風仙録

遠くの滝から毎秒数リットル程度で流れ込む清水の泉がある山の麓。
泉を囲む巨岩の所々は綺麗に苔生しており、周囲を薄く包む木陰が涼やかだった。
透明を極め、はっきりと見える底の一部からは微細な気泡が浮び上がっている。
滾々と冷たい水が湧き上がり、時折大きな気泡が音を発てて空気に解けていく。
人里から遠く離れて寥々とした世界は、ひとやまものとは違う種の音に溢れていた。

「ねえ」

その自然が奏でていた音幕をぶっきらぼうに裂くような、綺麗な声が山に加わる。
雰囲気を楽しんでいる様子もなく、ほぼ自己完結的な言い方であった。
声は岩に跳ねてから甘美な余韻を残し、水面や森の葉に吸収される。

「釣れた?」

弱い風に揺れる水面には、青い空から薄く浮き彫りにされたふたり分の黒色がある。
ひとつはひとであり、またひとつはまものと呼ばれる存在であった。
その片方が口を開いたのだ。
切り出したのはまもので、それは女であった。
それでいて甘く媚び色の帯びた彼女の猫撫で声が、釣り師の様子を伺う。
彼女は極端に妖艶な存在であった。
橙色に染めた絹のドレスを着込み、金の髪と尻尾を持っている。
頭上に凛と立っている狐の耳は、見るだけで気配の察知能力の高さを示していた。
そして何よりも彼女を特徴付けるのは、尻の少し上から見える八房の尻尾だ。
風に波打つ金毛が先端迄に短いグラデーションを掛けて純白に変化している。
橙色に金色が浮き出るその様相に負けないよう、服装にも様々な柄を付けている。
一部は布そのものを切り取り、下地や肌を露出させる事で調和を呼ぶ。
結果的に、服装そのものから色情溢れる雰囲気が醸し出されていた。
また、その服に負けない彼女の顔は、大人になった経過を持つ少女の顔である。
彼女を見る者を本来の意味で虜にするだけでなく、あどけなさも持ち合わせていた。
本来その自己主張の激しい風貌は、周囲の風景に同化するようなものではない。
しかし不思議とその雰囲気は自然に溶け込み、寧ろ自然を自らで体現してすらいる。
それどころか、彼女を基盤にして自然は作られているかのような錯覚すら覚える。
自然に異質である女の声は、極論で言うならばやはり泉に溶け込む涼やかなものだ。

「んん」

唸るような、得体の知れない声を上げたのは女ではない。
女の声に応えるべくして答えた、もうひとつの影であったひとである。
ひとは男であり、泉を暢気に眺めている。
厚手の茶色や緑色の服を着込み、竹を麦わらの様に曲げて作った帽子を被っていた。
彼の耳に下がるピアスからは、帽子の日陰でも光を放つ青の石がある。
強く青い光が彼の頬に辺っており、男はずっと半目を瞑っていた。

「そろそろ釣れるんじゃないかなあ」

虫や魚卵どころか返し針すら無い釣り針と細糸を水に垂らしながら、男は応えた。
女に対して男も大差なく、素っ気ない返事であった。
そのふたことで、ふたりは再び黙った。
清水を縁取る岩の上で、狐は空の音を聞く。
薄くたなびいている雲の上で強い風が吹き荒び、澄ます耳の奥に響き渡る。
口を小さく開けて男の顔を見遣るが、泉面から視線を動かす事はない。
呆けているのか無視しているのか判らない。
溜息もなく小さな唇を噤んだ女は岩肌に生えた苔を優しく撫でた。
湿り気を細やかな繊維質の数珠が心地良く、静かに目を閉じてそれを甘受した。

「そう」

女は静かに男に近づき、寄り添って糸の先を見つめた。
肺に溜っていた呼気の塊が自然と漏れ出ていく。
布の擦れる音が聞こえる。
暫くすると、男の寝息が聞こえるようになった。
男の首が船を漕ぐ雰囲気を感じる。
男が女の傍らで眠るほどに、自分が信頼に於ける存在である事は嬉しかった。
頬が引きつる。
耳を澄ます。

