人の"夢を叶えましょうね」
急に元気になった科白が、楽しそうにそう告げる。
照れ隠しで誤魔化した台詞も、見事に科白に訂正されてしまう。
ひねくれ者には、その表裏のない視線は眩しすぎる。
「そうですよ。"二人の”ですよ。ふふ」
「…っせぇ」
隣では深月が楽しそうにそう呟き、微笑んでいる。
僕は軽く舌打ちをすると、後頭部をボリボリと掻く。
何だかんだ言って、この人が楽しんでいることが一番腹が立つな。
結局、美味しい思いしてるのはこの深月のような気がする。
「あ、あとですね」
「……んだよ。まだ何かあるのか?」
科白がさらに尋ねてくるが、恥ずかしさを紛らわしたくて、ぶっきらぼうに返事をする。
というか、また乱暴な言い方になってしまった。
ダメだなこれは。もうかなりの悪癖になっている。
「その、もう一つお願いなんですけど……」
さっきまであんなに喜んでいたばかりだというのに、また科白はモジモジと小さくなっている。
科白って、こんな表情の忙しいやつだっただろうか。
「これからもその、時々この店で、ベースを弾いても……いいでしょうか?実は、"私の夢"だったんです。ミュージシャン」
科白はひどく遠慮気味にそう尋ねるが、僕にはそれを拒む理由など一切ない。
「ああ、もちろん。夢は、大事だからな」
快く受け入れ、僕がゆっくりと頷く。
すると科白の大きな一つ目に、この上ないほどの光が灯る。
この大きな目に見られると、何だかこそばゆい。
「……ところで、なんで七月になって急に、ライブに出ようと思ったんだ?」
科白の熱のこもった視線から逃れるために、僕はわざと話を逸らす。
リハビリのためとはいえ、随分前から悠希に誘われていたのに、なぜこのタイミングで参加したのだろうか。
こういうのは、何かしらきっかけがあるものだが。
「うぇ? ……あ、えと」
「おいおい、そんなもん決まってるだろう!」
狼狽する科白の返答を待っていると、がばりと悠希が科白の肩から覆いかぶさり、横から話に加わってくる。
「ゆ、悠希さん! ま、待って……」
「いーや、言わせてもらうぜ。全部、クズ男のためだってな!」
自分で聞いておきながら、思っていた以上の惚気た理由に、僕はつい苦笑してしまう。
悠希は続けざまに、少し強めの口調で話を続ける。
「7月初めにな。いつかクズ男とちゃんと話ができるように、少しでも人前に立って訓練をしておきたいって、いのっちが自分でそう言ってきたんだよ」
「わぁー!言わないでって言ったのに……」
本日何度目かの涙目の科白。何だか段々癖になるぞ、この顔。
気になる女子にちょっかい出したい男子の心境だ。
「まぁあれだ。いのっちがそう思うようになったのは、クズ男がずっとめげずに家政夫をこなしてきたからだ。それが、その結果だよ」
その後、悠希は一瞬言い淀む。
だが、結局、観念したように続きの言葉を語る。
「だから……クズ男の努力があったから、アタシ達だけじゃ、いのっちは事務所から出ることが出来なかったってことで……その点だけは、その、感謝している」
言いながら悠希は、少しだけ僕を見据えて、またすぐに視線を他所へとやってしまう。
不意に昇ってきた涙腺の緩みに、僕も視線を外して、必死に抵抗する。
あんなにも、家政夫業が嫌いで、憎らしい仕事だったのに。
こうして誰かに真っ直ぐ、褒められて、認められると不思議とくすぐったく、心が安らいてしまう。
相手はこんなやかましい鳥なのに、ちょっと褒められただけで、こんなにも満たされてしまう。
頑張って、良かったと思ってしまう。
自分の単純な心に、ほとほと呆れるばかりだ。
「悠希さん……」
科白が物珍しそうに見ていると、悠希が煩わしそうに、右の翼をバタつかせる。
「なんだよ、いいじゃねぇか。別に……普通に礼を言っただけだ」
「いえ……私はただ、悠希さんが或森さんを認めてくれたみたいで、嬉しくて……」
「おいやめろよ。こっちまで恥ずかしくなってくるだろうが!」
そう言うと照れ隠しなのか、悠希が大きく声を張り上げて告げる。