空の音が聞こえる。




くう、と聞こえた。
どうやら眠っていたらしい。
男が目を覚まし辺りを見回すと、既に夜の帳が降り始めている様子だった。
身体が少し硬くなって痺れているが、男は身体を動かさない。
左側に女が寄りかかっており、心地良い。
女はただただ温かく、ただただ愛くるしく艶美に眠っていた。
保護欲をそそる魔性の姿に、考える。

「...いや、痺れるなあ」

考えようとした事を、次の瞬間には放棄した。
泉はもう薄暗い中にあり、その様を見る事が出来ない。
温い風が身体を冷やさないようささやかに辺りを囲って流れている。

「おおい、オイオイおぉいおい」

不意に、甲高く機嫌の良い声を捲し立て散らす有翼の魔物が謳って降りてくる。
魔界を探して立ち寄ったのか、この山を住処としているのか定かではないが、煩い。
存在からして半端の無い騒々しさが周囲一面に散々充満している。
男が小さな音にも本来敏感である狐を気遣おうか逡巡していると、魔物が笑う。

「ナンだナンだよナンですかァ? おアツいコトで御座いますコト!」

はさりと魔物の翼が断続的に空を切る。
その音は小さいものだったか、男にとっては否応なく消したいと思う音だった。
男は狐の耳が震えたのを感じ取って、有翼の魔物にとりあえず微笑んだ。
とても静かで剰りによく通る声を魔物に送った。

「眠っている子がいるんだ、静かにしてくれ」

男が右手の人差し指で中空を掻き回すと、魔物は声を静めた。
そして、不満気のある表情をした。
恰も喉を押さえつけられて強制的に声を控えさせられているかのような顔だ。
彼が空気を動かして、真綿より優しく締め上げているのだから、当然である。
人差し指でくるくると空気を掻き回しつつ、男は首を傾ける。
それに応じたらしく、有翼の魔物も幾度と無く頷いた。
男は微笑んだまま近くの岩場を指差し、魔物に空から降りるように指示を下す。
有翼の魔物は憮然とした態度でありながらも、大人しく岩場に着地した。
静かに指示に従った魔物は、じいっと男を上目遣いで睨み付ける。
自分は不満なのだと強調を怠ろうとしないその顔を見て、男は頷いた。
満足した様子で、緩やかな声色で魔物に訊ね掛ける。

「何かな」

男の声が魔物に突き刺さったかのように、魔物は一度身体を大きく揺すった。
岩にこびり付いている湿った苔に、長く延ばした爪のような羽を立てて唸る。
その手で岩を掻くと、苔がころころぽろぽろと刮げ落ちて泉に流れていった。
ラピス・ラズリで染抜かれたかのような青い羽の数枚に土色を付着させている。
一際大きな緑塊が小さな音を発てて泉に沈んでから、魔物は弱々しい溜息を吐いた。
両肩を極端に上下する大振りなリアクションを取ってから、か細い嘆きを呟く。

「おにのムスメがヨンでるヨぉ」

魔物は力なく言った。
とあるおにの魔物の元に来るように、といった内容の言伝手である。

「んん、でも、夜だしなあ」
「今日中にって言ってたラシイじゃないのサァ」
「いいよ。朝ならどうせ怒られるだけだし」
「...アタシが怒られるンだってばよォ」

有翼の魔物曰く、彼女はこれからおにのムスメへ報告に行かなければならない。
そこで、男と女がおにのムスメに今日中に会わないと知れば、ムスメは憤る。
どうにもとばっちりを喰らうだろうとの事で、魔物は憂鬱であったのだ。
男は魔物の吶々とした愁い言が終わるまで、ずっと黙って聞いていた。

「それなら、こっちで一緒に朝を待とうか」

魔物の告白が終わると、男は優しく狐の頭を撫でて提案する。
話の意図を読み切れない魔物は怪訝な顔で男を睨み続けた。
そんな時、くう、といった寝息が、有翼の魔物の耳にも微かながら届いた。
魔物にはその声がひどく幸せそうなものに聞こえる。
寄り掛かるというよりも男にその全身を委ねている女を見て、僅かに眉を顰めた。
随分と警戒心の無い魔物である。
下手を打てば何時退治されるかも判らぬこの土地で、剰りに暢気ではないか。
それだけこの男が信頼に足る存在であるという事であるのか。
男は依然として緩く微笑んだまま、女と別側の場所に魔物を誘う。

「ふたりよりもさんにんのほうが、温かい」

魔物は思う。
ふたりは信頼しあっている仲なのであろうし、愛し合う仲なのだろう
だとするならばこの女は相当運が良いし、何より、私は彼女を羨んでしまう。
それは、癪だ。



夜幕が降りきってから暫く経った頃、女が目を開いた。
男の腿上に頭を乗せていた内に、やはり眠ってしまっていたらしい。
まあ望んだ事だから当然とはいえ、何となく場所が悪かった。
水場の岩で眠ってしまうと、男が眠りにくい。
負担を掛けてしまった事には、何となく気まずいというか、申し訳の無さがある。
しかし、別にだからどうという事も無い。
空を見上げると、少し欠け気味の月がよく見える。
薄く長い雲が未だに続いて流れていたが、それ以外の雲は見当たらなかった。
月が明る過ぎているせいで星があまり見えないのは、少し残念に思えた。
男の衣服を触ってみる。
丁寧に織られているものの少しだけざらつきのある麻製の布は、渇いていた。
三人の周囲を風が弱く吹き続けていた事なのか、露や霧による濡れも見られない。

「りょしょお、りょしょお」

狐は男を揺さぶってみる。

「りょしょお、起きて」
「...んん」
「夜だよ」
「そうだねえ、夜だねえ。おやすみ」
「いやいやそうじゃなくって、夜なんだから、だって、夜だよ」
「んだよう、眠いんだよ」
「夜なんだから、ごはん」

男は気怠そうに首を回し、天を仰いだまま視線だけを女に注いだ。
月光に眼が赤く反射していた。
その眼光は狐を射抜くが、射抜かれた狐にいたっては動じる様子は見せなかった。

「...断食中だったろ」

爽やかだが重い雰囲気を帯びた声が、狐に降りかかった。
女は妖狐であるが故に、その身を以てして淫ら以外のものを主張する事はない。
これはアイデンティティとさえ言える特徴であるが、これを嫌う個体もいるのだ。
それは考えようによっては、随分と悲観的になることのできる性質であるためだ。
魔界の主たる器を持ち合わせるだけの多大な力の前に、先ず自らが屈している。
自分自身を操り切れないという事実に気付いてしまった彼女は、非常に悔しんだ。
負けず嫌いであり、自尊心が深く傷つく事を許さなかったのである。
幸か不幸か女は裂ける尾が片手で足りる間にそれに気付き、愕然としたのだ。
愛し愛される仲をもつべきものが仙人であった事も、彼女にとっては幸いだった。
だからこそ欲の深い狐は、自らを御する為に修行を行うに至り、始めた。

「ころは」

狐の名前を口にしながら、男は女の頭に掌を滑らせた。
艶やかに光掛かった髪は時間を経てども香油の酸化もなく、美しいままであった。
まず、修行とは自身を苦行に投げ出す事だと考える者も多い。
実際としてそういったものが多くある事は周知の事実である。
ただし苦行に身を投じるだけが修行ではない事も、よく知られている筈だ。
薬膳というものを食べたり、瞑想などといって無心に耽る事もそれに当たる。
女の修行は、主に如何に己へ気遣いを怠ることなく続けられるかというものだ。
その一貫として、身を美しく正し続ける事が重要な修練となるのだ。

「我慢しなさい」

しかし、断食は習慣的な修行ではない。
妖狐における修行の場合は寧ろ、修練を蔑ろにした際の罰であるとすら言える。
自分を常に正す姿勢を保つ事と、飢えを凌ぎつつの精神統一は、競合した修行だ。
そもそもにおいて取り合わせが悪く、ストレスを与えるだけで終わる事もある。
けれどもデメリットの多さの分、確かなメリットも存在する。
自省する心と自制を働かせる教訓を身体で覚える事を効率よく出来るのだ
費用対効果ならぬ疲労対効果が割に合わないと、最初は狐も言った。
男は毅然として修行とは得てしてそういうものだ、と胸を張って笑った。
かくしてこの断食修行が始まったのだが、開始2日目にしてこの有様である。
野生の狐狸ならばもっと耐えるものだろうと、男は思っていても口に出さない。