「あとな、この際だし、全部言わせてもらうぞ。せっかくアタシが手塩にかけて、いのっちを心配してきたんだぜ? なのに何だよ! こんなクズ男と満更じゃ無い感じになりやがって! 美味しいところどりかよ! 全く、熱いね羨ましいねぇ! アタシもそんな風に、男女で仲良くよろしくしてぇなぁ!」
突然、悠希は爆発したかのようにマシンガントークを始める。
途中から明らかに、自分は色恋方面で上手くいっていないのに、リア充死ね、と言う裏の声が丸聞こえだった。
その脇で、深月がクスクスと楽しそうに笑いながら口を開く。
「そうねぇ、悠希さん今日も、雄二さんに……」
「うっせぇ! あの野郎、ライブ終わった途端に帰りやがって! 何が『明日、仕事早いから……』だ、舐めてんのか! これだから、会社勤めってのは嫌いなんだ! 会社潰れろ! 無職になれ! 私が養ってやるよ! バカ野郎!」
悠希はバタバタと暴れてはわめき散らし、翼をはためかせながら叫びまくる。
そこら中に彼女の羽根が飛び散り、もはや止めるのは至難の業だろう。無論止める気も起きないが。
暴走する悠希を尻目に、深月がこちらに向き直る。
「あの子は、放っておくとして……お二人さん、もう深夜ですがどうでしょう? お酒なら、まだ少しお付き合いできますが……?」
おもむろに深月がそう言った途端、隣で科白が僕の袖をクイッと引っ張る。
科白は上目使いに僕を見つめている。何かを言いたげだが、科白はなかなか口を開かない。
僕はあえて何も聞かなかった。
科白が言いたいことなど、考えなくとも分かっていた。
「いや、今日は遅いし、"僕ら"はもう帰るよ」
僕はそう告げると科白の方を見やる。どうやら彼女の望み通りの返答だったようだ。
別に酒に興味がない訳ではない。
さっきは大して味わわずに飲み干してしまったが、深月のカクテルの実力は相当なものだった。酒には詳しくない僕にも、それを明白に理解できるほどに、あのチャイナブルーは素晴らしいものだった。
あれをちゃんと飲まないでバーから帰るのは、勿体ない気がした。
だが、それはまた今度の機会。
いつか、科白のベースを聞きに行く時にでも、とっておこう。
「そうですか。ではまた次のご来店を、お待ちしています」
「ああ、今度はちゃんとした客としてな」
どうやら深月の方も、その答えを予想していたようだった。
話し終えた深月は、恭しく朗らかに会釈をする。
まぁ、何だ。
色々あったけど、この店も、結構嫌いじゃない。
「何だ帰るのかよ! さては、いのっちの事務所でしっぽりする気だろ! クズ男のくせに、アタシのいのっちをお持ち帰りかよ! 生意気だぞコラ!」
「だ、だから私、悠希さんの……」
訂正しよう。約一名を除いて、だ。
羽根を飛び散らかしたままの悠希が、その勢いのまま僕の方に突っ掛かってきた。
ここまで言われると、流石に僕も堪忍袋の尾が切れるぞ。
「うるさいなぁ、しっぽりとか酔っぱらいオヤジか! 羽根が飛び散って鬱陶しいんだよ! むしるぞ!」
「上等だオラァ! さっきみたいに手加減しねぇからな!」
「あ、或森さん! ほら、帰りましょう?」
悠希と殴り合いの喧嘩になる前に、科白が楽屋の出口へ向かって僕の背中を押す。
その力はやはりサイクロプスだ。非力な僕には抵抗のしようもなく、身体が扉へと押し込まれていく。ちなみに悠希の方は、深月が押さえ込んでいるようだった。
楽屋にある時計を見てみると、もうすでに深夜が終わりかけていた。
このままのんびりしていると家路につく頃には、夜が明けてしまうかもしれない。
僕と科白は、逃げるようにして楽屋から退出する。
「待てコラ! アタシのいのっちを……むぐ」
僕の背後なので見えないが、暴言を吐く悠希の口を、深月が無理矢理塞いだようだった。
部屋を出る直前、最後に軽く挨拶をしようと、ちらりと深月たちの方を振り向く。
何故か、深月たちは床に横になっていた。
深月が悠希を押し倒すような姿勢で、二人の四肢が妙に艶めかしく、交差をして、絡み合っている。
……挨拶は、今度でいいかな?