「うう」

狐は男の手を払いのけて腿から離れ、正座の両足を開いて崩したように座り直す。
そして腕を内ももに隠して俯き、金色の髪で表情が伺えないようになった。
心なしか、普段は凛と張った耳も垂れ気味のように見える。
男は嘆を含ませることのない短い息を吐き、首を傾けた。

「泣くな」
「りょしょお、おなかすいた」

心なしか、涙声だ。
妖艶を魂に刻んでいるような外見であるが、中身は反して幼いらしい。

「我慢してろい」
「じゃあ、じゃあ、せめて愛のくちづけを」

女は一気に顔を上げ、髪が定位置に戻りきる前に嘆願した。

「クサい台詞だなあ、それ」

男はふと何気ないように口の端を上げ、眉の皺を解いた。
折り曲げて畳んでいた両脚を泉に投げ出し、長い影岩上から空中へと垂らす。
右肩に寄り掛っていた少女の頭が、男の胸元まで滑り落ちる。
その額を左腕で受け止め、肘裏で抱えるように状態を保たせた。
音もなく眠る魔物を支えたまま、空を見上げ直す。
薄くたなびく雲の流れに、ようやく切れ目が現れていた。
月も傾き、昨夕より明朝の方が近いらしい事が否応なく判った。

「...ねえ、まって。その女だれ」

沈黙を破った狐の声色に変化が訪れていたの事を男が知ったのは、遅かった。
月を仰ぎ眺めてから大分経っての事であり、欠伸を一つゆっくりとしてからだった。

「気付いてなかったのか」

男は目を細くして、欠伸の名残を引く上げ調子で言う。
少しだけ笑って、しかし微笑まず、狐を茶化した。
弱く流れていた風が静止して、二人の身体を掠めるものは遠くの滝の音のみだった。
仙人は狐から滲む悪性の雰囲気に対して呼吸を浅く控える。
対する女は男の様子を考えるほどの余地を頭に残していなかったらしい。
ふう、ふう、といった熱く荒い息に変わってきていた。

「だれ」
「鬼の伝令持ってきたんだ。俺は動けないし、ここは寒いからくっつかせた」

仙人とは思えないだらけっぷりが露呈する言葉で、男は語気だけで迫る狐に応えた。
狐は再び視線を岩に落として、殺気と似た雰囲気を放つ。
目が見開かれていたのであるならば、岩を抉るのでは無いかと言うほどのものだ。

「ゆ、ゆるせん」
「何が」
「もう勘弁ならん」
「駄目だ」
「やだ」

唐突不意に、狐は男へと頭突きを繰り出した。
萎びたように小さく纏まっていた八本もの尻尾が膨張する。
毛並みの良さを誇示するかのように、自由に狐の背後を踊りこねまくっている。
狐は突進をしたまま男に抱きつき、連鎖で右肩に寄る魔物を突き飛ばす。
魔物は泉の中に滑り落ちるや否や、甲高い悲鳴を上げた。
しかし、狐はそのような些事を気に留める事などせず、男に胸を押しつける。

「何何にゃなやなやなあああいぃい!?」

有翼の魔物は水面で翼をばたつかせた。

「何コレ深い! ヤダ助けて! アタシ泳げない!」

仙人は女の強力なホールドをこじ開けて、彼女の妖艶を顎下に収めるように抱いた。
泉を覗き、耳どころか寝顔に水の急な目覚めからパニックに陥っている魔物を見る。
続いて胸に抱き留めている、唸り続けて男の身体に爪を立てる女を見る。
深く長い息を吐いて、近くの木々を見る。
閑散とした森との境界を形作る広葉が、強い月光に照らされつつも揺れている。
そのざわめく音を数瞬味わった後に、泉を再び見下ろした。
水を乱暴に掻いて水面を乱す魔物がいるために、泉に映る月が見えない。
仙人は息を大きく吸いこんだ。
そうして、男は女を抱きしめたまま、身体を泉へと投げ込んだ。

「ええ何こっち落ちてくん」

溺れる魔物の叫び声が、夜の山には似合わない大きく跳ねる音で掻き消された。



有翼の魔物は男が泉の底から浮き出てくると同時に。必死にしがみついた。
口を開けつつも無言で、がたがたと身体を震わせている。
狐は相変わらず男に抱きついていたが、位置は背後に回っていた。
男はそれを都合よく利用して、有翼の魔物を抱き寄せて立ち泳ぎをする。
しがみつくふたりは一切泳ごうとする気がなかったため、男に掛る負担は凄まじい。
肩を掴む女はとにかくとしても、魔物は全身で男にしがみついていた。
露出度の高い服装であった事からも、既に身体は冷えきっているようだった。

「何か言えよ」

男は無言を徹している魔物に対して呼びかける。

「まじコワいまじコワいまじコワいまじコワい」
「もう黙ってろ」

針か円盤が壊れた蓄音機のように、魔物は男の耳元で喉を震わせる。
男は吐き捨てるように言ったが魔物は聞かず、同じ言葉を繰り返した。
魔物の背中をさすりつつ、泉唯一の僅かな砂地にまで泳ぎ渡ろうとする。

「この恨み晴らさんでおかぬ可きものかや」

ぼそりと狐も男の耳元で呟いた。
狐の声ならまだ幾分かいいのだが、有翼の魔物の声はそれそのものが男に毒だ。
男の人間たる寂々とした精神の、とある部分を強く揺さぶり掛ける。
なまじ強くきつく絡みついているため、男は敏感に反応せざるを得ない。

「まじコワいまじコワいまじコワいまじコワい」

起伏の少ない身体ではあるにしても、男を疼かせる分の色がある。
男は背中の狐を無視して、とりあえず先に魔物を浜に置きに行った。
泉から身体を上げる際、重い負荷が掛って均衡性を失い、思わず男は膝を折る。
前のめりに、勢いよく男は倒れる。
結果的に魔物を上から押し潰すように覆い被さった。
潰されている身体の冷えていた魔物は、むぎゅ、と肺から吸気の塊を吐く。
先程まで小姑の小言のように繰り返し繰り返し男に訴えかける魔物の声は止んだ。
仙人は背中に柔らかくのし掛かっている狐を感じながら、腕を魔物との間に支える。
少女でありながら可憐美人な魔物の顔を眺める。

「案外大丈夫だな。あれだけ煩ければ当然か」

そうして魔物の安否を確認すると、男は狐をつつく。
狐は眼光を失うほどの絶望的な顔をして、男から離れた。
男は水浸しの上着を脱ぐ。
上着に人差し指で円を描くと、みるみる水気が上から絞られるように降りてくる。
男は渇いた事を確認すると麻の上着を魔物に被せ、離れる。
再び狐を背中にくっつけている男は、再び黙って泉の中に入っていった。
ふたりの腰上までが清水に浸かるところまで進むと、男は狐を引き離した。
目地からの失われた気味の悪い狐の小さな鼻を小突く。

「ふが」
「駄目だと言ったろうに」

鋭い目つきで狐を諭すが、意に介さない様子であった。
それどころか、長年聴いていなかった声を懐かしむような顔で男を見遣る。
目に光が入ったことはいいものの、普段よりも潤いに満ちている。
仙人は口を一度半開きにするが、すぐに閉じ、そして肩を落とした。
男にはこの狐がどのような状態に移行しつつあるかを、もう十分に把握していた。

「自分の魔力に当てられて発情するのが厭だって、言ってたろ」
「もういいもん、ぷっつんしましたもん」

尻尾の一本一本がそれぞれ人間大にまで膨らみきり、ゆらゆらとうねる。
暗がりで犬歯が光っている。
月光の反射光以上に、狐の目は光燃えていた。
狐は男の顔を両手で包むように撫でて、やがて目を閉じる。
長身の女が、男の唇に吸い付いた。
口の先だけを密着させて、少しだけ息を吸う。
小さな口を小さく開け閉めして、男の感触を味わった。
そして最後に舌を出し、男の唇の切っ先をなぞって距離をとる。
くちづける前後で狐の表情は大きく変わっていた。
先ほどまでは不満と絶望に興奮が渦巻いている顔であった。
今は満足気の混じった興奮一色である。