一体どういう状況なのか、よく分からず科白の顔を見ると、少し恥ずかしそうに、一つだけの視線を逸らしている。
え、なに?仲がいいとは思っていたけど、そういうアレなのか?
いや、でもさっき雄二がどうのこうのって……。
……うん、やめておこう。
最後の一瞬で、今日一番の凄いものを見てしまった感じがするが、たぶん気のせいだ。
今日はもう疲れた。もうあまり考えたくないので、全力でスルーすることにしよう。
良し。
僕は、何も、見ていない。
さあ、早く帰ろう。
思考を強制シャットダウンし、楽屋から扉の向こうへと出ると、見覚えのある廊下が現れる。その奥の扉からは淡い明かりが、柔らかく洩れ出していた。
僕らはその扉をゆっくりと開ける。
扉の先へ向かうと、僕の視界に再び、バーの月のステージが現れる。
と思いきや、目の辺りにぶわりと柔らかい何かが当たる。
「わっ、なんだこれ……」
僕は思わず、それを手で払う。
それは円形の、真っ白な布だった。
ヒラヒラとはしているが、触った感じだと割と頑丈そうではある。
何だこれは?入店時には、こんなものは無かったはず。
布の大きさは直径三メートルはあるだろうか。
天井から吊るす形で、何枚もぶら下がっている。全部で六枚ほどの丸い布が、店内を埋め尽くすようにして浮いている。
すると隣で、科白が申し訳なさげに呟く。
「或森さんが楽屋で寝ている間に、私が取りつけたんです。微調整はまだですけど、来週のライブのセットで使う装置なんです」
「ああ? なるほど……?」
一応話を合わせてはいるが、これが何なのかは依然さっぱり分からない。
装置っていったって、コレただの白い布じゃないか?
僕は何か仕掛けがないか、布をのれんのように持ちあげてみる。
しかし、当然ながら何も成果を得られるわけもなく、僕は天井から外れないように、ゆっくりと布を下ろす。
その時だった。
白い布に異変が起きる。
つるされた六枚の布の全てが、突如としてぼんやりと光が灯り始めたのだ。
「これは……?」
「電源が、入った……?」
科白と僕は同じように驚いた様子で、辺りを見回している。
彼女にとってもこれは予想外の展開のようだ。
六枚の白布が明かりに包まれる。そして次第に、その中心に何かが映りこむ。
「月だ……」
そこにはステージのものと同じ、厳かな月の映像が映し出されていた。
この布はどうやら、スクリーンの役割を果たしているらしい。
汚れの無い真白い布のキャンバスは、月の輪郭や模様、色など、ステージに映る月と全く同じ姿を再現していた。
店内全体に七つの月が浮かび上がっている。
そのそれぞれの月光は異なる色を放っている。
赤、黄、橙、緑、藍、紫。
そして、青。
虹を連想させる七色の優しい穏かな月光が、僕らの頭上で揺らめいている。
そして、ステージの月と同じように、布に映った月達もグラディエーションを始める。
「……これは、科白が思いついたのか?」
「え、は、はい。もうすぐ八月ですし、単純計算でも電力消費が七倍以上なので、公開回数は少なめですが……」
七つの色は入れ替わるようにして、月の群れの間を廻っていく。
巡回する色によって、店内の隅にまで虹の光が満たされている。
しかし決して、七つの月が同じ色になることは無い。
全ての月が、己だけの色を常にそこに宿している。
次々と変化を繰り返すその彩鮮やかな光景に、僕は完全に見入っていた。
「この演出に、タイトルとか、あるのか?」
「ええと、そうですね……」
科白は顎に手を当てて、むぅと悩む仕草をする。
「……ななつき。七月(ななつき)の装丁です」
「七月……か。次のライブが、楽しみだな」
そういうと、僕はすっと手を科白の方に指し出す。
最初は驚いた科白も、やがてゆっくりと僕の手を握り返す。
その青い手に、もうあの煩わしさは感じない。
むしろ、この上ない暖かさを抱いていた。