「第一、呂尚のお菓子を食べただけでこんな仕打ちはひどすぎる」

決して卑猥ではなく、純粋で巨大なる妖艶を笑顔をもってして狐は訴える。
訴えるというにはあまりに緩慢的に切迫しており、何より笑顔に似つかわしくない。
しかし、間違いなく狐は男を糾弾していた。
8本もの長く触り心地の良い尻尾が男を包みこむ。
次第に、男の見る景色に変化が訪れた。
男の周りが女の構成する全てに包まれる。

「判った、断食はお前との相性最悪だって判った」

眉を軽くハの字にして男は言った。

「じゃあ、これからするのは、私があなたに科す罰ね」

女は微笑んでいった。
それはまるで普段の男と似た緩く優しい微笑み方だ。
仄かに上がった口角の奥に潜む内心が、どうとも知れない笑い方である。
しかし男には狐の内心が、否応無く経験則的に判らずにはいられない。
再び女がキスをせびる。
その行為には言い知れぬ強制力があった。
男は静かにくちづける。

男と女の実力には差が開いている。
仙術の師匠である男はただの仙人であり、仙人である前に普通の人間だ。
八尾の妖狐という強大な存在に匹敵する実力を神の愛から恵まれた人間ではない。
仙人とは、ある程度の欲求を打ち破る存在である。
普段の男ならば自制も効いた事だろう。
しかし、中途半端に起きたばかりであった。
色情そのものを声とする有翼の魔物に耳元で囁かれ続けた。
魔物と狐に挟まれてしまっていた。
狐に命令されてしまった。
決定的に、男にとって分が悪い状態であったのである。
男は諦観色を前面に出した唸り声を織り交ぜて、微笑んだ。

「判った」

男は狐の頭を撫でる。
ふたりは全身をしっぽで包まれ、狐が男を押し倒してその中で熱く抱擁した。
尾の隙間から漏れ出て首裏に垂れる清水が温かい。
無心でキスをする。
舌を絡めずに、唇だけを何度も重ね合わせる。
ときおり女は男の顔を舐める。
汗とは違う、色気の匂いが玉となった二人の間に充満していく。
女は男をまさぐった。
男が着ている肌理の細かい麻の服の紐を解き、引き締まった体を開放させる。
浮かび上がっている汗を舐め取る。
狐の息は荒く、男の上に覆いかぶさるようにしているために、涎が男を汚している。
首周りに盛り上がっている筋肉に噛み付き、男は思わず声を漏らす。
女はそこから出る血を吸う。
傷口から狐の魔力が直接入ってくる。
妖狐の波打つ興奮が仙人の血潮に渡って、心臓まで奔流する。

「<」

硬い声を漏らす男は、血の行き場を失って留まる局部を感じた。
度重なって刺激を受けていたために通常のそれよりもはるかに大きく膨れている。

「ねえ」

女は呟く。
汗まみれで額に髪を貼り付けたまま、男の耳に口を近づける。
そして、囁く。
男はその瞬間、目を見開き、強く目を瞑った。
妖狐が男の上で絹のスリットを持ち上げ、自分に恋人を収める準備を始めた。
入り口に男をあてがい、腰を回す。

「んん」

水の音がする。
しばらくそうしていたが、やがて女は少しずつ沈んでいった。
8尾に包まれて、しかも泉の中だ。
息苦しさと完全なる暗闇でふたりは乱れきっていた。
昏迷している意識の中での興奮に、充満する性の空気に、強く自失していた。

「く、はぁ」

大きすぎる怒張を奥まで受け入れた女は、吐息だけの歓声を上げた。
それだけでも十分に息を絶え絶えにしていた。
しばらくの間男と女は垂直に息を荒げ続け、やがて女が再び折り重なる。
男は女の柔かく大きい双房に吸い付いた。
突起を舌で転がし、揉み、腰も緩く回している。
女は声無く絶叫していた。
我を失っていても、男はかろうじて仙人であった。
房中術という、性戯に苦行を見出し、技術を高める事によって修業としたもの。
仙人を称するからには、それを理解して実行するだけの技術もあるということだ。
女の喘ぎが忙しなく耳を撫でる。
快楽に不動を崩された女は、男を胸に抱きながら思い切り転がった。
そのまま玉は連動して、浜にまで辿りつく。
狐は男との位置を上下逆にして止まり、喰らい付く男を全身で抱え込んで悶えた。
仙人が狐の上半身を堪能して何度も狐を痙攣させた後、女の両肩を突き飛ばす。
背を地に付けている女から、相対的に男が距離を取る形になった。
焦点の合わない蕩けた顔をしている女は直ぐ様諸手を上げて男を引き戻そうとした。
しかし、男は再び腕をつっかえにして女との距離を固定する。

「うううう、りょしょお、りょしょお」

女は涙を零して仙人の名を呼んだ。
この種族はひとり誰かだけを愛するということが非常に不得手なのである。
他者を大きく巻き込み、その力を他人にまで行使してしまう。
しかし、ひとりを愛する事を目標とする魔物の本能には抗えない。
だからこその修業で、唯一を愛するための器用さを身につける必要があるのだ。
どれだけ理知的に物事を考えたところで、最終的にはそこに行き着く。
誰かひとりを愛するため。
目の前のひとりだけをただただ愛するため。
そのための修業なのだ。
それゆえに、この断食という修練は狐にとって剰りに過酷過ぎたのだ。

「りょしょお」

男は黙って狐を見ていた。
名前を呼び続け、力の抜けた両手を精一杯伸ばして男の顔に触れようとしている。
その様の、なんと可愛らしい事か。

「りょしょお」

なんと妖艶である事か。
仙人は女を衝いた。
男はその体勢のまま、突き刺すように深々と乱暴に衝いた。
さぞ痛かろうと女を労わりを思う余裕も無く、体内に奔流する魔力に促された。
女も男を全身で感受しようと、片目をきつく閉じて、それでも未だ名前を呼んだ。
何度も衝いた。
何度も呼んだ。
そして最後につっかえを取り除き、男は女に覆いかぶさろうとした。
しかし女の方が早く飛び起き、勢いよくふたりは口を重ねた。
男の果てようとも、ふたりは喉を互いに潰し合う。
くぐもらせた声でお互いの体の奥に叫んだ。



朝の訪れは僅かな光で知る。
仙人が目を覚ますと、朝露で体が濡れていた。
周囲に温風を巻きつつ体を動かして、鳥のさざめきによる朝の体操を終了とする。
そして顔を清水で洗ってから、太陽の角度を確認する。
時間を把握して呻いた男は、狐の肩を持って強く揺さぶった。

「ころは、起きろ」

狐は気持ちよさそうに寝息を経てて眠っているが、服の乱れが凄い事になっていた。
よくよく思い出してみれば、ふたりは魔物の横でひどく淫らに交わっていた。
そういえば、有翼の魔物が居ない。
いつ居なくなったのか、仙人はあまり考えないことにした。
魔物のことは忘れておく事にしておいて、早々におにの元へ急がねば。

「おい、起きろ馬鹿弟子」

仙人は狐を起こして彼女の服を乾かし、急ぎ足で山中に足を踏み入れた。
泉に流れる滝の横を通り、そこから木製の階段を使って山を登る。
あまり会話も無く、鳥の声と木々のざわめきが耳に入る。
狐は当初心地よい散歩程度の感覚だったが、直に息を切らしてきた。
ぜえぜえと昨晩とは違う息の荒さを背に受け続け、男は静かに深呼吸をする。
女は一生懸命男に追いつこうと歩くので、男も一向に止まる気配を見せなかった。
ふたりは山の8合目辺りにある、階段の側に聳える巨木を前に立ち止まる。

「ケイ、呂尚だ」

男は巨木の上に向けて呼びかける。
そのよく通り過ぎる声に、山に住む鳥たちが数秒だけ黙った。
狐の耳も、ぴくり動く。

「五月蠅いな」

大声を出していたわけではないにしても、男の声は木の上まで届いたらしい。
巨木にある大きな虚から、ひとりのおにが顔を見せた。
青い肌をしており、角を持っているらしい。