科白によって七月の装丁を施されたバーの中を、僕らは歩調を合わせながら進んでいく。一歩を踏み出すたびに白い布がやんわりと、僅かにそよぐ。
深月のいた木目調のバーカウンターの前を通過する。
その近くの壁には、小さなカレンダーが貼られている。
七月分のカレンダーが途中まで破られた形跡があり、すでに外れかけていた。
もうすぐ、新しい月が始まる。
―――――
閉店後……
「……なんだかんだあったけど、上手くいったな」
「だから言ったでしょう? あの子達は無理に手出ししなくていいって」
「いや、だってよ。あのクズ男に深月さんの酒なんて飲ませたら、絶対何かやらかすって思うだろ?」
「彼の毒舌は、いわば気持ちの裏返しですよ」
「ふぅん……」
「彼は祈里ちゃんが魔物だと知ってなお、あのゴミだらけの事務所で働き続けていました。決して、生半可な気持ちでは出来ませんよ。彼にはそれだけの想いがあったということです。そう信頼して、お酒をお出ししたんです」
「へぇ、一回会っただけでよくそこまで分かるもんだな。で、そこを"サテュロスの酒"で一発だったわけか」
「いつも思いますが、買いかぶりすぎなんですよ。私は大層なことはしていません」
「何言ってんだよ、店に来る連中は皆言ってるぜ。『人と魔を繋ぐカクテル』だってな」
「……私の酒は『二人の想いを後押しするだけ』です。お互いの気持ちそのものがなければ、何の意味もない代物ですよ」
「そうかい。でも、効果は絶大だってことは分かるさ。一口で十分なくらいにはな!」
「そうなんですよね……まさかいきなり、一気に全部飲んでしまうとは……しかも、あんなに心をこじらせているとは、想定外でした」
「はは! あんなに飲んだらそりゃ、感情や性欲が抑えられる訳がないもんなっ! まぁいいじゃねぇか、結果オーライだったし」
「貴方、結構簡単に言いますけどね……もしあれで傷害事件にでもなっていたら、この店も無くなってしまうところでしたよ? 彼の前では軽めに言いましたが、実際はかなり危なかったんですからね?」
「わーってるよ! アタシだってぶっつけ本番で頑張っただろうが! 酒飲んだクズ男を電撃使わないで、かつ大怪我させず、でも気絶はさせるって難易度高すぎだろ!」
「ああ、今思い出しただけでヒヤヒヤします……この店が無くなったら、きっと雄二さんも悲しむでしょうね。あの人が、唯一安心してお酒を飲める場所なのに」
「わ、悪かったってば! 謝るよ! だからそれはもう言わないでくれよ」
「あらそうですか、ふふ、やっぱり悠希さんは可愛いですね。最後の大暴れもアレ、早く二人きりにさせたい演技でしょう?」
「うっせぇ、すぐアタシで遊びやがって。さっきも、結局無理やり……」
「ふふ、ごめんなさいね。でも、言うほど抵抗してませんでしたよね?」
「ちっ……」
「ふふ……」
「……」
「……」
「……仮に。仮にさ」
「はい」
「雄二がいつか、その、オーナーのことを知ったとして……それでアタシがアイツに、選ばれなくてもさ。アイツが納得していれば、それでいいのかなって。アイツにはできるだけ幸せな道を選んでほしいから。迷惑は、かけたくはない」
「悠希さん……」
「少なくとも今は、そう思っている。それで、いいんだよな?」
「それは……」
「……いや、悪い。恋敵への嫌がらせをしたかっただけだよ、気にしないでくれ」
「そう、そうね」
「さてそろそろ、閉店作業を終わらせねぇとな。全くアイツらのせいでとんだ残業だよ」
「じゃあ、片付けが終わったら……もう一杯、やりましょうか?」
「おっ、いいねぇ。梅雨ももう明けるし、八月になったらもっと忙しくなるから、景気づけにな」
「ええ。来月は、もっと良いことがあるといいですね」
16/09/19 12:40更新 / とげまる
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