「いやあ、遅れてごめん」
「こちとら酒飲んで二日酔いだ。頭ァ痛うて叶わん」

青鬼は頭を抱えていた。
見ると、虚の周りの枝には上等の酒瓶が数多く吊るされている。
恐らく男と一緒に飲む予定だったものだが、剰りに遅いので飲み始めたらしい。
鬼のことだから、きっと全ての酒がなくなっているのだろうと仙人は思った。
このおにに呼ばれたからといって、早く行き過ぎることも、危ない。
早く行ってしまえば、酒につき合わされ、彼女を衝く顛末が待っている。
それを回避するには、一夜を明かしてから向かえばいい。
大好物の酒を目の前にして一晩もおにが待てる筈も無いのだ。
翌朝からにでも彼女の元へ向かえば、大体にして全ての酒を空にしている。
しかも、青鬼は下戸の種族である。
昼過ぎを待てば体調が回復してどやされるが、朝なら頭痛に苛まれている最中だ。
無傷で無事故にこの青鬼と会うには、その方法が最善手なのである。
仙人は十分にケイという鬼のことを知っていた。

「りょしょお、この人がケイ?」
「ん、そう。ケイ、紹介する。弟子のころはだ」
「んん、また弟子とったんか...まあええね」

青鬼は右手で頭を掻きつつ、木から落ちた。
大岩が落ちたかのような音を山に響かせ、鳥の数羽が飛び立つ。
ケイは曲げた膝を戻しながら、狐に向かい合った。

「桃源郷番のケイだ。とりあえず、あんたの状態を診させてもらうよ」

青鬼は狐を穿つように診て、触った。
目の瞳孔や虹彩から始まり、舌や歯の、咽頭の状態を診た。
髪の艶を触って確かめた際には感嘆の声を漏らした。
筋肉、贅肉、脂肪等の状態も診ながら、段々と下を診ていく。
臍の下をさすると、青鬼はおやと声を上げた。
そしていじらしい笑い方を男に投げかけたが、男は気まずそうにそっぽを向いた。
陰丹を先ほどまで鍛えていたと、見抜かれたらしい。
鬼が足のつま先の爪の状態まで診ると、診断は終了を迎えた。
首元を抑えて頭を回し、ケイは気だるそうに宣言した。

「合格。まあ魔物だしオツムは調べねえぞ、まどろっこしいかんねえ」
「わかった。ありがとう。ほらころは、礼言わんか」
「ありがとうございました」

狐が慌てて頭を下げると、青鬼は笑って山の頂上付近を指差した。
そこは一種の魔界である。
ただし、人間が作り出した人間の修練のための魔界だ。
仙人という特殊な技術や知識、性質をもつ人間になるための修業場所である。
その存在理由や意義は、桃源郷内に居る人間と魔物の中で統一された意識がある。
しかし、結局傍目から見る場合には人間製の魔界も魔物製の魔界も大差など無い。

「そうだ、んねえ、りょしょお」

唐突に狐が何か大切な事を思い出してすっきりした様な顔を男に見せ、問いかける。
男は緩く優しい微笑みをもって彼女にどうかしたかを訊ねた。

「あの泉ってどんな魚が居るの?」
「あの泉て、麓の泉か」
「うん」

狐の質問に、青鬼が首を突っ込んだ。
怪訝な表情で男を見遣るが、男は依然として緩い笑顔のまま視線を青鬼へ返した。
青鬼はまたかと呟いて、男はまたなんだ、すまないと答えた。
ついでに今度はバーボンを持ってこようとまで男は言った。
男に対して呆れてものも言えないといった顔を見せた青鬼は、再び頭を掻いた。

「魚なんぞ釣れるかボケ」
「ええ? 釣れないの?」
「そもそもあの泉に魚なんか一匹も居やしねえよ」

青鬼の言葉を聞いて、狐は仙人を半目で見た。
泉の正体は桃源郷を端に発する清すぎる水の溜まり場だったらしい。
或いは透明な魔力に汚染されているのかもしれないが、離れた今では定かではない。

「いやあ、たまにはいいよね、ああいうのも」

仙人はあくまでのんびりとして態度を変えずに、てくてくと先を歩いていった。
狐は慌てて仙人を追い、その姿に青鬼は笑った。
男と女のふたりは鬼の横目を浴びながら、再び山中の階段を登り始める。
愛の巣に限りなく近しい、それとは非なる修練場所を目指す。


気付いたら投稿をはじめて1年以上経過してました。

11/09/15 00:01 さかまたオルカ

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